隋書

巻五十五列傳第二十 杜彥・高勱・尒朱敞・周搖・獨孤揩・乞伏慧・張威・和洪・侯莫陳穎・盧愷・令狐熙・薛冑・宇文㢸・張衡・楊汪

杜彥

杜彥は雲中の人である。父の遷は葛榮の乱に属し、家を幽州に移した。彦は性質勇猛果断にして、騎射を善くした。周に仕え、初めて官に就き左侍上士となり、後に柱国陸通に従って土州において陳の将軍呉明徹を撃ち、これを破った。また叛蛮を撃ち、倉塠・白楊の二柵を陥落させ、併せてその渠帥を斬った。進んで郢州の賊帥樊志を平定し、戦功により大都督ととくに任ぜられた。まもなく儀同に遷り、隆山郡の事務を治めた。翌年、隴州刺史に任ぜられ、永安県伯の爵を賜った。高祖こうそが丞相となった時、韋孝寛に従って相州において尉遅迥を撃ち、戦う毎に功があり、物三千段、奴婢三十口を賜った。上開府に進み、襄武県侯に改封され、魏郡太守に任ぜられた。開皇初年、丹州刺史を授けられ、公に進爵した。後六年、左武衛将軍に徴された。陳平定の役において、行軍総管として新義公韓擒虎と相次いで進んだ。軍は南陵に至り、賊は江岸に屯して拠ったが、彦は儀同樊子蓋に精兵を率いさせてその柵を撃破し、船六百余艘を獲た。江を渡り、南陵城を撃ち、これを抜き、その守将許翼を擒らえた。進んで新林に至り、韓擒虎と軍を合わせた。陳が平定されると、物五千段、粟六千石を賜り、柱国に進み、子の宝安に昌陽県公の爵を賜った。高智慧等が乱を起こした時、また行軍総管として楊素に従ってこれを討ち、別に江州の包囲を解いた。智慧の余党はしばしば屯聚し、投溪洞に拠って保ったが、彦は水陸併進して錦山・陽父・若・石壁の四洞を攻め、悉くこれを平定し、皆その渠帥を斬った。賊の李陀が数千の衆を擁して彭山に拠ったが、彦は襲撃してこれを破り、陀を斬り、その首を伝送した。また徐州・宜豊の二洞を撃ち、悉くこれを平定した。奴婢百余口を賜った。洪州総管に任ぜられ、甚だ治名があった。

一年余り後、雲州総管賀婁子幹が卒した。上は久しく悼み惜しみ、侍臣に謂って曰く、「榆林は国の重鎮である。どうして子幹の輩を得ることができようか」と。数日後、上は曰く、「朕は榆林を鎮め得る者を思うに、杜彦に過ぎる者はない」と。ここにおいて雲州総管に徴し任ぜられた。突厥が来寇すると、彦は直ちにこれを擒らえて斬り、北夷は畏憚し、胡馬は塞に至らなかった。後数年、朝廷はまた前功を追録し、子の宝虔に承県公の爵を賜った。十八年、遼東の役において、行軍総管として漢王に従って営州に至った。上は彦が軍旅に習熟しているとして、五十営の事を総統せしめた。帰還すると、朔州総管に任ぜられた。突厥がまた雲州を寇したので、上は楊素にこれを撃退させたが、その後もなお辺患となることを恐れ、彦が元来突厥に畏憚されていたので、また雲州総管に任ぜられた。未だ幾ばくもせず、疾により徴還され、卒した。時に六十歳。子の宝虔は、大業末年に文城郡丞となった。

高勱

高勱は字を敬徳といい、渤海蓚の人である。斉の太尉・清河王高岳の子である。幼くして聡明敏達、風儀美しく、仁孝をもって聞こえ、斉の顕祖に愛された。七歳で清河王の爵を襲い、十四歳で青州刺史となり、右衛将軍・領軍大将軍・祠部尚書・開府儀同三司を歴任し、楽安王に改封された。性質剛直にして才幹あり、甚だ当時の人に重んぜられた。斛律明月はひそかに彼を敬い、征伐がある毎に彼を副将に引き立てた。侍中・尚書右僕射に遷った。後主が周軍に敗れた時、勱は太后を奉じて鄴に帰った。時に宦官は放縦であり、儀同苟子溢は特に寵幸を称していたが、勱はこれを斬って衆に示さんとした。太后がこれを救ったので、ようやく釈放した。劉文殊がひそかに勱に謂って曰く、「子溢の徒は、言が禍福を成す。どうしてこのようにできるのか」と。勱は袂を捲いて曰く、「今、西寇は日々侵し、朝貴多くは叛く。正にこの輩が権を弄するにより、衣冠の解体を致している。もし今日これを殺し、明日誅せられることがあっても、恨むところはない」と。文殊は甚だ慚じた。鄴に至ると、勱は後主を勧めて曰く、「五品以上の家累は、悉く三台の上に置き、脅して曰く、『もし戦に捷たなければ、これを焼く』と。この輩は妻子を惜しむから、必ず死戦し、敗れることができましょう」と。後主は従わず、遂に鄴を棄てて東に遁走した。勱は常に後殿を務め、周軍に得られた。武帝はこれを見て、語り、大いに悦び、斉の滅亡の由縁を問うた。勱は発言して流涕し、悲しみ自ら勝えず、帝もまたこれがために顔色を改めた。開府儀同三司を授けられた。

高祖が丞相となった時、勱に謂って曰く、「斉の滅亡した所以は、邪佞を用いたからである。公父子は忠良にして、隣境に聞こえている。宜しく善く自ら愛すべし」と。勱は再拝して謝して曰く、「勱は亡斉の末属、世に恩栄を荷いながら、危きを扶け傾きを定めることができず、以て淪覆を致しました。既に宥されることを蒙り、恩幸は既に多い。況んやまた名位を濫叨し、官謗を速やかに致すことにおいてをや」と。高祖は甚だこれを器とし、勱をして揚州の事務を検校せしめた。後に楚州刺史に任ぜられ、民はこれに安んじた。先に、城北に伍子胥の廟があり、その俗は鬼を敬った。祈祷する者は必ず牛酒を用い、産業を破るに至った。勱は歎じて曰く、「子胥は賢者である。豈に百姓を損うべきであろうか」と。乃ち管下に告諭し、ここより遂に止み、百姓はこれに頼った。

七年、光州刺史に転じ、陳を取る五策を上奏し、また上表して曰く、「臣聞く、夷凶翦暴は王者の懋功、乱を取り亡を侮るは往賢の雅誥なりと。是をもって苗民が命に逆らえば、爰に両階の舞を興し、有扈が賓せざれば、終に六師の伐を召す。皆、以て宇内を寧一し、群生を匡済する所以の者なり。昔より晋氏が馭を失い、天網維を絶つや、群凶ここにおいて蝟起し、三方これにより鼎立す。陳氏はその際運に乗じ、細微より抜け起り、茜頊はその長蛇を縦にし、呉会に竊拠し、叔宝はその昏虐を肆にし、毒金陵に被る。数年已来、荒悖滋甚し。牝雞旦を司り、奸回に昵近し、尚方の役徒は骸を積むこと千数、疆埸の防守は長戍三年。或いは微行して暴露し、王侯の宅に沈湎し、或いは駿騎を賓士し、康衢の首に顛墜す。功有るも賞せず、辜なきも戮せられ、烽燧日々警めども、未だ以て虞とせず、淫靡に耽り嫚りて、紀極を知らず。天は乱徳を厭い、妖実に人興り、或いは空裡に時に大声有り、或いは行路に鬼怪を共に伝え、或いは人肝を刳いて以て天狗に祠り、或いは自ら身を捨てて以て妖訛を厭う。民神怨憤し、災異薦発し、天時人事、昭然として知るべし。臣、庸才を以て、猥りに朝寄を蒙り、頻りに籓任を歴り、その隣接とし、密邇仇讎にして、その動静を知る。天の罪有るを討つは、此れ即ちその時なり。若し戎車雷動し、戈船電邁せば、臣難を驚かし怯まず、鷹犬の効を請う」と。高祖は表を覧めてこれを嘉し、優詔をもって答えた。大いに陳を伐つに及び、勱を行軍総管とし、宜陽公王世積に従って陳の江州を下した。功により上開府に任ぜられ、物三千段を賜った。

隴右の諸羌は数度寇乱を為した。朝廷は勱に威名有りとして、洮州刺史に任ぜられた。任地に下車して大いに威恵を崇め、民夷悦服し、その山谷間に住む生羌は相率いて府に詣でて謁を称し、前後より至る者、数千余戸に及んだ。豪猾は跡を屏し、路に遺物を拾わず、職に在ること数年、治理と称された。後に吐谷渾が来寇するに遇い、勱は疾に遇って拒戦できず、賊は遂に大掠して去った。憲司は勱が戸口を亡失したと奏し、また羌より饋遺を受けたと上言し、竟に坐して免官された。後に家において卒した。時に五十六歳。子の士廉は最も知名である。

尒朱敞

爾朱敞、字は乾羅、秀容の契胡人、爾朱栄の族子である。父の彦伯は、官は司徒しと・博陵王に至った。斉の神武帝が韓陵で勝利すると、爾朱氏をことごとく誅殺した。敞は幼く、母に従い宮中で養われた。十二歳の時、壁穴から逃げ出し、大通りに出ると、子供たちが群れ遊んでいるのを見た。敞は身に着けていた綺羅金翠の服を脱ぎ、衣服を交換して逃げた。追手の騎兵がすぐに来たが、初めは敞と分からず、ただちに綺衣の子供を捕らえた。取り調べて別人と知るうちに、日が暮れたので、これによって免れた。そこで一つの村に入り、長孫氏の老女が胡床に踞え坐っているのを見た。敞は再拝して哀願した。長孫氏はこれを哀れみ、複壁の中に隠した。三年後、賞金をかけての探索がますます厳しくなり、手配の手が迫ってきた。長孫氏は言った、「事態が切迫している。長く留まることはできない」と。資金を与えて送り出した。そこで道士を装い、姓名を変えて嵩山に隠れ、経史を少し学んだ。数年後、人々は彼を大いに異とした。かつて岩の下に独り坐し、涙を流して嘆いて言った、「私はどうしてここで終わるだろうか。伍子胥はただ一人の人物ではないか」と。そこで密かに粗末な服を着て西行し、周に帰順した。太祖(宇文泰)は彼を礼遇し、大都督・行台郎中に任じ、霊寿県伯に封じ、邑千五百戸を与えた。通直散騎常侍さんきじょうじに転じ、さらに車騎大将軍・儀同三司に転じ、侯に進爵した。保定年間(561-565)、使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司に転じた。天和年間(566-572)、邑五百戸を加増され、信・臨・熊・潼の四州刺史を歴任し、公に進爵した。武帝(宇文邕)が東征する時、上表して従軍を求め、許された。城を攻め陣を陥し、向かうところ皆破り、上開府に進位した。南光州刺史に任じられ、入朝して護軍大将軍となった。一年余り後、膠州刺史に転じた。この時、長孫氏と弟を家に迎え入れ、手厚く資給した。高祖(文帝楊堅)が禅譲を受けると、辺城郡公に改封された。黔安の蛮が反乱すると、敞に命じて討伐平定させた。軍が帰還すると、金州総管に任じられた。まもなく徐州総管に転じた。在職数年、明粛と称され、民吏はこれを畏れた。後年、年老いたことを理由に上表して致仕を乞うた。二馬の軺車を賜り、河内に帰り、家で卒した。時に七十二歳。子の最が後を嗣いだ。

周搖

周搖、字は世安、その先祖は後魏と同源で、初めは普乃氏であったが、洛陽らくように居住してから周氏に改めた。曾祖父の抜抜、祖父の右六肱は、ともに北平王であった。父の恕延は、行台僕射・南荊州総管を歴任した。搖は若い頃から剛毅果断で武芸に優れ、性格は謹厚で、行動は法度に従った。魏に仕え、官は開府儀同三司に至った。周の閔帝が禅譲を受けると、車非氏の姓を賜り、金水郡公に封じられた。夙・楚の二州刺史を歴任し、吏民は安んじた。帝(武帝)に従って斉を平定し、戦うごとに功があり、柱国に超授され、夔国公に進封された。まもなく、晋州総管に任じられた。当時、高祖(楊堅)は定州総管であり、文獻皇后(独孤伽羅)が京師から高祖のもとへ行く途中、搖の任地を通ったが、主人としての礼遇は甚だ薄かった。その後、皇后に申し上げて言った、「官舎は財に富んでいますが、法の制限により勝手に費やすことはできません。また、王臣は私的なもてなしをしてはなりません」と。その質朴正直さはこのようであった。高祖は彼が法を守ることを嘉しんだ。高祖が丞相となると、済北郡公に転封され、まもなく州総管に任じられた。高祖が禅譲を受けると、周氏に復姓した。開皇初年(581年頃)、突厥が辺境を侵し、燕・薊は多くその被害を受けた。前総管の李崇が虜に殺されたため、帝(文帝)は鎮撫する人材を考え、臨朝して言った、「周搖に勝る者はいない」と。幽州総管六州五十鎮諸軍事に任じた。搖は障塞を修築し、斥候を厳重にし、辺民は安んじた。六年後、寿州に転じた。初め、自ら年老いたことを理由に致仕を願い出たが、帝は彼を召し出した。引見されると、帝は労って言った、「公は善行を積み仁を重ね、三代に仕え、富貴を全うし、この長寿を保っている。まことに善いことである」と。座褥を賜り、邸宅に帰った。一年余り後、家で卒した。諡は恭。時に八十四歳。

独孤楷

独孤楷、字は修則、どこの出身かは分からない。本来の姓は李氏である。父の屯は、斉の神武帝に従って周軍と沙苑で戦い、斉軍が大敗したため、柱国独孤信に捕らえられ、兵卒に編入され、独孤信の家に給使として仕え、次第に親近を得て、独孤氏の姓を賜った。楷は若い頃から謹厚で、馬槊を弄ぶことを得意とし、宇文護の執刀となり、累進して車騎将軍に転じた。その後、数度征伐に従軍し、広阿県公の爵位を賜り、邑千戸を与えられ、右侍下大夫に任じられた。周の末年に、韋孝寬に従って淮南を平定し、功により子の景雲に西河県公の爵位を賜った。高祖が丞相となると、開府に進授され、常に親信の兵を監督した。高祖が禅譲を受けると、右監門将軍に任じられ、汝陽郡公に進封された。数年後、右衛将軍に転じた。仁寿初年(601年頃)、原州総管として出向した。当時、しょく王秀が益州を鎮守していたが、帝(文帝)が彼を召還すると、秀はためらって出発しなかった。朝廷は秀が変事を起こすことを恐れ、楷を益州総管に任じ、駅伝を馳せて代わらせた。秀は果たして異心を持っており、楷が長く諭した後、ようやく出発した。楷は秀に悔恨の色があるのを察し、兵を率いて備えた。秀が興楽に至り、益州から四十余里のところで、密かに楷を襲撃しようとし、左右に命じて楷の様子を探らせたが、楷が侵犯できないと知って止めた。楷は益州において、大いに善政を施し、蜀中の父老は今もこれを称えている。煬帝が即位すると、へい州総管に転じた。病気にかかり失明したため、上表して致仕を乞うた。帝は言った、「公は先朝の旧臣で、二代にわたり官職を歴任し、高風と素望がある。臥してこれを鎮めよ。簿領に自ら労する必要はない」と。長子の凌雲に命じて郡の事務を監察させた。そのように重んじられたのである。数年後、長平太守に転じたが、着任せずに卒した。諡は恭。子の凌雲・平雲・彦雲は皆、名を知られた。楷の弟の盛は、『誠節伝』に見える。

乞伏慧

乞伏慧、字は令和、馬邑の鮮卑人である。祖父の周は、魏の銀青光禄大夫、父の纂は金紫光禄大夫であり、ともに第一領民酋長となった。慧は若くして慷慨にして大節あり、弓馬に巧みで、鷹犬を好んだ。斉の文襄帝の時、行台左丞となり、蕩寇将軍を加えられ、累遷して右衛将軍・太僕卿となり、永寧県公から宜民郡王に封ぜられた。その兄の貴和もまた軍功により王となり、一門に二王あり、貴顕と称された。周の武帝が斉を平定すると、使持節・開府儀同大将軍を授けられ、佽飛右旅下大夫に拝され、熊渠中大夫に転じた。高祖(楊堅)が丞相となった時、韋孝寬に従い武陟において尉惇を撃ち、当たる所皆破り、大将軍を授けられ、物八百段を賜った。及び尉迥を平定すると、位は柱国に進み、爵は西河郡公を賜り、邑三千戸、賚物二千三百段を賜った。官爵を兄に譲らんことを請うたが、朝廷は許さず、論ずる者はこれを義とした。高祖が禅を受け、曹州刺史に拝された。曹土の旧俗は、民多く奸隠し、戸口名簿帳、常に実を以てせず。慧は下車して按察し、戸数万を得た。涼州総管に遷った。先に、突厥たび寇抄を為し、慧はここにおいて烽燧を厳警し、遠く斥候を為し、虜もまた素よりその名を憚り、竟に境内に入らず。歳余りして、斉州刺史に転じ、隠戸数千を得た。寿州総管に遷った。その年、左転して杞州刺史となり、在職数年、徐州総管に遷った。時に年七十を逾え、上表して致仕を求めたが、許されず。俄かに荊州総管に転じ、また潭・桂二州総管三十一州諸軍事を領した。その俗は軽剽なり、慧は躬行して樸素を以てこれを矯め、風化大いに洽う。曾て人以て穀にて魚を捕る者を見、絹を出して買いこれを放ち、その仁心かくの如し。百姓これを美とし、その処を号して西河公穀と曰う。秦州総管に転じた。煬帝即位し、天水太守となった。大業五年、吐谷渾を征し、郡は西境に濱り、民は労役に苦しみ、また帝の西巡に遇い、道を整えず、献食疏薄の罪に坐し、帝大いに怒り、左右に命じてこれを斬らんとした。その髪なきを見て、乃ち釈し、除名して民と為した。家に卒した。

張威

張威、何れの許の人なるかを知らず。父の琛は、魏の弘農太守である。威は若くして倜儻として大志あり、騎射に善く、膂力人に過ぎた。周に在り、数たび征伐に従い、位は柱国・京兆尹に至り、長寿県公に封ぜられ、邑千戸。王謙乱を作すや、高祖は威を行軍総管と為し、元帥梁睿に従いこれを撃たしめた。軍は通穀に次ぐ、謙の守将李三王勁兵を擁して拒守す、睿は威を先鋒と為す。三王初めは壘を閉じて戦わず、威は人をして詈侮せしめて以てこれを激怒せしむ、三王果たして出陣す。威は壮士をして奮撃せしめ、三王軍潰え、大兵継いて至り、ここにおいて四千余人を擒斬す。進んで開遠に至る、謙の将趙儼衆十万、営を連ねること三十里。威は山を鑿ちて道を通じ、西嶺よりその背を攻め、儼遂に敗走す。成都に追い至り、謙と大戦し、威は中軍を将う。及び謙平らぎ、位は上柱国に進み、瀘州総管に拝された。高祖禅を受け、歴て幽・洛二州総管となり、改めて晋熙郡公に封ぜられた。尋いで河北道行台僕射に拝され、後に晋王軍府事を督す。数年して、青州総管に拝され、銭八十万、米五百石、雑彩三百段を賜った。威は青州に在り、頗る産業を治め、家奴をして民間に蘆菔根を鬻がしむ、その奴これに縁りて百姓を侵擾す。上深く譴責を加え、坐して家に廢せられた。後に上に従い太山を祠り、洛陽に至る、上威に謂いて曰く、「朕の天下有るより以来、毎に公を以て重鎮に委ぬ、赤心を推すと謂うべし。何ぞ乃ち名行を修めず、唯だ利を是れ視るや?豈に直ちに朕が心を孤負するのみならず、亦た卿が名徳を累わす。」因りて威に問うて曰く、「公の執る所の笏今安くにか在るや?」威頓首して曰く、「臣罪を負い憲を虧き、顔復た執る無く、謹んで家に蔵す。」上曰く、「持来すべし。」威明日笏を奉じて以て見ゆ、上曰く、「公は法度に遵わずといえども、功效実に多し、朕これを忘れず。今公に笏を還す。」ここにおいて復た洛州刺史に拝し、後に睆城郡公に封ぜられた。尋いで相州刺史に転じ、官に卒した。子植あり、大業中、武賁郎将に至る。

和洪

和洪、汝南の人である。若くして武力あり、勇烈人に過ぎた。周の武帝の時、数たび征伐に従い、戦功により累遷して車騎大将軍・儀同三司となった。時に龍州の蛮、任公忻・李國立等衆を聚めて乱を為し、刺史獨孤善禦うること能わず。朝議洪に武略有りとして、善に代わり刺史と為す。月余りして、公忻・國立を擒え、皆斬首して梟し、余党悉く平らぐ。帝に従い河陰を攻め、洪力戦し、その西門を陥す。帝これを壮とし、物千段を賞す。復た帝に従い斉を平らげ、位は上儀同に進み、爵は北平侯を賜り、邑八百戸、左勲曹下大夫に拝された。柱国王軌の呉明徹を擒うるや、洪功有り、位を開府に加えられ、折衝中大夫に遷った。尉迥相州に乱を作すや、洪を行軍総管と為し、韋孝寬に従いこれを撃たしむ。軍河陽に至り、迥兵を遣わし懐州を囲む、洪は総管宇文述等とともに撃ち走らす。また武陟において尉惇を破る。及び相州を平らげ、毎たび戦い功有り、柱国に拝され、広武郡公に封ぜられ、邑二千戸。前後賜物万段、奴婢五十口、金銀各百挺、牛馬百匹。時に東夏初めて平らぎ、物情尚お梗み有り、高祖は洪に威名有りとして、冀州事を領せしめ、甚だ人和を得たり。数年して、征されて朝に入り、漕渠総管監と為り、転じて泗州刺史に拝された。属に突厥辺を寇す、詔して洪を北道行軍総管と為し、虜を撃ち走らせ、磧に至りて還る。後に徐州総管に遷り、卒す、時に年六十四。

侯莫陳穎

侯莫陳穎は字を遵道といい、代の人である。北魏に従って南遷し、代々列将となった。父の崇は、魏・周の際に歴職して顕要となり、官は大司空しくうに至った。穎は若くして器量があり、風神は警発にして、当時の輩に推された。西魏の大統末、父の軍功により爵を賜って広平侯と為し、累遷して開府儀同三司となった。北周の武帝の時、滕王の宇文逌に従って龍泉・文城の叛胡を撃ち、柱国の豆盧勣と各々兵を帥いて分路して進んだ。穎は軍を懸けて五百余里を進み、その三つの柵を破った。先に、稽胡が叛乱し、しばしば辺境の人を略して奴婢としていた。ここに至り詔して、胡が敢えて良人を圧匿する者は誅し、その妻子を籍没すべしと定めた。ある人が胡の村に隠匿されていると言う者があったので、勣はこれを誅せんとした。穎は勣に謂って曰く、「将は外に在りては、君命も行われざる所あり。諸胡は固より悉く反したるにあらず、ただ相迫脅されて乱を為すのみ。大兵これを臨めば、首乱の者は懼れを知り、脅従の者は降らんことを思う。今漸く撫慰を加うれば、自ら戦わずして定まるべし。もし即時にこれを誅せば、転相驚恐し、難小さからず。その渠帥を召し、隠匿する者をこれに付し、自ら帰首せしむるに若かず。然らば群胡安んずべし」と。勣はこれに従った。群胡感悦し、争って来たり降附し、北土は以て安んじた。司武に遷り、振威中大夫を加えられた。高祖(楊堅)が丞相となると、昌州刺史に拝された。会に受禅があり、竟に行われず、上開府を加えられ、爵を進めて升平郡公となった。俄かに延州刺史に拝された。数年して、陳州刺史に転じた。陳を平らげる役には、行軍総管として秦王の楊俊に従い魯山道より出た。時に陳の将の荀法尚・陳紀が降ったので、穎は行軍総管の段文振とともに江を渡り、初附の者を安集した。尋いで饒州刺史に拝されたが、未だその官に赴かず、瀛州刺史に遷り、甚だ恵政有り。在職数年、秦王の楊俊と交通した罪に坐して免官された。百姓の送らんとする者は、涙を流さざるはなく、因りて相与に碑を立て、穎の清徳を頌した。未だ幾ばくもせず、汾州事を検校し、俄かに邢州刺史に拝された。仁寿年中、吏部尚書の牛弘が節を持ち山東を巡撫し、穎を以て第一と為した。高祖嘉歎し、優詔を以て褒揚した。時に朝廷は、嶺南の刺史・県令多く貪鄙にして、蛮夷怨叛すとし、清吏を妙簡して以てこれを鎮撫せんとし、ここに穎を征して入朝せしめた。進見するに及び、上は穎と言及して平生を語り、以て歓笑と為した。数日して、位を進めて大将軍と為し、桂州総管十七州諸軍事に拝し、物を賜ってこれを遣わした。官に到るに及び、大いに恩信を崇め、民夷悦服し、溪洞の生越、多く来たり帰附した。煬帝即位し、穎の兄の梁国公の侯莫陳芮が事に坐して辺に徙せられると、朝廷は穎の自ら安んぜざるを恐れ、征して京師に帰らしめた。数年して、恆山太守に拝された。その年、嶺南・閩越多く附かず、帝は穎が前に桂州に在りて恵政有り、南土に信伏されたるを以て、再び南海太守に拝した。後四年、官に卒す。諡して定と曰う。子の虔会、最も知名なり。

【論】

史臣曰く、杜彥は東夏・南服にて、屡々戦功有り、朔垂に鎮を作り、胡塵起こらず。高勱は死亡の際、志気凛然たり、彼の奸邪を疾み、この余慶を致す。爾朱敞は幼くして権奇有り、終に能く止足し、崇基墜ちて復構す、仁にして且つ智ならずや。周搖は質実を以て知られ、独孤(楷)は恤人を以て流誉し、乞伏慧は能く国を譲り、侯莫陳(穎)は居る所治理す。或いは牧人の道を知り、或いは仁義の路を践み、皆称すべき有り。慧は供帳厚からざるを以て、放黜に至る。並びに結髮して朝に登り、三代に出入し、終に禄位を享け、性齢を夭さず。蓋しその心に任せて行い、矯飾を為さざるに致る所なり。