隋書

卷四十七列傳第十二 韋世康 柳機

韋世康

韋世康は、京兆杜陵の人である。代々関西の名族であった。祖父の旭は、魏の南幽州刺史であった。父の夐は、隠居して仕官せず、魏・周の二代にわたり、十度招聘されても出仕せず、逍遙公と号された。世康は幼い頃から沈着で聡明、器量と風格があった。十歳の時、州から主簿に辟召された。魏においては、弱冠で直寢となり、漢安県公に封ぜられ、周の文帝の娘である襄楽公主を娶り、儀同三司を授けられた。後に周に仕え、典祠下大夫から沔・硤の二州刺史を歴任した。武帝に従って斉を平定し、司州総管長史を授けられた。当時、東夏は平定されたばかりで、民衆は安堵しておらず、世康がこれを慰撫したので、士民ともに喜んだ。一年余りして、民部中大夫として中央に入り、上開府に進み、司会中大夫に転じた。

尉遅迥が乱を起こした時、高祖こうそ(隋の文帝)はこれを憂慮し、世康に言った。「汾州・絳州はかつて周と斉の分界であり、この乱をきっかけに、動揺が生じる恐れがある。今これを公に委ねる。よく我がために守ってくれ。」そこで絳州刺史を授け、その高潔な声望をもって当地を鎮めさせた。すると全州が清く粛然とした。世康の性格は恬淡で質素、古風を好み、得失を心にかけなかった。州にあって、かつて慨然として足るを知る志を抱き、子弟に手紙を書いて言った。「私は先祖の余沢により生を受け、早くから官職に就き、馳せ回ることをやめず、既に四十八年になる。たびたび三公の位に登り、頻繁に地方長官を務め、三惑(酒・色・財)を除くことを志し、四知(天知・神知・我知・子知)を慎む心で、不貪を宝とし、膏脂(利益)の中にあっても潤うことがなかった。このようなことは、世に広く知られている。今、老齢にはまだ達していないが、壮年は既に過ぎ去り、霜は梧桐や楸に早く、風は蒲や柳に先んじる。眼はますます暗く、細かい字は見えず、足の病は増すばかりで、走ることはできない。俸禄は多くを要せず、満ちることを防いで退くべきであり、年は暮れを待たず、病があれば辞すべきである。況や母は年齢が既に高く、温凊(冬温夏凊、孝養)を奉ずべきであり、晨昏(朝夕の孝養)に欠けることがあれば、罪はこの身にある。今、世穆・世文はともに軍役に従っており、私と世沖はまた遠方の任に就いている。山に登って父母を望み見るこの思いは、ますます切実であり、桓山の悲しみ(兄弟離散の悲しみ)は、常の慕情を倍する。思いを上聞に達し、孝養の礼を乞いたいと思うが、汝らの意見をまだ聞いていないので、この手紙を送る。遠くを思い慕う言葉を発すれば、感極まって咽び、耐えがたい。」諸弟は事が成就するのは難しいだろうと返答したので、そこで思いとどまった。

在任数年、恵みある政治を行い、考課の上奏が連続して最上となり、礼部尚書に抜擢された。世康は嗜欲が少なく、貴勢を羨まず、地位や声望をもって人を見下すことはなかった。人の善行を聞けば、自分がしたかのように喜び、また人の過失をあからさまにして、名誉を求めることもなかった。まもなく上庸郡公に爵位を進め、封邑は二千五百戸に至った。その年、吏部尚書に転じ、他の官職はもとのままとした。四年(開皇四年)、母の喪に服して職を去った。喪期が終わらないうちに、出仕して政務を見るよう命じられた。世康は固く請い、私的な喪服期間を終えることを乞うたが、皇帝は許さなかった。世康が吏部にあった時、人材の選抜任用は公平で、私的な依頼は通らなかった。開皇七年、江南(陳)を征討しようとし、方鎮(地方の軍事拠点)を重視する議論があり、襄州刺史に任ぜられた。事に坐して免官された。まもなく、安州総管を授かり、ほどなく信州総管に遷った。十三年、朝廷に入り、再び吏部尚書に任ぜられた。前後十余年の間、多く人材を進め抜擢し、朝廷では廉潔公平と称された。かつて休暇の折、子弟に言った。「功を成して身を退くのは、古人の常道だと聞く。今年で耳順(六十歳)に近づき、引退を志している。汝らはどう思うか。」子の福嗣が答えて言った。「父上は身を洗い徳を浴び、名声を立て官を成し、満ち溢れることへの戒めは、先哲が重んじるところです。二疏(疏広・疏受)の跡を追いたいと存じ、謹んでご命令を承ります。」後に宴会に侍した際、世康は再拝して辞任を申し出て言った。「臣は寸尺の功もなく、位は台鉉(三公)に次いでおります。今、犬馬の齢は衰え、聖明の時世に益するところなく、露に先立つ(死ぬ)ことを恐れ、その責めを塞ぐことができません。願わくば骸骨を乞い、賢能に道を譲り退きたい。」皇帝は言った。「朕は日夜、賢人を求めて渇望し、公と共に天下を治め、太平をもたらさんことを望んでいる。今の願いは、朕の本望に深く背く。たとえ筋骨が衰えようとも、なお公を屈して一隅を臥して治めてもらいたい。」そこで出向して荊州総管に任ぜられた。当時、天下には四大総管のみを置き、へい州・揚州・益州の三州は、いずれも親王が統治し、ただ荊州のみを世康に委ねた。当時の論評はこれを美事とした。世康の政治は簡素で静謐であり、民衆はこれを愛し喜び、全州に訴訟はなかった。十七年、任地で卒去した。時に六十七歳。皇帝はこれを聞いて痛惜し、贈賻(葬儀の贈り物)は甚だ厚かった。大将軍を追贈し、諡して文といった。

世康の性格は孝行で友愛に厚く、初め諸弟の地位がみな高く貴いのに、末弟の世約だけが官途で成功せず、共に父の時代からの田宅を全て彼に与えたので、世間はその義を称えた。

長子の福子は、官は司隸別駕に至った。次子の福嗣は、内史舎人に至ったが、後に罪を得て罷免された。楊玄感が乱を起こした時、兵をもって東都を脅かし、福嗣は衛玄に従って城北で戦ったが、軍は敗れ、玄感に捕らえられた。玄感は彼に檄文を作らせたが、その文辞は甚だ不遜であった。まもなく玄感を裏切って東都に戻ったが、帝(煬帝)はこのことを深く恨み、高陽で車裂きの刑に処した。少子の福獎は、通事舎人であり、東都で玄感と戦って戦死した。

弟 洸

洸は字を世穆といい、性格は剛毅で、器量と才幹があり、若い頃から弓馬に慣れていた。周に仕え、初官は直寢上士であった。数度征伐に従い、累進して開府となり、衛国県公の爵位を賜り、邑千二百戸を賜った。高祖(文帝)が丞相であった時、叔父の孝寛に従って相州で尉遅迥を撃ち、功により柱国に任ぜられ、襄陽郡公に進封され、邑二千戸を賜った。時に突厥が辺境を侵し、皇太子が咸陽に駐屯し、洸に命じて兵を率い原州道から出撃させた。虜と遭遇し、これを撃破した。まもなく江陵総管に任ぜられた。ほどなく、母の病気により召還された。間もなく安州総管に任ぜられた。陳を伐つ戦役では、行軍総管を兼任した。陳が平定されると、江州総管に任ぜられ、歩兵騎兵二万を率いて九江を平定した。陳の章太守徐璒が郡を拠点として去就を曖昧にしていたので、洸は開府の呂昂と長史の馮世基に兵を率いて相次いで進撃させた。城下に到着すると、璒は偽って降伏し、その夜、配下二千人を率いて呂昂を襲撃した。呂昂は馮世基と合流して撃ち、これを大破し、陣中で徐璒を生け捕りにした。高梁の女子(女首長)の洗氏が衆を率いて洸を迎え、そこで進んで嶺南を図った。皇帝は洸に詔書を送って言った。「公の鴻勲大業は、名高く望重く、軍旅を率いて彼の地を撫慰し、風の如く行き電の如く掃い、皆応えて服従した。もし干戈を用いずして、万民が安寧を得るならば、まさに朕の思いに副い、これ公の力である。」広州に至り、陳の渝州都督ととく王猛を説得して降伏させ、嶺南は全て平定された。皇帝はこれを聞いて大いに喜び、臨機応変の処置を許した。洸が綏撫し集めたのは二十四州に及び、広州総管に任ぜられた。一年余りして、番禺の夷王である仲宣が衆を集めて乱を起こし、兵をもって洸を包囲した。洸は兵を率いてこれを防ぎ戦ったが、流れ矢に当たって卒去した。上柱国を追贈し、綿絹一万段を賜り、諡して敬といった。子の協が後を嗣いだ。

協は字を欽仁といい、学問を好み、雅量があった。初官は著作佐郎であり、後に秘書郎に転じた。開皇年間、その父が広州で功績を挙げたので、皇帝は協に詔書を持たせて慰労させたが、到着する前に父が卒去した。皇帝はその父が王事のために身を死なせたとして、協を柱国に任じた。後に定州・息州・秦州の三州刺史を歴任し、いずれも有能な名声があり、任地で卒去した。

洸の弟 藝

韋藝は字を世文といい、若くして国子学に学んだ。周の武帝の時、しばしば軍功により上儀同の位に至り、修武県侯の爵を賜り、邑八百戸を領した。左旅下大夫を授けられ、出て魏郡太守となった。高祖(楊堅)が丞相となった時、尉遅迥が密かに不軌を図り、朝廷はこれを微かに知り、韋藝の季父(叔父)の韋孝寛を急ぎ代わりに鄴に派遣した。孝寛が鄴に到らんとする時、病と偽り、伝舎に留まり、尉遅迥に薬を求め、その変を察した。尉遅迥は韋藝を遣わして孝寛を迎えさせた。孝寛が尉遅迥の所為を問うと、韋藝は尉遅迥に与し、実情を答えなかった。孝寛は怒り、彼を斬らんとしたので、韋藝は恐れ、尉遅迥の反状を言上した。孝寛はそこで韋藝を率いて西へ逃れ、亭駅に至るごとに、伝馬を全て駆り立てて去った。また駅司に言った、「しょく公(尉遅迥)がまさに来る、速やかに酒食を整えるべし」。尉遅迥はやがて騎兵を遣わして孝寛を追わせたが、追手が駅に至るごとに、盛んな饗応に逢い、また馬もないので、遂に遅滞して進まず、孝寛と韋藝はこれによって免れた。高祖は孝寛の故に、韋藝の罪を問わず、上開府を加授し、すぐに孝寛に従って尉遅迥を撃った。尉遅惇を破り、相州を平定するに至るまで、皆功があった。功により上大将軍に進位し、武威県公に改封され、邑千戸を領した。修武県侯の爵は別に一子に封じた。高祖が禅譲を受けると、魏興郡公に進封された。一年余りして、斉州刺史に任じられた。政治は清廉簡素で、士庶はその恵みを懐いた。在職数年、営州総管に遷った。韋藝の容貌は魁偉で、夷狄が参謁するごとに、必ず儀衛を整え、盛服してこれに会い、独り坐して一榻を満たした。番人は畏懼し、敢えて仰ぎ見る者はいなかった。しかし大いに産業を治め、北夷と貿易し、家資は巨万に上り、清論にかなり譏られた。開皇十五年、官で卒した。時に五十八歳。諡して懐といった。

韋藝の弟、韋沖。

韋沖は字を世沖といい、若くして名家の子として、周において衛公府礼曹参そうしん軍に初任した。後に大将軍元定に従って江を渡り陳を伐ち、陳人に捕虜とされたが、周の武帝が財貨をもって贖い還した。帝はまた韋沖に馬千匹を持たせて陳に使いさせ、開府賀抜華ら五十人及び元定の柩を贖い還した。韋沖には弁舌があり、使命を奉じて旨に叶い、累遷して少御伯下大夫となり、上儀同を加えられた。当時、稽胡がしばしば寇乱を為し、韋沖は自らその安集を請い、これにより汾州刺史に任じられた。高祖が践祚すると、兼散騎常侍さんきじょうじとして召され、開府に進位し、安固県侯の爵を賜った。一年余りして、南汾州の胡千余人を徴発して北に長城を築かせたが、途上で皆逃亡した。上(文帝)は韋沖を呼んで計略を問うと、韋沖は言った、「夷狄の性質は、反覆し易く、皆牧宰が相応しくないことによるものです。臣が理をもって綏静することを請います。兵を労せずして平定できるでしょう」。上はこれを然りとし、韋沖に命じて叛者を綏懐させた。一月余りして皆至り、共に長城に赴いた。上下詔して労い励ました。まもなく石州刺史に任じられ、諸胡の歓心を大いに得た。母の喪により職を去った。やがて起用されて南寧州総管となり、節を持って撫慰した。また柱国王長述を遣わして兵を継いで進ませた。韋沖は上表して固く辞した。詔して曰く、「西南の夷裔は、しばしば生梗があり、互いに残賊する。朕は甚だこれを憫み、既に戎徒を命じ、辺服を清撫せしめている。開府(韋沖)は器幹よく済すに堪え、識略英遠である。軍旅の事は重い故、以て相任する。艱疚にあることを知るが、日月多くない。金革は情を奪う、蓋し通式有り。宜しく自ら抑割し、即ち往旨に膺るべし」。韋沖が南寧に至ると、渠帥の爨震及び西爨の首領が皆府に参謁した。上は大いに悦び、詔を下してこれを褒揚した。その兄の子の韋伯仁が、韋沖に従って府におり、人の妻を掠め、士卒は暴を恣にし、辺人は失望した。上はこれを聞いて大いに怒り、蜀王楊秀にその事を治めさせた。益州長史の元岩は、性方正で、韋沖を案じて少しも寛貸せず、韋沖は遂に坐して免官された。その弟の太子洗馬韋世約が、皇太子に元岩を讒した。上は太子に謂って曰く、「古人に酒を売って酸っぱくて売れない者がいたが、それは犬に噛まれたからだ。今どうして世約を用いるのか。ただ汝を累わすだけだ」。世約は遂に除名された。後数年して、韋沖に括州の事を検校させた。時に東陽の賊帥陶子定、呉州の賊帥羅慧方が並びに衆を聚めて乱を為し、婺州永康・烏程の諸県を攻囲したので、韋沖は兵を率いてこれを撃破した。義豊県侯に改封され、泉州の事を検校した。まもなく営州総管に任じられた。韋沖の容貌は優雅で、寛厚にして衆心を得た。靺鞨・契丹を懐撫し、皆その死力を致すことができた。奚・霫は畏懼し、朝貢は相続いた。高麗が嘗て寇したが、韋沖は兵を率いてこれを撃退した。仁寿年中、高祖が豫章王楊暕のために韋沖の女を納れて妃とし、民部尚書に征召した。間もなく卒した。時に六十六歳。少子の韋挺が最も著名である。

従父弟の韋寿。

韋寿は字を世齢という。父の韋孝寛は、周の上柱国・鄖国公である。韋寿は周において、貴公子として、早くから令誉があり、右侍上士となり、千牛備身に遷った。趙王が雍州牧となると、主簿に引き立てた。まもなく少御伯に遷った。武帝が高氏を親征する時、京兆尹に任じられ、後事を委ねられた。父の軍功により、永安県侯の爵を賜り、邑八百戸を領した。高祖が丞相となった時、その父が尉遅迥を平定した功により、韋寿を儀同三司に任じ、滑国公に進封し、邑五千戸を領した。やがて父の喪により職を去った。高祖が禅譲を受けると、起用して視事させ、まもなく恒・毛二州刺史に遷り、治名が頗るあった。開皇十年、病により召還され、家で卒した。時に四十二歳。諡して定といった。仁寿年中、高祖が晋王楊昭のためにその女を納れて妃とした。その子の韋保巒が嗣いだ。

韋寿の弟の韋霽は、位は太常少卿、安邑県伯に至った。韋津は、位は内史侍郎、民部尚書事を判るに至った。

韋世康の従父弟の韋操は、字を元節といい、剛簡にして風概があった。周に仕え、上開府・光州刺史に至った。高祖が丞相となった時、尉遅迥平定の功により、柱国に進位し、平桑郡公に封ぜられ、青・荊二州総管を歴任し、官で卒した。諡して静といった。

柳機。

柳機は、字を匡時といい、河東解の人である。父の柳慶は、魏の尚書左僕射である。柳機は儀容が偉く、器局があり、経史に頗る渉猟した。十九歳の時、周の武帝が魯公であった時、記室に引き立てた。帝が位を嗣ぐと、宣納上士から累遷して少納言・太子宮尹となり、平斉県公に封ぜられた。帝に従って斉を平定し、開府を拝し、司宗中大夫に転じた。宣帝の時、御正上大夫に遷った。柳機は帝の失徳を見て、屡々諫めたが聞き入れられず、禍が己に及ぶことを恐れ、鄭訳に託して、密かに外任を求め、これにより華州刺史に任じられた。高祖が丞相となると、京師に召還された。時に周代の旧臣は皆禅譲を勧めたが、柳機のみ義色を形し、何も陳請しなかった。まもなく衛州刺史に任じられた。践祚すると、建安郡公に進爵し、邑二千四百戸を領し、納言に征召された。柳機の性質は寛簡で、雅望があったが、近侍に当たりながら、何ら損益なく、また酒を好み、細務に親しまず、在職数年、また出て華州刺史となった。詔を奉じて毎月朝見した。まもなく冀州刺史に転じた。後に朝に征入され、その子の柳述が蘭陵公主をめとったので、礼遇は益々隆盛となった。

初め、柳機が周にいた時、同族の文城公柳昂と共に顕要を歴任した。この時、柳機・柳昂は並びに外職となり、楊素が時に納言として、権勢を用いていたが、上より宴を賜った際、楊素は柳機に戯れて言った、「二柳俱にれ、孤楊独りそびゆ」。座者は歓笑したが、柳機は終に無言であった。間もなく州に還った。前後牧守として、共に寛恵と称された。後数年、病により京師に召還され、家で卒した。時に五十六歳。大将軍・青州刺史を追贈され、諡して簡といった。子の柳述が嗣いだ。

子の柳述。

柳述、字は業隆、性質は明敏にして、幹略あり、頗る文芸に渉る。少にして父の蔭により、太子親衛となる。後に主を尚うの故により、開府儀同三司・内史侍郎を拝す。上(文帝)諸婿の中に於いて、特に寵敬せらる。歳余にして、兵部尚書事を判ず。父艱に丁りて職を去る。未だ幾ばくもあらず、起きて給事黄門侍郎事を摂め、爵を襲い建安郡公となる。仁寿年中、吏部尚書事を判ず。述は職務修理するも、当時に称せらるるも、然れども大體に達せず、下を馭するに暴にして、又寵に怙り驕豪にして、降屈する所なし。楊素は時に貴幸と称せられ、朝臣讋憚せざる莫きも、述は毎に之を陵侮し、数たび上(文帝)の面前に於いて素の短を面折す。事を判ずるに素の意に合わざる有れば、素或いは述に之を改めしむるも、輒ち将命者に謂ひて曰く、「僕射に語れ、尚書肯かずと道ふ」と。素是より之を銜む。俄にして楊素も亦疏忌せられ、省務を知らず。述は任寄愈重く、兵部尚書を拝し、機密に参掌す。述自ら功無く紀す可きも、過ぎて匪服を叨るを以て、表を抗して陳讓す。上之を許し、兵部尚書事を摂めしむ。上仁寿宮に於いて疾に寢す。述と楊素・黄門侍郎元岩等、宮中に侍疾す。時に皇太子(楊広)陳貴人に無禮有り、上知りて大いに怒り、因りて述に房陵王を召さしむ。述と元岩外に出でて敕書を作る。楊素之を聞き、皇太子と謀を協へ、便ち詔を矯りて述・岩の二人を執へ、持して吏に属す。煬帝位を嗣ぐに及び、述竟に坐して除名せられ、公主と離絶す。述を龍川郡に徙す。公主請ふて述と同徙せんことを、帝聽かず。事は『列女傳』に見ゆ。述龍川に在ること数年、復た寧越に徙り、瘴癘に遇ひて死す。時に年三十九。

弟旦

旦、字は匡德、騎射に工にして、頗る書籍に渉る。周の左侍上士を起家し、累遷して兵部下大夫となる。頃くして、益州総管王謙逆を起す。行軍長史を拝せられ、梁睿に従ひて之を討平し、功を以て儀同三司を授けらる。開皇元年、開府を加授せられ、新城県男を封ぜられ、掌設驃騎に遷授さる。羅・淅・魯の三州刺史を歴任し、並びに能名有り。大業初、龍川太守を拝す。民居は山洞に在り、好んで相攻擊す。旦為に学校を開設し、大いに其の風を變ず。帝聞きて之を善しとし、詔を下して褒美す。四年、征されて太常少卿と為り、黄門侍郎事を摂判す。官に卒す。年六十一。子燮、官河内掾に至る。

旦弟肅

肅、字は匡仁、少にして聰敏、占對に閑なり。周の斉王文学を起家す。武帝見て之を異とし、召して宣納上士を拝す。高祖相と作るに、賓曹参軍に引かる。開皇初、太子洗馬を授けらる。陳の使謝泉聘に来り、才學を以て称せらる。詔して肅に宴接せしむ。時論其の華辯を称す。転じて太子内舎人、遷りて太子僕と為る。太子廢せられ、坐して除名せられ民と為る。大業中、帝段達と語り庶人(元太子楊勇)の罪惡の状に及び、達云ふ、「柳肅宮中に在りし時、大いに疏斥せらる」と。帝其の故を問ふ。答へて曰く、「学士劉臻、嘗て章仇太翼を宮中に進む。巫蠱の事為る。肅知りて諫めて曰く、『殿下は帝の塚子、位は儲貳に当り、誡は不孝に在り、患ひ見疑はるる無し。劉臻は書生、脣舌を鼓搖するは、適足れりて相誑誤するに、願くは殿下之を納れ給ふ勿れ』と。庶人懌はず、他日臻に謂ひて曰く、『汝何ぞ故ら漏泄して、柳肅をして之を知らしめ、我を面折せしむるや』と。是より後言皆用ひられず」と。帝曰く、「肅横に除名せらる、其の罪に非ず」と。召して礼部侍郎を守らしめ、転じて工部侍郎と為り、大いに親任せらる。毎に行幸遼東するに、常に之を涿郡留守に委ぬ。十一年卒す。時に年六十二。

従弟雄亮

雄亮、字は信誠。父檜、周に仕えて華陽太守と為る。黄衆寶乱を作すに遇ひ、華陽攻め陥ちられ、檜賊の為めに害せらる。雄亮時に年十四、哀毀礼を過ぎ、陰に復讐の志有り。武帝の時、衆宝其の所部を率ひて長安ちょうあんに帰す。帝之を待つこと甚だ厚し。雄亮手ずから衆宝を城中に斬り、罪を闕下に請ふ。帝特りに之を原す。尋で梁州総管記室を治め、遷りて湖城令、累遷して内史中大夫、爵を賜ひ汝陽県子と為る。司馬消難江北に乱を作す。高祖雄亮をして陳に聘せしめ、以て鄰好を結ばしむ。還るに及び、高祖禅を受くるに会ひ、尚書考功侍郎を拝し、尋で給事黄門侍郎に遷る。尚書省凡そ奏事有るも、雄亮多く之を駁正し、深く公卿に憚らる。俄に本官を以て太子左庶子を検校し、爵を進めて伯と為る。秦王俊の隴右に鎮するや、出でて秦州総管府司馬と為り、山南道行台左丞を領す。官に卒す。時に年五十一。子贊有り。

従子謇之

謇之、字は公正。父は蔡年、周の順州刺史。謇之は身長七尺五寸、儀容甚だ偉く、風神爽亮にして、進止観るべし。童児の時、周の斉王憲が嘗て途上で謇之に遇い、異なりて語り、大いにこれを奇とした。因って国子に奏入し、明経にて擢第し、宗師中士に拝され、尋いで守廟下士に転ず。武帝が嘗て太廟に事有り、謇之が祝文を読むに、音韻清雅、観者目を属す。帝これを善しとし、宣納上士に擢す。及び高祖が相となると、引いて田曹参軍と為し、仍って典簽事を諮る。開皇初め、通事舎人に拝され、尋いで内史舎人に遷り、兵部・司勲の二曹侍郎を歴任す。朝廷は謇之に雅望有り、談謔を善くし、又酒を一石飲んでも乱れざるを以て、是より毎に梁・陳の使至るや、輒ち謇之に接対せしむ。後に光禄少卿に遷る。出入十余年、毎に敷奏を参掌す。会に吐谷渾来降す、朝廷は宗女の光化公主を以てこれに妻せしめ、謇之を以て散騎常侍を兼ね、公主を西域に送らしむ。俄にして突厥の啓民可汗和親を結ぶを求め、復た謇之に義成公主を突厥に送らしむ。謇之前後使を奉じ、二国より贈られたる馬千余匹、雑物これに称するを得、皆宗族に散じ、家に余財無し。仁寿中、出でて粛州刺史と為り、尋いで息州刺史に転じ、倶に恵政有り。後二歳、母憂に以て職を去る。煬帝践祚し、復た光禄少卿に拝す。大業初め、啓民可汗自ら内附を以て、遂に定襄・馬邑の間に畜牧す、帝は謇之をして諭して塞外に出づるを令せしむ。及び還り、事を奏して旨に称し、黄門侍郎に拝す。時に元徳太子初めて薨じ、朝野注望し、皆斉王立つべしと為す。帝方に王府の選を重んじ、大業三年、車駕京師に還り、斉王長史に拝す。帝法服にて軒に臨み、儀衛を備え、斉王をして西朝堂の前に立ち、北面せしむ。吏部尚書牛弘・内史令楊約・左衛大将軍宇文述等を遣わし、殿廷より従い謇之を引いて斉王の所に詣らしめ、西面して立たしむ。牛弘勅を宣べて斉王に謂いて曰く、「我昔恩寵に階縁し、晋陽に封を啓き、藩に出づるの初め、時に年十二。先帝我を西朝堂に立て、乃ち高熲・虞慶則・元旻等をして、内より王子相を我に送らしむ。時に我に誡めて曰く、『汝幼沖を以て、未だ世事に更えず、今子相をして汝に輔と作らしむ、事大小無く、皆これに委すべし。小人に昵近し、子相を疏遠する無かれ。若し我が言に従わば、社稷に益有り、汝の名行を成立せん。如し此の言を用いざれば、唯国及び身、敗るる日に無からん。』と。我勅を受けたる後、奉じて周旋し、敢えて失墜せず。微やかなる子相の力、我今日無からん。若し謇之と事に従うは、一に子相の如くせよ。」と。又謇之に勅して曰く、「今卿を以て斉に輔と作す、善く匡救の理を思い、朕が望む所に副えよ。若し斉王の徳業修備せば、富貴自ら当に卿一門に鐘らん。若し不善有らば、罪も亦相及ばん。」と。時に斉王正に寵を擅にし、左右放縦し、喬令則の徒、深く昵狎せらる。謇之其の罪失を知りながら、匡正すること能わず。及び王罪を得、謇之竟に坐して除名せらる。帝遼東に幸し、謇之を召して燕郡の事を検校せしむ。及び帝師を班し、燕郡に至り、供頓給せざるに坐し、嶺南に配戍せらる。洭口に卒す、時に年六十。子は威明。

族弟に昂。

昂、字は千里。父は敏、高名有り、礼を好み学を篤くし、家を治むること官の如し。周に仕え、職を歴て清顕なり。開皇初め、太子太保と為る。昂は器識有り、幹局人に過ぐ。周武帝の時、大内史と為り、文城郡公の爵を賜わり、開府の位に致り、当途用事し、百僚皆其の下に出づ。宣帝嗣位し、稍く疏遠せらるるも、然れども本職を離れず。及び高祖丞相と為り、深く自ら結納す。高祖大いにこれを悦び、大宗伯と為す。昂拝を受くる日、遂に偏風を得、事を視ること能わず。高祖禅を受け、昂疾癒え、上開府を加えられ、潞州刺史に拝す。昂天下事無きを見、学を勧め礼を行うべしとし、因って上表して曰く、

臣聞く、帝王命を受けて、学を建て礼を制す、故に能く既往の風を移し、惟新の俗を成すと。魏の道将に謝せんより、九区を分割し、関右・山東、久しく戦国と為り、各権詐を逞しくし、倶に干戈に殉じ、賦役繁重し、刑政厳急なり。蓋し焚を救い溺を拯うに、暇あって従容せず、朝野の願に非ざるも、以て此に至る。晚世因循し、遂に希慕と成り、俗化澆敝し、流宕して反るを忘れ、自ら天然の上哲に非ざれば、時に挺生せず、則ち儒雅の道、経礼の制、衣冠の民庶、肯て心を用いる莫し。世事の未だ清まらざる所以、軌物茲よりして壊る。伏して惟うに、陛下霊を上帝に稟け、命を昊天に受け、三陽の期に合し、千祀の運に膺く。往く者周室頺毀し、区宇沸騰す、聖策風行し、神謀電発し、端坐して廊廟に在り、万方を蕩滌し、俯して幽明に順い、四海に君臨す。万古の典を択び、善無くば為さず、百王の弊を改め、悪無くば尽くさず。情に因り義に縁り、其の節文を為すに至りては、故に三百三千を以て、事前代に高し。然れども下土の黎献、未だ尽く行わず。臣謬りて奨策を蒙り、藩部に政に従い、人庶の軌儀、実に見るに多闕し、儒風以て墜ち、礼教猶微し、是れ百姓の心、未だ頓に変ずる能わざるを知る。仰いで惟うに、深思遠慮し、情下民を念い、漸くに儉を以て被い、道に至らしめんとす。臣業淹り事緩むるを恐れ、動もすれば年世を延ばさんとす。若し礼を行い学を勧め、道教相催せば、必ず当に靡然として風に向い、遠からずして就かん。家は礼節を知り、人は義方識り、比屋封すべく、輒ち遠からずと謂う。

上覧めてこれを善しとし、因って詔を下して曰く、

建国は道を重んず、学に先んずる莫く、主を尊び民を庇うは、礼に先んずる莫し。魏氏競わずより、周・齊抗衡し、四海の民を分かち、二邦の力を闘わしめ、強弱に遞り、年所を歴ること多し。権詐を務めて儒雅を薄くし、干戈を重んじて俎豆を軽んじ、民は徳を見ず、唯争を聞くのみ。朝野は機巧を以て師と為し、文吏は深刻を以て法と為し、風澆ぎ俗弊るは、化する然らしむるなり。雖も復た庠序を建立し、兼ねて黌塾を啓くも、業は時に貴ばれず、道も亦行われず。其の間服膺して儒術するもの、蓋しこれ有らんも、彼衆我寡、未だ俗を移す能わず。然れども其の名教を維持し、彝倫を奨飾するは、微かに相弘益し、斯に頼るのみ。王者天を承け、休咎化に随う、礼有れば則ち祥瑞必ず降り、礼無ければ則ち妖孽興起す。人は五常を稟け、性霊一ならず、礼有れば則ち陰陽徳を合し、礼無ければ則ち禽獸其の心と為す。国を治め身を立つるは、礼に非ざれば不可なり。朕命を天に受け、万物を財成し、華夷の乱を去り、風化の宜を求む。奢を戒め儉を崇め、率先して百辟し、徭を軽くし賦を薄くし、以て寛弘ならんことを冀う。而るに積習常を生じ、未だ懲革せず、閭閻の士庶、吉凶の礼、動もすれば悉く方に乖き、制度に依らず。憲を執るの職は、耳を塞ぎて聞く無きに似、民に蒞むの官は、猶目を蔽いて察せざるが如し。朝化を宣揚する、其れ是の若きか。古人之学は、且つ耕し且つ養う。今者民丁は役の日に非ず、農畝は時候の余り有り、若し学業を敦め、経礼を勧めば、自ら可く家は大道を慕い、人は至徳を希わん。豈に止めて礼節を知り、廉恥を識り、父慈子孝、兄恭弟順するのみならんや。始め京師よりし、爰に州郡に及び、宜しく朕が意を祗り、学を勧め礼を行わしむべし。

これより天下の州県は皆博士を置き、礼を習わしむ。

韋昂は州にあって、甚だ恵みある政あり、数年にして、官に卒す。

昂の子、韋調

子の調は、秘書郎より起家し、尋いで侍御史に転ず。左僕射楊素嘗て朝堂において調を見て、因りて独り言う、「柳条は通体弱く、独り揺らぐも風を須いず」と。調は板を斂めて正色して曰く、「調に信に取る所無き者は、公は侍御史と為すべからず。調に信に取る所有る者は、応に此の言を発すべからず。公は具瞻の秋に当たり、樞機何ぞ軽く発すべけんや」と。素は甚だ之を奇とす。煬帝嗣位し、累遷して尚書左司郎と為る。時に王綱振わず、朝士多く贓貨有り、唯だ調は清素にして常を守り、時に美と為さる。然れども幹用に於いては、其の長とする所に非ず。

史評

史臣曰く、韋氏は京兆に居るより、代々人物有り。世康の昆季は、餘慶の鐘する所、或いは入りて礼闈に処し、或いは出でて方嶽を総べ、硃輸軫に接し、陰を成す。周に在りて及び隋に至り、勳庸並びに茂し、盛んなり。建安は風韻閑雅にして、望は当時に重し。述は寵を恃みて人に驕り、終に傾敗を致す。旦は屡に恵政有り、肅は毎に誠讜を存す。雄亮は名節自立し、忠正と称せらる。謇は神情開爽にして、頗る疏放なり。文城は歴仕二朝し、咸に見推重せられ、高祖に書を献じ、遂に学校を興す。言は能く道を弘む、其の利博なるかな。