隋書

巻六十二列傳第二十七 王韶 元巖 劉行本 梁毗 柳彧 趙綽 裴肅

王韶

王韶、字は子相、自ら太原の晉陽の人と云う、代々京兆に居住す。祖父は諧、原州刺史。父は諒、早く卒す。韶は幼にして方正雅量、頗る奇節を好み、識者有りて之を異とす。周に在りて累ねて軍功を以て官は車騎大將軍・議同三司に至る。復た軍正に轉ず。武帝既に晉州を拔き、意は班師せんと欲す。韶諫めて曰く、「齊は紀綱を失ひ、茲に累世に及ぶ。天は王室を獎け、一戰にして其の喉を扼す。加以主は上に昏く、民は下に懼る。亂を取り亡を侮るは、正に今日に在り。方に之を釋して去らんと欲すは、臣の愚固を以てすれば、深く未だ解せず、願くは陛下之を圖らん」と。帝大いに悅び、縑一百匹を賜ふ。齊氏を平げるに及び、功を以て位を開府に進め、晉陽縣公に封ぜられ、邑五百戶、口馬雜畜を賜ふこと萬計に及ぶ。內史中大夫に遷る。宣帝即位し、豐州刺史を拜し、昌樂縣公に改封さる。高祖こうそ禪を受け、爵を項城郡公に進め、邑二千戶。靈州刺史に轉じ、位を大將軍に加ふ。

晉王廣のへい州を鎮むるや、行台右僕射を除し、彩五百匹を賜ふ。韶性剛直、王甚だ之を憚り、每事諮詢し、法度に違はざらしむ。韶嘗て長城を檢行するに奉使し、其の後王池を穿ち三山を起す。韶既に還り、自ら鎖して諫む。王謝して之を罷む。高祖聞きて嘉歎し、金百兩を賜ひ、並びに後宮四人を賜ふ。陳を平ぐるの役、本官を以て元帥府司馬と爲り、師を帥ひ河陽に趣き、大軍と會す。既に壽陽に至り、高熲と軍機を支度し、壅滯する所無し。金陵を克つに及び、韶即ち焉に鎮す。晉王廣班師し、韶を石頭に留めて防遏せしめ、後事を委ぬ、幾歲餘。征還さる。高祖公卿に謂ひて曰く、「晉王幼穉を以て出藩し、遂に能く吳・越を克平し、江湖を綏靜せしむは、子相の力なり」と。是に於て位を柱國に進め、奴婢三百口、綿絹五千段を賜ふ。

開皇十一年、上并州に幸す。其の稱職を以て、特勞勉を加ふ。其の後、上韶に謂ひて曰く、「朕此に至るより、公の鬚鬢漸く白し、乃ち憂勞の致す所か。柱石の望は、唯公に在り、努力勉めよ」と。韶辭謝して曰く、「臣比衰暮、殊に官人を作るを解せず」と。高祖曰く、「是れ何の意ぞ。解せざるは、是れ未だ心を用ひざるのみ」と。韶對へて曰く、「臣昔昏季に在りしとき、猶ほ且く心を用ひ、況や明聖に逢ふや、敢へて罄竭せざらんや。但し神化精微、駑蹇の逮ぶ所に非ず。加以今年六十有六、桑榆雲晚、疇昔に比べ、昏忘又多し。豈敢自ら寬にして、以て身累を速ならしめんや。衰暮を以て、朝綱を虧紊せんことを恐るるのみ」と。上勞して之を遣る。秦王俊并州總管と爲り、仍て長史と爲る。歲餘、驛を馳せて京に入り、勞敝して卒す。時に年六十八。高祖甚だ之を傷惜し、秦王の使者に謂ひて曰く、「爾が王に語れ、我前に子相をして緩やかに來らしめしに、如何ぞ乃ち驛を馳せしむる。我が子相を殺すは、豈に汝に由らざらんや」と。言甚だ悽愴なり。有司して之が爲に宅を立つることを使ふ。曰く、「往者は何ぞ宅を用ゐん。但だ我が深心を表はさんのみ」と。又曰く、「子相我が委寄を受け、十有餘年、終始易はらず、寵章未だ極まらず、我を舍てて死するか」と。發言して涕を流す。因りて子相の封事數十紙を取らしめ、群臣に傳示せしむ。上曰く、「其の直言匡正、裨益甚だ多し。吾每に披尋し、未だ嘗て手を釋かず」と。煬帝即位し、司徒しと尚書令しょうしょれい・靈豳等十州刺史・魏國公を追贈す。子士隆嗣ぐ。

士隆略ね書計を知り、尤も弓馬に便じ、慷慨父の風有り。大業の世、頗る親重せられ、官は備身將軍に至り、耿公に改封さる。數へて山賊を討撃せしめ、往々にして捷有り。越王侗帝を稱す。士隆數千の兵を率ひ江・淮より至る。會す王世充號を僭す。甚だ禮重し之を、尚書右僕射に署す。士隆憂憤し、疽背に發して卒す。

元巖

元巖、字は君山、河南洛陽らくようの人なり。父は禎、魏の敷州刺史。巖は書を讀むを好み、章句を治めず、剛鯁にして器局有り、名節を以て自ら許す。少くして渤海の高熲・太原の王韶と同志友善す。周に仕へ、釋褐して宣威將軍・武賁給事。大塚宰宇文護見て之を器とし、中外記室と爲す。累遷して內史中大夫、昌國縣伯。宣帝位を嗣ぎ、政を爲すこと昏暴なり。京兆郡丞樂運乃ち櫬を輿して朝堂に詣り、帝の八失を陳ぶ。言甚だ切至なり。帝大怒し、將に之を戮せんとす。朝臣皆恐懼し、救ふ者有る莫し。巖人に謂ひて曰く、「臧洪同日、尚ほ俱に死すべし、其れ況や比干をや。若し樂運免れずば、吾將に之と俱に斃れん」と。閣に詣り請見し、帝に言ひて曰く、「樂運書奏すれば必ず死すを知る。身命を顧みざる所以は、後世の名を取らんと欲するなり。陛下若し之を殺さば、乃ち其の名を成し、其の術內に落ちん。勞して之を遣るに如かず、以て聖度を廣むべし」と。運因りて免るることを獲。後帝將に烏丸軌を誅せんとす。巖詔に署することを肯へず。禦正顏之儀切諫すれど入らず。巖進みて之に繼ぎ、巾を脫ぎ顙を頓き、三拜三進す。帝曰く、「汝烏丸軌に党せんと欲するか」と。巖曰く、「臣軌に党せず、正に濫誅して天下の望を失はんことを恐るるのみ」と。帝怒り、閹豎して其の面を搏たしむ。遂に家に廢す。

高祖(楊堅)が丞相となると、開府・民部中大夫の位を加えられた。禅譲を受けると、兵部尚書に任じられ、平昌郡公に爵位を進められ、二千戸を封邑とした。元岩の性格は厳重で、世務に明達し、奏議があるごとに侃々として正色を以てし、朝廷で諍い、面と向かって諫め、回避することはなかった。上(皇帝)及び公卿は皆、彼を敬い畏れた。時に高祖は即位したばかりで、周代の諸侯が微弱であったために滅亡に至ったことを常に戒めとし、これにより諸子を王に分封し、その権力を王室と同等とし、磐石の固さとなすべく、晋王広を并州に、しょく王秀を益州に鎮守させた。二王は共に年が幼く、そこで貞良で重望ある者を厳選してその僚佐とした。当時、元岩と王韶は共に骨鯁として知られ、世間の議論では二人の才能は高熲に匹敵すると称され、これにより元岩を益州総管長史に、王韶を河北道行台右僕射に任じた。高祖は彼らに言った、「公らは宰相の大器である。今、我が子を輔けることを屈するのは、曹参そうしんが斉の相となった意に似ている。」元岩が任地に着くと、法令は明らかで厳粛であり、官吏と民衆はこれを称えた。蜀王は奢侈を好み、嘗て獠の者を捕らえて閹人としようとし、また死囚を生きたまま剖いて胆を薬としようとした。元岩は皆これに従わず、門を押し開けて切に諫めたので、王は謝罪して止め、元岩の人となりを畏れ、常に法度に従った。蜀中の訴訟は、元岩が裁断すると、悦服しない者はなかった。罪を得た者があれば、互いに言った、「平昌公が我に罪を与えたのだから、何を恨むことがあろうか。」上は大いにこれを賞し、賞賜は厚く行き届いた。十三年、任地で卒去した。上は長く悼み惜しんだ。益州の父老は、涙を流さぬ者はなく、今に至るも彼を思っている。元岩が卒去した後、蜀王は遂にその志を行い、次第に法に外れたことを行い、渾天儀・司南車・記里鼓を造り、凡そ身に着けるものは天子に擬した。また妃と共に出猟し、弾丸で人を撃ち、多くの山獠を捕らえて宦官に充てた。僚佐には諫めて止められる者はいなかった。秀が罪を得た時、上は言った、「元岩がもし生きていたならば、我が子がこのようなことをするはずがあろうか。」子の弘が嗣いだ。給事郎・司朝謁者・北平通守を歴任した。

劉行本

劉行本は、はいの人である。父の瑰は梁に仕え、清顕な官職を歴任した。行本は武陵国常侍として官途に就いた。蕭修が梁州を以て北朝(北周)に帰順したのに遇い、叔父の璠と共に周に帰順し、京兆の新豊に寓居した。常に書物を諷読することを事とし、精力を傾けて疲れを忘れ、衣食が乏しく絶えても、平然としていた。性格は剛烈で、奪うべからざる志があった。周の大塚宰宇文護が彼を引き立てて中外府記室とした。武帝が万機を親総すると、御正中士に転じ、起居注を兼ねて領した。累遷して掌朝下大夫となった。周代の故事では、天子が軒に臨む時、掌朝が筆硯を整え、御座に持って至ると、承禦大夫が取って進めることとなっていた。行本が掌朝となった時、帝に筆を進めようとすると、承禦がまた取ろうとした。行本は声を張り上げて承禦に言った、「筆を得ることはできぬ。」帝は驚いて見て問うと、行本は帝に言った、「臣は聞く、官を設け職を分つは、各々司る所存ありと。臣は既に承禦の刀を佩くことを得ず、承禦もまた焉んぞ臣の筆を取ることを得んや。」帝は言った、「然り。」因って二つの司に各々その職を行わせた。宣帝が位を嗣ぐと、多く失徳があり、行本が切に諫めて旨に逆らい、河内太守として出された。

高祖が丞相となると、尉迥が乱を起こし、懐州を攻撃した。行本は吏民を率いてこれを拒ぎ、儀同に任じられ、文安県子の爵を賜った。践祚すると、諫議大夫に征され、治書侍御史を検校した。間もなく、黄門侍郎に遷った。上が嘗て一郎官に怒り、殿前で笞打った。行本が進み出て言った、「この者は元来清廉で、その過ちもまた小さい。願わくは陛下、少し寛大に取り計らわれんことを。」上は顧みなかった。行本はそこで正面から上前に向かって言った、「陛下は臣を不肖とせず、臣を左右に置かれた。臣の言が正しければ、陛下はどうして聴かれぬことがあろうか。臣の言が正しくなければ、理に致して国法を明らかにすべきであり、どうして臣を軽んじて顧みられぬことがあろうか。臣の言うことは私ではない。」因って笏を地に置いて退いた。上は顔色を改めて謝し、遂に笞打った者を赦した。当時天下は大同し、四夷は内附していた。行本は党項羌が封域に密接し、最も後れて服属したことを以て、上表してその使者を弾劾して言った、「臣は聞く、南蛮は校尉こういの統べるに遵い、西域は都護の威を仰ぐと。近頃見るに西羌は鼠窃狗盗し、父に非ず子に非ず、君無く臣無く、異類殊方の中でも、これが最も下である。羈縻の恵を悟らず、含養の恩を知らず、狼戾を心とし、独り正朔に乖いている。使人が近くまで来ている。請う、推問に付せられんことを。」上はその志を奇とした。雍州別駕の元肇が上に言った、「一州吏が、人から三百文の賄賂を受けました。律に依れば杖一百に当たります。然しながら臣が下車の初めに、彼と約束を交わしました。この吏は故意にこれを違えました。徒一年を加えられんことを請います。」行本はこれを駁して言った、「律令を行うには、併せて明詔を発し、民と約束する。今、肇は敢えてその教命を重んじ、憲章を軽んじ忽せにしようとしている。己の言の必ず行われることを申し立てようとし、朝廷の大信を忘れ、法を損なって威を取ろうとするは、人臣の礼に非ず。」上はこれを賞し、絹百匹を賜った。

職に在ること数年、太子左庶子に任じられ、治書(侍御史)を領するは元の如くであった。皇太子は虚心で敬い畏れた。時に唐令則もまた左庶子であったが、太子は彼に昵狎し、常に内人に弦歌を教えることを命じた。行本はこれを責めて言った、「庶子は正しい道を以て太子を匡すべきである。どうして閨房の間に寵愛昵狎することがあろうか。」令則は甚だ慚じたが改めることができなかった。時に沛国の劉臻、平原の明克讓、魏郡の陸爽は共に文学を以て太子に親しまれた。行本は彼らが調護できないことを怒り、常に三人に言った、「卿らはただ読書を解するのみである。」時に左衛率長史の夏侯福が太子に昵狎され、嘗て閣内で太子と戯れた。福は大笑いし、声は外まで聞こえた。行本は時に閣下でこれを聞き、彼が出るのを待って、行本は彼を数えて言った、「殿下は寛容で、汝に顔色を賜うた。汝は何ものの小人ぞ、敢えて褻慢たることを為さんや。」因って執法者に付してこれを治めさせた。数日後、太子が福のために請うたので、ようやく釈放した。太子が嘗て良馬を得て、福に乗せてこれを見させた。太子は甚だ悦び、因って行本にもまた乗せようとした。行本は従わず、正色して進み出て言った、「至尊が臣を庶子の位に置かれたのは、正しい道を以て殿下を輔導せしめんがためであり、殿下のために弄臣とならしめんがためではありません。」太子は慚じて止めた。また本官のまま大興令を領した。権貴はその方正剛直を畏れ、門に至る者はいなかった。これにより請托の路は絶え、法令は清く簡素で、吏民はこれを懐いた。間もなく、任地で卒去した。上は甚だ傷み惜しんだ。太子が廃された時、上は言った、「ああ、もし劉行本が生きていたならば、勇(太子楊勇)はここに及ばなかったであろうに。」子は無かった。

梁毗

梁毗は、字を景和といい、安定郡烏氏県の人である。祖父の越は、魏において涇州・州・洛州の三州刺史となり、郃陽県公に封ぜられた。父の茂は、周において滄州・兗州の二州刺史となった。毗は剛直で口数が少ない性質であり、学問に広く通じていた。周の武帝の時、明経に挙げられ、累進して布憲下大夫となった。北斉平定の役において、毗を行軍総管長史とし、并州を攻略した際、毗は功績があった。別駕に任ぜられ、儀同三司を加えられた。宣政年間(578年)、易陽県子に封ぜられ、邑四百戸を賜った。武蔵大夫に転じた。高祖(文帝)が禅譲を受けると、爵位が侯に進んだ。開皇初年、御史官が設置されると、朝廷は毗が剛直公正であるとして、治書侍御史に任じ、その職にふさわしいと称された。まもなく大興県令に転じ、雍州贊治に遷った。毗はすでに憲司(御史台)を出て、さらに京邑の政務を司ったが、正道を行い、回避することがなく、権貴の心をかなり失い、これにより西寧州刺史として出向し、邯鄲県侯に改封された。州に在ること十一年。これより先、蛮夷の酋長たちは皆、金の冠をかぶり、金の多い者が豪傑とされ、これによって互いに侵奪し合い、しばしば干戈を交え、辺境はほとんど安寧な年がなかった。毗はこれを憂いた。後に諸酋長が相率いて毗に金を贈った際、毗は金を座の傍らに置き、それに向かって慟哭して言うには、「この物は飢えても食うことができず、寒くても着ることができない。汝らはこれによって互いに滅ぼし合い、数え切れぬほどである。今これを持って来たのは、我を殺そうとするのか」と。一切受け取らず、すべて返した。そこで蛮夷は感得して悟り、遂に互いに攻撃しなくなった。高祖はこれを聞いて善しとし、散騎常侍さんきじょうじ・大理卿に召し出した。法を公平に運用し、当時の人々はこれを称えた。一年余りして、上開府に進んだ。

毗は左僕射楊素が貴寵を極め権勢を専らにし、百官が震え上がっているのを見て、国の禍となることを恐れ、封事を上奏して言うには、「臣は聞く、臣下に威福を作すこと無かれと。臣下が威福を作せば、その害は家に及び、凶は国に及ぶ。窃かに見るに、左僕射・越国公楊素は、寵遇がますます重く、権勢は日に日に盛んとなり、士大夫の徒は、その視聴に属している。意に逆らう者には厳しい霜が夏に降り、旨に阿る者には慈雨が冬に降り、栄枯はその唇吻により、廃興はその指麾を待つ。私する者は皆、忠讜の士ではなく、進める者はすべて親戚であり、子弟を各地に配置し、州や県を兼ね連ねている。天下に事がなければ、異心を抱くことを許し、四海に少しでも憂いがあれば、必ず禍の始まりとなろう。奸臣が命令を専らにするのは、漸次を経て来るものである。王莽はこれを積年の資とし、桓玄はこれを易世の基とし、遂には漢の祭祀を絶ち、終には晋の国統を傾けた。季孫が魯を専らにし、田氏が斉をさんしたことは、皆、典籍に載っており、臣の臆説ではない。陛下がもし素を阿衡(宰相)と為さば、臣はその心が必ずしも伊尹ではないことを恐れる。伏して願わくは、古今を照らし合わせて鑑とし、外任として処置し、大いなる基業を永遠に固くし、天下の幸いと為されますように。軽々しく天顔を犯すことを恐れず、伏して斧鑕(処刑)を待つ」と。高祖は大いに怒り、有司に命じて彼を拘禁し、自ら詰問した。毗は極言して言うには、「素はすでに権寵を専らにし、威福を作し、将兵の任にあっては、殺戮は道理をわきまえない。また、太子及び蜀王が罪を得て廃された日、百官は震え慄かない者はなかったが、ただ素のみが眉を上げ肘を奮い、喜びの色を顔に現わし、国家に事あることを利として自身の幸いとしている」と。毗の発言は諤諤として、誠実で明らかな節操があり、高祖も彼を屈服させることができず、遂に釈放した。素はこれ以降、恩寵が次第に衰えた。しかし素は任寄せが重く、多くの者を挫折させ、当時の朝士は震え伏さない者はなく、敢えて是非を論じる者もなかった。辞気が屈しない者は、ただ毗と柳彧、及び尚書右丞李綱のみであった。後に上(文帝)が再び素に専らに委ねなくなったのは、毗の言葉を察したからである。

煬帝が即位すると、刑部尚書に遷り、御史大夫の職務も兼ねた。宇文述が私的に部下の兵士を使役したことを弾劾して奏上したが、帝は述の罪を免じようと議し、毗は固く諫争したため、帝の意に逆らい、遂に張衡に代わって大夫とさせた。毗は憂憤し、数か月して卒去した。帝は吏部尚書牛弘に命じて弔問させ、絹五百匹を贈った。

子の敬真は、大業の世に、大理司直となった。時に帝は光禄大夫魚俱羅の罪を確定させようとし、敬真に命じてその獄を治めさせた。敬真は帝の意を迎えて、彼を極刑に陥れた。間もなく、敬真は病にかかり、俱羅が悪鬼となって現れるのを見て、数日で死んだ。

柳彧

柳彧は、字を幼文といい、河東郡解県の人である。七世の祖の卓は、晋に従って南遷し、襄陽に寓居した。父の仲禮は、梁の将軍となり、敗れて周に帰順し、再び故郷に家を構えた。彧は若くして学問を好み、経史に広く通じていた。周の大塚宰宇文護が彼を引き立てて中外府記室とし、久しくして寧州総管掾として出向した。武帝が親政を始めると、彧は宮門に赴いて試験を求めた。帝は彼を異才と認め、司武中士とした。鄭県令に転じた。北斉平定後、帝は従軍した官人を大いに賞したが、京師に留まった者は対象外であった。彧は上表して言うには、「今、太平が始まろうとしており、信賞は明らかにすべきです。勲功に報い労を酬いるには、まず根本を務めねばなりません。城を屠り邑を破るのは、聖なる規略から出ており、将を斬り旗を抜くのは、必ず神妙な計略によります。もし戈を負い甲を擐えて征戦の労苦にあたる者がいれば、国家を鎮め撫でるには、宿衛が重んじられます。皆、成算(皇帝の計画)を受けており、自分一人の能力によるものではなく、留まって事に従うのも同じであり、功労は等しくなければなりません。皇太子以下には、まことに宗廟を守る功があります。昔、蕭何しょうかが留守をした時、茅土の封は平陽(曹参)に先んじ、穆之(劉穆之)が中央に居た時、没後なお優れた策命を蒙りました。管見を抑えがたく、奉表して以て聞かせます」と。そこで留守の者たちも皆、広く位階を加えられた。

高祖が禅譲を受けると、累進して尚書虞部侍郎となり、母の喪のため職を去った。間もなく、屯田侍郎として起用されたが、固く辞して許されなかった。当時の制度で、三品以上の官は、門前に戟を立てることを許された。左僕射高熲の子の弘德が応国公に封ぜられ、牒を出して戟を請うた。彧は判決して言うには、「僕射の子はさらに別居しておらず、父の戟槊はすでに門外に立てられている。尊は卑を圧する義があり、子は父を避ける礼がある。どうして外門に既に設け、内閤にまた施すことができようか」と。事は遂に行われず、熲はこれを聞いて感嘆し敬服した。後に治書侍御史に遷り、朝廷において厳しい顔色を示し、百官から非常に畏敬され恐れられた。上(文帝)はその剛直さを嘉し、彧に言うには、「大丈夫たるもの、世に名を立てるべきであり、ただおとなしくしているだけではいけない」と。銭十万、米百石を賜った。

当時、刺史は多く武將を任用し、概ね職に適わなかった。柳彧は上表して言うには、「今、天下は太平であり、四海は清らかで静謐である。共に百姓を治めるには、その才能を任用すべきである。昔、漢の光武帝は一代の明哲であり、布衣より起り、情偽を詳らかに知り、二十八將と共に荊棘を披き、天下を定めたが、功成った後は、彼らに職任を与えなかった。伏して詔書を拝見するに、上柱國の和幹子を杞州刺史とするとある。その人は年齢八十に垂れ、鐘鳴き漏れ盡きる。前任の趙州では、職務に暗く、政は群小に由り、賄賂は公行し、百姓は籲嗟し、歌謠は道に満ちた。乃ち云うには、『老禾早く殺さずんば、餘種良田を穢す』と。古人に云う、『耕すには奴に問い、織るには婢に問え』と。これは各々能くする所があるというのである。幹子の弓馬武用は、これが長所であるが、民を治め職に臨むことは、彼の理解するところではない。至尊は治を思し召し、寢興を忘れず、もし老を優れ年を尚ぶと謂わば、自ら厚く金帛を賜うべく、もし刺挙を命ずれば、損なう所は殊に大である。臣は死して後已む、敢えて誠を竭さざらんや」と。帝はこれを善しとし、幹子は遂に免ぜられた。応州刺史の唐君明あり、母の喪に居りながら、雍州長史の庫狄士文の從父妹を娶った。彧はこれを劾して言うには、「臣聞く、天地の位既に分かれ、夫婦の礼斯に著わり、君親の義ここに生じ、尊卑の教ここに設けられたりと。是をもって孝は惟だ行の本、礼は実に身の基、国より家を刑するも、率ねてこの道に由る。窃かに思うに、愛敬の情は、心に因りて至って切なり、喪紀の重さは、人倫の先とする所。君明は鑽燧は改むれども、文においては変わりなく、忽ちに劬労の痛みを忘れ、宴爾の親を成し、この苴縗を冒し、かの褕翟を命ず。不義にして昵まず、『春秋』は其の将に亡ぶを載せ、礼無く儀無く、詩人は其の遄く死なんことを欲す。士文は神州の務めを賛し、名位通顕、風教を整斉し、四方これ則とす。二姓の重匹を棄て、六礼の軌儀に違う。請う、終身禁錮し、以て風俗を懲らしめん」と。二人は遂に罪に坐せられた。隋は喪乱の後を承け、風俗頽壞し、彧は多くこれを矯正し、帝は甚だこれを嘉した。また、帝が聴受に勤め、百僚の奏請多く煩碎なるを見て、因りて上疏して諫めて言うには、「臣聞く、古より聖帝は、唐・虞に過ぎず、地に象り天に則り、政を布き化を施し、叢脞たるを為さず、これ欽明と謂う。語に曰く、『天何をか言わん、四時行わる』と。故に人君の令を出すは、誡むるに煩数に在り。是をもって舜は五臣を任じ、堯は四嶽に諮り、官を設け職を分ち、各々司存有り、垂拱無為にして、天下以て治まる。所謂、賢を求むるに労し、使に任ずるに逸す。又云う、『天子穆穆たり、諸侯皇皇たり』と。これは君臣上下、體裁別有ることを言う。比来、四海一家、萬機務広く、事の大小を問わず、皆聖聴に関わる。陛下は治道に心を留め、疲労を憚らず、また群官が罪を懼れ、自ら決すること能わず、天旨の判を取るによる。奏を聞くこと過多、乃至ば営造の細小の事、出給の軽微の物に至り、一日の内に、百司に酬答し、遂には日旰に至りて食を忘れ、夜分に寝ず、動もすれば文簿に以て、聖躬を憂労す。伏して願わくは、臣の至言を思い、煩務を少しく減じ、以て神を怡ばすを意とし、以て性を養うを懐とし、武王の安楽の義を思い、文王の勤憂の理を念わんことを。若し其の経国大事、臣下の裁断するに非ざる者は、伏して願わくは詳らかに決せられ、自餘の細務は、所司に責成せば、則ち聖體は盡き無疆の寿を尽くし、臣下は覆育の賜を蒙らん」と。帝はこれを見て嘉した。後に旨に忤い免ぜられた。未だ幾ばくもなく、復た視事を令せられ、因りて彧に謂って曰く、「爾が心を改むるなかれ」と。その家貧しきを以て、勅して有司に為に宅を築かしむ。因りて曰く、「柳彧は正直の士、国の宝なり」と。その見重んぜられること此の如し。

右僕射の楊素は当途顕貴であり、百僚は憚れ懼れ、敢えて忤う者無し。嘗て少譴あり、勅して南台に送らる。素は貴を恃み、彧の床に坐す。彧は外より来たり、素の此の如きを見て、階下に端笏し容を整えて素に謂って曰く、「勅を奉じて公の罪を治む」と。素は遽かに下る。彧は案に据えて坐し、素を庭に立たせ、事状を辨詰す。素は是よりこれを銜む。彧は時に方に上に信任せられし故、素未だ以て之を中つる無し。

彧は近代以来を見るに、都邑の百姓每に正月十五日に至り、角抵の戯を作り、遞相誇競し、財力を糜費するに至る。上奏して請うて之を禁絶せんとし、曰く、「臣聞く、昔し明王は民を訓え国を治め、法度を率履し、礼典に由りて動く。法に非ざれば服さず、道に非ざれば行わず。道路同じからず、男女別有り、其の邪僻を防ぎ、諸を軌度に納る。窃かに京邑及び外州を見るに、每に正月の望夜を以て、街を充し陌を塞ぎ、戯を聚め遊を朋す。鼓を鳴らして天を聒し、炬を燎らして地を照らし、人は獣面を戴き、男は女服を為し、倡優雑技、詭状異形。穢嫚を以て歓娛と為し、鄙褻を用いて笑楽と為し、内外共に観て、曾って相避けず。高棚路に跨り、広幕雲に陵ぎ、袨服靚妝、車馬填噎す。肴醑肆に陳し、絲竹繁く会し、貲を竭くし産を破り、竟に此の一時を争う。尽室並びに孥、貴賤を問わず、男女混雑し、緇素分かたず。穢行是より生じ、盗賊斯より起る。浸して俗を成す、実に由来有り、敝風に因循し、曾って先覚無し。化に益するに非ず、実に民を損う。請うて天下に頒行し、並びに即ち禁断せん。康なるかな『雅』・『頌』、足らく以て盛徳の形容を美しめ、鼓腹行歌、自ら無為の至楽を表す。敢えて犯す者有らば、請うて故違勅を以て論ぜん」と。詔して其の奏を可とす。是の歳、節を持ち河北五十二州を巡省し、奏して長吏の贓汙職に称わざる者二百余人を免ず。州県肅然たり、震懼せざる莫し。上嘉し之、絹布二百匹・氈三十領を賜い、儀同三司に拝す。歳餘、員外散騎常侍を加え、治書は故の如し。仁寿初、復た節を持ち太原道十九州を巡省す。及び還り、絹百五十匹を賜う。

彧は嘗て博陵の李文博の撰する『治道集』十巻を得たり。蜀王秀は人を遣わして之を求む。彧は之を秀に送る。秀は復た彧に奴婢十口を賜う。及び秀罪を得るに及び、楊素は彧を以て内臣として諸侯に交通すと奏し、名を除かれて民と為し、配戍して懐遠鎮とす。行きて高陽に達す。詔有りて征還す。晉陽に至り、漢王諒の乱を作すに値い、使を馳せて彧を召し、将に計事せんとす。彧は使に逼せられ、初め諒の反するを知らず、将に城に入らんとすれども諒の反形已に露わる。彧は免れ得ざるを度り、遂に詐りて中悪し食わず、自ら危篤と称す。諒怒り、之を囚う。及び諒敗るるに及び、楊素は彧が心に両端を懐き、以て事変を候う、跡は反せずと雖も、心は実に逆に同じと奏し、坐して敦煌に徙す。楊素卒して後、乃ち自ら理を申す。詔有りて京師に征還す。道に卒す。子の紹有り、介休令と為る。

趙綽

趙綽は河東の人であり、性質は質朴で剛直剛毅であった。周の初めに天官府の史となり、恭謹で勤勉なことにより、夏官府の下士に抜擢された。次第に明敏で有能であることを認められ、累進して内史中士となった。父の喪で職を去り、哀しみのあまり骨と皮ばかりに痩せ衰え、世間はその孝行を称えた。喪が明けると、また掌教中士となった。高祖(楊堅)が丞相となったとき、その清廉で公正なことを知り、録事参軍に抜擢した。まもなく掌朝大夫に昇進し、行軍総管是雲暉に従って叛いた蛮族を討ち、功により儀同の位を授かり、物千段を賜った。高祖が禅譲を受けて帝位につくと、大理丞に任じられた。法を公平に運用し、考課の成績は連続して最上となり、大理正に転じた。まもなく尚書都官侍郎に昇進し、間もなく刑部侍郎に転じた。梁士彦らの事件を審理し、物三百段、奴婢十人、馬二十匹を賜った。罪状を上奏するたびに、顔色を正して侃々と論じ、皇帝(文帝)はこれを嘉し、次第に親しく重用されるようになった。帝は盗賊が止まないことを憂い、その刑罰を重くしようとした。趙綽は進み出て諫めて言った。「陛下は堯・舜の道を行い、寛大な処置を多くしておられます。まして律は天下の大いなる信義であり、それを失うことができましょうか。」帝は喜んでこれを聞き入れ、趙綽に言った。「もしまた何か聞き見ることがあれば、しばしば述べるがよい。」大理少卿に昇進した。かつての陳の将軍蕭摩訶の子の世略が江南で乱を起こしたため、摩訶は連座すべきところであった。帝は言った。「世略は年齢二十に満たず、何ができようか。名将の子であるがゆえに、人に脅迫されただけである。」そこで摩訶を赦そうとした。趙綽は固く諫めて許すべきでないと言った。帝はその意見を退けることができず、趙綽を去らせてから赦そうと、趙綽に食事をとって退出するよう命じた。趙綽は言った。「臣は未決の事件を上奏しており、退朝することはできません。」帝は言った。「大理(趙綽)よ、朕のために特に摩訶を赦せ。」そこで左右の者に命じて摩訶を釈放させた。刑部侍郎辛亶がかつて赤い褌をはいたことがあった。俗に官運に利があると言われていたが、帝はこれを厭勝の呪いであると考え、斬ろうとした。趙綽は言った。「法に照らせば死罪に当たりません。臣は詔を奉じることができません。」帝は大いに怒り、趙綽に言った。「卿は辛亶を惜しんで、自分を惜しまないのか。」左僕射高熲に命じて趙綽を斬らせようとした。趙綽は言った。「陛下は臣を殺すことはできても、辛亶を殺すことはできません。」朝堂に至り、衣を解いて斬られようとしたとき、帝は人を遣わして趙綽に言わせた。「結局どうするのか。」趙綽は答えて言った。「法を執行する一心で、死を惜しみはしません。」帝は衣を払って内に入り、しばらくしてようやく趙綽を釈放した。翌日、趙綽に謝罪し、労い励まして、物三百段を賜った。当時、帝は悪銭の流通を禁じていたが、市場で二人の者が悪銭で良銭と交換していたのを武候が捕らえて報告した。帝はことごとく斬るよう命じた。趙綽は進み出て諫めて言った。「この者たちの罪は杖罰に当たるものであり、殺すのは法に適いません。」帝は言った。「卿の関わることではない。」趙綽は言った。「陛下は臣を愚昧とお考えにならず、司法の官に置いておられます。妄りに人を殺そうとなさるのに、どうして臣の関わることではないと言えましょうか。」帝は言った。「大木を揺さぶっても動かない者は、退くべきである。」趙綽は答えて言った。「臣は天の心を動かしたいと望みます。木が動くかどうかを論じるのではありません。」帝はまた言った。「羹を啜る者、熱ければ置くものだ。天子の威厳を挫こうとするのか。」趙綽は拝礼してさらに前に進み、叱責されても退こうとしなかった。帝はついに内に入った。治書侍御史柳彧がまた上奏して厳しく諫めたので、帝はようやくやめた。帝は趙綽に誠実で直諫する心があるのを知り、しばしば閤中に招き入れ、時に帝と皇后が同じ寝台にいる時でも、趙綽を呼び寄せて座らせ、政治の得失を論評させた。前後にわたる賞賜は万を数えた。その後、開府の位に進み、その父を蔡州刺史として追贈した。当時、河東の薛胄が大理卿であり、ともに公平で寛大であると評判であった。しかし薛胄は情理をもって獄を裁き、趙綽は法を守って裁いたが、ともにその職に適っていた。帝はしばしば趙綽に言った。「朕は卿に対して何も惜しむところはないが、ただ卿の骨相が貴ぶにふさわしくないだけだ。」仁寿年間に在官のまま死去した。時に六十三歳であった。帝はそのために涙を流し、中使を遣わして弔祭させ、鴻臚が喪事を監督した。二人の子、元方と元襲があった。

裴肅

裴肅は、字を神封といい、河東聞喜の人である。父の裴俠は、周の民部大夫であった。裴肅は若い頃から剛直で器量があり、若くして安定の梁毗と志を同じくして親しく交わった。周に仕え、給事中士として官途につき、累進して禦正下大夫となった。行軍長史として韋孝寬に従い淮南を征討した。時に高祖(楊堅)が丞相となったが、裴肅はこれを聞いて嘆いて言った。「武帝(宇文邕)は雄才をもって天下を平定されたが、その墳土も乾かぬうちに一朝にして革命が起こるとは、これぞ天の道であろうか。」高祖はこれを聞き、甚だ不愉快に思い、これによって裴肅は家に閑居した。開皇五年、膳部侍郎に任じられた。二年後、朔州総管長史に転じ、さらに貝州長史に転じ、いずれも有能な名声があった。仁寿年間、裴肅は皇太子楊勇、蜀王楊秀、左僕射高熲がともに廃位・左遷されるのを見て、使者を遣わして上書し言った。「臣は聞きます。君主に仕える道は、犯顔して隠さずに諫めることにあると。愚かな思いを抱いておりますが、敢えて奏上しないわけにはまいりません。ひそかに見ますに、高熲は天与の優れた才能をもって、元勲として天命を助け、陛下のご寵愛もまたすでに厚くございました。しかし、鬼は高明をうかがい、世間は俊異を疵み、横目でその長短を求める者は、どうして言い尽くせましょうか。願わくは陛下にはその大功を記録され、その小過を忘れられますように。臣はまた聞きます。古代の聖帝は、教え導いて誅殺はされなかったと。陛下の至慈は、前聖を超えておられます。二人の庶人(楊勇・楊秀)が罪を得てから久しくなりますが、どうして心を改めないことがありましょうか。願わくは陛下には君主・父としての慈しみを広げられ、天性の義を顧みられ、それぞれに小国を封じて、その行いをご覧になりますように。もし善に遷ることができれば、次第に封地を増やし、もし悔い改めなければ、貶削するのも遅くはありません。今、自新の道は永久に絶たれ、悔恨の心を見ることもできません。なんと哀れなことではありませんか。」上書が奏上されると、帝は楊素に言った。「裴肅はわが家のことを憂えている。これもまた至誠である。」そこで裴肅を召し出して朝廷に入らせた。皇太子(楊広、後の煬帝)はこれを聞き、左庶子張衡に言った。「勇に自新させようとするのは、何をしようというのか。」張衡は言った。「裴肅の意図を見るに、呉の太伯や漢の東海王(劉疆)のようなことをさせようとしているのでしょう。」皇太子は甚だ不愉快であった。まもなく、裴肅は京師に到着し、含章殿で帝に拝謁した。帝は裴肅に言った。「朕は貴くして天子となり、富んで四海を有するが、後宮で寵愛する者は数人に過ぎず、勇以下はみな同じ母から生まれた兄弟である。憎愛のためではなく、軽々しく廃立したのではない。」そして楊勇を再び取り立てることができないという意向を述べた。その後、裴肅を罷免して帰らせた。間もなく、帝は崩御した。煬帝が位を継ぐと、長らく官職に補されることがなく、裴肅もまた門を閉じて出なかった。後に政権を執る者が嶺表は辺鄙で遠い地であるとして、帝の意を迎えて裴肅を永平郡丞に任じた。裴肅はよく民衆や蛮夷の心を得た。一年余りして死去した。時に六十二歳であった。夷や獠は彼を慕い、鄣江のほとりに廟を建立した。子に尚賢があった。

【論】

史臣が言う。猛獣が山林にいるときは、藜や藿もそのために採られず、正臣が朝廷に立つときは、奸邪な者もそのために謀を折られる。いずれも身を顧みず志を立て、義が顔色に表れている。ただ綱紀がその盛衰によるのみならず、まさに社稷の存亡もこれにかかっているのである。晉王(楊広)と蜀王(楊秀)は、帝の愛する子であり、権勢と寵愛をほしいままにし、法令に拘束されることなく、その恭粛を求めるのは、また難しいことではなかったか。元岩と王韶は、その補佐の任に当たり、ともに厳しく畏れられ、敢えて非を行う者はなく、謇諤の風は、称えるに足るものがあった。劉行本は房陵王(楊勇)の前で顔色を正し、梁毗は楊素に対して直言し、率直な言葉と剛直な気概は、厳然として思い描くことができる。趙綽が大理の職にあったときは、牢獄に冤罪がなく、柳彧が憲台(御史台)にあったときは、奸邪な者もおのずから粛然とした。しかし強権を畏れぬ点では、梁毗にそのありさまがあり、国の過ちを正す職務には、劉行本と柳彧がそれに近い。裴肅は朝に座せず、宴に預からず、忠誠慷慨として、龍の逆鱗に触れることを敢えてした。まさに、寡婦が宗周の滅亡を憂え、処女が太子の若さを悲しんだという故事が、単なる言葉ではないことを知る。前代の記録に比べれば、閻纂の風があったと言えよう。