崔仲方
崔仲方は、字を不齊といい、博陵安平の人である。祖父の孝芬は、魏の荊州刺史であった。父の宣猷は、周の小司徒であった。仲方は若くして読書を好み、文武の才幹があった。十五歳の時、周の太祖(宇文泰)が彼を見て異才と認め、諸子と共に学ばせた。当時高祖(楊堅)もその中にいて、これにより高祖と幼少より親密に交わった。後に明経をもって晉公宇文護の参軍事となり、まもなく記室に転じ、司玉大夫に遷り、斛斯徵、柳敏らと共に礼律を修定した。後に軍功により、平東将軍・銀青光禄大夫を授けられ、石城県男の爵を賜り、邑三百戸を食んだ。時に武帝はひそかに斉を滅ぼす志があり、仲方は二十の策を献じ、帝は大いにこれを奇とした。後に少内史の趙芬と共に格式を刪定した。まもなく帝に従って晉州を攻め、斉の亜将崔景嵩が内応を請うたので、仲方は段文振らと共に城に登って応接し、ついに晉州を陥れた。その話は『文振傳』にある。また仲方に命じて翼城など四城を説得させ、これを降した。儀同を授けられ、范陽県侯に爵位を進めた。後に行軍長史として郯公王軌に従い呂梁で陳の将軍呉明徹を捕らえたが、仲方の計策が多かった。宣帝が位を嗣ぐと、少内史となり、淮南に使いして還った。
ちょうど帝が崩御し、高祖が丞相となると、仲方と相見え、手を握って大いに歓び、仲方もまた心を帰した。その夜、時宜に適う十八事を上書し、高祖はことごとく嘉してこれを採用した。また衆望の帰するところを見て、ひそかに高祖に天命に応じて帝位を受けるよう勧め、高祖はこれに従った。禅譲を受けると、上(高祖)は仲方を召し出し、高熲と正朔と服色の事を議させた。仲方は言った。「晉は金行であり、後魏は水行、周は木行である。皇家は火をもって木を承け、天の統を得ています。また聖躬がご誕生の初めに、赤光の瑞祥がありました。車・服・旗・犠牲は、すべて赤を用いるべきです。」また上に六官を除くよう勧め、漢・魏の旧制に依るよう請うた。上はすべてこれに従った。上開府に位を進め、まもなく司農少卿に転じ、安固県公に爵位を進めた。丁壮三万を徴発し、朔方・霊武に長城を築かせ、東は黄河に至り、西は綏州に拒ぎ、南は勃出嶺に至り、七百里にわたって連なった。翌年、上はまた仲方に命じて丁壮十五万を徴発し、朔方より以東の辺境の険要に数十城を築かせ、胡寇を防がせた。
父の喪に服して職を去った。喪期が終わらないうちに、起用されて虢州刺史となった。上書して陳を取る策を論じて言った。
上はこれを見て大いに喜び、基州刺史に転じ、朝廷に征召した。仲方はそこで経略を面陳し、上はこれを善とし、御袍袴と雑彩五百段を賜り、開府に位を進めて遣わした。大挙して陳を伐つ時、仲方を以て行軍総管とし、兵を率いて秦王と会わせた。陳が平定されると、事に坐して免官された。まもなく、復位した。数年後、会州総管に転じた。時に諸羌はまだ帰附しておらず、詔して仲方にこれを撃たせた。賊と三十余戦し、紫祖・四隣・望方・渉題・幹碉・小鉄囲山・白男王・弱水等の諸部をことごとく平定した。奴婢一百三十口、黄金三十斤、雑物を賜り、これに相当した。
于仲文
于仲文、字は次武、建平公于義の兄の子なり。父は寔、周の大左輔・燕国公。仲文は少にして聡明敏達、幼少より学に就き、耽読倦まず。其の父之を異として曰く、「此の児必ず吾が宗を興さん」と。九歳の時、嘗て雲陽宮にて周の太祖に謁し、太祖問うて曰く、「児の書を好むを聞く、書には何事あるや」と。仲文対えて曰く、「父に資へ君に事ふるは、忠孝のみ」と。太祖甚だ之を嗟歎す。其の後博士李祥に就きて『周易』・『三礼』を受く。大義を略通す。長ずるに及んで、倜儻として大志有り、気調英抜、当時に名公子と号せらる。起家して趙王の属と為り、尋いで安固太守に遷る。任・杜両家有りて各々牛を失ひ、後一牛を得、両家俱に之を認むるも、州郡久しく決する能はず。益州長史韓伯俊曰く、「于安固は少にして聡察有り、之をして決せしむべし」と。仲文対えて曰く、「此れ易く解く可きのみ」と。是に於て二家をして各々牛群を駆り至らしめ、乃ち認むる所の者を放ち、遂に任氏の群中に向かふ。又陰かに人をして微かに其の牛を傷つけしむるに、任氏は嗟惋し、杜家は自若たり。仲文是に於て杜氏を詰責し、杜氏服罪して去る。始州刺史屈突尚は、宇文護の党なり、先づ事に坐して獄に下り、敢えて之を糺す者無し。仲文郡に至り窮治し、遂に其の獄を竟ふ。蜀中に之が為に語りて曰く、「明断無双は于公に有り、強禦を避けざるは次武に有り」と。未だ幾ばくもせず、征せられて御正下大夫と為り、延寿郡公に封ぜられ、邑三千五百戸。数たび征伐に従ひ、勲を累ねて儀同三司を授けらる。宣帝の時、東郡太守と為る。
高祖丞相と為るや、尉遅迥乱を作し、将檀讓を遣わして河南の地を収めしむ。復た人をして仲文を誘致せしむるも、仲文之を拒む。迥其の己に同ぜざるを怒り、儀同宇文威を遣わして之を攻む。仲文迎撃し、大いに威の衆を破り、首級五百余を斬る。功を以て開府を授く。迥又た其の将宇文胄を遣わして石済を渡らしめ、宇文威・鄒紹をして白馬よりす、二道俱に進み、復た仲文を攻む。賊勢愈よ盛んにして、人情大いに駭く、郡人赫連僧伽・敬子哲衆を率ひて迥に応ず。仲文自ら度るに支ふる能はざるを以て、妻子を棄て、六十余騎を将ひ、城の西門を開き、囲を潰して遁る。賊に追はれ、且つ戦ひ且つ行き、従ふ騎戦死する者十に七、八。仲文僅かに免るるを得て、京師に達す。迥是に於て其の三子一女を屠る。高祖之を見て、臥内に引入れ、之が為に泣を下す。綵五百段、黄金二百両を賜ひ、位を進めて大将軍と為し、河南道行軍総管を領す。鼓吹を給し、伝駅を馳せて洛陽に詣らしめ兵を発し、以て檀讓を討たしむ。時に韋孝寬永橋に於て迥を拒ぐ、仲文孝寬に詣り計議有り。時に総管宇文忻頗る自疑の心有り、因りて仲文に謂ひて曰く、「公新たに京師より来る、執政の意如何なるを観るや。尉遅迥誠に平らぐに足らず、正に事寧みし後の、更に弓を蔵るるの慮有らんことを恐る」と。仲文忻の変を生ずるを懼れ、因りて之に謂ひて曰く、「丞相は寛仁大度、明識余り有り、苟くも能く誠を竭くせば、必ず心に貳無からん。仲文京師に在りて三日、頻りに三善を見る、此を以て観れば、尋常の人に非ず」と。忻曰く、「三善如何」と。仲文曰く、「陳万敵と云ふ者有り、新たに賊中より来り、即ち其の弟難敵をして郷曲を召募し、軍に従ひて賊を討たしむ。此れ其の大度有る一なり。上士宋謙、使いを奉じて勾検す、謙此に縁りて別に他罪を求む。丞相之を責めて曰く、『網に入る者は自ら推求す可し、何ぞ別に訪ふを須ひて、以て大體を虧かんや』と。此れ其の人私を求めざる二なり。仲文の妻子に言及するに、嘗て潸泫せざること無し。此れ其の仁心有る三なり」と。忻此より遂に安んず。
仲文軍汴州の東倪塢に至り、迥の将劉子昂・劉浴德等と相遇ひ、進撃して之を破る。軍蓼堤に次し、梁郡を去ること七里、讓衆数万を擁す。仲文羸師を以て挑戦す。讓衆を悉くして来り拒ぐ、仲文偽りに北し、讓の軍頗る驕る。是に於て精兵を遣わして左右翼より之を撃ち、大いに讓の軍を敗り、生け捕り五千余人、斬首七百級。進みて梁郡を攻む、迥の守将劉子寬城を棄てて遁走す。仲文追撃し、数千人を擒斬し、子寬僅かに身を以て免る。初め、仲文蓼堤に在りし時、諸将皆曰く、「軍遠より来り、士馬疲弊す、勝を決す可からず」と。仲文三軍に趣いて食はしめ、陣を列ねて大戦す。既にして賊を破りし後、諸将皆請ひて曰く、「前兵疲れて交戦す可からずと雖も、竟に克勝せり、其の計安在りや」と。仲文笑ひて曰く、「吾が将兵は皆山東の人、速進に果にして、持久に宜しからず。勢に乗じて之を撃つ、是を以て勝を制す」と。諸将皆以て及ぶ所に非ざりしと為す。進みて曹州を撃ち、迥の署する所の刺史李仲康及び上儀同房勁を獲る。檀讓余衆を以て城武に屯し、別将高士儒万人を以て永昌に屯す。仲文詐りに州県に移書して曰く、「大将軍至る、粟を多く積む可し」と。讓仲文の卒かに至る能はざるを謂ひ、方に牛を槌きて士を享く。仲文其の怠るを知り、精騎を選びて之を襲ひ、一日にして便に至り、遂に城武を抜く。迥の将席毗羅、衆十万、沛県に屯し、将に徐州を攻めんとす。其の妻子は金郷に在り。仲文人を遣わし詐りに毗羅の使者と為り、金郷城主徐善淨に謂ひて曰く、「檀讓明日午時に金郷に到り、将に蜀公の令を宣べ、将士を賞賜せん」と。金郷人は信然と為し、皆喜ぶ。仲文精兵を簡び、詐りに迥の旗幟を建て、道を倍して進む。善淨仲文の軍将に至らんとするを見るに、檀讓と以為ひ、乃ち出で迎謁す。仲文之を執り、遂に金郷を取る。諸将多く之を屠るを勧むるも、仲文曰く、「此の城は毗羅の兵を起す所なり、当に其の妻子を寛くすべく、其の兵自ら帰る可し。若し即ち之を屠らば、彼望み絶ゆ」と。衆皆善しと称す。是に於て毗羅衆を恃み来たりて官軍に薄くす、仲文城に背きて陣を結び、軍を去ること数里、伏を麻田中に設く。両陣纔に合するや、伏兵発ち、俱に柴を曳き鼓噪し、塵埃天に張る。毗羅の軍大いに潰え、仲文之に乗ず、賊皆洙水に投じて死し、之が為に流れず。檀讓を獲て、檻車に載せて京師に送る。河南悉く平ぐ。毗羅滎陽の人家に匿るるも、執りて斬り、首を闕下に伝う。石を勒して功を紀し、泗上に樹つ。
朝に入り京師に詣る、高祖臥内に引入れ、宴享極めて歓ぶ。雑綵千余段、妓女十人を賜ひ、柱国・河南道大行台を拝す。高祖の禅を受くるに属し、行はれず。未だ幾ばくもせず、其の叔父太尉于翼事に坐して獄に下り、仲文亦た吏の簿せらるる所と為り、獄中に於て上書して曰く、
上は表を覧て、翼とともにこれを釈放した。
間もなく、詔して仲文に兵を率いさせ白狼塞に屯して胡に備えさせた。翌年、行軍元帥に拝し、十二総管を統率して胡を撃たせた。服遠鎮より出で、虜に遇い、これを破り、千余級を斬首し、六畜巨万を計上した。ここにおいて金河より出で白道を経て、総管辛明瑾・元滂・賀蘭志・呂楚・段諧ら二万人を盛楽道より出でさせ、那頡山に向かわせた。護軍川の北に至り、虜と相遇う。可汗は仲文の軍容が斉粛なるを見て、戦わずして退いた。仲文は精騎五千を率い、山を逾えてこれを追ったが、及ばずして還った。上は尚書の文簿が繁雑で、吏に奸計が多いのを憂い、仲文に省中の事を勘録させた。その発擿するところ甚だ多く、上はその明断を嘉し、厚く労賞を加えた。上は毎度転運が給せぬことを憂い、仲文は渭水を決し、漕渠を開くことを請うた。上はこれを然とし、仲文にその事を総させた。陳を伐つ役においては、行軍総管に拝し、舟師を以て章山より出で漢口に至った。陳の郢州刺史荀法尚・魯山城主誕法澄・鄧沙彌らが降伏を請うたので、秦王俊は皆仲文に兵を以てこれを納めさせた。高智慧らが江南に乱を起こすと、再び行軍総管としてこれを討った。時に三軍食に乏しく、米粟が踊貴したので、仲文は私的に軍糧を糶し、坐して除名された。翌年、官爵を復し、兵を率いて馬邑に屯して胡に備えた。数十日で罷めた。
晉王広は仲文に将領の才あるを以て、常に属意し、ここに至ってこれを奏上し、乃ち晉王の軍府事を督せしめた。後に突厥が塞を犯すと、晉王が元帥となり、仲文に前軍を将させ、賊を大破して還った。仁寿初年、太子右衛率に拝した。煬帝即位後、右翊衛大將軍に遷り、文武の選事に参掌した。帝に従って吐谷渾を討ち、光禄大夫に進位し、甚だ親幸された。遼東の役では、仲文は軍を率いて楽浪道を指した。軍が烏骨城に次ぐと、仲文は羸馬驢数千を選び、軍の後に置いた。既にして衆を率いて東に過ぎると、高麗が兵を出して輜重を掩襲したので、仲文は回撃してこれを大破した。鴨緑水に至ると、高麗の将乙支文德が詐降し、その営に入って来た。仲文は先に密旨を受けていた。もし高元及び文德に遇えば、必ずこれを擒らえるべし、と。ここに至り文德が来たので、仲文はこれを執らんとした。時に尚書右丞劉士龍が慰撫使としており、固くこれを止めた。仲文は遂に文德を捨てた。間もなく後悔し、人を遣わして文德を欺いて言うには、「さらに言議有り、また来るべし」と。文德は従わず、遂に渡河した。仲文は騎を選び水を渡ってこれを追い、戦う毎に賊を破った。文德は仲文に詩を遺して言うには、「神策は天文を究め、妙算は地理を窮む。戦勝の功既に高く、足るを知りて願わくは雲に止まん」と。仲文は書を答えてこれを諭したが、文德は柵を焼いて遁走した。時に宇文述は糧尽きて還らんとしたが、仲文は精鋭を以て文德を追えば、功有るべしと議した。述は固くこれを止めたので、仲文は怒って言うには、「将軍は十万の衆を仗して、小賊を破ること能わず、何の顔あって帝に見えんや。且つ仲文のこの行いは、固より功無からん」と。述は因って厲声して言うには、「何を以て功無きを知るや」と。仲文は言うには、「昔、周亞夫の将たるや、天子の軍容を見て変ぜざりき。これは一人に決する所以にして、功を成し名を遂ぐる所以なり。今者は人各々其の心あり、何を以て敵に赴かんや」と。初め、帝は仲文に計畫有りとし、諸軍に諮稟節度せしめたので、故にこの言有り。これにより述らは已むを得ずしてこれに従い、遂に行った。東に薩水に至り、宇文述は兵餒えて退帰し、師は遂に敗績した。帝は吏に属し、諸将は皆罪を仲文に委ねた。帝は大怒し、諸将を釈放し、独り仲文を繫いだ。仲文は憂恚して病を発し、困篤に及んでようやくこれを出し、家に卒した。時に年六十八。『漢書刊繁』三十巻・『略覧』三十巻を撰す。子九人有り、欽明最も知名なり。
兄顗
顗は字を元武といい、身長八尺、鬚眉美なり。周の大塚宰宇文護これを見て器とし、季女を妻とす。間もなく父の勲により爵を新野郡公に賜い、邑三千戸。大都督を授け、車騎大將軍・儀同三司に遷る。その後累ねて軍功により、上開府を授かり、左・右宮伯、郢州刺史を歴任す。大象年中、水軍総管として韋孝寬に従い淮南を経略す。顗は開府元紹貴・上儀同毛猛らを率い、舟師を以て潁口より淮に入る。陳の防主潘深は柵を棄てて走り、進んで孝寬とともに寿陽を攻め抜く。さらに師を引きいて硤石を囲むと、守将許約は懼れて降伏し、顗は乃ち東広州刺史に拝せらる。
尉遅迥の反するや、時に総管趙文表は顗と素より協わず、顗はこれを図らんとし、因って閣内に臥し、詐って心疾を得たりとし、左右に謂うには、「我れ二三人の我が前に至る者を見れば、輒ち大いに驚き、即ちこれを斫らんと欲し、自ら制すること能わず」と。賓客候問する者有れば、皆左右を去らしむ。顗は漸く危篤と称し、文表これを見舞いに行き、従者を大門に至らせて止め、文表独り顗の所に至る。顗は醿然として起き、刀を抽いてこれを斫殺し、因って唱えて言うには、「文表は尉遅迥と通謀せし故に、これを斬る」と。その麾下敢えて動く者無し。時に高祖は尉遅迥未だ平らがざるを以て、顗が再び辺患を生ずるを慮り、因ってこれを労勉し、即ち吳州総管に拝す。陳の将錢茂和が数千人を率いて江陽を襲うと、顗は逆撃してこれを走らす。陳は再び将陳紀・周羅〓・燕合兒らを遣わして顗を襲わしむるも、顗はこれを拒ぎて退け、彩数百段を賜う。
高祖禅を受くると、文表の弟が闕に詣でて兄に罪無きを称す。上はその事を案せしむるを令す。太傅竇熾ら議して顗は死に当たるとす。上は門に勲績著しきを以て、特しくこれを原い、開府に貶す。後に爵を襲い燕國公と為り、邑一万六千戸。間もなく疾を以て免ぜらる。開皇七年、澤州刺史に拝す。数年して免職し、家に卒す。子世虔嗣ぐ。
従父弟璽
韋璽は字を伯符という。父の翼は周に仕えて上柱国・幽州総管・任国公となった。高祖(楊堅)が丞相となった時、尉遅迥が乱を起こし、人を遣わして翼を誘った。翼はその使者を鎖につなぎ、長安に送ったので、高祖は大いに喜んだ。高祖が禅譲を受けると、翼は朝廷に入り、上(高祖)は彼のために床を降り、手を握って極めて歓んだ。数日後、太尉に任じられた。一年余りして卒去し、諡を穆といった。
韋璽は若くして器量と才幹があり、周に仕え、右侍上士として官途についた。まもなく儀同の位を授かり、右羽林を領し、少胥附に遷った。武帝(宇文邕)の時、斉王憲に従って洛陽で斉軍を破り、功により爵を豊寧県子と賜り、邑五百戸を賜った。まもなく帝に従って斉を平定し、開府を加えられ、黎陽県公に改封され、邑千二百戸を賜り、職方中大夫を授かった。宣帝が位を継ぐと、右勲曹中大夫に転じた。まもなく右忠義を領した。高祖が丞相となると、上開府を加えられた。禅譲を受けると、位は大将軍に進み、汴州刺史に任じられ、甚だ有能な名声があった。上(文帝)はこれを聞いて善しとし、優れた詔で褒め称え、帛百匹を賜った。まもなく上大将軍を加えられ、爵は郡公に進んだ。邵州刺史に転じ、州において数年、甚だ恩恵を行き渡らせた。後に江陵総管を検校したところ、州民の張願ら数十人が朝廷に赴いて上表し、韋璽の留任を請うた。上は長く賞賛し、邵州に戻るよう命じると、父老は互いに祝賀した。まもなく洛州刺史に遷り、また熊州刺史となり、いずれも恵み深い政治を行った。病気のため召還されて京師に帰った。仁寿末年、家で卒去し、諡を静といった。子に志本があった。
段文振
段文振は北海郡期原県の人である。祖父の寿は魏の滄州刺史であった。父の威は周の洮・河・甘・渭の四州刺史であった。文振は若くして膂力があり、胆気は人に優り、性質は剛直で、時務に明達していた。初め宇文護の親信となり、護は彼に幹才があることを知った。中外府兵曹に抜擢して授けられた。後に武帝が晋州で斉の海昌王尉相貴を攻めた時、その副将の侯子欽・崔景嵩が内応した。文振は槊を杖として城に登り、崔仲方ら数十人と共に先登した。文振は景嵩に従って相貴の居所に至り、佩刀を抜いて彼を脅したので、相貴は動けず、城はついに陥落した。帝は大いに喜び、物千段を賜った。文侯・華谷・高壁の三城を進んで陥落させたが、いずれも力があった。并州を攻めた時、東門を陥して入城し、斉の安德王延宗は恐れて出降した。前後の勲功を記録し、高い位階を授けようとしたが、讒言により譴責を受け、上儀同を授けられ、爵を襄国県公と賜り、邑千戸を賜った。鄴都を平定すると、また綺羅二千匹を賜った。後に滕王逌に従って稽胡を撃ち、これを破った。相州別駕・揚州総管長史を歴任した。朝廷に入って天官都上士となり、韋孝寬に従って淮南を経略した。
やがて尉遅迥が乱を起こした。当時文振の老母と妻子は皆鄴城にいたが、遅迥は人を遣わして誘った。文振は顧みず、高祖(楊堅)に帰順した。高祖は彼を丞相掾に引き立て、宿衛驃騎を領させた。司馬消難が陳に奔った時、高祖は文振に命じて淮南を安集させ、帰還すると衛尉少卿を除し、内史侍郎を兼ねた。まもなく行軍長史として達奚震に従って叛蛮を討ち、これを平定し、上開府を加えられた。一年余りして鴻臚卿に遷った。衛王爽が突厥を北征した時、文振を長史としたが、勲簿が事実でないことに連座して免官された。後に石・河の二州刺史となり、甚だ威厳と恩恵があり、蘭州総管に遷り、龍崗県公に改封された。突厥が塞を侵犯すると、行軍総管としてこれを撃破し、敗走する敵を追って居延塞に至り帰還した。開皇九年、大挙して陳を伐つに当たり、文振を元帥秦王(楊俊)の司馬とし、別に行軍総管を領した。江南平定後、揚州総管司馬を授かった。まもなく并州総管司馬に転じたが、母の喪により職を去った。間もなく起用して職務に就くよう命じられたが、固く辞して許されなかった。数年後、雲州総管に任じられ、まもなく太僕卿となった。開皇十九年、突厥が塞を侵犯すると、文振は行軍総管としてこれを防ぎ、沃野で達頭可汗と遭遇し、これを撃破した。文振は以前より王世積と旧交があった。初め文振が北征した時、世積は駱駝と馬を贈った。帰還する頃、世積は罪により誅殺され、文振は彼と交際したことに連座し、功績はついに記録されなかった。翌年、衆を率いて霊州道に出て胡に備えたが、敵はなく帰還した。越巂の蛮が叛くと、文振はこれを撃って平定し、奴婢二百口を賜った。仁寿初年、嘉州の獠が乱を起こすと、文振は行軍総管としてこれを討った。軍を率いて谷間から出た時、賊に襲撃され、前後が険阻に阻まれて互いに救援できず、軍はついに大敗した。文振は再び散兵を収集し、不意を撃って、ついにこれを破った。文振の性質は元来剛直で、人にへりくだることがなく、初め軍が益州に駐屯した時、蜀王秀に謁見したが、容貌が甚だ恭しくなかったので、秀はこれを深く恨んだ。この時、秀は文振の軍が敗北したと上奏した。右僕射の蘇威は文振と不和があり、これにより讒言したので、この罪により除名された。蜀王秀が廃されると、文振は上表して自ら理を申し立てた。高祖は慰諭し、大将軍を授けた。まもなく霊州総管に任じられた。
煬帝が即位すると、兵部尚書に徴され、待遇は甚だ重んじられた。吐谷渾征伐に従い、文振は兵を督して雪山に屯し、連営三百余里、東は楊義臣に接し、西は張寿に連なり、覆袁川で渾主を包囲した。功により位は右光禄大夫に進んだ。帝が江都に行幸した時、文振に行江都郡事をさせた。文振は高祖の時代に突厥の啓民可汗を塞内に居住させ、公主を妻とし、重ねて賞賜したこと、及び大業初年に恩沢がますます厚かったことを見て、狼子野心であり、国の禍患となることを恐れ、上表して言った。「臣は聞く、古は遠きを以て近きを間わず、夷を以て華を乱さずと。周の宣王は外に戎狄を攘い、秦の皇帝は万里の城を築いた。これらは遠大な図りと良策であり、忘れるべからざるものである。窃かに見るに、国家は啓民を受け容れ、その兵糧を助け、地利を貸し与えている。臣の愚かな考えでは、また安んじられない。なぜならば、夷狄の性質は親しみなく貪欲で、弱ければ帰順し、強ければ反噬する。これがその本心である。臣の学は博覧でなく、遠くを見通すことはできないが、晋朝の劉曜、梁代の侯景のことを聞く。これらは近き事の証であり、衆人の知るところである。臣が量るに、必ずや国の禍患となろう。臣の計では、時に応じて諭し遣わし、塞外に出させるべきである。その後、烽候を明らかに設け、辺境に沿って鎮防し、厳重にすることを務めれば、これこそ万歳の長策である。」当時兵曹郎の斛斯政が専ら兵事を掌っていたが、文振は政が険薄であることを知り、機要を委ねるべからずと、たびたび帝に言上したが、帝はともに容れなかった。
遼東の役に当たり、左候衛大将軍を授かり、南蘇道より出撃した。行軍中に病が篤くなり、上表して言った。「臣は庸微の身ながら、幸いに聖世に逢い、濫りに褒賞と抜擢を蒙り、栄えは同輩の冠となった。しかし知能は取るに足らず、忝くも受けたものは既に多い。国の恩を思い言うに、寝食を忘れて用いんとす。常にその鳴吠を效して、万分の一に報いんと思いながら、摂養を誤り、疾患ついに篤し。この深き愧を抱きて、永く泉壌に帰せんとす。余恨に勝えず、軽く管穴の見を陳ぶ。窃かに見るに、遼東の小醜、未だ厳刑に服せず、遠く六師を降し、万乗を親しく労す。但だ夷狄は詐り多し、深く防擬を須う。口に降款を陳べ、心に背叛を懐き、詭伏多端なり。便ち受くるを得ず。水潦方に降り、淹遅すべからず。唯願わくは諸軍を厳しく勒し、星馳して速やかに発し、水陸俱に前進し、その不意に出でば、則ち平壤の孤城、勢い抜くべし。若しその本根を傾くれば、余城自ら克つ。時に定めざれば、脱秋霖に遇わば、深く艱阻たり、兵糧又竭き、強敵前に在り、靺鞨後に出でん。遅疑決せずんば、上策に非ざるなり。」数日後、軍中で卒去した。帝は表を覧て、久しく悲歎し、光禄大夫・尚書右僕射・北平侯を追贈し、諡を襄といった。物一千段、粟麦二千石を賜り、威儀鼓吹を以て墓所に送った。子十人があった。
長子の詮は、官は武牙郎将に至る。次子の綸は、若くより俠気を以て聞こえる。文振の弟の文操は、大業年間に、武賁郎将となり、性質は甚だ剛直で厳格であった。帝は秘書省の学士を監督せしむ。時に学士は頗る儒雅を保つも、文操は輒ち之を鞭撻し、前後千数に至ることもあり、時に議する者は之を鄙しむ。
【論】
史臣曰く、仲方は文武を兼ね備え、雅に籌算有り、陳を伐つ策は、信に深遠なるかな。声績克く挙がり、夫れ豈に徒言ならんや。仲文は博く書記に渉り、英略を以て自ら許し、尉遅迥の乱に、遂に功名を立てる。此より厥の後、屡たび推轂に当たる。遼東の役は、実に師徒を喪う。斯れ乃ち大樹将に顛んとす、蓋し亦た戦人の罪に非ざるなり。文振は少より胆略を以て重んぜられ、終に壮夫の志を懐き、時に讜言を進め、頻りに諒直と称せらる。其の高位厚秩を取るは、良に以て有り。