楊素
楊素、字は處道、弘農郡華陰県の人である。祖父の暄は、魏の輔国将軍・諫議大夫であった。父の敷は、周の汾州刺史となり、斉にて戦死した。素は若い頃より落拓として大志を抱き、小節に拘らず、世間の多くは彼を知らなかったが、ただ従叔祖の魏の尚書僕射の楊寛のみが深く異才を認め、常に子孫に言うには、「處道は群を抜き、類い稀なる人物で、並みの器量ではない。お前たちの及ぶところではない」と。後に安定の牛弘と志を同じくして学問を好み、研究に精励して倦まず、広く諸学に通じた。文章をよくし、草書・隷書に巧みで、風角の術にも留意した。美しい鬚髯をたくわえ、英傑の風貌があった。周の大塚宰宇文護が彼を中外記室に抜擢し、後に礼曹に転じ、大都督を加えられた。武帝が親政を始めると、素は父が節を守って斉に殉じながら、朝廷の恩命を受けていないことを理由に上表して弁明したが、帝は許さなかった。再三に及ぶと、帝は大いに怒り、左右の者に命じて斬らせようとした。素はそこで大声で言うには、「臣が無道の天子に仕えるのは、死ぬのも本分である」と。帝はその言葉に感心し、これにより敷に大将軍を追贈し、諡を忠壮とした。素を車騎大将軍・儀同三司に任じ、次第に礼遇されるようになった。帝が素に詔書を作らせたところ、筆を下ろせばたちまち完成し、文辞と内容ともに優れていた。帝はこれを賞賛し、素を見て言うには、「よく自ら励め。富貴に恵まれないことを憂うるな」と。素は即座に答えて言うには、「臣はただ富貴が臣を追いかけてくることを恐れるのみで、臣は富貴を図る心はありません」と。
斉平定の戦役において、素は父の麾下の兵を率いて先鋒を務めることを願い出た。帝はこれに従い、竹の鞭を賜って言うには、「朕はまさに大いに卿を駆り立てようとしている。故にこの物を賜るのだ」と。斉王宇文憲に従って河陰で斉軍と戦い、功により清河県子に封ぜられ、邑五百戸を賜った。その年に司城大夫に任ぜられた。翌年、再び憲に従って晋州を陥落させた。憲が軍を雞棲原に駐屯させると、斉の主(後主)が大軍を率いて到着し、憲は恐れて夜遁走し、斉兵に追撃されて兵士の多くは敗走散乱した。素は驍将十余人と力を尽くして苦戦し、憲はかろうじて逃れることができた。その後、戦うごとに功があった。斉が平定されると、上開府を加えられ、成安県公に改封され、邑千五百戸を賜り、粟帛・奴婢・雑畜を賜った。王軌に従って呂梁で陳の将軍呉明徹を破り、東楚州の事務を治めた。弟の慎を義安侯に封じた。陳の将軍樊毅が泗口に城を築くと、素はこれを撃退し、毅の築いた城を破壊した。宣帝が即位すると、父の爵位である臨貞県公を襲封し、弟の約を安成公に封じた。まもなく韋孝寬に従って淮南を巡行し、素は別軍を率いて盱眙・鍾離を陥落させた。
上方(文帝)が江表(江南)の地を図ろうとしていた折、先だって、素はしばしば陳を攻め取る策を進言していた。間もなく、信州総管に任ぜられ、銭百万・錦千段・馬二百匹を賜って派遣された。素は永安に駐屯し、大艦を建造し、五牙と名付け、上に五層の楼を築き、高さ百余尺、左右前後に六本の拍竿を設置し、いずれも高さ五十尺、戦士八百人を収容し、旗幟をその上に掲げた。次を黄龍といい、兵百人を配置した。そのほか平乗・舴艋など大小さまざまな船を造った。大挙して陳を伐つこととなり、素を行軍元帥とし、水軍を率いて三硤に向かわせた。軍が流頭灘に至ると、陳の将軍戚欣が青龍百余艘を率い、兵数千人を屯させて狼尾灘を守り、進軍路を遮った。その地は険阻で、諸将はこれを憂いた。素は言うには、「勝負の大計は、この一举にある。もし昼間に船を下れば、敵は我々を見るであろう。灘の流れは迅急で、制御は人の意のままにならず、我々は有利な機会を失う」と。そこで夜襲をかけた。素は自ら黄龍数千艘を率い、枚を銜ませて下り、開府王長襲に歩卒を率いさせ南岸から戚欣の別柵を攻撃させ、大将軍劉仁恩に甲騎を率いさせ白沙の北岸に向かわせた。夜明け頃に到着して攻撃し、戚欣は敗走した。その兵を全て捕虜としたが、労をねぎらって帰し、秋毫も犯さず、陳の人々は大いに喜んだ。素は水軍を率いて東下し、船艦は江を覆い、旌旗と甲冑は日に輝いた。素は平乗の大船に坐し、容貌雄偉で、陳の人々はこれを見て恐れて言うには、「清河公こそは江の神である」と。陳の南康内史呂仲肅が岐亭に屯し、まさに江峡を押さえ、北岸の岩に穴を穿ち、三条の鉄鎖を繋いで上流を横断し、戦船の進行を阻んでいた。素と仁恩は上陸してともに進発し、まずその柵を攻めた。仲肅の軍は夜潰走し、素はゆるやかにその鎖を取り除いた。仲肅は再び荊門の延洲に拠った。素は巴蜒の兵卒千人を遣わし、五牙四艘に乗せ、柏檣で賊の十余艦を粉砕し、ついにこれを大破し、甲士二千余人を捕虜とし、仲肅はただ一身を免れたのみであった。陳の主(後主)はその信州刺史顧覚を遣わして安蜀城を鎮守させ、荊州刺史陳紀を公安に鎮守させたが、皆恐れて退走した。巴陵以東、敢えて守る者はなかった。湘州刺史・岳陽王陳叔慎は使者を遣わして降伏を請うた。素は下って漢口に至り、秦孝王(楊俊)と会合した。帰還後、荊州総管に任ぜられ、爵は郢国公に進み、邑三千戸を賜り、真食として長寿県千戸を加えられた。その子の玄感を儀同とし、玄奨を清河郡公に封じた。物一万段、粟一万石を賜り、金宝を加え、さらに陳の主の妹及び女妓十四人を賜った。素は上(文帝)に言上して言うには、「里の名が勝母であれば、曾子は入らなかった。逆臣の王誼が以前に郢に封ぜられました。臣は彼と同じ封号を望みません」と。そこで越国公に改封された。まもなく納言に任ぜられた。一年余りして、内史令に転じた。
間もなく江南の人李稜らが徒党を組んで乱を起こし、大なるものは数万、小なるものは数千で、互いに呼応し、長吏を殺害した。素を行軍総管とし、兵を率いて討伐させた。賊の朱莫問は南徐州刺史を自称し、盛んな兵をもって京口に拠った。素は水軍を率いて楊子津から進入し、進撃してこれを破った。晋陵の顧世興は太守を自称し、その都督鮑遷らとともに再び来て抗戦した。素は迎撃してこれを破り、鮑遷を捕らえ、三千余人を捕虜とした。進撃して無錫の賊帥葉略を討ち、またこれを平定した。呉郡の沈玄懀・沈傑らが兵をもって蘇州を包囲し、刺史皇甫績は頻りに戦って利あらず。素は兵を率いてこれを救援し、玄懀は追い詰められ、南沙の賊帥陸孟孫のもとに逃げ込んだ。素は松江で孟孫を撃ち、大破し、孟孫・玄懀を生け捕りにした。黟歙の賊帥沈雪・沈能が柵に拠って自らを固守したが、またこれを攻め落とした。浙江の賊帥高智慧は東揚州刺史を号し、船艦千艘をもって要害の地に屯拠し、兵は甚だ精強であった。素はこれを撃ち、朝から申の刻(午後4時頃)まで苦戦して破った。智慧は海に逃れ込んだ。素はこれを追撃し、余姚から海を渡って永嘉に向かった。智慧が来て抗戦したが、素は撃退し、数千人を擒獲した。賊帥汪文進は天子を自称し、東陽に拠り、その徒の蔡道人を司空に任じて楽安を守らせた。進軍討伐し、ことごとく平定した。また永嘉の賊帥沈孝徹を破った。ここにおいて陸路で天台に向かい、臨海郡を指し、逃散した残賊を追捕した。前後百余戦し、智慧は閩越に逃れて守った。
帝は楊素が久しく外で労苦していることを以て、詔を下して駅伝を馳せて朝廷に入らせた。子の玄感に上開府の官を加え、彩物三千段を賜う。楊素は残賊が未だ殄滅せず、後患とならんことを恐れ、また自ら出陣を請う。そこで詔を下して曰く、「朕は百姓を憂労し、日暮れても食を忘れ、一物もその所を失えば、情は深く納隍の思いなり。江外の狂狡、妄りに妖逆を構え、既に殄除を経たれども、民は未だ安堵せず。なお賊首凶魁あり、山洞に逃亡し、その聚結を恐れ、重ねて蒼生を擾わさん。内史令・上柱国・越国公楊素は、識は古今に達し、経謀は長遠に及び、比来曾て推轂され、旧より威名著しく、宜しく大兵を任じ、総て元帥と為し、朝風を宣布し、威武を振揚し、叛亡を擒剪し、黎庶を慰労すべし。軍民事務は、一にこれを委ぬ。」楊素はまた駅伝に乗って会稽に至る。先に、泉州の人王國慶は、南安の豪族なり、刺史劉弘を殺し、州を拠えて乱を為し、諸々の亡賊皆これに帰す。自ら海路の艱阻を以て、北人の習う所に非ずとし、設備の兵伍を設けず。楊素は海を渡って掩い至り、國慶は遑遽し、州を棄てて走り、余党は海島に散入し、或いは溪洞を守る。楊素は諸将を分遣し、水陸より追捕す。乃ち密かに人をして國慶に謂わしめて曰く、「爾の罪状は、計らうに誅を容れず。唯だ智慧を斬りて送るのみ以て、責を塞ぐべし。」國慶はここに智慧を執り送り、泉州にて斬る。自余の支党は、悉く来たり降附し、江南大いに定まる。帝は左領軍将軍獨孤陀を遣わして浚儀に至り迎え労う。京師に到るに及び、問う者日に至る。楊素の子玄奨を儀同に拝し、黄金四十斤を賜い、銀瓶を加え、金銭を以て実たせ、縑三千段、馬二百匹、羊二千口、公田百頃、宅一区を賜う。蘇威に代わって尚書右僕射と為り、高熲と専ら朝政を掌る。
楊素の性は疎にして弁あり、高下は心に在り、朝臣の内、頗る高熲を推し、牛弘を敬い、薛道衡を厚く接し、蘇威を蔑如す。自余の朝貴は、多く陵轢せらる。その才芸風調は、高熲に優れ、推誠体国に至り、物を処するに平当なること、宰相の識度有るは、熲に及ばざること遠し。
尋で楊素に仁寿宮の監営を令す。楊素は遂に山を夷げ谷を堙め、役を督すること厳急にして、作者多く死に、宮側に時に鬼哭の声を聞く。宮成るに及び、帝は高熲をして前に視させしむ。奏して称す、頗る綺麗を傷つけ、人丁を大いに損ずと。高祖悦ばず。楊素は特に懼れ、計る所出でず、即ち北門にて獨孤皇后に啓して曰く、「帝王の法に離宮別館有り、今天下太平、此の一宮を造る、何ぞ損費に足らんや。」后は此の理を以て上に諭す。上の意乃ち解く。ここに於て銭百万、錦絹三千段を賜う。
十八年、突厥の達頭可汗塞を犯す。楊素を以て霊州道行軍総管と為し、塞を出てこれを討たしむ。物二千段、黄金百斤を賜う。先に、諸将虜と戦う毎に、胡騎の奔突を慮り、皆戎車と歩騎と相参じ、輿に鹿角を為して方陣とし、騎を其の内に在らしむ。楊素人に謂いて曰く、「此れ乃ち自固の道にして、勝を取るの方に非ず。」ここに於て旧法を悉く除き、諸軍に騎陣を為さしむ。達頭これを聞きて大いに喜び、曰く、「此れ天の我に賜う所なり。」因りて馬を下り天を仰ぎて拝し、精騎十余万を率いて至る。楊素奮撃し、大いにこれを破る。達頭重創を受け遁れ、殺傷算うべからず、群虜号哭して去る。優詔を以て褒揚し、縑二万匹及び万釘宝帯を賜う。子の玄感の位を大将軍に加え、玄奨・玄縦・積善並びに上儀同とす。
楊素は権略多く、機に乗じて敵に赴き、応変方無し。然れども大抵戎を馭すること厳整にして、軍令を犯す者有れば立ってこれを斬り、寛貸する所無し。毎に将に寇に臨まんとすれば、輒ち人の過失を求めてこれを斬り、多きは百余、少なくも十数に下らず。流血前に盈ち、言笑自若たり。其の陣に対するに及び、先ず一二百人を令して敵に赴かしめ、陣を陷れば則ち已む。如し陣を陷ること能わずして還る者は、多少を問わず、悉くこれを斬る。又た三二百人を令して復た進ましめ、還ること向の法の如し。将士股慄し、必死の心有り、ここに由りて戦いて勝たざること無く、名将と称せらる。楊素時には貴幸にして、言うこと従わざる無し。其の楊素に従い征伐する者は、微功必ず録し、他の将に至りては、大功有りと雖も、多く文吏の譴卻する所と為る。故に楊素は厳忍と雖も、士も亦此を以て従わんことを願う。
二十年、晋王広、霊朔道行軍元帥と為り、楊素は其の長史と為る。王は卑躬して以て楊素に交わる。太子と為るに及びしは、楊素の謀なり。
仁寿初め、高熲に代わって尚書左僕射と為り、良馬百匹、牝馬二百匹、奴婢百口を賜う。其の年、楊素を行軍元帥と為し、雲州を出て突厥を撃ち、連ねてこれを破る。突厥退走す。騎を率いて追躡し、夜に至りて之に及ぶ。将に復た戦わんとす。賊の越逸を恐れ、其の騎をして稍後らしむ。ここに於て親ら両騎を将い、並びに突厥二人を降し、虜と並行し、之を覚えず。其の頓舍未だ定まらざるを候い、後騎を趣して掩撃し、大いにこれを破る。是より突厥遠く遁れ、磧南に復た虜庭無し。功を以て子の玄感の位を柱国に進め、玄縦を淮南郡公と為す。物二万段を賞す。
及び献皇后崩じ、山陵の制度は、多く楊素より出づ。上これを善しとし、詔を下して曰く、
並びに田三十頃、絹万段、米万石、金鉢一(金を以て実たす)、銀鉢一(珠を以て実たす)、並びに綾錦五百段を賜う。
及び上不豫に及び、楊素は兵部尚書柳述・黄門侍郎元巖等と閤に入り疾に侍る。時に皇太子大宝殿に入居し、上に不諱有らんことを慮り、須らく防擬を豫すべく、乃ち手ずから書を為し、封じて出して楊素に問う。楊素は事状を録出して以て太子に報ず。宮人誤って上の所に送る。上これ覧て大いに恚る。寵する所の陳貴人又た太子の無礼を言う。上遂に怒を発し、庶人勇を召さんと欲す。太子之を楊素に謀る。楊素は詔を矯って東宮の兵士を追い、上臺に帖して宿衛せしめ、門禁の出入は、並びに宇文述・郭衍の節度を取り、又た張衡に疾に侍らしむ。上此の日に崩ず。ここに由りて頗る異論有り。
漢王楊諒が反乱を起こし、茹茹天保を派遣して蒲州を占拠させ、河橋を焼き断った。また王聃子に数万の兵を率いさせて力を合わせて防がせた。楊素は軽騎五千を率いてこれを襲い、密かに渭口に潜み夜間に渡河し、夜明け前にこれを撃ち、天保は敗走し、聃子は恐れて城を降した。詔があり、召還された。初め、楊素が出発する際、賊を破る日数を計算したが、すべてその量るところの通りであった。帝はここにおいて楊素を并州道行軍総管・河北安撫大使とし、数万の兵を率いて楊諒を討たせた。当時、晋州・絳州・呂州の三州はともに楊諒のために城を守っていたが、楊素はそれぞれ二千人ずつを留めてこれを拘束し、去った。楊諒は趙子開に十余万の兵を擁させ、道を絶ち、高壁に屯して陣を布き五十里に及んだ。楊素は諸将に兵を臨ませ、自らは奇兵を率いて霍山に潜入し、崖谷に沿って進み、直ちにその陣営を指し、一戦にしてこれを破り、数万を殺傷した。楊諒が任命した介州刺史梁修羅が介休に屯していたが、楊素の到着を聞き、恐れて城を棄てて逃走した。進んで清源に至り、并州から三十里のところで、楊諒はその将王世宗・趙子開・蕭摩訶らを率い、兵およそ十万で、来て防戦した。またこれを撃破し、蕭摩訶を生け捕りにした。楊諒は退いて并州を守り、楊素は進軍してこれを包囲し、楊諒は窮迫して降伏し、残党はすべて平定された。帝は楊素の弟の修武公楊約を遣わし、手詔を携えて楊素を労うに言うには、
「公は先朝の功臣にして、勲功はよく盛んである。皇基の草創に至り、百事ただ始まるに、便ち単騎で朝廷に帰し、誠と識見と兼ね至る。汴部・鄭州においては、風が秋の笹の葉を巻くが如く、荊南・塞北においては、火が原を燎くが如く、早く殊勲を建て、夙に誠節を著す。及び朝廷に献替し、衆人の瞻望するに允当たり、朕が躬を弼けて、時難を済すに及びては、昔の周勃・霍光も、何をもってかこれに加えんや!賊は蒲州を窃拠し、関梁断絶す。公は少をもって衆を撃ち、期日を指して平殄す。高壁は嶺に拠り、官軍に抗拒す。公は深謀をもって、その不意に出で、霧のごとく廓け雲のごとく除かれ、氷のごとく消え瓦のごとく解け、長駆北邁し、直ちに巣窟を趣く。晋陽の南に、蟻のごとき徒数万、楊諒は力を量らず、なお斧を挙げんと欲す。公は棱威を外に討ち、憤りを内に発し、身を忘れて義に殉じ、親しく矢石に当たる。兵刃暫く交わるや、魚のごとく潰え鳥のごとく散じ、僵屍野を蔽い、積甲山のごとし。楊諒は遂に窮城を守り、鈇鉞に抗拒す。公は驍勇を董え率い、四面より攻囲し、その戦わんと欲するも敢えず、走らんと求むるも路無からしめ、智力ともに尽き、面を縛して軍門に至らしむ。将を斬り旗を搴ぎ、叛を伐ち服を柔う。元悪既に除かれ、東夏清晏たり。嘉き庸茂んなる績は、ここに在り。昔、武安君が趙を平げ、淮陰侯が斉を定むるも、豈に公の遠くして労せず、速やかにして克く捷つに若かんや!朕は殷く憂え諒闇にあり、親しく六軍を御するを得ず、上庠に道を問うこと未だ能わず、遂に行陣に劬労せしむ。言これを念うに、寝食を忘るること無し。公は累世の元勳を建て、一心の確志を執る。古人に言有り、『疾風勁草を知り、世乱れに誠臣有り』と。公はこれを得たり。乃ちこれを常鼎に銘す、豈に勲を竹帛に書くに止まらんや!功績よく諧い、哽歎已むこと無し。稍く冷えたり、公宜しくせよ。軍旅の務め殷く、殊に労慮すべきに当たる。故に公の弟を遣わし、往きて懐いを宣べしむ。迷塞にして次第せず。」
楊素は上表して陳謝して言うには、
楊素は建策及び楊諒平定の功有りと雖も、然れども特に帝に猜忌せられ、外には殊礼を示し、内情は甚だ薄し。太史が隋の分野に大喪有りと言うにより、因って楚に改封す。楚は隋と分を同じくす。これをもって当がんと欲す。楊素が臥病の日、帝は毎に名医をして診候せしめ、上薬を賜う。然れども密かに医人に問い、常に死なざるを恐る。楊素また自ら名位已に極まるを知り、薬を服せず、また慎まんとせず、毎に弟の楊約に語りて曰く、「我れ豈に更に活くを須いんや」と。楊素は財貨を貪り冒し、産業を営み求む。東西の二京に、居宅侈麗、朝に毀ち夕に復し、営繕已むこと無し。及び諸方の都会の処、邸店・水磑並びに利ある田宅千百数に及び、時の議これをもってこれを鄙しむ。子の玄感嗣ぐ。別に伝有り。諸子は皆玄感に坐して誅死す。
楊素の弟 楊約
楊約、字は惠伯、楊素の異母弟なり。童児の時、嘗て樹に登りて地に堕ち、木のささくれに傷つけられ、ここによりて竟に宦者となる。性は沈静を好み、内に譎詐多し。学を好み記すことに強し。楊素はこれを友愛し、凡そ為すところ有れば、必ず先ず楊約に籌りて後にこれを行えり。周の末に、楊素の軍功により、爵を安成県公に賜い、上儀同三司を拝す。高祖(文帝)禅を受け、長秋卿を授く。久しくして、邵州刺史となり、入って宗正少卿となり、転じて大理少卿となる。
時に皇太子(楊勇)は寵愛なく、晋王広(楊広)は宗(太子の地位)を奪わんと謀り、楊素が上(文帝)に寵遇され、かつ楊約を深く信じていることを知った。そこで張衡の計を用い、宇文述に命じて多額の金宝を楊約に贈り賄賂し、王(晋王)の意を通じさせて、彼を説いて言った。「正しきを守り道を履むことは、固より人臣の常の致すところであるが、経に反して義に合うことも、達者たる者の善き謀りごとである。古より賢人君子は、時に応じて消長し、禍患を避けざるはない。公の兄弟(楊素と楊約)は、功名世に蓋い、権勢を握り政務を執ること、すでに年久しい。朝臣で足下の家に屈辱を受けた者は、数え切れぬほどではあるまいか。また儲宮(皇太子)は、己の欲するところ行われず、毎に執政者(楊素ら)を切歯している。公は自ら人主(文帝)に結びついているとはいえ、公を危うくせんとする者もまた確かに多い。主上(文帝)が一旦群臣を棄てられれば(崩御されれば)、公は何をもって庇護を得られようか。今、皇太子は皇后(独孤皇后)に愛を失い、主上は元より廃立の心をお持ちである。これは公の知るところである。今もし晋王の立太子を請うならば、賢兄(楊素)の口一つにかかっている。誠にこの時に乗じて大功を立てられれば、王は必ず骨髄に銘記し、これにより累卵の危うきを去り、泰山の安きを成すであろう。」楊約はこれを然りとし、楊素に告げた。楊素は元より凶険な性格であり、これを聞いて大いに喜び、手を打って答えて言った。「我が智慮は、全くここまで及ばなかった。汝に頼って我を起こさせた。」楊約はその計が行われると知り、さらに楊素に言った。「今、皇后の言葉は、上(文帝)が用いられぬことはない。機会に乗じて早く自ら結び託すべきである。そうすれば、ただ長く栄禄を保つだけでなく、福祚を子孫に伝え、また晋王は身を傾けて士を礼遇し、声名は日々盛んとなり、自ら節倹を実践し、主上の風範がある。私の見るところでは、必ず天下を安んずることができよう。兄がもし躊躇して、一旦事変があれば、太子が政務を執ることとなり、恐らく禍いの来る日なきに至らん。」楊素は遂にその策を行い、太子は果たして廃された。
晋王(楊広)が東宮に入ると、楊約を引き立てて左庶子とし、修武県公に改封し、位を進めて大将軍とした。楊素が高祖(文帝)に疎まれると、楊約を出して伊州刺史とした。仁寿宮に入朝し、高祖の崩御に遇い、(煬帝は)楊約を遣わして朝廷に入らせ、留守の者を交代させ、庶人勇(楊勇)を縊殺させ、その後兵を陳べ衆を集め、高祖の凶問(崩御の報)を発した。煬帝はこれを聞いて言った。「令兄(楊素)の弟は、果たして大任に堪える。」即位して数日後、内史令に任じた。楊約は学術あり、時務にも通達しており、帝は甚だ重任した。後数年して、位を加えて右光禄大夫とした。
後に帝が東都に在った時、楊約に命じて京師に赴き宗廟を祭らせた。華陰に行き至り、その兄(楊素)の墓を見て、わざわざ道をそれて拝礼し哭した。これにより憲司に弾劾され、この罪で免官された。間もなく、淅陽太守に任じられた。その兄の子玄感が、時に礼部尚書であり、楊約とは恩義甚だ篤かった。悲しみ別離の情は、顔色に現れた。帝は彼に言った。「公は近頃憔悴しているが、叔父(楊約)のためではないか。」玄感は再拝して涙を流し言った。「誠に聖旨の通りでございます。」帝もまた楊約が廃立に功があったことを思い、これにより朝廷に召し入れた。間もなく卒去し、楊素の子玄挺を後継ぎとした。
楊素の従父 文思
文思の弟 文紀
史臣曰く
史臣曰く、楊素は若い時より軽侠で、俶儻として羈絆されず、文武の資質を兼ね、英奇の謀略を包み、志は遠大を懐き、功名を以て自ら期した。高祖が龍飛し、六合を清めんとし、腹心の奇材として許し、常に推彀の重きに当たらせた。牛斗(呉の地)の妖気を掃い、江海に波なく、龍庭(匈奴の地)の驍騎を摧き、匈奴を遠く遁走させた。その凶徒を夷え乱を静むるを考うるに、功臣としてその右に出る者なし。その奇策高文を覧るに、足って一時の傑と為す。しかし専ら智詐を以て自ら立つこと、仁義の道によらず、時に阿諛し、その心を高下す。離宮を営構し、君を奢侈に陥れ、冢嫡の廃立を謀り、国を傾危に致す。終いには宗廟を丘墟とし、市朝に霜露を降らしめ、その禍敗の源を究めれば、実に素に由るのである。幸いに死を得たが、子が乱の階梯となり、墳土未だ乾かず、闔門殂戮し、丘隴発掘され、宗族誅夷せられた。すなわち悪を積めば余殃あり、信じて徒語にあらずと知る。礼なきことを多く行えば必ず自らに及ぶ、そのこれを謂うか。楊約は外に温柔を示し、内に狡算を懐き、蛇に足を画き、終いには国本を傾け、遺育なからしめた。宜なるかな。