王長述
李衍
衍の弟の子の長雅は、高祖の娘の襄国公主を娶り、父の綸の爵を襲い、河陽郡公となった。開皇の初め、将軍・散騎常侍に任ぜられ、内史侍郎・河州刺史・秦州総管検校を歴任した。
衍の従孫の密は、別に伝がある。
伊婁謙
伊婁謙は、字を彦恭といい、本来鮮卑の人である。その祖先は代々酋長となり、魏に従って南遷した。祖父の信は、中部太守であった。父の霊は、相州・隆州の二州刺史であった。謙は性質忠直で、辞令に長けていた。魏に仕えて直閣將軍となった。周が禅を受けると、累進して宣納上士、使持節・車騎大將軍となった。武帝(宇文邕)が斉を伐たんとし、内殿に引き入れ、従容として謂いて曰く、「朕将に戎馬に事有らんとす。何れをか先と為すべき」と。謙対えて曰く、「愚臣、誠に以て大事を知るに足らず。但だ偽斉は僭り擅り、跋扈して恭しからず、倡優に沈溺し、曲蘖に耽昏す。その折衝の将たる斛律明月は既に斃れ、讒人の口、上下心を離し、道路目を仄めく。若し六師を命ぜば、臣の願いなり」と。帝は大笑い、因って謙をして小司寇の拓拔偉と共に斉に聘わせ、その隙を観させた。帝はまもなく兵を発した。斉の主はこれを知り、その僕射の陽休之に命じて謙を責めて曰く、「貴朝盛夏に兵を徴す。馬首何れに向かわんとするか」と。謙答えて曰く、「僕が式(使者の礼)に憑るの始め、未だ興師を聞かず。設い復た西には白帝の城を増し、東には巴丘の戍を益すとも、人情の恒理、豈に怪しむに足らんや」と。謙の参軍の高遵が内情を斉に漏らしたため、遂に謙を拘留して帰さなかった。帝が并州を克つと、謙を召して労いて曰く、「朕が兵を挙ぐるは、本より卿の還るを俟つ。図らざりき高遵中つて叛逆を為し、朕が宿心に乖くとは。遵の罪なり」と。乃ち遵を捕らえて謙に付し、報復するを任せた。謙は頓首してこれを赦すを請うた。帝曰く、「卿は衆を聚めて面に唾せしめ、愧を知らしむべし」と。謙跪いて曰く、「遵の罪を以てすれば、又た面に唾するの責に非ず」と。帝はその言を善しとして止めた。謙は竟に遵を初めの如く遇した。その寛厚仁恕、皆この類いである。まもなく済陽県伯の爵を賜い、累進して前驅中大夫となった。大象年中、侯に進爵し、開府の位を加えられた。高祖が丞相となると、亳州総管を授けられたが、俄かに征還されて京師に還った。王謙を平定した後、謙は逆人(王謙)と同名なるを恥じ、因って字(彦恭)を称した。高祖が禅を受けると、彦恭を左武候將軍とし、俄かに大将軍に任じ、公に進爵した。数年後、出て沢州刺史となり、清約自ら処し、甚だ人和を得た。病により職を去るに当たり、官吏・民衆は引き止れ慕い、数百里を行くも絶えなかった。数年後、家で卒した。時に年七十。子の傑が嗣いだ。
田仁恭
田仁恭は、字を長貴といい、平涼郡長城の人である。父の弘は、周の大司空であった。仁恭は性質寛仁で、器量と度量があった。周において明経をもって掌式中士となった。後に父の軍功により爵を賜い鶉陰子となった。大塚宰の宇文護が引き立てて中外兵曹とした。後数年、また父の功により開府儀同三司を拝し、中外府掾に遷った。宇文護に従い征伐し、数度戦功があり、襄武県公に改封され、邑五百戸を賜った。武帝に従い斉を平定し、上開府を加授され、淅陽郡公に進封され、邑二千戸を増加され、幽州総管に任ぜられた。宣帝の時、鴈門郡公に進爵した。高祖が丞相となると、征召されて小司馬に任ぜられ、大将軍に進位した。韋孝寬に従い相州において尉遅迥を破り、柱国に任ぜられた。高祖が禅を受けると、上柱国に進み、太子太師に任ぜられ、甚だ親重され、嘗てその邸に幸し、宴飲極めて歓び、礼と賜物は殊に厚かった。詔を奉じて廟社を営み、観国公に進爵し、邑を増やして前の分と合わせて五千戸となった。未だ幾ばくもなく、右武衛大将軍に任ぜられた。一年余りして、官において卒した。時に年四十七。司空を追贈され、諡して敬といった。子の世師が嗣いだ。次子の徳懋は、『孝義伝』にある。
時に任城郡公の王景・鮮虞県公の謝慶恩あり、ともに官は上柱国に至った。大義公の辛遵およびその弟の韶は、ともに官は柱国に至った。高祖は彼らが皆佐命の功臣であるとして、特段に崇貴を加え、親礼は仁恭らと等しかった。事跡は皆亡失したという。
元亨
元亨は、字を徳良といい、一名を孝才といい、河南洛陽の人である。父の季海は、魏の司徒・馮翊王であったが、周と斉が分断された際に、季海は長安に仕えることとなった。元亨は当時数歳で、母の李氏とともに洛陽にいた。斉の神武帝は元亨の父が関西にいることを理由に、彼を禁錮した。その母は魏の司空李沖の娘であり、もとより智謀に富んでいたので、飢え凍えていると偽り、滎陽での食を求めた。斉人は彼らが関西からまだ遠く、老いた女と幼い子であるため疑わず、ついに許した。李氏はひそかに豪族の李長寿に託し、元亨と孤児となった甥八人を連れ、草むらを潜行して長安に至った。周の太祖はこれを見て大いに喜び、元亨を功臣の子として、非常に厚く礼遇した。元亨が十二歳の時、魏の恭帝が皇太子であった際、交友として引き立てられた。千牛備身に任じられた。大統の末年に、馮翊王の爵位を襲封し、邑千戸を賜った。拝命の日、悲慟して自らを抑えることができなかった。まもなく通直散騎常侍に遷り、武衛将軍・勳州刺史を歴任し、平涼王に改封された。周の閔帝が禅譲を受けると、例により公に降格された。明帝・武帝の時代に、隴州刺史・御正大夫・小司馬を歴任した。宣帝の時、洛州刺史となった。高祖が丞相であった時、尉遅迥が乱を起こすと、洛陽人の梁康・邢流水らが兵を挙げて迥に応じた。十日ほどの間に、衆は一万余りに至った。州の治中王文舒はひそかに梁康と結び、元亨を図ろうとした。元亨はひそかにその謀を知り、関中の兵を選び、二千人を得て左右とし、文舒を捕らえて斬り、兵を率いて梁康・邢流水を襲撃し、いずれも撃破した。高祖が禅譲を受けると、召されて太常卿に任じられ、邑七百戸を加増された。まもなく出向して衛州刺史となり、大将軍を加えられた。衛州の土俗は薄く、元亨は威厳をもってこれを鎮め、在職八年の間、教化は大いに和合した。後に老病のため、表を上して骸骨を乞うたが、官吏民は宮廷に赴き上表し、臥して治めることを請うた。上はしばしば嘆息した。その年、元亨は重病のため、重ねて京への帰還を請うた。上は使者に医薬を届けさせ、安否を問わせ、道に相望んだ。一年余りして、家で卒した。時に六十九歳。諡は宣といった。
杜整
杜整は、字を皇育といい、京兆杜陵の人である。祖父の盛は、魏の直閣将軍・潁川太守であった。父の辟は、渭州刺史であった。杜整は若くして風格があり、九歳で父の喪に遭い、哀しみのあまり骨と皮ばかりとなり、母に仕えて孝行で知られた。成長すると、驍勇で膂力があり、孫子・呉子の兵法を好んで読んだ。魏の大統の末年に、武郷侯の爵位を襲封した。周の太祖は彼を親信として引き立てた。後に宇文護の子である中山公訓に仕え、非常に親しく遇された。まもなく都督に任じられた。明帝の時、内侍上士となり、累進して儀同三司に至り、武州刺史に任じられた。武帝に従って斉を平定し、上儀同を加えられ、平原県公に進爵し、邑千戸を賜り、勳曹中大夫として朝廷に入った。高祖が丞相であった時、開府に進んだ。高祖が禅譲を受けると、上開府を加えられ、長広郡公に進封され、まもなく左武衛将軍に任じられた。在職数年で、母の喪により職を去ったが、起用されて職務に就かせた。開皇六年、突厥が塞を侵犯したため、詔により衛王爽が総帥として北伐し、杜整を行軍総管兼元帥長史とした。合川に至ったが、敵がおらず帰還した。杜整は密かに陳を取る策を進言し、上はこれを良しとし、そこで行軍総管として襄陽を鎮守させた。まもなく病没した。時に五十五歳。高祖はこれを聞いて哀しみ、帛四百匹、米四百石を贈り、諡を襄といった。子の楷が後を嗣いだ。官は開府に至った。
杜整の弟の粛も、若くして志操と行いがあった。開皇初年、通直散騎常侍・北地太守となった。
李徹
李徹は、字を広達といい、朔方岩緑の人である。父の和は、開皇初年に柱国となった。李徹は性質剛毅で、器量と幹才があり、容儀は立派で、武芸に優れていた。大塚宰宇文護は彼を親信として引き立て、まもなく殿中司馬に任じ、累進して奉車都尉となった。宇文護は李徹が謹厚で才能があることを重んじ、非常に礼遇した。宇文護の子である中山公訓が蒲州刺史となった時、宇文護は李徹に本官のまま従わせた。間もなく車騎大将軍・儀同三司に任じられた。武帝の時、皇太子に従って西征し吐谷渾を討ち、功により同昌県男の爵位を賜り、邑三百戸を賜った。後に武帝に従って晉州を陥落させた。武帝が軍を返すと、李徹は斉王憲とともに鷄棲原に駐屯した。斉主高緯が大軍を率いて到着すると、憲は兵を率いて西上し、その鋒を避けた。高緯はその驍将賀蘭豹子に勁騎を率いて憲を追撃させ、晉州城北で戦った。憲の軍は敗れたが、李徹は楊素・宇文慶らと力戦し、憲の軍はこれにより全うされた。再び武帝に従って汾北で斉軍を破り、勝ちに乗じて高壁を下し、晉陽を陥落させ、冀州で高湝を擒らえるなど、いずれも功績があった。前後の功績を記録され、開府を加えられ、別に蔡陽県公に封ぜられ、邑千戸を賜った。宣帝が即位すると、韋孝寬に従って淮南を平定し、常に先鋒を務めた。淮南が平定されると、直ちに淮州刺史に任じられ、新たに帰附した者を安んじ集め、非常にその歓心を得た。高祖が禅譲を受けると、上開府を加えられ、雲州刺史に転じた。一年余りして、召されて左武衛将軍となった。晉王広が并州に鎮守する際、朝廷は文武の才幹ある正人を妙選してその僚佐とした。上は李徹が前代の旧臣であり、しばしば軍旅を執ったことを考慮し、詔して李徹に晉王府の軍事を総括させ、斉安郡公に進爵させた。時に蜀王秀も益州を鎮守しており、上は侍臣に言った、「どうして王子相のような文と、李広達のような武を得ることができようか」と。このように重んじられた。
翌年、突厥の沙鉢略可汗が塞を侵犯したため、上は衛王爽を元帥とし、衆を率いてこれを撃たせ、李徹を長史とした。白道で敵に遭遇した時、行軍総管李充が爽に言った、「周・斉の時代は、戦国と同じく、中原の力が分かれ、その来り久しい。突厥が辺境を侵すたびに、諸将は常に全軍を顧慮し、死戦することができなかった。これにより突厥は勝ち多く敗れ少なく、常に中国の軍を軽んじている。今、沙鉢略は国内の衆を全て率い、要険に屯しており、必ずや我々を軽んじて備えがないであろう。精兵で襲えば、破ることができる」と。爽はこれに従った。諸将の多くは疑ったが、李徹のみがその計を賞賛し成し遂げ、同行を請うた。そこで李充とともに精騎五千を率い、不意を突き、掩撃して大破した。沙鉢略は身に着けていた金甲を棄て、草むらに潜んで遁走した。功により上大将軍を加えられた。沙鉢略はこれにより膝を屈して藩国を称した。まもなく、沙鉢略が阿抜に侵されたため、上に上疏して援軍を請うた。李徹を行軍総管とし、精騎一万を率いて赴かせた。阿抜はこれを聞いて遁走した。軍が帰還すると、再び行軍総管を領し、平涼に屯して胡寇に備え、安道郡公に封ぜられた。開皇十年、柱国に進んだ。晉王広が淮海に転牧すると、李徹を揚州総管司馬とし、徳広郡公に改封した。まもなく城陽郡公に徙封された。その後、突厥が塞を侵犯すると、李徹は再び行軍総管を領してこれを撃破した。
左僕射高熲が罪を得た時、李徹は平素より高熲と親しかったため、疎まれ忌まれ、再び任用されなかった。後に怨言を口にしたため、上はこれを聞いて召し出し、臥内に入れて宴を賜い、平生のことを語り合ったが、その際に毒を遇って卒した。大業年間、その妻の宇文氏が庶子の安遠に呪詛の罪で誣告され、誅殺された。
崔彭
崔彭、字は子彭、博陵安平の人である。祖父の楷は、魏の殷州刺史。父の謙は、周の荊州総管。彭は幼くして孤となり、母に仕えて孝行をもって知られた。性質は剛毅、武略があり、騎射に巧みであった。『周官』・『尚書』に通じ、大義をほぼ理解した。周の武帝の時、侍伯上士となり、累進して門正上士に転じた。高祖(楊堅)が丞相となった時、周の陳王純が齊州を鎮守していたが、高祖は純が変を起こすことを恐れ、彭を二騎を率いて純を召し入朝させようと派遣した。彭は齊州に至る三十里手前で、病と偽り、伝舎に留まり、人をやって純に言わせた、「天子に詔書が王のもとへ届きましたが、彭は病苦のため、強いて歩くことができません。願わくは王がお出でください」と。純は変事を疑い、多くの従騎を率いて彭のもとへ来た。彭は伝舎を出て迎え、純に疑わしい色があるのを察し、召しに応じない恐れがあると思い、純に偽って言った、「王は人を避けさせてください。密かに申し上げたいことがあります」と。純が従騎を退けると、彭はまた言った、「詔を宣します。王は下馬なさるよう」と。純は急いで下馬した。彭はその騎士たちを見て言った、「陳王は詔による召しに従わない。捕らえるべし」と。騎士たちはそこで純を捕らえて鎖で繋いだ。彭はそこで大声で言った、「陳王に罪あり。詔により入朝を命ずる。左右の者は勝手に動いてはならぬ」と。その従者たちは愕然として去った。高祖はこれを見て大いに喜び、上儀同に任じた。帝位に即くと、監門郎将に遷り、右衛長史を兼ね、安陽県男の爵を賜った。数年後、車騎将軍に転じ、まもなく驃騎将軍に転じ、常に宿衛を司った。性質は謹密で、宮中に二十余年、毎に天子が儀仗におわす時は、終日姿勢を正して坐り、怠惰な様子を見せたことがなく、上は大いにこれを称賛した。上はしばしば彭に言った、「卿が当直の日は、朕は寝処も自ずと安らかである」と。またかつて言った、「卿の弓馬はもとより人に優れているが、学問を少しは知っているか」と。彭は言った、「臣は幼少より『周礼』・『尚書』を愛し、毎に休暇の暇には、敢えて怠りませんでした」と。上は言った、「試みに朕のためにそのことを話せ」と。彭はそこで君臣が戒め慎むべき道理を説き、上は善しと称賛した。見ていた者はこれを知言と思った。後に上開府を加えられ、備身将軍に遷った。
上はかつて武徳殿で達頭可汗の使者を宴した時、鳩が梁の上で鳴いた。上は彭にこれを射るよう命じた。矢を放つや当たり、上は大いに喜び、一万銭を賜った。使者が帰ると、可汗はまた使者を遣わして上に言った、「崔将軍に一度お会いしたい」と。上は言った、「これは必ずや善射の名が虜庭に聞こえているので、来て請うのであろう」と。そこで彭を遣わした。匈奴の中に至ると、可汗は善射の者数十人を召し寄せ、肉を野原に投げて、飛ぶ鳶を集め、その善射の者に射させたが、多くは当たらなかった。再び彭に射るよう請うと、彭は連続して数矢を放ち、皆弦の響きに応じて落ちた。突厥の者たちは互いに顔を見合わせ、嘆服しない者はなかった。可汗は彭を百余日留めて帰さず、上は繒彩を賄賂として贈り、その後ようやく帰国できた。仁寿の末、安陽県公に爵を進められ、邑二千戸を賜った。
煬帝が即位すると、左領軍大将軍に遷った。洛陽行幸に従い、彭は後軍を監督した。時に漢王諒が平定されたばかりで、残党がしばしば屯集していたため、彭に数万の兵を率いて山東を鎮圧させ、さらに慈州の事務を兼ねさせた。帝はその清廉さを賞し、絹五百匹を賜った。間もなく卒去した。時に六十三歳。帝は使者を遣わして弔祭させ、大将軍を追贈し、諡して肅といった。子の宝徳が嗣いだ。
論
史臣が言う。王長述らは、あるいは出て方嶽を総べ、あるいは入って禁旅を司り、皆名声と功績を顕わし、功名をもって終わりを全うした。それには取るべきところがある。伊婁謙は志量が弘遠で、旧悪を念わず、高遵の罪を赦すよう請うた。国士の風があった。崔彭は岩廊を巡警し、毅然として犯し難く、侮りを防ぐ任に当たり、称賛に足るものがあるであろう。