隋書

巻064

巻六十四列傳第二十九 李圓通、陳茂、張定和、張奫、麥鐵杖、沈光、來護兒、魚俱羅、陳稜、王辯、周羅睺、周法尚、李景、慕容三藏、薛世雄、王仁恭、權武、吐萬緒、董純、趙才

巻六十四列傳第二十九 李圓通、陳茂、張定和、張奫、麥鐵杖、沈光、來護兒、魚俱羅、陳稜、王辯、周羅睺、周法尚、李景、慕容三藏、薛世雄、王仁恭、權武、吐萬緒、董純、趙才

原文卷六十四列傳第二十九 李圓通 陳茂 張定和 張奫 麥鐵杖 沈光 來護兒 魚俱羅 陳稜 王辯 ► 周羅睺 周法尚 李景 慕容三藏 薛世雄 王仁恭 權武 吐萬緒 董純 趙才

李圓通

原文李圓通

李圓通は、京兆郡涇陽県の人である。父の李景は、軍士として武元皇帝(楊忠)に隷属し、その家僮の黒女と密通して圓通を生ませた。李景はこれを認めなかったため、圓通は孤賤の身となり、高祖こうそ(楊堅)の家に給使した。高祖が隋國公となると、参軍事に抜擢された。初め、高祖が若い頃、賓客を宴するたびに、常に圓通に厨事を監督させた。圓通は性質が厳格で、左右の婢僕は皆これを敬い畏れた。ただ世子(楊勇)の乳母だけが寵を恃んで彼を軽んじ、賓客への供給が未だなのに、しばしば用事を請うたが、圓通は許さず、あるいは勝手に持ち去ろうとした。圓通は大いに怒り、厨人を叱ってこれを数十回打ち、叫び声が閤内に響き渡り、僚吏や左右の者は顔色を失った。賓客が去った後、高祖はことの次第を詳しく知り、圓通を召し出して座を命じ食事を賜い、これより特に彼を善しとし、大任に堪えると認めた。高祖が丞相となると、懷昌男の爵位を賜った。しばらくして帥都督ととくを授けられ、爵位を新安子に進められ、心膂として委ねられた。圓通は力強く敏捷で、武芸に長けていた。周氏の諸王は平素より高祖を畏れており、しばしば高祖の隙を窺い、不利を図ろうとしたが、圓通の保護に頼り、難を免れることが数度あった。高祖は深くこれを感じ、これにより政事に参与させた。相国外兵曹を授け、引き続き左親信を領した。まもなく上儀同を授けられた。高祖が禅譲を受けると、内史侍郎に任じられ、左衛長史を領し、爵位を伯に進めた。左右庶子、給事黄門侍郎、尚書左丞を歴任し、刑部尚書を摂行し、深く信任された。後に左丞として左翊衛驃騎將軍を領した。陳を討伐する役では、圓通は行軍總管として楊素に従い信州道より出撃し、功により位を大將軍に進められ、萬安縣侯に封ぜられ、揚州總管長史に任じられた。まもなく并州へいしゅう總管長史に転じた。秦孝王(楊俊)は仁柔で自ら善を好んだが、決断に乏しく、府中の事は多く圓通が決裁した。入朝して司農卿、治粟内史となり、刑部尚書に遷った。数年後、再び并州長史となった。孝王が奢侈の罪を得ると、圓通も連座して免官された。まもなく刑部尚書事を檢校した。仁壽年間、勲旧として爵位を郡公に進めた。煬帝ようだいが位を嗣ぐと、兵部尚書に任じられた。帝が揚州に行幸した際、圓通をして京師を留守させた。彼が宇文述の田を判じて民に返還したところ、宇文述が彼が賄賂を受けたと訴えた。帝は怒って彼を召還し、洛陽らくようで帝に謁見させ、これにより免官された。圓通は憂懼して発病し卒した。柱國を追贈され、封爵は全て元の通りであった。子の孝常は、大業たいぎょう末年に華陰県令となった。

原文李圓通,京兆涇陽人也。父景,以軍士隸武元皇帝,因與家僮黑女私,生圓通。景不之認,由是孤賤,給使高祖家。及為隋國公,擢授參軍事。初,高祖少時,每宴賓客,恆令圓通監廚。圓通性嚴整,左右婢僕咸所敬憚。唯世子乳母恃寵輕之,賓客未供,每有幹請,圓通不許,或輒持去。圓通大怒,叱廚人撾之數十,叫呼之聲徹於閤內,僚吏左右代其失色。賓去之後,高祖具知之,召圓通,命坐賜食,從此獨善之,以為堪當大任。高祖作相,賜封懷昌男。久之,授帥都督,進爵新安子,委以心膂。圓通多力勁捷,長於武用。周氏諸王素憚高祖,每伺高祖之隙,圖為不利,賴圓通保護,獲免者數矣。高祖深感之,由是參預政事。授相國外兵曹,仍領左親信。尋授上儀同。高祖受禪,拜內史侍郎,領左衛長史,進爵為伯。曆左右庶子、給事黃門侍郎、尚書左丞,攝刑部尚書,深被任信。後以左丞領左翊衛驃騎將軍。伐陳之役,圓通以行軍總管從楊素出信州道,以功進位大將軍,進封萬安縣侯,拜揚州總管長史。尋轉并州總管長史。秦孝王仁柔自善,少斷決,府中事多決於圓通。入為司農卿、治粟內史,遷刑部尚書。後數歲,復為并州長史。孝王以奢侈得罪,圓通亦坐免官。尋檢校刑部尚書事。仁壽中,以勳舊進爵郡公。煬帝嗣位,拜兵部尚書。帝幸揚州,以圓通留守京師。判宇文述田以還民,述訴其受賂。帝怒而徵之,見帝於洛陽,坐是免官。圓通憂懼發疾而卒。贈柱國,封爵悉如故。子孝常,大業末,為華陰令。

陳茂

原文陳茂

陳茂は、河東郡猗氏県の人である。家柄は寒微であったが、質朴で正直、恭しく慎み深く、州里の人々から敬われた。高祖が隋國公であった時、僚佐に引き入れられ、待遇は圓通らと等しかった。しばしば家事を掌らせたが、意に適わないことはなく、高祖はこれを善しとした。後に高祖に従って齊の軍と晉州で戦った時、賊軍は甚だ盛んであり、高祖が挑戦しようとすると、茂は固く止めて許さず、馬の轡を捉えた。高祖はこれに憤り、刀を抜いてその額を斬りつけ、血が顔一面に流れたが、茂の言葉と気色は屈しなかった。高祖は感じ入って謝罪し、厚く礼遇して敬った。その後、官は上士に至った。高祖が丞相となると、心膂として委ねられた。禅譲を受けると、給事黄門侍郎に任じられ、魏城縣男に封ぜられ、しばしば機密を掌った。官に在ること十余年、益州總管司馬に転じ、太府卿に遷り、爵位を伯に進めた。数年後、官のまま卒した。子の政が嗣いだ。

原文陳茂,河東猗氏人也。家世寒微,質直恭謹,為州裡所敬。高祖為隋國公,引為僚佐,遇待與圓通等。每令典家事,未嘗不稱旨,高祖善之。後從高祖與齊師戰于晉州,賊甚盛,高祖將挑戰,茂固止不得,因捉馬鞚。高祖忿之,拔刀斫其額,流血被面,詞氣不撓。高祖感而謝之,厚加禮敬。其後官至上士。高祖為丞相,委以心膂。及受禪,拜給事黃門侍郎,封魏城縣男,每典機密。在官十餘年,轉益州總管司馬,遷太府卿,進爵為伯。後數載,卒官。子政嗣。

政は字あざなを弘道といい、倜儻として文武の大略があり、鐘律を善くし、弓馬に巧みであった。少くして宮中で養われ、十七歳で太子千牛備身となった。当時、京師の大侠劉居士は政の才気を重んじ、しばしば彼と交遊した。圓通の子の孝常は政と仲が良く、共に居士と交結した。居士が獄に下されて誅殺されると、政と孝常は連座すべきところであったが、上(文帝ぶんてい)は功臣の子であるとして、二百回打ち据えたが赦免した。これにより官職に補されることができなかった。煬帝の時、協律郎を授けられ、通事謁者、兵曹承務郎に遷った。帝はその才能を美とし、甚だ重んじた。宇文化及の乱の時、太常たいじょう卿に任じられた。後に大唐に帰順し、梁州總管の任で卒した。

原文政字弘道,倜儻有文武大略,善鐘律,便弓馬。少養宮中,年十七,為太子千牛備身。時京師大俠劉居士重政才氣,數從之遊。圓通子孝常與政相善,並與居士交結。及居士下獄誅,政及孝常當從坐,上以功臣子,撻之二百而赦之。由是不得調。煬帝時,授協律郎,遷通事謁者,兵曹承務郎。帝美其才,甚重之。宇文化及之亂也,以為太常卿。後歸大唐,卒于梁州總管。

張定和

原文張定和

張定和は、字を處謐といい、京兆郡萬年県の人である。少くして貧賤であったが、志節があった。初め侍官となった。平陳の役に際会し、定和は従征すべきところであったが、自らを養う資がなかった。その妻に嫁入りの時の衣服があったので、定和はこれを売ろうとしたが、妻は惜しんで固く与えようとしなかった。定和はそこで遂に行った。功により儀同に任じられ、帛千匹を賜り、遂にその妻を棄てた。この後、数度にわたり軍功により上開府、驃騎將軍に加えられた。上柱國李充に従って突厥を撃った時、真っ先に登って敵陣を陥れ、虜が刺してその頸に当たったが、定和は草で創口を塞いで戦い、神気自若としており、虜は遂に敗走した。上(文帝)はこれを聞いて壮とし、使者を遣わして薬を齎し、馳せて定和の元に至り労問した。位を柱國に進め、武安縣侯に封ぜられ、賞賜の物二千段、良馬二匹、金百両を賜った。煬帝が位を嗣ぐと、宜州刺史に任じられ、まもなく河内太守に転じ、頗る恵まれた政績があった。一年余りして、左屯衛大將軍に召されて任じられた。帝に従って吐谷渾を征し、覆袁川に至った。時に吐谷渾の主は数騎で遁走し、その名王が渾主を詐称し、車我真山に拠った。帝は定和に命じて師を率いてこれを撃たせた。既に賊と遭遇すると、その兵が少ないのを軽んじ、呼びかけて降伏を命じたが、賊は降りようとしなかった。定和は甲冑を着けず、身を挺して山に登ったところ、賊の伏兵が岩谷の下におり、矢を放って彼を射て斃した。その副将の柳武建が賊を撃ち、悉く斬り殺した。帝は涙を流し、光祿大夫を追贈した。当時、旧爵は例によって除かれるところであったが、ここにおいて再び武安侯に封ぜられ、諡して壯武といった。絹千匹、米千石を追贈した。子の世立が嗣ぎ、まもなく光祿大夫に任じられた。

原文張定和,字處謐,京兆萬年人也。少貧賤,有志節。初為侍官。會平陳之役,定和當從征,無以自給。其妻有嫁時衣服,定和將鬻之,妻靳固不與,定和於是遂行。以功拜儀同,賜帛千匹,遂棄其妻。是後數以軍功加上開府、驃騎將軍。從上柱國李充擊突厥,先登陷陣,虜刺之中頸,定和以草塞創而戰,神氣自若,虜遂敗走。上聞而壯之,遣使者齎藥,馳詣定和所勞問之。進位柱國,封武安縣侯,賞物二千段,良馬二匹,金百兩。煬帝嗣位,拜宜州刺史,尋轉河內太守,頗有惠政。歲餘,徵拜左屯衛大將軍。從帝征吐谷渾,至覆袁川。時吐谷渾主與數騎而遁,其名王詐為渾主,保車我真山,帝命定和率師擊之。既與賊相遇,輕其眾少,呼之令降,賊不肯下。定和不被甲,挺身登山,賊伏兵于岩穀之下,發矢中之而斃。其亞將柳武建擊賊,悉斬之。帝為流涕,贈光祿大夫。時舊爵例除,於是復封武安侯,諡曰壯武。贈絹千匹,米千石。子世立嗣,尋拜為光祿大夫。

張奫

原文張奫

張奫は、字を文懿といい、自ら清河の人であると云い、淮陰に家を構えた。兵書を読むことを好み、特に刀と楯に巧みであった。周の時代、同郷の郭子翼が密かに陳の寇を引き入れた。奫の父の雙は子弟を率いてこれを撃とうとしたが、躊躇して決断できなかった。奫はその謀を賛成し、遂に賊を破り、これにより勇決をもって知られるようになった。州主簿として起家した。高祖が丞相となると、大都督を授けられ、郷兵を領した。賀若弼が壽春に鎮した時、常に間諜となり、平陳の役では、頗る功績があった。位を開府儀同三司に進め、文安縣子に封ぜられ、邑八百戸を賜り、物二千五百段、粟二千五百石を賜った。一年余りして、水軍を率いて京口で逆賊の笮子游を、和州で薛子建を破った。朝に徴されて入り、大將軍に任じられた。高祖は命じて御座に昇らせて宴し、奫に言った、「卿は朕が子となれ、朕は卿が父となろう。今日集まるは、外と為さざるを示すものなり」。その後、綺羅千匹、綠沈甲、獸文具裝を賜った。まもなく楊素に従って江表を征し、別に會稽で高智慧を、臨海で吳世華を破った。位を上大將軍に進め、奴婢六十口、縑彩三百匹を賜った。撫州、顯州、齊州の三州刺史を歴任し、皆能ある名があった。開皇かいこう十八年、行軍總管となり、漢王諒に従って遼東を征した。諸軍は多く病没したが、奫の軍衆だけは全うした。高祖はこれを善しとし、物二百五十段を賜った。仁壽年間、潭州總管に遷り、在職三年で卒した。子に孝廉がいた。

原文張奫,字文懿,自雲清河人也,家于淮陰。好讀兵書,尤便刀楯。周世,鄉人郭子翼密引陳寇,奫父雙欲率子弟擊之,猶豫未決。奫贊成其謀,竟以破賊,由是以勇決知名。起家州主簿。高祖作相,授大都督,領鄉兵。賀若弼之鎮壽春也,恆為間諜,平陳之役,頗有功焉。進位開府儀同三司,封文安縣子,邑八百戶,賜物二千五百段,粟二千五百石。歲餘,率水軍破逆賊笮子游於京口、薛子建於和州。徵入朝,拜大將軍。高祖命升御坐而宴之,謂奫曰:「卿可為朕兒,朕為卿父。今日聚集,示無外也。」其後賜綺羅千匹,綠沉甲、獸文具裝。尋從楊素征江表,別破高智慧於會稽、吳世華於臨海。進位上大將軍,賜奴婢六十口,縑彩三百匹。曆撫、顯、齊三州刺史,俱有能名。開皇十八年,為行軍總管,從漢王諒征遼東。諸軍多物故,奫眾獨全。高祖善之,賜物二百五十段。仁壽中,遷潭州總管,在職三年卒。有子孝廉。

麥鐵杖

原文麥鐵杖

麦鉄杖は始興の人である。驍勇にして膂力あり、一日に五百里を行き、走れば奔馬に及ぶ。性は疎誕にして酒を嗜み、交遊を好み、信義を重んじ、常に漁猟を事とし、産業を治めず。陳の太建年中、徒党を結び群盗となり、広州刺史欧陽頠がこれを捕らえて献上し、官戸に没し、御傘を執る役に配された。毎朝罷朝の後、百余里を行き、夜に南徐州に至り、城壁を越えて入り、火を放ち盗みを働く。朝に還り、時を違えずまた傘を執る。このようにすること十余度、物主がこれを識り、州が状を以て奏上す。朝士は鉄杖が毎朝常に在るを見て、これを信ぜず。後に数度変事を告げ、尚書蔡徴曰く、「これは験すべし」と。仗下の時に、百金を以て購い、詔書を南徐州刺史に送る人を求む。鉄杖出でて募に応じ、勅を齎して往き、翌朝に奏事に及ぶ。帝曰く、「信然たり、盗を為すこと明らかなり」と。その勇捷を惜しみ、誡めてこれを釈す。

原文麥鐵杖,始興人也。驍勇有膂力,日行五百里,走及奔馬。性疏誕使酒,好交遊,重信義,每以漁獵為事,不治產業。陳太建中,結聚為群盜,廣州刺史歐陽頠俘之以獻,沒為官戶,配執禦傘。每罷朝後,行百餘里,夜至南徐州,俞城而入,行光火劫盜。旦還,及時仍又執傘。如此者十餘度,物主識之,州以狀奏。朝士見鐵杖每旦恆在,不之信也。後數告變,尚書蔡徵曰:「此可驗耳。」于仗下時,購以百金,求人送詔書與南徐州刺史。鐵杖出應募,齎敕而往,明旦及奏事。帝曰:「信然,為盜明矣。」惜其勇捷,誡而釋之。

陳滅亡の後、清流県に移り住む。江東の反乱に遇い、楊素は鉄杖に草束を頭に戴かせ、夜に浮き渡り江を渡り、賊中の消息を覗かせ、具に知りて還り報ぜしむ。後にまた更に往き、賊に擒えらる。逆帥李棱は兵仗三十人を遣わしてこれを衛し、縛して高智慧に送る。行きて慶亭に至り、衛者が憩い食す、その飢えを哀れみ、手を解きてその餐を与う。鉄杖は賊の刀を取り、乱れ斬り衛者を、これを殺し皆尽くし、悉くその鼻を割り、懐にして帰る。素は大いにこれを奇とす。後に戦勲を叙し、鉄杖に及ばず、素が駅を馳せて京師に帰るに遇い、鉄杖は歩いてこれを追い、毎夜は則ち同宿す。素見て悟り、特ちに奏して儀同三司を授く。書を識らざるを以て、郷里に放還す。成陽公李徹その驍武を称え、開皇十六年、京師に徴し至り、車騎將軍を除し、仍く楊素に従い北征して突厥を討ち、上開府を加う。煬帝即位し、漢王諒が并州に反す、また楊素に従いこれを撃ち、毎戦先登す。位を進めて柱国とす。尋いで萊州刺史を除すも、治名無し。後に転じて汝南太守となり、稍々法令に習い、群盗跡を屏う。後に朝集に因り、考功郎竇威これに嘲りて曰く、「麦は何の姓ぞ」と。鉄杖応口に対えて曰く、「麦豆殊ならず、何ぞ忽ち相い怪しまんや」と。威赧然として、以てこれに応ずる無し、時に人は以て敏慧と為す。尋いで右屯衛大將軍を除し、帝これを待つこと逾々密なり。

原文陳亡後,徙居清流縣。遇江東反,楊素遣鐵杖頭戴草束,夜浮渡江,覘賊中消息,具知還報。後復更往,為賊所擒。逆帥李棱遣兵仗三十人衛之,縛送高智慧。行至慶亭,衛者憩食,哀其餒,解手以給其餐。鐵杖取賊刀,亂斬衛者,殺之皆盡,悉割其鼻,懷之以歸。素大奇之。後敘戰勳,不及鐵杖,遇素馳驛歸於京師,鐵杖步追之,每夜則同宿。素見而悟,特奏授儀同三司。以不識書,放還鄉里。成陽公李徹稱其驍武,開皇十六年,徵至京師,除車騎將軍,仍從楊素北征突厥,加上開府。煬帝即位,漢王諒反於并州,又從楊素擊之,每戰先登。進位柱國。尋除萊州刺史,無治名。後轉汝南太守,稍習法令,群盜屏跡。後因朝集,考功郎竇威嘲之曰:「麥是何姓?」鐵杖應口對曰:「麥豆不殊,那忽相怪!」威赧然,無以應之,時人以為敏慧。尋除右屯衛大將軍,帝待之逾密。

鉄杖自ら恩を受くること深重を以てし、常に命を竭くすの志を懐く。遼東の役に及び、前鋒を請う、医者呉景賢に顧みて謂いて曰く、「大丈夫の性命は自ら所在有り、豈に艾炷を以て頞を灸し、瓜蒂を以て鼻を噴き、黄を治めて差えずして、児女の手の中に臥して死せんや」と。将に遼を渡らんとし、その三子に謂いて曰く、「阿奴は浅色の黄衫を備うべし。吾は国恩を受け、今は死日なり。我既に殺さるれば、爾ら富貴なるべし。唯だ誠と孝と、爾ら其れこれを勉めよ」と。及び済わんとし、橋未だ成らず、東岸を去ること尚数丈、賊大いに至る。鉄杖跳びて岸に上り、賊と戦い、死す。武賁郎将銭士雄・孟金叉も亦これに死し、左右更に及ぶ者無し。帝この為に流涕し、その屍を得て購い、詔を下して曰く、「鉄杖志気驍果、夙に勳庸を著わし、麾に陪して罪を問い、先登して陣を陷れ、節高く義烈しく、身は殞ちて功は存す。言を興して至誠を追懐し傷悼す、宜しく殊栄を賚うべし。用て飾徳を彰す。贈るに光禄大夫・宿国公とすべし。諡して武烈と曰う」と。子孟才嗣ぐ。尋いで光禄大夫を授く。孟才に二弟有り、仲才・季才、俱に正議大夫を拝す。賵贈巨万、轀輬車を賜い、前後部羽葆鼓吹を給す。平壤道の敗将宇文述等百余人は皆執紼を為し、王公已下は郊外に送る。士雄は左光禄大夫・右屯衛將軍・武強侯を贈り、諡して剛と曰う。子傑嗣ぐ。金叉は右光禄大夫を贈り、子善誼官を襲ぐ。

原文鐵杖自以荷恩深重,每懷竭命之志。及遼東之役,請為前鋒,顧謂醫者吳景賢曰:「大丈夫性命自有所在,豈能艾炷灸頞,瓜蒂噴鼻,治黃不差,而臥死兒女手中乎?」將渡遼,謂其三子曰:「阿奴當備淺色黃衫。吾荷國恩,今是死日。我既被殺,爾當富貴。唯誠與孝,爾其勉之。」及濟,橋未成,去東岸尚數丈,賊大至。鐵杖跳上岸,與賊戰,死。武賁郎將錢士雄、孟金叉亦死之,左右更無及者。帝為之流涕,購得其屍,下詔曰:「鐵杖志氣驍果,夙著勳庸,陪麾問罪,先登陷陣,節高義烈,身殞功存。興言至誠,追懷傷悼,宜賚殊榮。用彰飾德。可贈光祿大夫、宿國公。諡曰武烈。」子孟才嗣。尋授光祿大夫。孟才有二弟,仲才、季才,俱拜正議大夫。賵贈巨萬,賜轀輬車,給前後部羽葆鼓吹。平壤道敗將宇文述等百餘人皆為執紼,王公已下送至郊外,士雄贈左光祿大夫、右屯衛將軍、武強侯,諡曰剛。子傑嗣。金叉贈右光祿大夫,子善誼襲官。

孟才は字を智棱といい、果烈にして父の風有り。帝は孟才を死節の将の子とし、恩賜殊に厚く、武賁郎将を拝す。江都の難に及び、慨然として復讐の志有り。武牙郎銭傑と素より交友し、二人相い謂いて曰く、「吾等は世に国恩を受け、門に誠節を著わす。今賊臣弑逆しいぎゃくし、社稷しゃしょく淪亡す。節を紀す可く無く、何の面目を以て世間に視息せんや」と。ここに於いて流涕扼腕し、遂に相い与に謀り、恩旧を糾合し、顕福宮に於いて宇文化及を邀撃せんと欲す。事発に臨み、陳籓の子謙その謀を知りてこれを告ぐ、その党沈光と俱に化及の害する所と為り、忠義の士これを哀しむ。

原文孟才字智棱,果烈有父風。帝以孟才死節將子,恩賜殊厚,拜武賁郎將。及江都之難,慨然有復仇之志。與武牙郎錢傑素交友,二人相謂曰:「吾等世荷國恩,門著誠節。今賊臣弑逆,社稷淪亡,無節可紀,何面目視息世間哉!」於是流涕扼腕,遂相與謀,糾合恩舊,欲于顯福宮邀擊宇文化及。事臨發,陳籓之子謙知其謀而告之,與其党沈光俱為化及所害,忠義之士哀焉。

沈光

原文沈光

沈光は字を総持といい、呉興の人である。父君道は陳に仕えて吏部侍郎となり、陳滅びて後、長安ちょうあんに家す。皇太子勇は引きて学士に署す。後に漢王諒の府掾となり、諒敗れて、名を除かる。光は少より驍捷にして、戯馬を善くし、天下の最と為る。略々書記を綜べ、微かに詞藻有り、常に功名を立てんことを慕い、小節に拘わらず。家は甚だ貧窶にして、父兄並びに傭書を以て事と為す。光独り跅馳し、軽侠と交通し、京師の悪少年の朋附する所と為る。人多く贍遺し、以て親を養うことを得、毎に甘食美服を致し、未だ困匱せず。初め禅定寺を建つるに、その中の幡竿高さ十余丈、適た縄絶えるに遇い、人力の及ぶ所に非ず、諸僧これを患う。光見て僧に謂いて曰く、「縄を持ち来たるべし、当に相い為に上らん」と。諸僧驚喜し、因りて取りてこれに与う。光は口を以て索を銜え、竿を拍して上り、直ちに龍頭に至る。縄を繫ぎ畢り、手足皆放ち、空を透して下り、掌を以て地を拒ぎ、倒れ行くこと数十歩。観る者駭悦し、嗟異せざる莫く、時に人は号して「肉飛仙」とす。

原文沈光,字總持,吳興人也。父君道,仕陳吏部侍郎,陳滅,家于長安。皇太子勇引署學士。後為漢王諒府掾,諒敗,除名。光少驍捷,善戲馬,為天下之最。略綜書記,微有詞藻,常慕立功名,不拘小節。家甚貧窶,父兄並以傭書為事,光獨跅馳,交通輕俠,為京師惡少年之所朋附。人多贍遺,得以養親,每致甘食美服,未嘗困匱。初建禪定寺,其中幡竿高十餘丈,適遇繩絕,非人力所及,諸僧患之。光見而謂僧曰:「可持繩來,當相為上耳。」諸僧驚喜,因取而與之。光以口銜索,拍竿而上,直至龍頭。繫繩畢,手足皆放,透空而下,以掌拒地,倒行數十步。觀者駭悅,莫不嗟異,時人號為「肉飛仙」。

大業年中、煬帝は天下の驍果の士を徴して遼左を伐たんとし、光これに預かる。同類数万人、皆その下に出づ。光将に行在所に詣らんとし、賓客灞上に送る者百余騎。光酒を酹ぎて誓いて曰く、「この行、若し功名を建立すること能わずんば、当に高麗に死し、復た諸君と相い見えざるべし」と。及び帝に従い遼東を攻むるに、沖梯を以て城を撃ち、竿長さ十五丈、光その端に升り、城に臨みて賊と戦い、短兵接し、十数人を殺す。賊競いこれを撃ちて墜つ、未だ地に及ばず、適た竿に垂絙有るに遇い、光これを受けて復た上る。帝望見し、壮異とし、馳せ召して語らしめ、大いに悦び、即日に朝請大夫を拝し、宝刀良馬を賜い、常に左右に致し、親顧漸く密なり。未だ幾ばくもせず、以て折衝郎将と為し、賞遇優重なり。帝は毎に食を推し衣を解きてこれを賜い、同輩比ぶる者莫し。

原文大業中,煬帝徵天下驍果之士以伐遼左,光預焉。同類數萬人,皆出其下。光將詣行在所,賓客送至灞上者百餘騎。光酹酒而誓曰:「是行也,若不能建立功名,當死於高麗,不復與諸君相見矣。」及從帝攻遼東,以沖梯擊城,竿長十五丈,光升其端,臨城與賊戰,短兵接,殺十數人。賊競擊之而墜,未及於地,適遇竿有垂絙,光接而復上。帝望見,壯異之,馳召與語,大悅,即日拜朝請大夫,賜寶刀良馬,恆致左右,親顧漸密。未幾,以為折衝郎將,賞遇優重。帝每推食解衣以賜之,同輩莫與為比。

光は自ら深く恩を受けたことを自覚し、節を尽くさんと心に思う。江都の難に及んで、ひそかに義勇を結集し、帝の仇を討たんとす。先に帝は官奴を寵愛し、給使と称せしめしが、宇文化及は光の勇猛を以て、これを任用し、その統率を命じ、禁内に営せしむ。時に孟才・錢傑らはひそかに化及を図り、光に謂いて曰く、「我等は国の厚恩を受けながら、難に死して社稷を衛うこと能わず、これ古の人も恥ずるところなり。今また首を垂れて仇に仕え、その駆使を受け、面目を有ちて何を以て生きんや。吾必ずやこれを殺さんと欲す、死して恨みなし、公は義士なり、我に従わんか」と。光は涙を流して衿を濡らし、曰く、「これ将軍に望むところなり。僕は給使数百人を領し、皆先帝の恩遇を受けし者なり、今化及の内営に在り。これをもって仇を討たば、鷹鷂の鳥雀を逐うが如し。万世の功、この一挙に在り、願わくは将軍これを勉めよ」と。孟才は将軍となり、江淮の衆数千人を領し、営将発する時を期し、晨に起きて化及を襲わんとす。光の語は漏れ、陳謙その事を告ぐ。化及大いに懼れて曰く、「これ麦鉄杖の子なり、及び沈光は、並びに勇決にして当たるべからず、その鋒を避くべし」と。この夜すなわち腹心とともに営外に走出し、人を留めて司馬徳戡らに告げ、兵馬を領して孟才を逮捕せしむ。光は営内の喧声を聞き、事発するを知り、甲を被るに及ばず、すなわち化及の営を襲うも、空しく獲る所なし。舎人元敏に値い、その罪を数えて斬る。徳戡の兵の入るに遇い、四面より囲み合わさる。光大いに呼して囲みを潰し、給使は斉しく奮い、数十級を斬首し、賊皆披靡す。徳戡すなわちまた騎を遣わし、弓弩を持たせ、翼の如くにしてこれを射さしむ。光は身に介冑なく、遂に害せらる。麾下数百人皆闘いて死し、一人として降る者なし。時に年二十八。壮士これを聞き、そのために涙を落とさざる者なし。

原文光自以荷恩深重,思懷竭節。及江都之難,潛構義勇,將為帝復仇。先是,帝寵昵官奴,名為給使,宇文化及以光驍勇,方任之,令其總統,營于禁內。時孟才、錢傑等陰圖化及,因謂光曰:「我等荷國厚恩,不能死難以衛社稷,斯則古人之所恥也。今又俯首事讎,受其驅率,有靦面目,何用生為?吾必欲殺之,死無所恨,公義士也,肯從我乎?」光泣下沾衿,曰:「是所望于將軍也。僕領給使數百人,並荷先帝恩遇,今在化及內營。以此復讎,如鷹鸇之逐鳥雀。萬世之功,在此一舉,願將軍勉之。」孟才為將軍,領江淮之眾數千人,期以營將發時,晨起襲化及。光語泄,陳謙告其事。化及大懼曰:「此麥鐵杖子也,及沈光者,並勇決不可當,須避其鋒。」是夜即與腹心走出營外,留人告司馬德戡等,遣領兵馬,逮捕孟才。光聞營內喧聲,知事發,不及被甲,即襲化及營,空無所獲。值舍人元敏,數而斬之。遇德戡兵入,四面圍合。光大呼潰圍,給使齊奮,斬首數十級,賊皆披靡。德戡輒復遣騎,持弓弩,翼而射之。光身無介胄,遂為所害。麾下數百人皆鬥而死,一無降者。時年二十八。壯士聞之,莫不為之隕涕。

来護児

原文來護兒

来護児、字は崇善、江都の人なり。幼にして卓詭、奇節を立てんことを好む。初め『詩』を読み、「鼓を撃つこと其れ鏜たり、兵を用うるに踴躍す」、「羔裘豹飾、孔武有力」に至り、書を捨てて歎じて曰く、「大丈夫世に在りては当に此の如くあるべし。会に国を為に賊を滅ぼして功名を取り、安んぞ区区久しく隴畝に事えんや」と。群輩その言に驚きその志を壮とす。護児の住む白土村は、密かに江岸に邇し。時に江南尚お阻まれ、賀若弼の寿州に鎮するや、常に護児をして間諜たらしめ、大都督を授く。陳を平らげるの役、護児功有り、上開府に進む。楊素に従い高智慧を浙江に撃つに、賊は岸を拠りて営と為し、周亙百余里、船艦江に被り、鼓噪して進む。素は護児に数百の軽艓を率い江岸に径ち登り、直ちにその営を掩い破らしむ。時に賊は先に素と戦い勝たず、帰るに拠る所なく、ここに因りて潰散す。智慧は海に逃れんとし、護児泉州に追い至る。智慧窮蹙し、閩・越に遁走す。大將軍に進み、泉州刺史を除く。時に盛道延兵を擁して乱を為し、州境を侵擾す。護児進撃してこれを破る。また蒲山公李寛に従い汪文進を黟・歙に破り、柱國に進む。仁壽三年、瀛州刺史を除かれ、爵を黄縣公と賜い、邑三千戸。尋ねに上柱國を加えられ、右禦衛將軍を除かる。煬帝即位し、右驍衛大將軍に遷り、帝甚だ親重す。大業六年、駕に従い江都に至り、物千段を賜い、先人の塚に上り、父老を宴し、州裡これを栄とす。数年して、右翊衛大將軍に転ず。遼東の役、護児楼船を率い、滄海を指し、壩水より入り、平壤を去ること六十里、高麗と相遇う。進撃し大いにこれを破り、勝に乗じて直ちに城下に造り、その郛郭を破る。ここに於て軍を縦して大いに掠め、稍々部伍を失う。高元の弟建武敢死の士五百人を募り邀撃す。護児ここに因りて退き、海浦に屯営し、期会を待つ。後に宇文述らの敗を知り、すなわち師を班す。明年、また滄海道より出で、師を東萊に次す。会に楊玄感黎陽に逆を為し、鞏・洛に進逼す。護児兵を勒し宇文述らとともにこれを撃破す。栄國公に封ぜられ、邑二千戸。十年、また師を帥いて海を度り、卑奢城に至る。高麗挙国して来たり戦う。護児大いにこれを破り、千余級を斬首す。平壤に趣かんとす。高元震懼し、使いを遣わし叛臣斛こく斯政を執り、遼東城下に詣り、表を上り降を請う。帝これを許し、人を遣わし節を持たせ詔して護児に師を旋せしむ。護児衆を集めて曰く、「三度兵を出だすも、未だ賊を平げず、この還るや、重ねて来るべからず。今高麗困弊し、野に青草なく、我が衆を以て戦わば、日に克たざるはなし。吾は兵を進め、径ち平壤を囲み、その偽主を取り、捷を献じて帰らんと欲す」と。表を答えて行を請い、詔を奉ぜず。長史崔君肅固く争うも、許さず。護児曰く、「賊の勢破れたり、専ら相任せば、自ずからこれを弁ずるに足る。吾は閫外に在り、事は専決に合う、豈に千里を容れて成規を稟聴せんや。俄頃の間、動もすれば機会を失い、労して功無き、故にその宜しきなり。吾は寧ろ高元を征得し、還りて譴責を得んも、この成功を捨つるは、能わざる所なり」と。君肅衆に告げて曰く、「若し元帥に従い、詔書に違拒せば、必ず聞奏せられ、皆罪を得ん」と。諸将懼れ、尽く還るを勧め、方に詔を奉ず。十三年、左翊衛大將軍に転じ、開府儀同三司に進み、任委ますます密にして、前後の賞賜数うるに勝えず。江都の難、宇文化及忌みてこれを害す。

原文來護兒,字崇善,江都人也。幼而卓詭,好立奇節。初讀《詩》,至「擊鼓其鏜,踴躍用兵」、「羔裘豹飾,孔武有力」,舍書而歎曰:「大丈夫在世當如是。會為國滅賊以取功名,安能區區久事隴畝!」群輩驚其言而壯其志。護兒所住白土村,密邇江岸。于時江南尚阻,賀若弼之鎮壽州也,常令護兒為間諜,授大都督。平陳之役,護兒有功焉,進位上開府。從楊素擊高智慧於浙江,而賊據岸為營,周亙百餘里,船艦被江,鼓噪而進。素令護兒率數百輕艓徑登江岸,直掩其營,破之。時賊前與素戰不勝,歸無所據,因而潰散。智慧將逃於海,護兒追至泉州,智慧窮蹙,遁走閩、越。進位大將軍,除泉州刺史。時有盛道延擁兵作亂,侵擾州境,護兒進擊,破之。又從蒲山公李寬破汪文進於黟、歙,進位柱國。仁壽三年,除瀛州刺史,賜爵黃縣公,邑三千戶。尋加上柱國,除右禦衛將軍。煬帝即位,遷右驍衛大將軍,帝甚親重之。大業六年,從駕江都,賜物千段,令上先人塚,宴父老,州裡榮之。數歲,轉右翊衛大將軍。遼東之役,護兒率樓船,指滄海,入自壩水,去平壤六十里,與高麗相遇。進擊,大破之,乘勝直造城下,破其郛郭。於是縱軍大掠,稍失部伍,高元弟建武募敢死士五百人邀擊之。護兒因卻,屯營海浦,以待期會。後知宇文述等敗,遂班師。明年,又出滄海道,師次東萊,會楊玄感作逆黎陽,進逼鞏、洛,護兒勒兵與宇文述等擊破之。封榮國公,邑二千戶。十年,又帥師度海,至卑奢城,高麗舉國來戰,護兒大破之,斬首千餘級。將趣平壤,高元震懼,遣使執叛臣斛斯政,詣遼東城下,上表請降。帝許之,遣人持節詔護兒旋師。護兒集眾曰:「三度出兵,未能平賊,此還也,不可重來。今高麗困弊,野無青草,以我眾戰,不日克之。吾欲進兵,徑圍平壤,取其偽主,獻捷而歸。」答表請行,不肯奉詔。長史崔君肅固爭,不許。護兒曰:」賊勢破矣,專以相任,自足辦之。吾在閫外,事合專決,豈容千里稟聽成規!俄頃之間,動失機會,勞而無功,故其宜也。吾甯征得高元,還而獲譴,舍此成功,所不能矣。」君肅告眾曰:「若從元帥,違拒詔書,必當聞奏,皆獲罪也。」諸將懼,盡勸還,方始奉詔。十三年,轉為左翊衛大將軍,進位開府儀同三司,任委逾密,前後賞賜不可勝計。江都之難,宇文化及忌而害之。

長子楷は、父の軍功により散騎郎・朝散大夫を授かる。楷の弟弘は、果毅郎将・金紫光禄大夫に至る。弘の弟整は、武賁郎将・右光禄大夫なり。整は特に驍勇にして、士衆を撫するに善く、群盗を討撃し、向かう所皆捷す。諸賊甚だこれを憚り、歌を作りて曰く、「長白山頭百戦場、十十五五長槍を把り、官軍十万衆を畏れず、只だ栄公第六郎を畏る」と。化及の反に、皆害せらる。唯だ少子恆・濟のみ免る。

原文長子楷,以父軍功授散騎郎、朝散大夫。楷弟弘,仕至果毅郎將、金紫光祿大夫。弘第整,武賁郎將、右光祿大夫。整尤驍勇,善撫士眾,討擊群盜,所向皆捷。諸賊甚憚之,為作歌曰:「長白山頭百戰場,十十五五把長槍,不畏官軍十萬眾,只畏榮公第六郎。」化及反,皆遇害,唯少子恆、濟獲免。

魚倶羅

原文魚俱羅

魚倶羅は、馮翊下邽の人なり。身長八尺、膂力人に絶え、声気雄壮、言数百歩に聞こゆ。弱冠にして親衛となり、累遷して大都督に至る。晉王広に従い陳を平げ、功により開府を拝し、物一千五百段を賜う。未だ幾ばくもせず、沈玄懀・高智慧ら江南に乱を為す。楊素は倶羅の壮勇を以て、同行を請う。戦う毎に功有り、上開府・高唐縣公を加えられ、疊州総管を拝す。母憂により職を去る。扶風に還り至るに、会に楊素兵を率いて霊州道より出で突厥を撃たんとし、路に倶羅に逢い、大いに悦び、遂に奏して同行せしむ。賊に遇うや、倶羅数騎を以て奔撃し、目を瞋らし大いに呼し、当たる所皆披靡し、左に出で右に入り、往復飛ぶが若し。功により柱國に進み、豊州総管を拝す。初め、突厥数えずして境に入り寇と為す。倶羅すなわちこれを擒斬す。ここより突厥畏懼して跡を屏ぎ、塞上に畜牧することを敢えず。

原文魚俱羅,馮翊下邦人也。身長八尺,膂力絕人,聲氣雄壯,言聞數百步。弱冠為親衛,累遷大都督。從晉王廣平陳,以功拜開府,賜物一千五百段。未幾,沈玄懀、高智慧等作亂江南,楊素以俱羅壯勇,請與同行。每戰有功,加上開府、高唐縣公,拜疊州總管。以母憂去職。還至扶風,會楊素率兵將出靈州道擊突厥,路逢俱羅,大悅,遂奏與同行。及遇賊,俱羅與數騎奔擊,瞋目大呼,所當皆披靡,出左入右,往返若飛。以功進位柱國,拜豐州總管。初,突厥數入境為寇,俱羅輒擒斬之,自是突厥畏懼屏跡,不敢畜牧於塞上。

初め、煬帝が藩王であった時、魚俱羅の弟の魚賛は左右に従い、累進して大都督となった。帝が位を継ぐと、車騎将軍に任じられた。魚賛は性質凶暴で、部下を虐待し、左右に肉を焼かせ、意に適わないと、串でその眼を刺し潰した。温めた酒が適切でない者があれば、直ちにその舌を断った。帝は魚賛が藩邸以来の旧臣であることを思い、誅するに忍びず、近臣に謂って曰く、「弟が既にこのようであるならば、兄も知るべし」と。そこで魚俱羅を召し出して譴責し、魚賛を獄から出して、自ら計らわせた。魚賛は家に至り、薬を飲んで死んだ。帝は魚俱羅が自ら安んじず、辺境の患いを生ずることを慮り、安州刺史に転任させた。一年余りして、趙郡太守に遷った。後に朝集のため、東都に至り、将軍梁伯隠と旧知があり、数度往来した。また郡から多くの雑物を持ち出して貢献しようとしたが、帝は受けず、そこで権貴に贈った。御史が魚俱羅が郡将として内臣と交通したことを弾劾すると、帝は大いに怒り、梁伯隠と共に除名の罪に坐した。

原文初,煬帝在籓,俱羅弟贊以左右從,累遷大都督。及帝嗣位,拜車騎將軍。贊性凶暴,虐其部下,令左右炙肉,遇不中意,以簽刺瞎其眼。有溫酒不適者,立斷其舌。帝以贊籓邸之舊,不忍加誅,謂近臣曰:「弟既如此,兄亦可知。」因召俱羅,譴責之,出贊於獄,令自為計。贊至家,飲藥而死。帝恐俱羅不自安,慮生邊患,轉為安州刺史。歲餘,遷趙郡太守。後因朝集,至東都,與將軍梁伯隱有舊,數相往來。又從郡多將雜物以貢獻,帝不受,因遺權貴。御史劾俱羅以郡將交通內臣,帝大怒,與伯隱俱坐除名。

未だ幾ばくもせず、越巂の飛山蛮が乱を起こし、郡境を侵掠した。詔して魚俱羅に白衣のまま将を領させ、併せて蜀郡都尉段鐘葵を率いてこれを討平させた。大業九年、再び高麗を征し、魚俱羅を碣石道軍将とした。還ると、江南で劉元進が乱を起こしたので、詔して魚俱羅に兵を将いて会稽諸郡に向かい、これを逐捕させた。当時、百姓は乱を思い、盗賊に従うこと市の如く、魚俱羅は賊帥朱燮・管崇等を撃ち、戦うこと捷たざるはなかった。然れども賊の勢いは次第に盛んとなり、敗れてはまた集まった。魚俱羅は賊が歳月を以て平らげられるものにあらずと度り、諸子は皆京・洛におり、また天下が次第に乱れるを見て、終には道路が隔絶することを恐れた。当時、東都は饑饉にあり、穀物の価格が高騰していたので、魚俱羅は家僕に船で米を東都に運ばせて売り、益々財貨を買い求め、密かに諸子を迎えようとした。朝廷は微かにこれを知り、異志あることを恐れ、使者を発して案検させた。使者が至り、前後察問したが、その罪を得なかった。帝はまた大理司直梁敬真に命じて鎖し、東都に詣でさせた。魚俱羅の相貌は人に異なり、目に重瞳があったので、陰に帝の忌むところとなった。梁敬真は旨に迎合し、魚俱羅が師徒敗衄したと奏上した。そこで東都市で斬り、家口は籍没した。

原文未幾,越巂飛山蠻作亂,侵掠郡境。詔俱羅白衣領將,並率蜀郡都尉段鐘葵討平之。大業九年,重征高麗,以俱羅為碣石道軍將。及還,江南劉元進作亂,詔俱羅將兵向會稽諸郡逐捕之。于時百姓思亂,從盜如市,俱羅擊賊帥朱燮、管崇等,戰無不捷。然賊勢浸盛,敗而復聚。俱羅度賊非歲月可平,諸子並在京、洛,又見天下漸亂,終恐道路隔絕。于時東都饑饉,穀食踴貴,俱羅遣家僕將船米至東都糶之,益市財貨,潛迎諸子。朝廷微知之,恐其有異志,發使案驗。使者至,前後察問,不得其罪。帝復令大理司直梁敬真就鎖將詣東都。俱羅相表異人,目有重瞳,陰為帝之所忌。敬真希旨,奏俱羅師徒敗衄,於是斬東都市,家口籍沒。

陳棱

原文陳棱

陳棱、字は長威、廬江郡襄安県の人である。祖父の陳碩は、漁釣を以て自ら生計を立てた。父の陳峴は、少より驍勇で、章大寶に事えて帳内部曲ぶきょくとなった。章大寶の反逆を告げ、譙州刺史を授けられた。陳が滅びると、家に廢された。高智慧・汪文進等が江南で乱を起こすと、廬江の豪傑もまた兵を挙げて相応じ、陳峴が旧将であることを以て、共に推して主とした。陳峴はこれを拒絶しようとしたが、陳棱が陳峴に謂って曰く、「衆乱既に起こり、これを拒げば禍い将に己に及ばん。偽りて従うに如かず、別に後の計を為すべし」と。陳峴はこれを然りとした。時に柱国李徹の軍が当塗とうとに至り、陳峴は密かに陳棱を李徹の所に使わし、内応を請わせた。李徹はその事を上奏し、上大将軍・宣州刺史に任じ、譙郡公に封じ、邑一千戸を賜り、詔して李徹に応接させた。李徹の軍が未だ至らぬうちに、謀が洩れ、その党の者に殺され、陳棱は僅かに免れるを得た。上(文帝)はその父の故を以て、開府に任じ、間もなく郷兵を領した。煬帝が即位すると、驃騎将軍を授けられた。大業三年、武賁郎将に任じられた。後三年、朝請大夫張鎮周と共に東陽の兵一万余人を発し、義安より海を渡り、流求国を撃ち、一月余りにして至った。流求人は初め船艦を見て、商旅と思い、往々軍中に詣でて貿易した。陳棱は衆を率いて岸に登り、張鎮周を先鋒として遣わした。その主の歓斯渴剌兜が兵を遣わして拒戦したが、張鎮周は頻りにこれを撃破した。陳棱は進んで低没檀洞に至り、その小王歓斯老模が兵を率いて拒戦したので、陳棱はこれを撃破し、老模を斬った。その日は霧雨晦冥し、将士皆懼れたので、陳棱は白馬を刑して海神を祭った。既にして晴れ渡り、五軍に分かれて、その都邑に向かった。渴剌兜は衆数千を率いて逆に拒んだが、陳棱は張鎮周を遣わしてまた先鋒としてこれを撃走させた。陳棱は勝に乗じて北に逐い、その柵に至ると、渴剌兜は柵を背にして陣した。陳棱は鋭を尽くしてこれを撃ち、辰より未に至るまで、苦闘して止まなかった。渴剌兜は自ら軍疲れたりとして、柵に引き入れた。陳棱は遂に塹を埋め、その柵を攻め破り、渴剌兜を斬り、その子の島槌を獲、男女数千を虜にして帰還した。帝は大いに悦び、陳棱の位を右光禄大夫に進め、武賁は元の如く、張鎮周を金紫光禄大夫とした。遼東の役には、宿衛の功により左光禄大夫に遷った。明年、帝は再び遼東を征し、陳棱は東萊留守となった。楊玄感の乱が起こると、陳棱は衆一万余人を率いて黎陽を撃平し、楊玄感の任命した刺史元務本を斬った。陳棱は間もなく詔を奉じて江南に戦艦を営んだ。彭城に至ると、賊帥孟讓が衆十万を将いて都梁宮を占拠し、淮を阻んで固めていた。陳棱は密かに下流より渡り、江都に至り、兵を率いて孟讓を襲い、これを破った。功により光禄大夫に進位し、信安侯の爵を賜った。後に帝が江都宮に幸すると、俄かに李子通が海陵を占拠し、左才相が淮北を掠め、杜伏威が六合りくごうに屯し、衆各数万であった。帝は陳棱に宿衛兵を率いてこれを撃たせ、往々にして克捷した。超拜して右禦衛将軍となった。再び清江を渡り、宣城の賊を撃った。俄かに帝は弑逆に崩じ、宇文化及が軍を率いて北上し、陳棱を召して江都を守らせた。陳棱は衆を集めて縞素を着け、煬帝のために発喪し、儀衛を備え、吳公台下に改葬し、衰杖して喪を送り、慟哭して行路の人を感動させ、論ずる者は深くその義を称した。陳棱は後に李子通に陥れられ、杜伏威に奔ったが、杜伏威はこれを忌み、間もなく害された。

原文陳棱,字長威,廬江襄安人也。祖碩,以漁釣自給。父峴,少驍勇,事章大寶為帳內部曲。告大寶反,授譙州刺史。陳滅,廢於家。高智慧、汪文進等作亂江南,廬江豪傑亦舉兵相應,以峴舊將,共推為主。峴欲拒之,棱謂峴曰:「眾亂既作,拒之禍且及己。不如偽從,別為後計。」峴然之。時柱國李徹軍至當塗,峴潛使棱至徹所,請為內應。徹上其事,拜上大將軍、宣州刺史,封譙郡公,邑一千戶,詔徹應接之。徹軍未至,謀泄,為其黨所殺,棱僅以獲免。上以其父之故,拜開府,尋領鄉兵。煬帝即位,授驃騎將軍。大業三年,拜武賁郎將。後三歲,與朝請大夫張鎮周發東陽兵萬餘人,自義安泛海,擊流求國,月餘而至。流求人初見船艦,以為商旅,往往詣軍中貿易。棱率眾登岸,遣鎮周為先鋒。其主歡斯渴剌兜遣兵拒戰,鎮周頻擊破之。棱進至低沒檀洞,其小王歡斯老模率兵拒戰,棱擊敗之,斬老模。其日霧雨晦冥,將士皆懼,棱刑白馬以祭海神。既而開霽,分為五軍,趣其都邑。渴剌兜率眾數千逆拒,棱遣鎮周又先鋒擊走之。棱乘勝逐北,至其柵,渴剌兜背柵而陣。棱盡銳擊之,從辰至未,苦鬥不息。渴剌兜自以軍疲,引入柵。棱遂填塹,攻破其柵,斬渴剌兜,獲其子島槌,虜男女數千而歸。帝大悅,進棱位右光祿大夫,武賁如故,鎮周金紫光祿大夫。遼東之役,以宿衛遷左光祿大夫。明年,帝復征遼東,棱為東萊留守。楊玄感之作亂也,棱率眾萬餘人擊平黎陽,斬玄感所署刺史元務本。棱尋奉詔于江南營戰艦。至彭城,賊帥孟讓眾將十萬,據都梁宮,阻淮為固。棱潛於下流而濟,至江都,率兵襲讓,破之。以功進位光祿大夫。賜爵信安侯。後帝幸江都宮,俄而李子通據海陵,左才相掠淮北,杜伏威屯六合,眾各數萬。帝遣棱率宿衛兵擊之,往往克捷。超拜右禦衛將軍。復渡清江,擊宣城賊。俄而帝以弑崩,宇文化及引軍北上,召棱守江都。棱集眾縞素,為煬帝發喪,備儀衛,改葬于吳公台下,衰杖送喪,慟感行路,論者深義之。棱後為李子通所陷,奔杜伏威,伏威忌之,尋而見害。

王辯

原文王辯

王辯、字は警略、馮翊郡ひょうよくぐん蒲城県の人である。祖父の王訓は、行商を以て富を致した。魏の世、粟を出して軍糧の補給を助け、仮の清河太守となった。王辯は少より兵書を習い、特に騎射に優れ、慷慨として大志を有した。周において軍功により帥都督を授けられた。開皇初年、大都督に遷った。仁寿じんじゅ年中、車騎将軍に遷った。漢王諒の乱が起こると、楊素に従ってこれを討平し、武寧県男の爵を賜り、邑三百戸を賜った。後三年、尚舎奉御に遷った。吐谷渾征伐に従い、朝請大夫に任じられた。数年して、鷹揚郎将に転じた。遼東の役には、功により通議大夫を加えられ、間もなく武賁郎将に遷った。山東に盗賊が起こると、上谷の魏刀兒は自ら歴山飛と号し、衆十余万、燕・趙を劫掠した。帝は王辯を御榻に昇らせ、方略を問うた。王辯は賊を取る形勢を論じ、帝は善しと称え、「誠にこの計の如くならば、賊何ぞ憂うるに足らんや」と曰わった。ここに従行の歩騎三千を発してこれを撃破し、黄金二百両を賜った。明年、渤海の賊帥高士達は自ら東海公と号し、衆は万を以て数えた。再び王辯にこれを撃たせ、屡々その鋭気を挫いた。帝が江都宮におられた時、これを聞き馳せて召された。引見されると、礼賜甚だ厚く、再び信都に往きて経略させた。高士達はここに再び戦い、これを破り、優詔を以て褒顕された。時に賊帥郝孝徳・孫宣雅・時季康・竇建徳・魏刀兒等が、往々屯聚し、大は十万、小は数千、河北を寇掠した。王辯は進兵してこれを撃ち、往く所皆捷し、深く群賊に憚られた。翟譲が徐・豫を寇すと、王辯は進み、頻りにこれを撃走した。翟譲は間もなく李密と共に洛口倉に屯拠し、王辯は王世充と共に李密を討ち、洛水を阻んで相持すること一年に及んだ。王辯は諸将を率いて李密を攻め破り、その営に迫り、外柵を戦い破った。李密の諸営には既に潰れる者があり、勝に乗じて将に城に入らんとしたが、王世充は知らず、将士の労倦を恐れ、ここに角を鳴らして兵を収めたため、翻って李密の徒に乗ぜられた。官軍は大いに潰れ、救い止めることができなかった。王辯は洛水に至ると、橋は既に壊れ、渡ることができず、遂に水を渉り、中流に至り、溺れた人に引かれて馬から墜ちた。王辯は時に身に重甲を着け、敗兵前後相蹈藉し、再び馬に上ることができず、遂に溺死した。時に五十六歳。三軍痛惜せざるはなかった。

原文王辯,字警略,馮翊蒲城人也。祖訓,以行商致富。魏世,出粟助給軍糧,為假清河太守。辯少習兵書,尤善騎射,慷慨有大志。在周以軍功授帥都督。開皇初,遷大都督。仁壽中,遷車騎將軍。漢王諒之作亂也,從楊素討平之,賜爵武寧縣男,邑三百戶。後三歲,遷尚舍奉御。從征吐谷渾,拜朝請大夫。數年,轉鷹揚郎將。遼東之役,以功加通議大夫,尋遷武賁郎將。及山東盜賊起,上谷魏刀兒自號曆山飛,眾十餘萬,劫掠燕、趙。帝引辯升禦榻,問以方略。辯論取賊形勢,帝稱善,曰:「誠如此計,賊何足憂也。」於是發從行步騎三千,擊敗之,賜黃金二百兩。明年,渤海賊帥高士達自號東海公,眾以萬數。復令辯擊之,屢挫其銳。帝在江都宮,聞而馳召之。及引見,禮賜甚厚,復令往信都經略。士達於是復戰,破之,優詔褒顯。時賊帥郝孝德、孫宣雅、時季康、竇建德、魏刀兒等,往往屯聚,大至十萬,小至數千,寇掠河北。辯進兵擊之,所往皆捷,深為群賊所憚。及翟讓寇徐、豫,辯進,頻擊走之。讓尋與李密屯據洛口倉,辯與王世充討密,阻洛水相持經年。辯率諸將攻敗密,因薄其營,戰破外柵。密諸營已有潰者,乘勝將入城,世充不知,恐將士勞倦,於是鳴角收兵,翻為密徒所乘。官軍大潰,不可救止。辯至洛水,橋已壞,不得渡,遂涉水,至中流,為溺人所引墜馬。辯時身被重甲,敗兵前後相蹈藉,不能復上馬,竟溺死焉。時年五十六。三軍莫不痛惜之。

斛斯萬善

原文斛斯萬善

河南の斛斯萬善は、驍勇にして果毅、王辯と齊名す。大業年中、衛玄に從ひ楊玄感を討ち、頻りに戰ひて功有り。玄感の敗走するに及び、萬善數騎を以て追ひ之に及ぶ。玄感窘迫して自殺す。是より名を知られ、武賁郎將に拜せらる。突厥の始畢、雁門を圍むや、萬善奮擊して之を破る。賊至る毎に、輒ち出でて其鋒に當たり、或は馬を下り地に坐し、強弓を引いて賊を射る。中つ所皆殪えいぶ。是より突厥敢へて城を逼ること莫く、十許日にして竟に退く。萬善の力なり。其後頻りに群盜を討ち、功を累ねて將軍に至る。時に將軍鹿願、范貴、馮孝慈有り、俱に將帥と爲り、數たび征討に從ひ、並びに世に名有り。然れども事皆亡失す、故に史官述ぶる所無し。

原文河南斛斯萬善,驍勇果毅,與辯齊名。大業中,從衛玄討楊玄感,頻戰有功。及玄感敗走,萬善與數騎追及之,玄感窘迫自殺。由是知名,拜武賁郎將。突厥始畢之圍雁門也,萬善奮擊之,所向皆破。每賊至,輒出當其鋒,或下馬坐地,引強弓射賊,所中皆殪。由是突厥莫敢逼城,十許日竟退,萬善之力也。其後頻討群盜,累功至將軍。時有將軍鹿願、范貴、馮孝慈,俱為將帥,數從征討,並有名於世。然事皆亡失,故史官無所述焉。

史臣曰く、楚漢未だ分たざる時、絳灌の力宣ぶ所以なり。曹劉競逐するに、關張の名立つ所以なり。然らば則ち名立つは草昧の初に資り、力宣ぶは經輪の會に候ふ。鱗翼に攀附すること、世に之れ有り。圓通、護兒の輩、定和、鐵杖の倫、皆一時の壯士、貧賤に困す。其の鬱抑未だ遇はざるに當たり、亦安んぞ其の鴻鵠の志有るを知らんや。終に能く污泥の中より振拔し、風雲の上に騰躍し、馬革の願に符し、生平の心を快くす。其の時に遇はざれば、焉くんぞ此に至らんや。俱羅の罪を加へんと欲するは、其の咎畔に非ず。王辯勍敵に殞身し、志實に勤王に在り。陳棱縞素を以て發喪し、哀行路を感ず。義の動かす所、固より已に深きかな。孟才、錢傑、沈光等、恩を感じ舊を懷ひ、難に臨みて生を忘る。功成ること無きと雖も、其の志稱す可き有り。

原文史臣曰:楚、漢未分,絳、灌所以宣力;曹、劉競逐,關、張所以立名。然則名立資草昧之初,力宣候經輪之會,攀附鱗翼,世有之矣。圓通、護兒之輩,定和、鐵杖之倫,皆一時之壯士,困于貧賤。當其鬱抑未遇,亦安知其有鴻鵠之志哉!終能振拔污泥之中,騰躍風雲之上,符馬革之願,快生平之心,非遇其時,焉能至於此也!俱羅欲加之罪,非其咎畔,王辯殞身勍敵,志實勤王。陳棱縞素發喪,哀感行路,義之所動,固已深乎!孟才、錢傑、沈光等,感恩懷舊,臨難忘生,雖功無所成,其志有可稱矣。