虞世基
虞世基は、字を茂世といい、會稽郡余姚縣の人である。父の荔は、陳の太子中庶子であった。世基は幼い頃より沈着で静かであり、喜びや怒りを顔色に表さず、博学で高い才能があり、草書と隷書を兼ねてよくした。陳の中書令孔奐は彼を見て言った、「南方の金の貴さは、この人にある。」少傅の徐陵はその名を聞き、召し出したが、世基は行かなかった。後に公の集まりの機会があり、陵は一目見て彼を異才と認め、朝廷の士人たちを見回して言った、「まさに現代の潘岳、陸機である。」そこで弟の娘を彼に娶らせた。陳に仕え、初官は建安王法曹参軍事となり、祠部郎・殿中郎の二曹を歴任し、太子中舍人となった。中庶子・散騎常侍・尚書左丞に昇進した。陳の主(皇帝)がかつて莫府山で狩猟を催し、世基に『講武賦』を作らせ、その場で奏上させた。その文は次のようであった。
常態に安住する者は、匡救済世の功業を論ずることはできず、変化に応じて通達する者にして初めて帝王の謀略を見ることができる。なぜか。教化には文と質があり、進退の風は異なり、世の中には浮薄な時も淳厚な時もあり、緩急の務めは様々である。たとえ順天応人の後、雲や日を望む君主であっても、なお版泉で戦いを修め、丹浦で兵を治めた。これにより文徳と武功とは、時に応じて並び用いられ、国を治め制度を創ることは、固より習俗に従って推移するものであることを知る。それゆえに大いなる名声を立て、大いなる教えを後世に伝え、百神を敬い、天下を包み挙げるのは、ただ聖人だけではないか。
鶉火の歳(丁巳年)、これすなわち皇上が天下を治めて四年目のことである。万物は交わり泰平となり、九州は治まり安寧で、習俗は仁寿の域に達し、民は日々の用を賄っている。しかしながら食を足し兵を足すことは、なお薄氷を踏む思いで心に抱き、長く続き大きく広げられるかは、朽ちた索で車を御するような戒めの念を持っている。遠く昆吾からは貢物が届き、肅慎からは珍しい宝物が献上され、史書に記録が絶えることなく、府庫には月々虚しい時がない。貝の冑や象牙の弓の用、犀の盾や闕鞏の甲の豊かさ、尚方で名剣を鋳造し、武庫に彫戈を積み重ねる。熊羆のごとき兵百万、貔豹のごとき軍千群、五材の利を尽くし、威は四海に加わる。そこで農閑期を利用し、春の狩りを行い、爵を賜り功を策し、使臣の礼儀を見せ、賞罰によって善を勧め悪を止め、民に禁制を知らしめる。盛大なことよ、まことに百王の変わらぬ道であり、千載に一度の時である。昔、上林苑に従駕した司馬相如はこれにより徳を頌し、長楊宮で狩りを校した揚子雲は退いて賦を作った。たとえ事物を描写し心情を述べる点では、同年に語るべきではないが、英明な名声と豊かな実績は、ここに述べることができるであろう。その詞は次のようである。
天に則り古を稽え、統治の始めを群分に資する。籙図を受けて出震し、司牧を立てて君とする。既に寛を済わし猛を済わし、また武にして文である。北は殷の履(商湯)の労を怨み、南は唐の勲(堯舜の征伐)に盛んである。かの周の幹(武力)と夏の戚(斧)とは、かつて聞くことができる。我が大陳の創業は、まさに乱を撥ねて武となす。艱難を戡定し、区宇を平壹す。喋喋たる楽推に従い、蒼蒼たる天を再び補う。故に仁を累ねて徳を積み、重規襲矩を諒とする。皇帝の休烈は、徇齊の睿哲を体す。九疇を敷いてことごとく敘し、四海を奄うて截然たり。既に帝難を搜揚し、また文思は安安たり。幽明は吏を請い、俊乂は官に在り。璿璣を禦して七政を辨じ、玉帛を朝して万国歓ぶ。昧旦に丕顕し、未明に治を思う。道は往を蔵して来を知り、功は天に参じて地に両す。聖人の上徳を運び、生民の能事を尽くす。ここにおいて礼暢び楽和し、刑清く政肅し。西は析支に及び、東は蟠木に漸む。図諜を罄して祉を效し、川泉を漏して福を禔す。霊貺に在りて必ず臻り、また何を思いて服せざらん。至治の隆平に在りても、なお国を戒めて兵を強うす。羽林を六郡より選び、蹶張を五営に詔す。折衝を兼ねて余勇あり、ことごとく重義にして軽生す。ここにおいて農隙を因りて民を教え、春蒐に在りて戦を習わす。司馬を命じて法を示し、掌固を帥いて甸を清む。旬始を導いて前駆とし、鉤陳を伏して後殿とす。鳥旌を析羽に抗し、魚文を被練に飾る。ここにおいて革軒は轡を按じ、玉虯は鞅を斉うす。左矩を屯めて行を啓き、右鐘を撃って響を伝う。雲罕の掩映交わり、剣騎は紛れて来往す。摂提を鬥極に指し、閶闔の弘敞を洞く。玄武を跨ぎて東に臨み、黄山に款いて北上す。円闕の迢遞を隠し、方澤の塏爽に届く。この時にあたりて、青春の晩候、朝陽は岫を明らむ。日月は光華を放ち、煙雲は秀を吐く。江海に波瀾を澄ませ、宇宙に氛埃を静む。乗輿はここに太一の玉堂に禦し、軍令を紫房に授く。龍韜の妙算を蘊み、武旅を戎場に誓う。庸蜀に金顔を鋭くし、漁陽に鉄騎を躪む。神弩を彀いて満を持ち、天弧を彏いて並び張る。虹旗の正正を曳き、夔鼓の鏜鏜を振う。八陳は肅として列を成し、六軍は儼として相望む。飛梯を縈帯に拒ぎ、楼車を武岡に聳ゆ。あるいは鞅を掉って直指し、あるいは乍ち綏を交えて傷つけず。応変に裁ちて蛇の如く撃ち、俄かに蹈厲して鷹の如く揚がる。戟刃に小枝を中て、甲裳に蹲劄を徹す。聊か孟獲に七縱し、乃ち卡莊に両擒す。始め軒軒として鶴の挙ぐるが如く、遂に離離として雁の行くが如し。川穀を振るって八表に横わり、海嶽を蕩して三光に耀く。窈冥として測り難く、羌として進退常ならず。また投石・扛鼎あり、超乗・挟輈あり。冠を衝き剣を聳えしめ、鉄楯・銅頭あり。熊渠は殆ど凶をなすも、武勇は牛を操る。任鄙と賁・育と雖も、故に仇と為るを得ず。九攻既に決し、三略已に周し。鐲を鳴らし響きを振るい、風の巻き電の収まるが如し。ここにおいて勇爵を班ち、金奏を設け、元・凱を登えて位に陪えしめ、方・邵を命じて列に就かしむ。三獻は式に序し、八音は未だ闕けず。干戚を舞いて豫あり、鼓鞞を聴いて悦びを載す。挟纊と投醪を俾し、ことごとく躯を忘れて節に殉ぜしむ。方に席卷して横行し、王師の征く有るを見る。燕山に登りて封豕を戮し、瀚海に臨みて長鯨を斬る。雲亭を望みて載蹕し、升中を礼して成を告ぐ。実に皇王の神武にして、信に蕩蕩として名づけ難き者である。
陳の主はこれを賞賛し、馬一匹を賜った。陳が滅び帰国すると、通直郎となり、内史省に直した。貧しく産業がなく、しばしば文書の筆写で生計を立て親を養い、鬱々として不平であった。かつて五言詩を作って意を表し、情理が淒切で、世間では巧みとされ、作者たちはみな吟詠した。間もなく、内史舍人に任ぜられた。
煬帝が即位すると、顧遇はますます厚くなった。礼書監の河東の柳顧言は博学で才があり、推賞することは稀であったが、この時に世基と会見し、嘆じて言うには、「海内は共にこの一人を推すべきであり、我々の及ぶところではない」と。やがて内史侍郎に遷り、母の喪により職を去り、哀しみにやつれて骨と皮ばかりとなった。詔があり、職務に就くよう命じられたが、拝謁の日、ほとんど起き上がることができず、帝は左右の者に扶けさせた。その痩せ衰えた姿を哀れみ、詔して肉を進めるよう命じたが、世基は食べるたびに悲しみで咽び、飲み下せなかった。帝は使者を遣わして告げさせた、「今まさにそなたを委任せんとしている、国のために身を大切にせよ」と。前後して敦促勧めたことは数度に及んだ。帝はその才を重んじ、親しく礼遇することますます厚く、機密を専ら掌り、納言の蘇威、左翊衛大將軍の宇文述、黄門侍郎の裴矩、御史大夫の裴蘊らと共に朝政を参掌した。当時は天下に事多く、四方からの表奏は日に百数を数えた。帝は重々しく落ち着いておられ、事を朝廷で決せず、内閣に入ってから、初めて世基を召して口授で指示を与えた。世基が官省に至り、ようやく詔勅の文書を作成し、日にほぼ百枚に及び、遺漏や誤りはなかった。その精確審密はこのようであった。遼東の役では、位を進めて金紫光禄大夫となった。後に雁門に従幸し、帝が突厥に包囲された時、戦士は多く敗れた。世基は帝に勧めて賞の規格を重くし、自ら慰撫巡行し、また詔を下して遼東の事を停止するよう求めた。帝はこれに従い、軍はようやく再び奮い立った。包囲が解けると、勲功の規格は施行されず、また伐遼の詔が下された。これにより、彼が衆を欺いたと言われ、朝野は心を離した。
帝が江都に幸した時、鞏県に駐留した。世基は盗賊が日に日に盛んになるのを以て、兵を発して洛口倉に駐屯させ、不測の事態に備えるよう請うた。帝は従わず、ただ答えて言うには、「卿は書生である、やはり臆病なのだ」と。当時は天下大乱であり、世基は帝が諫めて止められないことを知り、また高熲、張衡らが相次いで誅殺されたので、禍が己に及ぶことを恐れ、近侍の地位にありながら、ただ唯々諾々として取り入り、敢えて意に逆らわなかった。盗賊は日増しに甚だしく、郡県は多く陥落した。世基は帝がしばしばそれを聞くことを嫌がっているのを知り、後に敗北を告げる者があれば、上奏文を抑え減らし、実情を以て聞かせなかった。この後、外間に変事があっても、帝はそれを知らなかった。かつて太僕の楊義臣を河北に遣わして盗賊を捕らせたところ、賊数十万を降伏させ、状況を列記して上奏した。帝は嘆じて言うには、「私は初め賊がこのように至ったことを聞かなかった。義臣が降した賊は何と多いことか」と。世基は答えて言うには、「鼠窃の輩は多くとも、憂慮に足りません。義臣がこれを平定し、少なからぬ兵を擁し、久しく外に在ることは、最も宜しきことではありません」と。帝は言うには、「卿の言う通りである」と。急いで義臣を召還し、その兵を解散させた。また越王侗が太常丞の元善達を遣わし、賊中を潜行させて江都に至らせ、奏上させたところ、李密が百万の衆を擁し、京都を包囲逼迫し、賊が洛口倉を占拠し、城内に食糧がなく、もし陛下が速やかに還られれば、烏合の衆は必ず散じ、そうでなければ東都は決して陥落すると言った。そこで歔欷して嗚咽したので、帝は顔色を変えられた。世基は帝の憂色を見て、進み出て言うには、「越王は年若く、この輩が彼を欺いているのです。もし言う通りならば、善達はどうして来ることができましょうか」と。帝はたちまち怒って言うには、「善達は小人なり、敢えて朝廷で私を辱しめるか」と。そこで賊中を通らせ、東陽に向かわせて輸送を催促させたので、善達はついに群盗に殺された。この後、外の者は口を閉ざし、敢えて賊のことを奏上して聞かせる者はなかった。
世基の容貌は沈着で審らかであり、言葉は多く帝の意に合ったので、特に親愛され、朝臣で彼と比べる者はなかった。後妻の孫氏は、性質驕慢で淫らであり、世基は彼女に惑わされ、その奢侈浪費を恣にさせた。器物や衣服を彫琢装飾し、もはや素朴な士の風はなかった。孫氏はまた前夫の子である夏侯儼を連れて世基の家に入り、頑愚で卑しく無頼であり、彼のために収斂を図った。官を売り獄を売り、賄賂が公然と行われ、その門は市の如く、金宝が積み上げられた。その弟の世南は、元来国士の器であったが、清貧で立つことができず、世基は一度も彼を養ったことがなかった。これにより世論に非難され、朝野共に憎み怨んだ。宇文化及が弑逆を犯した時、世基はついに害された。
長子の蕭は、学を好み多芸多才で、当時の人は家風があると称えた。弱冠で早世した。蕭の弟の熙は、大業の末に符璽郎となった。次子の柔と晦は、ともに宣義郎であった。化及が乱を起こそうとした夜、同族の虞伋が知って熙に告げて言うには、「事の勢いはすでにこうなっている。私はそなたを助けて南に渡らせ、禍を免れさせよう。共に死ぬことに何の益があろうか」と。熙は伋に言うには、「父を棄て君に背き、生き延びようとしてもどこに行けましょうか。尊兄の思いやりには感謝するが、ここでお別れします」と。難が起こると、兄弟は競って先に死ぬことを請い、行刑人はそこでまず世基を殺す前に彼らを殺した。
裴蘊
裴蘊は、河東聞喜の人である。祖父の之平は、梁の衛将軍であった。父の忌は、陳の都官尚書となり、呉明徹と共に周に没し、爵を江夏郡公と賜り、隋に在ること十余年で卒した。蘊は性質明敏で弁舌さわやか、吏務の才幹があった。陳に仕えて直閣将軍、興寧令を歴任した。蘊は父が北朝にいるのを以て、密かに高祖に奉表し、内応を請うた。陳が平定されると、上(高祖)は江南の衣冠の士をことごとく見て回り、蘊に至った時、上は夙に帰化の心があったと考え、格別に儀同を授けた。左僕射の高熲は上意を悟らず、進諫して言うには、「裴蘊は国に功がなく、寵遇が同輩を超えています。臣にはその妥当性が分かりません」と。上はさらに蘊を上儀同に加え、熲がまた進諫すると、上は言うには、「開府を加えるがよい」と。熲はついに敢えて再び言わず、即日に開府儀同三司を拝し、礼遇と賜物は優厚であった。洋州、直州、隷州の三州刺史を歴任し、いずれも能吏の名声があった。大業初年、考課の成績が連続して最上であった。煬帝はその善政を聞き、征して太常少卿とした。初め、高祖は声楽や芸能を好まず、牛弘に命じて楽を定めさせ、正声清商および九部四儛の色以外は、ことごとく罷めて民に帰した。この時に至り、蘊は帝の意を推し量り、天下の周、斉、梁、陳の楽家の子弟をことごとく捜索し、皆を楽戸とするよう上奏した。六品以下から庶民に至るまで、音楽や倡優百戯に優れた者がいれば、皆直接太常に属させた。この後、異技淫声はことごとく楽府に集め、皆博士弟子を置き、互いに教え伝え、楽人を増やして三万余りに至った。帝は大いに喜び、民部侍郎に遷した。
当時はまだ高祖の平和な時代の後を承けており、禁令の網目は粗く、戸口は多く漏れていた。ある者は丁年に達しても、なお幼いと偽り、老齢に至らないうちに、すでに租賦を免れていた。蘊は刺史を歴任し、平素からその実情を知っていたので、これにより条を立てて上奏し、皆に顔を見て検閲させるよう命じた。もし一人でも不実があれば、官司は解職され、郷正や里長は皆遠流に配流された。また民が互いに告発することを許し、もし一丁を糾明できれば、糾明された家に代わって賦役を納めさせた。この年は大業五年であり、諸郡の計帳では、新たに丁二十四万三千、新たに附した口六十四万一千五百を進上した。帝は朝廷に臨んで状を覧て、百官に言うには、「前代には好人がいなかったので、このような欺瞞が生じた。今、民の戸口が皆実情に従って進上されるのは、全て裴蘊一人が心を用いたからである。古語に、賢を得て治まるとあるが、これを験するに誠に然りである」と。これにより次第に親任され、京兆贊治を拝し、微細なことまで摘発し、吏民は畏れ慄いた。
間もなく、御史大夫に抜擢され、裴矩・虞世基と共に機密を参掌した。蘊は人主の微意を窺うのが巧みで、罪に処せんとする者あれば、法を曲げて情に順い、罪を鍛え上げた。宥めんとする者あれば、軽典に附従し、これによって釈放した。この後、大小の獄訟は皆蘊に付され、憲部・大理は敢えて与奪せず、必ず進止を稟承して、然る後に決断した。蘊もまた機弁に長け、論ずる法理は、言うこと懸河の如く、或いは重く或いは軽く、皆その口より出で、剖析明敏にして、当時の人々は詰問することができなかった。楊玄感の反逆に際し、帝は蘊にその党与を推鞫させ、蘊に謂って曰く、「玄感一呼して従う者十万、ますます天下の人多くを欲せざるを知る。多ければ即ち相聚いて盗を為すのみ。尽く誅を加えざれば、則ち後、以て勧むる無からん」と。蘊はここにおいて峻法を以てこれを治め、戮する者数万人、皆その家を籍没した。帝は大いに善しと称し、奴婢十五口を賜うた。司隸大夫薛道衡は意に忤うて譴責を受けたが、蘊は帝がこれを憎むを知り、乃ち奏して曰く、「道衡は才を負い旧を恃み、君無きの心あり。詔書の下る毎に、腹に非とし私に議し、悪を国に推し、妄りに禍端を造る。その罪名を論ずれば、隠昧の如く、その情意を源とすれば、深く悖逆たり」と。帝曰く、「然り。我少時にこの人と相随いて行役し、我が童稚を軽んじ、共に高熲・賀若弼等と外に威権を擅にし、自ら罪誣惣に当たるを知る。我即位するに及び、自ら安からずを懐き、天下無事に頼り、未だ反せざるのみ。公その逆を論ず、妙に本心を体す」と。ここにおいて道衡を誅した。また帝が蘇威に遼討伐の策を問うたとき、威は帝の再行を願わず、且つ帝に天下に賊多きを知らしめんと欲し、乃ち詭りて答えて曰く、「今の役は、兵を発するを願わず、ただ詔を以て群盗を赦せば、自ら数十万を得べし。関内の奴賊及び山東の歴山飛・張金称等の頭を遣わし、別に一軍と為し、遼西道より出で、諸河南の賊王薄・孟讓等十余頭に並びに舟楫を与え、滄海道を浮かばしむれば、必ず罪を免かるるを喜び、競いて功を立て務め、一年の間、高麗を滅ぼすべし」と。帝は懌ばずして曰く、「我が去りしも尚お未だ克たず、鼠窃安んぞ能く済さんや」と。威の出でし後、蘊は奏して曰く、「これは大いに不遜なり、天下何の処にか多くの賊あらん」と。帝悟って曰く、「老革は奸多く、将に賊を以て我を脅かんとす。その口を搭さんと欲すれど、ただ隠忍するのみ、誠に極めて耐え難し」と。蘊は上意を知り、張行本を遣わして威の罪悪を奏せしめ、帝は蘊に付して推鞫せしめ、乃ちその死を処した。帝曰く、「未だ忍びて便ち殺さず」と。ここにおいて父子及び孫三世並びに除名せらる。蘊はまた己が権勢を重んぜんと欲し、虞世基に奏せしめて司隸刺史以下の官属を罷め、御史百余を増置せしむ。ここにおいて奸黠を引致し、共に朋党を為し、郡県に附せざる者あれば、陰にこれを中つ。当時軍国の務多く、凡そ師を興し衆を動かすこと、京都の留守、及び諸蕃と互市するは、皆御史をしてこれを監せしむ。賓客附隸、郡国に遍く、百姓を侵擾すれども、帝はこれを知らざりき。渡遼の役に以て、銀青光禄大夫に進位す。司馬徳戡の乱を為さんとするに及び、江陽長張恵紹夜馳してこれを告ぐ。蘊は恵紹と謀り、詔を矯って郭下の兵民を発し、尽く栄公来護児の節度を取り、外に在る逆党宇文化及等を収め、仍って羽林殿脚を発し、范富婁等を遣わして西苑より入り、梁公蕭鉅及び燕王を取って処分せしめ、門を叩いて帝を援けんとす。謀議已に定まり、遣わして虞世基に報ず。世基は反者の実ならざるを疑い、その計を抑う。須臾にして難作し、蘊歎いて曰く、「播郎に謀りて、竟に人事を誤る」と。ここにおいて害せらる。子の愔は尚輦直長たりしも、また同日に死す。
裴矩
裴矩、字は弘大、河東聞喜の人なり。祖父は他、魏の都官尚書。父は訥之、斉の太子舎人。矩は繈褓にして孤となり、長じて好学、頗る文藻を愛し、智数あり。世父の譲之、矩に謂いて曰く、「汝の神識を観るに、才士たるに足る。宦達を求めんと欲せば、当に幹世の務を資とすべし」と。矩始めて世事に情を留む。斉の北平王貞、司州牧と為り、兵曹従事に辟し、高平王文学に転ず。斉の滅びるに及び、調を得ず。高祖、定州総管と為り、召して記室に補し、甚だ親敬す。母憂に以て職を去る。高祖相と作るや、使者を馳せて召し、相府記室事に参ず。禅を受くるに及び、給事郎に遷り、舎人事を奏す。陳を伐つ役に、元帥記室を領す。丹陽を破りし後、晋王広、矩と高熲に令して陳の図籍を収めしむ。明年、詔を奉じて嶺南を巡撫せんと奏す、未だ行かずして高智慧・汪文進等相聚いて乱を作し、呉・越の道閉ざさる。上矩を行かしむるを難しとす。矩速やかに進まんことを請う、上これを許す。行きて南康に至り、兵数千人を得たり。時に俚帥王仲宣、広州を逼り、その部将周師挙を遣わして東衡州を囲む。矩は大将軍鹿願と共にこれに赴く。賊九柵を立て、大庾嶺に屯し、共に声援と為す。矩進撃してこれを破り、賊懼れて東衡州を釈し、原長嶺に拠る。またこれを撃ち破り、遂に師挙を斬り、軍を進めて南海より広州を援く。仲宣懼れて潰散す。矩の綏集する所二十余州、また制を承けてその渠帥を刺史・県令に署す。還りて報ずるに及び、上大いに悦び、命じて殿に升らしめ労苦し、顧みて高熲・楊素に謂いて曰く、「韋洸二万の兵を将いて、早く嶺を度ること能わず、朕毎にその兵少なきを患う。裴矩三千の敝卒を以て、径ちに南康に至る。臣此の如き有らば、朕亦何をか憂えん」と。功を以て開府を拝し、聞喜県公の爵を賜い、物二千段を賚う。民部侍郎を除し、尋いで内史侍郎に遷る。
時に突厥強盛、都藍可汗の妻大義公主、即ち宇文氏の女なり、ここにより数たび辺患と為る。後、公主の胡従と私通するに因り、長孫晟先ずその事を発す。矩使いを出だして都藍を説き、宇文氏を顕戮せんことを請う。上これに従う。竟にその言の如く、公主殺さる。後、都藍と突利可汗難を構え、屡たび亭鄣を犯す。詔して太平公史万歳を行軍総管と為し、定襄道より出で、矩を行軍長史と為し、達頭可汗を塞外に破る。万歳誅せられ、功竟に録せられず。上、啓民可汗の初附するを以て、矩をしてこれを撫慰せしむ。還りて尚書左丞と為る。その年、文献皇后崩ず。太常旧に儀注無し。矩と牛弘、斉礼に拠り参定す。吏部侍郎に転じ、名は職に称すと為る。煬帝即位し、東都を営建す。矩職として府省を修め、九旬にして就く。時に西域諸蕃、多く張掖に至り、中国と交市す。帝矩をしてその事を掌らしむ。矩、帝方に遠略に勤むるを知り、諸商胡の至る者、矩誘いてその国俗山川の険易を言わしめ、『西域図記』三巻を撰し、朝に入りてこれを奏す。その序に曰く。
臣聞く、禹は九州を定め、河を導くに積石を踰えず、秦は六国を兼ね、防を設くるに臨洮に及ぶと。故に知る、西胡の雑種は、僻居して遐裔にあり、礼教の及ばざる所、書典の伝うる所罕なるを。漢氏の基を興すより、河右を開拓し、始めて名号を称する者、三十六国あり、其の後分立して、乃ち五十五王となる。仍って校尉・都護を置き、以て招撫を存す。然れども叛服常ならず、屡々征戦を経、後漢の世には、頻りに此の官を廃す。大宛以来、戸数を略知するも、諸国の山川は、未だ名目有らず。姓氏風土、服章物産に至りては、全く纂録無く、世に聞こえず。復た春秋遞謝し、年代久遠、兼併誅討有りて、互いに興亡有り。或いは地は故邦なれども、今の号に改め従い、或いは人は旧類に非ざれども、昔の名を因襲す。兼ねて復た部民交錯し、封疆移改し、戎狄音殊なり、事窮め難し。于闐の北、葱嶺以東、前史に考うるに、三十余国。其の後更に相屠滅し、僅かに十存す。自余は淪没し、掃地して俱に尽き、空しく丘墟有るも、記識すべからず。皇上は天に膺り物を育み、華夷に隔て無く、率土の黔黎、化を慕わざる莫し。風行の及ぶ所、日入以来、職貢皆通じ、遠きも至らざる無し。臣は既に撫納に因り、関市を監知し、書伝を尋討し、胡人を訪采し、或いは疑うる所有らば、即ち衆口に詳らかにす。其の本国の服飾儀形に依り、王及び庶人、各々容止を顕わし、即ち丹青に模写し、『西域図記』と為し、共に三巻を成し、合せて四十四国。仍って別に地図を造り、其の要害を窮む。西頃を以て去り、北海の南より、縦横に亘る所、将に二万里。諒しむらくは富商大賈、周遊経涉するに由り、故に諸国の事、遍く知らざる無し。復た幽荒遠地有りて、卒に訪い難く暁し難く、虚に憑るべからず、是を以て闕を致す。而して二漢相踵ぎ、西域を伝と為し、戸民数十にして、即ち国王と称し、徒に名号有るも、乃ち其の実に乖く。今編む所の者は、皆余千戸、利は西海に尽き、珍異多く産す。其の山居の属は、国名有るに非ず、及び部落小なる者は、多く亦載せず。敦煌より発し、西海に至るまで、凡そ三道と為し、各々襟帯有り。北道は伊吾より従い、蒲類海・鉄勒部・突厥可汗庭を経、北流河水を度り、拂菻国に至り、西海に達す。其中道は高昌・焉耆・亀茲・疏勒よりし、葱嶺を度り、又鈸汗・蘇対沙那国・康国・曹国・何国・大小安国・穆国を経、波斯に至り、西海に達す。其の南道は鄯善・于闐・硃俱波・喝槃陀よりし、葱嶺を度り、又護密・吐火羅・挹怛・忛延・漕国を経、北婆羅門に至り、西海に達す。其三道諸国も、亦各自路有り、南北交通す。其の東女国・南婆羅門国等は、並びに其の往く所に随い、諸処に達することを得。故に知る、伊吾・高昌・鄯善は、並びに西域の門戸なり。総湊する敦煌は、是れ其の咽喉の地なり。国家の威徳を以てし、将士の驍雄を将い、濛汜に泛りて旌を揚げ、昆侖を越えて馬を躍らすは、掌を反すが如く易く、何くに往きて至らざらんや。但だ突厥・吐渾は羌胡の国を分領し、其の擁遏と為り、故に朝貢通ぜず。今並びに商人に因り密かに誠款を送り、領を引き首を翹げ、臣妾たらんことを願う。聖情は含養し、沢は普天に及び、服して之を撫すに、務めて安輯を存す。故に皇華遣使し、兵車を動かさず、諸蕃即ち従い、渾・厥は滅すべし。戎夏を混一するは、其れ茲に在らんか。記する所有らざれば、以て威化の遠きを表す無し。
帝に従って塞北を巡行し、啓民可汗の帳に幸した。時に高麗が使者を遣わして先に突厥に通じていたが、啓民はこれを隠すことができず、彼らを引いて帝に謁見させた。矩はそこで状況を奏上して言うには、「高麗の地は、もと孤竹国である。周代には箕子に封じ、漢代には三郡に分け、晋代もまた遼東を統べた。今や臣下とならず、別に外域をなしている。故に先帝はこれを憎まれ、征伐を望まれて久しい。しかし楊諒が不肖であったため、出兵しても功績がなかった。陛下の御代において、どうして事とせず、この冠帯の境を、なお蛮貊の郷とさせておけようか。今その使者が突厥に朝し、啓民に親しく会い、国を挙げて教化に従っているのを見れば、必ずや皇霊の遠くに及ぶことを恐れ、後に降伏するより先に滅びることを憂うであろう。脅して入朝させれば、きっと来朝させることができる。」帝が「どうすればよいか」と問うと、矩は言った。「どうか使者に面詔を下し、本国に放還して、その王に伝えさせ、速やかに朝観するよう命じてください。そうしなければ、突厥を率いて即日にこれを誅すべきです。」帝はこれを容れた。高元が命令に従わなかったので、初めて征遼の策が立てられた。王師が遼に臨むと、矩は本官のまま武賁郎将を兼ねた。翌年、また従って遼東に至った。兵部侍郎の斛斯政が高麗に亡命したので、帝は矩に兵事を兼ねて掌らせた。前後渡遼の役によって、右光禄大夫に進位した。当時は皇綱が振るわず、人皆節を変え、左翊衛大将軍の宇文述、内史侍郎の虞世基らが権力を握り、文武の官の多くは賄賂で知られていた。ただ矩だけは常を守り、贓穢の評判がなく、このゆえに世に称えられた。
涿郡に還ると、帝は楊玄感が初めて平定されたので、矩に隴右を安集させた。そこで会寧に至り、曷沙那部落を慰問し、闕達度設を遣わして吐谷渾を寇掠させ、しばしば虜獲があり、部落は富んだ。還って状況を奏上すると、帝は大いにこれを賞した。後に師に従って懐遠鎮に至り、詔により北蕃軍事を護った。矩は始畢可汗の部衆が次第に盛んになるのを見て、その勢力を分かつ策を献じ、宗女をその弟の叱吉設に嫁がせ、南面可汗に拝そうとした。叱吉は敢えて受けず、始畢はこれを聞いて次第に怨んだ。矩はまた帝に言った。「突厥はもと淳朴で、離間しやすいのですが、ただその内に群胡が多く、皆な桀黠で、彼らが教え導いているのです。臣は聞くに、史蜀胡悉は特に奸計が多く、始畢に寵愛されています。どうか誘い出して殺させてください。」帝は「よろしい」と言った。矩はそこで人を遣わして胡悉に告げて言った。「天子が大いに珍物を出され、今馬邑にあります。蕃内と多く交易をしたいと望んでおられる。もし先に来る者がいれば、すぐに良い物を得られる。」胡悉は貪欲でこれを信じ、始畢に告げず、その部落を率い、六畜をことごとく駆り立て、星のごとく馳せて争って進み、先に互市しようと望んだ。矩は馬邑の城下に伏兵を置き、誘い出してこれを斬った。詔を下して始畢に報じて言った。「史蜀胡悉が突然部落を率いてここに走って来て、可汗に背いたと言い、我が容納を請うた。突厥は既に我が臣下であるから、彼に背叛があれば、我は共に殺すべきである。今既に斬ったので、故に往って報じさせる。」始畢もその状況を知り、これによって朝貢しなくなった。十一年、帝が北巡されると、始畢は騎兵数十万を率い、雁門で帝を包囲した。詔により矩と虞世基に毎夜朝堂に宿直させ、顧問を待たせた。包囲が解けると、従って東都に至った。射匱可汗がその猶子を遣わし、西蕃の諸胡を率いて朝貢したので、詔により矩に宴接させた。
宇文化及の乱の時、矩は朝に出ようとして早起きし、坊門に至ると、逆党数人に出会い、矩の馬を制して孟景の所に連れて行った。賊は皆言った。「裴黄門には関係ない。」やがて化及が百余騎を従えて来ると、矩は迎えて拝し、化及は慰諭した。矩に儀注の参定を命じ、秦王の子の浩を推して帝とし、矩を侍内とし、化及に従って河北に至らせた。化及が帝位を僭称すると、矩を尚書右僕射とし、光禄大夫を加え、蔡国公に封じ、河北道安撫大使とした。宇文氏が敗れると、竇建徳に捕らえられ、矩が隋代の旧臣であるので、これを厚く遇した。また吏部尚書とし、まもなく尚書右僕射に転じ、専ら選事を掌らせた。建徳は群盗から起こり、礼節や儀式がなかったので、矩が朝儀を制定した。旬月の間に、憲章は頗る整い、王者に擬するほどであった。建徳は大いに喜び、しばしば諮問した。建徳が河を渡って孟海公を討つと、矩は曹旦らと洺州に留守した。建徳が武牢で敗れると、群帥は帰属すべき所を知らず、曹旦の長史の李公淹、大唐の使人の魏徴らが旦と斉善行を説いて帰順させようとした。旦らはこれに従い、矩と魏徴、公淹に旦と八璽を領させ、山東の地を挙げて大唐に帰属させた。左庶子に授けられ、詹事、民部尚書に転じた。
【論】
史臣が言う。世基は初め雅淡をもって著名となり、兼ねて文華をもって重んぜられ、亡国の羈旅でありながら、特に任用と遇合を受けた。機衡の職に参じ、帷幄の謀に預かりながら、国が危うくても未だ安泰を思わず、君が昏くても諫めを納れることができなかった。かえって官を売り獄を売り、貨を黷して飽くことを知らず、その身を顛隕させたのも、また当然である。裴蘊は素より奸険を懐き、巧みに附会し、威福をほしいままにし、ただ利を見るのみで、滅亡の禍を、どうして免れられようか。裴矩は経史に学識を渉猟し、頗る幹局があり、恪勤して懈まず、夙夜公に在ることを求めれば、古人の中にも殆どこれがなかった。政事に与聞し、多年を歴たが、危乱の中にあっても、廉謹の節を損なわなかった。美しいことである。しかし風旨を承望し、時と消息を共にし、高昌をして入朝させ、伊吾をして地を献じさせ、且末に糧を聚め、師を玉門より出させ、関右を騒然とさせたのも、頗る矩に由るものである。