隋書

巻051

卷五十一 列傳第十六 長孫覽

卷五十一 列傳第十六 長孫覽

原文卷五十一列傳第十六 長孫覽 ► 韓擒虎 賀若弼

長孫覽

原文長孫覽

長孫覽、字あざなは休因、河南洛陽らくようの人である。祖父の稚は、魏の太師・仮黄鉞・上党文宣王であった。父の紹遠は、周の小宗伯・上党郡公であった。覽は性質が弘雅で器量があり、書記を少し学び、特に鐘律に通暁していた。魏の大統年間中、東宮親信として起家した。周の明帝の時、大都督ととくとなった。武帝が藩王であった時、覽と親しくし、即位すると、ますます礼遇を加え、車騎大將軍に超拜した。公卿が上奏する度に、必ず覽に省読させた。覽は弁舌に優れ、声気雄壮で、宣伝する所は全て、百官が注目し、帝は常にこれを嘉歎した。覽は初め善と名乗っていたが、帝が言うには、「朕は万機を卿に先ず覧せしめる」と。そこで名を賜った。宇文護を誅殺した時、功により薛国公に進封された。その後、小司空しくうを歴任した。斉平定に従い、位は柱国に進み、第二子の寛を管国公に封じた。宣帝の時、上柱国・大司徒しとに進み、間もなく同州・涇州の二州刺史を歴任した。高祖こうそが丞相となると、宜州刺史に転じた。

原文長孫覽,字休因,河南洛陽人也。祖稚,魏太師、假黃鉞、上党文宣王。父紹遠,周小宗伯、上党郡公。覽性弘雅,有器量,略涉書記,尤曉鐘律。魏大統中,起家東宮親信。周明帝時,為大都督。武帝在籓,與覽親善,及即位,彌加禮焉,超拜車騎大將軍。每公卿上奏,必令省讀。覽有口辯,聲氣雄壯,凡所宣傳,百僚屬目,帝每嘉歎之。覽初名善,帝謂之曰:「朕以萬機,委卿先覽。」遂賜名焉。及誅宇文護,以功進封薛國公。其後曆小司空。從平齊,進位柱國,封第二子寬管國公。宣帝時,進位上柱國、大司徒,俄曆同、涇二州刺史。高祖為丞相,轉宜州刺史。

開皇かいこう二年、江南に事を行わんとし、征されて東南道行軍元帥となり、八総管を統率して寿陽から出撃し、水陸ともに進んだ。軍が長江に臨むと、陳人は大いに驚いた。時に陳の宣帝が崩御したので、覽は隙に乗じてこれを滅ぼそうとしたが、監軍の高熲が礼は喪に伐たずとして引き返した。上は常に覽と安德王雄・上柱国元諧・李充・左僕射ぼくや高熲・右衛大將軍虞慶則・吳州総管賀若弼らを同席させて宴を催し、言われた、「朕は昔周朝に在り、誠節を余すところなく示したが、ただ猜忌に苦しみ、常に寒心を致した。臣たる者がこのようでは、いったい何を頼みとしようか。朕と公との間は、義は君臣、恩は父子の如し。朕は公と共に終わりまで吉事を用いよう。謀逆の罪でなければ、一切問わない。朕も公の至誠を知っているので、特に太子に付託する。たびたび参見すべきであり、次第に親愛の情を得るがよい。柱臣としての素望は、実に公に属する。朕の意を識るがよい」と。その恩礼はこのようであった。また蜀王秀のために覽の娘を娶り妃とした。その後、母の喪により職を去った。一年余りして、復位を命じられた。間もなく涇州刺史に転じ、在任した所全てに政績があった。官のまま卒した。子の洪が嗣いだ。宋・順・臨の三州刺史・司農少卿・北平太守を歴任した。

原文開皇二年,將有事於江南,征為東南道行軍元帥,統八總管出壽陽,水陸俱進。師臨江,陳人大駭。會陳宣帝卒,覽欲乘釁遂滅之,監軍高熲以禮不伐喪而還。上常命覽與安德王雄、上柱國元諧、李充、左僕射高熲、右衛大將軍虞慶則、吳州總管賀若弼等同宴,上曰:「朕昔在周朝,備展誠節,但苦猜忌,每致寒心。為臣若此,竟何情賴?朕之於公,義則君臣,恩猶父子。朕當與公共用終吉,罪非謀逆,一無所問。朕亦知公至誠,特付太子,宜數參見之,庶得漸相親愛。柱臣素望,實屬於公,宜識朕意。」其恩禮如此。又為蜀王秀納覽女為妃。其後以母憂去職。歲餘,起令復位。俄轉涇州刺史,所在並有政績。卒官。子洪嗣。仕曆宋順臨三州刺史、司農少卿、北平太守。

從子 熾

原文從子熾

熾は字を仲光といい、上党文宣王稚の曾孫である。祖父の裕は、魏の太常たいじょう卿・冀州刺史であった。父の兕は、周の開府儀同三司・熊・絳の二州刺史・平原侯であった。熾は性質が聡明で、姿儀が美しく、広く群書に渉猟し、武芸にも長じていた。建德初年、武帝は道法を尊び、特に玄言を好み、経史を兼ね学び、談論に善い者を求め、通道館学士とした。熾はその選に応じ、英俊と共に交遊し、通渉する所ますます広博であった。建德二年、雍州倉城令に任じられ、間もなく盩啡令に転じた。二つの邑を相次いで治め、考績が連続して最上となり、崤郡守に遷った。入朝して禦正上士となった。高祖が丞相となると、丞相府功曹参そうしん軍に抜擢され、大都督を加えられ、陽平県子に封じられ、邑二百戸を賜った。稍伯下大夫に遷った。その年、王謙が反乱を起こすと、熾は信州総管王長述に従って長江を遡上した。熾を前軍とし、謙の一鎮を破り、楚・合など五州を平定し、偽総管の荊山西元振を擒らえ、功により儀同三司に拝された。高祖が禅を受けると、熾は官属を率いて先に入り宮中を清め、即日内史舍人・上儀同三司を授けられた。間もなく本官のまま東宮右庶子を摂判し、両宮に出入りし、甚だ委遇された。処事が周密であったので、高祖は常にこれを称美した。左領軍りょうぐん長史を授け、節を持ち、東南道三十六州に使いし、州郡を廃置し、風俗を巡省した。還って太子僕を授けられ、諫議大夫を加えられ、長安ちょうあん令を摂った。大興令の梁毗と共に称職であった。しかし毗は厳正をもって聞こえ、熾は寛平をもって顕れ、為政は異なるが、管内はそれぞれ教化された。間もなく右常平監を領し、雍州贊治に遷り、饒良県子に改封された。鴻臚少卿に遷った。数年後、太常少卿に転じ、開府儀同三司に進んだ。再び節を持って河南道二十八州巡省大使となり、途中で吏部侍郎を授けられた。大業たいぎょう元年、大理卿に遷り、再び西南道大使となり、風俗を巡省した。戸部尚書に擢拜された。吐谷渾が張掖を寇すと、熾に精騎五千を率いてこれを撃退させ、青海まで追撃して還り、功により銀青光禄大夫を授けられた。六年、江都宮に幸するに当たり、熾を東都に留めて居守とし、引き続き左候衛将軍の事務を摂らせた。その年、官のまま卒した。時に六十二歳。諡して静といった。子の安世は、通事謁者となった。

原文熾字仲光,上党文宣王稚之曾孫也。祖裕,魏太常卿、冀州刺史。父兕,周開府儀同三司、熊絳二州刺史、平原侯。熾性敏慧,美姿儀,頗涉群書,兼長武藝。建德初,武帝尚道法,尤好玄言,求學兼經史、善於談論者,為通道館學士。熾應其選,與英俊並遊,通涉彌博。建德二年,授雍州倉城令,尋轉盩啡令。頻宰二邑,考績連最,遷崤郡守。入為禦正上士。高祖作相,擢為丞相府功曹參軍,加大都督,封陽平縣子,邑二百戶。遷稍伯下大夫。其年王謙反,熾從信州總管王長述溯江而上。以熾為前軍,破謙一鎮,定楚、合等五州,擒偽總管荊山西元振,以功拜儀同三司。及高祖受禪,熾率官屬先入清宮,即日授內史舍人、上儀同三司。尋以本官攝判東宮右庶子,出入兩宮,甚被委遇。加以處事周密,高祖每稱美之。授左領軍長史,持節,使于東南道三十六州,廢置州郡,巡省風俗。還授太子僕,加諫議大夫,攝長安令。與大興令梁毗俱為稱職。然毗以嚴正聞,熾以寬平顯,為政不同,部內各化。尋領右常平監,遷雍州贊治,改封饒良縣子。遷鴻臚少卿。後數歲,轉太常少卿,進位開府儀同三司。複持節為河南道二十八州巡省大使,于路授吏部侍郎。大業元年,遷大理卿,複為西南道大使,巡省風俗。擢拜戶部尚書。吐谷渾寇張掖,令熾率精騎五千擊走之,追至青海而還,以功授銀青光祿大夫。六年,幸江都宮,留熾于東都居守,仍攝左候衛將軍事。其年卒官,時年六十二。諡曰靜。子安世,通事謁者。

熾の弟 晟

原文熾弟晟

晟は字を季晟といい、性質は聡敏で、書記を少し学び、弾弓を善くし、射撃に巧みで、軽捷は人に過ぎた。当時、周室は武を尚び、貴遊の子弟は皆これを誇りとし、常に共に馳射したが、同輩は皆その下に出た。十八歳で司衛上士となった。初めは名が知られず、人もこれを識らなかったが、ただ高祖が一度会うと、深く嗟異し、その手を取って人に言われた、「長孫郎は武芸が群を逸し、話をしてみると、また多くの奇略がある。後の名将は、この子ではなかろうか」と。

原文晟字季晟,性通敏,略涉書記,善彈工射,趫捷過人。時周室尚武,貴遊子弟鹹以相矜,每共馳射,時輩皆出其下。年十八,為司衛上士。初未知名,人弗之識也,唯高祖一見,深嗟異焉,乃攜其手而謂人曰:「長孫郎武藝逸群,適與其言,又多奇略。後之名將,非此子邪?」

宣帝の時、突厥の摂図が周に婚姻を請うたので、趙王招の娘を娶らせて妻とした。しかし周と摂図は互いに誇り競い、驍勇を妙選して使者に充てたため、晟を汝南公宇文神慶の副使として千金公主をその牙庭に送らせた。前後数十人の使者があったが、摂図は多く礼をしなかったが、晟を見て独りこれを愛し、常に共に遊猟し、一年中留め置いた。かつて二羽の鵰が飛びながら肉を争うことがあったので、二本の矢を晟に与えて言った、「これを射取ってくれ」と。晟は弓を引き絞って馳せ往き、鵰が互いに掴み合うのに遇い、遂に一発で両方を貫いた。摂図は喜び、諸子弟貴人に命じて皆親友とさせ、昵近させて、弾射を学ばせようとした。その弟の処羅侯は突利設と号し、特に衆心を得ていた。しかし摂図に忌まれ、密かに心腹を託し、陰に晟と盟した。晟は彼と遊猟し、山川の形勢を察し、部衆の強弱を、全て知り尽くした。時に高祖が丞相となると、晟は状況を高祖に報告した。高祖は大いに喜び、奉車都尉に遷した。

原文宣帝時,突厥攝圖請婚于周,以趙王招女妻之。然周與攝圖各相誇競,妙選驍勇以充使者,因遣晟副汝南公宇文神慶送千金公主至其牙。前後使人數十輩,攝圖多不禮,見晟而獨愛焉,每共遊獵,留之竟歲。嘗有二雕,飛而爭肉,因以兩箭與晟曰:「請射取之。」晟乃彎弓馳往,遇雕相攫,遂一發而雙貫焉。攝圖喜,命諸子弟貴人皆相親友,冀昵近之,以學彈射。其弟處羅侯號突利設,尤得眾心。而為攝圖所忌,密托心腹,陰與晟盟。晟與之遊獵,因察山川形勢,部眾強弱,皆盡知之。時高祖作相,晟以狀白高祖。高祖大喜,遷奉車都尉。

開皇元年に至り、摂図は言う、「我は周家の親なり、今隋公自立して制すること能わず、また何の面目あって可賀敦に見えんや」と。ここにおいて高宝寧とともに臨渝鎮を攻め陥れ、諸面の部落と約して共に南侵を謀る。高祖は新たに立ち、ここにおいて大いに懼れ、長城を修築し、兵を発して北境に屯し、陰寿に命じて幽州を鎮め、虞慶則に命じて并州へいしゅうを鎮めさせ、数万の兵を屯して以てこれに備う。長孫晟は先んじて摂図・玷厥・阿波・突利等の叔父・甥・兄弟が各々強兵を統べ、皆可汗と号し、四面に分居し、内には猜忌を懐き、外には和同を示し、力征には難く、離間し易きを知り、ここにおいて上書して言う、「臣聞く、喪乱の極みは必ず升平を致す、是故に上天その機を啓き、聖人その務を成すと。伏して惟うに皇帝陛下は百王の末に当たり、千載の期を膺け、諸夏は安んずれども、戎場は尚梗し、師を興して討ち致すは未だその時ならず、度外に棄つるはまた侵擾す。故に宜しく密かに籌策を運らし、漸く以てこれを攘うべし、計失えば則ち百姓安からず、計得れば則ち万代の福なり。吉凶の繫る所、伏して願わくは詳しく思え。臣は週末に於いて、忝くも外使を充て、匈奴の倚伏は実に具に知る所なり。玷厥の摂図に於けるや、兵強くして位下く、外は名相属し、内は隙已に彰れ、その情を鼓動すれば必ず自ら戦わん。また処羅侯なる者は、摂図の弟にして、奸多くして勢弱く、曲く衆心を取る、国人これ愛す、ここにおいて摂図に忌まれる所となり、その心殊に自ら安からず、跡は弥縫を示すも、実に疑懼を懐く。また阿波は首鼠、その間に介在し、頗る摂図を畏れ、その牽率を受け、唯強きに与し、定心未だ有らず。今宜しく遠く交えて近く攻め、強きを離れて弱きを合わし、玷厥に使を通じ、阿波を説いて合わさしめば、則ち摂図は兵を回し、自ら右地を防がん。また処羅を引き、奚・霫に遣わし連ねしめば、則ち摂図は衆を分かち、還って左方を備えん。首尾猜嫌し、腹心離阻すれば、十数年後にして、釁に乗じてこれを討てば、必ず一挙にしてその国を空うすべし」と。上表を省みて大いに悦び、ここにおいて召して語らう。長孫晟また口に形勢を陳べ、手に山川を画き、その虚実を写す、皆指掌の如し。上深く嗟異し、皆これを納用す。ここにおいて太僕元暉を遣わして伊吾道より出で、玷厥に詣らしめ、狼頭纛を賜い、謬って欽敬を為し、礼数甚だ優し。玷厥の使い来たり、摂図の使いの上に引いて居らしむ。反間既に行われ、果たして相猜貳す。長孫晟に車騎将軍を授け、黄龍道より出で、幣を齎して奚・霫・契丹等を賜い、嚮導として遣わし、処羅侯の所に至るを得しめ、深く心腹を布き、誘いて内附せしむ。

原文至開皇元年,攝圖曰:「我周家親也,今隋公自立而不能制,複何面目見可賀敦乎」?因與高寶寧攻陷臨渝鎮,約諸面部落謀共南侵。高祖新立,由是大懼,修築長城,發兵屯北境,命陰壽鎮幽州,虞慶則鎮并州,屯兵數萬人以為之備。晟先知攝圖、玷厥、阿波、突利等叔侄兄弟各統強兵,俱號可汗,分居四面,內懷猜忌,外示和同,難以力征,易可離間,因上書曰:「臣聞喪亂之極,必致升平,是故上天啟其機,聖人成其務。伏惟皇帝陛下當百王之末,膺千載之期,諸夏雖安,戎場尚梗,興師致討,未是其時,棄於度外,又複侵擾。故宜密運籌策,漸以攘之,計失則百姓不甯,計得則萬代之福。吉凶所系,伏願詳思。臣於週末,忝充外使,匈奴倚伏,實所具知。玷厥之於攝圖,兵強而位下,外名相屬,內隙已彰,鼓動其情,必將自戰。又處羅侯者,攝圖之弟,奸多而勢弱,曲取於眾心,國人愛之,因為攝圖所忌,其心殊不自安,跡示彌縫,實懷疑懼。又阿波首鼠,介在其間,頗畏攝圖,受其牽率,唯強是與,未有定心。今宜遠交而近攻,離強而合弱,通使玷厥,說合阿波,則攝圖回兵,自防右地。又引處羅,遣連奚、霫,則攝圖分眾,還備左方。首尾猜嫌,腹心離阻,十數年後,承釁討之,必可一舉而空其國矣。」上省表大悅,因召與語。晟複口陳形勢,手畫山川,寫其虛實,皆如指掌。上深嗟異,皆納用焉。因遣太僕元暉出伊吾道,使詣玷厥,賜以狼頭纛,謬為欽敬,禮數甚優。玷厥使來,引居攝圖使上。反間既行,果相猜貳。授晟車騎將軍,出黃龍道,齎幣賜奚、霫、契丹等,遣為嚮導,得至處羅侯所,深布心腹,誘令內附。

二年、摂図四十万騎、蘭州より入り、周盤に至り、達奚長儒の軍を破り、更に南入せんと欲す。玷厥従わず、兵を引いて去る。時に長孫晟また染幹を説き、詐って摂図に告げしむ、「鉄勒等反し、その牙を襲わんと欲す」と。摂図ここにおいて懼れ、兵を回して塞を出づ。

原文二年,攝圖四十萬騎自蘭州入,至於周盤,破達奚長儒軍,更欲南入。玷厥不從,引兵而去。時晟又說染幹詐告攝圖曰:「鐵勒等反,欲襲其牙。」攝圖乃懼,回兵出塞。

後数ヶ月、突厥大いに入り、八道元帥を発して分かち出でてこれに拒ぐ。阿波涼州に至り、竇栄定と戦い、賊帥累ねて北す。時に長孫晟は偏将たり、使いをしてこれに謂わしむ、「摂図毎に来たり、戦い皆大勝す。阿波才に入りて便ち即ち敗を致す、これは乃ち突厥の恥なり、豈に心に内愧せざらんや。且つ摂図の阿波に与するや、兵勢本敵たり。今摂図日々勝ち、衆の崇む所となり、阿波利あらず、国の為に辱を生ず。摂図必ず当に因って以て罪を阿波に帰し、その夙計を成し、北牙を滅ぼさん。願わくは自ら量度し、能くこれを禦がんや」と。阿波の使い至り、長孫晟またこれに謂う、「今達頭は隋と連和し、而るに摂図制すること能わず。可汗何ぞ天子に依附し、達頭を連結し、相合して強きを為さざる。これは万全の計なり。豈に兵を喪い罪を負い、摂図に帰就し、その戮辱を受くるに若かんや」と。阿波これを納れ、ここにおいて塞上に留まり、人をして長孫晟に随いて入朝せしむ。時に摂図は衛王の軍と遇い、白道に戦い、敗走して磧に至る。阿波の貳を懐くを聞き、ここにおいて北牙を掩い、尽くその衆を獲てその母を殺す。阿波還りて帰する所無く、西に奔って玷厥に至り、十余万の師を乞い、東に摂図を撃ち、故地を復得し、散卒数万を収め、摂図と相攻む。阿波頻りに勝ち、その勢益々張る。摂図また使いを遣わして朝貢し、公主自ら姓を改めんことを請い、帝女たらんことを乞う、上これを許す。

原文後數月,突厥大入,發八道元帥分出拒之。阿波至涼州,與竇榮定戰,賊帥累北。時晟為偏將,使謂之曰:「攝圖每來,戰皆大勝。阿波才入,便即致敗,此乃突厥之恥,豈不內愧於心乎?且攝圖之與阿波,兵勢本敵。今攝圖日勝,為眾所崇,阿波不利,為國生辱。攝圖必當因以罪歸於阿波,成其夙計,滅北牙矣。願自量度,能禦之乎?」阿波使至,晟又謂之曰:「今達頭與隋連和,而攝圖不能制。可汗何不依附天子,連結達頭,相合為強,此萬全之計。豈若喪兵負罪,歸就攝圖,受其戮辱邪?」阿波納之,因留塞上,使人隨晟入朝。時攝圖與衛王軍遇,戰于白道,敗走至磧。聞阿波懷貳,乃掩北牙,盡獲其眾而殺其母。阿波還無所歸,西奔玷厥,乞師十余萬,東擊攝圖,複得故地,收散卒數萬,與攝圖相攻。阿波頻勝,其勢益張。攝圖又遣使朝貢,公主自請改姓,乞為帝女,上許之。

四年、長孫晟を遣わして虞慶則に副えしめ、摂図に使わしめ、公主の姓を賜いて楊氏と為し、改めて大義公主と封ず。摂図詔を奉ずるも、肯えて起ち拝せず、長孫晟進みて曰く、「突厥と隋は俱に大国の天子なり、可汗起たずんば、安んぞ敢えて意に違わん。但し可賀敦は帝の女なれば、則ち可汗は大隋の女婿なり、奈何いかんぞ礼無く、婦公を敬わざるや」と。摂図ここにおいて笑ってその達官に謂う、「須らく婦公を拝すべし、我これに従わんのみ」と。ここにおいて乃ち詔書を拝す。使い還りて旨に称し、儀同三司・左勲衛車騎将軍を授く。

原文四年,遣晟副虞慶則使於攝圖,賜公主姓為楊氏,改封大義公主。攝圖奉詔,不肯起拜,晟進曰:「突厥與隋俱是大國天子,可汗不起,安敢違意。但可賀敦為帝女,則可汗是大隋女婿,奈何無禮,不敬婦公乎?」攝圖乃笑謂其達官曰:「須拜婦公,我從之耳。」於是乃拜詔書。使還稱旨,授儀同三司、左勳衛車騎將軍。

七年、摂図死す、長孫晟を遣わして節を持たしめ、その弟処羅侯を拝して莫何可汗と為し、その子雍閭を葉護可汗と為す。処羅侯長孫晟に因って奏して曰く、「阿波は天の滅ぼす所となり、五六千騎を以て山谷の間に在り、伏して詔旨を聴く、当にこれを取って以て献ぜん」と。ここにおいて文武を召して議す。楽安西元諧曰く、「請う、彼に就いて梟首し、以てその悪を懲らしめん」と。武陽公李充曰く、「請う、生け捕りて朝に入れ、顕戮して以て百姓に示さん」と。上長孫晟に謂う、「卿に於いて如何」と。長孫晟対えて曰く、「若し突厥背誕せば、須らく刑を以てこれを斉うすべし。今その昆弟自ら相夷滅す、阿波の悪は、国家に負うに非ず、その困窮に因り、取って為に戮すは、恐らくは招遠の道に非ざらん、両くこれを存するに若かず」と。上曰く、「善し」と。八年、処羅侯死す、長孫晟を遣わして往きて吊わしめ、仍ち陳国の献ずる所の宝器を齎して以て雍閭に賜う。

原文七年,攝圖死,遣晟持節拜其弟處羅侯為莫何可汗,以其子雍閭為葉護可汗。處羅侯因晟奏曰:「阿波為天所滅,與五六千騎在山谷間,伏聽詔旨,當取之以獻。」乃召文武議焉。樂安西元諧曰:「請就彼梟首,以懲其惡。」武陽公李充曰:「請生將入朝,顯戮以示百姓。」上謂晟曰:「於卿何如?」晟對曰:「若突厥背誕,須齊之以刑。今其昆弟自相夷滅,阿波之惡,非負國家,因其困窮,取而為戮,恐非招遠之道,不如兩存之。」上曰:「善。」八年,處羅侯死,遣晟往吊,仍齎陳國所獻寶器以賜雍閭。

十三年、流人楊欽、亡れて突厥に入り、詐って言う、彭公劉昶、宇文氏の女と共に謀りて隋に反せんと欲し、称してその来りを遣わし、密かに主に告ぐと。雍閭これを信じ、ここにおいて職貢を修めず。また長孫晟を遣わして出使せしめ、微かにこれを観察せしむ。公主長孫晟を見て、乃ち言辞遜らず、またその私する所の胡人安遂迦を遣わして楊欽と共に計議せしめ、雍閭を扇惑す。長孫晟京師に至り、具に状を以て奏す。また長孫晟を遣わして往きて楊欽を索めしむ、雍閭与えざらんと欲し、謬って答えて曰く、「客内を検校するに、此の色の人無し」と。長孫晟ここにおいてその達官に貨し、楊欽の在る所を知り、夜に掩いてこれを獲、以て雍閭に示し、ここにおいて公主の私事を発す、国人大いに恥ず。雍閭遂迦等を執り、並びに以て長孫晟に付す。上大いに喜び、開府を加授し、仍ち藩に入りて遣わし、大義公主を蒞殺せしむ。雍閭また表して婚を請う、僉議将にこれを許さんとす。長孫晟また奏して曰く、「臣雍閭を観るに、反覆して信無く、特だ玷厥と隙有るを共にす、所以に国家に依倚す。縦え婚と為すも、終に必ず叛かん。今若し公主を尚ばしむるを得ば、威霊を承藉し、玷厥・染幹必ずまたその徴発を受くべし。強くして更に反せば、後恐らくは図り難からん。且つ染幹なる者は、処羅侯の子なり、素より誠款有り、今に於いて両代なり。臣前に相見えしとき、また婚を通ぜんことを乞う、これを許すに若かず、招いて南徙せしめ、兵少なく力弱ければ、撫馴し易く、雍閭に敵せしめ、以て辺の捍と為すべし」と。上曰く、「善し」と。また慰喻を遣わして染幹に、公主を尚ばしむるを許す。

原文十三年,流人楊欽亡入突厥,詐言彭公劉昶共宇文氏女謀欲反隋,稱遣其來,密告主。雍閭信之,乃不修職貢。又遣晟出使,微觀察焉。公主見晟,乃言辭不遜,又遣所私胡人安遂迦共欽計議,扇惑雍閭。晟至京師,具以狀奏。又遣晟往索欽,雍閭欲勿與,謬答曰:「檢校客內,無此色人。」晟乃貨其達官,知欽所在,夜掩獲之,以示雍閭,因發公主私事,國人大恥。雍閭執遂迦等,並以付晟。上大喜,加授開府,仍遣入籓,蒞殺大義公主。雍閭又表請婚,僉議將許之。晟又奏曰:「臣觀雍閭,反覆無信,特共玷厥有隙,所以依倚國家。縱與為婚,終當必叛。今若得尚公主,承藉威靈,玷厥、染幹必又受其徵發。強而更反,後恐難圖。且染幹者,處羅侯之子也,素有誠款,於今兩代。臣前與相見,亦乞通婚,不如許之,招令南徙,兵少力弱,易可撫馴,使敵雍閭,以為邊捍。」上曰:「善。」又遣慰喻染幹,許尚公主。

十七年、染幹五百騎を遣わして長孫晟に随い来りて女を逆わしむ、宗女を以て封じて安義公主と為し、以てこれに妻せしむ。長孫晟染幹を説きて衆を率い南徙せしめ、度斤の旧鎮に居らしむ。雍閭これを疾み、亟に来たりて抄略す。染幹動静を伺い知り、輒ち遣わして奏聞せしむ、ここを以て賊来る毎に先ず備え有り。

原文十七年,染幹遣五百騎隨晟來逆女,以宗女封安義公主以妻之。晟說染幹率眾南徙,居度斤舊鎮。雍閭疾之,亟來抄略。染幹伺知動靜,輒遣奏聞,是以賊來每先有備。

開皇十九年、染幹は長孫晟を通じて上奏し、雍閭(都藍可汗)が攻城具を作り、大同城を攻撃しようとしていると伝えた。詔を下して六総管を発し、すべて漢王(楊諒)の節度を受け、分道して塞外に出てこれを討たせた。雍閭は大いに恐れ、再び達頭可汗と同盟を結び、力を合わせて染幹を急襲し、長城の下で大戦となった。染幹は大敗し、その兄弟・子・甥を殺され、部落は離散した。染幹と長孫晟はわずか五騎で夜陰に乗じて南へ逃げ、夜明けまでに百余里を行き、数百騎を収容した。そこで互いに謀って言った。「今、兵敗れて朝廷に入れば、ただの降人に過ぎない。大隋の天子がどうして我を礼遇しようか。玷厥(達頭可汗)はたとえ来たとしても、もともと怨みはない。もし彼のもとへ投じれば、必ず救ってくれるだろう」。長孫晟は彼に二心あることを知り、密かに従者を伏遠鎮に入らせ、速やかに烽火を上げさせた。染幹が四つの烽火がすべて上がるのを見て、長孫晟に問うた。「城上で烽火を燃やすのはなぜか」。長孫晟は彼を欺いて言った。「城は高く地は遠く、必ず遠くから賊の来襲を見るのである。我が国の法では、賊が少なければ二烽を上げ、来る者が多ければ三烽を上げ、大いに逼迫すれば四烽を上げ、賊が多くかつ近いことを知らせるのである」。染幹は大いに恐れ、その配下に言った。「追兵がすでに迫っている。しばらく城に投じよう」。鎮に入った後、長孫晟はその達官(高官)執室を留めてその配下を統率させ、自ら染幹を率いて駅伝で朝廷に入った。帝(文帝ぶんてい)は大いに喜び、左勲衛驃騎将軍に進授し、節を持って突厥を護ることとした。長孫晟は降伏した虜(捕虜)を遣わして雍閭を偵察させ、その牙帳(本営)内でたびたび災変があったこと、夜に赤い虹を見、光が数百里を照らし、天狗(流星)が落ち、血の雨が三日降り、流星がその営内に墜ちて雷のような音がしたこと、毎夜おののき、隋軍がまさに来ると言っていることを知った。すべてこれを上奏して知らせ、引き続き突厥討伐の出兵を請うた。都速らが染幹のもとに帰順し、前後して来た者は男女一万余口に及び、長孫晟はこれを安置した。これによって突厥は喜んで帰附した。まもなく染幹を意利珍豆啓人可汗とし、武安殿で射礼を賜った。善射の者十二人を選び、二組に分けた。啓人可汗は言った。「臣は長孫大使によって天子に拝謁できました。今日射礼を賜り、その組に入りたいと願います」。許された。長孫晟に六侯の矢を与えると、発する矢はすべて鹿(的)に入り、啓人可汗の組がついに勝った。時に鳥の群れが飛んでいた。上(文帝)は言った。「公は弾丸をよくする。我のためにこれを取れ」。十発すべて命中し、弾丸に応じて落ちた。この日、百官は賜物を得たが、長孫晟の分が特に多かった。まもなく五万人を率いさせ、朔州に大利城を築いて染幹を住まわせた。安義公主が死ぬと、節を持って義城公主を送り、再びこれを娶らせた。長孫晟はまた上奏した。「染幹の部落で帰順する者がすでに多く、長城の内にいるとはいえ、なお雍閭に掠奪され、往来は辛苦し、安住できないでいます。五原に移住させ、黄河を防衛線とし、夏州・勝州の両州の間に、東西は黄河に至り、南北四百里にわたり、横堀を掘ってその内に住まわせ、思いのままに放牧させ、掠奪を免れさせれば、人々は必ず自ら安んずるでしょう」。上はすべてこれに従った。

原文十九年,染幹因晟奏,雍閭作攻具,欲打大同城。詔發六總管,並取漢王節度,分道出塞討之。雍閭大懼,複共達頭同盟,合力掩襲染幹,大戰于長城下。染幹敗績,殺其兄弟子侄,而部落亡散。染幹與晟獨以五騎逼夜南走,至旦,行百餘裡,收得數百騎,乃相與謀曰:「今兵敗入朝,一降人耳,大隋天子豈禮我乎?玷厥雖來,本無冤隙,若往投之,必相存濟。」晟知其懷貳,乃密遣從者入伏遠鎮,令速舉烽。染幹見四烽俱發,問晟曰:「城上然烽何也?」晟紿之曰:「城高地迥,必遙見賊來。我國家法,若賊少舉二烽,來多舉三烽,大逼舉四烽,使見賊多而又近耳。」染幹大懼,謂其眾曰:「追兵已逼,且可投城。」既入鎮,晟留其達官執室以領其眾,自將染幹馳驛入朝。帝大喜,進授左勳衛驃騎將軍,持節護突厥。晟遣降虜覘候雍閭,知其牙內屢有災變,夜見赤虹,光照數百里,天狗隕,雨血三日,流星墜其營內,有聲如雷。每夜自驚,言隋師且至。並遣奏知,仍請出討突厥。都速等歸染幹,前後至者男女萬餘口,晟安置之。由是突厥悅附。尋以染幹為意利珍豆啟人可汗,賜射于武安殿。選善射者十二人,分為兩朋。啟人曰:「臣由長孫大使得見天子,今日賜射,願入其朋。」許之。給晟箭六侯,發皆入鹿,啟人之朋竟勝。時有群飛,上曰:「公善彈,為我取之。」十發俱中,並應丸而落。是日百官獲賚,晟獨居多。尋遣領五萬人,於朔州築大利城以處染幹。安義公主死,持節送義城公主,複以妻之。晟又奏:「染幹部落歸者既眾,雖在長城之內,猶被雍閭抄略,往來辛苦,不得甯居。請徙五原,以河為固,于夏、勝兩州之間,東西至河,南北四百里,掘為橫塹,令處其內,任情放牧,免於抄略,人必自安。」上並從之。

開皇二十年、都藍可汗(雍閭)が大乱を起こし、その部下に殺された。長孫晟はこれに乗じて上奏して言った。「今、王師が国境に臨み、戦い数たび功があり、賊は内部分裂し、その主君が殺されました。この機に乗じて招き誘えば、必ずともに来降するでしょう。染幹の部下を分遣して招き慰撫することを請います」。上はこれを許し、果たしてすべて来附した。達頭可汗は恐怖し、また大いに兵を集めた。詔して長孫晟に降伏した者を統率させ、秦川行軍総管とし、晋王楊広の節度を受けて出討させた。達頭可汗が晋王と対抗した。長孫晟は進言して策を述べた。「突厥は泉の水を飲みます。毒を施すのは容易です」。そこで諸々の薬を取って上流に毒を入れ、達頭の部下の人畜がこれを飲んで多く死んだ。そこで大いに驚いて言った。「天が悪水を降らすのは、我を滅ぼそうとするのか」。そこで夜遁走した。長孫晟はこれを追撃し、千余級を斬首し、百余口を捕虜とし、六畜数千頭を得た。晋王は大いに喜び、長孫晟を内に引き入れ、ともに宴を開いて大いに歓んだ。突厥の達官で降伏して来た者がおり、その時も座に加わっていたが、突厥の内では長孫総管を大いに恐れ、その弓の音を聞いて霹靂と言い、その走る馬を見て閃電と呼ぶと語った。晋王は笑って言った。「将軍の震怒は、威は域外に及び、ついに雷霆に比せられるとは、なんと壮なることか」。軍が帰還すると、上開府儀同三司を授け、再び大利城に還して新たに帰附した者を安撫させた。

原文二十年,都藍大亂,為其部下所殺。晟因奏請曰:「今王師臨境,戰數有功,賊內攜離,其主被殺,乘此招誘,必並來降,請遣染幹部下分頭招慰。」上許之,果盡來附。達頭恐怖,又大集兵。詔晟部領降人,為秦川行軍總管,取晉王廣節度出討。達頭與王相抗,晟進策曰:「突厥飲泉,易可行毒。」因取諸藥毒水上流,達頭人畜飲之多死,於是大驚曰:「天雨惡水,其亡我乎?」因夜遁。晟追之,斬首千餘級,俘百餘口,六畜數千頭。王大喜,引晟入內,同宴極歡。有突厥達官來降,時亦預坐,說言突厥之內,大畏長孫總管,聞其弓聲,謂為霹靂,見其走馬,稱為閃電。王笑曰:「將軍震怒,威行域外,遂與雷霆為比,一何壯哉!」師旋,授上開府儀同三司,複遣還大利城,安撫新附。

仁寿じんじゅ元年、長孫晟は上表して奏上した。「臣が夜に城楼に登り、磧(ゴビ砂漠)の北に赤気を見るに、長さ百余里、すべて雨足の如く、垂れ下がって地を覆っています。謹んで兵書を検証しますに、これは灑血と名付け、その下の国は必ずや破亡します。匈奴を滅ぼすは、まさに今日に在り」。詔して楊素を行軍元帥とし、長孫晟を受降使者とし、染幹を送って北伐させた。二年、軍は北河に駐屯した。賊帥の思力俟斤らが兵を率いて抗戦したが、長孫晟は大将軍梁默とともにこれを撃退し、転戦六十余里し、賊の多くは降伏した。長孫晟はまた染幹に教えて、使者を分遣し、北方の鉄勒などの部族に赴き、離反者を招き取らせた。三年、鉄勒・思結・伏利具・渾・斛こく薩・阿拔・僕骨など十余部が、すべて達頭に背き、来降を請うた。達頭の軍勢は大いに潰え、西へ吐谷渾に奔った。長孫晟は染幹を送り、磧口に安置した。

原文仁壽元年,晟表奏曰:「臣夜登城樓,望見磧北有赤氣,長百餘裡,皆如雨足,下垂被地。謹驗兵書,此名灑血,其下之國必且破亡。欲滅匈奴,宜在今日。」詔楊素為行軍元帥,晟為受降使者,送染幹北伐。二年,軍次北河,值賊帥思力俟斤等領兵拒戰,晟與大將軍梁默擊走之,轉戰六十餘裡,賊眾多降。晟又教染幹分遣使者,往北方鐵勒等部招攜取之。三年,有鐵勒、思結、伏利具、渾、斛薩、阿拔、僕骨等十餘部,盡背達頭,請來降附。達頭眾大潰,西奔吐谷渾。晟送染幹安置於磧口。

事が終わると、朝廷に入った。高祖(文帝)が崩御したが、喪は秘されて発せられなかった。煬帝ようだいは長孫晟を大行皇帝(文帝)の御前で引き寄せ、内衙の宿衛を委ね、門禁の事を知らせ、即日に左領軍将軍に任じた。楊諒が叛逆を起こすと、勅して本官のまま相州刺史とし、山東の兵馬を発し、李雄らとともにこれを経略させた。長孫晟は辞して言った。「子の行布がおり、今、叛逆の地におります。突然この任を蒙りましたが、心情不安です」。帝は言った。「公の勤誠は、朕のよく知るところである。今、相州の地はもと斉の都であり、人情は軽薄で、容易に騒擾を起こしうる。もし変動が生じれば、賊の勢いは即座に拡大する。これを鎮める方策を考えるに、公をおいて他にない。公が国を思う深さは、ついに子のために義を害することはない。故に任用を委ねる。公は辞するなかれ」。そこで相州に赴かせた。楊諒が破られると、追還され、武衛将軍に転じた。

原文事畢,入朝,遇高祖崩,匿喪未發。煬帝引晟於大行前委以內衙宿衛,知門禁事,即日拜左領軍將軍。遇楊諒作逆,敕以本官為相州刺史,發山東兵馬,與李雄等共經略之。晟辭曰:「有男行布,今在逆地,忽蒙此任,情所不安。」帝曰:「公著勤誠,朕之所悉。今相州之地,本是齊都,人俗澆浮,易可搔擾。儻生變動,賊勢即張,思所以鎮之,非公莫可。公體國之深,終不可以兒害義,故用相委,公其勿辭。」於是遣捉相州。諒破,追還,轉武衛將軍。

大業三年、煬帝が榆林に行幸し、塞外に出て、兵を陳べ武威を耀かし、突厥の中を経て、涿郡を指そうとした。なお染幹が驚き恐れることを憂い、先に長孫晟を遣わして旨を諭し、帝の意を述べさせた。染幹はこれを聞き入れ、そこで配下の諸国、奚・霫・室韋などの種族数十の酋長をすべて召集した。長孫晟は牙帳の中の草が雑然としているのを見て、染幹に自らこれを除かせ、諸部落に示して威厳の重さを明らかにしようと思い、帳前の草を指して言った。「この根は大いに香しい」。染幹は急いで嗅いで言った。「まったく香しくない」。長孫晟は言った。「天子が行幸される所では、諸侯はみずからすすぎ掃除し、御路の草を除き、至敬の心を表すものである。今、牙帳の中が荒れているのは、香草を留めているのだと思った」。染幹はようやく悟って言った。「奴の罪過である。奴の骨肉はすべて天子の賜り物である。力を尽くすことができて、どうして辞することがあろうか。ただ辺境の者は法を知らないだけである。将軍の恩沢によって教え導かれることを頼む。将軍の恵みは、奴の幸いである」。そこで佩刀を抜き、みずから草を刈った。その貴人や諸部族も争ってこれに倣った。そこで榆林の北境からその牙帳に至り、さらに東は薊に達するまで、長さ三千里、幅百歩の御道を開くのに、挙国を動員して労役に就かせた。帝は長孫晟の策を聞き、ますます賞賛した。後に淮陽太守に任じられたが、赴任せず、再び右驍衛将軍となった。

原文大業三年,煬帝幸榆林,欲出塞外,陳兵耀武,經突厥中,指於涿郡。仍恐染幹驚懼,先遣晟往喻旨,稱述帝意。染幹聽之,因召所部諸國,奚、霫、室韋等種落數十酋長咸萃。晟以牙中草穢,欲令染乾親自除之,示諸部落,以明威重,乃指帳前草曰:「此根大香。」染幹遽嗅之曰:「殊不香也。」晟曰:「天子行幸所在,諸侯躬親灑掃,耘除禦路,以表至敬之心。今牙中蕪穢,謂是留香草耳。」染幹乃悟曰:「奴罪過。奴之骨肉,皆天子賜也,得效筋力,豈敢有辭?特以邊人不知法耳,賴將軍恩澤而教導之。將軍之惠,奴之幸也。」遂拔所佩刀,親自芟草,其貴人及諸部爭放效之。乃發榆林北境,至於其牙,又東達於薊,長三千里,廣百步,舉國就役而開禦道。帝聞晟策,乃益嘉焉。後除淮陽太守,未赴任,複為右驍衛將軍。

大業五年、卒去した。時に五十八歳。帝は深く悼み惜しみ、賵賻(葬儀の贈り物)は甚だ厚かった。後に突厥が雁門を包囲した時、帝は嘆いて言った。「もし長孫晟がいたならば、匈奴をここまでさせなかったであろうに」。長孫晟は奇計を好み、功名に務めた。性格は至孝で、喪に服して身を毀瘠させたことは、朝士に称えられた。貞観年間、司空・上柱国・斉国公を追贈され、諡を献といった。少子の無忌が嗣いだ。

原文五年,卒,時年五十八。帝深悼惜之,賵贈甚厚。後突厥圍雁門,帝歎曰:「向使長孫晟在,不令匈奴至此!」晟好奇計,務功名。性至孝,居憂毀瘠,為朝士所稱。貞觀中,追贈司空、上柱國、齊國公,諡曰獻。少子無忌嗣。

その長子の行布もまた謀略多く、父の風あり。漢王諒の庫真より起家し、甚だ親狎せらる。後に諒が并州にて逆を起こし、衆を率いて南に官軍を拒ぐに遇い、乃ち行布を留めて城を守らしめ、遂に豆盧毓等と門を閉じて諒を拒ぐ。城陥ち、害に遇う。次子の恆安は、兄の功により鷹揚郎将を授けらる。

原文其長子行布,亦多謀略,有父風。起家漢王諒庫真,甚見親狎。後遇諒於并州起逆,率眾南拒官軍,乃留行布城守,遂與豆盧毓等閉門拒諒,城陷,遇害。次子恆安,以兄功授鷹揚郎將。

史評

原文史評

史臣曰く、長孫氏は代陰より爰に起こり、京洛に来儀し、門に鍾鼎を伝え、家に山河を誓う。漢代の八王も以て其の茂績に方ぶる無く、張氏の七葉も此の重光を譬うる能わず。長孫覽は独り雄弁を擅にし、長孫熾は早く爽俊と称せられ、俱に礼閣を司り、並びに師旅を統べ、且つ公且つ侯、文武墜ちず。長孫晟は体資英武、奇略を兼ね包み、機に因り制を変じ、彼の戎夷を懐く。巣を傾け尽く落ち、膝を屈し稽顙し、塞垣に鳴鏑の旅を絶ち、渭橋に単于の拜有り。恵は辺朔に流れ、功は王府に光り、此の爵祿を保つ、亦た宜ならずや。

原文史臣曰:長孫氏爰自代陰,來儀京洛,門傳鍾鼎,家誓山河。漢代八王,無以方其茂績;張氏七葉,不能譬此重光。覽獨擅雄辨,熾早稱爽俊,俱司禮閣,並統師旅,且公且侯,文武不墜。晟體資英武,兼包奇略,因機制變,懷彼戎夷。傾巢盡落,屈膝稽顙,塞垣絕鳴鏑之旅,渭橋有單于之拜。惠流邊朔,功光王府,保茲爵祿,不亦宜乎!