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隋書
卷四十九列傳第十四 牛弘
牛弘
牛弘、字は里仁、安定郡鶉觚県の人である。本来の姓は尞氏であった。祖父の熾は、郡の中正を務めた。父の允は、魏において侍中・工部尚書・臨涇公に任じられ、牛氏の姓を賜った。弘がまだ幼児の頃、相見の者がこれを見て、その父に言うには、「この子は貴くなるであろう、大切に養育せよ」と。成長すると、鬚と容貌は甚だ立派で、性質は寛大で、学問を好み博識であった。周において、中外府記室・内史上士として起用された。まもなく納言上士に転じ、専ら文書を掌り、甚だ美称があった。威烈将軍・員外散騎侍郎を加えられ、起居注を修めた。その後、臨涇公の爵位を襲封した。宣政元年、内史下大夫に転じ、使持節・大将軍・儀同三司に進んだ。
開皇の初め、散騎常侍・秘書監に遷任された。弘は典籍が散逸していることを以て、上表して献書の道を開くことを請い、言うには、
上はこれを容れ、ここに詔を下し、書物一卷を献上すれば縑一匹を与えるとした。一二年の間に、篇籍は次第に整った。奇章郡公に進爵し、邑千五百戸を賜った。
三年、礼部尚書に任じられ、勅を奉じて五礼を修撰し、百巻にまとめて当世に行われた。弘は古制に依って明堂を修立することを請い、上議して言うには、
上は時事が草創であり、制作に及ぶ暇がないとして、ついに取りやめとなって行われなかった。
六年、太常卿に除かれた。九年、詔して雅楽を改定し、また楽府歌詞を作り、円丘五帝凱楽を撰定し、併せて楽事を議し、弘は上議して云うには、
上は言うには、「旋相為宮を作る必要はなく、ただ黄鐘一均を作ればよい」と。弘はまた六十律が行えないことを論じた。
また議して言うには、
上はその議を甚だ善しとし、弘に詔して姚察・許善心・何妥・虞世基らと新楽を正定させた。事は音律志にある。この後、明堂を置くことを議し、弘に詔して故事を条上させ、その得失を議させた。事は礼志にある。上は弘を甚だ敬重した。
時に楊素は才を恃み貴を矜り、朝臣を軽侮したが、ただ弘を見る時は未だ嘗て容色を改め自ら粛然としないことはなかった。素が突厥を撃たんとする時、太常を詣でて弘と別れを言った。弘は素を中門まで送って止まった。素は弘に言うには、「大将が出征するので、別れを述べに来たのに、どうして送るのがこんなに近いのか」と。弘はそこで揖して退いた。素は笑って言うには、「奇章公は、その智は及ぶべく、その愚は及ぶべからず、と言えよう」と。弘もまたこれを気にかけなかった。
まもなく大将軍を授けられ、吏部尚書に任じられた。時に高祖はまた弘に命じて、楊素・蘇威・薛道衡・許善心・虞世基・崔子発らと共に諸儒を召集し、新礼の降殺軽重を論議させた。弘の立てた議は、衆皆これを推服した。仁寿二年、献皇后が崩御し、三公以下その儀注を定めることができなかった。楊素は弘に言うには、「公は旧学であり、時賢の仰ぐところである。今日のことは、決するのは公にある」と。弘は少しも辞譲せず、瞬く間に儀注ことごとく整い、皆故実があった。素は歎じて言うには、「衣冠礼楽は尽くここにある。我が及ぶところではない」と。弘は三年の喪において、祥と禫に降殺があるのに、朞服が十一月で練を行うのは、象法する所がないとして、高祖に聞かせた。高祖はこれを容れた。詔を下して朞練の礼を除いたのは、弘に始まる。弘が吏部に在った時、その選挙は先ず德行を重んじ、後に文才を重んじ、審慎を務めた。停緩を招くことになっても、進用する者は皆多くその職に称していた。吏部侍郎の高孝基は、鑑賞機敏で、清慎比類なく、しかし爽俊に余りがあり、行跡は軽薄に似ていた。時の宰相は多くこれを以て彼を疑った。ただ弘のみが深くその真価を識り、心を推して委任した。隋の選挙は、この時に最も優れていた。時の論はますます弘の識度の遠大さを服した。
煬帝が東宮に在った時、しばしば詩書を弘に贈り、弘もまた返答した。帝位を嗣いだ後、嘗て弘に詩を賜って言うには、「晋家の山吏部、魏世の盧尚書、先哲の異なるを言う莫れ、奇才並びに余を佐く。学行は時俗を敦くし、道素は乃ち沖虚、納言雲閣の上、礼儀皇運の初め。彝倫欣として序有り、垂拱して事端居す」と。同じく詩を賜られた者の中で、文詞の赞扬において、弘ほど美しい者はなかった。大業二年、上大将軍に進んだ。三年、右光禄大夫に改めた。恒岳に拝するに従い、壇場・珪幣・墠畤・牲牢は、皆弘の定めるところであった。太行山を下って帰る時、煬帝は嘗て弘を内帳に引き入れ、皇后に対面させて同席の飲食を賜った。その礼遇親重はこのようであった。弘はその諸子に言うには、「我は非常の遇を受け、恩を荷うこと深重である。汝ら子孫は、誠敬を以て自立し、以て恩遇の隆盛に答えるべきである」と。六年、江都行幸に従った。その年の十一月、江都郡で卒した。時に六十六歳であった。帝は傷み惜しみ、賵贈は甚だ厚かった。安定に帰葬し、開府儀同三司・光禄大夫・文安侯を追贈し、諡して憲といった。
牛弘は栄寵を当世に受けながらも、車や衣服は質素で、上には礼を尽くし、下には仁をもって接し、言葉は訥弁ながら行動は敏速であった。上(文帝)がかつて勅を宣するよう命じたところ、弘は階下に至って言葉が出ず、退いて拝謝し、『すっかり忘れてしまいました』と言った。上は、『伝言のような細かい弁舌は、もとより宰相の任ではない』と言い、ますますその質直さを称えた。大業の世(煬帝の時代)には、任用と信任はますます厚くなった。性質は寛厚で、学問に志篤く、職務が繁雑であっても書を手放さなかった。隋室の旧臣で、終始信任を受け、悔いや過ちが及ばなかったのは、ただ牛弘一人のみである。弟に弼という者がおり、酒を好んで酔って乱暴し、かつて酔った勢いで、弘の車を引く牛を射殺した。弘が宅に帰ると、妻が迎えて言うには、『叔父様が牛を射殺されました』。弘はこれを聞いても、怪しんだり問いただしたりせず、ただ『干し肉にせよ』と答えた。座に着くと、妻がまた言うには、『叔父様が突然牛を射殺されるとは、大変な異事です』。弘は、『すでに知っている』と言い、顔色は平然として、読書をやめなかった。その寛和さはこのようなものであった。文集十三巻が世に行われている。
長子の方は方大、これまた学業があり、官は内史舎人に至った。次子の方は方裕、性質は凶険で、人の心がなく、江都に従幸し、裴虔通らと共謀して逆を弑し、事は司馬徳戡伝に見える。
【論】
史臣が言う。牛弘は墳籍(古典)を篤く好み、学優れて仕え、淡雅の風があり、曠遠の度を抱き、百王の損益を採り、一代の典章を成した。漢の叔孫通でさえ、これを上回ることはできまい。省闥(宮中)に綢繆すること三十余年、平穏と危険とにかかわらず変わらず、終始に際(隔て)がない。物を開き務めを成すことはその長ずるところではなかったが、澄ませても清くならず、混ぜても濁らず、大雅の君子と言うべきである。子は実に才なく、崇高な基を構えず、紀を干し義を犯して、家風を墜とす。惜しいことである。