隋書

巻050

卷五十 列傳第十五 宇文慶 李禮成 元孝矩 郭榮 龐晃 李安

卷五十 列傳第十五 宇文慶 李禮成 元孝矩 郭榮 龐晃 李安

原文卷五十列傳第十五 宇文慶 李禮成 元孝矩 郭榮 龐晃 李安 ► 長孫覽

宇文慶

原文宇文慶

宇文慶は、字あざなを神慶といい、河南郡洛陽らくよう県の人である。祖父の金殿は、魏の征南大将軍に任じられ、五州刺史を歴任し、安吉侯に封ぜられた。父の顯和は、夏州刺史であった。慶は沈着深遠にして器量があり、若くして聡明敏活をもって知られた。周の初め、東観で学問を受け、経史に広く通じた。やがて人に言うには、「書物は姓名を記すのに足るのみで、どうして長く筆硯に事え、腐儒の業を為せようか」と。時に文州の民と夷が相集まって乱を起こしたので、慶は募りに応じて征討に従軍した。賊は険しい谷に拠って守り、道は断崖絶壁であったが、慶は馬の足を包んで進み、これを襲撃して破り、功により都督ととくに任ぜられた。衛王直が山南に鎮した時、左右として召し抱えられた。慶は弓射に優れ、胆気があり、猛獣と格闘するのを好み、直は大いにこれを賞賛した。次第に車騎大将軍・儀同三司・柱国府掾に昇進した。宇文護が誅殺された時、慶はその謀議ぼうぎに関与し、驃騎大将軍に進み、開府を加えられた。後に武帝に従って河陰を攻め、真っ先に城壁に登り、賊と短兵相接して戦い、しばらくして石を被り墜落し、気絶した後蘇生した。帝はこれを労って言うには、「卿の余勇は、人に売ることができる」と。再び武帝に従って晋州を陥落させた。その後、斉の大軍が到来し、慶は宇文憲と共に軽騎で偵察に向かい、突然賊と遭遇し、賊に追い詰められた。憲は身を挺して逃げ去り、慶は退いて汾橋を占拠した。賊の群れが争って進むと、慶は弓を引いてこれを射かけ、当たった人馬は必ず倒れたので、賊はようやく少し退いた。高緯を破り、高壁を落とし、并州へいしゅうを平定し、信都を陥れ、高湝を捕らえるに至り、その功績はいずれも最も優れていた。周の武帝は詔して言うには、「慶は勲功が早くから顕著であり、英名と声望は遠くに広がり、朝廷内外での業績は、朕の心に刻まれている。兵車が西より発して以来、共に行陣を統率し、東夏を平定したことは、実に大きな功績である。高位と厚い礼遇は、栄誉を重んじるべきである」と。ここに於いて大将軍に進位し、汝南郡公に封ぜられ、邑千六百戸を賜った。まもなく行軍総管として延安の反乱した胡を撃ち、これを平定し、延州総管に任ぜられた。間もなく寧州総管に転じた。高祖こうそ(楊堅)が丞相となると、再び行軍総管として江南に南征した。軍が白帝に駐屯した時、召還され、その功労により上大将軍に進位した。高祖は慶と旧知の間柄であり、大いに親しく遇し、丞相府の軍事を監督させ、腹心として委ねた。まもなく柱国を加えられた。開皇かいこう初年、左武衛将軍に任ぜられ、上柱国に進位した。数年後、涼州総管として出向した。一年余りして召還されたが、職務には就けなかった。

原文宇文慶,字神慶,河南洛陽人也。祖金殿,魏征南大將軍,仕曆五州刺史、安吉侯。父顯和,夏州刺史。慶沉深有器局,少以聰敏見知。周初,受業東觀,頗涉經史。既而謂人曰:「書足記姓名而已,安能久事筆硯,為腐儒之業!」于時文州民夷相聚為亂,慶應募從征。賊據保岩谷,徑路懸絕,慶束馬而進,襲破之,以功授都督。衛王直之鎮山南也,引為左右。慶善射,有膽氣,好格猛獸,直甚壯之。稍遷車騎大將軍、儀同三司、柱國府掾。及誅宇文護,慶有謀焉,進授驃騎大將軍,加開府。後從武帝攻河陰,先登攀堞,與賊短兵接戰,良久,中石乃墜,絕而後蘇。帝勞之曰:「卿之餘勇,可以賈人也。」複從武帝拔晉州。其後齊師大至,慶與宇文憲輕騎而覘,卒與賊相遇,為賊所窘。憲挺身而遁,慶退據汾橋,眾賊爭進,慶引弓射之,所中人馬必倒,賊乃稍卻。及破高緯,拔高壁,克并州,下信都,禽高湝,功並居最。周武帝詔曰:「慶勳庸早著,英望華遠,出內之績,簡在朕心。戎車自西,俱總行陣,東夏蕩定,實有茂功。高位縟禮,宜崇榮冊。」於是進位大將軍,封汝南郡公,邑千六百戶。尋以行軍總管擊延安反胡,平之,拜延州總管。俄轉甯州總管。高祖為丞相,複以行軍總管南征江表。師次白帝,征還,以勞進位上大將軍。高祖與慶有舊,甚見親待,令督丞相軍事,委以心腹。尋加柱國。開皇初,拜左武衛將軍,進位上柱國。數年,出除涼州總管。歲餘,征還,不任以職。

かつて、帝(楊堅)が潜龍(即位前)の時、ゆったりと慶と天下の事について語り合ったことがあり、帝は慶に言った。「天元(北周宣帝)は実に徳を積んでおらず、その相貌を見るに、寿命も長くはない。加えて法令は煩雑で苛酷であり、声色に耽溺している。我が観るに、まもなく滅びるであろう。また諸侯は微弱で、それぞれ国に赴かせているが、深く根を下ろし本を固める計略は全くない。羽翼を既に切り落とされていて、どうして遠くまで及べようか。尉遅迥は貴戚であり、早くから声望が著しい。国家に隙あらば、必ず乱の端緒となろう。しかし智謀と度量は凡庸で浅く、子弟は軽薄で、貪欲で恩恵が少ないため、結局は滅亡に至るであろう。司馬消難は反覆常なき者で、池中の物でもない。変は瞬時に起こるが、ただ軽薄で謀略がなく、害をなすことはできず、江南に逃げ込むだけである。庸・蜀は険阻で、困難や障害が生じやすい。王謙は愚鈍で、元来から策略がなく、ただ人に誤らされることを恐れるのみで、憂慮するに足りない」と。間もなく、帝の言葉は全て的中した。この時、慶は帝が忘れてしまい、再び任用されないことを恐れ、かつて恩顧を受けたことを示そうと、以前の言葉を全て記録して上表文として奏上した。「臣は聞く、智が造化に等しければ、天地もその霊妙を隠すことができず、明が日月と同じであれば、万物もその様相を蔵することができないと。天に先んじて違わず、実に聖人の道を体する所以であり、未だ兆しの見えざるに先んじて見通すのは、まことに時宜に通じた神妙な機微である。伏して惟るに、陛下は特に生まれながらにして知り、聡明で速やかに天下を治められ、五嶽を抱くもなお軽く、八荒はっこうを呑むも妨げられず、妙なる見識を胸中に蘊し、奇なる謀略を掌握して運用される。臣は微賤の身でありながら、早くから天子の眷顧に逢い、凡庸な下僚であるにもかかわらず、親しく真心を推し量っていただいた。陛下が成されたご計画は、微細な点まで誤りがなく、聖慮を尋ね考えれば、その妙は蓍亀(占い)を超え、一人の慶事が験証されたことは実に徴があり、天子の言葉に戯れがないことを実証した。臣は親しく聞き、親しく見て、実に栄誉であり、実に喜ばしい」と。帝は上表文を覧て大いに喜び、詔を下して言った。「朕と公とは、本来親密であり、心中の思いは隠すところなく、全てを尽くして語った。話したのは年久しいが、なお記憶している。今、表奏を覧て、初めて昔の談話を悟った。どうしてこの言葉が、遂に実録となったのか。古人が禍福を先んじて知ることは、明らかに信じるに足る。朕の言葉が的中したのは、自ら偶然である。公が忘れずにいることは、誠節を一層表しており、深くその厚意を感じ、賞賛してやまない」と。これ以降、帝は常に優れた礼遇を加えた。家で卒去した。

原文初,上潛龍時,嘗從容與慶言及天下事,上謂慶曰:「天元實無積德,視其相貌,壽亦不長。加以法令繁苛,耽恣聲色,以吾觀之,殆將不久。又複諸侯微弱,各令就國,曾無深根固本之計。羽翮既剪,何能及遠哉!尉迥貴戚,早著聲望,國家有釁,必為亂階。然智量庸淺,子弟輕佻,貪而少惠,終致亡滅。司馬消難反覆之虜,亦非池內之物,變成俄頃,但輕薄無謀,未能為害,不過自竄江南耳。庸、蜀險隘,易生艱阻,王謙愚蠢,素無籌略,但恐為人所誤,不足為虞。」未幾,上言皆驗。及此,慶恐上遺忘,不復收用,欲見舊蒙恩顧,具錄前言為表而奏之曰:「臣聞智侔造化,二儀無以隱其靈;明同日月,萬象不能藏其狀。先天弗違,實聖人之體道;未萌見兆,諒達節之神機。伏惟陛下特挺生知,徇齊誕禦,懷五嶽其猶輕,吞八荒而不梗,蘊妙見於胸襟,運奇謨於掌握。臣以微賤,早逢天眷,不以庸下,親蒙推赤。所奉成規,纖毫弗舛,尋惟聖慮,妙出蓍龜,驗一人之慶有徵,實天子之言無戲。臣親聞親見,實榮實喜。」上省表大悅,下詔曰:「朕之與公,本來親密,懷抱委曲,無所不盡。話言歲久,尚能記憶,今覽表奏,方悟昔談。何謂此言,遂成實錄。古人之先知禍福,明可信也,朕言之驗,自是偶然。公乃不忘,彌表誠節,深感至意,嘉尚無已。」自是上每加優禮。卒於家。

子の靜禮は、初め太子千牛備身となり、まもなく高祖の娘の広平公主を娶り、儀同三司に任ぜられ、安德県公に封ぜられ、邑千五百戸を賜り、後に熊州刺史となった。父の慶より先に卒去した。

原文子靜禮,初為太子千牛備身,尋尚高祖女廣平公主,授儀同,安德縣公,邑千五百戶,後為熊州刺史。先慶卒。

子の協は、武賁郎将・右翊衛将軍を歴任し、宇文化及の乱に遭って殺害された。

原文子協,曆武賁郎將、右翊衛將軍,宇文化及之亂遇害。

協の弟の皛は、字を婆羅門ばらもんといい、大業たいぎょうの世、幼少時に宮中で養育された。後に千牛左右となり、煬帝ようだいは大いに親しみ寵愛した。遊宴がある度に、皛は必ず侍従し、寝室の出入りに至るまで、六宮りっきゅうを伺い探り、往来は門禁に制限されず、その恩寵と寵愛はこのようなものであった。当時の人は宇文三郎と呼んだ。皛は宮人と淫乱な行為を行い、妃嬪や公主に至っても醜聞があった。蕭后が帝に言上すると、皛は聞いて恐れ、数日間帝に会おうとしなかった。その兄の協が因みに奏上して言うには、「皛は今や成人しておりますので、宮中に置くことはできません」と。帝は「皛はどこにいるのか」と問うた。協は「朝堂におります」と答えた。帝は彼を罪に問わず、召し入れて、以前のように遇した。宇文化及が弑逆しいぎゃくを起こした際、皛は時に玄覽門におり、変事を察知して、入って奏上しようとしたが、門司に阻まれ、直ちに入ることができなかった。折しも日が暮れ、宮門が閉ざされたので、守っていた所に引き返した。間もなく乱が起こり、皛は五十人を率いて駆けつけたが、乱兵に殺害された。

原文協弟皛,字婆羅門,大業之世,少養宮中。後為千牛左右,煬帝甚親昵之。每有遊宴,皛必侍從,至於出入臥內,伺察六宮,往來不限門禁,其恩幸如此。時人號曰宇文三郎。皛與宮人淫亂,至於妃嬪公主,亦有醜聲。蕭後言於帝,皛聞而懼,數日不敢見。其兄協因奏曰:「皛今已壯,不可在宮掖。」帝曰:「皛安在?」協曰:「在朝堂。」帝不之罪,因召入,待之如初。宇文化及弑逆之際,皛時在玄覽門,覺變,將入奏,為門司所遏,不得時進。會日瞑,宮門閉,退還所守。俄而難作,皛與五十人赴之,為亂兵所害。

李禮成

原文李禮成

李禮成は、字を孝諧といい、隴西郡狄道県の人である。涼王李暠の六世孫である。祖父の延實は、魏の司徒しとであった。父の彧は、侍中であった。禮成は七歳の時、姑の子で蘭陵太守の滎陽けいようの鄭顥と共に魏の武帝(孝武帝)に従って関中に入った。顥の母は常に親しい者に言うには、「この子は平生、振り返ったことがない。必ず大器となろう」と。成長すると、沈着深遠にして行いに慎みがあり、軽々しく賓客と交わらなかった。魏の大統年間、著作郎ちょさくろうに初任し、太子洗馬・員外散騎常侍さんきじょうじに遷った。周が禅譲を受けると、平東将軍・散騎常侍に任ぜられた。当時、貴公子は皆競って弓馬を習い、服装も多く軍装であった。禮成は騎射に優れていたが、ゆったりと儒服を着て、平素からの声望を失わなかった。後に軍功により車騎大将軍・儀同三司に任ぜられ、修陽県侯の爵位を賜り、遷州刺史に任ぜられた。時に朝廷が徴発を行おうとしたが、禮成は蛮夷は擾乱すべきでなく、擾れば必ず乱が起こると考え、上表して強く諫めた。周の武帝はこれに従った。斉を伐つ戦役では、帝に従って晋陽を包囲し、禮成は兵を率いて南門を攻撃した。斉の将軍の席毗羅が精鋭数千を率いて帝を防いだが、禮成は力戦してこれを撃退した。開府を加えられ、冠軍県公に進封され、北徐州刺史に任ぜられた。間もなく、民部中大夫として召還された。

原文李禮成,字孝諧,隴西狄道人也。涼王暠之六世孫。祖延實,魏司徒。父彧,侍中。禮成年七歲,與姑之子蘭陵太守滎陽鄭顥隨魏武帝入關。顥母每謂所親曰:「此兒平生未嘗回顧,當為重器耳。」及長,沉深有行檢,不妄通賓客。魏大統中,釋褐著作郎,遷太子洗馬、員外散騎常侍。周受禪,拜平東將軍、散騎常侍。于時貴公子皆競習弓馬,被服多為軍容。禮成雖善騎射,而從容儒服,不失素望。後以軍功拜車騎大將軍、儀同三司,賜爵修陽縣侯,拜遷州刺史。時朝廷有所徵發,禮成度以蠻夷不可擾,擾必為亂,上表固諫。周武帝從之。伐齊之役,從帝圍晉陽,禮成以兵擊南門,齊將席毗羅率精甲數千拒帝,禮成力戰,擊退之。加開府,進封冠軍縣公,拜北徐州刺史。未幾,征為民部中大夫。

礼成の妻竇氏は早くに亡くなったが、高祖に非凡なる相貌あるを知り、遂に高祖の妹を後妻に迎え、情誼は甚だ歓ばしかりき。高祖が丞相となると、位は上大将軍に進み、司武上大夫に遷り、心膂として委ねられた。高祖が禅譲を受けると、陝州刺史に任じられ、絳郡公に封ぜられ、賞賜は優渥であった。まもなく左衛将軍に召され、右武衛大将軍に遷る。一年余りして、襄州総管として出向し、恵みある政績ありと称された。後数年を経て、再び左衛大将軍となる。時に突厥はしばしば寇患を為し、辺境の要害には多く重臣を委ねた。ここにおいて寧州刺史に任ぜられた。一年余りして、病により京師に召還され、家にて終わる。その子世師は、度支侍郎に至る。

原文禮成妻竇氏早沒,知高祖有非常之表,遂聘高祖妹為繼室,情契甚歡。及高祖為丞相,進位上大將軍,遷司武上大夫,委以心膂。及受禪,拜陝州刺史,進封絳郡公,賞賜優洽。尋征為左衛將軍,遷右武衛大將軍。歲餘,出拜襄州總管,稱有惠政。後數載,複為左衛大將軍。時突厥屢為寇患,緣邊要害,多委重臣,由是拜甯州刺史。歲餘,以疾征還京師,終於家。其子世師,官至度支侍郎。

元孝矩

原文元孝矩

元孝矩は、河南洛陽の人なり。祖父は修義、父は子均、共に魏の尚書僕射ぼくやたり。孝矩は西魏の時に始平県公の爵を襲ぎ、南豊州刺史に任ぜられた。時に周の太祖たいそが政権を専らにして、元氏を危うくせんとするを見て、孝矩は常に慨然として社稷しゃしょくを興し復するの志あり、密かに兄弟に謂いて曰く、「昔、漢氏に諸呂の変ありし時、朱虚・東牟(侯)が遂に劉氏を安んず。今、宇文の心は、路人も見る所なり。顛れんとして扶けずんば、何ぞ宗子を用いん。何ぞ図らざるや」と。兄の則に阻まれて、孝矩は止む。その後、周の太祖が兄の子である晋公宇文護のために孝矩の妹を娶り妻とし、情誼は甚だ密なり。閔帝が禅譲を受けると、宇文護は百揆を総べ、孝矩の寵遇は益々盛んとなる。宇文護が誅せられると、連座して蜀に流される。数年を経て、京師に召還され、益州総管司馬に任ぜられ、司憲大夫に転ず。

原文元孝矩,河南洛陽人也。祖修義,父子均,並為魏尚書僕射。孝矩西魏時襲爵始平縣公,拜南豐州刺史。時見周太祖專政,將危元氏,孝矩每慨然有興複社稷之志,陰謂昆季曰:「昔漢氏有諸呂之變,硃虛、東牟,卒安劉氏。今宇文之心,路人所見,顛而不扶,焉用宗子?盍將圖之?」為兄則所遏,孝矩乃止。其後周太祖為兄子晉公護娶孝矩妹為妻,情好甚密。及閔帝受禪,護總百揆,孝矩之寵益隆。及護誅,坐徙蜀。數戰,征還京師,拜益州總管司馬,轉司憲大夫。

高祖はその門地を重んじ、その女を娶りて房陵王(楊勇)の妃とす。高祖が丞相となると、少塚宰に任じ、位は柱国に進み、洵陽郡公の爵を賜う。時に房陵王は洛陽を鎮守す。高祖が禅譲を受け、皇太子に立てられると、孝矩をして代わりに鎮守せしむ。既にしてその女を皇太子妃に立て、親礼は弥厚し。俄かに夀州総管に任ぜられ、孝矩に璽書を賜いて曰く、「揚州・越の地に妖気あり、辺鄙を侵軼し、桑を争い役を興し、大猷を識らず。公の志は遠略に存す。今、故に辺境を鎮めしむ。礼を以て懐柔し、朕が意に称えよ」と。時に陳の将軍任蛮奴らが屡々江北を寇す。再び孝矩を行軍総管とし、兵を率いて江上に屯す。後数年を経て、自ら年老い、筋力漸く衰え、軍旅に堪えざるを以て、上表して骸骨を乞う。涇州刺史に転ず。高祖は下書して曰く、「謙譲を執るを知る。初服に帰らんことを請う。宝命を恭しく膺けしは、実に元功に頼る。方に委裘せんと欲し、分陝を寄せんとす。何ぞ便に高蹈を請い、独り君子たらんとするや。若し辺境の務め煩わしきを以てせば、即ち宜しく節を涇郡に徙し、徳を養い臥して治むべし」と。州に在ること一年余り、官にて卒す。年五十九。諡して簡と曰う。子の無竭が嗣ぐ。

原文高祖重其門地,娶其女為房陵王妃。及高祖為丞相,拜少塚宰,進位柱國,賜爵洵陽郡公。時房陵王鎮洛陽,及上受禪,立為皇太子,令孝矩代鎮。既而立其女為皇太子妃,親禮彌厚。俄拜夀州總管,賜孝矩璽書曰:「揚、越氛昆,侵軼邊鄙,爭桑興役,不識大猷。以公志存遠略,今故鎮邊服,懷柔以禮,稱朕意焉。」時陳將任蠻奴等屢寇江北,複以孝矩領行軍總管,屯兵于江上。後數載,自以年老,筋力漸衰,不堪軍旅,上表乞骸骨。轉涇州刺史,高祖下書曰:「知執謙捴,請歸初服。恭膺寶命,實賴元功,方欲委裘,寄以分陝,何容便請高蹈,獨為君子者乎!若以邊境務煩,即宜徙節涇郡,養德臥治也。」在州歲餘,卒官,年五十九。諡曰簡。子無竭嗣。

孝矩の兄の子文郁は、『誠節伝』に見ゆ。孝矩の次弟の雅は、字を孝方と云い、文武の幹用あり。開皇年中、左領左右将軍・集州及び沁州の刺史を歴任し、順陽郡公に封ぜられる。末弟の褒は、最も知名なり。

原文孝矩兄子文郁,見《誠節傳》。孝矩次弟雅,字孝方,有文武幹用。開皇中,曆左領左右將軍、集沁二州刺史,封順陽郡公。季弟褒,最知名。

弟 褒

原文弟 褒

褒は字を孝整と云い、弓馬に便にして、少にして成人の器量あり。十歳にして孤となり、諸兄に養育される。性質は友悌にして、諸兄に善く事えり。諸兄が別居を議す。褒は泣いて諫むるも得ず。家は素より富み、金宝多し。褒は何も受けず、身を脱して出で、州里に称せらる。長じて、寛仁大度、書史に渉猟す。周に仕え、開府・北平県公・趙州刺史に至る。高祖が丞相となると、韋孝寬に従い尉遅迥を撃ち、功により柱国に超拜され、河間郡公に進封され、邑二千戸を賜う。開皇二年、安州総管に任ぜられる。一年余りして、原州総管に転ず。商人が賊に劫掠せられ、その者は同宿の者を疑いこれを執る。褒はその色冤にして言正しきを察し、遂にこれを釈す。商人は闕に詣でて褒が金を受け賊を放ったと訟う。上は使者を遣わして窮治せしむ。使者は簿責して褒に曰く、「何ぞ故に金を利して盗を捨つるや」と。褒は即ち引咎し、初め異なる言無し。使者と褒は共に京師に詣で、坐して官を免ぜらる。その盗賊は尋いで他所に発覚す。上は褒に謂いて曰く、「公は朝廷の旧人、位望隆重なり。金を受け盗を捨つるは善き事に非ず。何ぞ自ら誣わるに至るや」と。対えて曰く、「臣は一州を委ねられ、盗賊を息ます能わず。是れ臣が罪の一なり。州民が人に謗られ、法司に付さず、懸け即ち放免す。是れ臣が罪の二なり。愚誠を牽率し、形跡を顧みず、文書の約束を恃まず、至って物に疑わるるを令す。是れ臣が罪の三なり。臣に三つの罪あり。何れの責めにか逃れん。臣又賄賂を受けたるを言わざれば、使者は復た窮究せんとす。然らば縲絏(拘束)横に良善に及び、重臣の罪と為さん。是を以て自ら誣わるなり」と。上は歎異し、長者と称す。十四年、行軍総管として兵を屯し辺備を為す。遼東の役には、復た行軍総管として漢王に従い柳城に至りて還る。仁寿じんじゅ初め、嘉州の夷・獠が寇す。褒は歩騎二万を率いて撃ち平げる。煬帝即位し、斉州刺史に任ぜられ、尋いで斉郡太守に改められ、吏民安んず。遼東の役を興すに及び、郡官で事を督むる者前後相属す。西曹掾一人当に行くべきも、詐りて疾とす。褒が詰むるに、掾は理屈す。褒はこれを杖つ。掾は遂に大言して曰く、「我れ行在所に詣で、告げんと欲する所あり」と。褒は大いに怒り、因りて百余回杖ち、数日にして死す。これに坐して官を免ぜらる。家にて卒す。時に年七十三。

原文褒字孝整,便弓馬,少有成人之量。年十歲而孤,為諸兄所鞠養。性友悌,善事諸兄。諸兄議欲別居,褒泣諫不得,家素富,多金寶,褒無所受,脫身而出,為州裡所稱。及長,寬仁大度,涉獵書史。仕周,官至開府、北平縣公、趙州刺史。及高祖為丞相,從韋孝寬擊尉迥,以功超拜柱國,進封河間郡公,邑二千戶。開皇二年,拜安州總管。歲餘,徙原州總管。有商人為賊所劫,其人疑同宿者而執之,褒察其色冤而辭正,遂舍之。商人詣闕訟褒受金縱賊,上遣使窮治之。使者簿責褒曰:「何故利金而舍盜也?」褒便即引咎,初無異詞。使者與褒俱詣京師,遂坐免官。其盜尋發於他所,上謂褒曰:「公朝廷舊人,位望隆重,受金舍盜非善事,何至自誣也?」對曰:「臣受委一州,不能息盜賊,臣之罪一也。州民為人所謗,不付法司,懸即放免,臣之罪二也。牽率愚誠,無顧形跡,不恃文書約束,至令為物所疑,臣之罪三也。臣有三罪,何所逃責?臣又不言受賂,使者複將有所窮究,然則縲絏橫及良善,重臣之罪,是以自誣。」上歎異之,稱為長者。十四年,以行軍總管屯兵備邊。遼東之役,複以行軍總管從漢王至柳城而還。仁壽初,嘉州夷、獠為寇,褒率步騎二萬擊平之。煬帝即位,拜齊州刺史,尋改為齊郡太守,吏民安之。及興遼東之役,郡官督事者前後相屬,有西曹掾當行,詐疾,褒詰之,掾理屈,褒杖之,掾遂大言曰:「我將詣行在所,欲有所告。」褒大怒,因杖百餘,數日而死,坐是免官。卒于家,時年七十三。

郭栄

原文郭榮

郭栄は、字を長栄と云い、自ら云うに太原の人なり。父の徽は、魏の大統末年に同州司馬たり。時に武元皇帝(楊忠)が刺史たりし故に、高祖と旧交あり。徽は後に洵州刺史・安城県公に至る。高祖が禅譲を受けると、太僕卿に任ぜられ、数年を経て官にて卒す。栄は容貌魁岸、外は疎にして内は密なり。これと交わる者多く之を愛す。周の大塚宰宇文護が親信として引き立てる。護は栄の謹厚きんこうなるを察し、中外府水曹参そうしん軍に抜擢す。時に斉が屡々侵寇す。護は栄をして汾州にて賊の形勢を観察せしむ。時に汾州と姚襄鎮とは懸隔して遠し。栄は二城孤迥にして、勢い相救わざるを以て、州鎮の間に更に一城を築き、以て相控摂せんことを請う。護はこれに従う。俄かに斉の将軍段孝先が姚襄・汾州の二城を攻め陥とす。唯だ栄の築きし城のみ独り能く自守す。護は浮橋を作り、兵を出して河を渡り、孝先と戦う。孝先は上流に大筏を放ちて浮橋を撃たしむ。護は栄に便水者を督せしめて其の筏を引き取らしむ。功により大都督を授かる。護は又、稽胡が数々寇乱を為すを以て、栄をしてこれを綏集せしむ。栄は上郡・延安に周昌・弘信・広安・招遠・咸寧等の五城を築き、以てその要路を遏えしむ。稽胡は是れによりて寇す能わず。武帝が親しく万機を総べ、宣納中士に任ぜらる。後に帝に従い斉を平げ、戦功により、馬二十匹、綿絹六百段を賜い、平陽県男に封ぜられ、司水大夫に遷る。

原文郭榮,字長榮,自雲太原人也。父徽,魏大統末為同州司馬。時武元皇帝為刺史,由是與高祖有舊。徽後官至洵州刺史、安城縣公。及高祖受禪,拜太僕卿,數年,卒官。榮容貌魁岸,外疏內密,與其交者多愛之。周大塚宰宇文護引為親信。護察榮謹厚,擢為中外府水曹參軍。時齊寇屢侵,護令榮於汾州觀賊形勢。時汾州與姚襄鎮相去懸遠,榮以為二城孤迥,勢不相救,請於州鎮之間更築一城,以相控攝,護從之。俄而齊將段孝先攻陷姚襄、汾州二城,唯榮所立者獨能自守。護作浮橋,出兵渡河,與孝先戰。孝先於上流縱大筏以擊浮橋,護令榮督便水者引取其筏。以功授大都督。護又以稽胡數為寇亂,使榮綏集之。榮于上郡、延安築周昌、弘信、廣安、招遠、咸寧等五城,以遏其要路,稽胡由是不能為寇。武帝親總萬機,拜宣納中士。後從帝平齊,以戰功,賜馬二十匹,綿絹六百段,封平陽縣男,遷司水大夫。

栄は少時に高祖と親狎し、情誼極めて歓ばしかりき。嘗て高祖と夜坐し月下にて、因りて従容として栄に謂いて曰く、「吾れ玄象を仰ぎ観、人事を俯して察するに、周の暦は已に尽き、我れ其れ代わらん」と。栄は深く自ら結納す。宣帝崩御し、高祖が百揆を総べ、栄を召し、その背を撫でて笑いて曰く、「吾が言、験あらざるや」と。即ち相府楽曹参軍に任ず。俄かに本官のまま復た蕃部大夫を領す。高祖が禅譲を受けると、内史舎人に引き立てられ、龍潜の旧交により、蒲城郡公の爵に進み、上儀同の位を加えらる。累遷して通州刺史に至る。仁寿初め、西南の夷・獠多く叛く。詔して栄に八州諸軍事行軍総管を領せしめ、兵を率いて討たしむ。一年余りして悉く平定し、奴婢三百余口を賜う。

原文榮少與高祖親狎,情契極歡,嘗與高祖夜坐月下,因從容謂榮曰:「吾仰觀玄象,俯察人事,周曆已盡,我其代之。」榮深自結納。宣帝崩,高祖總百揆,召榮,撫其背而笑曰:「吾言驗未?」即拜相府樂曹參軍。俄以本官複領蕃部大夫。高祖受禪,引為內史舍人,以龍潛之舊,進爵蒲城郡公,加位上儀同。累遷通州刺史。仁壽初,西南夷、獠多叛,詔榮領八州諸軍事行軍總管,率兵討之。歲餘悉平,賜奴婢三百餘口。

煬帝が即位すると、郭榮は召されて武候驘騎將軍となり、厳正さをもって知られた。数年後、黔安の首領田羅駒が清江に拠って乱を起こし、夷陵の諸郡では民や夷人が多くこれに呼応したため、詔により郭榮がこれを討ち平らげた。左候衛將軍に遷る。帝に従って西征し吐谷渾を討ち、銀青光禄大夫を拝命した。遼東の役では、功により位を進めて左光禄大夫となった。翌年、帝が再び遼東に出兵しようとしたとき、郭榮は中国が疲弊していると考え、天子の車駕がたびたび動くべきではないとし、帝に言上して曰く、「戎狄が礼を失うのは、臣下の務めであります。臣は聞きます、千鈞の弩は鼷鼠のために発機せず、どうして親しく大駕を辱くして小寇に臨むことがありましょうか」と。帝は聞き入れなかった。再び軍に従って遼東城を攻め、郭榮は自ら矢石を蒙り、昼夜甲冑を解かず百余日を過ごした。帝はしばしば人を遣わして諸将の行動を窺わせたが、郭榮がこのようであると知り、帝は大いに喜び、たびたび労い励ました。九年、帝が東都に至り、郭榮に謂いて曰く、「公は年徳次第に高く、久しく行陣に身を置くべきではない。公に一郡を与えよう、任地は選ぶがよい」と。郭榮は離れることを望まず、頓首して辞退を陳べ、言葉と情は哀切で、帝の心を動かした。そこで右候衛大將軍を拝命した。数日後、帝は百官に謂いて曰く、「誠心純一にして至れること郭榮の如きは、固より比ぶるものなし」と。そのように信頼されたのである。楊玄感の乱のとき、帝は馳せて太原を守らせた。翌年、再び帝に従って柳城に至り、病に罹った。帝はその容態を尋ねさせ、中使は途絶えることがなかった。懐遠鎮で卒去した。時に六十八歳。帝はそのために朝を廃し、兵部尚書を追贈し、諡して恭と曰い、贈り物千段を賜った。子に福善あり。

原文煬帝即位,入為武候驃騎將軍,以嚴正聞。後數歲,黔安首領田羅駒阻清江作亂,夷陵諸郡,民夷多應者,詔榮擊平之。遷左候衛將軍。從帝西征吐谷渾,拜銀青光祿大夫。遼東之役,以功進位左光祿大夫。明年,帝複事遼東,榮以為中國疲敝,萬乘不宜屢動,乃言於帝曰:「戎狄失禮,臣下之事。臣聞千鈞之弩不為鼷鼠發機,豈有親辱大駕以臨小寇?」帝不納。複從軍攻遼東城,榮親蒙矢石,晝夜不釋甲胄百餘日。帝每令人窺諸將所為,知榮如是,帝大悅,每勞勉之。九年,帝至東都,謂榮曰:「公年德漸高,不宜久涉行陣,當與公一郡,任所選也。」榮不願違離,頓首陳讓,辭情哀苦,有感帝心,於是拜為右候衛大將軍。後數日,帝謂百僚曰:「誠心純至如郭榮者,固無比矣。」其見信如此。楊玄感之亂,帝令馳守太原。明年,複從帝至柳城,遇疾,帝令存問動靜,中使相望。卒于懷遠鎮,時年六十八。帝為之廢朝,贈兵部尚書,諡曰恭,贈物千段。有子福善。

龐晃

原文龐晃

龐晃は、字を元顯といい、榆林の人である。父の虯は、周の驘騎大將軍であった。晃は若くして良家の子として、刺史杜達に召し出されて州都督に補された。周の太祖が関中を有するに及んで、晃を大都督に任じ、親信の兵を率いさせ、常に左右に置いた。晃はこれにより関中に移り住んだ。後に驘騎將軍に遷り、比陽侯の爵を襲った。衛王直が襄州に出鎮すると、晃は本官のまま従った。まもなく長湖公元定とともに江南を撃ち、孤軍深入して遂に陣中に没した。数年後、衛王直が晃の弟の車騎將軍元俊に絹八百匹を持たせて贖わせ、ようやく帰朝することができた。上儀同を拝し、彩二百段を賜り、再び衛王に仕えた。

原文龐晃,字元顯,榆林人也。父虯,周驃騎大將軍。晃少以良家子,刺史杜達召補州都督。周太祖既有關中,署晃大都督,領親信兵,常置左右。晃因徙居關中。後遷驃騎將軍,襲爵比陽侯。衛王直出鎮襄州,晃以本官從。尋與長湖西元定擊江南,孤軍深入,遂沒於陣。數年,衛王直遣晃弟車騎將軍元俊齎絹八百匹贖焉,乃得歸朝。拜上儀同,賜彩二百段,複事衛王。

時に高祖が随州刺史として出向する途次、襄陽を経過した。衛王は晃をして高祖のもとに詣でさせた。晃は高祖が常人ならざることを知り、深く結び付いた。高祖が官を去って京師に帰るとき、晃は襄邑で高祖を迎えて会った。高祖は大いに喜び、晃は高祖に申し上げて曰く、「公の相貌は並々ならず、名は図籙に在り。九五の位につかれる日、幸いに忘れ給わざらんことを」と。高祖は笑って曰く、「何という妄言か」と。しばらくして、一羽の雄雉が庭で鳴いた。高祖は晃にこれを射させて曰く、「当たれば賞を与えよう。然れども富貴の日には、これを証とせよ」と。晃が射て当てると、高祖は手を打って大笑いし曰く、「これは天意である。公がこれを感じて当てたのだ」と。そこで二人の婢を賜い、情誼は甚だ密接であった。武帝の時、晃は常山太守となり、高祖は定州総管となり、たびたび往来した。やがて高祖が亳州総管に転じ、出発しようとして、意気甚だ悦ばしからなかった。晃は高祖に申し上げて曰く、「燕・代は精兵の地、今もし衆を動かせば、天下は図るに足りましょう」と。高祖は晃の手を握って曰く、「時は未だ可ならず」と。晃もまた車騎將軍に転じた。高祖が揚州総管となると、晃を同行させるよう奏上した。やがて高祖が丞相となると、晃の位を開府に進め、左右を督させることを命じ、甚だ親しく遇された。帝位に即くと、晃に謂いて曰く、「雉を射た符験、今日験わされたか」と。晃は再拝して曰く、「陛下は天に応じ民に順い、宇内に君臨せられ、なお昔の言葉を憶え給うこと、慶び躍るに勝えません」と。上は笑って曰く、「公のこの言葉、どうして忘れようか」と。まもなく上開府を加えられ、右衛將軍を拝し、爵を公に進められ、邑千五百戸を賜った。河間王弘が突厥を撃つとき、晃は行軍総管として従い馬邑に至った。別路より賀蘭山に出て、賊を撃ち破り、千余級を斬首した。

原文時高祖出為隨州刺史,路經襄陽,衛王令晃詣高祖。晃知高祖非常人,深自結納。及高祖去官歸京師,晃迎見高祖于襄邑。高祖甚歡,晃因白高祖曰:「公相貌非常,名在圖籙。九五之日,幸願不忘。」高祖笑曰:「何妄言也!」頃之,有一雄雉鳴于庭,高祖命晃射之,曰:「中則有賞。然富貴之日,持以為驗。」晃既射而中,高祖撫掌大笑曰:「此是天意,公能感之而中也。」因以二婢賜之,情契甚密。武帝時,晃為常山太守,高祖為定州總管,屢相往來。俄而高祖轉亳州總管,將行,意甚不悅。晃因白高祖曰:「燕、代精兵之處,今若動眾,天下不足圖也。」高祖握晃手曰:「時未可也。」晃亦轉為車騎將軍。及高祖為揚州總管,奏晃同行。既而高祖為丞相,進晃位開府,命督左右,甚見親待。及踐阼,謂晃曰:「射雉之符,今日驗不?」晃再拜曰:「陛下應天順民,君臨宇內,猶憶曩時之言,不勝慶躍。」上笑曰:「公之此言,何得忘也!」尋加上開府,拜右衛將軍,進爵為公,邑千五百戶。河間王弘之擊突厥也,晃以行軍總管從至馬邑。別路出賀蘭山,擊賊破之,斬首千餘級。

晃の性質は剛悍であり、時に広平王雄が権勢を握り、その勢いは朝廷を傾けるほどであったが、晃はたびたびこれを陵侮した。かつて軍中で臥していたとき、雄を見ても起立せず、雄はこれを甚だ恨んだ。また高熲とも不和があり、二人はたびたび晃を讒言した。このため宿衛十余年、官は進まず、出て懐州刺史となり、数年して原州総管に遷った。仁寿年間に在官のまま卒した。七十二歳。高祖はそのために朝を廃し、贈り物三百段、米三百石を賜り、諡して敬と曰う。子の長寿は頗る名を知られ、官は驘騎將軍に至った。

原文晃性剛悍,時廣平王雄當途用事,勢傾朝廷,晃每陵侮之。嘗於軍中臥,見雄不起,雄甚銜之。複與高熲有隙,二人屢譖晃。由是宿衛十餘年,官不得進。出為懷州刺史,數歲,遷原州總管。仁壽中卒官,年七十二。高祖為之廢朝,贈物三百段,米三百石,諡曰敬。子長壽,頗知名,官至驃騎將軍。

李安

原文李安

李安は、字を玄德といい、隴西狄道の人である。父の蔚は、周に仕えて朔燕恆三州刺史・襄武縣公となった。安は姿儀美しく、騎射に巧みであった。周の天和年間、初めて官に就き右侍上士となり、襄武公の爵を襲った。まもなく儀同・少師右上士を授けられた。高祖が丞相となると、左右に引き立て、職方中大夫に遷った。また安の弟の悊を儀同に拝した。安の叔父の梁州刺史璋は、時に京師におり、周の趙王と謀って高祖を害そうとし、悊を誘って内応させようとした。悊は安に言った、「寝せておけば不忠、言い出せば不義、忠と義を失えば、何をもって身を立てようか」と。安は曰く、「丞相は父のようなもの、どうして背けようか」と。そこで密かにこれを申し出た。趙王らが誅せられたとき、官賞を加えようとしたが、安は頓首して言った、「兄弟は汗馬の労なく、過分に獎擢を受け、一家を挙げて節を尽くしても、酬いることができません。思いがけず叔父が無状にも、凶党に惑わされ、宗を覆し嗣を絶つこと、その甘きこと薺の如し。首領を全うすること、幸い実に多く、どうして叔父の命をもって官賞を求めましょうか」と。そこで俯伏して流涕し、悲しみに堪えなかった。高祖はこれに対して顔色を改めて曰く、「われ汝のために特に璋の子を存えん」と。そこで有司ゆうしに命じて罪を璋一身に止めさせ、高祖もまた安のためにその事を隠して言わなかった。まもなく安に開府を授け、趙郡公に進封し、悊は上儀同・黄台縣男となった。

原文李安,字玄德,隴西狄道人也。父蔚,仕周為朔燕恆三州刺史、襄武縣公。安美姿儀,善騎射。周天和中,釋褐右侍上士,襲爵襄武公。俄授儀同、少師右上士。高祖作相,引之左右,遷職方中大夫。複拜安弟悊為儀同。安叔父梁州刺史璋,時在京師,與周趙王謀害高祖,誘悊為內應。悊謂安曰:「寢之則不忠,言之則不義,失忠與義,何以立身?」安曰:「丞相父也,其可背乎?」遂陰白之。及趙王等伏誅,將加官賞,安頓首而言曰:「兄弟無汗馬之勞,過蒙獎擢,合門竭節,無以酬謝。不意叔父無狀,為凶黨之所蠱惑,覆宗絕嗣,其甘若薺。蒙全首領,為幸實多,豈可將叔父之命以求官賞?」於是俯伏流涕,悲不自勝。高祖為之改容曰:「我為汝特存璋子。」乃命有司罪止璋身,高祖亦為安隱其事而不言。尋授安開府,進封趙郡公,悊上儀同、黃台縣男。

高祖が即位すると、安に内史侍郎を授け、尚書左丞・黄門侍郎に転じた。陳平定の役では、楊素の司馬とし、行軍総管を兼ねて、蜀兵を率いて流れに順って東下した。時に陳軍が白沙に屯していた。安は諸将に謂って曰く、「水戦は北人の長ずるところにあらず。今、陳人は険に依りて船を泊め、必ず我を軽んじて備えなからん。夜襲を以てすれば、賊は破れん」と。諸将は然りと認めた。安は衆を率いて先鋒となり、大いに陳軍を破った。高祖はこれを嘉し、詔書を以て労って曰く、「陳賊の意、自ら水戦を長と為すと謂い、険隘の間、いよいよ官軍の憚るところと謂えり。開府親しく将として所部を率い、夜舟師を動かし、賊徒を摧破し、虜衆を生擒す。官軍の気を益し、賊人の胆を破る。朕の委ぬる所に副い、聞きて欣然たり」と。位上大將軍に進み、郢州えいしゅう刺史を除かれた。数日後、鄧州刺史に転じた。安は内職を請うたので、高祖はその意に逆らい難く、左領左右將軍を除した。まもなく右領軍りょうぐん大將軍に遷り、また悊を開府儀同三司・備身將軍に拝した。兄弟ともに禁衛を掌り、恩信甚だ重かった。八年、突厥が塞を犯すと、安を行軍総管とし、楊素に従ってこれを撃たせた。安は別に長川より出て、虜が河を渡るのに会い、戦ってこれを破った。仁寿元年、安を出して寧州刺史とし、悊を衛州刺史とした。安の子の瓊、悊の子の瑋は、繈褓の時より宮中で乳養され、この時年八九歳になって初めて家に帰すことを命じられた。そのように親しく顧みられたのである。

原文高祖即位,授安內史侍郎,轉尚書左丞、黃門侍郎。平陳之役,以為楊素司馬,仍領行軍總管,率蜀兵順流東下。時陳人屯白沙,安謂諸將曰:「水戰非北人所長。今陳人依險泊船,必輕我而無備。以夜襲之,賊可破也。」諸將以為然。安率眾先鋒,大破陳師。高祖嘉之,詔書勞曰:「陳賊之意,自言水戰為長,險隘之間,彌謂官軍所憚。開府親將所部,夜動舟師,摧破賊徒,生擒虜眾,益官軍之氣,破賊人之膽,副朕所委,聞以欣然。」進位上大將軍,除郢州刺史。數日,轉鄧州刺史。安請為內職,高祖重違其意,除左領左右將軍。俄遷右領軍大將軍,複拜悊開府儀同三司、備身將軍。兄弟俱典禁衛,恩信甚重。八年,突厥犯塞,以安為行軍總管,從楊素擊之。安別出長川,會虜渡河,與戰破之。仁壽元年,出安為甯州刺史,悊為衛州刺史。安子瓊,悊子瑋,始自繈褓,乳養宮中,至是年八九歲,始命歸家。其見親顧如是。

高祖はかつて宰相であった時の事柄に言及し、李安兄弟が親族を犠牲にして国に奉じたことを哀れみ、詔を下して曰く、「先王は教えを立て、義をもって恩を断ち、親愛の情を切り捨て、君に事える道を尽くす。これによって大節を広く奨励し、この至公の精神を体現するのである。かつて周の暦運が既に尽き、天命が将に及ぼうとした時、朕が登庸したばかりで、王業の基礎が初めて築かれた。この末世を承け、奸宄の輩が実に多くいた。上大将軍・寧州刺史・趙郡公李安は、その叔父の李璋が密かに藩枝(諸侯勢力)と結び、猶子(甥)を扇動して惑わし、不逞の志を包み隠し、禍の機が将に発せんとしていた。李安とその弟の開府儀同三司・衛州刺史・黄台県男の李悊は、深く順逆を知り、丹心を披瀝し、凶悪な謀略が既に明らかになると、罪人を捕らえることができた。朕は常にその誠実な節義を思い、褒め称えてやむことがなく、功績を顕彰し賞を与えることは、時を過ぎてはならない。しかし事がその親族に関わるため、なお疑惑があり、李安らが名教の立場から、自ら処するに余地があるようにしたいと、朕は常に思案を重ねたため、ついに数年を経過してしまった。今さらに聖典を詳しく按じ、往事に求めると、父子の天性でさえ、誠と孝は並び立たない。ましてや叔父と甥の間の恩は軽く、情と礼には本来差等がある。私を忘れて国に奉ずることは、深く正しい道理を得ている。旧功を記録し、重ねて賞命を広く与えるべきである。」と。そこで李安と李悊をともに柱国に任じ、それぞれ絹五千匹、馬百匹、羊千頭を賜った。また李悊を備身将軍とし、順陽郡公に進封した。李安は親族に言った、「家門は全うされたが、叔父は禍に遭った。今この詔を奉じるに当たり、悲しみと慚愧の念が交錯する。」と。そこで嘆息して悲しみ、自ら堪えることができなかった。以前から水腫の病を患っていたが、この時病状が重くなって卒去した。時に五十三歳。諡は懐といった。子の李瓊が後を嗣いだ。末子の李孝恭が最も有名である。李悊は後に事に坐して除名され、嶺南に配流されて防禦に当たらせられたが、道中で病没した。

原文高祖嘗言及作相時事,因湣安兄弟滅親奉國,乃下詔曰:「先王立教,以義斷恩,割親愛之情,盡事君之道,用能弘獎大節,體此至公。往者周曆既窮,天命將及,朕登庸惟始,王業初基,承此澆季,實繁奸宄。上大將軍、甯州刺史、趙郡公李安,其叔璋潛結籓枝,扇惑猶子,包藏不逞,禍機將發。安與弟開府儀同三司、衛州刺史、黃台縣男悊,深知逆順,披露丹心,凶謀既彰,罪人斯得。朕每念誠節,嘉之無已,懋庸冊賞,宜不逾時。但以事涉其親,猶有疑惑,欲使安等名教之方,自處有地,朕常為思審,遂致淹年。今更詳按聖典,求諸往事,父子天性,誠孝猶不並立,況複叔侄恩輕,情禮本有差降,忘私奉國,深得正理,宜錄舊勳,重弘賞命。」於是拜安、悊俱為柱國,賜縑各五千匹,馬百匹,羊千口。複以悊為備身將軍,進封順陽郡公。安謂親族曰:「雖家門獲全,而叔父遭禍,今奉此詔,悲愧交懷。」因歔欷悲感,不能自勝。先患水病,於是疾甚而卒,時年五十三。諡曰懷。子瓊嗣。少子孝恭,最有名。悊後坐事除名,配防嶺南,道病卒。

【論】

原文【論】

史臣曰く、宇文慶らは、龍が潜んでいた頃からの旧臣であり、昔からの親戚縁者である。ある者は平素から平生の言葉を尽くし、ある者は早くから腹心の託しがあった。雲雨の余潤にぬれ、日月の末光に照らされ、天衢を駆け巡り、時と共に昇降した。高位と厚い俸禄は、その子孫に伝えられた。優れていることよ!宇文皛は幼くして宮中で養育され、教義を聞かず、煬帝は礼をもって愛さなかった。その才能が及ばなかったのはこのためであろうか?李安・李悊の高祖に対する関係は、君臣の分が未だ定まっていなかった。その骨肉を陥れ、誅殺に至らしめた。大義親を滅すとは、聞くところこれと異なる。悲しみ悼むところはあれど、何ぞ侃の損なうところがあろうか。

原文史臣曰:宇文慶等,龍潛惟舊,疇昔親姻,或素盡平生之言,或早有腹心之托。沾雲雨之餘潤,照日月之末光,騁步天衢,與時升降。高位厚秩,貽厥後昆,優矣!皛幼養宮中,未聞教義,煬帝愛之不以禮,其能不及於此乎?安、悊之于高祖,未有君臣之分,陷其骨肉,使就誅夷,大義滅親,所聞異於此矣。雖有悲悼,何損於侃。