隋書

卷五十一 列傳第十六 長孫覽

長孫覽

長孫覽、字は休因、河南洛陽らくようの人である。祖父の稚は、魏の太師・仮黄鉞・上党文宣王であった。父の紹遠は、周の小宗伯・上党郡公であった。覽は性質が弘雅で器量があり、書記を少し学び、特に鐘律に通暁していた。魏の大統年間中、東宮親信として起家した。周の明帝の時、大都督ととくとなった。武帝が藩王であった時、覽と親しくし、即位すると、ますます礼遇を加え、車騎大將軍に超拜した。公卿が上奏する度に、必ず覽に省読させた。覽は弁舌に優れ、声気雄壮で、宣伝する所は全て、百官が注目し、帝は常にこれを嘉歎した。覽は初め善と名乗っていたが、帝が言うには、「朕は万機を卿に先ず覧せしめる」と。そこで名を賜った。宇文護を誅殺した時、功により薛国公に進封された。その後、小司空しくうを歴任した。斉平定に従い、位は柱国に進み、第二子の寛を管国公に封じた。宣帝の時、上柱国・大司徒しとに進み、間もなく同州・涇州の二州刺史を歴任した。高祖こうそが丞相となると、宜州刺史に転じた。

開皇二年、江南に事を行わんとし、征されて東南道行軍元帥となり、八総管を統率して寿陽から出撃し、水陸ともに進んだ。軍が長江に臨むと、陳人は大いに驚いた。時に陳の宣帝が崩御したので、覽は隙に乗じてこれを滅ぼそうとしたが、監軍の高熲が礼は喪に伐たずとして引き返した。上は常に覽と安德王雄・上柱国元諧・李充・左僕射高熲・右衛大將軍虞慶則・吳州総管賀若弼らを同席させて宴を催し、言われた、「朕は昔周朝に在り、誠節を余すところなく示したが、ただ猜忌に苦しみ、常に寒心を致した。臣たる者がこのようでは、いったい何を頼みとしようか。朕と公との間は、義は君臣、恩は父子の如し。朕は公と共に終わりまで吉事を用いよう。謀逆の罪でなければ、一切問わない。朕も公の至誠を知っているので、特に太子に付託する。たびたび参見すべきであり、次第に親愛の情を得るがよい。柱臣としての素望は、実に公に属する。朕の意を識るがよい」と。その恩礼はこのようであった。またしょく王秀のために覽の娘を娶り妃とした。その後、母の喪により職を去った。一年余りして、復位を命じられた。間もなく涇州刺史に転じ、在任した所全てに政績があった。官のまま卒した。子の洪が嗣いだ。宋・順・臨の三州刺史・司農少卿・北平太守を歴任した。

從子 熾

熾は字を仲光といい、上党文宣王稚の曾孫である。祖父の裕は、魏の太常卿・冀州刺史であった。父の兕は、周の開府儀同三司・熊・絳の二州刺史・平原侯であった。熾は性質が聡明で、姿儀が美しく、広く群書に渉猟し、武芸にも長じていた。建德初年、武帝は道法を尊び、特に玄言を好み、経史を兼ね学び、談論に善い者を求め、通道館学士とした。熾はその選に応じ、英俊と共に交遊し、通渉する所ますます広博であった。建德二年、雍州倉城令に任じられ、間もなく盩啡令に転じた。二つの邑を相次いで治め、考績が連続して最上となり、崤郡守に遷った。入朝して禦正上士となった。高祖が丞相となると、丞相府功曹参そうしん軍に抜擢され、大都督を加えられ、陽平県子に封じられ、邑二百戸を賜った。稍伯下大夫に遷った。その年、王謙が反乱を起こすと、熾は信州総管王長述に従って長江を遡上した。熾を前軍とし、謙の一鎮を破り、楚・合など五州を平定し、偽総管の荊山西元振を擒らえ、功により儀同三司に拝された。高祖が禅を受けると、熾は官属を率いて先に入り宮中を清め、即日内史舍人・上儀同三司を授けられた。間もなく本官のまま東宮右庶子を摂判し、両宮に出入りし、甚だ委遇された。処事が周密であったので、高祖は常にこれを称美した。左領軍長史を授け、節を持ち、東南道三十六州に使いし、州郡を廃置し、風俗を巡省した。還って太子僕を授けられ、諫議大夫を加えられ、長安ちょうあん令を摂った。大興令の梁毗と共に称職であった。しかし毗は厳正をもって聞こえ、熾は寛平をもって顕れ、為政は異なるが、管内はそれぞれ教化された。間もなく右常平監を領し、雍州贊治に遷り、饒良県子に改封された。鴻臚少卿に遷った。数年後、太常少卿に転じ、開府儀同三司に進んだ。再び節を持って河南道二十八州巡省大使となり、途中で吏部侍郎を授けられた。大業元年、大理卿に遷り、再び西南道大使となり、風俗を巡省した。戸部尚書に擢拜された。吐谷渾が張掖を寇すと、熾に精騎五千を率いてこれを撃退させ、青海まで追撃して還り、功により銀青光禄大夫を授けられた。六年、江都宮に幸するに当たり、熾を東都に留めて居守とし、引き続き左候衛将軍の事務を摂らせた。その年、官のまま卒した。時に六十二歳。諡して静といった。子の安世は、通事謁者となった。

熾の弟 晟

晟は字を季晟といい、性質は聡敏で、書記を少し学び、弾弓を善くし、射撃に巧みで、軽捷は人に過ぎた。当時、周室は武を尚び、貴遊の子弟は皆これを誇りとし、常に共に馳射したが、同輩は皆その下に出た。十八歳で司衛上士となった。初めは名が知られず、人もこれを識らなかったが、ただ高祖が一度会うと、深く嗟異し、その手を取って人に言われた、「長孫郎は武芸が群を逸し、話をしてみると、また多くの奇略がある。後の名将は、この子ではなかろうか」と。

宣帝の時、突厥の摂図が周に婚姻を請うたので、趙王招の娘を娶らせて妻とした。しかし周と摂図は互いに誇り競い、ぎょう勇を妙選して使者に充てたため、晟を汝南公宇文神慶の副使として千金公主をその牙庭に送らせた。前後数十人の使者があったが、摂図は多く礼をしなかったが、晟を見て独りこれを愛し、常に共に遊猟し、一年中留め置いた。かつて二羽の鵰が飛びながら肉を争うことがあったので、二本の矢を晟に与えて言った、「これを射取ってくれ」と。晟は弓を引き絞って馳せ往き、鵰が互いに掴み合うのに遇い、遂に一発で両方を貫いた。摂図は喜び、諸子弟貴人に命じて皆親友とさせ、昵近させて、弾射を学ばせようとした。その弟の処羅侯は突利設と号し、特に衆心を得ていた。しかし摂図に忌まれ、密かに心腹を託し、陰に晟と盟した。晟は彼と遊猟し、山川の形勢を察し、部衆の強弱を、全て知り尽くした。時に高祖が丞相となると、晟は状況を高祖に報告した。高祖は大いに喜び、奉車都尉に遷した。

開皇元年に至り、摂図は言う、「我は周家の親なり、今隋公自立して制すること能わず、また何の面目あって可賀敦に見えんや」と。ここにおいて高宝寧とともに臨渝鎮を攻め陥れ、諸面の部落と約して共に南侵を謀る。高祖は新たに立ち、ここにおいて大いに懼れ、長城を修築し、兵を発して北境に屯し、陰寿に命じて幽州を鎮め、虞慶則に命じてへい州を鎮めさせ、数万の兵を屯して以てこれに備う。長孫晟は先んじて摂図・玷厥・阿波・突利等の叔父・甥・兄弟が各々強兵を統べ、皆可汗と号し、四面に分居し、内には猜忌を懐き、外には和同を示し、力征には難く、離間し易きを知り、ここにおいて上書して言う、「臣聞く、喪乱の極みは必ず升平を致す、是故に上天その機を啓き、聖人その務を成すと。伏して惟うに皇帝陛下は百王の末に当たり、千載の期を膺け、諸夏は安んずれども、戎場は尚梗し、師を興して討ち致すは未だその時ならず、度外に棄つるはまた侵擾す。故に宜しく密かに籌策を運らし、漸く以てこれを攘うべし、計失えば則ち百姓安からず、計得れば則ち万代の福なり。吉凶の繫る所、伏して願わくは詳しく思え。臣は週末に於いて、忝くも外使を充て、匈奴の倚伏は実に具に知る所なり。玷厥の摂図に於けるや、兵強くして位下く、外は名相属し、内は隙已に彰れ、その情を鼓動すれば必ず自ら戦わん。また処羅侯なる者は、摂図の弟にして、奸多くして勢弱く、曲く衆心を取る、国人これ愛す、ここにおいて摂図に忌まれる所となり、その心殊に自ら安からず、跡は弥縫を示すも、実に疑懼を懐く。また阿波は首鼠、その間に介在し、頗る摂図を畏れ、その牽率を受け、唯強きに与し、定心未だ有らず。今宜しく遠く交えて近く攻め、強きを離れて弱きを合わし、玷厥に使を通じ、阿波を説いて合わさしめば、則ち摂図は兵を回し、自ら右地を防がん。また処羅を引き、奚・霫に遣わし連ねしめば、則ち摂図は衆を分かち、還って左方を備えん。首尾猜嫌し、腹心離阻すれば、十数年後にして、釁に乗じてこれを討てば、必ず一挙にしてその国を空うすべし」と。上表を省みて大いに悦び、ここにおいて召して語らう。長孫晟また口に形勢を陳べ、手に山川を画き、その虚実を写す、皆指掌の如し。上深く嗟異し、皆これを納用す。ここにおいて太僕元暉を遣わして伊吾道より出で、玷厥に詣らしめ、狼頭纛を賜い、謬って欽敬を為し、礼数甚だ優し。玷厥の使い来たり、摂図の使いの上に引いて居らしむ。反間既に行われ、果たして相猜貳す。長孫晟に車騎将軍を授け、黄龍道より出で、幣を齎して奚・霫・契丹等を賜い、嚮導として遣わし、処羅侯の所に至るを得しめ、深く心腹を布き、誘いて内附せしむ。

二年、摂図四十万騎、蘭州より入り、周盤に至り、達奚長儒の軍を破り、更に南入せんと欲す。玷厥従わず、兵を引いて去る。時に長孫晟また染幹を説き、詐って摂図に告げしむ、「鉄勒等反し、その牙を襲わんと欲す」と。摂図ここにおいて懼れ、兵を回して塞を出づ。

後数ヶ月、突厥大いに入り、八道元帥を発して分かち出でてこれに拒ぐ。阿波涼州に至り、竇栄定と戦い、賊帥累ねて北す。時に長孫晟は偏将たり、使いをしてこれに謂わしむ、「摂図毎に来たり、戦い皆大勝す。阿波才に入りて便ち即ち敗を致す、これは乃ち突厥の恥なり、豈に心に内愧せざらんや。且つ摂図の阿波に与するや、兵勢本敵たり。今摂図日々勝ち、衆の崇む所となり、阿波利あらず、国の為に辱を生ず。摂図必ず当に因って以て罪を阿波に帰し、その夙計を成し、北牙を滅ぼさん。願わくは自ら量度し、能くこれを禦がんや」と。阿波の使い至り、長孫晟またこれに謂う、「今達頭は隋と連和し、而るに摂図制すること能わず。可汗何ぞ天子に依附し、達頭を連結し、相合して強きを為さざる。これは万全の計なり。豈に兵を喪い罪を負い、摂図に帰就し、その戮辱を受くるに若かんや」と。阿波これを納れ、ここにおいて塞上に留まり、人をして長孫晟に随いて入朝せしむ。時に摂図は衛王の軍と遇い、白道に戦い、敗走して磧に至る。阿波の貳を懐くを聞き、ここにおいて北牙を掩い、尽くその衆を獲てその母を殺す。阿波還りて帰する所無く、西に奔って玷厥に至り、十余万の師を乞い、東に摂図を撃ち、故地を復得し、散卒数万を収め、摂図と相攻む。阿波頻りに勝ち、その勢益々張る。摂図また使いを遣わして朝貢し、公主自ら姓を改めんことを請い、帝女たらんことを乞う、上これを許す。

四年、長孫晟を遣わして虞慶則に副えしめ、摂図に使わしめ、公主の姓を賜いて楊氏と為し、改めて大義公主と封ず。摂図詔を奉ずるも、肯えて起ち拝せず、長孫晟進みて曰く、「突厥と隋は俱に大国の天子なり、可汗起たずんば、安んぞ敢えて意に違わん。但し可賀敦は帝の女なれば、則ち可汗は大隋の女婿なり、奈何ぞ礼無く、婦公を敬わざるや」と。摂図ここにおいて笑ってその達官に謂う、「須らく婦公を拝すべし、我これに従わんのみ」と。ここにおいて乃ち詔書を拝す。使い還りて旨に称し、儀同三司・左勲衛車騎将軍を授く。

七年、摂図死す、長孫晟を遣わして節を持たしめ、その弟処羅侯を拝して莫何可汗と為し、その子雍閭を葉護可汗と為す。処羅侯長孫晟に因って奏して曰く、「阿波は天の滅ぼす所となり、五六千騎を以て山谷の間に在り、伏して詔旨を聴く、当にこれを取って以て献ぜん」と。ここにおいて文武を召して議す。楽安西元諧曰く、「請う、彼に就いて梟首し、以てその悪を懲らしめん」と。武陽公李充曰く、「請う、生け捕りて朝に入れ、顕戮して以て百姓に示さん」と。上長孫晟に謂う、「卿に於いて如何」と。長孫晟対えて曰く、「若し突厥背誕せば、須らく刑を以てこれを斉うすべし。今その昆弟自ら相夷滅す、阿波の悪は、国家に負うに非ず、その困窮に因り、取って為に戮すは、恐らくは招遠の道に非ざらん、両くこれを存するに若かず」と。上曰く、「善し」と。八年、処羅侯死す、長孫晟を遣わして往きて吊わしめ、仍ち陳国の献ずる所の宝器を齎して以て雍閭に賜う。

十三年、流人楊欽、亡れて突厥に入り、詐って言う、彭公劉昶、宇文氏の女と共に謀りて隋に反せんと欲し、称してその来りを遣わし、密かに主に告ぐと。雍閭これを信じ、ここにおいて職貢を修めず。また長孫晟を遣わして出使せしめ、微かにこれを観察せしむ。公主長孫晟を見て、乃ち言辞遜らず、またその私する所の胡人安遂迦を遣わして楊欽と共に計議せしめ、雍閭を扇惑す。長孫晟京師に至り、具に状を以て奏す。また長孫晟を遣わして往きて楊欽を索めしむ、雍閭与えざらんと欲し、謬って答えて曰く、「客内を検校するに、此の色の人無し」と。長孫晟ここにおいてその達官に貨し、楊欽の在る所を知り、夜に掩いてこれを獲、以て雍閭に示し、ここにおいて公主の私事を発す、国人大いに恥ず。雍閭遂迦等を執り、並びに以て長孫晟に付す。上大いに喜び、開府を加授し、仍ち藩に入りて遣わし、大義公主を蒞殺せしむ。雍閭また表して婚を請う、僉議将にこれを許さんとす。長孫晟また奏して曰く、「臣雍閭を観るに、反覆して信無く、特だ玷厥と隙有るを共にす、所以に国家に依倚す。縦え婚と為すも、終に必ず叛かん。今若し公主を尚ばしむるを得ば、威霊を承藉し、玷厥・染幹必ずまたその徴発を受くべし。強くして更に反せば、後恐らくは図り難からん。且つ染幹なる者は、処羅侯の子なり、素より誠款有り、今に於いて両代なり。臣前に相見えしとき、また婚を通ぜんことを乞う、これを許すに若かず、招いて南徙せしめ、兵少なく力弱ければ、撫馴し易く、雍閭に敵せしめ、以て辺の捍と為すべし」と。上曰く、「善し」と。また慰喻を遣わして染幹に、公主を尚ばしむるを許す。

十七年、染幹五百騎を遣わして長孫晟に随い来りて女を逆わしむ、宗女を以て封じて安義公主と為し、以てこれに妻せしむ。長孫晟染幹を説きて衆を率い南徙せしめ、度斤の旧鎮に居らしむ。雍閭これを疾み、亟に来たりて抄略す。染幹動静を伺い知り、輒ち遣わして奏聞せしむ、ここを以て賊来る毎に先ず備え有り。

開皇十九年、染幹は長孫晟を通じて上奏し、雍閭(都藍可汗)が攻城具を作り、大同城を攻撃しようとしていると伝えた。詔を下して六総管を発し、すべて漢王(楊諒)の節度を受け、分道して塞外に出てこれを討たせた。雍閭は大いに恐れ、再び達頭可汗と同盟を結び、力を合わせて染幹を急襲し、長城の下で大戦となった。染幹は大敗し、その兄弟・子・甥を殺され、部落は離散した。染幹と長孫晟はわずか五騎で夜陰に乗じて南へ逃げ、夜明けまでに百余里を行き、数百騎を収容した。そこで互いに謀って言った。「今、兵敗れて朝廷に入れば、ただの降人に過ぎない。大隋の天子がどうして我を礼遇しようか。玷厥(達頭可汗)はたとえ来たとしても、もともと怨みはない。もし彼のもとへ投じれば、必ず救ってくれるだろう」。長孫晟は彼に二心あることを知り、密かに従者を伏遠鎮に入らせ、速やかに烽火を上げさせた。染幹が四つの烽火がすべて上がるのを見て、長孫晟に問うた。「城上で烽火を燃やすのはなぜか」。長孫晟は彼を欺いて言った。「城は高く地は遠く、必ず遠くから賊の来襲を見るのである。我が国の法では、賊が少なければ二烽を上げ、来る者が多ければ三烽を上げ、大いに逼迫すれば四烽を上げ、賊が多くかつ近いことを知らせるのである」。染幹は大いに恐れ、その配下に言った。「追兵がすでに迫っている。しばらく城に投じよう」。鎮に入った後、長孫晟はその達官(高官)執室を留めてその配下を統率させ、自ら染幹を率いて駅伝で朝廷に入った。帝(文帝)は大いに喜び、左勲衛驃騎将軍に進授し、節を持って突厥を護ることとした。長孫晟は降伏した虜(捕虜)を遣わして雍閭を偵察させ、その牙帳(本営)内でたびたび災変があったこと、夜に赤い虹を見、光が数百里を照らし、天狗(流星)が落ち、血の雨が三日降り、流星がその営内に墜ちて雷のような音がしたこと、毎夜おののき、隋軍がまさに来ると言っていることを知った。すべてこれを上奏して知らせ、引き続き突厥討伐の出兵を請うた。都速らが染幹のもとに帰順し、前後して来た者は男女一万余口に及び、長孫晟はこれを安置した。これによって突厥は喜んで帰附した。まもなく染幹を意利珍豆啓人可汗とし、武安殿で射礼を賜った。善射の者十二人を選び、二組に分けた。啓人可汗は言った。「臣は長孫大使によって天子に拝謁できました。今日射礼を賜り、その組に入りたいと願います」。許された。長孫晟に六侯の矢を与えると、発する矢はすべて鹿(的)に入り、啓人可汗の組がついに勝った。時に鳥の群れが飛んでいた。上(文帝)は言った。「公は弾丸をよくする。我のためにこれを取れ」。十発すべて命中し、弾丸に応じて落ちた。この日、百官は賜物を得たが、長孫晟の分が特に多かった。まもなく五万人を率いさせ、朔州に大利城を築いて染幹を住まわせた。安義公主が死ぬと、節を持って義城公主を送り、再びこれを娶らせた。長孫晟はまた上奏した。「染幹の部落で帰順する者がすでに多く、長城の内にいるとはいえ、なお雍閭に掠奪され、往来は辛苦し、安住できないでいます。五原に移住させ、黄河を防衛線とし、夏州・勝州の両州の間に、東西は黄河に至り、南北四百里にわたり、横堀を掘ってその内に住まわせ、思いのままに放牧させ、掠奪を免れさせれば、人々は必ず自ら安んずるでしょう」。上はすべてこれに従った。

開皇二十年、都藍可汗(雍閭)が大乱を起こし、その部下に殺された。長孫晟はこれに乗じて上奏して言った。「今、王師が国境に臨み、戦い数たび功があり、賊は内部分裂し、その主君が殺されました。この機に乗じて招き誘えば、必ずともに来降するでしょう。染幹の部下を分遣して招き慰撫することを請います」。上はこれを許し、果たしてすべて来附した。達頭可汗は恐怖し、また大いに兵を集めた。詔して長孫晟に降伏した者を統率させ、秦川行軍総管とし、晋王楊広の節度を受けて出討させた。達頭可汗が晋王と対抗した。長孫晟は進言して策を述べた。「突厥は泉の水を飲みます。毒を施すのは容易です」。そこで諸々の薬を取って上流に毒を入れ、達頭の部下の人畜がこれを飲んで多く死んだ。そこで大いに驚いて言った。「天が悪水を降らすのは、我を滅ぼそうとするのか」。そこで夜遁走した。長孫晟はこれを追撃し、千余級を斬首し、百余口を捕虜とし、六畜数千頭を得た。晋王は大いに喜び、長孫晟を内に引き入れ、ともに宴を開いて大いに歓んだ。突厥の達官で降伏して来た者がおり、その時も座に加わっていたが、突厥の内では長孫総管を大いに恐れ、その弓の音を聞いて霹靂と言い、その走る馬を見て閃電と呼ぶと語った。晋王は笑って言った。「将軍の震怒は、威は域外に及び、ついに雷霆に比せられるとは、なんと壮なることか」。軍が帰還すると、上開府儀同三司を授け、再び大利城に還して新たに帰附した者を安撫させた。

仁寿元年、長孫晟は上表して奏上した。「臣が夜に城楼に登り、磧(ゴビ砂漠)の北に赤気を見るに、長さ百余里、すべて雨足の如く、垂れ下がって地を覆っています。謹んで兵書を検証しますに、これは灑血と名付け、その下の国は必ずや破亡します。匈奴を滅ぼすは、まさに今日に在り」。詔して楊素を行軍元帥とし、長孫晟を受降使者とし、染幹を送って北伐させた。二年、軍は北河に駐屯した。賊帥の思力俟斤らが兵を率いて抗戦したが、長孫晟は大将軍梁默とともにこれを撃退し、転戦六十余里し、賊の多くは降伏した。長孫晟はまた染幹に教えて、使者を分遣し、北方の鉄勒などの部族に赴き、離反者を招き取らせた。三年、鉄勒・思結・伏利具・渾・斛薩・阿拔・僕骨など十余部が、すべて達頭に背き、来降を請うた。達頭の軍勢は大いに潰え、西へ吐谷渾に奔った。長孫晟は染幹を送り、磧口に安置した。

事が終わると、朝廷に入った。高祖(文帝)が崩御したが、喪は秘されて発せられなかった。煬帝は長孫晟を大行皇帝(文帝)の御前で引き寄せ、内衙の宿衛を委ね、門禁の事を知らせ、即日に左領軍将軍に任じた。楊諒が叛逆を起こすと、勅して本官のまま相州刺史とし、山東の兵馬を発し、李雄らとともにこれを経略させた。長孫晟は辞して言った。「子の行布がおり、今、叛逆の地におります。突然この任を蒙りましたが、心情不安です」。帝は言った。「公の勤誠は、朕のよく知るところである。今、相州の地はもと斉の都であり、人情は軽薄で、容易に騒擾を起こしうる。もし変動が生じれば、賊の勢いは即座に拡大する。これを鎮める方策を考えるに、公をおいて他にない。公が国を思う深さは、ついに子のために義を害することはない。故に任用を委ねる。公は辞するなかれ」。そこで相州に赴かせた。楊諒が破られると、追還され、武衛将軍に転じた。

大業三年、煬帝が榆林に行幸し、塞外に出て、兵を陳べ武威を耀かし、突厥の中を経て、涿郡を指そうとした。なお染幹が驚き恐れることを憂い、先に長孫晟を遣わして旨を諭し、帝の意を述べさせた。染幹はこれを聞き入れ、そこで配下の諸国、奚・霫・室韋などの種族数十の酋長をすべて召集した。長孫晟は牙帳の中の草が雑然としているのを見て、染幹に自らこれを除かせ、諸部落に示して威厳の重さを明らかにしようと思い、帳前の草を指して言った。「この根は大いに香しい」。染幹は急いで嗅いで言った。「まったく香しくない」。長孫晟は言った。「天子が行幸される所では、諸侯はみずからすすぎ掃除し、御路の草を除き、至敬の心を表すものである。今、牙帳の中が荒れているのは、香草を留めているのだと思った」。染幹はようやく悟って言った。「奴の罪過である。奴の骨肉はすべて天子の賜り物である。力を尽くすことができて、どうして辞することがあろうか。ただ辺境の者は法を知らないだけである。将軍の恩沢によって教え導かれることを頼む。将軍の恵みは、奴の幸いである」。そこで佩刀を抜き、みずから草を刈った。その貴人や諸部族も争ってこれに倣った。そこで榆林の北境からその牙帳に至り、さらに東は薊に達するまで、長さ三千里、幅百歩の御道を開くのに、挙国を動員して労役に就かせた。帝は長孫晟の策を聞き、ますます賞賛した。後に淮陽太守に任じられたが、赴任せず、再び右驍衛将軍となった。

大業五年、卒去した。時に五十八歳。帝は深く悼み惜しみ、賵賻(葬儀の贈り物)は甚だ厚かった。後に突厥が雁門を包囲した時、帝は嘆いて言った。「もし長孫晟がいたならば、匈奴をここまでさせなかったであろうに」。長孫晟は奇計を好み、功名に務めた。性格は至孝で、喪に服して身を毀瘠させたことは、朝士に称えられた。貞観年間、司空・上柱国・斉国公を追贈され、諡を献といった。少子の無忌が嗣いだ。

その長子の行布もまた謀略多く、父の風あり。漢王諒の庫真より起家し、甚だ親狎せらる。後に諒が并州にて逆を起こし、衆を率いて南に官軍を拒ぐに遇い、乃ち行布を留めて城を守らしめ、遂に豆盧毓等と門を閉じて諒を拒ぐ。城陥ち、害に遇う。次子の恆安は、兄の功により鷹揚郎将を授けらる。

史評

史臣曰く、長孫氏は代陰より爰に起こり、京洛に来儀し、門に鍾鼎を伝え、家に山河を誓う。漢代の八王も以て其の茂績に方ぶる無く、張氏の七葉も此の重光を譬うる能わず。長孫覽は独り雄弁を擅にし、長孫熾は早く爽俊と称せられ、俱に礼閣を司り、並びに師旅を統べ、且つ公且つ侯、文武墜ちず。長孫晟は体資英武、奇略を兼ね包み、機に因り制を変じ、彼の戎夷を懐く。巣を傾け尽く落ち、膝を屈し稽顙し、塞垣に鳴鏑の旅を絶ち、渭橋に単于の拜有り。恵は辺朔に流れ、功は王府に光り、此の爵祿を保つ、亦た宜ならずや。