隋書

巻062

巻六十二列傳第二十七 王韶 元巖 劉行本 梁毗 柳彧 趙綽 裴肅

巻六十二列傳第二十七 王韶 元巖 劉行本 梁毗 柳彧 趙綽 裴肅

原文卷六十二列傳第二十七 王韶 元巖 劉行本 梁毗 柳彧 趙綽 裴肅 ► 樊子蓋 史祥 元壽 楊義臣 衞玄 劉權

王韶

原文王韶

王韶、字あざなは子相、自ら太原の晉陽の人と云う、代々京兆に居住す。祖父は諧、原州刺史。父は諒、早く卒す。韶は幼にして方正雅量、頗る奇節を好み、識者有りて之を異とす。周に在りて累ねて軍功を以て官は車騎大將軍・議同三司に至る。復た軍正に轉ず。武帝既に晉州を拔き、意は班師せんと欲す。韶諫めて曰く、「齊は紀綱を失ひ、茲に累世に及ぶ。天は王室を獎け、一戰にして其の喉を扼す。加以主は上に昏く、民は下に懼る。亂を取り亡を侮るは、正に今日に在り。方に之を釋して去らんと欲すは、臣の愚固を以てすれば、深く未だ解せず、願くは陛下之を圖らん」と。帝大いに悅び、縑一百匹を賜ふ。齊氏を平げるに及び、功を以て位を開府に進め、晉陽縣公に封ぜられ、邑五百戶、口馬雜畜を賜ふこと萬計に及ぶ。內史中大夫に遷る。宣帝即位し、豐州刺史を拜し、昌樂縣公に改封さる。高祖こうそ禪を受け、爵を項城郡公に進め、邑二千戶。靈州刺史に轉じ、位を大將軍に加ふ。

原文王韶,字子相,自雲太原晉陽人也,世居京兆。祖諧,原州刺史。父諒,早卒。韶幼而方雅,頗好奇節,有識者異之。在周累以軍功官至車騎大將軍、議同三司。複轉軍正。武帝既拔晉州,意欲班師,韶諫曰:「齊失紀綱,於茲累世,天獎王室,一戰而扼其喉。加以主昏於上,民懼於下,取亂侮亡,正在今日。方欲釋之而去,以臣愚固,深所未解,願陛下圖之。」帝大悅,賜縑一百匹。及平齊氏,以功進位開府,封晉陽縣公,邑五百戶,賜口馬雜畜以萬計。遷內史中大夫。宣帝即位,拜豐州刺史,改封昌樂縣公。高祖受禪,進爵項城郡公,邑二千戶。轉靈州刺史,加位大將軍。

晉王廣の并州へいしゅうを鎮むるや、行台右僕射ぼくやを除し、彩五百匹を賜ふ。韶性剛直、王甚だ之を憚り、每事諮詢し、法度に違はざらしむ。韶嘗て長城を檢行するに奉使し、其の後王池を穿ち三山を起す。韶既に還り、自ら鎖して諫む。王謝して之を罷む。高祖聞きて嘉歎し、金百兩を賜ひ、並びに後宮四人を賜ふ。陳を平ぐるの役、本官を以て元帥府司馬と爲り、師を帥ひ河陽に趣き、大軍と會す。既に壽陽に至り、高熲と軍機を支度し、壅滯する所無し。金陵を克つに及び、韶即ち焉に鎮す。晉王廣班師し、韶を石頭に留めて防遏せしめ、後事を委ぬ、幾歲餘。征還さる。高祖公卿に謂ひて曰く、「晉王幼穉を以て出藩し、遂に能く吳・越を克平し、江湖こうこを綏靜せしむは、子相の力なり」と。是に於て位を柱國に進め、奴婢三百口、綿絹五千段を賜ふ。

原文晉王廣之鎮并州也,除行台右僕射,賜彩五百匹。韶性剛直,王甚憚之,每事諮詢,不致違於法度。韶嘗奉使檢行長城,其後王穿池起三山,韶既還,自鎖而諫,王謝而罷之。高祖聞而嘉歎,賜金百兩,並後宮四人。平陳之役,以本官為元帥府司馬,帥師趣河陽,與大軍會。既至壽陽,與高熲支度軍機,無所壅滯。及克金陵,韶即鎮焉。晉王廣班師,留韶於石頭防遏,委以後事,幾歲餘。征還,高祖謂公卿曰:「晉王以幼稚出籓,遂能克平吳、越,綏靜江湖,子相之力也。」於是進位柱國,賜奴婢三百口,綿絹五千段。

開皇かいこう十一年、上并州に幸す。其の稱職を以て、特勞勉を加ふ。其の後、上韶に謂ひて曰く、「朕此に至るより、公の鬚鬢漸く白し、乃ち憂勞の致す所か。柱石の望は、唯公に在り、努力勉めよ」と。韶辭謝して曰く、「臣比衰暮、殊に官人を作るを解せず」と。高祖曰く、「是れ何の意ぞ。解せざるは、是れ未だ心を用ひざるのみ」と。韶對へて曰く、「臣昔昏季に在りしとき、猶ほ且く心を用ひ、況や明聖に逢ふや、敢へて罄竭せざらんや。但し神化精微、駑蹇の逮ぶ所に非ず。加以今年六十有六、桑榆雲晚、疇昔に比べ、昏忘又多し。豈敢自ら寬にして、以て身累を速ならしめんや。衰暮を以て、朝綱を虧紊せんことを恐るるのみ」と。上勞して之を遣る。秦王俊并州總管と爲り、仍て長史と爲る。歲餘、驛を馳せて京に入り、勞敝して卒す。時に年六十八。高祖甚だ之を傷惜し、秦王の使者に謂ひて曰く、「爾が王に語れ、我前に子相をして緩やかに來らしめしに、如何ぞ乃ち驛を馳せしむる。我が子相を殺すは、豈に汝に由らざらんや」と。言甚だ悽愴なり。有司ゆうしして之が爲に宅を立つることを使ふ。曰く、「往者は何ぞ宅を用ゐん。但だ我が深心を表はさんのみ」と。又曰く、「子相我が委寄を受け、十有餘年、終始易はらず、寵章未だ極まらず、我を舍てて死するか」と。發言して涕を流す。因りて子相の封事數十紙を取らしめ、群臣に傳示せしむ。上曰く、「其の直言匡正、裨益甚だ多し。吾每に披尋し、未だ嘗て手を釋かず」と。煬帝ようだい即位し、司徒しと・尚書令しょうしょれい・靈豳等十州刺史・魏國公を追贈す。子士隆嗣ぐ。

原文開皇十一年,上幸并州,以其稱職,特加勞勉。其後,上謂韶曰:「自朕至此,公鬚鬢漸白,無乃憂勞所致?柱石之望,唯在於公,努力勉之!」韶辭謝曰:「臣比衰暮,殊不解作官人。」高祖曰:「是何意也?不解者,是未用心耳。」韶對曰:「臣昔在昏季,猶且用心,況逢明聖,敢不罄竭!但神化精微,非駑蹇所逮。加以今年六十有六,桑榆雲晚,比於疇昔,昏忘又多。豈敢自寬,以速身累,恐以衰暮,虧紊朝綱耳。」上勞而遣之。秦王俊為并州總管,仍為長史。歲餘,馳驛入京,勞敝而卒,時年六十八。高祖甚傷惜之,謂秦王使者曰:「語爾王,我前令子相緩來,如何乃遣馳驛?殺我子相,豈不由汝邪?」言甚悽愴。使有司為之立宅,曰:「往者何用宅為,但以表我深心耳。」又曰:「子相受我委寄,十有餘年,終始不易,寵章未極,舍我而死乎!」發言流涕。因命取子相封事數十紙,傳示群臣。上曰:「其直言匡正,裨益甚多,吾每披尋,未嘗釋手。」煬帝即位,追贈司徒、尚書令、靈豳等十州刺史、魏國公。子士隆嗣。

士隆略ね書計を知り、尤も弓馬に便じ、慷慨父の風有り。大業たいぎょうの世、頗る親重せられ、官は備身將軍に至り、耿公に改封さる。數へて山賊を討撃せしめ、往々にして捷有り。越王侗帝を稱す。士隆數千の兵を率ひ江・淮より至る。會す王世充號を僭す。甚だ禮重し之を、尚書右僕射に署す。士隆憂憤し、疽背に發して卒す。

原文士隆略知書計,尤便弓馬,慷慨有父風。大業之世,頗見親重,官至備身將軍,改封耿公。數令討擊山賊,往往有捷。越王侗稱帝,士隆率數千兵自江、淮而至。會王世充僭號,甚禮重之,署尚書右僕射。士隆憂憤,疽發背卒。

元巖

原文元巖

元巖、字は君山、河南洛陽らくようの人なり。父は禎、魏の敷州刺史。巖は書を讀むを好み、章句を治めず、剛鯁にして器局有り、名節を以て自ら許す。少くして渤海の高熲・太原の王韶と同志友善す。周に仕へ、釋褐して宣威將軍・武賁給事。大塚宰宇文護見て之を器とし、中外記室と爲す。累遷して內史中大夫、昌國縣伯。宣帝位を嗣ぎ、政を爲すこと昏暴なり。京兆郡丞樂運乃ち櫬を輿して朝堂に詣り、帝の八失を陳ぶ。言甚だ切至なり。帝大怒し、將に之を戮せんとす。朝臣皆恐懼し、救ふ者有る莫し。巖人に謂ひて曰く、「臧洪同日、尚ほ俱に死すべし、其れ況や比干をや。若し樂運免れずば、吾將に之と俱に斃れん」と。閣に詣り請見し、帝に言ひて曰く、「樂運書奏すれば必ず死すを知る。身命を顧みざる所以は、後世の名を取らんと欲するなり。陛下若し之を殺さば、乃ち其の名を成し、其の術內に落ちん。勞して之を遣るに如かず、以て聖度を廣むべし」と。運因りて免るることを獲。後帝將に烏丸軌を誅せんとす。巖詔に署することを肯へず。禦正顏之儀切諫すれど入らず。巖進みて之に繼ぎ、巾を脫ぎ顙を頓き、三拜三進す。帝曰く、「汝烏丸軌に党せんと欲するか」と。巖曰く、「臣軌に党せず、正に濫誅して天下の望を失はんことを恐るるのみ」と。帝怒り、閹豎して其の面を搏たしむ。遂に家に廢す。

原文元巖,字君山,河南洛陽人也。父禎,魏敷州刺史。岩好讀書,不治章句,剛鯁有器局,以名節自許,少與渤海高熲、太原王韶同志友善。仕周,釋褐宣威將軍、武賁給事。大塚宰宇文護見而器之,以為中外記室。累遷內史中大夫,昌國縣伯。宣帝嗣位,為政昏暴,京兆郡丞樂運乃輿櫬詣朝堂,陳帝八失,言甚切至。帝大怒,將戮之。朝臣皆恐懼,莫有救者。岩謂人曰:「臧洪同日,尚可俱死,其況比干乎!若樂運不免,吾將與之俱斃。」詣閣請見,言於帝曰:「樂運知書奏必死,所以不顧身命者,欲取後世之名。陛下若殺之,乃成其名,落其術內耳。不如勞而遣之,以廣聖度。」運因獲免。後帝將誅烏丸軌,岩不肯署詔。禦正顏之儀切諫不入,岩進繼之,脫巾頓顙,三拜三進。帝曰:「汝欲党烏丸軌邪?」岩曰:「臣非黨軌,正恐濫誅失天下之望。」帝怒,使閹豎搏其面,遂廢於家。

高祖(楊堅)が丞相となると、開府・民部中大夫の位を加えられた。禅譲を受けると、兵部尚書に任じられ、平昌郡公に爵位を進められ、二千戸を封邑とした。元岩の性格は厳重で、世務に明達し、奏議があるごとに侃々として正色を以てし、朝廷で諍い、面と向かって諫め、回避することはなかった。上(皇帝)及び公卿は皆、彼を敬い畏れた。時に高祖は即位したばかりで、周代の諸侯が微弱であったために滅亡に至ったことを常に戒めとし、これにより諸子を王に分封し、その権力を王室と同等とし、磐石の固さとなすべく、晋王広を并州に、蜀王秀を益州に鎮守させた。二王は共に年が幼く、そこで貞良で重望ある者を厳選してその僚佐とした。当時、元岩と王韶は共に骨鯁として知られ、世間の議論では二人の才能は高熲に匹敵すると称され、これにより元岩を益州総管長史に、王韶を河北道行台右僕射に任じた。高祖は彼らに言った、「公らは宰相の大器である。今、我が子を輔けることを屈するのは、曹参そうしんが斉の相となった意に似ている。」元岩が任地に着くと、法令は明らかで厳粛であり、官吏と民衆はこれを称えた。蜀王は奢侈を好み、嘗て獠の者を捕らえて閹人としようとし、また死囚を生きたまま剖いて胆を薬としようとした。元岩は皆これに従わず、門を押し開けて切に諫めたので、王は謝罪して止め、元岩の人となりを畏れ、常に法度に従った。蜀中の訴訟は、元岩が裁断すると、悦服しない者はなかった。罪を得た者があれば、互いに言った、「平昌公が我に罪を与えたのだから、何を恨むことがあろうか。」上は大いにこれを賞し、賞賜は厚く行き届いた。十三年、任地で卒去した。上は長く悼み惜しんだ。益州の父老は、涙を流さぬ者はなく、今に至るも彼を思っている。元岩が卒去した後、蜀王は遂にその志を行い、次第に法に外れたことを行い、渾天儀・司南車・記里鼓を造り、凡そ身に着けるものは天子に擬した。また妃と共に出猟し、弾丸で人を撃ち、多くの山獠を捕らえて宦官に充てた。僚佐には諫めて止められる者はいなかった。秀が罪を得た時、上は言った、「元岩がもし生きていたならば、我が子がこのようなことをするはずがあろうか。」子の弘が嗣いだ。給事郎・司朝謁者・北平通守を歴任した。

原文高祖為丞相,加位開府、民部中大夫。及受禪,拜兵部尚書,進爵平昌郡公,邑二千戶。岩性嚴重,明達世務,每有奏議,侃然正色,庭諍面折,無所回避。上及公卿,皆敬憚之。時高祖初即位,每懲周代諸侯微弱,以致滅亡,由是分王諸子,權侔王室,以為磐石之固,遣晉王廣鎮并州,蜀王秀鎮益州。二王年並幼稚,於是盛選貞良有重望者為之僚佐。于時岩與王韶俱以骨鯁知名,物議稱二人才具侔于高熲,由是拜岩為益州總管長史,韶為河北道行台右僕射。高祖謂之曰:「公宰相大器,今屈輔我兒,如曹參相齊之意也。」及岩到官,法令明肅,吏民稱焉。蜀王性好奢侈,嘗欲取獠口以為閹人,又欲生剖死囚,取膽為藥。岩皆不奉教,排閣切諫,王輒謝而止,憚岩為人,每循法度。蜀中獄訟,岩所裁斷,莫不悅服。其有得罪者,相謂曰:「平昌公與吾罪,吾何怨焉。」上甚嘉之,賞賜優洽。十三年,卒官,上悼惜久之。益州父老,莫不殞涕,於今思之。岩卒之後,蜀王竟行其志,漸致非法,造渾天儀、司南車、記裡鼓,凡所被服,擬于天子。又共妃出獵,以彈彈人,多捕山獠,以充宦者。僚佐無能諫止。及秀得罪,上曰:「元岩若在,吾兒豈有是乎!」子弘嗣。仕曆給事郎、司朝謁者、北平通守。

劉行本

原文劉行本

劉行本は、沛の人である。父の瑰は梁に仕え、清顕な官職を歴任した。行本は武陵国常侍として官途に就いた。蕭修が梁州を以て北朝(北周)に帰順したのに遇い、叔父の璠と共に周に帰順し、京兆の新豊に寓居した。常に書物を諷読することを事とし、精力を傾けて疲れを忘れ、衣食が乏しく絶えても、平然としていた。性格は剛烈で、奪うべからざる志があった。周の大塚宰宇文護が彼を引き立てて中外府記室とした。武帝が万機を親総すると、御正中士に転じ、起居注を兼ねて領した。累遷して掌朝下大夫となった。周代の故事では、天子が軒に臨む時、掌朝が筆硯を整え、御座に持って至ると、承禦大夫が取って進めることとなっていた。行本が掌朝となった時、帝に筆を進めようとすると、承禦がまた取ろうとした。行本は声を張り上げて承禦に言った、「筆を得ることはできぬ。」帝は驚いて見て問うと、行本は帝に言った、「臣は聞く、官を設け職を分つは、各々司る所存ありと。臣は既に承禦の刀を佩くことを得ず、承禦もまた焉んぞ臣の筆を取ることを得んや。」帝は言った、「然り。」因って二つの司に各々その職を行わせた。宣帝が位を嗣ぐと、多く失徳があり、行本が切に諫めて旨に逆らい、河内太守として出された。

原文劉行本,沛人也。父瑰,仕梁,曆職清顯。行本起家武陵國常侍。遇蕭修以梁州北附,遂與叔父璠同歸于周,寓居京兆之新豐。每以諷讀為事,精力忘疲,雖衣食乏絕,晏如也。性剛烈,有不可奪之志。周大塚宰宇文護引為中外府記室。武帝親總萬機,轉禦正中士,兼領起居注。累遷掌朝下大夫。周代故事,天子臨軒,掌朝典筆硯,持至禦坐,則承禦大夫取以進之。及行本為掌朝,將進筆於帝,承禦複欲取之。行本抗聲謂承禦曰:「筆不可得。」帝驚視問之,行本言於帝曰:「臣聞設官分職,各有司存。臣既不得佩承禦刀,承禦亦焉得取臣筆。」帝曰:「然。」因令二司各行所職。及宣帝嗣位,多失德,行本切諫忤旨,出為河內太守。

高祖が丞相となると、尉迥が乱を起こし、懐州を攻撃した。行本は吏民を率いてこれを拒ぎ、儀同に任じられ、文安県子の爵を賜った。践祚すると、諫議大夫に征され、治書侍御史を検校した。間もなく、黄門侍郎に遷った。上が嘗て一郎官に怒り、殿前で笞打った。行本が進み出て言った、「この者は元来清廉で、その過ちもまた小さい。願わくは陛下、少し寛大に取り計らわれんことを。」上は顧みなかった。行本はそこで正面から上前に向かって言った、「陛下は臣を不肖とせず、臣を左右に置かれた。臣の言が正しければ、陛下はどうして聴かれぬことがあろうか。臣の言が正しくなければ、理に致して国法を明らかにすべきであり、どうして臣を軽んじて顧みられぬことがあろうか。臣の言うことは私ではない。」因って笏を地に置いて退いた。上は顔色を改めて謝し、遂に笞打った者を赦した。当時天下は大同し、四夷は内附していた。行本は党項羌が封域に密接し、最も後れて服属したことを以て、上表してその使者を弾劾して言った、「臣は聞く、南蛮は校尉こういの統べるに遵い、西域は都護の威を仰ぐと。近頃見るに西羌は鼠窃狗盗し、父に非ず子に非ず、君無く臣無く、異類殊方の中でも、これが最も下である。羈縻の恵を悟らず、含養の恩を知らず、狼戾を心とし、独り正朔に乖いている。使人が近くまで来ている。請う、推問に付せられんことを。」上はその志を奇とした。雍州別駕の元肇が上に言った、「一州吏が、人から三百文の賄賂を受けました。律に依れば杖一百に当たります。然しながら臣が下車の初めに、彼と約束を交わしました。この吏は故意にこれを違えました。徒一年を加えられんことを請います。」行本はこれを駁して言った、「律令を行うには、併せて明詔を発し、民と約束する。今、肇は敢えてその教命を重んじ、憲章を軽んじ忽せにしようとしている。己の言の必ず行われることを申し立てようとし、朝廷の大信を忘れ、法を損なって威を取ろうとするは、人臣の礼に非ず。」上はこれを賞し、絹百匹を賜った。

原文高祖為丞相,尉迥作亂,進攻懷州。行本率吏民拒之,拜儀同,賜爵文安縣子。及踐阼,征拜諫議大夫,檢校治書侍御史。未幾,遷黃門侍郎。上嘗怒一郎,於殿前笞之。行本進曰:「此人素清,其過又小,願陛下少寬假之。」上不顧。行本於是正當上前曰:「陛下不以臣不肖,置臣左右。臣言若是,陛下安得不聽?臣言若非,當致之於理,以明國法,豈得輕臣而不顧也!臣所言非私。」因置笏於地而退,上斂容謝之,遂原所笞者。于時天下大同,四夷內附,行本以党項羌密邇封域,最為後服,上表劾其使者曰:「臣聞南蠻遵校尉之統,西域仰都護之威。比見西羌鼠竊狗盜,不父不子,無君無臣,異類殊方,於斯為下。不悟羈縻之惠,詎知含養之恩,狼戾為心,獨乖正朔。使人近至,請付推科。」上奇其志焉。雍州別駕元肇言於上曰:「有一州吏,受人饋錢三百文,依律合杖一百。然臣下車之始,與其為約。此吏故違,請加徒一年。」行本駁之曰:「律令之行,並發明詔,與民約束。今肇乃敢重其教命,輕忽憲章。欲申己言之必行,忘朝廷之大信,虧法取威,非人臣之禮。」上嘉之,賜絹百匹。

職に在ること数年、太子左庶子に任じられ、治書(侍御史)を領するは元の如くであった。皇太子は虚心で敬い畏れた。時に唐令則もまた左庶子であったが、太子は彼に昵狎し、常に内人に弦歌げんかを教えることを命じた。行本はこれを責めて言った、「庶子は正しい道を以て太子を匡すべきである。どうして閨房の間に寵愛昵狎することがあろうか。」令則は甚だ慚じたが改めることができなかった。時に沛国の劉臻、平原の明克讓、魏郡の陸爽は共に文学を以て太子に親しまれた。行本は彼らが調護できないことを怒り、常に三人に言った、「卿らはただ読書を解するのみである。」時に左衛率長史の夏侯福が太子に昵狎され、嘗て閣内で太子と戯れた。福は大笑いし、声は外まで聞こえた。行本は時に閣下でこれを聞き、彼が出るのを待って、行本は彼を数えて言った、「殿下は寛容で、汝に顔色を賜うた。汝は何ものの小人ぞ、敢えて褻慢たることを為さんや。」因って執法者に付してこれを治めさせた。数日後、太子が福のために請うたので、ようやく釈放した。太子が嘗て良馬を得て、福に乗せてこれを見させた。太子は甚だ悦び、因って行本にもまた乗せようとした。行本は従わず、正色して進み出て言った、「至尊が臣を庶子の位に置かれたのは、正しい道を以て殿下を輔導せしめんがためであり、殿下のために弄臣とならしめんがためではありません。」太子は慚じて止めた。また本官のまま大興令を領した。権貴はその方正剛直を畏れ、門に至る者はいなかった。これにより請托の路は絶え、法令は清く簡素で、吏民はこれを懐いた。間もなく、任地で卒去した。上は甚だ傷み惜しんだ。太子が廃された時、上は言った、「ああ、もし劉行本が生きていたならば、勇(太子楊勇)はここに及ばなかったであろうに。」子は無かった。

原文在職數年,拜太子左庶子,領治書如故。皇太子虛襟敬憚。時唐令則亦為左庶子,太子昵狎之,每令以弦歌教內人。行本責之曰:「庶子當匡太子以正道,何有嬖昵房帷之間哉!」令則甚慚而不能改。時沛國劉臻、平原明克讓、魏郡陸爽並以文學為太子所親。行本怒其不能調護,每謂三人曰:「卿等正解讀書耳。」時左衛率長史夏侯福為太子所昵,嘗於閣內與太子戲。福大笑,聲聞於外。行本時在閣下聞之,待其出,行本數之曰:「殿下寬容,賜汝顏色。汝何物小人,敢為褻慢!」因付執法者治之。數日,太子為福致請,乃釋之。太子嘗得良馬,令福乘而觀之。太子甚悅,因欲令行本複乘之。行本不從,正色而進曰:「至尊置臣於庶子之位者,欲令輔導殿下以正道,非為殿下作弄臣也。」太子慚而止。複以本官領大興令,權貴憚其方直,無敢至門者。由是請托路絕,法令清簡,吏民懷之。未幾,卒官,上甚傷惜之。及太子廢,上曰:「嗟乎!若使劉行本在,勇當不及於此。」無子。

梁毗

原文梁毗

梁毗は、字を景和といい、安定郡烏氏県の人である。祖父の越は、魏において涇州・豫州・洛州の三州刺史となり、郃陽県公に封ぜられた。父の茂は、周において滄州・兗州の二州刺史となった。毗は剛直で口数が少ない性質であり、学問に広く通じていた。周の武帝の時、明経に挙げられ、累進して布憲下大夫となった。北斉平定の役において、毗を行軍総管長史とし、并州を攻略した際、毗は功績があった。別駕に任ぜられ、儀同三司を加えられた。宣政年間(578年)、易陽県子に封ぜられ、邑四百戸を賜った。武蔵大夫に転じた。高祖(文帝ぶんてい)が禅譲を受けると、爵位が侯に進んだ。開皇初年、御史官が設置されると、朝廷は毗が剛直公正であるとして、治書侍御史に任じ、その職にふさわしいと称された。まもなく大興県令に転じ、雍州贊治に遷った。毗はすでに憲司(御史台)を出て、さらに京邑の政務を司ったが、正道を行い、回避することがなく、権貴の心をかなり失い、これにより西寧州刺史として出向し、邯鄲県侯に改封された。州に在ること十一年。これより先、蛮夷の酋長たちは皆、金の冠をかぶり、金の多い者が豪傑とされ、これによって互いに侵奪し合い、しばしば干戈かんかを交え、辺境はほとんど安寧な年がなかった。毗はこれを憂いた。後に諸酋長が相率いて毗に金を贈った際、毗は金を座の傍らに置き、それに向かって慟哭して言うには、「この物は飢えても食うことができず、寒くても着ることができない。汝らはこれによって互いに滅ぼし合い、数え切れぬほどである。今これを持って来たのは、我を殺そうとするのか」と。一切受け取らず、すべて返した。そこで蛮夷は感得して悟り、遂に互いに攻撃しなくなった。高祖はこれを聞いて善しとし、散騎常侍さんきじょうじ・大理卿に召し出した。法を公平に運用し、当時の人々はこれを称えた。一年余りして、上開府に進んだ。

原文梁毗,字景和,安定烏氏人也。祖越,魏涇、豫、洛三州刺史,郃陽縣公。父茂,周滄、兗二州刺史。毗性剛謇,頗有學涉。周武帝時,舉明經,累遷布憲下大夫。平齊之役,以毗為行軍總管長史,克并州,毗有力焉。除為別駕,加儀同三司。宣政中,封易陽縣子,邑四百戶。遷武藏大夫。高祖受禪,進爵為侯。開皇初,置御史官,朝廷以毗鯁正,拜治書侍御史,名為稱職。尋轉大興令,遷雍州贊治。毗既出憲司,複典京邑,直道而行,無所回避,頗失權貴心,由是出為西寧州刺史,改封邯鄲縣侯。在州十一年。先是,蠻夷酋長皆服金冠,以金多者為豪俊,由此遞相陵奪,每尋干戈,邊境略無寧歲。毗患之。後因諸酋長相率以金遺毗,於是置金坐側,對之慟哭而謂之曰:「此物饑不可食,寒不可衣。汝等以此相滅,不可勝數。今將此來,欲殺我邪?」一無所納,悉以還之。於是蠻夷感悟,遂不相攻擊。高祖聞而善之,征為散騎常侍、大理卿。處法平允,時入稱之。歲餘,進位上開府。

毗は左僕射楊素が貴寵を極め権勢を専らにし、百官が震え上がっているのを見て、国の禍となることを恐れ、封事を上奏して言うには、「臣は聞く、臣下に威福を作すこと無かれと。臣下が威福を作せば、その害は家に及び、凶は国に及ぶ。窃かに見るに、左僕射・越国公楊素は、寵遇がますます重く、権勢は日に日に盛んとなり、士大夫の徒は、その視聴に属している。意に逆らう者には厳しい霜が夏に降り、旨に阿る者には慈雨が冬に降り、栄枯はその唇吻により、廃興はその指麾を待つ。私する者は皆、忠讜の士ではなく、進める者はすべて親戚であり、子弟を各地に配置し、州や県を兼ね連ねている。天下に事がなければ、異心を抱くことを許し、四海しかいに少しでも憂いがあれば、必ず禍の始まりとなろう。奸臣が命令を専らにするのは、漸次を経て来るものである。王莽はこれを積年の資とし、桓玄はこれを易世の基とし、遂には漢の祭祀を絶ち、終には晋の国統を傾けた。季孫が魯を専らにし、田氏が斉を簒したことは、皆、典籍に載っており、臣の臆説ではない。陛下がもし素を阿衡(宰相)と為さば、臣はその心が必ずしも伊尹ではないことを恐れる。伏して願わくは、古今を照らし合わせて鑑とし、外任として処置し、大いなる基業を永遠に固くし、天下の幸いと為されますように。軽々しく天顔を犯すことを恐れず、伏して斧鑕(処刑)を待つ」と。高祖は大いに怒り、有司に命じて彼を拘禁し、自ら詰問した。毗は極言して言うには、「素はすでに権寵を専らにし、威福を作し、将兵の任にあっては、殺戮は道理をわきまえない。また、太子及び蜀王が罪を得て廃された日、百官は震え慄かない者はなかったが、ただ素のみが眉を上げ肘を奮い、喜びの色を顔に現わし、国家に事あることを利として自身の幸いとしている」と。毗の発言は諤諤として、誠実で明らかな節操があり、高祖も彼を屈服させることができず、遂に釈放した。素はこれ以降、恩寵が次第に衰えた。しかし素は任寄せが重く、多くの者を挫折させ、当時の朝士は震え伏さない者はなく、敢えて是非を論じる者もなかった。辞気が屈しない者は、ただ毗と柳彧、及び尚書右丞李綱のみであった。後に上(文帝)が再び素に専らに委ねなくなったのは、毗の言葉を察したからである。

原文毗見左僕射楊素貴寵擅權,百僚震懾,恐為國患,因上封事曰:「臣聞臣無有作威福。臣之作威福,其害乎而家,凶乎而國。竊見左僕射、越國公素,幸遇愈重,權勢日隆,搢紳之徒,屬其視聽。忤意者嚴霜夏零,阿旨者膏雨冬澍,榮枯由其脣吻,廢興候其指麾。所私皆非忠讜,所進咸是親戚,子弟布列,兼州連縣。天下無事,容息異圖,四海稍虞,必為禍始。夫奸臣擅命,有漸而來。王莽資之於積年,桓玄基之于易世,而卒殄漢祀,終傾晉祚。季孫專魯,田氏篡齊,皆載典誥,非臣臆說。陛下若以素為阿衡,臣恐其心未必伊尹也。伏願揆鑒古今,量為外置,俾洪基永固,率土幸甚。輕犯天顏,伏聽斧鑕。」高祖大怒,命有司禁止,親自詰之。毗極言曰:「素既擅權寵,作威作福,將領之處,殺戮無道。又太子及蜀王罪廢之日,百僚無不震悚,惟素揚眉奮肘,喜見容色,利國家有事以為身幸。」毗發言謇謇,有誠亮之節,高祖無以屈也,乃釋之。素自此恩寵漸衰。但素任寄隆重,多所折挫,當時朝士無不懾伏,莫有敢與相是非。辭氣不撓者,獨毗與柳彧及尚書右丞李綱而已。後上不復專委于素,蓋由察毗之言也。

煬帝が即位すると、刑部尚書に遷り、御史大夫の職務も兼ねた。宇文述が私的に部下の兵士を使役したことを弾劾して奏上したが、帝は述の罪を免じようと議し、毗は固く諫争したため、帝の意に逆らい、遂に張衡に代わって大夫とさせた。毗は憂憤し、数か月して卒去した。帝は吏部尚書牛弘に命じて弔問させ、絹五百匹を贈った。

原文煬帝即位,遷刑部尚書,並攝御史大夫事。奏劾宇文述私役部兵,帝議免述罪,毗固諍,因忤旨,遂令張衡代為大夫。毗憂憤,數月而卒。帝令吏部尚書牛弘吊之,贈縑五百匹。

子の敬真は、大業の世に、大理司直となった。時に帝は光禄大夫魚俱羅の罪を確定させようとし、敬真に命じてその獄を治めさせた。敬真は帝の意を迎えて、彼を極刑に陥れた。間もなく、敬真は病にかかり、俱羅が悪鬼となって現れるのを見て、数日で死んだ。

原文子敬真,大業之世,為大理司直。時帝欲成光祿大夫魚俱羅之罪,令敬直治其獄,遂希旨陷之極刑。未幾,敬真有疾,見俱羅為之厲,數日而死。

柳彧

原文柳彧

柳彧は、字を幼文といい、河東郡解県の人である。七世の祖の卓は、晋に従って南遷し、襄陽に寓居した。父の仲禮は、梁の将軍となり、敗れて周に帰順し、再び故郷に家を構えた。彧は若くして学問を好み、経史に広く通じていた。周の大塚宰宇文護が彼を引き立てて中外府記室とし、久しくして寧州総管掾として出向した。武帝が親政を始めると、彧は宮門に赴いて試験を求めた。帝は彼を異才と認め、司武中士とした。鄭県令に転じた。北斉平定後、帝は従軍した官人を大いに賞したが、京師に留まった者は対象外であった。彧は上表して言うには、「今、太平が始まろうとしており、信賞は明らかにすべきです。勲功に報い労を酬いるには、まず根本を務めねばなりません。城を屠り邑を破るのは、聖なる規略から出ており、将を斬り旗を抜くのは、必ず神妙な計略によります。もし戈を負い甲を擐えて征戦の労苦にあたる者がいれば、国家を鎮め撫でるには、宿衛が重んじられます。皆、成算(皇帝の計画)を受けており、自分一人の能力によるものではなく、留まって事に従うのも同じであり、功労は等しくなければなりません。皇太子以下には、まことに宗廟を守る功があります。昔、蕭何しょうかが留守をした時、茅土の封は平陽(曹参)に先んじ、穆之(劉穆之)が中央に居た時、没後なお優れた策命を蒙りました。管見を抑えがたく、奉表して以て聞かせます」と。そこで留守の者たちも皆、広く位階を加えられた。

原文柳彧,字幼文,河東解人也。七世祖卓,隨晉南遷,寓居襄陽。父仲禮,為梁將,敗歸周,複家本土。彧少好學,頗涉經史。周大塚宰宇文護引為中外府記室,久而出為甯州總管掾。武帝親總萬機,彧詣闕求試。帝異之,以為司武中士。轉鄭令。平齊之後,帝大賞從官,留京者不預。彧上表曰:「今太平告始,信賞宜明,酬勳報勞,務先有本。屠城破邑,出自聖規,斬將搴旗,必由神略。若負戈擐甲,征扞劬勞,至於鎮撫國家,宿衛為重。俱稟成算,非專己能,留從事同,功勞須等。皇太子以下,實有守宗廟之功。昔蕭何留守,茅土先于平陽,穆之居中,沒後猶蒙優策。不勝管見,奉表以聞。」於是留守並加泛級。

高祖が禅譲を受けると、累進して尚書虞部侍郎となり、母の喪のため職を去った。間もなく、屯田侍郎として起用されたが、固く辞して許されなかった。当時の制度で、三品以上の官は、門前に戟を立てることを許された。左僕射高熲の子の弘德が応国公に封ぜられ、牒を出して戟を請うた。彧は判決して言うには、「僕射の子はさらに別居しておらず、父の戟槊はすでに門外に立てられている。尊は卑を圧する義があり、子は父を避ける礼がある。どうして外門に既に設け、内閤にまた施すことができようか」と。事は遂に行われず、熲はこれを聞いて感嘆し敬服した。後に治書侍御史に遷り、朝廷において厳しい顔色を示し、百官から非常に畏敬され恐れられた。上(文帝)はその剛直さを嘉し、彧に言うには、「大丈夫たるもの、世に名を立てるべきであり、ただおとなしくしているだけではいけない」と。銭十万、米百石を賜った。

原文高祖受禪,累遷尚書虞部侍郎,以母憂去職。未幾,起為屯田侍郎,固讓弗許。時制三品已上,門皆列戟。左僕射高熲子弘德封應國公,申牒請戟。彧判曰:「僕射之子更不異居,父之戟槊已列門外。尊有壓卑之義,子有避父之禮,豈容外門既設,內閤又施!」事竟不行,熲聞而歎伏。後遷治書侍御史,當朝正色,甚為百僚之所敬憚。上嘉其婞直,謂彧曰:「大丈夫當立名於世,無容容而已。」賜錢十萬,米百石。

当時、刺史は多く武將を任用し、概ね職に適わなかった。柳彧は上表して言うには、「今、天下は太平であり、四海は清らかで静謐である。共に百姓を治めるには、その才能を任用すべきである。昔、漢の光武こうぶ帝は一代の明哲めいてつであり、布衣より起り、情偽を詳らかに知り、二十八將と共に荊棘を披き、天下を定めたが、功成った後は、彼らに職任を与えなかった。伏して詔書を拝見するに、上柱國の和幹子を杞州刺史とするとある。その人は年齢八十に垂れ、鐘鳴き漏れ盡きる。前任の趙州では、職務に暗く、政は群小に由り、賄賂は公行し、百姓は籲嗟し、歌謠は道に満ちた。乃ち云うには、『老禾早く殺さずんば、餘種良田を穢す』と。古人に云う、『耕すには奴に問い、織るには婢に問え』と。これは各々能くする所があるというのである。幹子の弓馬武用は、これが長所であるが、民を治め職に臨むことは、彼の理解するところではない。至尊は治を思し召し、寢興を忘れず、もし老を優れ年を尚ぶと謂わば、自ら厚く金帛を賜うべく、もし刺挙を命ずれば、損なう所は殊に大である。臣は死して後已む、敢えて誠を竭さざらんや」と。帝はこれを善しとし、幹子は遂に免ぜられた。応州刺史の唐君明あり、母の喪に居りながら、雍州長史の庫狄士文の從父妹を娶った。彧はこれを劾して言うには、「臣聞く、天地の位既に分かれ、夫婦の礼斯に著わり、君親の義ここに生じ、尊卑の教ここに設けられたりと。是をもって孝は惟だ行の本、礼は実に身の基、国より家を刑するも、率ねてこの道に由る。窃かに思うに、愛敬の情は、心に因りて至って切なり、喪紀の重さは、人倫の先とする所。君明は鑽燧は改むれども、文においては変わりなく、忽ちに劬労の痛みを忘れ、宴爾の親を成し、この苴縗を冒し、かの褕翟を命ず。不義にして昵まず、『春秋』は其の将に亡ぶを載せ、礼無く儀無く、詩人は其の遄く死なんことを欲す。士文は神州しんしゅうの務めを賛し、名位通顕、風教を整斉し、四方これ則とす。二姓の重匹を棄て、六礼の軌儀に違う。請う、終身禁錮し、以て風俗を懲らしめん」と。二人は遂に罪に坐せられた。隋は喪乱の後を承け、風俗頽壞し、彧は多くこれを矯正し、帝は甚だこれを嘉した。また、帝が聴受に勤め、百僚の奏請多く煩碎なるを見て、因りて上疏して諫めて言うには、「臣聞く、古より聖帝は、唐・虞に過ぎず、地に象り天に則り、政を布き化を施し、叢脞たるを為さず、これ欽明きんめいと謂う。語に曰く、『天何をか言わん、四時行わる』と。故に人君の令を出すは、誡むるに煩数に在り。是をもって舜は五臣を任じ、堯は四嶽に諮り、官を設け職を分ち、各々司存有り、垂拱無為にして、天下以て治まる。所謂、賢を求むるに労し、使に任ずるに逸す。又云う、『天子穆穆ぼくぼくたり、諸侯皇皇こうこうたり』と。これは君臣上下、體裁別有ることを言う。比来、四海一家、萬機務広く、事の大小を問わず、皆聖聴に関わる。陛下は治道に心を留め、疲労を憚らず、また群官が罪を懼れ、自ら決すること能わず、天旨の判を取るによる。奏を聞くこと過多、乃至ば営造の細小の事、出給の軽微の物に至り、一日の内に、百司に酬答し、遂には日旰に至りて食を忘れ、夜分に寝ず、動もすれば文簿に以て、聖躬を憂労す。伏して願わくは、臣の至言を思い、煩務を少しく減じ、以て神を怡ばすを意とし、以て性を養うを懐とし、武王の安楽の義を思い、文王の勤憂の理を念わんことを。若し其の経国大事、臣下の裁断するに非ざる者は、伏して願わくは詳らかに決せられ、自餘の細務は、所司に責成せば、則ち聖體は盡き無疆の寿を尽くし、臣下は覆育の賜を蒙らん」と。帝はこれを見て嘉した。後に旨に忤い免ぜられた。未だ幾ばくもなく、復た視事を令せられ、因りて彧に謂って曰く、「爾が心を改むるなかれ」と。その家貧しきを以て、勅して有司に為に宅を築かしむ。因りて曰く、「柳彧は正直の士、国の宝なり」と。その見重んぜられること此の如し。

原文于時刺史多任武將,類不稱職。彧上表曰:「方今天下太平,四海清謐,共治百姓,須任其才。昔漢光武一代明哲,起自布衣,備知情偽,與二十八將披荊棘,定天下,及功成之後,無所職任。伏見詔書,以上柱國和幹子為杞州刺史,其人年垂八十,鐘鳴漏盡。前任趙州,暗於職務,政由群小,賄賂公行,百姓籲嗟,歌謠滿道。乃云:『老禾不早殺,餘種穢良田。』古人有云:『耕當問奴,織當問婢。』此言各有所能也。幹子弓馬武用,是其所長,治民蒞職,非其所解。至尊思治,無忘寢興,如謂優老尚年,自可厚賜金帛,若令刺舉,所損殊大。臣死而後已,敢不竭誠。」上善之,幹子竟免。有應州刺史唐君明,居母喪,娶雍州長史庫狄士文之從父妹。彧劾之曰:「臣聞天地之位既分,夫婦之禮斯著,君親之義生焉,尊卑之教攸設。是以孝惟行本,禮實身基,自國刑家,率由斯道。竊以愛敬之情,因心至切,喪紀之重,人倫所先。君明鑽燧雖改,在文無變,忽劬勞之痛,成宴爾之親,冒此苴縗,命彼褕翟。不義不昵,《春秋》載其將亡,無禮無儀,詩人欲其遄死。士文贊務神州,名位通顯,整齊風教,四方是則,棄二姓之重匹,違六禮之軌儀。請禁錮終身,以懲風俗。」二人竟坐得罪。隋承喪亂之後,風俗頹壞,彧多所矯正,上甚嘉之。又見上勤於聽受,百僚奏請,多有煩碎,因上疏諫曰:「臣聞自古聖帝,莫過唐、虞,象地則天,布政施化,不為叢脞,是謂欽明。語曰:『天何言哉,四時行焉。』故知人君出令,誡在煩數。是以舜任五臣,堯諮四嶽,設官分職,各有司存,垂拱無為,天下以治。所謂勞於求賢,逸于任使。又云:『天子穆穆,諸侯皇皇。』此言君臣上下,體裁有別。比見四海一家,萬機務廣,事無大小,咸關聖聽。陛下留心治道,無憚疲勞,亦由群官懼罪,不能自決,取判天旨。聞奏過多,乃至營造細小之事,出給輕微之物,一日之內,酬答百司,至乃日旰忘食,夜分未寢,動以文簿,憂勞聖躬。伏願思臣至言,少減煩務,以怡神為意,以養性為懷,思武王安樂之義,念文王勤憂之理。若其經國大事,非臣下裁斷者,伏願詳決,自餘細務,責成所司,則聖體盡無疆之壽,臣下蒙覆育之賜也。」上覽而嘉之。後以忤旨免。未幾,複令視事,因謂彧曰:「無改爾心。」以其家貧,敕有司為之築宅。因曰:「柳彧正直士,國之寶也。」其見重如此。

右僕射の楊素は当途顕貴であり、百僚は憚れ懼れ、敢えて忤う者無し。嘗て少譴あり、勅して南台に送らる。素は貴を恃み、彧の床に坐す。彧は外より来たり、素の此の如きを見て、階下に端笏し容を整えて素に謂って曰く、「勅を奉じて公の罪を治む」と。素は遽かに下る。彧は案に据えて坐し、素を庭に立たせ、事状を辨詰す。素は是よりこれを銜む。彧は時に方に上に信任せられし故、素未だ以て之を中つる無し。

原文右僕射楊素當途顯貴,百僚懾憚,無敢忤者。嘗以少譴,敕送南台。素恃貴,坐彧床。彧從外來,見素如此,於階下端笏整容謂素曰:「奉敕治公之罪。」素遽下。彧據案而坐,立素於庭,辨詰事狀。素由是銜之。彧時方為上所信任,故素未有以中之。

彧は近代以来を見るに、都邑の百姓每に正月十五日に至り、角抵の戯を作り、遞相誇競し、財力を糜費するに至る。上奏して請うて之を禁絶せんとし、曰く、「臣聞く、昔し明王は民を訓え国を治め、法度を率履し、礼典に由りて動く。法に非ざれば服さず、道に非ざれば行わず。道路同じからず、男女別有り、其の邪僻を防ぎ、諸を軌度に納る。窃かに京邑及び外州を見るに、每に正月の望夜を以て、街を充し陌を塞ぎ、戯を聚め遊を朋す。鼓を鳴らして天を聒し、炬を燎らして地を照らし、人は獣面を戴き、男は女服を為し、倡優雑技、詭状異形。穢嫚を以て歓娛と為し、鄙褻を用いて笑楽と為し、内外共に観て、曾って相避けず。高棚路に跨り、広幕雲に陵ぎ、袨服靚妝、車馬填噎す。肴醑肆に陳し、絲竹繁く会し、貲を竭くし産を破り、竟に此の一時を争う。尽室並びに孥、貴賤を問わず、男女混雑し、緇素分かたず。穢行是より生じ、盗賊斯より起る。浸して俗を成す、実に由来有り、敝風に因循し、曾って先覚無し。化に益するに非ず、実に民を損う。請うて天下に頒行し、並びに即ち禁断せん。康なるかな『雅』・『頌』、足らく以て盛徳せいとくの形容を美しめ、鼓腹行歌、自ら無為の至楽を表す。敢えて犯す者有らば、請うて故違勅を以て論ぜん」と。詔して其の奏を可とす。是の歳、節を持ち河北五十二州を巡省し、奏して長吏の贓汙職に称わざる者二百余人を免ず。州県肅然しゅくぜんたり、震懼せざる莫し。上嘉し之、絹布二百匹・氈三十領を賜い、儀同三司に拝す。歳餘、員外散騎常侍を加え、治書は故の如し。仁寿じんじゅ初、復た節を持ち太原道十九州を巡省す。及び還り、絹百五十匹を賜う。

原文彧見近代以來,都邑百姓每至正月十五日,作角抵之戲,遞相誇競,至於糜費財力,上奏請禁絕之,曰:「臣聞昔者明王訓民治國,率履法度,動由禮典。非法不服,非道不行。道路不同,男女有別,防其邪僻,納諸軌度。竊見京邑,爰及外州,每以正月望夜,充街塞陌,聚戲朋遊。鳴鼓聒天,燎炬照地,人戴獸面,男為女服,倡優雜技,詭狀異形。以穢嫚為歡娛,用鄙褻為笑樂,內外共觀,曾不相避。高棚跨路,廣幕陵雲,袨服靚妝,車馬填噎。肴醑肆陳,絲竹繁會,竭貲破產,竟此一時。盡室並孥,無問貴賤,男女混雜,緇素不分。穢行因此而生,盜賊由斯而起。浸以成俗,實有由來,因循敝風,曾無先覺。非益於化,實損於民。請頒行天下,並即禁斷。康哉《雅》、《頌》,足美盛德之形容,鼓腹行歌,自表無為之至樂。敢有犯者,請以故違敕論。」詔可其奏。是歲,持節巡省河北五十二州,奏免長吏贓汙不稱職者二百餘人,州縣肅然,莫不震懼。上嘉之,賜絹布二百匹、氈三十領,拜儀同三司。歲餘,加員外散騎常侍,治書如故。仁壽初,複持節巡省太原道十九州。及還,賜絹百五十匹。

彧は嘗て博陵の李文博の撰する『治道集』十巻を得たり。蜀王秀は人を遣わして之を求む。彧は之を秀に送る。秀は復た彧に奴婢十口を賜う。及び秀罪を得るに及び、楊素は彧を以て内臣として諸侯に交通すと奏し、名を除かれて民と為し、配戍して懐遠鎮とす。行きて高陽に達す。詔有りて征還す。晉陽に至り、漢王諒の乱を作すに値い、使を馳せて彧を召し、将に計事せんとす。彧は使に逼せられ、初め諒の反するを知らず、将に城に入らんとすれども諒の反形已に露わる。彧は免れ得ざるを度り、遂に詐りて中悪し食わず、自ら危篤と称す。諒怒り、之を囚う。及び諒敗るるに及び、楊素は彧が心に両端を懐き、以て事変を候う、跡は反せずと雖も、心は実に逆に同じと奏し、坐して敦煌に徙す。楊素卒して後、乃ち自ら理を申す。詔有りて京師に征還す。道に卒す。子の紹有り、介休令と為る。

原文彧嘗得博陵李文博所撰《治道集》十卷,蜀王秀遣人求之。彧送之於秀,秀複賜彧奴婢十口。及秀得罪,楊素奏彧以內臣交通諸侯,除名為民,配戍懷遠鎮。行達高陽,有詔征還。至晉陽,值漢王諒作亂,遣使馳召彧,將與計事。彧為使所逼,初不知諒反,將入城而諒反形已露。彧度不得免,遂詐中惡不食,自稱危篤。諒怒,囚之。及諒敗,楊素奏彧心懷兩端,以候事變,跡雖不反,心實同逆,坐徙敦煌。楊素卒後,乃自申理,有詔征還京師,卒於道。有子紹,為介休令。

趙綽

原文趙綽

趙綽は河東の人であり、性質は質朴で剛直剛毅であった。周の初めに天官府の史となり、恭謹で勤勉なことにより、夏官府の下士に抜擢された。次第に明敏で有能であることを認められ、累進して内史中士となった。父の喪で職を去り、哀しみのあまり骨と皮ばかりに痩せ衰え、世間はその孝行を称えた。喪が明けると、また掌教中士となった。高祖(楊堅)が丞相となったとき、その清廉で公正なことを知り、録事参軍に抜擢した。まもなく掌朝大夫に昇進し、行軍総管是雲暉に従って叛いた蛮族を討ち、功により儀同の位を授かり、物千段を賜った。高祖が禅譲を受けて帝位につくと、大理丞に任じられた。法を公平に運用し、考課の成績は連続して最上となり、大理正に転じた。まもなく尚書都官侍郎に昇進し、間もなく刑部侍郎に転じた。梁士彦らの事件を審理し、物三百段、奴婢十人、馬二十匹を賜った。罪状を上奏するたびに、顔色を正して侃々と論じ、皇帝(文帝)はこれを嘉し、次第に親しく重用されるようになった。帝は盗賊が止まないことを憂い、その刑罰を重くしようとした。趙綽は進み出て諫めて言った。「陛下は堯・舜の道を行い、寛大な処置を多くしておられます。まして律は天下の大いなる信義であり、それを失うことができましょうか。」帝は喜んでこれを聞き入れ、趙綽に言った。「もしまた何か聞き見ることがあれば、しばしば述べるがよい。」大理少卿に昇進した。かつての陳の将軍蕭摩訶の子の世略が江南で乱を起こしたため、摩訶は連座すべきところであった。帝は言った。「世略は年齢二十に満たず、何ができようか。名将の子であるがゆえに、人に脅迫されただけである。」そこで摩訶を赦そうとした。趙綽は固く諫めて許すべきでないと言った。帝はその意見を退けることができず、趙綽を去らせてから赦そうと、趙綽に食事をとって退出するよう命じた。趙綽は言った。「臣は未決の事件を上奏しており、退朝することはできません。」帝は言った。「大理(趙綽)よ、朕のために特に摩訶を赦せ。」そこで左右の者に命じて摩訶を釈放させた。刑部侍郎辛亶がかつて赤い褌をはいたことがあった。俗に官運に利があると言われていたが、帝はこれを厭勝の呪いであると考え、斬ろうとした。趙綽は言った。「法に照らせば死罪に当たりません。臣は詔を奉じることができません。」帝は大いに怒り、趙綽に言った。「卿は辛亶を惜しんで、自分を惜しまないのか。」左僕射高熲に命じて趙綽を斬らせようとした。趙綽は言った。「陛下は臣を殺すことはできても、辛亶を殺すことはできません。」朝堂に至り、衣を解いて斬られようとしたとき、帝は人を遣わして趙綽に言わせた。「結局どうするのか。」趙綽は答えて言った。「法を執行する一心で、死を惜しみはしません。」帝は衣を払って内に入り、しばらくしてようやく趙綽を釈放した。翌日、趙綽に謝罪し、労い励まして、物三百段を賜った。当時、帝は悪銭の流通を禁じていたが、市場で二人の者が悪銭で良銭と交換していたのを武候が捕らえて報告した。帝はことごとく斬るよう命じた。趙綽は進み出て諫めて言った。「この者たちの罪は杖罰に当たるものであり、殺すのは法に適いません。」帝は言った。「卿の関わることではない。」趙綽は言った。「陛下は臣を愚昧とお考えにならず、司法の官に置いておられます。妄りに人を殺そうとなさるのに、どうして臣の関わることではないと言えましょうか。」帝は言った。「大木を揺さぶっても動かない者は、退くべきである。」趙綽は答えて言った。「臣は天の心を動かしたいと望みます。木が動くかどうかを論じるのではありません。」帝はまた言った。「羹を啜る者、熱ければ置くものだ。天子の威厳を挫こうとするのか。」趙綽は拝礼してさらに前に進み、叱責されても退こうとしなかった。帝はついに内に入った。治書侍御史柳彧がまた上奏して厳しく諫めたので、帝はようやくやめた。帝は趙綽に誠実で直諫する心があるのを知り、しばしば閤中に招き入れ、時に帝と皇后が同じ寝台にいる時でも、趙綽を呼び寄せて座らせ、政治の得失を論評させた。前後にわたる賞賜は万を数えた。その後、開府の位に進み、その父を蔡州刺史として追贈した。当時、河東の薛胄が大理卿であり、ともに公平で寛大であると評判であった。しかし薛胄は情理をもって獄を裁き、趙綽は法を守って裁いたが、ともにその職に適っていた。帝はしばしば趙綽に言った。「朕は卿に対して何も惜しむところはないが、ただ卿の骨相が貴ぶにふさわしくないだけだ。」仁寿年間に在官のまま死去した。時に六十三歳であった。帝はそのために涙を流し、中使を遣わして弔祭させ、鴻臚が喪事を監督した。二人の子、元方と元襲があった。

原文趙綽,河東人也,性質直剛毅。在周初為天官府史,以恭謹恪勤,擢授夏官府下士。稍以明幹見知,累轉內史中士。父艱去職,哀毀骨立,世稱其孝。既免喪,又為掌教中士。高祖為丞相,知其清正,引為錄事參軍。尋遷掌朝大夫,從行軍總管是雲暉擊叛蠻,以功拜儀同,賜物千段。高祖受禪,授大理丞。處法平允,考績連最,轉大理正。尋遷尚書都官侍郎,未幾轉刑部侍郎。治梁士彥等獄,賜物三百段,奴婢十口,馬二十匹。每有奏讞,正色侃然,上嘉之,漸見親重。上以盜賊不禁,將重其法。綽進諫曰:「陛下行堯、舜之道,多存寬宥。況律者天下之大信,其可失乎!」上忻然納之,因謂綽曰:「若更有聞見,宜數陳之也。」遷大理少卿。故陳將蕭摩訶,其子世略在江南作亂,摩訶當從坐。上曰:「世略年未二十,亦何能為!以其名將之子,為人所逼耳。」因赦摩訶。綽固諫不可,上不能奪,欲綽去而赦之,固命綽退食。綽曰:「臣奏獄未決,不敢退朝。」上曰:「大理其為朕特赦摩訶也。」因命左右釋之。刑部侍郎辛亶,嘗衣緋褌,俗雲利於官,上以為厭蠱,將斬之。綽曰:「據法不當死,臣不敢奉詔。」上怒甚,謂綽曰:「卿惜辛亶而不自惜也?」命左僕射高熲將綽斬之,綽曰:「陛下寧可殺臣,不得殺辛亶。」至朝堂,解衣當斬,上使人謂綽曰:「竟何如?」對曰:「執法一心,不敢惜死。」上拂衣而入,良久乃釋之。明日,謝綽,勞勉之,賜物三百段。時上禁行惡錢,有二人在市,以惡錢易好者,武候執以聞,上令悉斬之。綽進諫曰:「此人坐當杖,殺之非法。」上曰:「不關卿事。」綽曰:「陛下不以臣愚暗,置在法司,欲妄殺人,豈得不關臣事?」上曰:「撼大木不動者,當退。」對曰:「臣望感天心,何論動木!」上複曰:「啜羹者,熱則置之。天子之威,欲相挫耶?」綽拜而益前,訶之不肯退。上遂入。治書侍御史柳彧複上奏切諫,上乃止。上以綽有誠直之心,每引入閤中,或遇上與皇后同榻,即呼綽坐,評論得失。前後賞賜萬計。其後進位開府,贈其父為蔡州刺史。時河東薛胄為大理卿,俱名平恕。然胄斷獄以情,而綽守法,俱為稱職。上每謂綽曰:「朕於卿無所愛惜,但卿骨相不當貴耳。」仁壽中卒官,時年六十三。上為之流涕,中使弔祭,鴻臚監護喪事。有二子,元方、元襲。

裴肅

原文裴肅

裴肅は、字を神封といい、河東聞喜の人である。父の裴俠は、周の民部大夫であった。裴肅は若い頃から剛直で器量があり、若くして安定の梁毗と志を同じくして親しく交わった。周に仕え、給事中士として官途につき、累進して禦正下大夫となった。行軍長史として韋孝寬に従い淮南を征討した。時に高祖(楊堅)が丞相となったが、裴肅はこれを聞いて嘆いて言った。「武帝(宇文邕)は雄才をもって天下を平定されたが、その墳土も乾かぬうちに一朝にして革命が起こるとは、これぞ天の道であろうか。」高祖はこれを聞き、甚だ不愉快に思い、これによって裴肅は家に閑居した。開皇五年、膳部侍郎に任じられた。二年後、朔州総管長史に転じ、さらに貝州長史に転じ、いずれも有能な名声があった。仁寿年間、裴肅は皇太子楊勇、蜀王楊秀、左僕射高熲がともに廃位・左遷されるのを見て、使者を遣わして上書し言った。「臣は聞きます。君主に仕える道は、犯顔して隠さずに諫めることにあると。愚かな思いを抱いておりますが、敢えて奏上しないわけにはまいりません。ひそかに見ますに、高熲は天与の優れた才能をもって、元勲として天命を助け、陛下のご寵愛もまたすでに厚くございました。しかし、鬼は高明をうかがい、世間は俊異を疵み、横目でその長短を求める者は、どうして言い尽くせましょうか。願わくは陛下にはその大功を記録され、その小過を忘れられますように。臣はまた聞きます。古代の聖帝は、教え導いて誅殺はされなかったと。陛下の至慈は、前聖を超えておられます。二人の庶人(楊勇・楊秀)が罪を得てから久しくなりますが、どうして心を改めないことがありましょうか。願わくは陛下には君主・父としての慈しみを広げられ、天性の義を顧みられ、それぞれに小国を封じて、その行いをご覧になりますように。もし善に遷ることができれば、次第に封地を増やし、もし悔い改めなければ、貶削するのも遅くはありません。今、自新の道は永久に絶たれ、悔恨の心を見ることもできません。なんと哀れなことではありませんか。」上書が奏上されると、帝は楊素に言った。「裴肅はわが家のことを憂えている。これもまた至誠である。」そこで裴肅を召し出して朝廷に入らせた。皇太子(楊広、後の煬帝)はこれを聞き、左庶子張衡に言った。「勇に自新させようとするのは、何をしようというのか。」張衡は言った。「裴肅の意図を見るに、呉の太伯や漢の東海王(劉疆)のようなことをさせようとしているのでしょう。」皇太子は甚だ不愉快であった。まもなく、裴肅は京師に到着し、含章殿で帝に拝謁した。帝は裴肅に言った。「朕は貴くして天子となり、富んで四海を有するが、後宮で寵愛する者は数人に過ぎず、勇以下はみな同じ母から生まれた兄弟である。憎愛のためではなく、軽々しく廃立したのではない。」そして楊勇を再び取り立てることができないという意向を述べた。その後、裴肅を罷免して帰らせた。間もなく、帝は崩御した。煬帝が位を継ぐと、長らく官職に補されることがなく、裴肅もまた門を閉じて出なかった。後に政権を執る者が嶺表は辺鄙で遠い地であるとして、帝の意を迎えて裴肅を永平郡丞に任じた。裴肅はよく民衆や蛮夷の心を得た。一年余りして死去した。時に六十二歳であった。夷や獠は彼を慕い、鄣江のほとりに廟を建立した。子に尚賢があった。

原文裴肅,字神封,河東聞喜人也。父俠,周民部大夫。肅少剛正有局度,少與安定梁毗同志友善。仕周,釋褐給事中士,累遷禦正下大夫。以行軍長史從韋孝寬征淮南。屬高祖為丞相,肅聞而歎曰:「武帝以雄才定六合,墳土未幹,而一朝遷革,豈天道歟!」高祖聞之,甚不悅,由是廢於家。開皇五年,授膳部侍郎。後二歲,遷朔州總管長史,轉貝州長史,俱有能名。仁壽中,肅見皇太子勇、蜀王秀、左僕射高熲俱廢黜,遣使上書曰:「臣聞事君之道,有犯無隱,愚情所懷,敢不聞奏。竊見高熲以天挺良才,元勳佐命,陛下光寵,亦已優隆。但鬼瞰高明,世疵俊異,側目求其長短者,豈可勝道哉!願陛下錄其大功,忘其小過。臣又聞之,古先聖帝,教而不誅,陛下至慈,度越前聖。二庶人得罪已久,寧無革心?願陛下弘君父之慈,顧天性之義,各封小國,觀其所為。若能遷善,漸更增益,如或不悛,貶削非晚。今者自新之路永絕,愧悔之心莫見,豈不哀哉!」書奏,上謂楊素曰:「裴肅憂我家事,此亦至誠也。」於是征肅入朝。皇太子聞之,謂左庶子張衡曰:「使勇自新,欲何為也?」衡曰:「觀肅之意,欲令如吳太伯、漢東海王耳。」皇太子甚不悅。頃之,肅至京師,見上于含章殿,上謂肅曰:「吾貴為天子,富有四海,後宮寵倖,不過數人,自勇以下,並皆同母,非為憎愛,輕事廢立。」因言勇不可複收之意。既而罷遣之。未幾,上崩。煬帝嗣位,不得調者久之,肅亦杜門不出。後執政者以嶺表荒遐,遂希旨授肅永平郡丞,甚得民夷心。歲餘,卒,時年六十二。夷、獠思之,為立廟于鄣江之浦。有子尚賢。

【論】

原文【論】

史臣が言う。猛獣が山林にいるときは、藜や藿もそのために採られず、正臣が朝廷に立つときは、奸邪な者もそのために謀を折られる。いずれも身を顧みず志を立て、義が顔色に表れている。ただ綱紀がその盛衰によるのみならず、まさに社稷しゃしょくの存亡もこれにかかっているのである。晉王(楊広)と蜀王(楊秀)は、帝の愛する子であり、権勢と寵愛をほしいままにし、法令に拘束されることなく、その恭粛を求めるのは、また難しいことではなかったか。元岩と王韶は、その補佐の任に当たり、ともに厳しく畏れられ、敢えて非を行う者はなく、謇諤の風は、称えるに足るものがあった。劉行本は房陵王(楊勇)の前で顔色を正し、梁毗は楊素に対して直言し、率直な言葉と剛直な気概は、厳然として思い描くことができる。趙綽が大理の職にあったときは、牢獄に冤罪がなく、柳彧が憲台(御史台)にあったときは、奸邪な者もおのずから粛然とした。しかし強権を畏れぬ点では、梁毗にそのありさまがあり、国の過ちを正す職務には、劉行本と柳彧がそれに近い。裴肅は朝に座せず、宴に預からず、忠誠慷慨として、龍の逆鱗に触れることを敢えてした。まさに、寡婦が宗周の滅亡を憂え、処女が太子の若さを悲しんだという故事が、単なる言葉ではないことを知る。前代の記録に比べれば、閻纂の風があったと言えよう。

原文史臣曰:猛獸之處山林,藜藿為之不采;正臣之立朝廷,奸邪為之折謀。皆志在匪躬,義形於色,豈惟綱紀由其隆替,抑亦社稷系以存亡者也。晉、蜀二王,帝之愛子,擅以權寵,莫拘憲令,求其恭肅,不亦難乎!元岩、王韶,任當彼相,並見嚴憚,莫敢為非,謇諤之風,有足稱矣。行本正色于房陵,梁毗抗言于楊素,直辭鯁氣,懍焉可想。趙綽之居大理,囹圄無冤,柳彧之處憲台,奸邪自肅。然不畏強禦,梁毗其有焉,邦之司直,行本、柳彧近之矣。裴肅朝不坐,宴不預,忠誠慷慨,犯忤龍鱗,固知嫠婦憂宗周之亡,處女悲太子之少,非徒語也。方諸前載,有閻纂之風焉。