隋書

巻四十二 列傳第七 李德林

李德林

李徳林、字は公輔、博陵郡安平県の人である。祖父の寿は、湖州の戸曹従事であった。父の敬族は、太学博士・鎮遠将軍を歴任した。東魏の孝静帝の時、当代の学識豊かな人物に命じて文籍を校定させ、内校書と為し、別に直閤省に在った。徳林は幼くして聡明敏速であり、数歳の時、左思の『しょく都賦』を誦し、十余日で暗誦した。高隆之はこれを見て嘆賞し、朝廷の士人に広く告げて言うには、「もし年齢を加えれば、必ずや天下の偉器とならん」と。鄴京の人々は多くその邸宅を訪れてこれを見、一月余りの間、昼日中も車馬が絶えなかった。十五歳の時、五経及び古今の文集を誦し、日に数千言を読んだ。やがては三墳五典に通じ、陰陽緯候に至るまで、通じ涉らざるはなかった。文章をよくし、文辞は核実にして条理は暢達であった。魏収はかつて高隆之に対し、その父に向かって言った、「賢子の文筆は終に温子升を継ぐであろう」と。隆之は大笑して言うには、「魏常侍は甚だしく既に賢を嫉む、何ぞ近く老彭に比せずして、乃ち遠く温子を求めるや」と。十六歳の時、父の喪に遭い、自ら霊輿を駕して、故郷に葬った。時は厳冬の真っ只中であり、単衣に跣足であったが、州里の人々はこれによって敬慕した。博陵の豪族に崔諶という者あり、僕射の兄であるが、休暇を利用して郷里に帰り、車服は甚だ盛んであった。その邸宅から徳林の元へ弔問に赴かんとし、相距ること十余里、従者は数十騎であったが、次第に減らして留めた。徳林の門に至る頃には、わずか五騎余りとなり、李生に人が燻灼するを怪しましむるを得ずと云う。徳林は貧窮して轗軻し、母は病多く、典籍に心を留め、再び官に就く志はなかった。その後、母の病がやや癒え、仕進を強いて命ぜられた。

任城王高湝が定州刺史となった時、その才を重んじ、州の館に召し入れた。朝夕共に遊び、殆ど師友と均しくし、君民の礼数とは為さなかった。かつて徳林に語って云うには、「窃かに聞く、賢を蔽うは顕戮を蒙ると。久しく君を沈滞せしめ、吾独り身を潤すを得るは、朝廷たとえ咎めずとも、亦た明霊の譴るるを懼る」と。ここにおいて秀才に挙げられて鄴に入った、時に天保八年である。王はよって尚書令しょうしょれい楊遵彦に書を遺して云うには、「燕趙は固より奇士多し、この言誠に謬りならず。今歳貢する所の秀才李徳林なる者は、文章学識は固より言うを待たず、その風神器宇を観るに、終に棟梁の用と為らん。至りて経国の大體に至っては、是れ賈生・晁錯の儔なり。彫虫の小技は、殆ど相如・子雲の輩なり。今たとえ唐・虞の君世に在り、俊乂朝に盈つとも、然れども大廈を修むる者は、豈に夫の良材の積むを厭わんや。吾嘗て孔文挙の『薦禰衡表』に『洪水横流し、帝俾乂を思う』と云うを見る。正平を以て夫の大禹に比す、常に擬諭倫ならずと謂う。今徳林を以てこれを言えば、便ち前言大ならざるを覚ゆ」と。遵彦は即ち徳林に命じて『尚書令を譲る表』を制せしめ、筆を援げば立ちどころに成り、修飾点検を加えず。よって大いに賞異し、吏部郎中陸卬に示した。卬は云う、「既に大いにその文筆を見る、浩浩として長河の東に注ぐが如し。比来見る所の、後生の制作は、乃ち涓澮の流れのみ」と。卬はなおその子乂に命じて徳林と交際させ、戒めて云うには、「汝は事毎に宜しくこの人に師い、以て模楷とすべし」と。時に遵彦は銓衡を掌り、選挙を深く慎み、秀才擢第するも、甲科は稀であった。徳林は策問五条に答え、考課皆上と為り、殿中将軍に授けられた。既に西省の散員であり、その好む所に非ず、又天保の末世であるを以て、乃ち病と称して郷里に帰り、門を閉ざして道を守った。乾明の初め、遵彦は徳林を議曹に追い入れることを奏上した。皇建の初め、詔を下して人物を搜揚し、再び晉陽に赴くことを追った。『春思賦』一篇を撰し、当世典麗と称された。この時長広王が宰相と為り、居守して鄴に在った。徳林に還京を敕し、散騎常侍さんきじょうじ高元海等と共に機密を参掌せしめた。王は引きいて丞相府行参軍に授けた。間もなくして王は帝位に即き、奉朝請に授け、寓直して舍人省に在った。河清年間、員外散騎侍郎に授け、齋帥を帯び、仍く別に機密省に直した。天統の初め、給事中に授け、中書に直し、詔誥を参掌した。尋いで中書舍人に遷った。武平の初め、通直散騎侍郎を加えられた。又敕せられて中書侍郎宋士素・副侍中趙彦深と別に機密を典ることと為った。尋いで母の喪に遭い職を去り、勺の飲み物も五日間口にせず。よって発熱病を起こし、遍体に瘡を生じたが、哀泣絶えず。諸士友の陸騫・宋士素、名医張子彦等が、湯薬を合わせた。徳林は進むことを肯ぜず、遍体洪腫し、数日の間に、一時に頓かに癒え、身力平復した。諸人皆云う、孝の感ずる所によるものと。太常博士巴叔仁が表を上ってその事を奏し、朝廷これを嘉した。喪が百日で満ちると、情を奪って起復させたが、徳林は羸病疾に属するを以て、急ぎ罷めて帰ることを請うた。

魏収と陽休之が『齊書』の起元の事を論じ、敕せられて百官を集めて会議した。収は徳林に書を送って曰く、「前者の議文は、諸事の意を総べ、小なること混漫の如く、領解し難し。今便ち事に随い条列す、幸いに留懷し、細かに推逐せられんことを。凡そ『或は』と云うは、皆敵人の議なり。既に人の説を聞き、よって探論するのみ」と。徳林復書して曰く、「即位の元は、『春秋』の常義なり。謹んで按ずるに、魯君息姑は即位と称せずとも、亦た元年有り、独り即位のみ元年と称するを得るに非ず。議に云う、受終の元は、『尚書』の古典なり。謹んで按ずるに、『大伝』に、周公摂政し、一年乱を救い、二年殷を伐ち、三年奄を践み、四年侯衛を建て、五年成周を営み、六年礼楽を制し、七年政を致して成王に帰す。論者或いは舜・禹の受終を以て、是れ天子と為るとなす。然らば則ち周公は臣礼を以てして死す、此も亦た元を称す、独り受終して帝と為るに非ず。議文を示さるるを蒙り、病を扶けて省覧す、荒情識を迷わし、暫く蒙きを発す。当世の君子、必ず横議無く、唯応に閣筆して賛成するのみ。輒ち謂う、前の二条は議に益有り、仰ぎ見るに議中に録せず、謹んで以て写し呈す」と。収重ねて書を遺して曰く、「二事を示さるるを恵み、感佩殊に深し。魯公諸侯の事を以て、昨小に疑わし。息姑は即位を書かず、舜・禹も亦た即位を言わず。息姑は摂と雖も、尚お元を書くを得、舜・禹の摂として元を称するは、理なり。周公居摂して、乃ち一年乱を救うと云う、元を称せざるに似たり。自ら『大伝』無くんば、尋討を得ず。一と元と、その事何ぞ別ならん。更に見る所有らば、幸いに請う論ぜられん」と。徳林答えて曰く、

摂と相とは、その義一なり。故に周公摂政す、孔子曰く「周公成王に相す」と。魏武漢に相す、曹植曰く「虞の唐に翼くが如し」と。或いは雲う、高祖こうそ身未だ摂に居らず、灼然として理に非ずと。摂とは賞罰を専らにするの名、古今事殊なり、体を以て断ずるべからず。陸機、舜の上帝に類を肆し、群後に瑞を班するを見て、便ち雲う、舜天下有るは、須らく文祖に格すべしと、晋の三主をして舜の摂に異ならしめんと欲す。窃かに以為う、舜若し堯死して、獄訟帰せずんば、便ち是れ夏朝の益なり、何ぞ須らく文祖に格せざらんや。若し王者の礼を用うれば、便ち即真と曰うとす、則ち周公扆を負いて諸侯に朝し、霍光周公の事を行う、皆真の帝か。斯れ然らず。必ず知る、高祖と舜の摂と殊ならざるを、士衡の謬に従うを得ず。

或いは以爲く、書に元年と爲すは、當時の實錄にして、追書に非ざるなりと。大齊の興りは、實に武帝に由る。謙りて受命を匿すは、豈に直に史のみならんや。比に觀るに、論者、受命の元を追ひ舉ぐるを聞きて、多く河漢の如き有り。但だ受命の歲を追ひ數ふるを言ひて、情或は之を安んず。似く所の怖るる者は元の字のみ。事、朝三の類ひにして、是れ其の一年を許して、其の元年を許さざるなり。案ずるに『易』に「黄裳元吉」と有り。鄭玄の注に云く、「舜の天子を試み、周公の政を攝るが如し」と。是を以て試みと攝ると、殊ならず。『大傳』に元の字無きと雖も、一と元とは、義を異にすること無し。『春秋』、一年一月と不言は、人君に元を體して正に居らしめんと欲するなり。蓋し史の婉辭にして、一と元と別なるに非ざるなり。漢の獻帝死し、劉備自ら尊崇す。陳壽、蜀の人、魏を以て漢の賊と爲す。寧くんぞ蜀主未だ立たざるに、已に魏武の受命を云はんや。士衡、本國を自尊するは、誠に高議の如し。三方をして鼎峙せしめ、同じく名と爲さんと欲するなり。習氏の『漢晉春秋』、意是れに在り。司馬炎の兼併に至りて、其の帝號を許す。魏の君臣、吳人並びに戮賊と爲す。亦た寧くんぞ當塗の世に、晉に受命の徵有りと云はんや。史は、年を編むなり。故に魯は號して『紀年』と曰ふ。墨子又云く、吾『百國春秋』を見ると。史又事無くして年を書する者有り。是れ年を重んじて驗するなり。若し高祖、事毎に謙沖ならんと欲せば、即ち須らく號令皆魏氏を推すべし。便ち是れ魏の年を編み、魏の事を紀す。此れ即ち魏末功臣の傳にして、豈に復た皇朝の帝紀なる者ならんや。

陸機、紀元を立て斷つを稱し、或は正始を以てし、或は嘉平を以てす。束皙議して云く、赤雀白魚の事なりと。恐らくは晉朝の議は、是れ並びに受命の元を論じて、代終の斷に止まるに非ざるなり。公議に陸機の元を議せざるを云ふは、是れ未だ曉らざる所なり。願くは更に之を思へ。陸機、刊木の『虞書』に著はるるを以てし、龕黎の商典に見ゆるを以てし、以て晉朝の正始・嘉平の議を蔽ふは、斯れ又謬りなり。唯だ二代相ひ涉り、兩史並びに書くべく、必ず後朝創業の跡を以て、前史に斷入することを得ず。若し然らば、則ち世宗・高祖皆天保以前は、唯だ魏氏の列傳に入り、齊朝の帝紀と作さざるべし。可ならんや。此れ既に不可ならば、彼復た何を證とせん。

是の時、中書侍郎杜台卿、『世祖武成皇帝頌』を上る。齊主以爲く未だ盡く善しとせず、和士開をして頌を德林に示さしむ。旨を宣べて云く、「台卿此の文、未だ朕が意に當たらず。卿の大才有るを以て、須らく盛德を敘すべし。即ち宜しく速に作り、急ぎ本を進むべし」と。德林乃ち頌十六章並びに序を上る。文多く載せず。武成、頌を覽みて之を善しとし、名馬一匹を賜ふ。三年、祖孝徵入りて侍中と爲り、尚書左僕射趙彥深出でて兗州刺史と爲る。朝士に先づ孝徵の待遇する所と爲りし者有り、德林を間ひて、云く是れ彥深の黨與なり、仍ひて機密を掌るべからずと。孝徵曰く、「德林久しく絳衣に滯る。我常に彥深の賢を待つこと未だ足らざるを恨む。內省の文翰、方に之を委ぬ。尋で當に佳處有るべし。妄りに説くべからず」と。尋で中書侍郎を除き、仍ひて詔して國史を修めしむ。齊主、文雅に情を留め、文林館に召し入る。又た黃門侍郎顏之推と二人をして同く文林館事を判ぜしむ。五年、敕して黃門侍郎李孝貞・中書侍郎李若と別に宣傳を掌らしむ。尋で通直散騎常侍を除き、中書侍郎を兼ぬ。隆化中、儀同三司を假す。承光中、儀同三司を授く。

周の武帝齊を克つに及び、鄴に入るの日、小司馬唐道和をして宅に就き旨を宣べて慰喩せしめ、云く、「齊を平ぐるの利は、唯だ爾に在り。朕本より爾の齊王を逐ひ東走するを畏る。今猶ほ在ると聞き、大いに以て懷を慰む。宜しく即ち入り相見ふべし」と。道和之を引いて內に入れ、內史字文昂を遣はして齊朝の風俗政教・人物の善惡を訪問せしむ。即ち內省に留め、三宿して乃ち歸る。仍ひて駕に從ひ長安ちょうあんに至らしめ、內史上士を授く。此れより以後、詔誥格式及び山東人物を用ふるは、一に之を委ぬ。武帝嘗て雲陽宮に於て鮮卑語を以て群臣に謂ひて云く、「我常日唯だ李德林の名を聞く。齊朝と詔書移檄を作るを見るに及び、我正に其れ是れ天上の人と謂ふ。豈に今日其の驅使を得、復た我が爲に文書を作ることを言はんや。極めて大いに異なり」と。神武公紇豆陵毅答へて曰く、「臣聞く、明王聖主、騏驎鳳凰を得て瑞と爲すは、是れ聖德の感ずる所にして、力能く之を致すに非ざるなりと。瑞物來ると雖も、使用に堪へず。李德林の來りて驅策を受くるが如きは、亦た陛下の聖德の感致する所にして、大才用有り、堪へざる所無し。騏驎鳳凰に勝ること遠し」と。武帝大笑して曰く、「誠に公の言の如し」と。宣政末、禦正下大夫を授く。大象初、爵を成安縣男に賜ふ。

宣帝が危篤に陥り、高祖が初めて顧命を受けるに当たり、邗国公楊惠が徳林に言うには、「朝廷は令を賜り、文武の事を総べさせ、国を経営する任は重く、群才の輔佐なくしては、大業を成し遂げることはできない。今、公と共に事に当たりたいが、必ず辞してはならない。」と。徳林はこれを聞いて甚だ喜び、乃ち答えて云うには、「徳林は庸芃ではあるが、微誠もまた存するところがある。もし曲げて引き立て奨励してくださるならば、必ずや死を以て公に奉ずることを望む。」と。高祖は大いに悦び、即ち召して語らった。劉昉・鄭訳は初め詔を矯って高祖を召し、顧命を受けて少主を輔け、内外の兵馬の事を総べて知ることを命じた。諸衛は既に勅を奉じ、並びに高祖の節度を受けた。鄭訳・劉昉が議し、高祖に塚宰を授け、鄭訳自ら大司馬を摂らせ、劉昉はまた小塚宰を求めた。高祖は密かに徳林に問うて曰く、「どう処すべきと思うか。」と。徳林云う、「即ち大丞相と為し、黄鉞を仮し、内外諸軍事を都督ととくすべきである。そうしなければ、衆心を圧することはできない。」と。及び発喪すると、便ち即ちこれに依った。訳を以て相府長史と為し、内史上大夫を帯びさせ、昉はただ丞相府司馬と為した。訳・昉はこれにより不平を抱いた。徳林を丞相府属と為し、儀同大将軍を加えた。未だ幾ばくもせずして三方乱を構え、兵略を指授するに、皆これと参詳した。軍書・羽檄は朝夕に填委し、一日の中、動いて百数を逾えた。或いは機速を競って発し、数人に口授し、文意は百端に及び、治点を加えなかった。鄖公韋孝寛は東道元帥と為り、軍は永橋に次いだが、沁水が泛長したため、兵は渡ることができなかった。長史李詢が密啓を上って云うには、「大将梁士彦・宇文忻・崔弘度は並びに尉遅迥より金を受け取り、軍中慅慅として、人情大いに異なる。」と。高祖は李詢の啓を得て、深くこれを憂い、鄭訳と議し、この三人を代えようとした。徳林独り進んで計を云うには、「公と諸将は、並びに国家の貴臣であり、未だ相い伏せ馭することはない。今、挟令の威を以て、これを得させたに過ぎない。どうして後に遣わす者が、能く腹心を尽くすことを知り、前に遣わした人が、独り乖異を致すことを知ろうか。又、金を取った事は、虚実明らかにし難く、即ち令して換易すれば、彼らは罪を懼れ、その逃逸を恐れ、便ち禁錮を須いるであろう。然らば則ち鄖公以下、必ず驚疑の意有らん。且つ敵に臨んで将を代えるは、古より難き所、楽毅が以て燕を辞し、趙括が以て趙を敗った所以である。愚見する所によれば、ただ公の一腹心にして、智略に明らかで、諸将が旧来より信服する所の者を遣わし、速やかに軍所に至らせ、その情偽を観察させよ。縦え異志有りとも、必ず敢えて動かざるであろう。」と。丞相は大いに悟って曰く、「もし公がこの言を発さざれば、幾ばくか大事を敗らんとす。」と。即ち高熲に馳驛して軍所に往かせ、諸将の節度と為し、竟に大功を成した。凡そその謀謨は、多くこの類である。進めて丞相府従事内郎を授けた。禅代の際、その相国が百揆を総べ、九錫の殊礼、詔策・箋表・璽書は、皆徳林の辞である。高祖が阼に登る日、内史令を授けた。

初め、禅を受けんとする時、虞慶則が高祖を勧めて宇文氏を尽く滅ぼすべしとし、高熲・楊惠もまた依違してこれに従った。唯だ徳林が固く争い、以て不可と為した。高祖は色を為して怒り云う、「君は読書人にして、この事を平章するに足らず。」と。ここに於いて遂にこれを尽く誅した。これより品位を加えず、高・虞の下に出で、ただ班例に依って上儀同を授け、爵を進めて子と為した。開皇元年、勅令して太尉任国公于翼・高熲らと共に律令を修めさせた。事畢わって奏聞し、別に九環の金帯一腰、駿馬一匹を賜い、損益の多きを賞したのである。格令が班った後、蘇威は毎に事条を改易せんとした。徳林は格式既に頒った以上、義は画一を須い、縦令小しく踳駁有りとも、政を蠹し民を害する過ちでなければ、数たび改張有るべからずと為した。威は又、五百家の郷正を置くことを奏し、即ち民間の辞訟を理めさせようとした。徳林は、本来郷官が判事を廃したのは、その里閭の親戚であるため、剖断公平でないからであり、今郷正に専ら五百家を治めさせれば、恐らく害は更に甚だしくなると為した。且つ今時の吏部は、人物を総選し、天下は数百県に過ぎず、六七百萬戸の中より数百の県令を詮簡するも、猶その才に称うることができないのに、乃ち一郷の中に、一人能く五百家を治むる者を選ぼうとは、必ずや得難きを恐れる。又、即時に要荒の小県には、五百家に至らざる者もあり、また両県をして共に一郷を管せしむることもできない。勅令して内外の群官をして、東宮に就いて会議させた。皇太子以下、多くは徳林の議に従った。蘇威は又、郡を廃することを言い、徳林これに語って云う、「令を修める時、公は何故郡を廃するが便なりと論じなかったのか。今令才に出でたばかり、これを改め得ようか!」と。然るに高熲は威の議に同じ、徳林を狠戾と称し、多く固執すと為した。これにより高祖は尽く威の議に依った。

五年、勅令して相と為った時の文翰を撰録させ、五巻に勒し、これを『霸朝雑集』と謂った。その事を序して曰く。

臣はひそかに思うに、陽の烏が光を垂れれば微かな藿も心を傾け、神龍が騰り上がれば飛雲も石に触れる。聖人が上に在れば、幽顕ともに符節を合わせ、故に比屋可封と称し、万物これを見るという。臣が皇基の草創に便ち駆馳に預かり、遂に参可封の民を得て、万物の一つとなる。その嘉慶たるや、固より多きなり。

若し帝臣王佐、応運して挺生し、朝に接踵するは、諒やこれ有らん。然れども班爾の妙は、曲木を変じて容と為し、硃藍の染むる所は、素絲を改めて色と為す。二十二臣、功成りて美を尽くし、二十八将、時に効力す。徳を種え善を積むは、豈に皆な稷・契に比するのみならんや。功を計り伐を称するは、悉く耿・賈に類するに非ず。

書契已還、言を立て事を立てる者、質殆庶に非ざるは、何れの世にか之れ無からん。蓋し上は睿後に稟り、旁ら群傑を資け、牧商の鄙賤、屠釣の幽微も、侯王に化するは、皆な此れに由るなり。教え有りて類無く、童子は覇功を羞じ、徳を見て斉しきを思えば、狂夫も聖業に成る。治世の多士も、亦た此れに因るなり。

煙霧に依る可くば、騰蛇も蛟龍と共に遠く、棲息する所有らば、蒼蠅も騏驥と速さを同じくす。人に因りて事を成すは、その功難からず。此れより談ずれば、上智に非ずと雖も、命を受けたる主に事え、質を委ねて臣と為り、高世の才に遇い、官を連ね席を接する者は、皆な以て天地を翊亮し、名を鐘鼎に流す可し。何ぞ必ずしも蒼頡の書を造り、伊尹の命を制し、公旦の筆を操り、老聃の史を為りて、然る後に帝王の事を叙し、人鬼の謀を談ずるを要せんや。

我が皇家が国を建てるに及び、初めは大興と号したが、箕子の必ず大いにならんとの言は、ここにおいて実証された。天の眷命は、聖朝に懸け属し、重耳の区区たるは、どうして言うに足りようか。有娀の玄鳥ありて、商はこれによりて興り、姜嫄の巨跡ありて、周はこれによりて興り、邑姜が帝を夢みて、隋はこれによりて興った。古今三代、霊命は一の如く、本枝は徳を種とし、奕葉は丕基をなす。高帝を佐けて楚を滅ぼし、宣皇を立てて漢を定む。東京の太尉、関西の孔子、生けるには遺鱣の集まるを感じ、没するには巨鳥の奇なるを降し、仁を累ね善を積み、大いに休命を申べた。太祖は挺生し、民を庇い主を匡し、魏室において殊勲を立て、周朝において盛業を建てた。翼軫の国を啓き、炎精の紀を肇め、爰に厥の命を受け、彼の天に陟配す。皇帝の載誕の初め、神光室に満ち、興王の表を具え、大聖の能を韞む。或いは気或いは雲、廊廟に廕映し、天の如く日の如く、軒冕に臨照す。内は明らかに外は順い、自ら険より安きを獲る、これ万福の扶持、百禄の集まるに非ずや。周の末、朝野騷然たり、志を降して均を執り、宗社を鎮衛す。明神は其の徳を饗い、上帝は其の民を付し、奸逆を九重に誅し、神化を四海に行う。この時に当たり、尉遅迥は斉累世の都を拠有し、新国易乱の俗に乗じ、蛇豕を駆馳し、縦横に連合し、地は九州にして三を陥れ、民は十分にして六を擁す。王謙は連率の威に乗じ、全蜀の険に憑り、兵を興し衆を挙げ、江山を震盪し、巴・庸に鴆毒し、秦・楚を蚕食す。この二虜、窮凶極逆にして、鴻溝の地を割かんと欲するに非ず、剣閣の門を閉ざさんと欲するに非ず、皆長戟強弩を将い、宸極を睥睨す。漳河より負海に達し、岱岳を連ねて華陽に距り、荊蛮を迫脅し、江漢を吐納す。闘を佐けて禍を嫁ぎ、紛として蝟毛の若く、骨を曝し腸を履み、間礪を容れず。爾にして殪戎の命を奉じ、先天の略を運じ、戸庭を出でずして、轂を推し閫を分ち、一麾にして三方を定め、数旬にして万国を清む。天壤を蕩滌するの速さ、規摹指画の神さは、造化以来、これを聞かざるなり。前緒を光熙こうきし、服せざるものなく、煙雲色を改め、鐘石音を変じ、三霊顧望し、万物影響す。木運尽きんことを告げ、裳を褰ぎて克く譲り、天暦躬に在りて、推して有せず。百辟庶尹、四方の岳牧、図讖の文を稽え、億兆の請に順い、肝を披き胆を瀝し、昼は歌い夜は吟じ、方に箕潁の高を屈し、式に幽明の願を允す。基命宥密、恒の如く升の如く、帝居を推して歆し、業を創え統を垂る。徽号を殊にし、服色を改め、都邑を建て、彝倫を叙し、賦を薄くし徭を軽くし、刑を慎み獄を恤み、繁苛の政を除き、清静の風を興し、無用の官を去り、相監の職を省く。奇才間出し、盛徳隠れず、星精雲気、共に階墀に趨走し、山神海霊、咸く台閣に燮理す。東は日穀に漸み、西は月川に被り、教は北溟の表に暨び、声は南海の外に加わる。悠悠たる沙漠、区域万里、蠢蠢たる百蛮、これと競うもの莫し。五帝の化せざる所、三王の賓せざる所、膝を屈し顙を頓し、尽く臣妾と為る。殊方異類、書契伝わらず、山に梯し海を越え、琛を貢ぎ贄を奉じ、欣欣として然り。巣に居り穴に処するを、宮室に化し、火せず粒せざるを、庖厨に訓む。礼楽は天地の同に合し、律呂は寒暑の候を節し、制作は垂衣の後に詳らかにし、淳粋は神農の前に得たり。文雅の場に遨遊し、杳冥の極に出入し、神に合い鬼に謨し、幽を通じ微を洞く。群物歳成し、含生日用し、和気を飲みて自得し、玄沢を沐して知らず。丹雀使いと為り、玄龜書を載せ、甘露天より自らし、醴泉地より出づ。神禽異獣、珍木奇草、風を望み海を観て、化に応じ風に帰す。休祥を図牒に備え、幽遐を罄して戾止す。猶且つ天を父とし民を子とし、兢兢翼翼、至れり大いなり、七十四帝、どうして同年に語らんや。

およそ天下の重きは、妄りに拠るべからず、故に唐の許由、夏の伯益は、道を懐き事を立て、人授くるも而も肯えず。軒初の四帝、周余の六王は、世を藉り基に因り、自ら取るも而も得ず。孟軻は仲尼の徳は堯・舜に過ぐと称し、著述は帝者の事を成し、弟子は王佐の才を備うるも、黒は蒼に代わらず、麟を泣き鳳を歎じ、棲棲汲汲、聖達と雖も而も許さず。蚩尤は則ち黄帝と抗衡し、共工は則ち黒帝と勍敵し、項羽こううは秦を誅し漢を摧き、神州を宰割し、角逐争駆し、威力を尽くして而も就くこと無し。其の余の欻起する妖妄は、どうして数うるに足らんや。賊子逆臣、乱を為す所以は、皆天道を識らず、人謀を悟らず、逐鹿の邪説に牽かれ、飛鳧を謂いて鼎と為すによる。若し四凶八元の誠を争い、三監九臣の志を同じくし、韓信かんしん・彭越深く帝子の符を明らかにし、孫述・隗囂妙に真人の出を識り、尉遅迥謳歌の類に同じくし、王謙獄訟の民に比せば、福禄蝉聯、どうして窮まらんや。而るに天に違い物に逆らい、人神に罪を獲る。嗚呼、これ前事の大戒なり。誅夷烹醢、歴代共に尤むる所、僭逆凶邪、時に獄吏を煩わす、どうして戒慎せざらんや。蓋し積悪既に成れば、心自ずから善道に絶ち、物類相感ずれば、理必ず誅戮に至る。天其の魄を奪い、鬼其の盈を悪む故なり。大帝聡明、群臣正直、耳目率土に濫り、賞罰国朝に参し、一人を輔助し、兆庶を覆育す。どうして人の禄を食い、人の栄を受け、禍心を包蔵して而も殲尽せざる者あらんや。必ずや法を執りて未だ其の罪を処せざるに、司命已に其の籍を除かん。古より明哲、遠く慮り微を防ぎ、一心を執り、一徳を持ち、功を立つて樹に坐し、書を上して槁を削り、位尊くして心愈々下り、禄厚くして志弥々約まり、寵盛んなれば之を思いて懼れ、道高ければ之を守りて恭しく、此に克く念えば、則ち奸回至らず。事は乃ち天を畏るるに在り、どうしてただ礼を愛するのみならんや、謙光満覆し、義は幾を知るに在り、吉凶人に由り、妖自ら作らず。

衆星極を共にし、天に在りて象を成す。夙沙は則ち主愚蔽と雖も、民尽く帰するを知り、有苗は則ち始め跋扈と為り、終に大いに服す。漢南の諸国、一面を見て以て殷に従い、河西の将軍、五郡を率いて以て漢に帰す。故に信順の助を招き、泰山の安を保つことを能くす。彼の陳国は、江外を盗竊し、民一郡に少なく、地半州に減じ、受命の主に遇い、太平の日に逢い、自ら土を献じ璧を銜み、溥天に同じからんことを乞うべし。乃ち復た喪家の疹を養い、顛覆の軌を遵い、呉越に趑趄し、仍って匪民と為る。時に大道に属し、兵を偃げ戚を舞わすと雖も、然れども国家混一の運に当たり、金陵は殄滅の期に在り、命有りて恒ならず、断じて知るべし。房風の戮、元龜遥かならず、孫皓の侯、守株得難し。迷いて未だ覚めざるは、諒に湣むべし。斯れ故に玄天の心を弁えず、君子の論を聞かざるなり。

李德林は隋が天下を有して以来、毎度陳平定の計略を補佐した。八年、帝の車駕が同州に行幸した際、徳林は病を理由に従わなかった。詔書を以て追及し、書状の後に御筆で注記して云う、「陳討伐の事柄については、自ら随行すべきである」と。時に高熲が使いとして京に入った折、上は高熲に語って云う、「徳林が病で行けぬというなら、自らその邸宅に至り、その方略を取るがよい」と。高祖はこれを晋王広に託した。後に車駕に従って還る途中、高祖は馬鞭を南に指して云う、「陳平定の後には、必ず七宝を以て公を飾り立て、山東に並ぶ者なからしめよう」と。陳平定の後、柱国・郡公を授け、実封八百戸、賞賜の品三千段を賜う。晋王広が既に詔を宣した後、ある者が高熲に説いて云う、「天子の策謀と晋王及び諸将の尽力によるものである。今これを李徳林に帰功すれば、諸将は必ず憤慨し、後世の人も公が虚行に過ぎなかったと見るであろう」と。高熲が入ってこれを言上すると、高祖はやめて止めた。

初め、大象の末、高祖は逆賊王謙の邸宅を徳林に賜わったが、文書が既に出され、地官府に至った時、忽ち改めて崔謙に賜うこととなった。上は徳林に語って云う、「夫人が欲しがり、その舅に与えようとする。公には何の痕跡もないから、争う必要はなく、自ら一つの好宅を選ぶがよい。もし気に入らなければ、当に営造し、併せて荘店を求めて代えとしよう」と。徳林はそこで奏上して逆賊高阿那肱の衛国県市店八十区を王謙邸宅の代わりに取ることを請うた。九年、車駕が晋陽に行幸した際、店人が上表して訴えて云う、「土地は民の物であり、高氏が強奪し、その内に舎宅を造った」と。上は有司に命じて価格を計算して返還させた。折しも蘇威が長安から追及されて至り、奏上して云う、「高阿那肱は乱世の宰相であり、諂媚によって寵を得、枉げて民地を取り、店を造って賃貸した。徳林は誣妄し、妄りに奏上して自らに入れた」と。李円通・馮世基等もまた進み出て云う、「この店の収益は千戸を食うが如く、日数を計って贓物を追及すべきである」と。上はそこで徳林を責め、徳林は逆賊の文簿及び元の宅地交換の意図を調査することを請うたが、上は聞き入れず、遂に店を悉く追い返して住人に与えた。この事以来、益々徳林を疎んじた。十年、虞慶則等が関東諸道の巡省使から還り、一斉に奏上して云う、「五百家郷正は、専ら訴訟を処理し、民に不便である。党と愛憎により、公然と賄賂を行っている」と。上はそこでこれを廃止することを命じた。徳林はまた奏上して云う、「この事は臣が元より不可と為すものである。然しながら設置してより未だ浅く、直ちに停廃すれば、政令が一でなく、朝に成り暮れに毀つは、深く帝王が法を設ける義に非ず。臣は陛下がもし律令を改張せんと欲せば、即ち軍法を以てこれに従事せられんことを望む。然らずんば、紛紜として未だ已まざるべし」と。高祖は遂に怒りを発し、大いに罵って云う、「爾は我を王莽にしようとするのか」と。初め、徳林は父を太尉諮議と称し、贈官を得ようとしたが、李元操と陳茂等が密かにこれを奏上して云う、「徳林の父は校書で終わり、妄りに諮議と称した」と。上は甚だこれを恨んだ。この時、また朝廷の議論で上意に逆らい、数えて云う、「公は内史として朕の機密を掌り、比来計議に預からせざるは、公が弘くないからである。自ら知っているか。朕は方に孝を以て天下を治めんとし、この道が廃れることを恐れ、故に五教を立ててこれを弘めようとする。公は孝は天性によるもので、教えを設ける必要はないと言う。然らば孔子は『孝経』を説くべきではなかったことになる。また誣妄して店を取り、妄りに父の官を加えたこと、朕は実にこれを忿りながら未だ発することができなかった。今は一州を以て遣わすのみである」と。そこで湖州刺史として出された。徳林は拝謝して云う、「臣は再び内史令を望まず、散参に預からんことを請う。陛下が登封して告成するを待ち、一たび盛礼を観て、然る後に拙を丘園に収め、死すとも恨みなし」と。上は許さず、懐州刺史に転じた。州において旱魃に遭い、民に命じて井戸を掘り田を灌漑させたが、空しく労擾を致し、竟に補益なく、考課司によって貶された。歳余、官において卒す。時に年六十一。大将軍・廉州刺史を追贈し、諡して文と曰う。葬ろうとする時、詔令して羽林百人、並びに鼓吹一部を以て喪事に給し、贈物三百段、粟千石を賜い、太牢を以て祭った。

徳林は容貌端麗で、談吐に優れ、斉の天統年間、中書侍郎を兼ね、賓館において国書を受けた。陳の使者江総は目を送って云う、「これ即ち河朔の英霊である」と。器量は沈深にして、当時の人は測ることができず、ただ任城王高湝・趙彦深・魏収・陸遝が大いに欽重し、名誉を延ばす言葉は及ばざる所がなかった。徳林は幼くして孤となり、字がなかったが、魏収がこれに謂って云う、「識度天才にして、必ず公輔に至る。我は輒くにこれをもって卿に字す」と。官に従う以後、即ち機密を掌り、性質重慎にして、嘗て云う、「古人が温樹を言わざるは、何ぞ称するに足らん」と。少時より才学を以て知られ、位望稍く高まるに及び、頗る自任を傷つけ、名を争う徒が更に相譖毀したので、運は興王に属し、功は佐命に参じながら、十余年間竟に位階を移さず。撰した文集は、八十巻に勒すも、乱に遭い亡失し、現行するは五十巻である。詔により撰した『斉史』は未だ成らず。

子に百薬あり。

子に百薬あり。博く渉猟し多才にして、詞藻清贍たり。太子通事舎人に任じ、後に太子舎人・尚書礼部員外郎に遷り、安平県公の爵を襲い、桂州司馬となる。煬帝は其の初め己に附さざるを悪み、歩兵校尉こういと為す。大業の末、建安郡丞に転ず。

史臣曰く。

史臣曰く、徳林は幼より操尚有り、学富み才優れ、誉れは鄴中に重く、声は関右に飛ぶ。王基を締構し、謀猷に協賛し、羽檄交馳し、絲綸間発す。文誥の美は、時に二と与うる者なし。君臣体合し、自ら青雲に致る。己を知る莫きを患えず、豈に徒言ならんや。