杜彥
杜彥は雲中の人である。父の遷は葛榮の乱に属し、家を幽州に移した。彦は性質勇猛果断にして、騎射を善くした。周に仕え、初めて官に就き左侍上士となり、後に柱国陸通に従って土州において陳の将軍呉明徹を撃ち、これを破った。また叛蛮を撃ち、倉塠・白楊の二柵を陥落させ、併せてその渠帥を斬った。進んで郢州の賊帥樊志を平定し、戦功により大都督に任ぜられた。まもなく儀同に遷り、隆山郡の事務を治めた。翌年、隴州刺史に任ぜられ、永安県伯の爵を賜った。高祖が丞相となった時、韋孝寛に従って相州において尉遅迥を撃ち、戦う毎に功があり、物三千段、奴婢三十口を賜った。上開府に進み、襄武県侯に改封され、魏郡太守に任ぜられた。開皇初年、丹州刺史を授けられ、公に進爵した。後六年、左武衛将軍に徴された。陳平定の役において、行軍総管として新義公韓擒虎と相次いで進んだ。軍は南陵に至り、賊は江岸に屯して拠ったが、彦は儀同樊子蓋に精兵を率いさせてその柵を撃破し、船六百余艘を獲た。江を渡り、南陵城を撃ち、これを抜き、その守将許翼を擒らえた。進んで新林に至り、韓擒虎と軍を合わせた。陳が平定されると、物五千段、粟六千石を賜り、柱国に進み、子の宝安に昌陽県公の爵を賜った。高智慧等が乱を起こした時、また行軍総管として楊素に従ってこれを討ち、別に江州の包囲を解いた。智慧の余党はしばしば屯聚し、投溪洞に拠って保ったが、彦は水陸併進して錦山・陽父・若・石壁の四洞を攻め、悉くこれを平定し、皆その渠帥を斬った。賊の李陀が数千の衆を擁して彭山に拠ったが、彦は襲撃してこれを破り、陀を斬り、その首を伝送した。また徐州・宜豊の二洞を撃ち、悉くこれを平定した。奴婢百余口を賜った。洪州総管に任ぜられ、甚だ治名があった。
一年余り後、雲州総管賀婁子幹が卒した。上は久しく悼み惜しみ、侍臣に謂って曰く、「榆林は国の重鎮である。どうして子幹の輩を得ることができようか」と。数日後、上は曰く、「朕は榆林を鎮め得る者を思うに、杜彦に過ぎる者はない」と。ここにおいて雲州総管に徴し任ぜられた。突厥が来寇すると、彦は直ちにこれを擒らえて斬り、北夷は畏憚し、胡馬は塞に至らなかった。後数年、朝廷はまた前功を追録し、子の宝虔に承県公の爵を賜った。十八年、遼東の役において、行軍総管として漢王に従って営州に至った。上は彦が軍旅に習熟しているとして、五十営の事を総統せしめた。帰還すると、朔州総管に任ぜられた。突厥がまた雲州を寇したので、上は楊素にこれを撃退させたが、その後もなお辺患となることを恐れ、彦が元来突厥に畏憚されていたので、また雲州総管に任ぜられた。未だ幾ばくもせず、疾により徴還され、卒した。時に六十歳。子の宝虔は、大業末年に文城郡丞となった。
高勱
高勱は字を敬徳といい、渤海蓚の人である。斉の太尉・清河王高岳の子である。幼くして聡明敏達、風儀美しく、仁孝をもって聞こえ、斉の顕祖に愛された。七歳で清河王の爵を襲い、十四歳で青州刺史となり、右衛将軍・領軍大将軍・祠部尚書・開府儀同三司を歴任し、楽安王に改封された。性質剛直にして才幹あり、甚だ当時の人に重んぜられた。斛律明月はひそかに彼を敬い、征伐がある毎に彼を副将に引き立てた。侍中・尚書右僕射に遷った。後主が周軍に敗れた時、勱は太后を奉じて鄴に帰った。時に宦官は放縦であり、儀同苟子溢は特に寵幸を称していたが、勱はこれを斬って衆に示さんとした。太后がこれを救ったので、ようやく釈放した。劉文殊がひそかに勱に謂って曰く、「子溢の徒は、言が禍福を成す。どうしてこのようにできるのか」と。勱は袂を捲いて曰く、「今、西寇は日々侵し、朝貴多くは叛く。正にこの輩が権を弄するにより、衣冠の解体を致している。もし今日これを殺し、明日誅せられることがあっても、恨むところはない」と。文殊は甚だ慚じた。鄴に至ると、勱は後主を勧めて曰く、「五品以上の家累は、悉く三台の上に置き、脅して曰く、『もし戦に捷たなければ、これを焼く』と。この輩は妻子を惜しむから、必ず死戦し、敗れることができましょう」と。後主は従わず、遂に鄴を棄てて東に遁走した。勱は常に後殿を務め、周軍に得られた。武帝はこれを見て、語り、大いに悦び、斉の滅亡の由縁を問うた。勱は発言して流涕し、悲しみ自ら勝えず、帝もまたこれがために顔色を改めた。開府儀同三司を授けられた。
高祖が丞相となった時、勱に謂って曰く、「斉の滅亡した所以は、邪佞を用いたからである。公父子は忠良にして、隣境に聞こえている。宜しく善く自ら愛すべし」と。勱は再拝して謝して曰く、「勱は亡斉の末属、世に恩栄を荷いながら、危きを扶け傾きを定めることができず、以て淪覆を致しました。既に宥されることを蒙り、恩幸は既に多い。況んやまた名位を濫叨し、官謗を速やかに致すことにおいてをや」と。高祖は甚だこれを器とし、勱をして揚州の事務を検校せしめた。後に楚州刺史に任ぜられ、民はこれに安んじた。先に、城北に伍子胥の廟があり、その俗は鬼を敬った。祈祷する者は必ず牛酒を用い、産業を破るに至った。勱は歎じて曰く、「子胥は賢者である。豈に百姓を損うべきであろうか」と。乃ち管下に告諭し、ここより遂に止み、百姓はこれに頼った。
隴右の諸羌は数度寇乱を為した。朝廷は勱に威名有りとして、洮州刺史に任ぜられた。任地に下車して大いに威恵を崇め、民夷悦服し、その山谷間に住む生羌は相率いて府に詣でて謁を称し、前後より至る者、数千余戸に及んだ。豪猾は跡を屏し、路に遺物を拾わず、職に在ること数年、治理と称された。後に吐谷渾が来寇するに遇い、勱は疾に遇って拒戦できず、賊は遂に大掠して去った。憲司は勱が戸口を亡失したと奏し、また羌より饋遺を受けたと上言し、竟に坐して免官された。後に家において卒した。時に五十六歳。子の士廉は最も知名である。
尒朱敞
周搖
周搖、字は世安、その先祖は後魏と同源で、初めは普乃氏であったが、洛陽に居住してから周氏に改めた。曾祖父の抜抜、祖父の右六肱は、ともに北平王であった。父の恕延は、行台僕射・南荊州総管を歴任した。搖は若い頃から剛毅果断で武芸に優れ、性格は謹厚で、行動は法度に従った。魏に仕え、官は開府儀同三司に至った。周の閔帝が禅譲を受けると、車非氏の姓を賜り、金水郡公に封じられた。夙・楚の二州刺史を歴任し、吏民は安んじた。帝(武帝)に従って斉を平定し、戦うごとに功があり、柱国に超授され、夔国公に進封された。まもなく、晋州総管に任じられた。当時、高祖(楊堅)は定州総管であり、文獻皇后(独孤伽羅)が京師から高祖のもとへ行く途中、搖の任地を通ったが、主人としての礼遇は甚だ薄かった。その後、皇后に申し上げて言った、「官舎は財に富んでいますが、法の制限により勝手に費やすことはできません。また、王臣は私的なもてなしをしてはなりません」と。その質朴正直さはこのようであった。高祖は彼が法を守ることを嘉しんだ。高祖が丞相となると、済北郡公に転封され、まもなく豫州総管に任じられた。高祖が禅譲を受けると、周氏に復姓した。開皇初年(581年頃)、突厥が辺境を侵し、燕・薊は多くその被害を受けた。前総管の李崇が虜に殺されたため、帝(文帝)は鎮撫する人材を考え、臨朝して言った、「周搖に勝る者はいない」と。幽州総管六州五十鎮諸軍事に任じた。搖は障塞を修築し、斥候を厳重にし、辺民は安んじた。六年後、寿州に転じた。初め、自ら年老いたことを理由に致仕を願い出たが、帝は彼を召し出した。引見されると、帝は労って言った、「公は善行を積み仁を重ね、三代に仕え、富貴を全うし、この長寿を保っている。まことに善いことである」と。座褥を賜り、邸宅に帰った。一年余り後、家で卒した。諡は恭。時に八十四歳。
独孤楷
独孤楷、字は修則、どこの出身かは分からない。本来の姓は李氏である。父の屯は、斉の神武帝に従って周軍と沙苑で戦い、斉軍が大敗したため、柱国独孤信に捕らえられ、兵卒に編入され、独孤信の家に給使として仕え、次第に親近を得て、独孤氏の姓を賜った。楷は若い頃から謹厚で、馬槊を弄ぶことを得意とし、宇文護の執刀となり、累進して車騎将軍に転じた。その後、数度征伐に従軍し、広阿県公の爵位を賜り、邑千戸を与えられ、右侍下大夫に任じられた。周の末年に、韋孝寬に従って淮南を平定し、功により子の景雲に西河県公の爵位を賜った。高祖が丞相となると、開府に進授され、常に親信の兵を監督した。高祖が禅譲を受けると、右監門将軍に任じられ、汝陽郡公に進封された。数年後、右衛将軍に転じた。仁寿初年(601年頃)、原州総管として出向した。当時、蜀王秀が益州を鎮守していたが、帝(文帝)が彼を召還すると、秀はためらって出発しなかった。朝廷は秀が変事を起こすことを恐れ、楷を益州総管に任じ、駅伝を馳せて代わらせた。秀は果たして異心を持っており、楷が長く諭した後、ようやく出発した。楷は秀に悔恨の色があるのを察し、兵を率いて備えた。秀が興楽に至り、益州から四十余里のところで、密かに楷を襲撃しようとし、左右に命じて楷の様子を探らせたが、楷が侵犯できないと知って止めた。楷は益州において、大いに善政を施し、蜀中の父老は今もこれを称えている。煬帝が即位すると、并州総管に転じた。病気にかかり失明したため、上表して致仕を乞うた。帝は言った、「公は先朝の旧臣で、二代にわたり官職を歴任し、高風と素望がある。臥してこれを鎮めよ。簿領に自ら労する必要はない」と。長子の凌雲に命じて郡の事務を監察させた。そのように重んじられたのである。数年後、長平太守に転じたが、着任せずに卒した。諡は恭。子の凌雲・平雲・彦雲は皆、名を知られた。楷の弟の盛は、『誠節伝』に見える。
乞伏慧
張威
張威、何れの許の人なるかを知らず。父の琛は、魏の弘農太守である。威は若くして倜儻として大志あり、騎射に善く、膂力人に過ぎた。周に在り、数たび征伐に従い、位は柱国・京兆尹に至り、長寿県公に封ぜられ、邑千戸。王謙乱を作すや、高祖は威を行軍総管と為し、元帥梁睿に従いこれを撃たしめた。軍は通穀に次ぐ、謙の守将李三王勁兵を擁して拒守す、睿は威を先鋒と為す。三王初めは壘を閉じて戦わず、威は人をして詈侮せしめて以てこれを激怒せしむ、三王果たして出陣す。威は壮士をして奮撃せしめ、三王軍潰え、大兵継いて至り、ここにおいて四千余人を擒斬す。進んで開遠に至る、謙の将趙儼衆十万、営を連ねること三十里。威は山を鑿ちて道を通じ、西嶺よりその背を攻め、儼遂に敗走す。成都に追い至り、謙と大戦し、威は中軍を将う。及び謙平らぎ、位は上柱国に進み、瀘州総管に拝された。高祖禅を受け、歴て幽・洛二州総管となり、改めて晋熙郡公に封ぜられた。尋いで河北道行台僕射に拝され、後に晋王軍府事を督す。数年して、青州総管に拝され、銭八十万、米五百石、雑彩三百段を賜った。威は青州に在り、頗る産業を治め、家奴をして民間に蘆菔根を鬻がしむ、その奴これに縁りて百姓を侵擾す。上深く譴責を加え、坐して家に廢せられた。後に上に従い太山を祠り、洛陽に至る、上威に謂いて曰く、「朕の天下有るより以来、毎に公を以て重鎮に委ぬ、赤心を推すと謂うべし。何ぞ乃ち名行を修めず、唯だ利を是れ視るや?豈に直ちに朕が心を孤負するのみならず、亦た卿が名徳を累わす。」因りて威に問うて曰く、「公の執る所の笏今安くにか在るや?」威頓首して曰く、「臣罪を負い憲を虧き、顔復た執る無く、謹んで家に蔵す。」上曰く、「持来すべし。」威明日笏を奉じて以て見ゆ、上曰く、「公は法度に遵わずといえども、功效実に多し、朕これを忘れず。今公に笏を還す。」ここにおいて復た洛州刺史に拝し、後に睆城郡公に封ぜられた。尋いで相州刺史に転じ、官に卒した。子植あり、大業中、武賁郎将に至る。
和洪
和洪、汝南の人である。若くして武力あり、勇烈人に過ぎた。周の武帝の時、数たび征伐に従い、戦功により累遷して車騎大将軍・儀同三司となった。時に龍州の蛮、任公忻・李國立等衆を聚めて乱を為し、刺史獨孤善禦うること能わず。朝議洪に武略有りとして、善に代わり刺史と為す。月余りして、公忻・國立を擒え、皆斬首して梟し、余党悉く平らぐ。帝に従い河陰を攻め、洪力戦し、その西門を陥す。帝これを壮とし、物千段を賞す。復た帝に従い斉を平らげ、位は上儀同に進み、爵は北平侯を賜り、邑八百戸、左勲曹下大夫に拝された。柱国王軌の呉明徹を擒うるや、洪功有り、位を開府に加えられ、折衝中大夫に遷った。尉迥相州に乱を作すや、洪を行軍総管と為し、韋孝寬に従いこれを撃たしむ。軍河陽に至り、迥兵を遣わし懐州を囲む、洪は総管宇文述等とともに撃ち走らす。また武陟において尉惇を破る。及び相州を平らげ、毎たび戦い功有り、柱国に拝され、広武郡公に封ぜられ、邑二千戸。前後賜物万段、奴婢五十口、金銀各百挺、牛馬百匹。時に東夏初めて平らぎ、物情尚お梗み有り、高祖は洪に威名有りとして、冀州事を領せしめ、甚だ人和を得たり。数年して、征されて朝に入り、漕渠総管監と為り、転じて泗州刺史に拝された。属に突厥辺を寇す、詔して洪を北道行軍総管と為し、虜を撃ち走らせ、磧に至りて還る。後に徐州総管に遷り、卒す、時に年六十四。
侯莫陳穎
【論】
史臣曰く、杜彥は東夏・南服にて、屡々戦功有り、朔垂に鎮を作り、胡塵起こらず。高勱は死亡の際、志気凛然たり、彼の奸邪を疾み、この余慶を致す。爾朱敞は幼くして権奇有り、終に能く止足し、崇基墜ちて復構す、仁にして且つ智ならずや。周搖は質実を以て知られ、独孤(楷)は恤人を以て流誉し、乞伏慧は能く国を譲り、侯莫陳(穎)は居る所治理す。或いは牧人の道を知り、或いは仁義の路を践み、皆称すべき有り。慧は供帳厚からざるを以て、放黜に至る。並びに結髮して朝に登り、三代に出入し、終に禄位を享け、性齢を夭さず。蓋しその心に任せて行い、矯飾を為さざるに致る所なり。