宇文慶
宇文慶は、字を神慶といい、河南郡洛陽県の人である。祖父の金殿は、魏の征南大将軍に任じられ、五州刺史を歴任し、安吉侯に封ぜられた。父の顯和は、夏州刺史であった。慶は沈着深遠にして器量があり、若くして聡明敏活をもって知られた。周の初め、東観で学問を受け、経史に広く通じた。やがて人に言うには、「書物は姓名を記すのに足るのみで、どうして長く筆硯に事え、腐儒の業を為せようか」と。時に文州の民と夷が相集まって乱を起こしたので、慶は募りに応じて征討に従軍した。賊は険しい谷に拠って守り、道は断崖絶壁であったが、慶は馬の足を包んで進み、これを襲撃して破り、功により都督に任ぜられた。衛王直が山南に鎮した時、左右として召し抱えられた。慶は弓射に優れ、胆気があり、猛獣と格闘するのを好み、直は大いにこれを賞賛した。次第に車騎大将軍・儀同三司・柱国府掾に昇進した。宇文護が誅殺された時、慶はその謀議に関与し、驃騎大将軍に進み、開府を加えられた。後に武帝に従って河陰を攻め、真っ先に城壁に登り、賊と短兵相接して戦い、しばらくして石を被り墜落し、気絶した後蘇生した。帝はこれを労って言うには、「卿の余勇は、人に売ることができる」と。再び武帝に従って晋州を陥落させた。その後、斉の大軍が到来し、慶は宇文憲と共に軽騎で偵察に向かい、突然賊と遭遇し、賊に追い詰められた。憲は身を挺して逃げ去り、慶は退いて汾橋を占拠した。賊の群れが争って進むと、慶は弓を引いてこれを射かけ、当たった人馬は必ず倒れたので、賊はようやく少し退いた。高緯を破り、高壁を落とし、并州を平定し、信都を陥れ、高湝を捕らえるに至り、その功績はいずれも最も優れていた。周の武帝は詔して言うには、「慶は勲功が早くから顕著であり、英名と声望は遠くに広がり、朝廷内外での業績は、朕の心に刻まれている。兵車が西より発して以来、共に行陣を統率し、東夏を平定したことは、実に大きな功績である。高位と厚い礼遇は、栄誉を重んじるべきである」と。ここに於いて大将軍に進位し、汝南郡公に封ぜられ、邑千六百戸を賜った。まもなく行軍総管として延安の反乱した胡を撃ち、これを平定し、延州総管に任ぜられた。間もなく寧州総管に転じた。高祖(楊堅)が丞相となると、再び行軍総管として江南に南征した。軍が白帝に駐屯した時、召還され、その功労により上大将軍に進位した。高祖は慶と旧知の間柄であり、大いに親しく遇し、丞相府の軍事を監督させ、腹心として委ねた。まもなく柱国を加えられた。開皇初年、左武衛将軍に任ぜられ、上柱国に進位した。数年後、涼州総管として出向した。一年余りして召還されたが、職務には就けなかった。
かつて、帝(楊堅)が潜龍(即位前)の時、ゆったりと慶と天下の事について語り合ったことがあり、帝は慶に言った。「天元(北周宣帝)は実に徳を積んでおらず、その相貌を見るに、寿命も長くはない。加えて法令は煩雑で苛酷であり、声色に耽溺している。我が観るに、まもなく滅びるであろう。また諸侯は微弱で、それぞれ国に赴かせているが、深く根を下ろし本を固める計略は全くない。羽翼を既に切り落とされていて、どうして遠くまで及べようか。尉遅迥は貴戚であり、早くから声望が著しい。国家に隙あらば、必ず乱の端緒となろう。しかし智謀と度量は凡庸で浅く、子弟は軽薄で、貪欲で恩恵が少ないため、結局は滅亡に至るであろう。司馬消難は反覆常なき者で、池中の物でもない。変は瞬時に起こるが、ただ軽薄で謀略がなく、害をなすことはできず、江南に逃げ込むだけである。庸・蜀は険阻で、困難や障害が生じやすい。王謙は愚鈍で、元来から策略がなく、ただ人に誤らされることを恐れるのみで、憂慮するに足りない」と。間もなく、帝の言葉は全て的中した。この時、慶は帝が忘れてしまい、再び任用されないことを恐れ、かつて恩顧を受けたことを示そうと、以前の言葉を全て記録して上表文として奏上した。「臣は聞く、智が造化に等しければ、天地もその霊妙を隠すことができず、明が日月と同じであれば、万物もその様相を蔵することができないと。天に先んじて違わず、実に聖人の道を体する所以であり、未だ兆しの見えざるに先んじて見通すのは、まことに時宜に通じた神妙な機微である。伏して惟るに、陛下は特に生まれながらにして知り、聡明で速やかに天下を治められ、五嶽を抱くもなお軽く、八荒を呑むも妨げられず、妙なる見識を胸中に蘊し、奇なる謀略を掌握して運用される。臣は微賤の身でありながら、早くから天子の眷顧に逢い、凡庸な下僚であるにもかかわらず、親しく真心を推し量っていただいた。陛下が成されたご計画は、微細な点まで誤りがなく、聖慮を尋ね考えれば、その妙は蓍亀(占い)を超え、一人の慶事が験証されたことは実に徴があり、天子の言葉に戯れがないことを実証した。臣は親しく聞き、親しく見て、実に栄誉であり、実に喜ばしい」と。帝は上表文を覧て大いに喜び、詔を下して言った。「朕と公とは、本来親密であり、心中の思いは隠すところなく、全てを尽くして語った。話したのは年久しいが、なお記憶している。今、表奏を覧て、初めて昔の談話を悟った。どうしてこの言葉が、遂に実録となったのか。古人が禍福を先んじて知ることは、明らかに信じるに足る。朕の言葉が的中したのは、自ら偶然である。公が忘れずにいることは、誠節を一層表しており、深くその厚意を感じ、賞賛してやまない」と。これ以降、帝は常に優れた礼遇を加えた。家で卒去した。
子の靜禮は、初め太子千牛備身となり、まもなく高祖の娘の広平公主を娶り、儀同三司に任ぜられ、安德県公に封ぜられ、邑千五百戸を賜り、後に熊州刺史となった。父の慶より先に卒去した。
子の協は、武賁郎将・右翊衛将軍を歴任し、宇文化及の乱に遭って殺害された。
協の弟の皛は、字を婆羅門といい、大業の世、幼少時に宮中で養育された。後に千牛左右となり、煬帝は大いに親しみ寵愛した。遊宴がある度に、皛は必ず侍従し、寝室の出入りに至るまで、六宮を伺い探り、往来は門禁に制限されず、その恩寵と寵愛はこのようなものであった。当時の人は宇文三郎と呼んだ。皛は宮人と淫乱な行為を行い、妃嬪や公主に至っても醜聞があった。蕭后が帝に言上すると、皛は聞いて恐れ、数日間帝に会おうとしなかった。その兄の協が因みに奏上して言うには、「皛は今や成人しておりますので、宮中に置くことはできません」と。帝は「皛はどこにいるのか」と問うた。協は「朝堂におります」と答えた。帝は彼を罪に問わず、召し入れて、以前のように遇した。宇文化及が弑逆を起こした際、皛は時に玄覽門におり、変事を察知して、入って奏上しようとしたが、門司に阻まれ、直ちに入ることができなかった。折しも日が暮れ、宮門が閉ざされたので、守っていた所に引き返した。間もなく乱が起こり、皛は五十人を率いて駆けつけたが、乱兵に殺害された。
李禮成
李禮成は、字を孝諧といい、隴西郡狄道県の人である。涼王李暠の六世孫である。祖父の延實は、魏の司徒であった。父の彧は、侍中であった。禮成は七歳の時、姑の子で蘭陵太守の滎陽の鄭顥と共に魏の武帝(孝武帝)に従って関中に入った。顥の母は常に親しい者に言うには、「この子は平生、振り返ったことがない。必ず大器となろう」と。成長すると、沈着深遠にして行いに慎みがあり、軽々しく賓客と交わらなかった。魏の大統年間、著作郎に初任し、太子洗馬・員外散騎常侍に遷った。周が禅譲を受けると、平東将軍・散騎常侍に任ぜられた。当時、貴公子は皆競って弓馬を習い、服装も多く軍装であった。禮成は騎射に優れていたが、ゆったりと儒服を着て、平素からの声望を失わなかった。後に軍功により車騎大将軍・儀同三司に任ぜられ、修陽県侯の爵位を賜り、遷州刺史に任ぜられた。時に朝廷が徴発を行おうとしたが、禮成は蛮夷は擾乱すべきでなく、擾れば必ず乱が起こると考え、上表して強く諫めた。周の武帝はこれに従った。斉を伐つ戦役では、帝に従って晋陽を包囲し、禮成は兵を率いて南門を攻撃した。斉の将軍の席毗羅が精鋭数千を率いて帝を防いだが、禮成は力戦してこれを撃退した。開府を加えられ、冠軍県公に進封され、北徐州刺史に任ぜられた。間もなく、民部中大夫として召還された。
礼成の妻竇氏は早くに亡くなったが、高祖に非凡なる相貌あるを知り、遂に高祖の妹を後妻に迎え、情誼は甚だ歓ばしかりき。高祖が丞相となると、位は上大将軍に進み、司武上大夫に遷り、心膂として委ねられた。高祖が禅譲を受けると、陝州刺史に任じられ、絳郡公に封ぜられ、賞賜は優渥であった。まもなく左衛将軍に召され、右武衛大将軍に遷る。一年余りして、襄州総管として出向し、恵みある政績ありと称された。後数年を経て、再び左衛大将軍となる。時に突厥はしばしば寇患を為し、辺境の要害には多く重臣を委ねた。ここにおいて寧州刺史に任ぜられた。一年余りして、病により京師に召還され、家にて終わる。その子世師は、度支侍郎に至る。
元孝矩
元孝矩は、河南洛陽の人なり。祖父は修義、父は子均、共に魏の尚書僕射たり。孝矩は西魏の時に始平県公の爵を襲ぎ、南豊州刺史に任ぜられた。時に周の太祖が政権を専らにして、元氏を危うくせんとするを見て、孝矩は常に慨然として社稷を興し復するの志あり、密かに兄弟に謂いて曰く、「昔、漢氏に諸呂の変ありし時、朱虚・東牟(侯)が遂に劉氏を安んず。今、宇文の心は、路人も見る所なり。顛れんとして扶けずんば、何ぞ宗子を用いん。何ぞ図らざるや」と。兄の則に阻まれて、孝矩は止む。その後、周の太祖が兄の子である晋公宇文護のために孝矩の妹を娶り妻とし、情誼は甚だ密なり。閔帝が禅譲を受けると、宇文護は百揆を総べ、孝矩の寵遇は益々盛んとなる。宇文護が誅せられると、連座して蜀に流される。数年を経て、京師に召還され、益州総管司馬に任ぜられ、司憲大夫に転ず。
高祖はその門地を重んじ、その女を娶りて房陵王(楊勇)の妃とす。高祖が丞相となると、少塚宰に任じ、位は柱国に進み、洵陽郡公の爵を賜う。時に房陵王は洛陽を鎮守す。高祖が禅譲を受け、皇太子に立てられると、孝矩をして代わりに鎮守せしむ。既にしてその女を皇太子妃に立て、親礼は弥厚し。俄かに夀州総管に任ぜられ、孝矩に璽書を賜いて曰く、「揚州・越の地に妖気あり、辺鄙を侵軼し、桑を争い役を興し、大猷を識らず。公の志は遠略に存す。今、故に辺境を鎮めしむ。礼を以て懐柔し、朕が意に称えよ」と。時に陳の将軍任蛮奴らが屡々江北を寇す。再び孝矩を行軍総管とし、兵を率いて江上に屯す。後数年を経て、自ら年老い、筋力漸く衰え、軍旅に堪えざるを以て、上表して骸骨を乞う。涇州刺史に転ず。高祖は下書して曰く、「謙譲を執るを知る。初服に帰らんことを請う。宝命を恭しく膺けしは、実に元功に頼る。方に委裘せんと欲し、分陝を寄せんとす。何ぞ便に高蹈を請い、独り君子たらんとするや。若し辺境の務め煩わしきを以てせば、即ち宜しく節を涇郡に徙し、徳を養い臥して治むべし」と。州に在ること一年余り、官にて卒す。年五十九。諡して簡と曰う。子の無竭が嗣ぐ。
孝矩の兄の子文郁は、『誠節伝』に見ゆ。孝矩の次弟の雅は、字を孝方と云い、文武の幹用あり。開皇年中、左領左右将軍・集州及び沁州の刺史を歴任し、順陽郡公に封ぜられる。末弟の褒は、最も知名なり。
弟 褒
郭栄
郭栄は、字を長栄と云い、自ら云うに太原の人なり。父の徽は、魏の大統末年に同州司馬たり。時に武元皇帝(楊忠)が刺史たりし故に、高祖と旧交あり。徽は後に洵州刺史・安城県公に至る。高祖が禅譲を受けると、太僕卿に任ぜられ、数年を経て官にて卒す。栄は容貌魁岸、外は疎にして内は密なり。これと交わる者多く之を愛す。周の大塚宰宇文護が親信として引き立てる。護は栄の謹厚なるを察し、中外府水曹参軍に抜擢す。時に斉が屡々侵寇す。護は栄をして汾州にて賊の形勢を観察せしむ。時に汾州と姚襄鎮とは懸隔して遠し。栄は二城孤迥にして、勢い相救わざるを以て、州鎮の間に更に一城を築き、以て相控摂せんことを請う。護はこれに従う。俄かに斉の将軍段孝先が姚襄・汾州の二城を攻め陥とす。唯だ栄の築きし城のみ独り能く自守す。護は浮橋を作り、兵を出して河を渡り、孝先と戦う。孝先は上流に大筏を放ちて浮橋を撃たしむ。護は栄に便水者を督せしめて其の筏を引き取らしむ。功により大都督を授かる。護は又、稽胡が数々寇乱を為すを以て、栄をしてこれを綏集せしむ。栄は上郡・延安に周昌・弘信・広安・招遠・咸寧等の五城を築き、以てその要路を遏えしむ。稽胡は是れによりて寇す能わず。武帝が親しく万機を総べ、宣納中士に任ぜらる。後に帝に従い斉を平げ、戦功により、馬二十匹、綿絹六百段を賜い、平陽県男に封ぜられ、司水大夫に遷る。
栄は少時に高祖と親狎し、情誼極めて歓ばしかりき。嘗て高祖と夜坐し月下にて、因りて従容として栄に謂いて曰く、「吾れ玄象を仰ぎ観、人事を俯して察するに、周の暦は已に尽き、我れ其れ代わらん」と。栄は深く自ら結納す。宣帝崩御し、高祖が百揆を総べ、栄を召し、その背を撫でて笑いて曰く、「吾が言、験あらざるや」と。即ち相府楽曹参軍に任ず。俄かに本官のまま復た蕃部大夫を領す。高祖が禅譲を受けると、内史舎人に引き立てられ、龍潜の旧交により、蒲城郡公の爵に進み、上儀同の位を加えらる。累遷して通州刺史に至る。仁寿初め、西南の夷・獠多く叛く。詔して栄に八州諸軍事行軍総管を領せしめ、兵を率いて討たしむ。一年余りして悉く平定し、奴婢三百余口を賜う。
煬帝が即位すると、郭榮は召されて武候驘騎將軍となり、厳正さをもって知られた。数年後、黔安の首領田羅駒が清江に拠って乱を起こし、夷陵の諸郡では民や夷人が多くこれに呼応したため、詔により郭榮がこれを討ち平らげた。左候衛將軍に遷る。帝に従って西征し吐谷渾を討ち、銀青光禄大夫を拝命した。遼東の役では、功により位を進めて左光禄大夫となった。翌年、帝が再び遼東に出兵しようとしたとき、郭榮は中国が疲弊していると考え、天子の車駕がたびたび動くべきではないとし、帝に言上して曰く、「戎狄が礼を失うのは、臣下の務めであります。臣は聞きます、千鈞の弩は鼷鼠のために発機せず、どうして親しく大駕を辱くして小寇に臨むことがありましょうか」と。帝は聞き入れなかった。再び軍に従って遼東城を攻め、郭榮は自ら矢石を蒙り、昼夜甲冑を解かず百余日を過ごした。帝はしばしば人を遣わして諸将の行動を窺わせたが、郭榮がこのようであると知り、帝は大いに喜び、たびたび労い励ました。九年、帝が東都に至り、郭榮に謂いて曰く、「公は年徳次第に高く、久しく行陣に身を置くべきではない。公に一郡を与えよう、任地は選ぶがよい」と。郭榮は離れることを望まず、頓首して辞退を陳べ、言葉と情は哀切で、帝の心を動かした。そこで右候衛大將軍を拝命した。数日後、帝は百官に謂いて曰く、「誠心純一にして至れること郭榮の如きは、固より比ぶるものなし」と。そのように信頼されたのである。楊玄感の乱のとき、帝は馳せて太原を守らせた。翌年、再び帝に従って柳城に至り、病に罹った。帝はその容態を尋ねさせ、中使は途絶えることがなかった。懐遠鎮で卒去した。時に六十八歳。帝はそのために朝を廃し、兵部尚書を追贈し、諡して恭と曰い、贈り物千段を賜った。子に福善あり。
龐晃
龐晃は、字を元顯といい、榆林の人である。父の虯は、周の驘騎大將軍であった。晃は若くして良家の子として、刺史杜達に召し出されて州都督に補された。周の太祖が関中を有するに及んで、晃を大都督に任じ、親信の兵を率いさせ、常に左右に置いた。晃はこれにより関中に移り住んだ。後に驘騎將軍に遷り、比陽侯の爵を襲った。衛王直が襄州に出鎮すると、晃は本官のまま従った。まもなく長湖公元定とともに江南を撃ち、孤軍深入して遂に陣中に没した。数年後、衛王直が晃の弟の車騎將軍元俊に絹八百匹を持たせて贖わせ、ようやく帰朝することができた。上儀同を拝し、彩二百段を賜り、再び衛王に仕えた。
時に高祖が随州刺史として出向する途次、襄陽を経過した。衛王は晃をして高祖のもとに詣でさせた。晃は高祖が常人ならざることを知り、深く結び付いた。高祖が官を去って京師に帰るとき、晃は襄邑で高祖を迎えて会った。高祖は大いに喜び、晃は高祖に申し上げて曰く、「公の相貌は並々ならず、名は図籙に在り。九五の位につかれる日、幸いに忘れ給わざらんことを」と。高祖は笑って曰く、「何という妄言か」と。しばらくして、一羽の雄雉が庭で鳴いた。高祖は晃にこれを射させて曰く、「当たれば賞を与えよう。然れども富貴の日には、これを証とせよ」と。晃が射て当てると、高祖は手を打って大笑いし曰く、「これは天意である。公がこれを感じて当てたのだ」と。そこで二人の婢を賜い、情誼は甚だ密接であった。武帝の時、晃は常山太守となり、高祖は定州総管となり、たびたび往来した。やがて高祖が亳州総管に転じ、出発しようとして、意気甚だ悦ばしからなかった。晃は高祖に申し上げて曰く、「燕・代は精兵の地、今もし衆を動かせば、天下は図るに足りましょう」と。高祖は晃の手を握って曰く、「時は未だ可ならず」と。晃もまた車騎將軍に転じた。高祖が揚州総管となると、晃を同行させるよう奏上した。やがて高祖が丞相となると、晃の位を開府に進め、左右を督させることを命じ、甚だ親しく遇された。帝位に即くと、晃に謂いて曰く、「雉を射た符験、今日験わされたか」と。晃は再拝して曰く、「陛下は天に応じ民に順い、宇内に君臨せられ、なお昔の言葉を憶え給うこと、慶び躍るに勝えません」と。上は笑って曰く、「公のこの言葉、どうして忘れようか」と。まもなく上開府を加えられ、右衛將軍を拝し、爵を公に進められ、邑千五百戸を賜った。河間王弘が突厥を撃つとき、晃は行軍総管として従い馬邑に至った。別路より賀蘭山に出て、賊を撃ち破り、千余級を斬首した。
晃の性質は剛悍であり、時に広平王雄が権勢を握り、その勢いは朝廷を傾けるほどであったが、晃はたびたびこれを陵侮した。かつて軍中で臥していたとき、雄を見ても起立せず、雄はこれを甚だ恨んだ。また高熲とも不和があり、二人はたびたび晃を讒言した。このため宿衛十余年、官は進まず、出て懐州刺史となり、数年して原州総管に遷った。仁寿年間に在官のまま卒した。七十二歳。高祖はそのために朝を廃し、贈り物三百段、米三百石を賜り、諡して敬と曰う。子の長寿は頗る名を知られ、官は驘騎將軍に至った。
李安
李安は、字を玄德といい、隴西狄道の人である。父の蔚は、周に仕えて朔燕恆三州刺史・襄武縣公となった。安は姿儀美しく、騎射に巧みであった。周の天和年間、初めて官に就き右侍上士となり、襄武公の爵を襲った。まもなく儀同・少師右上士を授けられた。高祖が丞相となると、左右に引き立て、職方中大夫に遷った。また安の弟の悊を儀同に拝した。安の叔父の梁州刺史璋は、時に京師におり、周の趙王と謀って高祖を害そうとし、悊を誘って内応させようとした。悊は安に言った、「寝せておけば不忠、言い出せば不義、忠と義を失えば、何をもって身を立てようか」と。安は曰く、「丞相は父のようなもの、どうして背けようか」と。そこで密かにこれを申し出た。趙王らが誅せられたとき、官賞を加えようとしたが、安は頓首して言った、「兄弟は汗馬の労なく、過分に獎擢を受け、一家を挙げて節を尽くしても、酬いることができません。思いがけず叔父が無状にも、凶党に惑わされ、宗を覆し嗣を絶つこと、その甘きこと薺の如し。首領を全うすること、幸い実に多く、どうして叔父の命をもって官賞を求めましょうか」と。そこで俯伏して流涕し、悲しみに堪えなかった。高祖はこれに対して顔色を改めて曰く、「われ汝のために特に璋の子を存えん」と。そこで有司に命じて罪を璋一身に止めさせ、高祖もまた安のためにその事を隠して言わなかった。まもなく安に開府を授け、趙郡公に進封し、悊は上儀同・黄台縣男となった。
高祖はかつて宰相であった時の事柄に言及し、李安兄弟が親族を犠牲にして国に奉じたことを哀れみ、詔を下して曰く、「先王は教えを立て、義をもって恩を断ち、親愛の情を切り捨て、君に事える道を尽くす。これによって大節を広く奨励し、この至公の精神を体現するのである。かつて周の暦運が既に尽き、天命が将に及ぼうとした時、朕が登庸したばかりで、王業の基礎が初めて築かれた。この末世を承け、奸宄の輩が実に多くいた。上大将軍・寧州刺史・趙郡公李安は、その叔父の李璋が密かに藩枝(諸侯勢力)と結び、猶子(甥)を扇動して惑わし、不逞の志を包み隠し、禍の機が将に発せんとしていた。李安とその弟の開府儀同三司・衛州刺史・黄台県男の李悊は、深く順逆を知り、丹心を披瀝し、凶悪な謀略が既に明らかになると、罪人を捕らえることができた。朕は常にその誠実な節義を思い、褒め称えてやむことがなく、功績を顕彰し賞を与えることは、時を過ぎてはならない。しかし事がその親族に関わるため、なお疑惑があり、李安らが名教の立場から、自ら処するに余地があるようにしたいと、朕は常に思案を重ねたため、ついに数年を経過してしまった。今さらに聖典を詳しく按じ、往事に求めると、父子の天性でさえ、誠と孝は並び立たない。ましてや叔父と甥の間の恩は軽く、情と礼には本来差等がある。私を忘れて国に奉ずることは、深く正しい道理を得ている。旧功を記録し、重ねて賞命を広く与えるべきである。」と。そこで李安と李悊をともに柱国に任じ、それぞれ絹五千匹、馬百匹、羊千頭を賜った。また李悊を備身将軍とし、順陽郡公に進封した。李安は親族に言った、「家門は全うされたが、叔父は禍に遭った。今この詔を奉じるに当たり、悲しみと慚愧の念が交錯する。」と。そこで嘆息して悲しみ、自ら堪えることができなかった。以前から水腫の病を患っていたが、この時病状が重くなって卒去した。時に五十三歳。諡は懐といった。子の李瓊が後を嗣いだ。末子の李孝恭が最も有名である。李悊は後に事に坐して除名され、嶺南に配流されて防禦に当たらせられたが、道中で病没した。
【論】
史臣曰く、宇文慶らは、龍が潜んでいた頃からの旧臣であり、昔からの親戚縁者である。ある者は平素から平生の言葉を尽くし、ある者は早くから腹心の託しがあった。雲雨の余潤にぬれ、日月の末光に照らされ、天衢を駆け巡り、時と共に昇降した。高位と厚い俸禄は、その子孫に伝えられた。優れていることよ!宇文皛は幼くして宮中で養育され、教義を聞かず、煬帝は礼をもって愛さなかった。その才能が及ばなかったのはこのためであろうか?李安・李悊の高祖に対する関係は、君臣の分が未だ定まっていなかった。その骨肉を陥れ、誅殺に至らしめた。大義親を滅すとは、聞くところこれと異なる。悲しみ悼むところはあれど、何ぞ侃の損なうところがあろうか。