韓擒虎
韓擒虎、字は子通、河南東垣の人であるが、後に新安に家を構えた。父の雄は武勇剛烈をもって知られ、周に仕え、官は大將軍・洛虞等八州刺史に至った。擒虎は若くして慷慨たる気概があり、胆略をもって称され、容貌は魁偉で、雄傑の風貌があった。性質はまた書物を好み、経史百家の大要を皆ほぼ知っていた。周の太祖(宇文泰)はこれを見て異とし、諸子と遊び集まることを命じた。後に軍功により、都督・新安太守に任じられ、やがて儀同三司に昇進し、新義郡公の爵位を襲封した。武帝が齊を伐つとき、齊の将軍獨孤永業が金墉城を守っていたが、擒虎は説得してこれを降した。進んで范陽を平定し、上儀同を加えられ、永州刺史に任じられた。陳の軍が光州に迫ると、擒虎は行軍総管としてこれを撃破した。また宇文忻に従って合州を平定した。高祖(楊堅)が宰相となると、和州刺史に転じた。陳の将軍甄慶・任蠻奴・蕭摩訶らが共に呼応し、しばしば江北を寇掠し、前後して境界内に侵入した。擒虎はたびたびその鋒鋩を挫き、陳人は気勢を奪われた。
開皇の初め、高祖はひそかに江南を併呑する志があり、擒虎に文武の才用があり、かねてより名声が著しいことから、ここに廬州総管に任じ、平陳の任を委ねた。敵に甚だ畏れられた。大いに陳を伐つに及んで、擒虎を先鋒とした。擒虎は五百人を率いて夜間に渡河し、採石を襲撃した。守備兵は皆酔っていたので、擒虎は遂にこれを奪取した。姑熟に進攻し、半日で陥落させ、新林に駐屯した。江南の父老は平素よりその威信を聞き知っており、軍門に来謁する者が昼夜絶えなかった。陳人は大いに驚き、その将軍樊巡・魯世真・田瑞らが相次いで降伏した。晉王廣(楊廣)が上奏文を奉ると、高祖はこれを聞いて大いに喜び、群臣を宴して賜物を与えた。晉王は行軍総管杜彦を遣わして擒虎と軍を合わせさせた。歩騎二万。陳の叔寶は領軍蔡徴を遣わして朱雀航を守らせたが、擒虎が将に至ると聞き、兵衆は恐れて潰走した。任蠻奴は賀若弼に敗れ、軍を棄てて擒虎に降った。擒虎は精騎五百を率いて、直ちに朱雀門に入った。陳人が戦おうとすると、蠻奴が手を振って言った、「老夫すらなお降るのに、諸君は何事か!」衆は皆散り散りに逃げた。こうして金陵を平定し、陳主叔宝を捕らえた。時に賀若弼もまた功績があった。そこで詔を下して晉王に言った、「この二公は、深謀遠慮あり、東南の逃亡した賊を、朕はもとよりこれを委ねた。地を静め民を恤むこと、全て朕の意の如し。九州統一せず、すでに数百年、名臣の功をもって、太平の業を成す。天下の盛事、何ぞこれに過ぎん。聞いて欣然たり、実に深く慶快す。江表を平定するは、二人の力なり。」と。賜物一万段を賜う。また擒虎と弼に優詔を下して言った、「国威を万里に伸べ、朝化を一隅に宣べ、東南の民をして俱に湯火より出でしめ、数百年の寇賊を旬日の間に廓清するは、専ら是れ公の功なり。高名は宇宙に塞がり、盛業は天壤に光る。遠く前古を聴くも、その匹儔を聞くこと稀なり。軍を返し凱歌して入るは、誠に遠からざるを知る。相思うこと甚だしく、寸陰歳の如し。」京に至ると、弼と擒虎が帝の前で功を争った。弼は言った、「臣は蔣山で死戦し、その鋭卒を破り、その驍将を擒え、威武を震揚して、遂に陳国を平定しました。韓擒虎は少しも陣を交えず、どうして臣と比べられましょうか。」擒虎は言った、「本来、明旨を奉じて、臣と弼に同時に勢を合わせ、偽りの都を取ることを命じられました。弼は敢えて期に先んじ、賊に逢うや即ち戦い、将士の傷死甚だ多いことを致しました。臣は軽騎五百をもって、兵刃に血塗らず、直ちに金陵を取り、任蠻奴を降し、陳叔宝を捕らえ、その府庫を占拠し、その巣窟を覆しました。弼が到着したのは夕方で、ようやく北掖門を叩き、臣が関を開いてこれを納れました。これは罪を救うに暇あらず、どうして臣と比べられましょうか。」帝は言った、「二将は俱に上勲に合う。」ここにおいて位上柱国に進められ、賜物八千段を賜うた。有司が擒虎が士卒を放縦し、陳の宮殿を淫汙したことを弾劾したため、これに坐して爵邑を加えられなかった。
先に、江東に謡歌があった、「黄斑の青驄馬、寿陽の水辺より発つ。来たる時は冬気の末、去る日は春風の始め。」皆その謂れを知らなかった。擒虎の本名は豹であり、陳を平定した際、また青驄馬に乗り、往復の時節が歌と相応じたので、この時になって初めて悟った。その後、突厥が来朝した。帝は彼らに言った、「汝らは江南に陳国天子がいたと聞いているか。」答えて言った、「聞いております。」帝は左右に命じて突厥を擒虎の前に導き、言った、「これは陳国天子を捕らえた者である。」擒虎は厳然として彼らを顧みると、突厥は惶恐として、敢えて仰ぎ見ようとせず、その威容この如きものであった。別に寿光県公に封じられ、食邑千戸。行軍総管として金城に屯し、胡寇を防備し、即座に涼州総管に任じられた。まもなく召還されて京に帰ると、帝は内殿で宴を賜い、恩礼殊に厚かった。間もなく、その隣の老母が擒虎の門下に儀仗衛兵が甚だ盛んで、王者と同じであるのを見て、母は怪しんで尋ねた。その中の者が言った、「我は王を迎えに来た。」忽然として見えなくなった。またある人が重病に罹り、突然驚いて走り擒虎の家に来て言った、「我は王に謁したい。」左右が問うて言った、「何の王か。」答えて言った、「閻魔王である。」擒虎の子弟はこれを打とうとしたが、擒虎が止めて言った、「生きて上柱国となり、死して閻魔王となる、これもまた足る。」そこで病に臥し、数日で遂に卒去した。時に年五十五。子の世諤が嗣いだ。
世諤は倜儻として驍捷、父の風があった。楊玄感が乱を起こすと、世諤を将として引き入れ、毎戦先頭に立った。玄感が敗れると、吏に拘束された。時に帝は高陽におり、行在所に送られた。世諤は守衛に命じて酒肴を買わせて酣暢に飲み、声高に言った、「我が死は旦夕に迫る、酔わずして何を為さん。」次第に守衛に酒を進め、守衛はこれに馴れ、遂に飲ませて酔いに至らしめた。世諤はこれによって逃れて山賊に奔り、その行方は知れなかった。
弟に僧壽・洪あり。
僧壽は字を玄慶といい、擒虎の同母弟である。また勇烈をもって知られた。周の武帝の時、侍伯中旅下大夫となった。高祖が政権を得ると、韋孝寬に従って尉遅迥を平定し、毎戦功績があり、大將軍に任じられ、昌楽公に封じられ、邑千戸。開皇の初め、安州刺史に任じられた。時に擒虎が廬州総管であったため、朝廷は二人を同じ淮南に置くことを欲せず、熊州刺史に転じた。後に蔚州刺史に転じ、広陵郡公に爵位を進めた。まもなく行軍総管として鶏頭山で突厥を撃ち、これを破った。後に事に坐して免官された。数年後、再び蔚州刺史に任じられた。突厥は彼を甚だ畏れた。十七年、蘭州に屯して胡に備えた。翌年、遼東の役では、行軍総管を領し、帰還後、霊州総管の事務を検校した。楊素に従って突厥を撃ち、これを破り、位上柱国に進み、江都郡公に改封された。煬帝が即位すると、また新蔡郡公に改封された。この後より、再び任用されることはなかった。大業五年、帝に従って太原に幸した。京兆の人達奚通の妾の王氏が清歌を能くし、朝臣多く相会してこれを見物したが、僧壽もまたこれに与り、これに坐して除名された。まもなく復位を命じられた。八年、京師で卒去した。時に年六十五。子に孝基あり。
賀若弼
賀若弼は、字を輔伯といい、河南洛陽の人である。父の敦は、武勇剛烈で知られ、周に仕えて金州総管となったが、宇文護に忌まれて殺害された。刑に臨む際、弼を呼んで言った。「私は必ず江南を平定したいが、この志は果たせない。そなたがわが志を成し遂げよ。また、私は舌の故に死ぬ。そなたはこれを思わぬわけにはいくまい。」そこで錐を引いて弼の舌を刺して出血させ、口を慎むよう戒めた。弼は若い頃から慷慨として大志を持ち、驍勇で弓馬に巧み、文章を理解し、広く書物に通じ、当世に重い名声があった。周の斉王宇文憲はこれを聞いて敬い、記室に引き立てた。間もなく、当亭県公に封ぜられ、小内史に遷った。周の武帝の時、上柱国の烏丸軌が帝に言った。「太子は帝王の器ではありません。臣もかつて賀若弼とこれを論じました。」帝が弼を呼んで問うと、弼は太子が動かしがたいことを知り、禍が己に及ぶことを恐れ、偽って答えて言った。「皇太子の徳業は日々新たであり、その欠点を見ておりません。」帝は黙然とした。弼が退出した後、軌は彼が自分に背いたことを責めた。弼は言った。「君が秘密を守らなければ臣を失い、臣が秘密を守らなければ身を失う。だから軽々しく議論できなかったのです。」宣帝が位を継ぐと、軌はついに誅殺され、弼は免れることができた。まもなく韋孝寬とともに陳を討伐し、数十城を攻め落としたが、弼の計略によるものが多かった。夀州刺史に任ぜられ、襄邑県公に改封された。高祖が丞相となった時、尉遅迥が鄴城で乱を起こし、弼が変を起こすことを恐れ、長孫平を駅馬で急行させて代えさせた。
高祖が禅譲を受けると、ひそかに江南を併呑する志を持ち、任に堪える者を訪ねた。高熲が言った。「朝臣のうち、文武の才幹は賀若弼に及ぶ者はいません。」高祖は言った。「卿は適任を得た。」そこで弼を呉州総管に任じ、陳平定の事を委ねた。弼は喜んでこれを己が任務とした。寿州総管の源雄とともに重鎮となった。弼は源雄に詩を贈った。「交河の驃騎幕、合浦の伏波営、騏驎の上に使うことなかれ、我が二人の名無からしむるを。」
陳を取る十策を献上し、上(文帝)は善しとし、宝刀を賜った。開皇九年、大挙して陳を伐つに当たり、弼を行軍総管とした。江を渡らんとする際、酒を地に注いで誓って言った。「弼は廟略を親しく承け、遠く国威を振るい、罪を伐ち民を吊い、凶を除き暴を翦らん。上天長江、その此の如きを鑑みたまえ。もし福善禍淫に便ならば、大軍は渡渉に利あれ。もし事に乖違あらば、江魚の腹に葬られるを得ん。死すとも恨みなし。」先だって、弼は江沿いの防人に、交代の際には必ず歴陽に集まるよう請うていた。そこで大いに旗幟を並べ、営幕が野を覆った。陳人は大軍が来たと思い、国中の兵馬を総動員した。防人の交代と知ると、その兵はまた散った。後にこれが常となり、設備を整えなくなった。この時、弼は大軍をもって江を渡ったが、陳人はそれに気づかなかった。陳の南徐州を襲撃してこれを陥落させ、その刺史の黄恪を捕らえた。軍令は厳粛で、秋毫も犯さなかった。民間で酒を買った兵士がいたが、弼は直ちにこれを斬った。蔣山の白土岡に進軍して駐屯した。陳の将軍の魯達、周智安、任蠻奴、田瑞、樊毅、孔范、蕭摩訶らが精兵をもって防戦した。田瑞が先に弼の軍を攻めたが、弼はこれを撃退した。魯達らが相次いで進撃し、弼の軍はたびたび退いた。弼は彼らの驕りと兵士の怠惰を察知し、そこで将兵を督励し、決死の戦いを挑み、ついにこれを大破した。麾下の開府員明が蕭摩訶を捕らえて来ると、弼は左右に命じて引き出して斬らせようとした。摩訶の顔色は自若としており、弼はこれを釈放して礼を尽くした。北掖門から入城した。時に韓擒虎はすでに陳叔宝を捕らえていた。弼が到着し、叔宝を呼び出してこれを見た。叔宝は恐れ慄いて汗を流し、股が震え再拝した。弼は彼に言った。「小国の君主が、大国の卿に会えば、拝するのは礼である。朝廷に入っても帰命侯となることを失わない。恐れるには及ばぬ。」その後、弼は叔宝を捕らえられなかったことを憤り恨み、功績が韓擒虎の後になったため、擒虎と言い争い、刃を抜いて出ようとした。上は弼に功があったと聞き、大いに喜び、詔を下して褒め称えた。その言葉は『韓擒虎伝』にある。晉王は弼が期日より先に決戦し、軍令に違反したとして、弼を官吏に引き渡した。上は駅馬で彼を召し出し、会うと迎えて労い、言った。「三呉を平定したのは、卿の功である。」御座に登ることを命じ、物八千段を賜り、位を上柱国に加え、爵を宋国公に進め、襄邑三千戸を真に食し、宝剣、宝帯、金甕、金盤を各一つ、並びに雉尾扇、曲蓋、雑彩二千段、女楽二部を加えて賜り、また陳叔宝の妹を妾として賜った。右領軍大将軍に任ぜられ、まもなく右武候大将軍に転じた。
弼の時は貴盛にして、位望隆重く、その兄の隆は武都郡公、弟の東は萬榮郡公となり、ともに刺史・列将たり。弼の家の珍玩は数え勝えず、婢妾で綺羅を曳く者数百、時に人これを栄しとす。弼は自ら功名は朝臣の右に出ずと謂い、毎に宰相を以て自ら許す。既にして楊素が右僕射となるや、弼はなお将軍のままであり、甚だ平らかならず、言色に形す。これにより官を免ぜられ、弼の怨望愈々甚だし。後数年、弼を獄に下す。上これに謂いて曰く、「我は高熲・楊素を以て宰相と為すに、汝は毎に言を倡え、この二人は唯だ飯を啖うに堪えるのみと云う。これは何の意ぞ」と。弼曰く、「熲は臣が故人、素は臣が舅の子、臣は並びにその人となりを知る。誠にこの語あり」と。公卿、弼の怨望を奏す。罪死に当たる。上その功を惜しみ、ここにおいて名を除きて民と為す。歳余にして、その爵位を復す。上もまたこれを忌み、再び任使せず。然れども毎に宴賜するに、これを遇すること甚だ厚し。開皇十九年、上仁壽宮に幸し、王公を宴し、詔して弼に五言詩を為さしむ。詞意憤怨、帝これを見てこれを容る。嘗て突厥の朝に入るに遇い、上これに射を賜う。突厥一発にして的を中つ。上曰く、「賀若弼に非ざればこの当たる能わざるなり」と。ここにおいて弼を命ず。弼再拝して祝して曰く、「臣もし赤誠を以て国に奉ずる者は、当に一発にして的を破らん。もし其の然らざれば、発も中たざらん」と。既に射て、一発にして中つ。上大いに悦び、顧みて突厥に謂いて曰く、「この人、天の我に賜うところなり」と。
子の懷亮、慷慨として父の風有り、柱国の世子を以て儀同三司に拝す。弼に坐して奴と為り、俄にまた誅死す。
【論】
史臣曰く、夫れ天地未だ泰せず、聖哲その機を啓く。疆埸尚お梗み、爪牙その力を宣ぶ。周の方・邵、漢室の韓・彭、代々その人有り、一時に非ず。晋の衰微より以来、中原幅裂し、区宇分隔すること、将に三百年。陳氏は長江の地険に憑り、金陵の余気を恃み、以て天は南北を限り、人窺う能わざると為す。高祖爰に千齢に応じ、将に函夏を一にせんとす。賀若弼慷慨として、必取の長策を申べ、韓擒虎奮発し、余勇を賈いて以て先を争う。勢は甚だ疾雷の如く、鋒は駭電に逾えり。隋氏ここより一戎し、威を四海に加う。諸を天道に稽うれば、或いは時に廃興有り、之を人謀に考うれば、実に二臣の力なり。その俶儻英略は、賀若に居ること多し。武毅威雄は、韓擒虎称えて重し。晋の王・杜に方ぶれば、勲庸綽々として余地有り。然れども賀若は功成り名立ち、矜伐已まず、竟に非命に顛殞す。亦た密ならざるを以て身を失う。もし父の臨終の言を念わば、必ずやこの禍に及ばざらん。韓擒虎は累世の将家、威声俗を動かし、敵国既に破れ、名遂げて身全うす。幸いなり。広陵・甘棠、咸に武藝有り、驍雄胆略、並びに当時に推せられ、赳赳たる干城、難兄難弟たり。