隋書

卷四十一 列傳第六 高熲 蘇威

高熲

高熲は、字を昭玄といい、一名は敏という。自ら渤海郡蓚県の人であると称した。父の賓は、北斉に背いて北周に帰順し、大司馬の獨孤信に召されて僚佐とされ、獨孤氏の姓を賜った。獨孤信が誅殺されると、妻子はしょくに移された。文獻皇后(獨孤信の娘)は、賓が父の故吏であった縁故で、しばしばその家に出入りした。賓は後に鄀州刺史に至り、高熲が貴くなると、礼部尚書・渤海公を追贈された。

高熲は若い頃から聡明で機敏、器量と見識があり、経書や史書を少し学び、特に弁舌に優れていた。幼い頃、家に柳の木があり、高さは百尺ほどで、亭々として傘蓋のようであった。里の父老は「この家から貴人が出るであろう」と言った。十七歳の時、北周の斉王宇文憲に召されて記室となった。武帝の時、武陽県伯の爵位を襲封し、内史上士に任じられ、まもなく下大夫に遷った。北斉平定の功により開府に任じられた。まもなく越王宇文盛に従って隰州の叛いた胡人を撃ち、平定した。高祖こうそ(楊堅)が政権を握ると、平素から高熲が強く聡明で、また軍事に通じ、計略が多いことを知っており、彼を丞相府に引き入れたいと考え、邗国公楊惠に意を伝えさせた。高熲はその旨を受け、喜んで言った。「お仕えしたい。たとえ公(楊堅)の大事が成らなくとも、高熲は滅族を辞さない」。そこで相府司録となった。当時、長史の鄭訳と司馬の劉昉はともに奢侈で放縦なため疎んじられており、高祖はますます高熲に目をかけ、腹心として委ねた。尉遅迥が兵を起こすと、その子の惇に歩騎八万を率いさせ、武陟に進軍して駐屯させた。高祖は韋孝寛にこれを討たせたが、軍は河陽に至り、誰も先に進もうとしなかった。高祖は諸将の意見が一致しないのを見て、崔仲方に監軍を命じたが、仲方は父が山東にいることを理由に辞退した。その時、高熲はまた劉昉と鄭訳に赴く意思がないのを見て、自ら行くことを請い、上意に深く合ったので、高熲が派遣されることとなった。高熲は命を受けるとすぐに出発し、人を遣わして母に別れを告げ、忠と孝は両立し難いと言って、すすり泣きながら道についた。軍に至ると、沁水に橋を架け、賊が上流から大いかだを流してきたが、高熲はあらかじめ土狗(水防用の土嚢)を造って防いだ。渡河後、橋を焼き払って戦い、大いにこれを破った。ついに鄴城ぎょうじょうの下に至り、尉遅迥と交戦し、宇文忻・李詢らとともに策を設け、尉遅迥を平定した。軍が帰還すると、寝殿で宴に侍り、上は御帳を撤けて高熲に賜った。位は柱国に進み、義寧県公に改封され、相府司馬に遷り、信任と委任はますます厚くなった。

高祖が禅譲を受けると、尚書左僕射に任じられ、納言を兼ね、渤海郡公に進封された。朝臣で彼に比肩する者はなく、上はしばしば「獨孤」と呼び、名を呼ばなかった。高熲は権勢を深く避け、上表して位を譲り、蘇威に譲ろうとした。上はその美意を成そうとし、僕射の職を解くことを許した。数日後、上は言った。「蘇威は前朝に隠遁していた者であり、高熲が推挙したのだ。賢人を進める者は上賞を受けると聞く。どうして官を去らせることができようか」。そこで高熲に元の職に復するよう命じた。まもなく左衛大将軍に任じられ、本来の官職はそのままとした。当時、突厥がたびたび寇患となったため、詔により高熲は辺境の鎮圧にあたった。帰還すると、馬百余匹、牛羊数千頭を賜った。新都大監を領し、制度の多くは高熲が出したものであった。高熲はしばしば朝堂の北の槐の木の下に座って政務を聴いたが、その木は列に沿っていなかったため、役人が伐ろうとした。上は特に伐らぬよう命じ、後世に示した。これほど重んじられたのである。また左領軍大将軍に任じられ、その他の官職はもとのままとした。母の喪で職を去ったが、二十日で出仕を命じられた。高熲は涙を流して辞退したが、優詔で許されなかった。

開皇二年、長孫覧・元景山らが陳を討つこととなり、高熲に諸軍の節度を命じた。ちょうど陳の宣帝が崩御したため、高熲は礼に照らして喪中の国を討つべきでないとし、軍を返すよう奏上した。蕭岩が叛いた時は、詔により高熲が江漢の地を綏撫し集め、人心を大いに得た。上はかつて高熲に陳を取る策を問うた。高熲は言った。「江北は土地が寒く、田の収穫はやや遅い。江南は土地が熱く、水田は早く熟する。彼らの収穫と蓄積の時期を見計らい、少し兵馬を徴発し、襲撃するふりをします。彼らは必ず兵を屯させて防衛に当たり、十分にその農時を妨げることができます。彼らが兵を集めたら、我々は武装を解きます。これを再三繰り返せば、賊は常のことと思いましょう。その後、再び兵を集めても、彼らは必ず信じず、躊躇している間に、我々が軍を渡し、上陸して戦えば、兵の士気は倍増します。また、江南の土地は薄く、家屋は多くが竹や茅でできており、蓄えはすべて地窖ではありません。密かに使者を遣わし、風に乗じて火を放ち、彼らが修復するのを待って、また焼きます。数年と経たぬうちに、自ずから財力ともに尽きるでしょう」。上はこの策を行い、これにより陳人はますます疲弊した。九年、晋王楊広が大挙して陳を討つこととなり、高熲を元帥長史とし、三軍の諮問と稟議はすべて高熲の決断に委ねられた。陳が平定されると、晋王は陳主の寵姫張麗華を娶ろうとした。高熲は言った。「武王が殷を滅ぼした時、妲己を誅しました。今、陳国を平定して、麗華を取るのは宜しくありません」。そこで斬るよう命じたため、晋王は大いに不悦であった。軍が帰還すると、功により上柱国を加授され、斉国公に爵位を進められ、物九千段を賜り、千乗県千五百戸を食邑として定められた。上は労って言った。「公が陳を討った後、公が謀反すると言う者がいたが、朕はすでに斬った。君臣の道が合うものは、青蠅(讒言)が間に入ることはない」。高熲はまた位を譲ろうとした。詔して言った。「公は識見と鑑識が遠くに通じ、器量と謀略が優れて深い。外に出て軍律に参じ、淮海を廓清し、内に入って禁旅を司り、まことに朕の心腹として委ねられた。朕が天命を受けて以来、常に機要を掌り、誠を尽くして力を陳べ、心と跡とがともに尽きている。これは天が良輔を降し、朕を輔け贊えているのであり、どうか辞退の言葉は無用である」。これほど優遇し賞賛されたのである。

その後、右衛将軍の龐晃および将軍の盧賁らが、前後して上に高熲の短所を言った。上は怒り、彼らは皆、疎んじられて罷免された。そこで高熲に言った。「獨孤公は鏡のようなものだ。磨かれるたびに、皎然としてますます明らかになる」。間もなく、尚書都事の姜曄と楚州行参軍の李君才がともに上奏し、水害と旱害が調わないのは高熲の罪であるとして、彼を廃し罷免するよう請うた。二人はともに罪を得て去り、上と高熲との親密さと礼遇はますます深まった。上がへい州に行幸した時、高熲を留めて留守を守らせた。上が京に戻ると、縑五千匹を賜り、さらに行宮一区を賜って荘舎とした。その夫人の賀抜氏が病臥すると、中使が見舞いに訪れ、絶えることがなかった。上は自らその邸宅に行幸し、銭百万、絹万匹を賜り、さらに千里馬を賜った。上はかつて気楽に高熲と賀若弼に命じて、陳平定のことを語らせた。高熲は言った。「賀若弼は先に十の策を献じ、後に蔣山で苦戦して賊を破りました。臣は文吏に過ぎず、どうして大将軍と功を論じられましょう」。帝は大笑いし、当時の論はその譲りの心を称賛した。まもなく、その子の表仁が太子楊勇の娘を娶ることとなり、前後して賜わったものは数え切れなかった。時に熒惑(火星)が太微垣に入り、左執法星を犯した。術者の劉暉がひそかに高熲に言った。「天文は宰相に不利です。徳を修めてこれを攘うべきです」。高熲は不安を覚え、暉の言葉を奏上した。上は厚く賞賜して慰めた。突厥が塞を犯すと、高熲を元帥として賊を撃ち破らせた。また白道から出撃し、進んで磧に入ることを図り、使者を遣わして兵を請うた。近臣がこのことを根拠に高熲が謀反を企てていると言ったが、上は何も答えず、高熲もまた賊を破って帰還した。

時に皇太子楊勇は上(文帝)の寵愛を失い、密かに廃立の意図があった。上は高熲に謂いて曰く、「晋王妃(楊広の妃)に神霊が憑いて、王(楊広)必ず天下を得ると言う。どうしたものか。」熲は長跪して曰く、「長幼の序あり、どうして廃することができましょうか。」上は黙然として止めたが、独孤皇后は高熲の意志が奪い難いことを知り、密かに彼を除こうとした。夫人(高熲の妻)が卒去すると、后は上に言うことには、「高僕射は老いて、夫人を喪いました。陛下はどうして彼のために娶らせてやらないのですか。」上は后の言葉を以て高熲に告げると、熲は涙を流して謝して曰く、「臣は今や既に老い、退朝の後は、ただ斎居して仏経を読むのみです。陛下の深き哀憐を垂れ給うも、室を納れることは、臣の願うところではありません。」上は乃ち止めた。ここに至り、熲の愛妾が男児を産むと、上はこれを聞いて大いに歓び、后は甚だ悦ばなかった。上はその故を問うと、后は曰く、「陛下はなお高熲を信じるのですか。初め陛下が熲のために娶らせようとした時、熲は心に愛妾を存し、面と向かって陛下を欺きました。今その詐り已に見えました。陛下どうして彼を信じられましょう。」上はここにおいて高熲を疎んじた。時に遼東征伐を議し、熲は固く諫めて不可とす。上は従わず、熲を以て元帥長史と為し、漢王楊諒に従って遼東を征し、霖潦と疾疫に遇い、利あらずして還った。后は上に言うことには、「熲は初め行きたがらず、陛下が強いて遣わされた。妾は固よりその功無きを知っていました。」また上は漢王が年少であることを以て、軍務を専ら高熲に委ねた。熲は任寄が隆重なるを以て、常に至公を懐き、自ら疑う意無し。諒の言うところ多く用いられず、甚だこれを恨んだ。還ると、諒は泣いて后に言うことには、「児は幸いに高熲に殺されずに済みました。」上はこれを聞き、ますます不平を抱いた。やがて上柱国王世積が罪を以て誅せられ、推覈の際に、宮禁中の事有り、高熲の処より得たと云う。上は高熲の罪を成そうとし、これを聞いて大いに驚いた。時に上柱国賀若弼、呉州総管宇文彌、刑部尚書薛冑、民部尚書斛律孝卿、兵部尚書柳述等、高熲の無罪を明らかにす。上はますます怒り、皆これを属吏と為した。ここより朝臣敢えて言う者無し。熲は遂に坐して免官せられ、公の爵位のまま邸宅に退いた。未だ幾ばくもせず、上は秦王楊俊の邸に行幸し、高熲を召して宴に侍らせた。熲は歔欷して悲しみに勝えず、独孤皇后もまたこれに対いて泣き、左右皆涙を流した。上は高熲に謂いて曰く、「朕は公に背かず、公自ら背いたのである。」因りて侍臣に謂いて曰く、「我が高熲に対するは、子に勝る。或いは見ざると雖も、常に目の前に在るが如し。その解落してより、瞑然としてこれを忘る、本より高熲無きが如し。身を以て君に要することはできず、自ら第一と云うべからず。」

間もなく、熲の国令(封国の役人)が高熲の陰事を上告し、称することには、「その子の表仁が高熲に謂いて曰く、『司馬仲達(司馬懿)は初め疾を托して朝せず、遂に天下を得た。公今この事に遇う、どうして福ならざるを知らんや。』と。」ここにおいて上は大いに怒り、高熲を内史省に囚えてこれを鞫いた。憲司(御史台)また高熲の他の事を奏し、云うには、「沙門真覚嘗て高熲に謂いて云う、『明年国に大喪有り。』と。尼の令暉また云う、『十七、十八年、皇帝大厄有り。十九年は過ごすべからず。』と。」上は聞いてますます怒り、群臣を顧みて曰く、「帝王はどうして力求むべきか。孔子は大聖の才を以て、法を作り世に垂れる。寧ろ大位を欲せざるや。天命なるのみ。高熲が子と語り、自ら晋帝(司馬炎)に比する、これは何の心か。」有司高熲を斬ることを請う。上は曰く、「去年虞慶則を殺し、今年王世積を斬る。更に高熲を誅せば、天下我をどう謂わん。」ここにおいて除名して民と為す。高熲初めて僕射と為しし時、その母これを誡めて曰く、「汝の富貴は已に極まれり。ただ一たびの斬頭あるのみ。爾宜しくこれを慎め。」高熲はここより常に禍変を恐れた。ここに及び、高熲は歓然として恨みの色無く、禍を免れたるを得たりと以為う。

煬帝即位し、太常に拝す。時に詔して周・斉の故楽人及び天下の散楽を収む。高熲奏して曰く、「この楽は久しく廃れたり。今或いはこれを徴すれば、識無きの徒、本を棄てて末に逐い、互いに教習するを恐る。」帝悦ばず。帝時に侈靡にして、声色ますます甚だしく、また長城の役を起こす。高熲はこれを甚だ憂い、太常丞李懿に謂いて曰く、「周天元(北周宣帝)は楽を好みて亡ぶ。殷の鑑遠からず、どうしてまた爾ることをせん。」時に帝は啓民可汗に遇するに恩礼過厚なり。高熲は太府卿何稠に謂いて曰く、「この虜は頗る中国の虚実、山川の険易を知る。後患と為るを恐る。」また観王楊雄に謂いて曰く、「近頃朝廷に殊に綱紀無し。」或る人これを奏す。帝は朝廷の政を謗訕すと以為い、ここにおいて詔を下してこれを誅し、諸子を辺境に徙す。

高熲は文武の大略有り、世務に明達す。任寄を蒙るに及びし後は、誠を竭くし節を尽くし、貞良を進引し、天下を以て己が任と為す。蘇威、楊素、賀若弼、韓擒虎等は、皆高熲の推薦する所、各々その用を尽くし、一代の名臣と為る。その余の功を立て事を立つる者は、数うるに勝えず。当朝執政すること将に二十年、朝野推服し、物に異議無し。治まって升平に致るは、高熲の力なり。論ずる者、真の宰相と以為う。その誅せらるるに及びし時、天下傷み惜しまざる無く、今に至るまで冤を称して已まず。所有の奇策密謀及び時政を損益する事、高熲は皆稿を削り、世に知る者無し。

その子の盛道は、官莒州刺史に至り、柳城に徙されて卒す。次ぎの弘徳は、応国公に封ぜられ、晋王府記室と為る。次ぎの表仁は、渤海郡公に封ぜられ、蜀郡に徙される。

蘇威

蘇威は、字を無畏と曰い、京兆武功の人なり。父は綽、魏の度支尚書。威は少にして至性有り、五歳にして父を喪い、哀毀すること成人の若し。周の太祖の時、美陽県公の爵を襲ぎ、郡の功曹に仕う。大塚宰宇文護これを見て礼し、その女新興公主を以て妻と為す。護の権を専らにするを見て、禍の己に及ぶを恐れ、山中に逃れ入る。叔父に逼られて、遂に免れ獲ず。然れども威は常に山寺に屏居し、諷読を以て娯しみと為す。未だ幾ばくもせず、使持節・車騎大将軍・儀同三司を授けられ、封を改めて懐道県公と為す。武帝自ら万機を総べ、稍伯下大夫に拝す。前後授かる所の官、並びに疾を辞して拝せず。従父妹有り、河南の元雄に適す。雄は先に突厥と隙有り。突厥朝に入り、雄及びその妻子を請い、将に甘心せんとす。周遂にこれを遣わす。威曰く、「夷人は利に昧し、賂を以て動かすべし。」遂に田宅を標売し、家の所有を罄くして以て雄を贖い、論ずる者これを義とす。宣帝位を嗣ぎ、就いて開府を拝す。

高祖(楊堅)丞相と為り、高熲屡々その賢を言い、高祖もまた素よりその名を重くし、これを召す。至るに及び、臥内に引入れ、語らいて大いに悦ぶ。月余り居るに、威は禅代の議を聞き、遁れて田里に帰る。高熲これを追わんことを請う。高祖曰く、「これは吾が事に預かるを欲せず。暫くこれを置け。」禅を受けしに及び、征して太子少保に拝す。その父を追贈して邳国公と為し、邑三千戸、威を以てこれを襲がしむ。間もなく納言・民部尚書を兼ぬ。威は表を上って陳讓す。詔して曰く、「舟大なる者は任重く、馬駿なる者は遠く馳す。公は兼人の才あるを以て、多務を辞すること無かれ。」威乃ち止む。

初めに、蘇威の父は西魏に在りて、国用の不足を以て、徴税の法を作り、頗る重しと称せられたり。既にして歎きて曰く、「今なす所のものは、正に弓を張るが如く、平世の法に非ず。後の君子、誰か能く弛めんや」と。威その言を聞き、毎に以て己が任と為す。ここに至り、賦役を減ずるを奏し、務めて軽典に従わんとし、上悉く之に従う。漸く親重を見るに至り、高熲と朝政を参掌す。威宮中に銀を以て幔鉤と為すを見、因りて節倹の美を盛んに陳べて以て上を諭す。上之が為に容を改め、旧物の彫飾を悉く除毀せしむ。上嘗て一人に怒り、将に之を殺さんとす。威閤に入り進諫すも、納れられず。上怒り甚だしく、将に自ら出でて之を斬らんとす。威上前に当たり去らず。上之を避けて出づるも、威又遮り止む。上衣を払いて入る。良久にして、乃ち威を召して謝して曰く、「公能く此くの如くせば、吾憂い無し」と。ここに於いて馬二匹、銭十余万を賜う。尋いでまた大理卿・京兆尹・御史大夫を兼ね、本官悉く旧の如し。

治書侍御史梁毗、威が五職を領し、繁劇に安んじて恋い、賢を挙げて自ら代わるの心無きを以て、表を抗して威を劾す。上曰く、「蘇威朝夕孜孜として、志は遠大に存し、賢を挙ぐるに闕有りと雖も、何ぞ遽かに之を迫らんや」と。顧みて威に謂いて曰く、「之を用うれば則ち行い、之を捨つれば則ち蔵す、唯だ我と爾と是れ有らんか」と。因りて朝臣に謂いて曰く、「蘇威我に値せずんば、以て其の言を措くこと無からん。我蘇威を得ずんば、何を以て其の道を行わん。楊素才弁無双なりと雖も、古今を斟酌し、我を助けて化を宣ぶるに至りては、威の匹に非ず。蘇威若し乱世に逢わば、南山の四皓、豈に易く屈せんや」と。其の重んぜらるること此くの如し。

未だ幾ばくもあらざるに、刑部尚書を拝し、少保・御史大夫の官を解く。後京兆尹廃せられ、雍州別駕を検校す。時に高熲と威と心を同じくして協賛し、政刑の大小、之を籌わざる無く、故に革運数年、天下治まりと称す。俄かに民部尚書に転じ、納言は旧の如し。山東諸州の民饑うるに属し、上威に令して之を賑恤せしむ。後二載、吏部尚書に遷る。歳余り、国子祭酒を兼領す。隋は戦争の後を承け、憲章踳駁す。上朝臣に令して旧法を厘改し、一代の通典と為さしむ。律令格式、多く威の定むる所、世以て能と為す。九年、尚書右僕射を拝す。其の年、母憂に以て職を去り、柴毀骨立す。上威に勅して曰く、「公德行人に高く、情寄殊に重し。大孝の道は、蓋し同じく俯就すべし。必須く抑割し、国の為に身を惜しむべし。朕の公に於ける、君と為り父と為る。宜しく朕の旨に依り、礼を以て自ら存すべし」と。未だ幾ばくもあらざるに、起して事を視せしむ。固く辞すも、優詔許さず。明年、上并州に幸し、高熲と同しく留事を総べしむ。俄かに行在所に詣るを追い、民訟を決せしむ。

威の子夔、少くより天下に盛名有り、賓客を引致し、四海の士大夫多く之に帰す。後楽事を議す。夔と国子博士何妥と各おの持する所有り。ここに於いて夔・妥俱に一議と為り、百僚をして其の同ずる所に署せしむ。朝廷多く威に附き、夔に同ずる者十の八九。妥恚りて曰く、「吾席間函丈四十余年、反って昨暮児の屈する所と為る」と。遂に威と礼部尚書盧愷・吏部侍郎薛道衡・尚書右丞王弘・考功侍郎李同和等と共に朋党を為すを奏す。省中王弘を世子と呼び、李同和を叔と為し、二人の威の子弟の如きを言う。又威が曲道を以て其の従父弟徹・肅等を任じ罔冒して官と為すを言う。又国子学、蕩陰の人王孝逸を請いて書学博士と為さんとす。威盧愷に属し、以て其の府の参軍と為さしむ。上蜀王秀・上柱国虞慶則等をして雑治せしむ。事皆験す。上『宋書』謝晦伝中の朋党の事を以て威に令して之を読ましむ。威惶懼し、冠を免じて頓首す。上曰く、「謝すること已に晩し」と。ここに於いて威の官爵を免じ、開府を以て第に就かしむ。知名の士威に坐して罪を得る者百余り。未だ幾ばくもあらざるに、上曰く、「蘇威は徳行有る者、但だ人の誤る所と為るのみ」と。之を通籍せしむ。歳余り、また爵を邳公とし、納言を拝す。太山に祠るに従い、不敬に坐して免ぜらる。俄にして位に復す。上群臣に謂いて曰く、「世人蘇威の清きを詐ると言い、家に金玉を累ぬと。此れ妄言なり。然れども其の性狠戾にして、世の要に切せず、名を求むること甚だ甚だし。己に従えば則ち悦び、之に違えば必ず怒る。此れ其の大病なり」と。尋いで節を持し江南を巡撫せしめ、便宜に従事するを得しむ。会稽を過ぎ、五嶺を逾えて還る。時に突厥の都藍可汗屡々辺患と為る。また威をして可汗の所に至らしめ、和親を結ばしむ。可汗即ち使いを遣わし方物を献ず。勤労を以て、位を大将軍に進む。仁寿初め、また尚書右僕射を拝す。上仁寿宮に幸し、威を以て留後事を総べしむ。及び上還り、御史威の職事多く理めざるを奏し、之を推せんことを請う。上怒り、威を詰責す。威拝謝し、上亦止む。後上仁寿宮に幸し、せず。皇太子京師より来り疾に侍る。詔して威に京師を留守せしむ。

煬帝位を嗣ぎ、上大将軍を加う。及び長城の役、威諫めて之を止む。高熲・賀若弼等の誅せらるるに、威相連なるに坐し、官を免ぜらる。歳余り、魯郡太守を拝す。俄かに召し還し、朝政に参預せしむ。未だ幾ばくもあらざるに、太常卿を拝す。其の年吐谷渾を征するに従い、位を左光禄大夫に進む。帝威を先朝の旧臣と以て、漸く委任を加う。後歳余り、また納言と為る。左翊衛大将軍宇文述・黄門侍郎裴矩・御史大夫裴蘊・内史侍郎虞世基と朝政を参掌し、時人「五貴」と称す。及び遼東の役、本官を以て左武衛大将軍を領し、位を光禄大夫に進め、爵を甯陵侯と賜う。其の年、房公に進封す。威年老を以て、表を上し骸骨を乞う。上許さず、また本官を以て選事を参掌せしむ。明年、遼東を征するに従い、右禦衛大将軍を領す。

楊玄感の反するや、帝威を帳中に引き、懼色を見せ、威に謂いて曰く、「此の小児聰明、患いと為らざるを得んや」と。威曰く、「夫れ是非を識り、成敗を審にする者は、乃ち所謂聰明なり。玄感粗疏にして、聰明なる者に非ず、必ず慮る所無からん。但だ浸かに乱階と成るを恐るるのみ」と。威労役の息まざるを見、百姓乱を思う。微かに此を以て帝を諷すも、帝竟に寤らず。還りて涿郡に至るに従い、詔して威に関中を安撫せしむ。威の孫尚輦直長儇を以て副と為す。其の子鴻臚少卿夔、先に関中簡黜大使と為り、一家三人、俱に関右に使いを奉じ、三輔之を栄しむ。歳余り、帝手詔して曰く、「玉は潔潤を以てし、丹紫能く其の質を渝うること莫く、松は歳寒を表し、霜雪能く其の采を凋ます。温仁勁直と謂う可し、性の然らしむるか。房公威は器懐温裕、識量弘雅、早く端揆に居り、国章に備悉し、先皇の旧臣、朝の宿歯なり。社稷の棟樑、朕躬を弼諧し、文を守り法を奉じ、身を卑くして礼に率う。昔漢の三傑、恵帝を輔くる者は蕭何しょうか、周の十乱、成王を佐くる者は邵奭。国の宝器は、其れ賢を得るに在り。台階に参燮し、具瞻斯に允かなり。雖複事論道に藉り、終に期す献替に在り。銓衡時務、朝寄重しと為す。開府儀同三司と為す可く、余並びに旧の如し」と。威当時に尊重を見、朝臣之と比ぶる者莫し。

後に雁門に従幸し、突厥に包囲され、朝廷は危険を恐れた。帝は軽騎で包囲を突破しようとしたが、蘇威は諫めて言った、「城を守れば我に余力あり、軽騎は彼の長ずるところなり。陛下は万乗の主、何ぞ軽く脱すべきや」。帝はそこで止めた。突厥もやがて包囲を解いて去った。車駕が太原に至ると、蘇威は帝に言った、「今、盗賊止まず、士馬疲弊す。願わくは陛下、京師に還り、深く根を下ろし本を固め、社稷の計とせられよ」。帝は初めこれを然りとしたが、結局宇文述らの議を用い、遂に東都へ向かった。時に天下大乱し、蘇威は帝が改められぬことを知り、甚だ憂慮した。折しも帝が侍臣に盗賊のことを問うと、宇文述が言った、「盗賊は確かに少なく、憂うるに足らず」。蘇威は偽って答えることができず、身を殿柱に隠した。帝が蘇威を呼んで問うと、蘇威は答えて言った、「臣は職司にあらず、多少を知らず、ただその漸く近きを患う」。帝が「どういうことか」と言うと、蘇威は言った、「かつて賊は長白山に拠り、今は近く滎陽けいよう・汜水にあり」。帝は不悦として罷めた。やがて五月五日に当たり、百官が贈り物を献上し、多くは珍玩を用いた。蘇威は『尚書』一部を献じ、微かに帝を諷したので、帝はますます不平を抱いた。後に再び遼東征伐のことを問うと、蘇威は群盗を赦し、高麗討伐に派遣することを願うと答え、帝はますます怒った。御史大夫裴蘊が旨を伺い、白衣の張行本に奏上させ、蘇威がかつて高陽で選挙を掌り、人に官を濫授し、突厥を畏怯し、京師への還還を請うたとさせた。帝はその事を審理させた。獄が成ると、詔を下して言った、「蘇威は性来朋党を立て、異端を好み、詭道を懐挟し、名利に徼幸し、律令を詆訶し、台省を謗訕す。往年の薄伐に際し、先志を奉述し、凡そ切問に預かる者は各々胸臆を尽くせしに、蘇威は開懐せず、遂に対命無し。啓沃の道、其れかくの如きか。資敬の義、何ぞ其れ甚だ薄きや」。ここに於いて名を除き民とした。後一ヶ月余りして、蘇威が突厥と陰に不軌を図ったと奏上する者がおり、大理が文書で蘇威を責めた。蘇威は自ら陳べて、二朝に奉事すること三十余年、精誠微浅にして上感せず、咎釁屡々彰れ、罪は万死に当たると言った。帝は哀れんでこれを釈放した。その年、江都宮に従幸し、帝は再び蘇威を用いようとしたが、裴蘊・虞世基が昏耄で羸疾であると奏言したので、帝は止めた。

宇文化及がしいしいぎゃくした時、蘇威を光禄大夫・開府儀同三司とした。化及が敗れると、李密に帰順した。未だ幾ばくもせず李密が敗れると、東都に帰り、越王楊侗は上柱国・邳公とした。王充が僭号すると、太師に任じた。蘇威は自ら隋室の旧臣として、喪乱に遭い、経る所の地において、皆時勢に応じて消長し、容れられて罪を免れんことを求めた。大唐の秦王が王充を平定し、東都の閶闔門内に坐すと、蘇威は謁見を請い、老病のため拝起できぬと称した。秦王は人を遣ってこれを数えて言った、「公は隋朝の宰輔たりしに、政乱を匡救できず、遂に品物を塗炭に陥れ、君は弑され国は亡びた。李密・王充を見れば、皆拝伏して舞蹈した。今既に老病なれば、相見える労は無用なり」。やがて長安ちょうあんに帰り、朝堂に至って請見したが、また許されなかった。家で卒した。時に八十二歳。

蘇威は身を治めて清儉、廉慎をもって称せられた。公議に至る毎に、人の己に異なることを悪み、仮令小事であっても必ず固く争った。当時の人は大臣の体無しと為した。修めた格令章程は、並びに当世に行われたが、頗る苛細を傷つけ、論者は簡允の法に非ずと為した。大業末年に及び、特に征役多く、論功行賞に至っては、蘇威は毎に風旨を承望し、輒ちその事を寝かせた。時に群盗蜂起し、郡県が表奏して闕に詣る者があれば、また使人を訶詰し、賊の数を減らすよう命じた。故に出師攻討するも多く克捷せず、ここにおいて物議の譏るところとなった。子に蘇夔あり。

子の蘇夔。

蘇夔は字を伯尼といい、少より聡敏で口弁あり。八歳で詩書を誦し、兼ねて騎射を解した。十三歳の時、父に従って尚書省に至り、安德王楊雄と馳射し、賭けで雄の駿馬を得て帰った。十四歳で学に詣で、諸儒と論議し、詞致見るべきものがあり、見る者称善せざるはなかった。長じて、群言を博覧し、特に鐘律を以て自ら任じた。初めは夔と名乗らず、その父が改めたので、頗る有識に笑われた。太子通事舎人より起家した。楊素は甚だこれを奇とし、素は毎に蘇威を戯れて言った、「楊素に児無く、蘇夔に父無し」。後にはい国公鄭訳・国子博士何妥と楽を議し、これによって罪を得、議は寝て行われず。『楽志』十五篇を著し、以てその志を示した。数載を経て、太子舎人に遷る。後に武騎尉を加えられた。仁寿末、詔して天下に礼楽の源に達する者を挙げさせると、晋王楊昭(当時雍州牧)が蘇夔を挙げて応じた。諸州の挙げたる五十余人と共に謁見し、高祖は蘇夔を見て侍臣に謂って言った、「唯だ此の一人のみ、吾が挙ぐる所に称う」。ここにおいて晋王友に拝した。煬帝が嗣位すると、太子洗馬に遷り、転じて司朝謁者となった。父が免職されたため、蘇夔もまた官を去った。後に歴任して尚書職方郎・燕王司馬となった。遼東の役では、蘇夔が宿衛を領し、功により朝散大夫に拝された。時に帝は遠略に勤め、蛮夷の朝貢は前後相属した。帝は嘗て従容として宇文述・虞世基らに謂って言った、「四夷率服し、礼を華夏に観る。鴻臚の職は、須らく令望に帰すべきなり。寧ろ才芸多く、容儀美しく、以て賓客に対接し得る者をこれに為さしむべきか」。皆蘇夔を以て対とした。帝はこれを然りとし、即日に鴻臚少卿に拝した。その年、高昌王麴伯雅が来朝し、朝廷は公主を以て妻とさせた。蘇夔に雅望あり、婚儀を主催させた。その後、弘化・延安等数郡で盗賊蜂起し、所在に屯結したので、蘇夔は詔を奉じて関中を巡撫した。突厥が雁門を囲んだ時、蘇夔は城東面の事を領した。蘇夔は弩楼・車箱・獣圈を造り、一夕にして成した。帝はこれを見て善しとし、功により通議大夫に進位した。父の事に坐し、名を除かれて民とされた。また母の憂いに遭い、哀しみに勝えずして卒した。時に四十九歳。

史評。

史臣曰く、斉公(高熲)は覇図の伊始に早くより経綸に預かり、魚水の冥符、風雲の玄感あり。身を正し道を直くし、運命に弼諧し、心同じく契合し、言は聴かれ計は従われた。東夏を克平し、南国を底定するに、帷幄に参謀し、千里を決勝す。高祖は既に禹跡を復し、堯心を布かんと思い、舟楫の寄る所、塩梅の在る所と為した。兆庶はこれに頼りて康寧し、百僚はこれに資りて輯睦し、年将に二紀、人の間言無し。高祖が儲宮を廃せんとせしに属し、忠信によって罪を得、煬帝が浮侈を逞うせんとするに逮り、時に忤うるをもって戮せらる。若し遂に猜釁無くして、克くその美を終わらしめば、未だ稷・契に参ずべからずと雖も、以て蕭・曹に方駕するに足りたり。これを継ぐこと実に難し、惜しいかな。邳公(蘇威)は周道雲季に方事幽貞し、隋室龍興に首めて旌命に応ず。綢繆として任遇せられ、窮極の栄寵に至り、久しく機衡に処り、多く損益す。心力を罄竭し、知りて為さざる無し。然れども志尚清儉にして、体弘曠に非ず、同を好み異を悪み、直道に乖き、易簡を存せず、通徳と為すに未だたりず。二帝に歴事すること三十余年、当時に廃黜せられると雖も、終に遺老と称せらる。君邪にして正言せず、国亡うるに情衆庶に均し。予違うれば汝弼す、徒にその語を聞くのみ。疾風勁草、未だその人を見ず。礼命興王に闕くは、抑も亦此れに由るか。蘇夔は志識沈敏、方雅称す可く、若し天年を仮せば、以て堂構を虧かざるに足りたり。