隋書

巻059

巻五十九 列傳第二十四 煬帝三男

巻五十九 列傳第二十四 煬帝三男

原文卷五十九 列傳第二十四 煬帝三男 ► 崔仲方 于仲文 段文振

元德太子

原文元德太子

元德太子昭は、煬帝ようだいの長子である。生まれて高祖こうそ(文帝ぶんてい)が命じて宮中で養育させた。三歳の時、玄武門で石獅子を弄んでいたところ、高祖と文獻皇后がその場所に至った。高祖は丁度腰痛を患っており、手を挙げて皇后に凭れていた。昭はそれを見て避けて去り、このようなことが再三あった。高祖は嘆いて言った、「天が生んだ長者である。誰がまた教えようか」と。これによって大いに奇異の目で見た。高祖はかつて言った、「そなたのために嫁を娶らせよう」と。昭は声を応じて泣いた。高祖がその理由を問うと、答えて言った、「漢王(楊諒)が未婚の時は、常に至尊(高祖)の御所におりましたが、一朝に嫁を娶ると、すぐに外に出てしまいます。離れ離れになることを恐れ、それゆえに泣いたのです」と。上(高祖)はその至誠の性を有することを嘆き、特に鍾愛した。

原文元德太子昭,煬帝長子也,生而高祖命養宮中。三歲時,於玄武門弄石師子,高祖與文獻後至其所。高祖適患腰痛,舉手憑後,昭因避去,如此者再三。高祖歎曰:「天生長者,誰複教乎!」由是大奇之。高祖嘗謂曰:「當為爾娶婦。」昭應聲而泣。高祖問其故,對曰:「漢王未婚時,恆在至尊所,一朝娶婦,便則出外。懼將違離,是以啼耳。」上歎其有至性,特鍾愛焉。

十二歳の時、河南王に立てられた。仁壽の初年、晉王に徙封され、内史令に拝され、左衛大将軍を兼ねた。その後の三年、雍州牧に転じた。煬帝が即位すると、すぐに洛陽らくよう宮に行幸し、昭は京師を留守した。大業たいぎょう元年、帝は使者を遣わして皇太子に立てた。昭は武力を有し、強弩を引くことができた。性は謙虚で、言葉と顔色は恭しく、未だかつて忿怒したことがなかった。深く嫌うべき者があっても、ただ「大いに不是なり」と言うのみであった。膳するものは多くの品を許さず、帷帳と席は極めて倹素であった。臣下や官吏に老いた父母がいる者は、必ず自らその安否を問い、歳時には皆恩賜を与えた。その仁愛はこのようなものであった。翌年、洛陽に朝した。その後数か月、京師に還ろうとしたが、少し留まることを願った。帝は許さず、拝して請うこと数えきれなかった。体質は元来肥満であり、それによって労疾を致した。帝が巫者に視させると、言った、「房陵王(楊勇)が祟りをなしている」と。未だ幾ばくもなくして薨じた。詔して内史侍郎虞世基に哀冊文を作らせた。

原文年十二,立為河南王。仁壽初,徙為晉王,拜內史令,兼左衛大將軍。後三年,轉雍州牧。煬帝即位,便幸洛陽宮,昭留守京師。大業元年,帝遣使者立為皇太子。昭有武力,能引強弩。性謙沖,言色恂恂,未嘗忿怒。有深嫌可責者,但雲「大不是」。所膳不許多品,帷席極於儉素。臣吏有老父母者,必親問其安否,歲時皆有惠賜。其仁愛如此。明年,朝於洛陽。後數月,將還京師,願得少留,帝不許,拜請無數。體素肥,因致勞疾。帝令巫者視之,雲:「房陵王為祟。」未幾而薨。詔內史侍郎虞世基為哀冊文曰:

帝は深く追悼した。

原文帝深追悼。

子が三人いた。韋妃が恭皇帝を生み、大劉良娣が燕王倓を生み、小劉良娣が越王侗を生んだ。

原文有子三人,韋妃生恭皇帝,大劉良娣生燕王倓,小劉良娣生越王侗。

燕王

原文燕王

燕王倓は字あざなを仁安という。聡明で美しい姿容であり、煬帝は諸孫の中で特に鍾愛し、常に左右に置いた。性は読書を好み、特に儒素を重んじ、軽率に及ぶ所ではなく、成人のようであった。良娣は早く終わり、忌日になるごとに、未だかつて涙を流し嗚咽しなかったことはない。帝はこれによってますます奇異の目で見た。宇文化及が弑逆しいぎゃくした際、倓は変事を察知し、入って奏上しようとしたが、その事が露見することを恐れ、梁公蕭鉅・千牛宇文皛らと共に芳林門の側の水竇を穿って入った。玄武門に至り、詭って奏上した、「臣は卒中悪し、命は俄頃に懸かっております。面して辞することを得て、死しても恨みはありません」と。帝に会うことを冀ったが、司宮者に阻まれ、遂に聞かせることができなかった。俄かに難が起こり、賊に害せられた。時に年十六。

原文燕王倓字仁安。敏慧美姿儀,煬帝于諸孫中特所鍾愛,常置左右。性好讀書,尤重儒素,非造次所及,有若成人。良娣早終,每至忌日,末嘗不流涕嗚咽。帝由是益以奇之。宇文化及弑逆之際,倓覺變,欲入奏,恐露其事,因與梁公蕭钜、千牛宇文皛等穿芳林門側水竇而入。至玄武門,詭奏曰:「臣卒中惡,命縣俄頃,請得面辭,死無所恨。」冀以見帝,為司宮者所遏,竟不得聞。俄而難作,為賊所害,時年十六。

越王

原文越王

越王侗は字を仁謹という。美しい姿容で、性は寛厚であった。大業二年、越王に立てられた。帝が巡幸するごとに、侗は常に東都を留守した。楊玄感が乱を起こした際、民部尚書樊子蓋と共にこれを拒いだ。玄感が平定された後、高陽に朝し、高陽太守に拝された。俄かに本官のまま再び東都を留守した。十三年、帝が江都に行幸し、再び侗と金紫光禄大夫段達・太府卿元文都・摂民部尚書韋津・右武衛将軍皇甫無逸らに留台の事を総せしめた。宇文化及が弑逆した時、文都らが議し、侗は元德太子の子であり、属としては最も近いとして、ここに乃ち共に尊び立て、大赦し、元を改めて皇泰と曰う。帝を明と諡し、廟号を世祖とした。元德太子を追尊して孝成皇帝とし、廟号を世宗とした。その母劉良娣を尊んで皇太后とした。段達を納言・右翊衛大将軍・摂礼部尚書とし、王世充もまた納言・左翊衛大将軍・摂吏部尚書とし、元文都を内史令・左驍衛大将軍とし、盧楚もまた内史令とし、皇甫無逸を兵部尚書・右武衛大将軍とし、郭文懿を内史侍郎とし、趙長文を黄門侍郎とし、機務を委ね、金書鉄券を作り、宮掖に蔵した。この時洛陽では段達らを「七貴」と称した。

原文越王侗字仁謹,美姿儀,性寬厚。大業二年,立為越王。帝每巡幸,侗常留守東都。楊玄感作亂之際,與民部尚書樊子蓋拒之。及玄感平,朝于高陽,拜高陽太守。俄以本官複留守東都。十三年,帝幸江都,複令侗與金紫光祿大夫段達、太府卿元文都、攝民部尚書韋津、右武衛將軍皇甫無逸等總留台事。宇文化及之弑逆也,文都等議,以侗元德太子之子,屬最為近,於是乃共尊立,大赦,改元曰皇泰。諡帝曰明,廟號世祖。追尊元德太子為孝成皇帝,廟號世宗。尊其母劉良娣為皇太后。以段達為納言、右翊衛大將軍、攝禮部尚書,王世充亦納言、左翊衛大將軍、攝吏部尚書,元文都內史令、左驍衛大將軍,盧楚亦內史令,皇甫無逸兵部尚書、右武衛大將軍,郭文懿內史侍郎,趙長文黃門侍郎,委以機務,為金書鐵券,藏之宮掖。于時洛陽稱段達等為「七貴」。

未だ幾ばくもなく、宇文化及が秦王の子浩を立てて天子とし、彭城に来て次いだ。経由する城邑は多く逆党に従った。侗は懼れ、使者蓋琮・馬公政を遣わして李密を招き懐柔しようとした。密は遂に使者を遣わして降伏を請うた。侗は大いに悦び、その使者を非常に厚く礼遇した。即座に密を太尉・尚書令しょうしょれい・魏国公に拝し、化及を拒がせた。下書して曰く、

原文未幾,宇文化及立秦王子浩為天子,來次彭城,所經城邑多從逆黨。侗懼,遣使者蓋琮、馬公政招懷李密。密遂遣使請降,侗大悅,禮其使甚厚。即拜密為太尉、尚書令、魏國公,令拒化及。下書曰:

密は使者を見て大いに悦び、北面して拝伏し、臣下の礼は甚だ恭しかった。密は遂に東進して化及を拒いだ。「七貴」は頗る協わず、陰に相図る計略があった。未だ幾ばくもなく、元文都・盧楚・郭文懿・趙長文らが世充に殺され、皇甫無逸は遁走して長安ちょうあんに帰った。世充は侗の御所に詣でて陳謝し、言辞と情は哀しみ苦しんだ。侗は至誠と以為い、命じて上殿させ、髪を振るって盟いを為し、二心なきことを誓った。これより侗は関与することができなくなった。侗は心に平らかでなく、遂に記室陸士季と謀って世充を図ったが、事は果たせずに止んだ。世充が李密を破ると、衆望はますます彼に帰し、遂に自ら鄭王となり、百揆を総べ、九錫を加えられ、法物を備え、侗はこれを禁じることができなかった。段達・雲定興ら十人が侗に謁見して言った、「天命は常ならず、鄭王の功德は甚だ盛んです。願わくは陛下は揖讓して禅を告げ、唐・虞の跡に遵われますように」と。侗はこれを聞いて怒って言った、「天下は高祖の天下であり、東都は世祖の東都である。もし隋の徳が未だ衰えていなければ、この言葉は発すべからず。必ずや天命に改まる有れば、また何ぞ禅譲を論ぜんや。公らは或いは先朝の旧臣として、功績を上代に宣べ、或いは勤王して節を立て、身に軒冕を服している。忽ちにこの言葉有り、朕はまた当に何を望まんや」と。神色は凛然とし、侍衛する者は汗を流さざる者なし。既に退朝して、良娣に対面して泣いた。世充は更に人を遣わして侗に謂って言った、「今海内未だ定まらず、長君を得るを須いとす。四方の乂安を待ちて、子に復して明辟と為さん。必ずや前の盟いの如く、義に違い負くことなし」と。侗は已むを得ず、位を世充に譲り、遂に含涼殿に幽閉された。世充は僭偽の号を称し、潞国公に封じ、邑五千戸を与えた。

原文密見使者,大悅,北面拜伏,臣禮甚恭。密遂東拒化及。「七貴」頗不協,陰有相圖之計。未幾,元文都、盧楚、郭文懿、趙長文等為世充所殺,皇甫無逸遁歸長安。世充詣侗所陳謝,辭情哀苦。侗以為至誠,命之上殿,被發為盟,誓無貳志。自是侗無所關預。侗心不能平,遂與記室陸士季謀圖世充,事不果而止。及世充破李密,眾望益歸之,遂自為鄭王,總百揆,加九錫,備法物,侗不能禁也。段達、雲定興等十人入見於侗曰:「天命不常,鄭王功德甚盛,願陛下揖讓告禪,遵唐、虞之跡。」侗聞之怒曰:「天下者,高祖之天下,東都者,世祖之東都。若隋德未衰,此言不可發;必天命有改,亦何論於禪讓!公等或先朝舊臣,績宣上代,或勤王立節,身服軒冕,忽有斯言,朕複當何所望!」神色懍然,侍衛者莫不流汗。既而退朝,對良娣而泣。世充更使人謂侗曰:「今海內未定,須得長君。待四方乂安,複子明辟,必若前盟,義不違負。」侗不得已,遜位於世充,遂被幽於含涼殿。世充僭偽號,封為潞國公,邑五千戶。

一か月余り後、宇文儒童・裴仁基らが世充を誅し、再び侗を尊び立てようと謀ったが、事が泄れ、共に害せられた。世充の兄世惲は因って世充に勧めて侗を害し、民望を絶たせた。世充はその甥の行本に鴆毒を持たせて侗の御所に遣わし言った、「願わくは皇帝この酒を飲まれよ」と。侗は免れられぬと知り、母と相見えることを請うたが、許されなかった。遂に席を布き香を焚いて仏に礼し、呪って言った、「今より去りて、願わくは帝王の尊貴なる家に生まれざらんことを」と。ここに仰いで薬を飲んだ。時に絶えることができず、更に帛で絞め殺した。世充は偽って恭皇帝と諡した。

原文月餘,宇文儒童、裴仁基等謀誅世充,複尊立侗,事泄,並見害。世充兄世惲因勸世充害侗,以絕民望。世充遣其侄行本齎鴆詣侗所曰:「願皇帝飲此酒。」侗知不免,請與母相見,不許。遂布席焚香禮佛,咒曰:「從今以去,願不生帝王尊貴之家。」於是仰藥。不能時絕,更以帛縊之。世充偽諡為恭皇帝。

齊王

原文齊王

斉王楊暕は、字を世朏といい、幼名を阿孩という。容貌は美しく、眉目は秀で、幼少の頃より高祖(文帝)に寵愛された。開皇かいこう年間、豫章王に立てられ、封邑は千戸であった。成長すると、経史に広く通じ、特に騎射に長じた。初め内史令となった。仁寿じんじゅ年間、揚州総管・沿淮以南諸軍事に任ぜられた。煬帝が即位すると、斉王に進封され、封邑四千戸を加増された。大業二年、帝が初めて東都に入った際、盛大な鹵簿を整え、楊暕が先導を務めた。まもなく豫州牧に転じた。ほどなく元徳太子が薨去すると、朝廷内外の期待は集まり、皆楊暕が後継ぎとなるべきであると考えた。帝はまた吏部尚書牛弘に命じて、属官を厳選させたため、公卿たちは多く子弟を推挙した。翌年、雍州牧に転じ、まもなく河南尹・開府儀同三司に移った。元徳太子に仕えていた二万余人の側近はすべて楊暕に配属され、寵遇はますます厚くなり、楽平公主や諸々の外戚が競って礼を尽くし、百官の謁見する者が道路を埋め尽くした。

原文齊王暕,字世朏,小字阿孩。美容儀,疏眉目,少為高祖所愛。開皇中,立為豫章王,邑千戶。及長,頗涉經史,尤工騎射。初為內史令。仁壽中,拜揚州總管沿淮以南諸軍事。煬帝即位,進封齊王,增邑四千戶。大業二年,帝初入東都,盛陳鹵簿,暕為軍導。尋轉豫州牧。俄而元德太子薨,朝野注望,鹹以暕當嗣。帝又敕吏部尚書牛弘妙選官屬,公卿由是多進子弟。明年,轉雍州牧,尋徙河南尹、開府儀同三司。元德太子左右二萬餘人悉隸於暕,寵遇益隆,自樂平公主及諸戚屬競來致禮,百官稱謁,填咽道路。

楊暕は甚だ驕慢でわがままであり、小人に近づき、行いの多くは法に背いていた。喬令則・劉虔安・裴該・皇甫諶・庫狄仲錡・陳智偉らを遣わして、声色狗馬を求めさせた。令則らはこれに乗じて放縦となり、娘のいる家を訪れては、楊暕の命令と偽って呼び出し、楊暕の邸宅に連れ込み、機会をうかがって隠し、淫らな行いをほしいままにした後、帰した。仲錡と智偉の二人は隴西に赴き、諸胡を脅迫して名馬を求め、数頭を得て楊暕に献上した。楊暕は持ち主に返すよう命じたが、仲錡らは「王が賜わった」と偽って家に持ち帰り、楊暕はそれを知らなかった。また、楽平公主がかつて帝に奏上して、柳氏の娘が美しいと述べたが、帝は何も答えなかった。しばらくして、公主は再びその柳氏を楊暕に進めたが、楊暕は内に納れた。その後、帝が公主に柳氏の娘の所在を尋ねると、公主は「斉王のもとにございます」と答えた。帝は不愉快に思った。楊暕が東都に邸宅を造営した際、大門が理由もなく崩れ、正堂の梁が途中で折れた。識者はこれを不祥の兆しとした。その後、帝に従って楡林に行幸した際、楊暕は後軍の歩騎五万を督し、常に帝と数十里離れて宿営した。汾陽宮で帝が大規模な狩猟を行った時、詔により楊暕は千騎を率いて囲みに入った。楊暕は多くの麋鹿を獲て献上したが、帝は何も得られなかった。そこで従官たちを怒ったが、皆が「楊暕の側近に阻まれて、獣が前に来られなかった」と言った。帝はここに至って怒り、楊暕の罪過を探し求めた。

原文暕頗驕恣,昵近小人,所行多不法,遣喬令則、劉虔安、裴該、皇甫諶、庫狄仲錡、陳智偉等求聲色狗馬。令則等因此放縱,訪人家有女者,輒矯暕命呼之,載入暕宅,因緣藏隱,恣行淫穢,而後遣之。仲錡、智偉二人詣隴西,撾炙諸胡,責其名馬,得數匹以進於。暕令還主,仲錡等詐言王賜,將歸於家,暕不之知也。又樂平公主嘗奏帝,言柳氏女美者,帝未有所答。久之,主複以柳氏進於暕,暕習納之。其後帝問主柳氏女所在,主曰:「在齊王所。」帝不悅。暕于東都營第,大門無故而崩,聽事栿中折,識者以為不祥。其後從帝幸榆林,暕督後軍步騎五萬,恆與帝相去數十裡而舍。會帝于汾陽宮大獵,詔暕以千騎入圍。暕大獲麋鹿以獻,而帝未有得也,乃怒從官,皆言為暕左右所遏,獸不得前。帝於是發怒,求暕罪失。

当時、県令は理由なく管轄外に出ることを禁じられていたが、伊闕県令の皇甫詡が楊暕に寵愛され、禁を破って彼を汾陽宮に連れて行こうとした。また、京兆人の達奚通に妾の王氏がおり、歌が上手で、貴人の遊宴の席ではしばしば招かれたため、転々として王氏の家にも出入りした。御史の韋徳裕は帝の意を迎えて楊暕を弾劾し、帝は甲士こうし千余人に命じて楊暕の邸宅を大捜索させ、その事を徹底的に追及させた。楊暕の妃韋氏は、民部尚書韋沖の娘であったが、早くに亡くなった。楊暕はその後、妃の姉の元氏の妻と通じ、ついに一女を産ませたが、外の者は誰も知らなかった。密かに喬令則を邸内に招いて酒宴を催し、令則が祝いの言葉を述べ、楊暕の冠を脱がせて歓楽した。相工を召して後庭の者をことごとく見させたところ、相工が妃の姉を指して言うには、「この方は子を産む者で、皇后となるでしょう。王の貴さは言い尽くせません」と。当時、国に皇太子がいなかったため、楊暕は自分が次に立つべきであると自認していた。また、元徳太子に三人の子がいることを内心常に不安に思い、密かに邪術を用い、厭勝のことを行った。ここに至って、事はすべて発覚し、帝は大いに怒り、令則ら数人を斬り、妃の姉に死を賜い、楊暕の府の官僚はすべて辺境の遠地に追放した。当時、趙王楊杲はまだ幼かったため、帝は侍臣に言った。「朕には楊暕一子があるだけである。そうでなければ、市朝にさらし首にして、国の法を明らかにしたであろうに」。楊暕はこれより恩寵が日々衰え、京兆尹ではあったが、もはや時政に関与することはなかった。帝は常に武賁郎将一人に命じてその府の事を監察させ、楊暕に些細な過失があれば、武賁がすぐに奏上した。帝もまた常に楊暕が変事を起こすことを憂慮し、与えた側近はすべて老弱者で、人員を揃えただけのものであった。楊暕は常に危惧を抱き、心安らかではなかった。また、帝が江都宮にいた時、元旦の朝賀で、楊暕が礼服を整えて朝参しようとしたところ、理由なく衣の裾から血が流れ落ちた。また、斎室に座っていると、数十匹の鼠が前に来て死に、見ると皆首がなかった。楊暕は心中、甚だ不吉に思った。まもなく宇文化及が乱を起こし、兵が帝の行在所を犯そうとした時、帝は聞いて、蕭后を顧みて言った。「もしかして阿孩か?」。そのように疎まれ忌まれていたのである。化及はさらに人を遣わして楊暕を捕らえさせた。楊暕はまだ床に就いて起きておらず、賊が入ってくると、驚いて「何者だ?」と言った。答える者もなく、楊暕はなお帝の命令で捕らえに来たのだと思い、そこで言った。「詔使よ、しばらく待て。わが輩は国に背いてはいない」。賊はそこで彼を路上に引きずり出して斬り、その二人の子もまた害に遇った。楊暕はついに殺した者が誰であるかを知らなかった。時に三十四歳であった。

原文時制縣令無故不得出境,有伊闕令皇甫詡幸於暕,違禁將之汾陽宮。又京兆人達奚通有妾王氏善歌,貴遊宴聚,多或要致,於是輾轉亦出入王家。禦史韋德裕希旨劾暕,帝令甲士千餘大索暕第,因窮治其事。暕妃韋氏者,民部尚書沖之女也,早卒,暕遂與妃姊元氏婦通,遂產一女,外人皆不得知。陰引喬令則於第內酣宴,令則稱慶,脫暕帽以為歡樂。召相工令遍視後庭,相工指妃姊曰:「此產子者當為皇后。王貴不可言。」時國無儲副,暕自謂次當得立。又以元德太子有三子,內常不安,陰挾左道,為厭勝之事。至是,事皆發,帝大怒,斬令則等數人,妃姊賜死,暕府僚皆斥之邊遠。時趙王杲猶在孩孺,帝謂侍臣曰:「朕唯有暕一子,不然者,當肆諸市朝,以明國憲也。」暕自是恩寵日衰,雖為京尹,不復關預時政。帝恆令武賁郎將一人監其府事,暕有微失,武賁輒奏之。帝亦常慮暕生變,所給左右,皆以老弱,備員而已。暕每懷危懼,心不自安。又帝在江都宮,元會,暕具法服將朝,無故有血從裳中而下。又坐齋中,見群鼠數十,至前而死,視皆無頭。暕意甚惡之。俄而化及作亂,兵將犯蹕,帝聞,顧謂蕭後曰:「得非阿孩邪?」其見疏忌如此。化及複令人捕暕,暕時尚臥未起,賊既進,暕驚曰:「是何人?」莫有報者,暕猶謂帝令捕之,因曰:「詔使且緩。兒不負國家。」賊於是曳至街而斬之,及其二子亦遇害。暕竟不知殺者為誰。時年三十四。

遺腹子の政道があり、蕭后と共に突厥に入り、処羅可汗は彼を隋王と号した。中国から北蕃に没した者はすべて彼に配属されて部落とし、定襄城に居住させた。突厥が滅びると、大唐に帰順し、員外散騎侍郎に任ぜられた。

原文有遺腹子政道,與蕭後同入突厥,處羅可汗號為隋王,中國人沒入北蕃者,悉配之以為部落,以定襄城處之。及突厥滅,歸於大唐,授員外散騎侍郎。

趙王

原文趙王

趙王楊杲は、幼名を季子という。七歳の時、大業九年に趙王に封ぜられた。まもなく光禄大夫を授かり、河南尹に任ぜられた。帝に従って淮南に行幸し、詔により江都太守の事務を行った。楊杲は聡明で、容貌は美しく、帝が作った詞賦を多く誦することができた。性質は至孝であり、しばしば帝が風邪をひいて食事を進めないのを見ると、楊杲も終日食事をしなかった。また、蕭后が灸治療を受けようとした時、楊杲はまず自分が灸を試すことを請うたが、后は許さなかった。楊杲は泣いて請うて言った。「后が服用される薬は、皆私がお嘗めしました。今、灸をなさるのであれば、どうか炷をお嘗めさせてください」。悲しみ咽びやまなかった。后はついに彼のために灸を止め、これによって特に彼を愛した。後に宇文化及の反乱に遇い、楊杲は帝の側におり、慟哭してやまなかった。裴虔通が賊に命じて帝の面前で彼を斬らせ、血が帝の服に飛び散った。時に十二歳であった。

原文趙王杲,小字季子。年七歲,以大業九年封趙王。尋授光祿大夫,拜河南尹。從幸淮南,詔行江都太守事。杲聰令,美容儀,帝有所制詞賦,杲多能誦之。性至孝,常見帝風動不進膳,杲亦終日不食。又蕭後當灸,杲先請試炷,後不許之,杲泣請曰:「後所服藥,皆蒙嘗之。今灸,願聽嘗炷。」悲咽不已。後竟為其停灸,由是尤愛之。後遇化及反,杲在帝側,號慟不已。裴虔通使賊斬之於帝前,血湔禦服。時年十二。

【論】

原文【論】

史臣が言う。元徳太子は性質高雅で慎重、人君の度量があったが、寿命が永くなく、哀れなことである。斉王は聡明で慧く称すべきであったが、志が遠大ではなく、驕慢で僭上の心を強く抱いた。故に煬帝は彼を疎んじ忌んだ。心には父子の親情がなく、外見だけ君臣の礼を尽くし、身に積善がなく、国には余殃があった。ついに趙王及び燕王・越王らがその死を得ず、悲しいことである。

原文史臣曰:元德太子雅性謹重,有君人之量,降年不永,哀哉!齊王敏慧可稱,志不及遠,頗懷驕僭,故煬帝疏而忌之。心無父子之親,貌展君臣之敬,身非積善,國有餘殃。至令趙及燕、越皆不得其死,悲夫!