隋書

巻六十四列傳第二十九 李圓通、陳茂、張定和、張奫、麥鐵杖、沈光、來護兒、魚俱羅、陳稜、王辯、周羅睺、周法尚、李景、慕容三藏、薛世雄、王仁恭、權武、吐萬緒、董純、趙才

李圓通

李圓通は、京兆郡涇陽県の人である。父の李景は、軍士として武元皇帝(楊忠)に隷属し、その家僮の黒女と密通して圓通を生ませた。李景はこれを認めなかったため、圓通は孤賤の身となり、高祖こうそ(楊堅)の家に給使した。高祖が隋國公となると、参軍事に抜擢された。初め、高祖が若い頃、賓客を宴するたびに、常に圓通に厨事を監督させた。圓通は性質が厳格で、左右の婢僕は皆これを敬い畏れた。ただ世子(楊勇)の乳母だけが寵を恃んで彼を軽んじ、賓客への供給が未だなのに、しばしば用事を請うたが、圓通は許さず、あるいは勝手に持ち去ろうとした。圓通は大いに怒り、厨人を叱ってこれを数十回打ち、叫び声が閤内に響き渡り、僚吏や左右の者は顔色を失った。賓客が去った後、高祖はことの次第を詳しく知り、圓通を召し出して座を命じ食事を賜い、これより特に彼を善しとし、大任に堪えると認めた。高祖が丞相となると、懷昌男の爵位を賜った。しばらくして帥都督ととくを授けられ、爵位を新安子に進められ、心膂として委ねられた。圓通は力強く敏捷で、武芸に長けていた。周氏の諸王は平素より高祖を畏れており、しばしば高祖の隙を窺い、不利を図ろうとしたが、圓通の保護に頼り、難を免れることが数度あった。高祖は深くこれを感じ、これにより政事に参与させた。相国外兵曹を授け、引き続き左親信を領した。まもなく上儀同を授けられた。高祖が禅譲を受けると、内史侍郎に任じられ、左衛長史を領し、爵位を伯に進めた。左右庶子、給事黄門侍郎、尚書左丞を歴任し、刑部尚書を摂行し、深く信任された。後に左丞として左翊衛驃騎將軍を領した。陳を討伐する役では、圓通は行軍總管として楊素に従い信州道より出撃し、功により位を大將軍に進められ、萬安縣侯に封ぜられ、揚州總管長史に任じられた。まもなくへい州總管長史に転じた。秦孝王(楊俊)は仁柔で自ら善を好んだが、決断に乏しく、府中の事は多く圓通が決裁した。入朝して司農卿、治粟内史となり、刑部尚書に遷った。数年後、再び并州長史となった。孝王が奢侈の罪を得ると、圓通も連座して免官された。まもなく刑部尚書事を檢校した。仁壽年間、勲旧として爵位を郡公に進めた。煬帝が位を嗣ぐと、兵部尚書に任じられた。帝が揚州に行幸した際、圓通をして京師を留守させた。彼が宇文述の田を判じて民に返還したところ、宇文述が彼が賄賂を受けたと訴えた。帝は怒って彼を召還し、洛陽らくようで帝に謁見させ、これにより免官された。圓通は憂懼して発病し卒した。柱國を追贈され、封爵は全て元の通りであった。子の孝常は、大業末年に華陰県令となった。

陳茂

陳茂は、河東郡猗氏県の人である。家柄は寒微であったが、質朴で正直、恭しく慎み深く、州里の人々から敬われた。高祖が隋國公であった時、僚佐に引き入れられ、待遇は圓通らと等しかった。しばしば家事を掌らせたが、意に適わないことはなく、高祖はこれを善しとした。後に高祖に従って齊の軍と晉州で戦った時、賊軍は甚だ盛んであり、高祖が挑戦しようとすると、茂は固く止めて許さず、馬の轡を捉えた。高祖はこれに憤り、刀を抜いてその額を斬りつけ、血が顔一面に流れたが、茂の言葉と気色は屈しなかった。高祖は感じ入って謝罪し、厚く礼遇して敬った。その後、官は上士に至った。高祖が丞相となると、心膂として委ねられた。禅譲を受けると、給事黄門侍郎に任じられ、魏城縣男に封ぜられ、しばしば機密を掌った。官に在ること十余年、益州總管司馬に転じ、太府卿に遷り、爵位を伯に進めた。数年後、官のまま卒した。子の政が嗣いだ。

政は字を弘道といい、倜儻として文武の大略があり、鐘律を善くし、弓馬に巧みであった。少くして宮中で養われ、十七歳で太子千牛備身となった。当時、京師の大侠劉居士は政の才気を重んじ、しばしば彼と交遊した。圓通の子の孝常は政と仲が良く、共に居士と交結した。居士が獄に下されて誅殺されると、政と孝常は連座すべきところであったが、上(文帝)は功臣の子であるとして、二百回打ち据えたが赦免した。これにより官職に補されることができなかった。煬帝の時、協律郎を授けられ、通事謁者、兵曹承務郎に遷った。帝はその才能を美とし、甚だ重んじた。宇文化及の乱の時、太常卿に任じられた。後に大唐に帰順し、梁州總管の任で卒した。

張定和

張定和は、字を處謐といい、京兆郡萬年県の人である。少くして貧賤であったが、志節があった。初め侍官となった。平陳の役に際会し、定和は従征すべきところであったが、自らを養う資がなかった。その妻に嫁入りの時の衣服があったので、定和はこれを売ろうとしたが、妻は惜しんで固く与えようとしなかった。定和はそこで遂に行った。功により儀同に任じられ、帛千匹を賜り、遂にその妻を棄てた。この後、数度にわたり軍功により上開府、驃騎將軍に加えられた。上柱國李充に従って突厥を撃った時、真っ先に登って敵陣を陥れ、虜が刺してその頸に当たったが、定和は草で創口を塞いで戦い、神気自若としており、虜は遂に敗走した。上(文帝)はこれを聞いて壮とし、使者を遣わして薬を齎し、馳せて定和の元に至り労問した。位を柱國に進め、武安縣侯に封ぜられ、賞賜の物二千段、良馬二匹、金百両を賜った。煬帝が位を嗣ぐと、宜州刺史に任じられ、まもなく河内太守に転じ、頗る恵まれた政績があった。一年余りして、左屯衛大將軍に召されて任じられた。帝に従って吐谷渾を征し、覆袁川に至った。時に吐谷渾の主は数騎で遁走し、その名王が渾主を詐称し、車我真山に拠った。帝は定和に命じて師を率いてこれを撃たせた。既に賊と遭遇すると、その兵が少ないのを軽んじ、呼びかけて降伏を命じたが、賊は降りようとしなかった。定和は甲冑を着けず、身を挺して山に登ったところ、賊の伏兵が岩谷の下におり、矢を放って彼を射て斃した。その副将の柳武建が賊を撃ち、悉く斬り殺した。帝は涙を流し、光祿大夫を追贈した。当時、旧爵は例によって除かれるところであったが、ここにおいて再び武安侯に封ぜられ、諡して壯武といった。絹千匹、米千石を追贈した。子の世立が嗣ぎ、まもなく光祿大夫に任じられた。

張奫

張奫は、字を文懿といい、自ら清河の人であると云い、淮陰に家を構えた。兵書を読むことを好み、特に刀と楯に巧みであった。周の時代、同郷の郭子翼が密かに陳の寇を引き入れた。奫の父の雙は子弟を率いてこれを撃とうとしたが、躊躇して決断できなかった。奫はその謀を賛成し、遂に賊を破り、これにより勇決をもって知られるようになった。州主簿として起家した。高祖が丞相となると、大都督を授けられ、郷兵を領した。賀若弼が壽春に鎮した時、常に間諜となり、平陳の役では、頗る功績があった。位を開府儀同三司に進め、文安縣子に封ぜられ、邑八百戸を賜り、物二千五百段、粟二千五百石を賜った。一年余りして、水軍を率いて京口で逆賊の笮子游を、和州で薛子建を破った。朝に徴されて入り、大將軍に任じられた。高祖は命じて御座に昇らせて宴し、奫に言った、「卿は朕が子となれ、朕は卿が父となろう。今日集まるは、外と為さざるを示すものなり」。その後、綺羅千匹、綠沈甲、獸文具裝を賜った。まもなく楊素に従って江表を征し、別に會稽で高智慧を、臨海で吳世華を破った。位を上大將軍に進め、奴婢六十口、縑彩三百匹を賜った。撫州、顯州、齊州の三州刺史を歴任し、皆能ある名があった。開皇十八年、行軍總管となり、漢王諒に従って遼東を征した。諸軍は多く病没したが、奫の軍衆だけは全うした。高祖はこれを善しとし、物二百五十段を賜った。仁壽年間、潭州總管に遷り、在職三年で卒した。子に孝廉がいた。

麥鐵杖

麦鉄杖は始興の人である。ぎょう勇にして膂力あり、一日に五百里を行き、走れば奔馬に及ぶ。性は疎誕にして酒を嗜み、交遊を好み、信義を重んじ、常に漁猟を事とし、産業を治めず。陳の太建年中、徒党を結び群盗となり、広州刺史欧陽頠がこれを捕らえて献上し、官戸に没し、御傘を執る役に配された。毎朝罷朝の後、百余里を行き、夜に南徐州に至り、城壁を越えて入り、火を放ち盗みを働く。朝に還り、時を違えずまた傘を執る。このようにすること十余度、物主がこれを識り、州が状を以て奏上す。朝士は鉄杖が毎朝常に在るを見て、これを信ぜず。後に数度変事を告げ、尚書蔡徴曰く、「これは験すべし」と。仗下の時に、百金を以て購い、詔書を南徐州刺史に送る人を求む。鉄杖出でて募に応じ、勅を齎して往き、翌朝に奏事に及ぶ。帝曰く、「信然たり、盗を為すこと明らかなり」と。その勇捷を惜しみ、誡めてこれを釈す。

陳滅亡の後、清流県に移り住む。江東の反乱に遇い、楊素は鉄杖に草束を頭に戴かせ、夜に浮き渡り江を渡り、賊中の消息を覗かせ、具に知りて還り報ぜしむ。後にまた更に往き、賊に擒えらる。逆帥李棱は兵仗三十人を遣わしてこれを衛し、縛して高智慧に送る。行きて慶亭に至り、衛者が憩い食す、その飢えを哀れみ、手を解きてその餐を与う。鉄杖は賊の刀を取り、乱れ斬り衛者を、これを殺し皆尽くし、悉くその鼻を割り、懐にして帰る。素は大いにこれを奇とす。後に戦勲を叙し、鉄杖に及ばず、素が駅を馳せて京師に帰るに遇い、鉄杖は歩いてこれを追い、毎夜は則ち同宿す。素見て悟り、特ちに奏して儀同三司を授く。書を識らざるを以て、郷里に放還す。成陽公李徹その驍武を称え、開皇十六年、京師に徴し至り、車騎將軍を除し、仍く楊素に従い北征して突厥を討ち、上開府を加う。煬帝即位し、漢王諒が并州に反す、また楊素に従いこれを撃ち、毎戦先登す。位を進めて柱国とす。尋いで萊州刺史を除すも、治名無し。後に転じて汝南太守となり、稍々法令に習い、群盗跡を屏う。後に朝集に因り、考功郎竇威これに嘲りて曰く、「麦は何の姓ぞ」と。鉄杖応口に対えて曰く、「麦豆殊ならず、何ぞ忽ち相い怪しまんや」と。威赧然として、以てこれに応ずる無し、時に人は以て敏慧と為す。尋いで右屯衛大將軍を除し、帝これを待つこと逾々密なり。

鉄杖自ら恩を受くること深重を以てし、常に命を竭くすの志を懐く。遼東の役に及び、前鋒を請う、医者呉景賢に顧みて謂いて曰く、「大丈夫の性命は自ら所在有り、豈に艾炷を以て頞を灸し、瓜蒂を以て鼻を噴き、黄を治めて差えずして、児女の手の中に臥して死せんや」と。将に遼を渡らんとし、その三子に謂いて曰く、「阿奴は浅色の黄衫を備うべし。吾は国恩を受け、今は死日なり。我既に殺さるれば、爾ら富貴なるべし。唯だ誠と孝と、爾ら其れこれを勉めよ」と。及び済わんとし、橋未だ成らず、東岸を去ること尚数丈、賊大いに至る。鉄杖跳びて岸に上り、賊と戦い、死す。武賁郎将銭士雄・孟金叉も亦これに死し、左右更に及ぶ者無し。帝この為に流涕し、その屍を得て購い、詔を下して曰く、「鉄杖志気驍果、夙に勳庸を著わし、麾に陪して罪を問い、先登して陣を陷れ、節高く義烈しく、身は殞ちて功は存す。言を興して至誠を追懐し傷悼す、宜しく殊栄を賚うべし。用て飾徳を彰す。贈るに光禄大夫・宿国公とすべし。諡して武烈と曰う」と。子孟才嗣ぐ。尋いで光禄大夫を授く。孟才に二弟有り、仲才・季才、俱に正議大夫を拝す。賵贈巨万、轀輬車を賜い、前後部羽葆鼓吹を給す。平壤道の敗将宇文述等百余人は皆執紼を為し、王公已下は郊外に送る。士雄は左光禄大夫・右屯衛將軍・武強侯を贈り、諡して剛と曰う。子傑嗣ぐ。金叉は右光禄大夫を贈り、子善誼官を襲ぐ。

孟才は字を智棱といい、果烈にして父の風有り。帝は孟才を死節の将の子とし、恩賜殊に厚く、武賁郎将を拝す。江都の難に及び、慨然として復讐の志有り。武牙郎銭傑と素より交友し、二人相い謂いて曰く、「吾等は世に国恩を受け、門に誠節を著わす。今賊臣しいしいぎゃくし、社稷淪亡す。節を紀す可く無く、何の面目を以て世間に視息せんや」と。ここに於いて流涕扼腕し、遂に相い与に謀り、恩旧を糾合し、顕福宮に於いて宇文化及を邀撃せんと欲す。事発に臨み、陳籓の子謙その謀を知りてこれを告ぐ、その党沈光と俱に化及の害する所と為り、忠義の士これを哀しむ。

沈光

沈光は字を総持といい、呉興の人である。父君道は陳に仕えて吏部侍郎となり、陳滅びて後、長安ちょうあんに家す。皇太子勇は引きて学士に署す。後に漢王諒の府掾となり、諒敗れて、名を除かる。光は少より驍捷にして、戯馬を善くし、天下の最と為る。略々書記を綜べ、微かに詞藻有り、常に功名を立てんことを慕い、小節に拘わらず。家は甚だ貧窶にして、父兄並びに傭書を以て事と為す。光独り跅馳し、軽侠と交通し、京師の悪少年の朋附する所と為る。人多く贍遺し、以て親を養うことを得、毎に甘食美服を致し、未だ困匱せず。初め禅定寺を建つるに、その中の幡竿高さ十余丈、適た縄絶えるに遇い、人力の及ぶ所に非ず、諸僧これを患う。光見て僧に謂いて曰く、「縄を持ち来たるべし、当に相い為に上らん」と。諸僧驚喜し、因りて取りてこれに与う。光は口を以て索を銜え、竿を拍して上り、直ちに龍頭に至る。縄を繫ぎ畢り、手足皆放ち、空を透して下り、掌を以て地を拒ぎ、倒れ行くこと数十歩。観る者駭悦し、嗟異せざる莫く、時に人は号して「肉飛仙」とす。

大業年中、煬帝は天下の驍果の士を徴して遼左を伐たんとし、光これに預かる。同類数万人、皆その下に出づ。光将に行在所に詣らんとし、賓客灞上に送る者百余騎。光酒を酹ぎて誓いて曰く、「この行、若し功名を建立すること能わずんば、当に高麗に死し、復た諸君と相い見えざるべし」と。及び帝に従い遼東を攻むるに、沖梯を以て城を撃ち、竿長さ十五丈、光その端に升り、城に臨みて賊と戦い、短兵接し、十数人を殺す。賊競いこれを撃ちて墜つ、未だ地に及ばず、適た竿に垂絙有るに遇い、光これを受けて復た上る。帝望見し、壮異とし、馳せ召して語らしめ、大いに悦び、即日に朝請大夫を拝し、宝刀良馬を賜い、常に左右に致し、親顧漸く密なり。未だ幾ばくもせず、以て折衝郎将と為し、賞遇優重なり。帝は毎に食を推し衣を解きてこれを賜い、同輩比ぶる者莫し。

光は自ら深く恩を受けたことを自覚し、節を尽くさんと心に思う。江都の難に及んで、ひそかに義勇を結集し、帝の仇を討たんとす。先に帝は官奴を寵愛し、給使と称せしめしが、宇文化及は光の勇猛を以て、これを任用し、その統率を命じ、禁内に営せしむ。時に孟才・錢傑らはひそかに化及を図り、光に謂いて曰く、「我等は国の厚恩を受けながら、難に死して社稷を衛うこと能わず、これ古の人も恥ずるところなり。今また首を垂れて仇に仕え、その駆使を受け、面目を有ちて何を以て生きんや。吾必ずやこれを殺さんと欲す、死して恨みなし、公は義士なり、我に従わんか」と。光は涙を流して衿を濡らし、曰く、「これ将軍に望むところなり。僕は給使数百人を領し、皆先帝の恩遇を受けし者なり、今化及の内営に在り。これをもって仇を討たば、鷹鷂の鳥雀を逐うが如し。万世の功、この一挙に在り、願わくは将軍これを勉めよ」と。孟才は将軍となり、江淮の衆数千人を領し、営将発する時を期し、晨に起きて化及を襲わんとす。光の語は漏れ、陳謙その事を告ぐ。化及大いに懼れて曰く、「これ麦鉄杖の子なり、及び沈光は、並びに勇決にして当たるべからず、その鋒を避くべし」と。この夜すなわち腹心とともに営外に走出し、人を留めて司馬徳戡らに告げ、兵馬を領して孟才を逮捕せしむ。光は営内の喧声を聞き、事発するを知り、甲を被るに及ばず、すなわち化及の営を襲うも、空しく獲る所なし。舎人元敏に値い、その罪を数えて斬る。徳戡の兵の入るに遇い、四面より囲み合わさる。光大いに呼して囲みを潰し、給使は斉しく奮い、数十級を斬首し、賊皆披靡す。徳戡すなわちまた騎を遣わし、弓弩を持たせ、翼の如くにしてこれを射さしむ。光は身に介冑なく、遂に害せらる。麾下数百人皆闘いて死し、一人として降る者なし。時に年二十八。壮士これを聞き、そのために涙を落とさざる者なし。

来護児

来護児、字は崇善、江都の人なり。幼にして卓詭、奇節を立てんことを好む。初め『詩』を読み、「鼓を撃つこと其れ鏜たり、兵を用うるに踴躍す」、「羔裘豹飾、孔武有力」に至り、書を捨てて歎じて曰く、「大丈夫世に在りては当に此の如くあるべし。会に国を為に賊を滅ぼして功名を取り、安んぞ区区久しく隴畝に事えんや」と。群輩その言に驚きその志を壮とす。護児の住む白土村は、密かに江岸に邇し。時に江南尚お阻まれ、賀若弼の寿州に鎮するや、常に護児をして間諜たらしめ、大都督を授く。陳を平らげるの役、護児功有り、上開府に進む。楊素に従い高智慧を浙江に撃つに、賊は岸を拠りて営と為し、周亙百余里、船艦江に被り、鼓噪して進む。素は護児に数百の軽艓を率い江岸に径ち登り、直ちにその営を掩い破らしむ。時に賊は先に素と戦い勝たず、帰るに拠る所なく、ここに因りて潰散す。智慧は海に逃れんとし、護児泉州に追い至る。智慧窮蹙し、閩・越に遁走す。大將軍に進み、泉州刺史を除く。時に盛道延兵を擁して乱を為し、州境を侵擾す。護児進撃してこれを破る。また蒲山公李寛に従い汪文進を黟・歙に破り、柱國に進む。仁壽三年、瀛州刺史を除かれ、爵を黄縣公と賜い、邑三千戸。尋ねに上柱國を加えられ、右禦衛將軍を除かる。煬帝即位し、右驍衛大將軍に遷り、帝甚だ親重す。大業六年、駕に従い江都に至り、物千段を賜い、先人の塚に上り、父老を宴し、州裡これを栄とす。数年して、右翊衛大將軍に転ず。遼東の役、護児楼船を率い、滄海を指し、壩水より入り、平壤を去ること六十里、高麗と相遇う。進撃し大いにこれを破り、勝に乗じて直ちに城下に造り、その郛郭を破る。ここに於て軍を縦して大いに掠め、稍々部伍を失う。高元の弟建武敢死の士五百人を募り邀撃す。護児ここに因りて退き、海浦に屯営し、期会を待つ。後に宇文述らの敗を知り、すなわち師を班す。明年、また滄海道より出で、師を東萊に次す。会に楊玄感黎陽に逆を為し、鞏・洛に進逼す。護児兵を勒し宇文述らとともにこれを撃破す。栄國公に封ぜられ、邑二千戸。十年、また師を帥いて海を度り、卑奢城に至る。高麗挙国して来たり戦う。護児大いにこれを破り、千余級を斬首す。平壤に趣かんとす。高元震懼し、使いを遣わし叛臣斛斯政を執り、遼東城下に詣り、表を上り降を請う。帝これを許し、人を遣わし節を持たせ詔して護児に師を旋せしむ。護児衆を集めて曰く、「三度兵を出だすも、未だ賊を平げず、この還るや、重ねて来るべからず。今高麗困弊し、野に青草なく、我が衆を以て戦わば、日に克たざるはなし。吾は兵を進め、径ち平壤を囲み、その偽主を取り、捷を献じて帰らんと欲す」と。表を答えて行を請い、詔を奉ぜず。長史崔君肅固く争うも、許さず。護児曰く、「賊の勢破れたり、専ら相任せば、自ずからこれを弁ずるに足る。吾は閫外に在り、事は専決に合う、豈に千里を容れて成規を稟聴せんや。俄頃の間、動もすれば機会を失い、労して功無き、故にその宜しきなり。吾は寧ろ高元を征得し、還りて譴責を得んも、この成功を捨つるは、能わざる所なり」と。君肅衆に告げて曰く、「若し元帥に従い、詔書に違拒せば、必ず聞奏せられ、皆罪を得ん」と。諸将懼れ、尽く還るを勧め、方に詔を奉ず。十三年、左翊衛大將軍に転じ、開府儀同三司に進み、任委ますます密にして、前後の賞賜数うるに勝えず。江都の難、宇文化及忌みてこれを害す。

長子楷は、父の軍功により散騎郎・朝散大夫を授かる。楷の弟弘は、果毅郎将・金紫光禄大夫に至る。弘の弟整は、武賁郎将・右光禄大夫なり。整は特に驍勇にして、士衆を撫するに善く、群盗を討撃し、向かう所皆捷す。諸賊甚だこれを憚り、歌を作りて曰く、「長白山頭百戦場、十十五五長槍を把り、官軍十万衆を畏れず、只だ栄公第六郎を畏る」と。化及の反に、皆害せらる。唯だ少子恆・濟のみ免る。

魚倶羅

魚倶羅は、馮翊下邽の人なり。身長八尺、膂力人に絶え、声気雄壮、言数百歩に聞こゆ。弱冠にして親衛となり、累遷して大都督に至る。晉王広に従い陳を平げ、功により開府を拝し、物一千五百段を賜う。未だ幾ばくもせず、沈玄懀・高智慧ら江南に乱を為す。楊素は倶羅の壮勇を以て、同行を請う。戦う毎に功有り、上開府・高唐縣公を加えられ、疊州総管を拝す。母憂により職を去る。扶風に還り至るに、会に楊素兵を率いて霊州道より出で突厥を撃たんとし、路に倶羅に逢い、大いに悦び、遂に奏して同行せしむ。賊に遇うや、倶羅数騎を以て奔撃し、目を瞋らし大いに呼し、当たる所皆披靡し、左に出で右に入り、往復飛ぶが若し。功により柱國に進み、豊州総管を拝す。初め、突厥数えずして境に入り寇と為す。倶羅すなわちこれを擒斬す。ここより突厥畏懼して跡を屏ぎ、塞上に畜牧することを敢えず。

初め、煬帝が藩王であった時、魚俱羅の弟の魚賛は左右に従い、累進して大都督となった。帝が位を継ぐと、車騎将軍に任じられた。魚賛は性質凶暴で、部下を虐待し、左右に肉を焼かせ、意に適わないと、串でその眼を刺し潰した。温めた酒が適切でない者があれば、直ちにその舌を断った。帝は魚賛が藩邸以来の旧臣であることを思い、誅するに忍びず、近臣に謂って曰く、「弟が既にこのようであるならば、兄も知るべし」と。そこで魚俱羅を召し出して譴責し、魚賛を獄から出して、自ら計らわせた。魚賛は家に至り、薬を飲んで死んだ。帝は魚俱羅が自ら安んじず、辺境の患いを生ずることを慮り、安州刺史に転任させた。一年余りして、趙郡太守に遷った。後に朝集のため、東都に至り、将軍梁伯隠と旧知があり、数度往来した。また郡から多くの雑物を持ち出して貢献しようとしたが、帝は受けず、そこで権貴に贈った。御史が魚俱羅が郡将として内臣と交通したことを弾劾すると、帝は大いに怒り、梁伯隠と共に除名の罪に坐した。

未だ幾ばくもせず、越巂の飛山蛮が乱を起こし、郡境を侵掠した。詔して魚俱羅に白衣のまま将を領させ、併せてしょく郡都尉段鐘葵を率いてこれを討平させた。大業九年、再び高麗を征し、魚俱羅を碣石道軍将とした。還ると、江南で劉元進が乱を起こしたので、詔して魚俱羅に兵を将いて会稽諸郡に向かい、これを逐捕させた。当時、百姓は乱を思い、盗賊に従うこと市の如く、魚俱羅は賊帥朱燮・管崇等を撃ち、戦うこと捷たざるはなかった。然れども賊の勢いは次第に盛んとなり、敗れてはまた集まった。魚俱羅は賊が歳月を以て平らげられるものにあらずと度り、諸子は皆京・洛におり、また天下が次第に乱れるを見て、終には道路が隔絶することを恐れた。当時、東都は饑饉にあり、穀物の価格が高騰していたので、魚俱羅は家僕に船で米を東都に運ばせて売り、益々財貨を買い求め、密かに諸子を迎えようとした。朝廷は微かにこれを知り、異志あることを恐れ、使者を発して案検させた。使者が至り、前後察問したが、その罪を得なかった。帝はまた大理司直梁敬真に命じて鎖し、東都に詣でさせた。魚俱羅の相貌は人に異なり、目に重瞳があったので、陰に帝の忌むところとなった。梁敬真は旨に迎合し、魚俱羅が師徒敗衄したと奏上した。そこで東都市で斬り、家口は籍没した。

陳棱

陳棱、字は長威、廬江郡襄安県の人である。祖父の陳碩は、漁釣を以て自ら生計を立てた。父の陳峴は、少より驍勇で、章大寶に事えて帳内部曲となった。章大寶の反逆を告げ、譙州刺史を授けられた。陳が滅びると、家に廢された。高智慧・汪文進等が江南で乱を起こすと、廬江の豪傑もまた兵を挙げて相応じ、陳峴が旧将であることを以て、共に推して主とした。陳峴はこれを拒絶しようとしたが、陳棱が陳峴に謂って曰く、「衆乱既に起こり、これを拒げば禍い将に己に及ばん。偽りて従うに如かず、別に後の計を為すべし」と。陳峴はこれを然りとした。時に柱国李徹の軍が当塗に至り、陳峴は密かに陳棱を李徹の所に使わし、内応を請わせた。李徹はその事を上奏し、上大将軍・宣州刺史に任じ、譙郡公に封じ、邑一千戸を賜り、詔して李徹に応接させた。李徹の軍が未だ至らぬうちに、謀が洩れ、その党の者に殺され、陳棱は僅かに免れるを得た。上(文帝)はその父の故を以て、開府に任じ、間もなく郷兵を領した。煬帝が即位すると、驃騎将軍を授けられた。大業三年、武賁郎将に任じられた。後三年、朝請大夫張鎮周と共に東陽の兵一万余人を発し、義安より海を渡り、流求国を撃ち、一月余りにして至った。流求人は初め船艦を見て、商旅と思い、往々軍中に詣でて貿易した。陳棱は衆を率いて岸に登り、張鎮周を先鋒として遣わした。その主の歓斯渴剌兜が兵を遣わして拒戦したが、張鎮周は頻りにこれを撃破した。陳棱は進んで低没檀洞に至り、その小王歓斯老模が兵を率いて拒戦したので、陳棱はこれを撃破し、老模を斬った。その日は霧雨晦冥し、将士皆懼れたので、陳棱は白馬を刑して海神を祭った。既にして晴れ渡り、五軍に分かれて、その都邑に向かった。渴剌兜は衆数千を率いて逆に拒んだが、陳棱は張鎮周を遣わしてまた先鋒としてこれを撃走させた。陳棱は勝に乗じて北に逐い、その柵に至ると、渴剌兜は柵を背にして陣した。陳棱は鋭を尽くしてこれを撃ち、辰より未に至るまで、苦闘して止まなかった。渴剌兜は自ら軍疲れたりとして、柵に引き入れた。陳棱は遂に塹を埋め、その柵を攻め破り、渴剌兜を斬り、その子の島槌を獲、男女数千を虜にして帰還した。帝は大いに悦び、陳棱の位を右光禄大夫に進め、武賁は元の如く、張鎮周を金紫光禄大夫とした。遼東の役には、宿衛の功により左光禄大夫に遷った。明年、帝は再び遼東を征し、陳棱は東萊留守となった。楊玄感の乱が起こると、陳棱は衆一万余人を率いて黎陽を撃平し、楊玄感の任命した刺史元務本を斬った。陳棱は間もなく詔を奉じて江南に戦艦を営んだ。彭城に至ると、賊帥孟讓が衆十万を将いて都梁宮を占拠し、淮を阻んで固めていた。陳棱は密かに下流より渡り、江都に至り、兵を率いて孟讓を襲い、これを破った。功により光禄大夫に進位し、信安侯の爵を賜った。後に帝が江都宮に幸すると、俄かに李子通が海陵を占拠し、左才相が淮北を掠め、杜伏威が六合に屯し、衆各数万であった。帝は陳棱に宿衛兵を率いてこれを撃たせ、往々にして克捷した。超拜して右禦衛将軍となった。再び清江を渡り、宣城の賊を撃った。俄かに帝は弑逆に崩じ、宇文化及が軍を率いて北上し、陳棱を召して江都を守らせた。陳棱は衆を集めて縞素を着け、煬帝のために発喪し、儀衛を備え、吳公台下に改葬し、衰杖して喪を送り、慟哭して行路の人を感動させ、論ずる者は深くその義を称した。陳棱は後に李子通に陥れられ、杜伏威に奔ったが、杜伏威はこれを忌み、間もなく害された。

王辯

王辯、字は警略、馮翊郡ひょうよくぐん蒲城県の人である。祖父の王訓は、行商を以て富を致した。魏の世、粟を出して軍糧の補給を助け、仮の清河太守となった。王辯は少より兵書を習い、特に騎射に優れ、慷慨として大志を有した。周において軍功により帥都督を授けられた。開皇初年、大都督に遷った。仁寿年中、車騎将軍に遷った。漢王諒の乱が起こると、楊素に従ってこれを討平し、武寧県男の爵を賜り、邑三百戸を賜った。後三年、尚舎奉御に遷った。吐谷渾征伐に従い、朝請大夫に任じられた。数年して、鷹揚郎将に転じた。遼東の役には、功により通議大夫を加えられ、間もなく武賁郎将に遷った。山東に盗賊が起こると、上谷の魏刀兒は自ら歴山飛と号し、衆十余万、燕・趙を劫掠した。帝は王辯を御榻に昇らせ、方略を問うた。王辯は賊を取る形勢を論じ、帝は善しと称え、「誠にこの計の如くならば、賊何ぞ憂うるに足らんや」と曰わった。ここに従行の歩騎三千を発してこれを撃破し、黄金二百両を賜った。明年、渤海の賊帥高士達は自ら東海公と号し、衆は万を以て数えた。再び王辯にこれを撃たせ、屡々その鋭気を挫いた。帝が江都宮におられた時、これを聞き馳せて召された。引見されると、礼賜甚だ厚く、再び信都に往きて経略させた。高士達はここに再び戦い、これを破り、優詔を以て褒顕された。時に賊帥郝孝徳・孫宣雅・時季康・竇建徳・魏刀兒等が、往々屯聚し、大は十万、小は数千、河北を寇掠した。王辯は進兵してこれを撃ち、往く所皆捷し、深く群賊に憚られた。翟譲が徐・を寇すと、王辯は進み、頻りにこれを撃走した。翟譲は間もなく李密と共に洛口倉に屯拠し、王辯は王世充と共に李密を討ち、洛水を阻んで相持すること一年に及んだ。王辯は諸将を率いて李密を攻め破り、その営に迫り、外柵を戦い破った。李密の諸営には既に潰れる者があり、勝に乗じて将に城に入らんとしたが、王世充は知らず、将士の労倦を恐れ、ここに角を鳴らして兵を収めたため、翻って李密の徒に乗ぜられた。官軍は大いに潰れ、救い止めることができなかった。王辯は洛水に至ると、橋は既に壊れ、渡ることができず、遂に水を渉り、中流に至り、溺れた人に引かれて馬から墜ちた。王辯は時に身に重甲を着け、敗兵前後相蹈藉し、再び馬に上ることができず、遂に溺死した。時に五十六歳。三軍痛惜せざるはなかった。

斛斯萬善

河南の斛斯萬善は、驍勇にして果毅、王辯と齊名す。大業年中、衛玄に從ひ楊玄感を討ち、頻りに戰ひて功有り。玄感の敗走するに及び、萬善數騎を以て追ひ之に及ぶ。玄感窘迫して自殺す。是より名を知られ、武賁郎將に拜せらる。突厥の始畢、雁門を圍むや、萬善奮擊して之を破る。賊至る毎に、輒ち出でて其鋒に當たり、或は馬を下り地に坐し、強弓を引いて賊を射る。中つ所皆殪ぶ。是より突厥敢へて城を逼ること莫く、十許日にして竟に退く。萬善の力なり。其後頻りに群盜を討ち、功を累ねて將軍に至る。時に將軍鹿願、范貴、馮孝慈有り、俱に將帥と爲り、數たび征討に從ひ、並びに世に名有り。然れども事皆亡失す、故に史官述ぶる所無し。

史臣曰く、楚漢未だ分たざる時、絳灌の力宣ぶ所以なり。曹劉競逐するに、關張の名立つ所以なり。然らば則ち名立つは草昧の初に資り、力宣ぶは經輪の會に候ふ。鱗翼に攀附すること、世に之れ有り。圓通、護兒の輩、定和、鐵杖の倫、皆一時の壯士、貧賤に困す。其の鬱抑未だ遇はざるに當たり、亦安んぞ其の鴻鵠の志有るを知らんや。終に能く污泥の中より振拔し、風雲の上に騰躍し、馬革の願に符し、生平の心を快くす。其の時に遇はざれば、焉くんぞ此に至らんや。俱羅の罪を加へんと欲するは、其の咎畔に非ず。王辯勍敵に殞身し、志實に勤王に在り。陳棱縞素を以て發喪し、哀行路を感ず。義の動かす所、固より已に深きかな。孟才、錢傑、沈光等、恩を感じ舊を懷ひ、難に臨みて生を忘る。功成ること無きと雖も、其の志稱す可き有り。