隋書

巻六十三列傳第二十八 樊子蓋 史祥 元壽 楊義臣 えい玄 劉權

樊子蓋

樊子蓋、字は華宗、廬江の人である。祖父の道則は、梁の越州刺史であった。父の儒は、侯景の乱の際に斉に奔り、官は仁州刺史に至った。子蓋は初めて武興王行参軍に任じられ、出て慎県令となり、東汝・北陳の二郡太守、員外散騎常侍さんきじょうじを歴任し、富陽県侯に封ぜられ、邑五百戸を賜った。周の武帝が斉を平定すると、儀同三司を授かり、郢州刺史を治めた。高祖こうそ(文帝)が禅を受けると、儀同のまま郷兵を領し、後に樅陽太守に任ぜられた。陳平定の役において、功により上開府を加えられ、上蔡県伯に改封され、食邑七百戸を賜り、物三千段、粟九千斛を賜った。辰州刺史に拝され、まもなく嵩州刺史に転じた。母の喪により職を去った。間もなく、起用されて斉州刺史に任ぜられたが、固く辞譲したが、許されなかった。その年、循州総管に転じ、便宜を以て事を行うことを許された。十八年、朝廷に入り、嶺南の地図を奏上し、良馬や雑物を賜り、四州を統べることを加えられ、任所に還ることを命じられ、光禄少卿柳謇之が上で餞別した。

煬帝が即位すると、京師に召還され、涼州刺史に転じた。子蓋は帝に言上して曰く、「臣は一旦嶺表に居り、十年ここに至ります。犬馬の情、恋々たるに勝えません。闕庭に趨走し、万死も恨みなしと願います」と。帝は物三百段を賜り、慰諭してこれを遣わし、銀青光禄大夫・武威太守を授け、善政をもって聞こえた。大業三年、朝廷に入り、帝は内殿に引き入れ、特に褒美を蒙った。そこで詔を下して曰く、「官を設ける道は、必ず賢を用いるにあり、人を安んずる術は、善政に如くはない。龔遂・汲黯は前に徳化を振るい、張敞・杜詩は後に清風を垂れた。天下を共に治めるには、実に良き太守に資る。子蓋は幹局通敏にして、操履清潔、西服に剖符してより、愛恵を先とし、撫道に方あり、寛猛その所を得たり。脂膏に処りてその質を潤さず、貪泉を酌んでもその性を変えず、故に能く治績克く彰れ、課最の首となる。凡そその位に在る者は、王臣ならざるは莫し、若し能く人思いて職を奉じ、各々その効を展ばせば、朕は冕旒を垂れて拱手し、何ぞ治まらざるを憂えんや」と。ここにおいて位を進めて金紫光禄大夫とし、物千段を賜り、太守はもとの如くとした。五年、車駕西巡し、吐谷渾に入らんとした。子蓋は彼の地に瘴気多しとして、青木香を献じて霧露を防がせた。帝が還った時、これに謂って曰く、「人の公の清きを言う、定めてかくの如きか」と。子蓋は謝して曰く、「臣安んぞ清きを言えんや、ただ小心にして賄を受けざるのみです」と。これにより口味百余斛を賜り、また詔を下して曰く、「徳を導き礼を斉うるは、実に共治にあり、悪を懲らし善を勧むるは、黜陟を明らかにするに用いる。朕親しく河右を巡り、人風を観省し、歴る郡県に、治績を訪采するに、法度を遵うこと稀にして、多く刑網を蹈む。然るに金紫光禄大夫・武威太守樊子蓋は、操を執ること清潔、涅に処りて変ぜず、身を立つること雅正、人に臨むこと簡を以てす。威恵兼ね挙げ、寛猛相資け、故に能く畏れてこれを愛し、厳しくせずして治まる。実に人を字(養)うの盛績、国を有つの良臣なり。褒顕を加え、以て奨励を弘むべし。右光禄大夫とすべし、太守はもとの如く」と。縑千匹、粟麦二千斛を賜った。子蓋はまた自ら陳して曰く、「臣は南裔より、即ち西垂に適き、常に外臣たり、未だ内職に居らず。属車に陪し、丹陛に奉ずることを得ず、溘然として辺城に死し、没して遺恨あり。惟うに陛下これを察せられんことを」と。帝曰く、「公朕に侍るは則ち一人のみ、西方に委ぬれば則ち万人の敵なり。宜しくこの心を識るべし」と。六年、帝は隴川宮に避暑し、また河西に幸せんと欲すと云う。子蓋は鑾輿を傾けて望み、郡境を巡幸せんことを願った。帝これを知り、詔を下して曰く、「卿夙に恭順を懐き、誠心を深く執る。朕の西巡を聞き、欣然として幸を望む。丹款の至り、甚だ嘉すべし。宜しくこの純誠を保ち、克くその美を終うべし」と。この歳、江都宮に朝し、帝はこれに謂って曰く、「富貴にして故郷に還らざれば、真に衣繡して夜行うが如し」と。廬江郡に三千人の会を設けさせ、米麦六千石を賜り、墳墓を謁せしめ、故老を宴した。当時これを栄とした。還って民部尚書に任ぜられた。時に処羅可汗及び高昌王が塞にしたいだので、また子蓋を武威太守に検校させ、二蕃に応接させた。

遼東の役において、左武衛将軍を征摂し、長岑道より出た。後に宿衛のため行かなかった。進めて左光禄大夫を授けられ、尚書はもとの如くであった。その年、帝は東都に還り、子蓋を涿郡留守とした。九年、車駕また遼東に幸し、子蓋を東都留守と命じた。楊玄感の叛逆に属し、王城に逼るに来た。子蓋は河南賛治裴弘策を遣わしてこれを逆撃させたが、返って敗れ、遂に弘策を斬ってみせしめとした。国子祭酒楊汪が少し不恭あり、子蓋はまたこれを斬らんとした。汪は拝謝し、頓首して血を流し、久しくして乃ち釈放した。ここにおいて三軍戦慄せざるはなく、将吏仰ぎ視ることを敢えてする者なし。玄感は毎に鋭を尽くして城を攻めたが、子蓋は徐に設備して防禦し、至るごとに摧破したので、故に久しく克つことができなかった。来護児等の救い至るに会い、玄感は解いて去った。子蓋が凡そ誅殺した者は数万人に及んだ。

また河南内史を検校した。車駕が高陽に至り、行在所に追って詣でた。既に引見され、帝は逆にこれを労って曰く、「昔、高祖は蕭何しょうかを関西に留め、光武は寇恂を河内に委ねた。公その人なり」と。子蓋は謝して曰く、「臣は任重くして器小さく、寧ろか両賢に窃み譬えんや。ただ陛下の威霊を以てすれば、小盗は除くに足らざるのみです」と。位を進めて光禄大夫とし、建安侯に封ぜられ、尚書はもとの如くであった。縑三千匹、女楽五十人を賜った。子蓋は固く辞譲したが、優詔して許さなかった。帝は顧みて子蓋に謂って曰く、「朕は越王を遣わして東都を留守せしめ、皇枝磐石なることを示す。社稷の大事は、終に公に委ぬ。特宜しく持重し、戈甲五百人にして後に出よ。これもまた勇夫重閉の義なり。頼むべからず不軌なる者は、便ち誅鋤せよ。凡そ施行すべきは、形跡を労するなかれ。今、公のために別に玉麟符を造り、以て銅獣に代えん」と。また越王・代王の二王を指して曰く、「今、二孫を公と衛文升とに委ぬ。宜しく貞良宿徳にして方幅ある者を選び教習せしめよ。動静の節、宜しくその可なるを思うべし」と。ここにおいて良田・甲第を賜った。十年冬、車駕は東都に還り、帝は子蓋に謂って曰く、「玄感の反逆は、神明故に公の赤心を彰すなり。珪を析ち爵を進むるに、宜しく令謨有るべし」と。この日詔を下し、爵を進めて済公とし、その功天下を済うと云い、特為に名を立て、この郡国は無しとした。縑三千匹、奴婢二十口を賜った。後に蘇威・宇文述と共に積翠亭に陪宴し、帝は親しく金杯を以て子蓋に酒を属けて曰く、「良算嘉謀、公の後の動きを俟つ。即ちこの杯を以て公に賜い、用いて永年の瑞と為せ」と。併せて綺羅百匹を賜った。

十一年、帝の行幸に従い汾陽宮に至る。雁門に至り、車駕が突厥に包囲され、頻りに戦うも利あらず。帝は精騎を率いて包囲を突破せんと欲す。子蓋諫めて曰く、「陛下は万乗の主なり、軽々しく脱出すべきにあらず。一朝狼狽せば、後悔追うべからず。城を守りてその鋭気を挫くに如かず。四方に兵を徴すれば、立ち待つべし。陛下また何をか慮る所あらん、自ら突囲せんと欲するや」と。因りて涙を垂れ、「願わくは遼東の役を暫く停め、以て衆望を慰めよ。聖躬自ら出でて慰撫し、厚く勲格を設けば、人心自ら奮い、憂うるに足らず」と。帝これに従う。その後援兵稍々至り、虜乃ち退去す。納言蘇威、勲格の太重なるを追論し、斟酌すべきを説く。子蓋執奏して信を失うべからざるを論ず。帝曰く、「公は物情を収めんと欲するか」と。子蓋黙然として敢えて対えず。行幸に従い東都に還る。時に絳郡の賊敬槃陀・柴保昌ら兵数万を阻み、汾・晋の民これを苦しむ。詔して子蓋に進討を命ず。当時人物殷阜なりしも、子蓋は善悪を分別せず、汾水の北の村塢を尽く焼く。百姓大いに駭き、相率いて盗となる。帰首する者あれば、少長なく悉くこれを坑う。数万の衆を擁し、一年を経て賊を破ること能わず、詔ありて征還す。また兵を将いて宜陽の賊を撃たんとす。疾のため停まり、京第に卒す。時に年七十二。上久しく悲傷し、顧みて黄門侍郎裴矩に謂いて曰く、「子蓋臨終に何か語ありしや」と。矩対えて曰く、「子蓋病篤く、深く雁門の恥を恨みたり」と。帝聞きて嘆息し、百官をして弔問せしめ、縑三百匹、米五百斛を賜い、開府儀同三司を贈り、諡して景と曰う。会葬する者万余り。武威の民吏その死を聞き、嗟痛せざるはなく、碑を立てて徳を頌す。

子蓋は他に権略なく、軍に在りては持重し、未だ敗北を喫せず。民に臨みては明察にして、下も敢えて欺かず。然れども厳酷にして恩少なく、殺戮に果敢なり。臨終の日、断頭の鬼前後に重なり来たりて厲を為すを見たりという。

史祥

史祥、字は世休、朔方の人なり。父は甯、周の少司徒しと。祥は少にして文武の才幹あり、周に仕えて太子車右中士となり、爵を襲い武遂県公と為る。高祖践祚し、儀同に拝し、交州事を領し、爵を進めて陽城郡公と為る。祥は州に在りて頗る恵政あり。後数年、驃騎将軍に転ず。陳を伐つ役、宜陽公王世積に従い、舟師を以て九江道より出で、先鋒として陳人と合戦し、これを破り、進みて江州を抜く。上聞きて大いに悦び、詔を下して曰く、「朕は陳叔宝の世に僭逆を為し、生民を挻虐するを以て、故に諸軍を命じ、彼の塗炭を救わんとす。小寇狼狽し、顧みて江湖の険を恃み、遂に敢えて舟楫を泛べて王師に抗せんと擬す。公親しく率いる所の部を以て、機に応じ奮撃し、沈溺俘獲す。その功甚だ茂し。また旅を帥いて江州を進取せしを聞く。行軍総管・襄邑公賀若弼は既に京口を獲、新義公韓擒は尋いで姑熟を克つ。驃騎既に江岸を渡り、所在に横行す。晋王の兵馬即ち建業に入り、呉・越を清蕩するは旦夕にて遠からず。驃騎の高才壮志は、朕の知る所なり。善く経略を為し、以て大賞を取り、富貴功名を竹帛に永く垂れしめよ」と。位を進めて上開府と為す。尋いで蘄州総管に拝し、未だ幾ばくもせず、征されて左領左右将軍に拝す。後に行軍総管として晋王広に従い霊武にて突厥を撃ち、これを破る。右衛将軍に遷る。

仁寿年中、兵を率いて弘化に屯し以て胡に備う。煬帝時に東宮に在り、祥に書を遺して曰く、

将軍は戎を総べ塞表に在り、胡虜の塵を清め、馬に秣し兵を休め、猶校猟に事ふ。足りて李広に勇を慚じめ、魏尚に能を愧じしむ。かの二賢に冠たり、独り吾が子に在り。昔余濫りに挙げられ、轂を推して兵を治め、皇霊を塞外に振るい、犬羊を大漠に駆る。時に同行の軍旅、戎旃に契闊し、龍城を望みて衝冠し、狼居を眄みて発憤す。将軍の英図は世に並ぶなく、猛気は前に敵無し。但だ物心に遂わず、俛して事に従う。一たび此れを思う毎に、我が労如何。将軍の宿心素志は、早く膠漆の如く、久しくして之を敬い、方に魚水を成す。近頃鑾駕に陪随し、言わば上京に旋る。本即ち職を述べて南蕃に在り、条を宣べて下国す。悟らざるに皇鑒曲く発し、少陽に位を備う。戦戦兢兢として、氷穀に臨むが如し。節を建てて辺境に在り、四方を征伐し、帷を褰きて牧と作り、百姓を綏撫し、上は成規を稟り、下は臣節を尽くすは、是れ願う所なり、是れ甘心する所なり。前修を仰慕し、庶幾くは自ら効わんことを得ん。謬りて其の神器を守るに入り、元良として万国に在り。身軽くして重きを負う、何を以てか克く堪えん!望む所は故人、其の逮わざるを匡さんことを。比来監国多暇、疾を養い閑宮に在り、北閣の端居を厭い、南皮の馳射を罷む。博望の苑は既に名賢乏しく、飛蓋の園は理に終宴に乖る。親朋遠く、琴書寂然たり。吾が賢を想望すれば、疹として疾首の如し。

祥答書して曰く、

行人止まり、賜わりし所の況を奉る。恩紀綢繆として、文墨に形わる。飛雪増氷の地に、忽ち三陽を載せ、毳幙韋韝の郷に、俄に九奏を聞くを悟らず。精駭き思越え、啓処を知る莫し。祥は少くして軍旅を学ばず、長じて升平に遇う。幸いに先人の緒余を以て、職を備えて宿衛す。駑蹇にして致遠の用無きを懼れ、朽薄にして折衝の材に非ざるを恐る。豈に古人を追跡し、其の優劣を語らんと欲せんや。曩に王師薄伐し、天人脤を受け、漠を絶ち旌を揚げ、威海外に震う。当の此の時、猛将雲の如く、謀夫雨の如し。祥の如き者は、卒伍に列し、指蹤の規を預て聞き、逗遛の責を免るるを得、涯を循り分を揣み、実に幸甚たり。爰に情を以て雷・陳に喻え、事を劉・葛に方う。聖人の己を屈するを信じ、庸人の擬議に非ざるを知る。何となれば、川沢の大なるは汚潦の帰する所、松柏の高きは蔦蘿の托する所。微心眷眷たり、孟侯の知る所なり。抑々も惟うに、元良の徳を体し、重離の暉を煥わし、三善克く修まり、万邦以て正し。斯れ固より道は周誦に高く、契は商皓に葉う。豈に管蠡の能く窺測する所ならんや!伏して承るに監国多暇、徳を養い神を怡し、六経を咀嚼し、百氏に逍遙す。西園の愛客を追い、南皮の出遊を眷る。疇昔の恩、造次に忘れず。祥自ら式遏に忝くし、載し寒暑に罹る。身は辺隅に在り、情は魏闕に馳す。毎に清風夕に起り、朗月孤り照るに至れば、鳴葭の路を啓くを想い、後車に乗を托さんことを思う。塞表京華、山川悠遠、浮雲を瞻望し、伏して増すに潸結を以てす。

太子甚だ親しく之を遇う。

煬帝が即位すると、漢王諒が兵を起こして乱を起こし、その将綦良を滏口から派遣して黎陽を巡行させ、白馬津を塞ぎ、餘公理を太行から河内に下らせた。帝は祥を行軍総管とし、河陰に駐屯させたが、長らく渡河できなかった。祥は軍吏に言った、「餘公理は軽率で謀略がなく、才能はもとより称賛に足らず、また新たに志を得て、その兵衆を頼りにできると思っている。衆を恃む者は必ず驕る。かつ河北の人々は元より兵事に慣れておらず、いわゆる市人を擁して戦うようなものだ。私の考えでは、図るに足らぬ」。そこで軍中に攻撃の具を整えさせると、公理は間者を使ってこれを知り、果たして河陽内城に兵を屯させて祥に備えた。祥はそこで船を南岸に着け、公理は甲兵を集めてこれに当たった。祥は下流に精鋭を選んで潜かに渡河し、公理は衆を率いてこれを防いだ。祥が須水に至ると、両軍は相対し、公理はまだ陣を整えていないうちに、祥が攻撃を放ち、これを大いに破った。東へ向かい黎陽で綦良らを討った。良は陣を列ねて待ち構えたが、兵がまだ接する前に、良は軍を棄てて逃走した。そこでその衆は大いに潰え、祥は兵を放ってこれに乗じ、一万余人を殺した。上大將軍に進位し、縑彩七千段、女妓十人、良馬二十匹を賜った。太僕卿に転じた。帝はかつて祥に詩を賜って言った、「伯煚朝寄重く、夏侯親遇深し。貴耳唯だ古を聞き、賤目詎ぞ今を知らん、早く勁草の質を厓し、久しく背淮の心有り。逆を掃う黎山の外、旅を振るう河の陰。功已に王府に書され、情を留むる《太僕箴》」。祥は上表して辞謝したが、帝は手詔を下して言った、「昔歳公を労して河朔に罪を問う。賊は爾の日両関の路を塞ぎ、倉に拠り河を阻み、百姓脅従し、人亦衆し。公は誠を竭くし勇を奮い、一挙にして克定す。《詩》に云わざるや、'喪乱既に平らぎ、既に安く且つ寧し'と。英才大略に非ざれば、其れ孰か能く此れに与からんや!故に聊か懐く所を示すも、亦何ぞ謝せん」。

まもなく鴻臚卿に遷った。時に突厥の啓民可汗が朝請したので、帝は祥を派遣してこれを迎接させた。吐谷渾征伐に従い、祥は衆を率いて間道より出でて虜を撃ち、これを破り、男女千余口を俘虜とした。奴婢六十人、馬三百匹を賜った。左光禄大夫に進位し、左ぎょう衛將軍に拝された。遼東の役に及んで、蹋頓道より出でたが、利あらずして還った。これにより除名されて民とされた。やがて燕郡太守に拝され、賊高開道に包囲されたが、祥は病と称して政務を視なかった。城が陥落すると、開道は甚だ礼を以て遇した。開道が羅藝と通和するに及び、祥を涿郡に送ったが、途中で卒した。

子に義隆あり、永年令となった。祥の兄雲は字を世高とし、弟威は字を世儀といい、ともに幹局有り。雲は官は萊州刺史・武平縣公に至り、威は官は武賁郎将・武當縣公に至った。

元壽

元壽は、字を長壽といい、河南洛陽らくようの人である。祖父の敦は、魏の侍中・邵陵王であった。父の寶は、周の涼州刺史であった。壽は幼くして孤となり、性質は仁孝で、九歳で父を喪い、哀毀して骨立し、宗族郷党みなこれを異とした。母に事えて孝をもって聞こえた。成長して後は、方直で、経史に頗る渉った。周の武成初年、隆城縣侯に封ぜられ、邑千戸を賜り、保定四年、儀隴縣侯に改封され、儀同三司を授けられた。開皇初年、陳を伐つことを議し、壽に思理有りとして、淮浦に使いを奉じて船艦を監修させ、強済をもって称された。四年、漕渠の役を督することを参じ、尚書主爵侍郎を授けられた。八年、晉王に従って陳を伐ち、行台左丞を除かれ、兼ねて元帥府の属を領した。陳が平定されると、尚書左丞に拝された。高祖がかつて苑を出て射を観た時、文武並びに従った。開府蕭摩訶の妻が病みて死なんとし、子を江南に遣わしてその家産を収めさせたいと奏請したが、御史はこれを見て言わなかった。壽はこれを奏劾して言った、

臣は聞く、天道は言わずして功は四序に成り、聖皇は垂拱して任は百司に在りと。御史の官は、義は糾察に存し、直縄挙げられずんば、憲典誰にか寄せん。今月五日、鑾輿徙蹕し、親しく射苑に臨まれた。開府儀同三司蕭摩訶は幸いに朝行に廁し、盛礼を預観し、奏称して子の世略を暫く江南に遣わし重ねて家産を収めさせんことを請う。妻の安は患いに遇い、弥留すること日に幾ばくか有り、安もし長逝せば、世略はこの行いに合わず。窃かに人倫の義は、伉儷を重しとし、資愛の道は、烏鳥も虧かず。摩訶は遠く資財を念い、近く匹好を忘れ、又その子に命じて危惙の母を捨て、聚斂の行いを為さしむ。一言才に発して、名教頓に尽きん。而して兼ねて殿内侍御史臣韓微之らは、親しく聞見する所にして、竟に弾糾せず。もし非を知りて挙げざれば、事は阿縦に渉り、もし以て非とせざれば、豈に理識に関らんや。謹んで按ずるに、儀同三司・太子左庶子・検校治書侍御史臣劉行本は、宮省に出入りし、備く任遇を蒙り、憲台の職を摂め、時月稍久しく、庶幾くは纓冕を整肅し、風教を澄清せん。而るに法司に在りて、憲体を虧失し、瓶罄れば罍恥ず、何くにか愆を逃れん。臣は謬ち朝寄に膺り、忝くも左轄に居り、容れずして寝黙すべからず、謹んで状を以て聞す。その行本・微之らは、請うらくは大理に付せん。

上はこれを嘉納した。まもなく太常少卿を授けられた。数年後、基州刺史に拝され、在任中は公廉の称有り。入朝して太府少卿となった。開府に進位した。煬帝が嗣位すると、漢王諒が兵を挙げて反し、左僕射楊素が行軍元帥となり、壽は長史となった。壽は賊に遇う毎に士卒に先立ち、功により大將軍を授けられ、太府卿に遷った。四年、内史令に拝され、帝に従って西へ吐谷渾を討った。壽は衆を率いて金山に屯し、東西三百余里に連営して、渾の主を囲んだ。還ると、右光禄大夫に拝された。七年、左翊衛將軍を兼ね、遼東征伐に従い、涿郡に行き至り、疾に遇って卒した。時に年六十三。帝は悼惜し、これを哭すること甚だ慟した。尚書右僕射・光禄大夫を贈られ、諡して景といった。

子の敏は、頗る才弁有りとしたが、軽険で詐り多し。壽の卒した後、帝はこれを追思し、敏を抜擢して守内史舍人としたが、博徒と交通し、数度省中の語を漏泄した。化及の反するに及び、敏はその謀を創め、偽って内史侍郎を授けられ、沈光に殺された。

楊義臣

楊義臣は代の人であり、本来の姓は尉遅氏である。父の崇は周に仕えて儀同大将軍となり、兵を率いて恒山を鎮守した。当時、高祖(文帝)は定州総管であったが、崇は高祖の相貌が並々ならぬことを知り、常に自ら結び付きを求め、高祖もまた大いに親しく遇した。高祖が丞相となると、尉遅迥が乱を起こし、崇は宗族の縁故により、自ら獄に囚われ、使者を遣わして罪を請うた。高祖は書を下して慰諭し、直ちに駅伝を馳せて朝廷に入ることを命じ、常に左右に置いた。開皇の初め、秦興県公に封ぜられた。一年余り後、行軍総管達奚長儒に従って周盤において突厥を撃ち、力戦して死んだ。大将軍・州刺史を追贈され、義臣が崇の官爵を継承した。当時、義臣はまだ幼く、宮中で養育され、弱冠に至らぬ年齢で、詔により千牛の如く数年宿衛に奉じ、賞賜は甚だ厚かった。上(文帝)はかつてゆったりと旧恩について語り、義臣を顧みて久しく嘆息し、そこで詔を下して言った、「朕が天命を受けた初め、群凶は未だ定まらず、明識の士には、懐かしむべき者があった。尉遅義臣と尉遅迥は、本来骨肉の間柄であるが、既に狂悖として鄴城ぎょうじょうで乱を起こした。その父崇は当時常山におり、兵甲を司り、迥と隣接し、また至親であったが、逆順の理を知り、天人の意を識り、直ちに丹誠を陳べ、悪徒に染まることを慮り、自ら有司に執われ、相府に帰ることを請うた。また北夷が内侵した時には、横戈して敵を制し、軽生重義、馬革に言い旋る。操は存亡を表し、事は幽顕に貫き、たとえ高官大賞を以て世に及ぼすも、松筠の志を表し、節義の門を彰かすに足りない。義臣に楊氏の姓を賜い、銭三万貫、酒三十斛、米麦各百斛を賜い、属籍に編入し、皇従孫とせよ。」間もなく、陝州刺史に任ぜられた。義臣は性質謹厚で、騎射に長け、将領の才があり、これにより上は大いに重んじた。その後、突厥の達頭可汗が塞を犯すと、行軍総管として歩騎三万を率いて白道より出撃し、賊と遭遇し、戦って大破した。翌年、突厥がまた辺境を寇すと、雁門・馬邑は多くその患いを受けた。義臣がこれを撃つと、虜は塞外に出て、これに追撃し、大斤山に至り、虜と遭遇した。当時、太平公史万歳の軍もまた到着し、義臣は万歳と合軍して虜を撃ち、大破したが、万歳は楊素に陥れられて死に、義臣の功績は遂に記録されなかった。仁寿の初め、朔州総管に任ぜられ、御甲を賜った。

煬帝が位を嗣ぐと、漢王諒がへい州で乱を起こした。当時、代州総管李景が漢王の将喬鐘葵に包囲され、詔により義臣がこれを救援した。義臣は馬歩二万を率い、夜に西陘を出て、夜明け前に数十里を行軍した。鐘葵は義臣の兵が少ないと偵察し、全軍でこれを防いだ。鐘葵の副将王抜は驍勇で、矛を用いることに長け、これを射る者は当てられず、常に数騎で敵陣に突入した。義臣はこれを憂い、抜に当たり得る者を募った。車騎将軍楊思恩がこれに当たることを請うた。義臣は思恩の気概容貌が雄勇であるのを見て、彼を顧みて言った、「壮士なり!」卮酒を賜った。思恩は陣の後ろに立つ抜を見ると、觴を地に投げ、馬を駆ってこれに向かった。二度往って勝てず、義臣はさらに騎士十余人を選んでこれに従わせた。思恩は遂に突撃し、数人を殺し、直ちに抜の麾下に至った。短兵がまさに接しようとする時、従っていた騎士が退き、思恩は抜に殺された。抜はこれに乗じ、義臣の軍は十余里北に退いた。ここにおいて思恩の屍を購い求め、義臣はこれを哭して甚だ慟しみ、三軍涙を流さぬ者なしであった。従っていた騎士は皆腰斬に処された。義臣は自ら兵が少ないとし、軍中の牛驢を全て取り集め、数千頭を得、さらに兵数百人に命じ、人ごとに一鼓を持たせ、ひそかに澗穀の間に駆り立て、不意に出した。義臣は晡後(午後三時から五時)に再び鐘葵軍と戦い、兵が初めて合うや、牛驢を駆る者に疾く進むことを命じた。一時に鼓を鳴らすと、塵埃が天を覆い、鐘葵軍は知らず、伏兵が発したと思い、これにより大いに潰え、縦撃してこれを破った。功により上大将軍に進位し、物二千段、雑彩五百段、女妓十人、良馬二十匹を賜った。間もなく相州刺史に任ぜられた。三年後、宗正卿に徴された。間もなく、太僕卿に転じた。吐谷渾征討に従い、義臣に琵琶峡に屯させ、連営八十里、南は元寿に接し、北は段文振に連なり、覆袁川において渾主を合囲した。その後、再び遼東を征し、軍将として粛慎道を指すことを命ぜられた。鴨緑水に至り、乙支文徳と戦い、常に先鋒となり、一日に七度勝利した。後に諸軍と共に敗れ、遂に罪に坐して免官された。間もなく復位した。翌年、軍副とし、大将軍宇文述と共に平壌に向かった。鴨緑水に至り、楊玄感が乱を起こしたため、軍を返し、趙郡太守を検校した。妖賊向海公が徒党を集めて乱を起こし、扶風・安定の間を寇したが、義臣は詔を奉じてこれを撃ち平らげた。間もなく帝に従って再び遼東を征し、左光禄大夫に進位した。当時、渤海の高士達、清河の張金称が共に相集まって盗賊となり、徒党は既に数万に及び、郡県を攻め陥れた。帝は将軍段達を遣わしてこれを討たせたが、勝てなかった。詔により義臣が遼東より還った兵数万を率いてこれを撃ち、士達を大破し、金称を斬った。また降伏した賊を収め合わせ、豆子䴚に入り、格謙を討ち、これを擒らえ、状況を上奏した。帝はその威名を憎み、急ぎ朝廷に召し還したため、賊はこれにより再び盛んになった。義臣は功により光禄大夫に進位し、間もなく礼部尚書に任ぜられた。間もなく、官にて卒した。

衛玄

衛玄は、字を文升といい、河南洛陽の人である。祖父の悦は、魏の司農卿であり、父の[扌剽]は、侍中・左武衛大將軍であった。玄は若くして器量と識見があり、周の武帝が藩王であった時、記室に抜擢された。給事上士に遷り、興勢公の爵を襲い、食邑四千戸を賜った。宣納下大夫に転じた。武帝が親政を始めると、益州総管長史に任じられ、萬釘宝帯を賜った。やがて開府儀同三司・太府中大夫に遷り、内史の事務を治め、引き続き京兆尹を兼ね、強力で有能と称された。宣帝の時、詔旨に逆らって免官された。高祖(隋の文帝)が宰相となると、熊州の事務を検校した。和州の蛮が反乱を起こすと、玄は行軍総管としてこれを討ち平らげた。高祖が禅譲を受けると、淮州総管に遷り、同軌郡公に進封されたが、事に坐して免官された。間もなく、嵐州刺史に任じられた。長城の工事が始まると、詔により玄がこれを監督した。ほどなく朔州総管の事務を検校した。後に衛尉少卿となった。仁壽の初め、山獠が乱を起こすと、資州刺史として出向しこれを鎮撫した。玄が任地に着くと、時に獠が大牢鎮を包囲攻撃していた。玄は単騎でその陣営に赴き、群獠に言った。「私は刺史である。天子の詔を奉じて汝らを安んじ養うために来た。驚き恐れることはない。」賊徒たちは誰も動こうとしなかった。そこで利害を説くと、渠帥は感悦し、兵を解いて去った。前後して帰順した者は十余万口に及んだ。高祖は大いに喜び、縑二千匹を賜い、遂州総管に任じ、引き続き剣南を安撫させた。煬帝が即位すると、再び召し出されて衛尉卿となった。夷・獠は引き留めて慕い、数百里にわたって別れを惜しんだ。玄は彼らを諭して言った。「天子の詔で召されている。長く留まることはできない。」そこで彼らと別れを告げると、夷・獠はそれぞれ涙を揮って去った。一年余りして、工部尚書に遷った。その後、魏郡太守に任じられ、尚書の職は元の通りであった。帝は玄に言った。「魏郡は名高い大都会で、要衝の地である。民には奸悪な者が多いゆえ、公に煩わせる。この郡は都から道程遠くない。しばしば往来し、朝政について諮り謀るがよい。」物五百段を賜って派遣した。間もなく、右候衛大將軍に任じられ、左候衛の事務を検校した。大業八年、刑部尚書に転じた。遼東の役では、右禦衛大將軍を検校し、軍を率いて増地道から出撃した。時に諸軍は多くが不利であったが、玄だけは全軍を保って帰還した。金紫光祿大夫に任じられた。九年、車駕が遼東に行幸され、玄をして代王侑とともに京師を留守させ、京兆内史に任じ、尚書の職は元の通りとした。便宜を以て事に従うことを許し、代王に師傅の礼をもって待遇するよう勅した。

時に楊玄感が東都を包囲逼迫すると、玄は歩騎七万を率いてこれを救援した。華陰に至り、楊素の塚を掘り、その骸骨を焼き、その墓域を平らげ、士卒に必死の覚悟を示した。潼関を出た後、議論する者は崤・函に伏兵があることを恐れ、陝県から流れに沿って東下し、直ちに河陽に向かい、その背を攻めることを請うた。玄は言った。「私が考えるに、この計略はあの小僧(楊玄感)の及ぶところではない。」そこで進軍の太鼓を鳴らして進んだ。函穀関を越えると、果たして予測した通りであった。そこで武賁郎将張峻を南道に疑軍として派遣し、玄は大軍を率いて直ちに城北に向かった。玄感は逆にこれを防ぎ、戦いながら進み、金穀に軍を駐屯させた。軍中で地を掃いて高祖(文帝)を祭り、言った。「刑部尚書・京兆内史の臣、衛文升、敢えて高祖文皇帝の霊に昭告す。皇家が運を開いてより三十余年、武功文徳は次第に海外に及ぶ。楊玄感は聖恩に背き、自ら蛇豕となり、蜂の如く飛び蟻の如く集まり、我が王略を犯す。臣は二世に恩を受け、一心に主に仕え、熊羆の兵を統率し、凶逆を梟すことを志す。もし社稷の霊が長く続くならば、醜い徒輩を氷の如く砕かしめよ。もしも大運が去らんとするならば、幸いに老臣をして先に死なしめよ。」言葉の調子は抑揚があり、三軍は涙を流さぬ者なく咽び泣いた。時に衆寡敵せず、賊と頻りに戦って不利となり、死傷は大半に及んだ。玄感が精鋭を尽くして攻めて来ると、玄は苦戦し、賊は少し退いた。進んで北芒に駐屯した。時に宇文述・来護児等の援兵が到着し、玄感は恐れて西に逃れた。玄は通議大夫斛斯萬善・監門直閣龐玉を前鋒として追撃させ、閿郷で追いつき、宇文述等と合撃してこれを破った。車駕が高陽に至ると、行在所に召し出された。帝は労って言った。「社稷の臣である。朕に西顧の憂い無からしめた。」そこで詔を下して言った。「近頃妖気が充満し、関・河を擾乱した。文升は義勇を率い励まし、機に応じて馳せ赴き、表裏より奮撃し、凶醜を摧破した。栄命を昇進させ、賞典を広く示すべきである。右光祿大夫とせよ。」良田・甲第を賜い、資物は巨万に及んだ。京師の鎮守に戻ると、帝は彼に言った。「関右の任は、全て公に委ねる。公が安らかならば、社稷も安らかである。公が危うければ、社稷もまた危うい。出入りには必ず兵衛を従え、坐臥も常に自らを堅固にせよ。勇夫も戸を重ねて閉ざす、これがその道理である。今特に千兵を与え、侍従に充てる。」玉麟符を賜った。十一年、詔により玄に関中を安撫させた。時に盗賊が蜂起し、百姓は飢饉にあったが、玄はついに救済することができず、官紀は乱れ、賄賂が公然と行われた。玄は自ら年老いたことを理由に、上表して骸骨を乞うた。帝は内史舍人封徳彝を馳せさせて諭させて言った。「京師は国の根本、王業の基盤であり、宗廟園陵の所在である。公の耆旧を頼り、臥してこれを鎮める。朕は国のためを計り、義として許すことはできない。故に徳彝を遣わし、口頭で意を陳べさせる。」玄はやむを得ず留まった。義師(唐軍)が関中に入ると、守りきれぬことを悟り、憂懼して病気と称し、政事を知らなかった。城が陥落すると、家に帰った。義寧年中に卒去した。時に七十七歳。

子の孝則は、通事舍人・兵部承務郎の官に至ったが、早世した。

劉權

劉權は、字を世略といい、彭城豊の人である。祖父の軌は、斉の羅州刺史であった。権は若くして侠気があり、然諾を重んじ、逃亡者や死刑囚を匿い、役人は門を通り過ぎようとしなかった。後に心を改めて学問を好み、行動は法度に従った。初め州の主簿となり、斉に仕え、奉朝請・行臺郎中として官途に就いた。斉が滅ぶと、周の武帝は仮の淮州刺史とした。高祖が禅譲を受けると、車騎將軍として郷兵を領した。後に晉王廣(煬帝)に従って陳を平定し、功により開府儀同三司に進授され、物三千段を賜った。宋国公賀若弼は彼を大いに礼遇した。開皇十二年、蘇州刺史に任じられ、宗城県公の爵を賜った。当時江南は平定されたばかりで、人心はまだ動揺していたが、権は恩信をもって撫で、民の和を大いに得た。煬帝が嗣位すると、衛尉卿に任じられ、銀青光祿大夫の位に進んだ。大業五年、吐谷渾征伐に従い、権は衆を率いて伊吾道から出撃し、賊と遭遇してこれを撃退した。敗走する敵を追って青海に至り、千余口を虜獲し、勝に乗じて伏俟城に至った。帝はさらに権に命じて曼頭・赤水を越えさせ、河源郡・積石鎮を設置し、大いに屯田を開き、西境の鎮守に留まらせた。辺境に五年間在任し、諸羌は懐き帰附し、貢賦は毎年入り、吐谷渾の残党は遠く遁走し、道路は塞がれることがなかった。召し出されて司農卿に任じられた。金紫光祿大夫の位を加えられた。まもなく南海太守となった。鄱陽に行き着くと、群盗が起こり、進めなくなった。詔により権に召募して討伐させた。権は兵を率いて賊と遭遇したが、戦わず、まず単舸に乗って賊の陣営に赴き、利害を説いた。群賊は感悦し、一時に降伏帰附した。帝はこれを聞いて賞賛した。南海に着くと、非常に優れた政績を上げた。数年後、盗賊が群起し、たびたび郡を攻撃して来た。豪帥の多くは権を首領に推戴しようとしたが、権はついに全力を尽くして固守し、これを拒んだ。子の世徹が密かに人を遣わして書を権に届けさせ、四方が擾乱し、英雄が並び起ち、時を失うべからずと称し、挙兵するようほのめかした。権は佐僚を召集し、その使者を斬り、ついに異心を抱かず、死をもって守り通した。官のまま卒去した。時に七十歳。

世徹は倜儻にして羈束されず、当時の人々に大いに認められた。大業の末、群雄が並び起これば、世徹の至る所、つねに忌まれ、多く拘禁され、後に竟に兗州の賊帥徐圓朗に殺された。

権の従父の烈は、字を子将といい、容姿端麗にして器量があり、官は鷹揚郎将に至った。子に徳威あり、世に知られた。

【論】

史臣曰く、子蓋は雅に幹局あり、質性は厳敏にして、義を見て勇み、機に臨みて能く断じ、都邑を保全し、勤め亦懋つとむるかな。楊諒が紀を干せば、史祥は独克の効を著わし、群盗侵擾すれば、義臣は三捷の功を致す。此れ皆名は当年に重く、声は後葉に流るる者なり。元寿が行本を弾奏するは、名教を存するの意有り、然れども其の功を計り伐を称するは、猶ほ義臣の後に居る。端揆の贈、已に優れずや。文升は東都の解囲に、頗る亦力を宣べ、西京の居守に、政は賄を以て成る。鄙なるかな鄙なるかな、夫れ何ぞ数うるに足らん。劉権は淮楚の旧族、早く雄名を著わし、擾攘の辰に属し、尉佗の地に居りて、遂に能く子邪の計を拒ぎ、覬覦する所無し。勤王の謀を謝すと雖も、守節の士と為るに足れり。