隋書

卷五十三 列傳第十八

達奚長儒

達奚長儒は字を富仁といい、代の人である。祖父の俟は、魏の定州刺史であった。父の慶は、驃騎大将軍・儀同三司であった。長儒は若くして節操を抱き、胆力と勇烈は人に優れていた。十五歳で爵位の楽安公を襲いだ。西魏の大統年間に、奉車都尉として初めて官に就いた。周の太祖(宇文泰)は彼を親信に引き立て、質朴で正直、恭しく勤勉であることから、子都督ととくに任じた。幾度か戦功を立て、輔国将軍の仮号を受け、累進して使持節・撫軍将軍・通直散騎常侍さんきじょうじとなった。しょく平定の役では、常に先鋒となり、城を攻め野で戦い、向かうところ必ずこれを撃破した。車騎大将軍・儀同三司に任じられ、封邑三百戸を加増された。北周の天和年間、渭南郡守に任じられ、驃騎大将軍・開府儀同三司に転じた。武帝に従って北斉を平定し、上開府に進み、成安郡公に爵位を進め、邑千二百戸を与えられ、別に一子を県公に封じた。宣政元年、左前軍勇猛中大夫に任じられた。後に烏丸軌とともに呂梁で陳の将軍呉明徹を包囲したとき、陳はぎょう将劉景に精鋭七千を率いさせて援軍として派遣した。軌は長儒にこれを迎え撃たせた。長儒はそこで車輪数百を取って大石に繋ぎ、清水に沈め、轂を連ねて次々と並べ、劉景の軍を待ち受けた。景が到着すると、船艦は車輪に妨げられて進むことができなかった。長儒はそこで奇兵を放ち、水陸ともに進撃して、これを大破し、数千人を捕虜とした。また呉明徹を捕獲した功績により、位は大将軍に進んだ。まもなく行軍総管に任じられ、北の砂漠の塞を巡察したが、ついに敵と遭遇し、交戦してこれを大破した。

開皇二年、突厥の沙鉢略可汗が弟の葉護および潘那可汗の兵十余万を率いて、略奪しながら南下し、詔により長儒を行軍総管とし、二千の兵を率いてこれを迎撃させた。周槃で遭遇し、衆寡敵せず、軍中は大いに恐れたが、長儒は慷慨として、神色はますます烈しかった。敵の突撃を受け、散り散りになってはまた集まり、戦いながら進み、三日にわたって転戦し、五兵ことごとく尽き、士卒は拳でこれを殴り、手はみな骨が見えるほどになり、殺傷は万を数え、敵の気勢はやや奪われ、ここにいて解いて去った。長儒は身に五箇所の傷を受け、体を貫通したものが二箇所あった。その戦士で死傷した者は十のうち八、九であった。突厥はもともと秦・隴を大いに略奪しようとしていたが、長儒に逢ってから、兵は皆力戦し、敵の意気は大いに沮喪した。翌日、戦った場所で屍を焼き、慟哭して去った。高祖は詔を下して言った。「突厥が猖狂を極め、たびたび辺塞を犯し、犬羊のごとき衆は山原に満ちている。しかるに長儒は北辺の任を受け、寇賊を防ぎ止め、その率いる兵は、敵より百倍も少なかった。昼から夜通し、四面から敵に抗し、合わせて十四度戦い、向かうところ必ずこれを摧破した。凶徒は殺戮され、半数以上は帰らず、鋒刃の余りで、亡魂は逃げ惑った。もし英威を奮い起こし、国に奉ずる情深くなく、撫御に方策がなく、士卒が命令に用いなければ、どうして少をもって衆を破り、このように偉大なことができようか。その勲功を思い、名器を高くするのが宜しい。上柱国とし、残りの勲功は一子に授けることとせよ。その戦死した将士は、みな官位を三転追贈し、子孫に襲封させる。」

その年、寧州刺史に任じられ、まもなく鄜州刺史に転じたが、母の喪により職を去った。長儒の性質は至孝であり、五日間水も飲まず、礼を過ぎるほどに憔悴し、ほとんど命を絶たんばかりであったので、天子はこれを嘉み嘆賞した。夏州総管三州六鎮都將事として起用されると、匈奴はこれを畏れ、塞を窺うことができなかった。病気により免官となった。また襄州総管に任じられ、在職二年して、蘭州総管に転じた。高祖は涼州総管獨孤羅・原州総管元褒・霊州総管賀若誼らに兵を発して胡に備えさせ、みな長儒の節度を受けた。長儒は兵を率いて祁連山の北に出て、西は蒲類海に至ったが、敵に遭遇せずに還った。また荊州総管三十六州諸軍事に転じた。高祖は彼に言った。「江陵は要害の地であり、国の南門である。今これを公に委ねる。朕は憂いがない。」一年余りして、任上で卒した。諡は威といった。子の暠は大業の時、官は太僕少卿に至った。

賀婁子幹

賀婁子幹は字を萬壽といい、もとは代の人である。魏氏に従って南遷し、代々関右に居住した。祖父の道成は、魏の侍中・太子太傅であった。父の景賢は、右纫大将軍であった。子幹は若くして驍勇武勇をもって知られた。北周の武帝の時、司水上士として初めて官に就き、強力で有能と称された。累進して小司水となり、勤労により思安県子に封じられた。まもなく使持節・儀同大将軍に任じられた。大象の初め、軍器監を領し、まもなく秦州刺史に任じられ、爵位は伯に進んだ。

尉遅迥が乱を起こすと、子幹は宇文司録とともに韋孝寬に従ってこれを討った。賊が懐州を包囲しているのに遭遇し、子幹は宇文述らとともにこれを撃破した。高祖は大いに喜び、自ら書をしたためて言った。「逆賊尉遅迥は、あえて蟻のごとき兵を遣わし、懐州に寇となった。公は誅討の命を受け、機に応じてこれを蕩滌した。聞いて賞賛せずにはいられず、言葉では言い尽くせない。丈夫富貴の時は、まさに今日にある。よく功名を立て、朝廷の望みに副うようにせよ。」その後、毎戦先頭に立ち、鄴城ぎょうじょうを破ったときは、崔弘度とともに遅迥を追って楼の上に至った。上開府に進位し、武川県公に封じられ、邑三千戸を与えられ、思安県伯を別に子の皎に封じた。

開皇元年、爵を進めて鉅鹿郡公と為す。其の年、吐谷渾涼州を寇す。子幹は行軍総管として上柱国元諧に従ひて之を撃ち、功最も優る。詔して褒美す。高祖辺塞未だ安からざるを慮り、即ち子幹をして涼州を鎮めしむ。明年、突厥蘭州を寇す。子幹軍を率ゐて之を拒ぎ、可洛峐山に至り、賊と相遇ふ。賊軍甚だ盛なり。子幹川を阻みて営を為し、賊軍数日水を得ず、人馬甚だ敝す。縦撃して大に之を破る。是に於て冊を授けて子幹を上大将軍と為し曰く、「於戲、朕が命を敬ひて聴け。唯爾器量閑明、志情強果、武将を任とし経て、勤績聞こゆ。往年凶醜未だ寧からず、屡々疆埸を驚かす。土を拓き乱を静むるに、殊に厥の労有り。是を用ひて茲の賞典を崇め、此の車服を加ふ。往け欽けよ。栄冊を祗承して、慎まざるべけんや」と。徴して新都副監を授け、尋で工部尚書を拝す。其の年、突厥復た塞を犯す。行軍総管として竇栄定に従ひて之を撃つ。子幹別路にて賊を破り、首千余級を斬る。高祖之を嘉し、通事舎人曹威を遣はして優詔を齎し之を労勉せしむ。子幹朝に入らんことを請ふ。詔して馳驛を以て奉見せしむ。吐谷渾復た辺を寇し、西方多く其の害を被る。子幹を命じて之を討たしむ。馳驛して河西に至り、五州の兵を発し、其の国に入り掠めて、男女万余口を殺し、二旬にして還る。高祖隴西頻りに寇掠せらるるを以て、之を甚だ患ふ。彼の俗村塢を設けず。子幹に勅して民を勒し堡を為さしめ、田を営み穀を積み、以て不虞に備へしむ。子幹上書して曰く、「比者兇寇侵擾し、蕩滅の期は、匪朝伊夕なり。伏して願はくは聖慮、以て懐と為すこと勿れ。今臣此に在り、機を観て作し、詔に準ひて事を行ふを得ず。且つ隴西・河右は、土曠く民稀にして、辺境未だ寧からず、広く田種を為すべからず。比に屯田の所を見るに、獲少なく費多く、虚しく人功を役し、卒ひに践暴に逢ふ。屯田真に遠き者は、請ふらくは皆廃省せん。但し隴右の民は畜牧を以て事と為す。若し更に屯聚せば、弥獲安からず。只厳に斥候を謹むべく、豈人を集め畜を聚むるを容れんや。請ふらくは要路の所に、其の防守を加へ、但だ鎮戍をして連接せしめ、烽候相望ましむれば、民散居すと雖も、必ず慮無しと謂はん」と。高祖之に従ふ。俄にして虜岷・洮二州を寇す。子幹兵を勒して之に赴く。賊聞きて遁去す。

高祖子幹の辺事に暁習するを以て、榆関総管十鎮諸軍事を授く。歳を閲て、雲州刺史を拝す。甚だ虜に憚らる。後数年、突厥雍虞閭使いを遣はして降を請ひ、羊馬を贈献す。詔して子幹を行軍総管と為し、西北道より出でて之に応接せしむ。還りて雲州総管を拝す。突厥の献ずる所の馬百匹・羊千口を以て之に賜ふ。乃ち書を下して曰く、「公北門を守るより此れ、風塵警せず。突厥の献ずる所、還た公に賜ふ」と。母憂にて職を去る。朝廷榆関の重鎮たるを以て、子幹に非ざれば可からずとし、尋ち事を視るを起す。十四年、病にて官に卒す。時に年六十。高祖傷惜すること久し。賻に縑千匹、米麦千斛を賜ひ、懐・魏等四州刺史を贈り、諡して懐と曰ふ。子善柱嗣ぐ。官黔安太守に至る。

賀婁詮

子幹の兄詮も亦才器有り。位銀青光禄大夫・鄯純深三州刺史・北地太守・東安郡公に至る。

史万歳

史万歳は京兆杜陵の人なり。父静は周の滄州刺史。万歳少にして英武、騎射を善くし、驍捷飛ぶが若し。兵書を読むを好み、兼ねて占候に精し。年十五、周・齊芒山に戦ふに値ふ。万歳時に父に従ひて軍に入る。旗鼓正に相望む。万歳左右に令し装を治めて急に去らしむ。俄にして周師大敗す。其の父是に由りて之を奇とす。武帝の時、褐を釈して侍伯上士と為る。及ひ斉を平らげるの役、其の父戦没す。万歳忠臣の子を以て、開府儀同三司を拝し、太平県公の爵を襲ぐ。

尉遅迥の乱に、万歳梁士彦に従ひて之を撃つ。軍馮翊に次ぐ。群雁飛来するを見る。万歳士彦に謂ひて曰く、「請ふ行中第三の者を射ん」と。既に之を射れば、弦に応じて落つ。三軍悦服せざる莫し。及ひ迥軍と相遇ふや、毎戦先登す。鄴城の陣に、官軍稍く却く。万歳左右に謂ひて曰く、「事急なり、吾当に之を破らん」と。是に於て馬を馳せ奮撃し、数十人を殺す。軍亦斉力す。官軍乃ち振ふ。及ひ迥平ぐるに、功を以て上大将軍を拝す。

尒朱勣謀反を以て誅せらる。万歳頗る関渉す。坐にて名を除かれ、敦煌に配して戍卒と為る。其の戍主甚だ驍武、毎に単騎深入して突厥中に入り、羊馬を掠め取れば、輒ち大いに剋獲す。突厥衆寡無く、之を敢へて当つる莫し。其の人深く自ら矜負し、数へて万歳を罵辱す。万歳之を患ひ、自ら言ふ、亦武用有りと。戍主試みに馳射を令して工なり。戍主笑ひて曰く、「小人定めて可なり」と。万歳弓馬を請ひ、復た突厥中を掠め、大いに六畜を得て帰る。戍主始めて之を善しとし、毎に同行すれば、輒ち突厥に数百里入り、名北夷に讋る。竇栄定の突厥を撃つに、万歳轅門に詣りて自ら効せんことを請ふ。栄定数へて其の名を聞き、見て大いに悦ぶ。因りて人を遣はし突厥に謂ひて曰く、「士卒何の罪過か有らん、之を殺さしむるは、但だ各れ一の壮士を遣はして勝負を決せしむるのみ」と。突厥諾す。因りて一騎を遣はして挑戦せしむ。栄定万歳を遣はして出でて之に応ぜしむ。万歳馳せて其の首を斬りて還る。突厥大いに驚き、復た戦ふことを敢へず、遂に軍を引きて去る。是に由りて上儀同を拝し、車騎将軍を領す。陳を平らげるの役、又功を以て上開府を加ふ。

及ひ高智慧等江南に作乱するに、行軍総管として楊素に従ひて之を撃つ。万歳二千の軍を率ゐ、東陽より別道に進み、嶺を踰え海を越え、溪洞を攻め陷すこと勝へて数ふ可からず。前後七百余戦、千余里を転斗し、寂として声問無きこと十旬、遠近皆万歳を没せりと為す。万歳水陸阻絶し、信使通ぜざるを以て、乃ち書を竹筒の中に置き、之を水に浮かぶ。汲む者之を得て、以て素に言ふ。素大いに悦び、其の事を上る。高祖嗟歎し、其の家に銭十万を賜ひ、還りて左領軍将軍を拝す。

先に、南寧の夷人爨翫が降伏して来たので、昆州刺史に任じたが、後に再び叛いた。そこで史萬歳を行軍総管とし、軍を率いてこれを討たせた。蜻蛉川から進入し、弄凍を経て、小勃弄・大勃弄に駐屯し、南中に至った。賊は前後して要害を占拠していたが、萬歳はことごとくこれを撃破した。数百里を行くと、諸葛亮の紀功碑を見た。その背面に銘文があり、「萬歳の後、我に勝る者は此れを過ぎん」とあった。萬歳は左右の者に命じてその碑を倒させて進んだ。西二河を渡り、渠濫川に入り、千余里を行き、その三十余部を破り、男女二万余口を捕虜とした。諸夷は大いに恐れ、使者を遣わして降伏を請い、径一寸の明珠を献じた。ここに於いて石に刻んで隋の徳を称えしめた。萬歳は使者を馳せて上奏し、爨翫を連れて入朝することを請うた。詔してこれを許した。爨翫は密かに二心を抱き、朝廷に赴くことを望まず、金宝をもって萬歳に賄賂を贈った。萬歳はここに於いて爨翫を捨てて帰還した。蜀王楊秀は当時益州におり、彼が賄賂を受けたことを知り、使者を遣わしてこれを取り立てようとした。萬歳はこれを聞き、得た金宝をことごとく江に沈め、取り立てるものは何も得られなかった。功により柱国に進位した。晋王楊広は虚心に彼を敬い、交友の礼をもって遇した。上(文帝)は彼が晋王と親しいことを知り、萬歳に晋王府の軍事を監督させた。翌年、爨翫が再び反逆した。蜀王楊秀は、萬歳が賄賂を受けて賊を放ち、辺境の患いを生じさせ、大臣の節操がないと上奏した。上はその事を徹底的に糾明させた。事実はすべて証拠が立ち、罪は死に当たった。上は彼を責めて言った。「金を受け取って賊を放ち、兵士と軍馬を重ねて労させた。朕は将兵が野営することを思い、寝ても安らかでなく、食べても味がせぬ。卿はまさに社稷の臣と言えるか。」萬歳は言った。「臣が爨翫を留めたのは、その州に変事があることを恐れ、留めて鎮撫させようとしたためです。臣が瀘水に還った時、詔書がようやく届きました。それ故に入朝させず、実は賄賂を受けてはおりません。」上は萬歳の心に欺瞞と隠蔽があるとして、大いに怒って言った。「朕は卿を善人と思っていた。どうして官位が高く禄が重いのに、かえって国賊となるのか。」有司を顧みて言った。「明日、彼を斬れ。」萬歳は恐れて罪を認め、頓首して命乞いをした。左僕射高熲、左領軍大将軍元旻らが進み出て言った。「史萬歳は雄略人に過ぎ、兵を行い師を用いる所では、常に自ら士卒に先んじ、特に撫御を善くし、将士は力を尽くすことを喜びます。古の名将でも彼を超える者はありません。」上の怒りは少し和らぎ、ここに於いて名を除いて庶民とした。一年余り後、官爵を復した。まもなく河州刺史に任じ、再び行軍総管を兼ねて胡族に備えさせた。

開皇の末、突厥の達頭可汗が辺境を侵犯した。上は晋王楊広及び楊素を霊武道から出させ、漢王楊諒と史萬歳を馬邑道から出させた。萬歳は柱国張定和、大将軍李薬王、楊義臣らを率いて塞外に出、大斤山に至り、敵と遭遇した。達頭は使者を遣わして問わせた。「隋の将は誰か。」偵察騎兵が「史萬歳なり」と報告した。突厥がまた問うた。「敦煌の戍卒ではないか。」偵察騎兵が「その通り」と答えた。達頭はこれを聞き、恐れて退却した。萬歳は百余里を馳せて追撃し、ようやく追いついて大いにこれを破り、数千の首級を斬り、敗走する敵を追って磧の中を数百里に入り、敵は逃げ去ったので還った。楊素はその功を妬み、讒言して言った。「突厥は元々降伏するつもりで、初めから寇掠するためではなく、塞上に来て畜牧していただけです。」そこでその功績は取り上げられなかった。萬歳は幾度も上表して実状を陳べたが、上は悟らなかった。時に上は仁寿宮から初めて京師に還り、皇太子を廃し、東宮の党与を徹底的に糾明していた。上は萬歳がどこにいるかと問うた。萬歳は実際には朝堂にいたが、楊素は上がまさに怒っているのを見て、言った。「萬歳は東宮に謁見しました。」と、上を激怒させようとした。上はこれを真実と信じ、萬歳を召すよう命じた。当時、率いていた士卒で朝廷で功績を訴えていた者が数百人いた。萬歳は彼らに言った。「我今日、汝らのために上に極言する。事は決着するであろう。」上に謁見すると、将士に功績があるのに朝廷に抑えられていると述べ、言葉の調子は憤り激しく、上に逆らった。上は大いに怒り、左右の者に命じて撲殺させた。既にして後悔したが、追い及ばず、そこで詔を下して萬歳の罪状を述べた。「柱国・太平公萬歳は、抜擢して委任し、常に軍機を総べしめた。以前、南寧の逆乱に際し、出討を命じた。ところが昆州刺史爨翫は逆心を包蔵し、民に患いを興した。朕は既に成算を備え、入朝させるよう命じた。萬歳は多く金銀を受け取り、詔命に違反して留め置き、爨翫がまもなく反逆するに至らしめ、さらに師旅を労させ、ようやく平定したのである。所司が検査したところ、罪は極刑に当たる。過ちを捨て功を念い、その性命を恕した。年月も久しからぬうちに、即ち本官に復した。近ごろ再び軍を総べ、蕃裔を討伐した。突厥の達頭可汗がその兇徒を率いて抵抗しようとしたが、既に軍威を見るや、即ち奔退し、兵は刃に血ぬらず、賊徒は瓦解した。このように勝利を称えるのは国家の盛事である。朕はその勲功を成し遂げさせ、さらに褒賞を加えようとした。ところが萬歳と張定和は、戦果報告の日に、姦詐を抱き、妄りに逆賊と面して交兵したと称し、実状を陳べず、反覆の術を抱き、国家の法を弄んだ。誠を尽くして節を立て、心に虚偽なき者は、良将である。萬歳の如き、詐りを抱いて功を求めし者は、まさに国賊である。朝廷の法は損ない難く、再び捨てることはできない。」死んだ日、天下の士人庶民でこれを聞いた者は、知っている者も知らない者も、みな嘆き惜しんだ。

萬歳は将として、陣営の規律を整えず、士卒にそれぞれ安んじる所に従わせ、夜間の警備も設けなかったが、敵も敢えて侵犯しなかった。陣に臨み敵に対する時は、応変に方策がなく、良将と称された。子に史懐義がいた。

劉方

劉方は、京兆長安ちょうあんの人である。性質は剛毅果断で、胆気があった。周に仕えて承御上士となり、まもなく戦功により上儀同に任じられた。高祖(楊堅)が丞相の時、韋孝寬に従って相州で尉遅迥を破り、功により開府を加えられ、河陰県侯の爵を賜り、邑八百戸を授かった。高祖が禅を受けると、公に進爵した。開皇三年、衛王楊爽に従って白道で突厥を破り、大将軍に進位した。その後、甘州・瓜州の二州刺史を歴任したが、まだ有名ではなかった。

仁寿年間、交州の俚人李仏子が乱を起こし、越王の故城を占拠し、その兄の子李大権に龍編城を占拠させ、別帥の李普鼎に烏延城を占拠させた。左僕射楊素が劉方に将帥の才略があると進言した。上はここに於いて劉方を交州道行軍総管とし、度支侍郎敬徳亮を長史として、二十七営を統率して進軍させた。劉方は法令に厳粛で、軍容は整然とし、禁令を犯す者があれば、軽率にこれを斬った。しかし仁愛をもって士卒を慈しみ、病気の者があれば自ら養育した。長史敬徳亮は軍に従って尹州に至り、病が重く進めず、州の館に留め置かれた。別れの際、劉方はその危篤を哀れみ、涙を流して嗚咽し、行路の人をも感動させた。その威厳と恩恵はこのようなものであり、論者は良将と称した。都隆嶺に至り、賊二千余人が官軍を犯しに来たのに遭遇した。劉方は営主の宋纂・何貴・厳願らを遣わしてこれを撃破させた。進軍して李仏子に臨み、先ず人を遣わして禍福を諭させた。仏子は恐れて降伏し、京師に送られた。その中で傑出して狡猾な者は、後に乱を起こすことを恐れ、ことごとく斬った。

まもなく驩州道行軍総管を授けられ、尚書右丞李綱を司馬とし、林邑を経略した。ちょうど欽州刺史甯長真・驩州刺史李暈・上開府秦雄に歩騎を率いさせて越常より出撃させ、劉方はみずから大将軍張愻・司馬李綱を率いて舟師を比景に向かわせた。高祖が崩じ、煬帝が即位し、大業元年正月、軍は海口に至った。林邑王梵志は兵を遣わして険要を守らせたが、劉方はこれを撃退した。軍は闍黎江に駐屯し、賊は南岸に拠って柵を立てた。劉方は旗幟を盛大に陳列し、金鼓を打ち鳴らすと、賊は恐れて潰走した。既に江を渡り、三十里を行くと、賊は巨象に乗って四面より至った。劉方は弩をもって象を射ると、象は創を受け、剣をもってその陣を蹂躙し、王師は力戦して、賊は柵に奔った。そこでこれを攻め破り、捕虜および斬首は万を数えた。ここにおいて区粟を渡り、六里を過ぎ、前後賊に逢うごとに、戦えば必ずこれを擒にした。進んで大縁江に至ると、賊は険要に拠って柵を為していたが、またこれを撃破した。馬援の銅柱を経て、南へ八日行き、その国都に至った。林邑王梵志は城を棄てて海に奔り、その廟主たる金人を獲、その宮室を汚し、石に刻んで功を紀し、還った。士卒は脚気に腫れ、死者は十のうち四、五に及んだ。劉方は道中で病に遇い卒した。帝は甚だこれを傷み惜しみ、詔を下して曰く、「劉方は廟略を粛しく承け、天討を恭しく行い、氷を飲みて遄かに邁進し、険を視ること夷の如し。鋒を摧きて直指し、その不意に出で、鯨鯢ことごとく殪され、巣穴ことごとく傾き、役再び労せずして、海外を粛清す。身を王事に致し、誠績嘉すべし。上柱国・盧国公を贈るべし」と。子の通仁が嗣いだ。

馮昱、王綱、李充、楊武通、陳永貴、房兆

開皇の時、馮昱・王綱・李充・楊武通・陳永貴・房兆あり、ともに辺将となり、名を当時に顕わす。昱と綱は、ともに何の許の人なるかを知らず。昱は権略多く、武芸あり。高祖初め丞相たりし時、行軍総管として王誼・李威らとともに叛蛮を討ち、これを平らげ、柱国に拝された。開皇初め、また行軍総管として乙弗泊に屯し、胡に備えた。突厥数万騎が来てこれを掩襲したが、昱は数日にわたり力戦し、衆寡敵せず、ついに虜に敗れ、亡失数千人に及んだが、殺した虜もそれに過ぎた。その後数年にわたり辺境を守備し、戦うごとに常に大いに克捷した。綱は驍勇にして射を善くし、高祖はその将帥の才あるを以て、しばしば行軍総管として江北に兵を屯し、陳の寇を禦いだ。数々戦功あり、陳人に憚られた。陳を伐つ役および高智慧の反に際し、攻討ことごとく殊績あり。官は柱国・白水郡公に至る。充は、隴西成紀の人なり。少より慷慨にして、英略あり。開皇中、しばしば行軍総管として突厥を撃ち功あり、官は上柱国・武陽郡公に至り、朔州総管に拝され、甚だ威名あり、虜に憚られた。後にその謀反を譛る者あり、京師に徴還され、上そのことを譴怒した。充の性はもと剛直であったので、ついに憂憤して卒した。武通は、弘農華陰の人、性果烈にして、馳射を善くす。数たび行軍総管として西南夷を討ち、毎に功あり、白水郡公に封ぜられ、左武衛大将軍に拝された。時に党項羌がしばしば辺患を為したので、朝廷はその威名あるを以て、岷・蘭二州総管を歴任してこれを鎮めた。後に周法尚とともに嘉州の叛獠を討ち、法尚の軍は初め不利であったが、武通は数千人を率い、賊にその帰路を断たれた。武通はここにおいて馬を束ね車を懸け、賊の不意に出で、頻りに戦ってこれを破った。賊はその孤軍にして援け無きを知り、部落を傾けて至った。武通は転戦して数百里に及び、賊に拒まれて、四面路絶した。武通は軽騎で接戦し、馬より墜ち、賊に捕らえられ、殺されて食われた。永貴は、隴右の胡人なり、本姓は白氏、勇烈を以て知名。高祖は甚だこれを親愛し、数たび行軍総管として辺境を鎮め、戦うごとに必ず単騎で陣を陷れた。官は柱国・蘭利二州総管に至り、北陳郡公に封ぜられた。兆は、代の人、本姓は屋引氏、剛毅にして武略あり。頻りに行軍総管として胡を撃ち、功を以て官は柱国・徐州総管に至る。ともに史その事を失う。

史臣曰く

史臣曰く、長儒らは結髪して戎に従い、ともに驍雄の略あり、師旅を総統し、各禦侮の功を擅にす。長儒は歩卒二千を以て、十万の虜に抗し、師は殱え矢は尽き、勇気ますます厲し、壮なるかな。子幹は西は青海に渉り、北は玄塞に臨み、胡夷憚れ、烽候警無く、また称すべきあり。万歳は実に智勇を懐き、士卒を善く撫で、人皆死を楽しみ、師疲労せず。北は匈奴を剣し、南は夷・獠を平らげ、兵鋒の指す所、威は絶域を驚かす。功を論じ気を杖り、貴臣に犯忤し、偏聴して姦を生じ、その罪に非ずして死す、人皆痛惜し、李広の風有り。劉方は号令私無く、軍を治むること厳肅、林邑を克く剪り、遂に南海を清め、徼外の百蛮、服さざる無きを思う。凡そ此の諸将、志烈人に過ぎ、出では推轂の重きに当たり、入りては爪牙の寄せを受く。馬伏波の威の南裔に行われ、趙充国の声の西羌を動かすと雖も、事を語り功を論ずれば、各一時なり。

[一] 馬邑道 本書裴矩伝は「定襄道」と作る。

この作品は全世界において公有領域に属する。著者の没後100年以上経過し、かつ作品が1931年1月1日以前に出版されたためである。