隋書

巻047

卷四十七列傳第十二 韋世康 柳機

卷四十七列傳第十二 韋世康 柳機

原文卷四十七列傳第十二 韋世康 柳機 ► 楊素

韋世康

原文韋世康

韋世康は、京兆杜陵の人である。代々関西の名族であった。祖父の旭は、魏の南幽州刺史であった。父の夐は、隠居して仕官せず、魏・周の二代にわたり、十度招聘されても出仕せず、逍遙公と号された。世康は幼い頃から沈着で聡明、器量と風格があった。十歳の時、州から主簿に辟召された。魏においては、弱冠で直寢となり、漢安県公に封ぜられ、周の文帝ぶんていの娘である襄楽公主を娶り、儀同三司を授けられた。後に周に仕え、典祠下大夫から沔・硤の二州刺史を歴任した。武帝に従って斉を平定し、司州総管長史を授けられた。当時、東夏は平定されたばかりで、民衆は安堵しておらず、世康がこれを慰撫したので、士民ともに喜んだ。一年余りして、民部中大夫として中央に入り、上開府に進み、司会中大夫に転じた。

原文韋世康,京兆杜陵人也,世為關右著姓。祖旭,魏南幽州刺史。父夐,隱居不仕,魏、週二代,十征不出,號為逍遙公。世康幼而沉敏,有器度。年十歲,州辟主簿。在魏,弱冠為直寢,封漢安縣公,尚周文帝女襄樂公主,授儀同三司。後仕周,自典祠下大夫曆沔、硤二州刺史。從武帝平齊,授司州總管長史。于時東夏初定,百姓未安,世康綏撫之,士民胥悅。歲餘,入為民部中大夫,進位上開府,轉司會中大夫。

尉遅迥が乱を起こした時、高祖こうそ(隋の文帝)はこれを憂慮し、世康に言った。「汾州・絳州はかつて周と斉の分界であり、この乱をきっかけに、動揺が生じる恐れがある。今これを公に委ねる。よく我がために守ってくれ。」そこで絳州刺史を授け、その高潔な声望をもって当地を鎮めさせた。すると全州が清く粛然とした。世康の性格は恬淡で質素、古風を好み、得失を心にかけなかった。州にあって、かつて慨然として足るを知る志を抱き、子弟に手紙を書いて言った。「私は先祖の余沢により生を受け、早くから官職に就き、馳せ回ることをやめず、既に四十八年になる。たびたび三公の位に登り、頻繁に地方長官を務め、三惑(酒・色・財)を除くことを志し、四知(天知・神知・我知・子知)を慎む心で、不貪を宝とし、膏脂(利益)の中にあっても潤うことがなかった。このようなことは、世に広く知られている。今、老齢にはまだ達していないが、壮年は既に過ぎ去り、霜は梧桐や楸に早く、風は蒲や柳に先んじる。眼はますます暗く、細かい字あざなは見えず、足の病は増すばかりで、走ることはできない。俸禄は多くを要せず、満ちることを防いで退くべきであり、年は暮れを待たず、病があれば辞すべきである。況や母は年齢が既に高く、温凊(冬温夏凊、孝養)を奉ずべきであり、晨昏(朝夕の孝養)に欠けることがあれば、罪はこの身にある。今、世穆・世文はともに軍役に従っており、私と世沖はまた遠方の任に就いている。山に登って父母を望み見るこの思いは、ますます切実であり、桓山の悲しみ(兄弟離散の悲しみ)は、常の慕情を倍する。思いを上聞に達し、孝養の礼を乞いたいと思うが、汝らの意見をまだ聞いていないので、この手紙を送る。遠くを思い慕う言葉を発すれば、感極まって咽び、耐えがたい。」諸弟は事が成就するのは難しいだろうと返答したので、そこで思いとどまった。

原文尉迥之作亂也,高祖憂之,謂世康曰:「汾、絳舊是周、齊分界,因此亂階,恐生搖動。今以委公,善為吾守。」因授絳州刺史,以雅望鎮之,闔境清肅。世康性恬素好古,不以得喪幹懷。在州嘗慨然有止足之志,與子弟書曰:「吾生因緒餘,夙沾纓弁,驅馳不已,四紀於茲。亟登袞命,頻蒞方嶽,志除三惑,心慎四知,以不貪而為寶,處膏脂而莫潤。如斯之事,頗為時悉。今耄雖未及,壯年已謝,霜早梧楸,風先蒲柳。眼暗更劇,不見細書,足疾彌增,非可趨走。祿豈須多,防滿則退,年不待暮,有疾便辭。況娘春秋已高,溫清宜奉,晨昏有闕,罪在我躬。今世穆、世文並從戎役,吾與世沖複嬰遠任,陟岵瞻望,此情彌切,桓山之悲,倍深常戀。意欲上聞,乞遵養禮,未訪汝等,故遣此及。興言遠慕,感咽難勝。」諸弟報以事恐難遂,於是乃止。

在任数年、恵みある政治を行い、考課の上奏が連続して最上となり、礼部尚書に抜擢された。世康は嗜欲が少なく、貴勢を羨まず、地位や声望をもって人を見下すことはなかった。人の善行を聞けば、自分がしたかのように喜び、また人の過失をあからさまにして、名誉を求めることもなかった。まもなく上庸郡公に爵位を進め、封邑は二千五百戸に至った。その年、吏部尚書に転じ、他の官職はもとのままとした。四年(開皇かいこう四年)、母の喪に服して職を去った。喪期が終わらないうちに、出仕して政務を見るよう命じられた。世康は固く請い、私的な喪服期間を終えることを乞うたが、皇帝は許さなかった。世康が吏部にあった時、人材の選抜任用は公平で、私的な依頼は通らなかった。開皇七年、江南(陳)を征討しようとし、方鎮(地方の軍事拠点)を重視する議論があり、襄州刺史に任ぜられた。事に坐して免官された。まもなく、安州総管を授かり、ほどなく信州総管に遷った。十三年、朝廷に入り、再び吏部尚書に任ぜられた。前後十余年の間、多く人材を進め抜擢し、朝廷では廉潔公平と称された。かつて休暇の折、子弟に言った。「功を成して身を退くのは、古人の常道だと聞く。今年で耳順(六十歳)に近づき、引退を志している。汝らはどう思うか。」子の福嗣が答えて言った。「父上は身を洗い徳を浴び、名声を立て官を成し、満ち溢れることへの戒めは、先哲が重んじるところです。二疏(疏広・疏受)の跡を追いたいと存じ、謹んでご命令を承ります。」後に宴会に侍した際、世康は再拝して辞任を申し出て言った。「臣は寸尺の功もなく、位は台鉉(三公)に次いでおります。今、犬馬の齢は衰え、聖明の時世に益するところなく、露に先立つ(死ぬ)ことを恐れ、その責めを塞ぐことができません。願わくば骸骨を乞い、賢能に道を譲り退きたい。」皇帝は言った。「朕は日夜、賢人を求めて渇望し、公と共に天下を治め、太平をもたらさんことを望んでいる。今の願いは、朕の本望に深く背く。たとえ筋骨が衰えようとも、なお公を屈して一隅を臥して治めてもらいたい。」そこで出向して荊州総管に任ぜられた。当時、天下には四大総管のみを置き、并州へいしゅう・揚州・益州の三州は、いずれも親王が統治し、ただ荊州のみを世康に委ねた。当時の論評はこれを美事とした。世康の政治は簡素で静謐であり、民衆はこれを愛し喜び、全州に訴訟はなかった。十七年、任地で卒去した。時に六十七歳。皇帝はこれを聞いて痛惜し、贈賻(葬儀の贈り物)は甚だ厚かった。大将軍を追贈し、諡して文といった。

原文在任數年,有惠政,奏課連最,擢為禮部尚書。世康寡嗜欲,不慕貴勢,未嘗以位望矜物。聞人之善,若己有之,亦不顯人過咎,以求名譽。尋進爵上庸郡公,加邑至二千五百戶。其年轉吏部尚書,餘官如故。四年,丁母憂去職。未期,起令視事。世康固請,乞終私制,上不許。世康之在吏部,選用平允,請托不行。開皇七年,將事江南,議重方鎮,拜襄州刺史。坐事免。未幾,授安州總管,尋遷為信州總管。十三年,入朝,複拜吏部尚書。前後十餘年間,多所進拔,朝廷稱為廉平。嘗因休暇,謂子弟曰:「吾聞功遂身退,古人常道。今年將耳順,志在懸車,汝輩以為雲何?」子福嗣答曰:「大人澡身浴德,名立官成,盈滿之誠,先哲所重。欲追蹤二疏,伏奉尊命。」後因侍宴,世康再拜陳讓曰:「臣無尺寸之功,位亞台鉉。今犬馬齒濆,不益明時,恐先朝露,無以塞責。願乞骸骨,退避賢能。」上曰:「朕夙夜庶幾,求賢若渴,冀與公共治天下,以致太平。今之所請,深乖本望,縱令筋骨衰謝,猶屈公臥治一隅。」於是出拜荊州總管。時天下唯置四大總管,並、揚、益三州,並親王臨統,唯荊州委于世康,時論以為美。世康為政簡靜,百姓愛悅,合境無訟。十七年,卒于州,時年六十七。上聞而痛惜之,贈賻甚厚。贈大將軍,諡曰文。

世康の性格は孝行で友愛に厚く、初め諸弟の地位がみな高く貴いのに、末弟の世約だけが官途で成功せず、共に父の時代からの田宅を全て彼に与えたので、世間はその義を称えた。

原文世康性孝友,初以諸弟位並隆貴,獨季弟世約宦途不達,共推父時田宅盡以與之,世多其義。

長子の福子は、官は司隸別駕に至った。次子の福嗣は、内史舎人に至ったが、後に罪を得て罷免された。楊玄感が乱を起こした時、兵をもって東都を脅かし、福嗣は衛玄に従って城北で戦ったが、軍は敗れ、玄感に捕らえられた。玄感は彼に檄文を作らせたが、その文辞は甚だ不遜であった。まもなく玄感を裏切って東都に戻ったが、帝(煬帝ようだい)はこのことを深く恨み、高陽で車裂きの刑に処した。少子の福獎は、通事舎人であり、東都で玄感と戦って戦死した。

原文長子福子,官至司隸別駕。次子福嗣,仕至內史舍人,後以罪黜。楊玄感之作亂也,以兵逼東都,福嗣從衛玄戰於城北,軍敗,為玄感所擒,令作文檄,辭甚不遜。尋背玄感還東都,帝銜之不已,車裂于高陽。少子福獎,通事舍人,在東都與玄感戰沒。

弟 洸

原文弟洸

洸は字を世穆といい、性格は剛毅で、器量と才幹があり、若い頃から弓馬に慣れていた。周に仕え、初官は直寢上士であった。数度征伐に従い、累進して開府となり、衛国県公の爵位を賜り、邑千二百戸を賜った。高祖(文帝)が丞相であった時、叔父の孝寛に従って相州で尉遅迥を撃ち、功により柱国に任ぜられ、襄陽郡公に進封され、邑二千戸を賜った。時に突厥が辺境を侵し、皇太子が咸陽に駐屯し、洸に命じて兵を率い原州道から出撃させた。虜と遭遇し、これを撃破した。まもなく江陵総管に任ぜられた。ほどなく、母の病気により召還された。間もなく安州総管に任ぜられた。陳を伐つ戦役では、行軍総管を兼任した。陳が平定されると、江州総管に任ぜられ、歩兵騎兵二万を率いて九江を平定した。陳の豫章太守徐璒が郡を拠点として去就を曖昧にしていたので、洸は開府の呂昂と長史の馮世基に兵を率いて相次いで進撃させた。城下に到着すると、璒は偽って降伏し、その夜、配下二千人を率いて呂昂を襲撃した。呂昂は馮世基と合流して撃ち、これを大破し、陣中で徐璒を生け捕りにした。高梁の女子(女首長)の洗氏が衆を率いて洸を迎え、そこで進んで嶺南を図った。皇帝は洸に詔書を送って言った。「公の鴻勲大業たいぎょうは、名高く望重く、軍旅を率いて彼の地を撫慰し、風の如く行き電の如く掃い、皆応えて服従した。もし干戈かんかを用いずして、万民が安寧を得るならば、まさに朕の思いに副い、これ公の力である。」広州に至り、陳の渝州都督ととく王猛を説得して降伏させ、嶺南は全て平定された。皇帝はこれを聞いて大いに喜び、臨機応変の処置を許した。洸が綏撫し集めたのは二十四州に及び、広州総管に任ぜられた。一年余りして、番禺の夷王である仲宣が衆を集めて乱を起こし、兵をもって洸を包囲した。洸は兵を率いてこれを防ぎ戦ったが、流れ矢に当たって卒去した。上柱国を追贈し、綿絹一万段を賜り、諡して敬といった。子の協が後を嗣いだ。

原文洸字世穆,性剛毅,有器幹,少便弓馬。仕周,釋褐直寢上士。數從征伐,累遷開府,賜爵衛國縣公,邑千二百戶。高祖為丞相,從季父孝寬擊尉迥於相州,以功拜柱國,進封襄陽郡公,邑二千戶。時突厥寇邊,皇太子屯咸陽,令洸統兵出原州道,與虜相遇,擊破之。尋拜江陵總管。未幾,以母疾征還。俄拜安州總管。伐陳之役,領行軍總管。及陳平,拜江州總管,率步騎二萬,略定九江。陳豫章太守徐璒據郡持兩端,洸遣開府呂昂、長史馮世基以兵相繼而進。既至城下,璒偽降,其夜率所部二千人襲擊昂。昂與世基合擊,大破之,擒璒於陣。高梁女子洗氏率眾迎洸,遂進圖嶺南。上遣洸書曰:「公鴻勳大業,名高望重,率將戎旅,撫慰彼方,風行電掃,咸應稽服。若使干戈不用,兆庶獲安,方副朕懷,是公之力。」至廣州,說陳渝州都督王猛下之,嶺表皆定。上聞而大悅,許以便宜從事。洸所綏集二十四州,拜廣州總管。歲餘,番禺夷王仲宣聚眾為亂,以兵圍洸,洸勒兵拒之,中流矢而卒。贈上柱國,賜綿絹萬段,諡曰敬。子協嗣。

協は字を欽仁といい、学問を好み、雅量があった。初官は著作佐郎であり、後に秘書郎ひしょろうに転じた。開皇年間、その父が広州で功績を挙げたので、皇帝は協に詔書を持たせて慰労させたが、到着する前に父が卒去した。皇帝はその父が王事のために身を死なせたとして、協を柱国に任じた。後に定州・息州・秦州の三州刺史を歴任し、いずれも有能な名声があり、任地で卒去した。

原文協字欽仁,好學,有雅量。起家著作佐郎,後轉秘書郎。開皇中,其父在廣州有功,上令協齎詔書勞問,未至而父卒。上以其父身死王事,拜協柱國。後曆定、息、秦三州刺史,皆有能名,卒官。

洸の弟 藝

原文洸弟藝

韋藝は字を世文といい、若くして国子学に学んだ。周の武帝の時、しばしば軍功により上儀同の位に至り、修武県侯の爵を賜り、邑八百戸を領した。左旅下大夫を授けられ、出て魏郡太守となった。高祖(楊堅)が丞相となった時、尉遅迥が密かに不軌を図り、朝廷はこれを微かに知り、韋藝の季父(叔父)の韋孝寛を急ぎ代わりに鄴に派遣した。孝寛が鄴に到らんとする時、病と偽り、伝舎に留まり、尉遅迥に薬を求め、その変を察した。尉遅迥は韋藝を遣わして孝寛を迎えさせた。孝寛が尉遅迥の所為を問うと、韋藝は尉遅迥に与し、実情を答えなかった。孝寛は怒り、彼を斬らんとしたので、韋藝は恐れ、尉遅迥の反状を言上した。孝寛はそこで韋藝を率いて西へ逃れ、亭駅に至るごとに、伝馬を全て駆り立てて去った。また駅司に言った、「蜀公(尉遅迥)がまさに来る、速やかに酒食を整えるべし」。尉遅迥はやがて騎兵を遣わして孝寛を追わせたが、追手が駅に至るごとに、盛んな饗応に逢い、また馬もないので、遂に遅滞して進まず、孝寛と韋藝はこれによって免れた。高祖は孝寛の故に、韋藝の罪を問わず、上開府を加授し、すぐに孝寛に従って尉遅迥を撃った。尉遅惇を破り、相州を平定するに至るまで、皆功があった。功により上大将軍に進位し、武威県公に改封され、邑千戸を領した。修武県侯の爵は別に一子に封じた。高祖が禅譲を受けると、魏興郡公に進封された。一年余りして、斉州刺史に任じられた。政治は清廉簡素で、士庶はその恵みを懐いた。在職数年、営州総管に遷った。韋藝の容貌は魁偉で、夷狄が参謁するごとに、必ず儀衛を整え、盛服してこれに会い、独り坐して一榻を満たした。番人は畏懼し、敢えて仰ぎ見る者はいなかった。しかし大いに産業を治め、北夷と貿易し、家資は巨万に上り、清論にかなり譏られた。開皇十五年、官で卒した。時に五十八歳。諡して懐といった。

原文藝字世文,少受業國子。周武帝時,數以軍功致位上儀同,賜爵修武縣侯,邑八百戶。授左旅下大夫。出為魏郡太守。及高祖為丞相,尉迥險圖不軌,朝廷微知之,遣藝季父孝寬馳往代迥。孝寬將至鄴,因詐病,止傳舍,從迥求藥,以察其變。迥遣藝迎孝寬。孝寬問迥所為,藝党於迥,不以實答。孝寬怒,將斬之,藝懼,乃言迥反狀。孝寬於是將藝西遁,每至亭驛,輒盡驅傳馬而去。複謂驛司曰:「蜀公將至,宜速具酒食。」迥尋遣騎追孝寬,追人至驛,輒逢盛饌,又無馬,遂遲留不進,孝寬與藝由是得免。高祖以孝寬故,弗問藝之罪,加授上開府,即從孝寬擊迥。及破尉惇,平相州,皆有力焉。以功進位上大將軍,改封武威縣公,邑千戶。以修武縣侯別封一子。高祖受禪,進封魏興郡公。歲餘,拜齊州刺史。為政清簡,士庶懷惠。在職數年,遷營州總管。藝容貌瑰偉,每夷狄參謁,必整儀衛,盛服以見之,獨坐滿一榻。番人畏懼,莫敢仰視。而大治產業,與北夷貿易,家資巨萬,頗為清論所譏。開皇十五年卒官,時年五十八。諡曰懷。

韋藝の弟、韋沖。

原文藝弟沖

韋沖は字を世沖といい、若くして名家の子として、周において衛公府礼曹参そうしん軍に初任した。後に大将軍元定に従って江を渡り陳を伐ち、陳人に捕虜とされたが、周の武帝が財貨をもって贖い還した。帝はまた韋沖に馬千匹を持たせて陳に使いさせ、開府賀抜華ら五十人及び元定の柩を贖い還した。韋沖には弁舌があり、使命を奉じて旨に叶い、累遷して少御伯下大夫となり、上儀同を加えられた。当時、稽胡がしばしば寇乱を為し、韋沖は自らその安集を請い、これにより汾州刺史に任じられた。高祖が践祚すると、兼散騎常侍さんきじょうじとして召され、開府に進位し、安固県侯の爵を賜った。一年余りして、南汾州の胡千余人を徴発して北に長城を築かせたが、途上で皆逃亡した。上(文帝)は韋沖を呼んで計略を問うと、韋沖は言った、「夷狄の性質は、反覆し易く、皆牧宰が相応しくないことによるものです。臣が理をもって綏静することを請います。兵を労せずして平定できるでしょう」。上はこれを然りとし、韋沖に命じて叛者を綏懐させた。一月余りして皆至り、共に長城に赴いた。上下詔して労い励ました。まもなく石州刺史に任じられ、諸胡の歓心を大いに得た。母の喪により職を去った。やがて起用されて南寧州総管となり、節を持って撫慰した。また柱国王長述を遣わして兵を継いで進ませた。韋沖は上表して固く辞した。詔して曰く、「西南の夷裔は、しばしば生梗があり、互いに残賊する。朕は甚だこれを憫み、既に戎徒を命じ、辺服を清撫せしめている。開府(韋沖)は器幹よく済すに堪え、識略英遠である。軍旅の事は重い故、以て相任する。艱疚にあることを知るが、日月多くない。金革は情を奪う、蓋し通式有り。宜しく自ら抑割し、即ち往旨に膺るべし」。韋沖が南寧に至ると、渠帥きょすいの爨震及び西爨の首領が皆府に参謁した。上は大いに悦び、詔を下してこれを褒揚した。その兄の子の韋伯仁が、韋沖に従って府におり、人の妻を掠め、士卒は暴を恣にし、辺人は失望した。上はこれを聞いて大いに怒り、蜀王楊秀にその事を治めさせた。益州長史の元岩は、性方正で、韋沖を案じて少しも寛貸せず、韋沖は遂に坐して免官された。その弟の太子洗馬韋世約が、皇太子に元岩を讒した。上は太子に謂って曰く、「古人に酒を売って酸っぱくて売れない者がいたが、それは犬に噛まれたからだ。今どうして世約を用いるのか。ただ汝を累わすだけだ」。世約は遂に除名された。後数年して、韋沖に括州の事を検校させた。時に東陽の賊帥陶子定、呉州の賊帥羅慧方が並びに衆を聚めて乱を為し、婺州永康・烏程の諸県を攻囲したので、韋沖は兵を率いてこれを撃破した。義豊県侯に改封され、泉州の事を検校した。まもなく営州総管に任じられた。韋沖の容貌は優雅で、寛厚にして衆心を得た。靺鞨・契丹を懐撫し、皆その死力を致すことができた。奚・霫は畏懼し、朝貢は相続いた。高麗が嘗て寇したが、韋沖は兵を率いてこれを撃退した。仁寿じんじゅ年中、高祖が豫章王楊暕のために韋沖の女を納れて妃とし、民部尚書に征召した。間もなく卒した。時に六十六歳。少子の韋挺が最も著名である。

原文沖字世沖,少以名家子,在周釋褐衛公府禮曹參軍。後從大將軍元定渡江伐陳,為陳人所虜,周武帝以幣贖而還之。帝複令沖以馬千匹使于陳,以贖開府賀拔華等五十人及元定之柩而還。沖有辭辯,奉使稱旨,累遷少禦伯下大夫,加上儀同。于時稽胡屢為寇亂,沖自請安集之,因拜汾州刺史。高祖踐阼,征為兼散騎常侍,進位開府,賜爵安固縣侯。歲餘,發南汾州胡千餘人北築長城,在途皆亡。上呼沖問計,沖曰:「夷狄之性,易為反覆,皆由牧宰不稱之所致也。臣請以理綏靜,可不勞兵而定。」上然之,因命沖綏懷叛者。月餘皆至,並赴長城,上下書勞勉之。尋拜石州刺史,甚得諸胡歡心。以母憂去職。俄而起為南寧州總管,持節撫慰。複遣柱國王長述以兵繼進。沖上表固讓。詔曰:「西南夷裔,屢有生梗,每相殘賊,朕甚湣之,已命戎徒,清撫邊服。以開府器幹堪濟,識略英遠,軍旅事重,故以相任。知在艱疚,日月未多,金革奪情,蓋有通式。宜自抑割,即膺往旨。」沖既至南寧,渠帥爨震及西爨首領皆詣府參謁。上大悅,下詔褒揚之。其兄子伯仁,隨沖在府,掠人之妻,士卒縱暴,邊人失望。上聞而大怒,令蜀王秀治其事。益州長史元岩,性方正,案沖無所寬貸,沖竟坐免。其弟太子洗馬世約,譖岩于皇太子。上謂太子曰:「古人有沽酒酸而不售者,為噬犬耳。今何用世約乎?適累汝也。」世約遂除名。後數載,令沖檢校括州事。時東陽賊帥陶子定、吳州賊帥羅慧方並聚眾為亂,攻圍婺州永康、烏程諸縣,沖率兵擊破之。改封義豐縣候,檢校泉州事。尋拜營州總管。沖容貌都雅,寬厚得眾心。懷撫靺鞨、契丹,皆能致其死力。奚、霫畏懼,朝貢相續。高麗嘗入寇,沖率兵擊走之。仁壽中,高祖為豫章王暕納沖女為妃,征拜民部尚書。未幾,卒,時年六十六。少子挺,最知名。

従父おじ弟の韋寿。

原文從父弟壽

韋寿は字を世齢という。父の韋孝寛は、周の上柱国・鄖国公である。韋寿は周において、貴公子として、早くから令誉があり、右侍上士となり、千牛備身に遷った。趙王が雍州牧となると、主簿に引き立てた。まもなく少御伯に遷った。武帝が高氏を親征する時、京兆尹に任じられ、後事を委ねられた。父の軍功により、永安県侯の爵を賜り、邑八百戸を領した。高祖が丞相となった時、その父が尉遅迥を平定した功により、韋寿を儀同三司に任じ、滑国公に進封し、邑五千戸を領した。やがて父の喪により職を去った。高祖が禅譲を受けると、起用して視事させ、まもなく恒・毛二州刺史に遷り、治名が頗るあった。開皇十年、病により召還され、家で卒した。時に四十二歳。諡して定といった。仁寿年中、高祖が晋王楊昭のためにその女を納れて妃とした。その子の韋保巒が嗣いだ。

原文壽字世齡。父孝寬,周上柱國、鄖國公。壽在周,以貴公子,早有令譽,為右侍上士,遷千牛備身。趙王為雍州牧,引為主簿。尋遷少禦伯。武帝親征高氏,拜京兆尹,委以後事。以父軍功,賜爵永安縣侯,邑八百戶。高祖為丞相,以其父平尉迥,拜夀儀同三司,進封滑國公,邑五千戶。俄以父喪去職。高祖愛禪,起令視事,尋遷恆、毛二州刺史,頗有治名。開皇十年,以疾征還,卒于家,時年四十二。諡曰定。仁壽中,高祖為晉王昭納其女為妃。以其子保巒嗣。

韋寿の弟の韋霽は、位は太常たいじょう少卿、安邑県伯に至った。韋津は、位は内史侍郎、民部尚書事を判るに至った。

原文壽弟霽,位至太常少卿,安邑縣伯。津,位至內史侍郎,判民部尚書事。

韋世康の従父弟の韋操は、字を元節といい、剛簡にして風概があった。周に仕え、上開府・光州刺史に至った。高祖が丞相となった時、尉遅迥平定の功により、柱国に進位し、平桑郡公に封ぜられ、青・荊二州総管を歴任し、官で卒した。諡して静といった。

原文世康從父弟操,字元節,剛簡有風概。仕周,致位上開府、光州刺史。高祖為丞相,以平尉迥功,進位柱國,封平桑郡公,曆青、荊二州總管,卒官。諡曰靜。

柳機。

原文柳機

柳機は、字を匡時といい、河東解の人である。父の柳慶は、魏の尚書左僕射ぼくやである。柳機は儀容が偉く、器局があり、経史に頗る渉猟した。十九歳の時、周の武帝が魯公であった時、記室に引き立てた。帝が位を嗣ぐと、宣納上士から累遷して少納言・太子宮尹となり、平斉県公に封ぜられた。帝に従って斉を平定し、開府を拝し、司宗中大夫に転じた。宣帝の時、御正上大夫に遷った。柳機は帝の失徳を見て、屡々諫めたが聞き入れられず、禍が己に及ぶことを恐れ、鄭訳に託して、密かに外任を求め、これにより華州刺史に任じられた。高祖が丞相となると、京師に召還された。時に周代の旧臣は皆禅譲を勧めたが、柳機のみ義色を形し、何も陳請しなかった。まもなく衛州刺史に任じられた。践祚すると、建安郡公に進爵し、邑二千四百戸を領し、納言に征召された。柳機の性質は寛簡で、雅望があったが、近侍に当たりながら、何ら損益なく、また酒を好み、細務に親しまず、在職数年、また出て華州刺史となった。詔を奉じて毎月朝見した。まもなく冀州刺史に転じた。後に朝に征入され、その子の柳述が蘭陵公主を尚(めと)ったので、礼遇は益々隆盛となった。

原文柳機,字匡時,河東解人也。父慶,魏尚書左僕射。機偉儀容,有器局,頗涉經史。年十九,周武帝時為魯公,引為記室。及帝嗣位,自宣納上士累遷少納言、太子宮尹,封平齊縣公。從帝平齊,拜開府,轉司宗中大夫。宣帝時,遷禦正上大夫。機見帝失德,屢諫不聽,恐禍及己,托于鄭譯,陰求出外,於是拜華州刺史。及高祖作相,征還京師。時周代舊臣皆勸禪讓,機獨義形於色,無所陳請。俄拜衛州刺史。及踐阼,進爵建安郡公,邑二千四百戶,征為納言。機性寬簡,有雅望,然當近侍,無所損益,又好飲酒,不親細務,在職數年,複出為華州刺史。奉詔每月朝見。尋轉冀州刺史。後征入朝,以其子述尚蘭陵公主,禮遇益隆。

初め、柳機が周にいた時、同族の文城公柳昂と共に顕要を歴任した。この時、柳機・柳昂は並びに外職となり、楊素が時に納言として、権勢を用いていたが、上より宴を賜った際、楊素は柳機に戯れて言った、「二柳俱に摧(お)れ、孤楊独り聳(そび)ゆ」。座者は歓笑したが、柳機は終に無言であった。間もなく州に還った。前後牧守として、共に寛恵と称された。後数年、病により京師に召還され、家で卒した。時に五十六歳。大将軍・青州刺史を追贈され、諡して簡といった。子の柳述が嗣いだ。

原文初,機在周,與族人文城公昂俱曆顯要。及此,機、昂並為外職,楊素時為納言,方用事,因上賜宴,素戲機曰:「二柳俱摧,孤楊獨聳。」坐者歡笑,機竟無言。未幾,還州。前後作牧,俱稱寬惠。後數年,以疾征還京師,卒于家,時年五十六。贈大將軍、青州刺史,諡曰簡。子述嗣。

子の柳述。

原文子述

柳述、字は業隆、性質は明敏にして、幹略あり、頗る文芸に渉る。少にして父の蔭により、太子親衛となる。後に主を尚うの故により、開府儀同三司・内史侍郎を拝す。上(文帝)諸婿の中に於いて、特に寵敬せらる。歳余にして、兵部尚書事を判ず。父艱に丁りて職を去る。未だ幾ばくもあらず、起きて給事黄門侍郎事を摂め、爵を襲い建安郡公となる。仁寿年中、吏部尚書事を判ず。述は職務修理するも、当時に称せらるるも、然れども大體に達せず、下を馭するに暴にして、又寵に怙り驕豪にして、降屈する所なし。楊素は時に貴幸と称せられ、朝臣讋憚せざる莫きも、述は毎に之を陵侮し、数たび上(文帝)の面前に於いて素の短を面折す。事を判ずるに素の意に合わざる有れば、素或いは述に之を改めしむるも、輒ち将命者に謂ひて曰く、「僕射に語れ、尚書肯かずと道ふ」と。素是より之を銜む。俄にして楊素も亦疏忌せられ、省務を知らず。述は任寄愈重く、兵部尚書を拝し、機密に参掌す。述自ら功無く紀す可きも、過ぎて匪服を叨るを以て、表を抗して陳讓す。上之を許し、兵部尚書事を摂めしむ。上仁寿宮に於いて疾に寢す。述と楊素・黄門侍郎元岩等、宮中に侍疾す。時に皇太子(楊広)陳貴人に無禮有り、上知りて大いに怒り、因りて述に房陵王を召さしむ。述と元岩外に出でて敕書を作る。楊素之を聞き、皇太子と謀を協へ、便ち詔を矯りて述・岩の二人を執へ、持して吏に属す。煬帝位を嗣ぐに及び、述竟に坐して除名せられ、公主と離絶す。述を龍川郡に徙す。公主請ふて述と同徙せんことを、帝聽かず。事は『列女傳』に見ゆ。述龍川に在ること数年、復た寧越に徙り、瘴癘に遇ひて死す。時に年三十九。

原文柳述,字業隆,性明敏,有幹略,頗涉文藝。少以父廕,為太子親衛。後以尚主之故,拜開府儀同三司、內史侍郎。上于諸婿中,特所寵敬。歲餘,判兵部尚書事。丁父艱去職。未幾,起攝給事黃門侍郎事,襲爵建安郡公。仁壽中,判吏部尚書事。述雖職務修理,為當時所稱,然不達大體,暴於馭下,又怙寵驕豪,無所降屈。楊素時稱貴幸,朝臣莫不讋憚,述每陵侮之,數於上前面折素短。判事有不合素意,素或令述改之,輒謂將命者曰:「語僕射,道尚書不肯。」素由是銜之。俄而楊素亦被疏忌,不知省務。述任寄逾重,拜兵部尚書,參掌機密。述自以無功可紀,過叨匪服,抗表陳讓。上許之,令攝兵部尚書事。上于仁壽宮寢疾,述與楊素、黃門侍郎元岩等侍疾宮中。時皇太子無禮于陳貴人,上知而大怒,因令述召房陵王。述與元岩出外作敕書,楊素聞之,與皇太子協謀,便矯詔執述、岩二人,持以屬吏。及煬帝嗣位,述竟坐除名,與公主離絕。徙述于龍川郡。公主請與述同徙,帝不聽,事見《列女傳》。述在龍川數年,複徙寧越,遇瘴癘而死,時年三十九。

弟旦

原文弟旦

旦、字は匡德、騎射に工にして、頗る書籍に渉る。周の左侍上士を起家し、累遷して兵部下大夫となる。頃くして、益州総管王謙逆を起す。行軍長史を拝せられ、梁睿に従ひて之を討平し、功を以て儀同三司を授けらる。開皇元年、開府を加授せられ、新城県男を封ぜられ、掌設驃騎に遷授さる。羅・淅・魯の三州刺史を歴任し、並びに能名有り。大業初、龍川太守を拝す。民居は山洞に在り、好んで相攻擊す。旦為に学校を開設し、大いに其の風を變ず。帝聞きて之を善しとし、詔を下して褒美す。四年、征されて太常少卿と為り、黄門侍郎事を摂判す。官に卒す。年六十一。子燮、官河内掾に至る。

原文旦字匡德,工騎射,頗涉書籍。起家周左侍上士,累遷兵部下大夫。頃之,益州總管王謙起逆,拜為行軍長史,從梁睿討平之,以功授儀同三司。開皇元年,加授開府,封新城縣男,遷授掌設驃騎。曆羅、淅、魯三州刺史,並有能名。大業初,拜龍川太守。民居山洞,好相攻擊,旦為開設學校,大變其風。帝聞而善之,下詔褒美。四年,征為太常少卿,攝判黃門侍郎事。卒官,年六十一。子燮,官至河內掾。

旦弟肅

原文旦弟肅

肅、字は匡仁、少にして聰敏、占對に閑なり。周の斉王文学を起家す。武帝見て之を異とし、召して宣納上士を拝す。高祖相と作るに、賓曹参軍に引かる。開皇初、太子洗馬を授けらる。陳の使謝泉聘に来り、才學を以て称せらる。詔して肅に宴接せしむ。時論其の華辯を称す。転じて太子内舎人、遷りて太子僕と為る。太子廢せられ、坐して除名せられ民と為る。大業中、帝段達と語り庶人(元太子楊勇)の罪惡の状に及び、達云ふ、「柳肅宮中に在りし時、大いに疏斥せらる」と。帝其の故を問ふ。答へて曰く、「学士劉臻、嘗て章仇太翼を宮中に進む。巫蠱の事為る。肅知りて諫めて曰く、『殿下は帝の塚子、位は儲貳に当り、誡は不孝に在り、患ひ見疑はるる無し。劉臻は書生、脣舌を鼓搖するは、適足れりて相誑誤するに、願くは殿下之を納れ給ふ勿れ』と。庶人懌はず、他日臻に謂ひて曰く、『汝何ぞ故ら漏泄して、柳肅をして之を知らしめ、我を面折せしむるや』と。是より後言皆用ひられず」と。帝曰く、「肅横に除名せらる、其の罪に非ず」と。召して礼部侍郎を守らしめ、転じて工部侍郎と為り、大いに親任せらる。毎に行幸遼東するに、常に之を涿郡留守に委ぬ。十一年卒す。時に年六十二。

原文肅字匡仁,少聰敏,閑於占對。起家周齊王文學。武帝見而異之,召拜宣納上士。高祖作相,引為賓曹參軍。開皇初,授太子洗馬。陳使謝泉來聘,以才學見稱,詔肅宴接,時論稱其華辯。轉太子內舍人,遷太子僕。太子廢,坐除名為民。大業中,帝與段達語及庶人罪惡之狀,達雲:「柳肅在宮,大見疏斥。」帝問其故,答曰:「學士劉臻,嘗進章仇太翼于宮中,為巫蠱事。肅知而諫曰:'殿下帝之塚子,位當儲貳,誡在不孝,無患見疑。劉臻書生,鼓搖脣舌,適足以相誑誤,願殿下勿納之。'庶人不懌,他日謂臻曰:'汝何故漏泄,使柳肅知之,令面折我?'自是後言皆不用。」帝曰:「肅橫除名,非其罪也。」召守禮部侍郎,轉工部侍郎,大見親任。每行幸遼東,常委之于涿郡留守。十一年卒,時年六十二。

従弟雄亮

原文從弟雄亮

雄亮、字は信誠。父檜、周に仕えて華陽太守と為る。黄衆寶乱を作すに遇ひ、華陽攻め陥ちられ、檜賊の為めに害せらる。雄亮時に年十四、哀毀礼を過ぎ、陰に復讐の志有り。武帝の時、衆宝其の所部を率ひて長安ちょうあんに帰す。帝之を待つこと甚だ厚し。雄亮手ずから衆宝を城中に斬り、罪を闕下に請ふ。帝特りに之を原す。尋で梁州総管記室を治め、遷りて湖城令、累遷して内史中大夫、爵を賜ひ汝陽県子と為る。司馬消難江北に乱を作す。高祖雄亮をして陳に聘せしめ、以て鄰好を結ばしむ。還るに及び、高祖禅を受くるに会ひ、尚書考功侍郎を拝し、尋で給事黄門侍郎に遷る。尚書省凡そ奏事有るも、雄亮多く之を駁正し、深く公卿に憚らる。俄に本官を以て太子左庶子を検校し、爵を進めて伯と為る。秦王俊の隴右に鎮するや、出でて秦州総管府司馬と為り、山南道行台左丞を領す。官に卒す。時に年五十一。子贊有り。

原文雄亮字信誠。父檜,仕周華陽太守。遇黃眾寶作亂,攻陷華陽,檜為賊所害。雄亮時年十四,哀毀過禮,陰有復仇之志。武帝時,眾寶率其所部歸於長安,帝待之甚厚。雄亮手斬眾寶於城中,請罪闕下,帝特原之。尋治梁州總管記室,遷湖城令,累遷內史中大夫,賜爵汝陽縣子。司馬消難作亂江北,高祖令雄亮聘于陳,以結鄰好。及還,會高祖受禪,拜尚書考功侍郎,尋遷給事黃門侍郎。尚書省凡有奏事,雄亮多所駁正,深為公卿所憚。俄以本官檢校太子左庶子,進爵為伯。秦王俊之鎮隴右也,出為秦州總管府司馬,領山南道行台左丞,卒官,時年五十一。有子贊。

従子謇之

原文從子謇之

謇之、字は公正。父は蔡年、周の順州刺史。謇之は身長七尺五寸、儀容甚だ偉く、風神爽亮にして、進止観るべし。童児の時、周の斉王憲が嘗て途上で謇之に遇い、異なりて語り、大いにこれを奇とした。因って国子に奏入し、明経にて擢第し、宗師中士に拝され、尋いで守廟下士に転ず。武帝が嘗て太廟に事有り、謇之が祝文を読むに、音韻清雅、観者目を属す。帝これを善しとし、宣納上士に擢す。及び高祖が相となると、引いて田曹参軍と為し、仍って典簽事を諮る。開皇初め、通事舎人に拝され、尋いで内史舎人に遷り、兵部・司勲しくんの二曹侍郎を歴任す。朝廷は謇之に雅望有り、談謔を善くし、又酒を一石飲んでも乱れざるを以て、是より毎に梁・陳の使至るや、輒ち謇之に接対せしむ。後に光禄少卿に遷る。出入十余年、毎に敷奏を参掌す。会に吐谷渾来降す、朝廷は宗女の光化公主を以てこれに妻せしめ、謇之を以て散騎常侍を兼ね、公主を西域に送らしむ。俄にして突厥の啓民可汗和親を結ぶを求め、復た謇之に義成公主を突厥に送らしむ。謇之前後使を奉じ、二国より贈られたる馬千余匹、雑物これに称するを得、皆宗族に散じ、家に余財無し。仁寿中、出でて粛州刺史と為り、尋いで息州刺史に転じ、倶に恵政有り。後二歳、母憂に以て職を去る。煬帝践祚し、復た光禄少卿に拝す。大業初め、啓民可汗自ら内附を以て、遂に定襄・馬邑の間に畜牧す、帝は謇之をして諭して塞外に出づるを令せしむ。及び還り、事を奏して旨に称し、黄門侍郎に拝す。時に元徳太子初めて薨じ、朝野注望し、皆斉王立つべしと為す。帝方に王府の選を重んじ、大業三年、車駕京師に還り、斉王長史に拝す。帝法服にて軒に臨み、儀衛を備え、斉王をして西朝堂の前に立ち、北面せしむ。吏部尚書牛弘・内史令楊約・左衛大将軍宇文述等を遣わし、殿廷より従い謇之を引いて斉王の所に詣らしめ、西面して立たしむ。牛弘勅を宣べて斉王に謂いて曰く、「我昔恩寵に階縁し、晋陽に封を啓き、藩に出づるの初め、時に年十二。先帝我を西朝堂に立て、乃ち高熲・虞慶則・元旻等をして、内より王子相を我に送らしむ。時に我に誡めて曰く、『汝幼沖を以て、未だ世事に更えず、今子相をして汝に輔と作らしむ、事大小無く、皆これに委すべし。小人に昵近し、子相を疏遠する無かれ。若し我が言に従わば、社稷しゃしょくに益有り、汝の名行を成立せん。如し此の言を用いざれば、唯国及び身、敗るる日に無からん。』と。我勅を受けたる後、奉じて周旋し、敢えて失墜せず。微やかなる子相の力、我今日無からん。若し謇之と事に従うは、一に子相の如くせよ。」と。又謇之に勅して曰く、「今卿を以て斉に輔と作す、善く匡救の理を思い、朕が望む所に副えよ。若し斉王の徳業修備せば、富貴自ら当に卿一門に鐘らん。若し不善有らば、罪も亦相及ばん。」と。時に斉王正に寵を擅にし、左右放縦し、喬令則の徒、深く昵狎せらる。謇之其の罪失を知りながら、匡正すること能わず。及び王罪を得、謇之竟に坐して除名せらる。帝遼東に幸し、謇之を召して燕郡の事を検校せしむ。及び帝師を班し、燕郡に至り、供頓給せざるに坐し、嶺南に配戍せらる。洭口に卒す、時に年六十。子は威明。

原文謇之字公正。父蔡年,周順州刺史。謇之身長七尺五寸,儀容甚偉,風神爽亮,進止可觀。為童兒時,周齊王憲嘗遇謇之於途,異而與語,大奇之。因奏入國子,以明經擢第,拜宗師中士,尋轉守廟下士。武帝嘗有事太廟,謇之讀祝文,音韻清雅,觀者屬目。帝善之,擢為宣納上士。及高祖作相,引為田曹參軍,仍諮典簽事。開皇初,拜通事舍人,尋遷內史舍人,曆兵部、司勳二曹侍郎。朝廷以謇之有雅望,善談謔,又飲酒至石不亂,由是每梁、陳使至,輒令謇之接對。後遷光祿少卿。出入十餘年,每參掌敷奏。會吐谷渾來降,朝廷以宗女光化公主妻之,以謇之兼散騎常侍,送公主于西域。俄而突厥啟民可汗求結和親,複令謇之送義成公主于突厥。謇之前後奉使,得二國所贈馬千餘匹,雜物稱是,皆散之宗族,家無餘財。仁壽中,出為肅州刺史,尋轉息州刺史,俱有惠政。後二歲,以母憂去職。煬帝踐阼,複拜光祿少卿。大業初,啟民可汗自以內附,遂畜牧於定襄、馬邑間,帝使謇之諭令出塞。及還,奏事稱旨,拜黃門侍郎。時元德太子初薨,朝野注望,皆以齊王當立。帝方重王府之選,大業三年,車駕還京師,拜為齊王長史。帝法服臨軒,備儀衛,命齊王立於西朝堂之前,北面。遣吏部尚書牛弘、內史令楊約、左衛大將軍宇文述等,從殿廷引謇之詣齊王所,西面立。牛弘宣敕謂齊王曰:「我昔階緣恩寵,啟封晉陽,出籓之初,時年十二。先帝立我於西朝堂,乃令高熲、虞慶則、元旻等,從內送王子相于我。于時誡我曰:'以汝幼沖,未更世事,今令子相作輔於汝,事無大小,皆可委之。無得昵近小人,疏遠子相。若從我言者,有益於社稷,成立汝名行。如不用此言,唯國及身,敗無日矣。'吾受敕之後,奉以周旋,不敢失墜。微子相之力,吾無今日矣。若與謇之從事,一如子相也。」又敕謇之曰:「今以卿作輔于齊,善思匡救之理,副朕所望。若齊王德業修備,富貴自當鐘卿一門。若有不善,罪亦相及。」時齊王正擅寵,左右放縱,喬令則之徒,深見昵狎。謇之雖知其罪失,不能匡正。及王得罪,謇之竟坐除名。帝幸遼東,召謇之檢校燕郡事。及帝班師,至燕郡,坐供頓不給,配戍嶺南。卒于洭口,時年六十。子威明。

族弟に昂。

原文族弟昂

昂、字は千里。父は敏、高名有り、礼を好み学を篤くし、家を治むること官の如し。周に仕え、職を歴て清顕なり。開皇初め、太子太保と為る。昂は器識有り、幹局人に過ぐ。周武帝の時、大内史と為り、文城郡公の爵を賜わり、開府の位に致り、当途用事し、百僚皆其の下に出づ。宣帝嗣位し、稍く疏遠せらるるも、然れども本職を離れず。及び高祖丞相と為り、深く自ら結納す。高祖大いにこれを悦び、大宗伯と為す。昂拝を受くる日、遂に偏風を得、事を視ること能わず。高祖禅を受け、昂疾癒え、上開府を加えられ、潞州刺史に拝す。昂天下事無きを見、学を勧め礼を行うべしとし、因って上表して曰く、

原文昂字千里。父敏,有高名,好禮篤學,治家如官。仕周,曆職清顯。開皇初,為太子太保。昂有器識,幹局過人。周武帝時,為大內史,賜爵文城郡公,致位開府,當途用事,百僚皆出其下。宣帝嗣位,稍被疏遠,然不離本職。及高祖為丞相,深自結納。高祖大悅之,以為大宗伯。昂受拜之日,遂得偏風,不能視事。高祖受禪,昂疾愈,加上開府,拜潞州刺史。昂見天下無事,可以勸學行禮,因上表曰:

臣聞く、帝王命を受けて、学を建て礼を制す、故に能く既往の風を移し、惟新の俗を成すと。魏の道将に謝せんより、九区を分割し、関右・山東、久しく戦国と為り、各権詐を逞しくし、倶に干戈に殉じ、賦役繁重し、刑政厳急なり。蓋し焚を救い溺を拯うに、暇あって従容せず、朝野の願に非ざるも、以て此に至る。晚世因循し、遂に希慕と成り、俗化澆敝し、流宕して反るを忘れ、自ら天然の上哲に非ざれば、時に挺生せず、則ち儒雅の道、経礼の制、衣冠の民庶、肯て心を用いる莫し。世事の未だ清まらざる所以、軌物茲よりして壊る。伏して惟うに、陛下霊を上帝に稟け、命を昊天に受け、三陽の期に合し、千祀せんしの運に膺く。往く者周室頺毀し、区宇沸騰す、聖策風行し、神謀電発し、端坐して廊廟に在り、万方を蕩滌し、俯して幽明ゆうめいに順い、四海しかいに君臨す。万古の典を択び、善無くば為さず、百王の弊を改め、悪無くば尽くさず。情に因り義に縁り、其の節文を為すに至りては、故に三百三千を以て、事前代に高し。然れども下土の黎献、未だ尽く行わず。臣謬りて奨策を蒙り、藩部に政に従い、人庶の軌儀、実に見るに多闕し、儒風以て墜ち、礼教猶微し、是れ百姓の心、未だ頓に変ずる能わざるを知る。仰いで惟うに、深思遠慮し、情下民を念い、漸くに儉を以て被い、道に至らしめんとす。臣業淹り事緩むるを恐れ、動もすれば年世を延ばさんとす。若し礼を行い学を勧め、道教相催せば、必ず当に靡然として風に向い、遠からずして就かん。家は礼節を知り、人は義方識り、比屋封すべく、輒ち遠からずと謂う。

原文臣聞帝王受命,建學制禮,故能移既往之風,成惟新之俗。自魏道將謝,分割九區,關右、山東,久為戰國,各逞權詐,俱殉干戈,賦役繁重,刑政嚴急。蓋救焚拯溺,無暇從容,非朝野之願,以至於此。晚世因循,遂成希慕,俗化澆敝,流宕忘反,自非天然上哲,挺生於時,則儒雅之道,經禮之制,衣冠民庶,莫肯用心。世事所以未清,軌物由茲而壞。伏惟陛下稟靈上帝,受命昊天,合三陽之期,膺千祀之運。往者周室頹毀,區宇沸騰,聖策風行,神謀電發,端坐廊廟,蕩滌萬方,俯順幽明,君臨四海。擇萬古之典,無善不為;改百王之弊,無惡不盡。至若因情緣義,為其節文,故以三百三千,事高前代。然下土黎獻,尚未盡行。臣謬蒙獎策,從政籓部,人庶軌儀,實見多闕,儒風以墜,禮教猶微,是知百姓之心,未能頓變。仰惟深思遠慮,情念下民,漸被以儉,使至於道。臣恐業淹事緩,動延年世。若行禮勸學,道教相催,必當靡然向風,不遠而就。家知禮節,人識義方,比屋可封,輒謂非遠。

上覧めてこれを善しとし、因って詔を下して曰く、

原文上覽而善之,因下詔曰:

建国は道を重んず、学に先んずる莫く、主を尊び民を庇うは、礼に先んずる莫し。魏氏競わずより、周・齊抗衡し、四海の民を分かち、二邦の力を闘わしめ、強弱に遞り、年所を歴ること多し。権詐を務めて儒雅を薄くし、干戈を重んじて俎豆を軽んじ、民は徳を見ず、唯争を聞くのみ。朝野は機巧を以て師と為し、文吏は深刻を以て法と為し、風澆ぎ俗弊るは、化する然らしむるなり。雖も復た庠序を建立し、兼ねて黌塾を啓くも、業は時に貴ばれず、道も亦行われず。其の間服膺して儒術するもの、蓋しこれ有らんも、彼衆我寡、未だ俗を移す能わず。然れども其の名教を維持し、彝倫を奨飾するは、微かに相弘益し、斯に頼るのみ。王者天を承け、休咎化に随う、礼有れば則ち祥瑞必ず降り、礼無ければ則ち妖孽興起す。人は五常を稟け、性霊一ならず、礼有れば則ち陰陽徳を合し、礼無ければ則ち禽獸其の心と為す。国を治め身を立つるは、礼に非ざれば不可なり。朕命を天に受け、万物を財成し、華夷の乱を去り、風化の宜を求む。奢を戒め儉を崇め、率先して百辟ひゃくへきし、徭を軽くし賦を薄くし、以て寛弘ならんことを冀う。而るに積習常を生じ、未だ懲革せず、閭閻の士庶、吉凶の礼、動もすれば悉く方に乖き、制度に依らず。憲を執るの職は、耳を塞ぎて聞く無きに似、民に蒞むの官は、猶目を蔽いて察せざるが如し。朝化を宣揚する、其れ是の若きか。古人之学は、且つ耕し且つ養う。今者民丁は役の日に非ず、農畝は時候の余り有り、若し学業を敦め、経礼を勧めば、自ら可く家は大道を慕い、人は至徳を希わん。豈に止めて礼節を知り、廉恥を識り、父慈子孝、兄恭弟順するのみならんや。始め京師よりし、爰に州郡に及び、宜しく朕が意を祗り、学を勧め礼を行わしむべし。

原文建國重道,莫先於學,尊主庇民,莫先於禮。自魏氏不競,周、齊抗衡,分四海之民,鬥二邦之力,遞為強弱,多歷年所。務權詐而薄儒雅,重干戈而輕俎豆,民不見德,唯爭是聞。朝野以機巧為師,文吏用深刻為法,風澆俗弊,化之然也。雖複建立庠序,兼啟黌塾,業非時貴,道亦不行。其間服膺儒術,蓋有之矣,彼眾我寡,未能移俗。然其維持名教,獎飾彝倫,微相弘益,賴斯而已。王者承天,休咎隨化,有禮則祥瑞必降,無禮則妖孽興起。人稟五常,性靈不一,有禮則陰陽合德,無禮則禽獸其心。治國立身,非禮不可。朕受命于天,財成萬物,去華夷之亂,求風化之宜。戒奢崇儉,率先百辟,輕徭薄賦,冀以寬弘。而積習生常,未能懲革,閭閻士庶,吉凶之禮,動悉乖方,不依制度。執憲之職,似塞耳而無聞,蒞民之官,猶蔽目而不察。宣揚朝化,其若是乎?古人之學,且耕且養。今者民丁非役之日,農畝時候之餘,若敦以學業,勸以經禮,自可家慕大道,人希至德。豈止知禮節,識廉恥,父慈子孝,兄恭弟順者乎?始自京師,爰及州郡,宜祗朕意,勸學行禮。

これより天下の州県は皆博士を置き、礼を習わしむ。

原文自是天下州縣皆置博士習禮焉。

韋昂は州にあって、甚だ恵みある政あり、数年にして、官に卒す。

原文昂在州,甚有惠政,數年,卒官。

昂の子、韋調

原文昂子調

子の調は、秘書郎より起家し、尋いで侍御史に転ず。左僕射楊素嘗て朝堂において調を見て、因りて独り言う、「柳条は通体弱く、独り揺らぐも風を須いず」と。調は板を斂めて正色して曰く、「調に信に取る所無き者は、公は侍御史と為すべからず。調に信に取る所有る者は、応に此の言を発すべからず。公は具瞻の秋に当たり、樞機何ぞ軽く発すべけんや」と。素は甚だ之を奇とす。煬帝嗣位し、累遷して尚書左司郎と為る。時に王綱振わず、朝士多く贓貨有り、唯だ調は清素にして常を守り、時に美と為さる。然れども幹用に於いては、其の長とする所に非ず。

原文子調,起家秘書郎,尋轉侍御史。左僕射楊素嘗於朝堂見調,因獨言曰:「柳條通體弱,獨搖不須風。」調斂板正色曰:「調信無取者,公不當以為侍御史;調信有可取,不應發此言。公當具瞻之秋,樞機何可輕發!」素甚奇之。煬帝嗣位,累遷尚書左司郎。時王綱不振,朝士多贓貨,唯調清素守常,為時所美。然於幹用,非其所長。

史評

原文史評

史臣曰く、韋氏は京兆に居るより、代々人物有り。世康の昆季は、餘慶の鐘する所、或いは入りて礼闈に処し、或いは出でて方嶽を総べ、硃輸軫に接し、陰を成す。周に在りて及び隋に至り、勳庸並びに茂し、盛んなり。建安は風韻閑雅にして、望は当時に重し。述は寵を恃みて人に驕り、終に傾敗を致す。旦は屡に恵政有り、肅は毎に誠讜を存す。雄亮は名節自立し、忠正と称せらる。謇は神情開爽にして、頗る疏放なり。文城は歴仕二朝し、咸に見推重せられ、高祖に書を献じ、遂に学校を興す。言は能く道を弘む、其の利博なるかな。

原文史臣曰:韋氏自居京兆,代有人物。世康昆季,餘慶所鐘,或入處禮闈,或出總方嶽,硃輸接軫,成陰,在周暨隋,勳庸並茂,盛矣!建安風韻閒雅,望重當時。述恃寵驕人,終致傾敗。旦屢有惠政,肅每存誠讜。雄亮名節自立,忠正見稱,謇之神情開爽,頗為疏放。文城曆仕二朝,鹹見推重,獻書高祖,遂興學校,言能弘道,其利博哉!