隋書

巻三十九列傳第四 于義 陰壽 竇榮定 元景山 源雄 豆盧勣 賀若誼

于義

于義は、字を慈恭といい、河南洛陽らくようの人である。父の謹は、魏の武帝に従って関中に入り、周に仕えて官は太師に至り、京兆に家を定めた。義は若い頃から威厳があり、節操を重んじ、志を厚くして学問を好んだ。大統の末、父の功績により、爵を平昌県伯に賜い、邑五百戸を授けられた。初官は直閤將軍であった。その後、広都県公に改封された。周の閔帝が禅譲を受けると、邑六百戸を増加された。累進して安武太守となり、ひたすら徳による教化を尊び、威刑を尚ばなかった。郡民の張善安と王叔児が財産を争って訴訟を起こしたとき、義は言った。「太守の徳が薄く、職務を果たせないことによるものであり、彼らの罪ではない。」そこで家財を取り出し、二人に倍額を与え、諭して帰らせた。善安らはそれぞれ恥じ入り、他州に籍を移した。これにより風俗教化は大いに和合した。彼が徳をもって人を感化したのは、皆このようなことであった。進んで建平郡公に封ぜられた。明帝・武帝の世に、西京・瓜州・邵州の三州刺史を歴任した。しばしば征伐に従い、位は開府に進んだ。宣帝が位を継ぐと、政治と刑罰は日に日に乱れ、義は上疏して諫めた。時に鄭訳・劉昉が恩寵により権力を握り、義が自分たちに不利であると考え、先んじて帝に讒言した。帝は上表文を読んで顔色を変え、侍臣に言った。「于義は朝廷を誹謗している。」御正大夫の顔之儀が進み出て言った。「古の哲王は誹謗の木を立て、敢諫の鼓を置き、なお過ちを聞かぬことを恐れた。于義の言葉は、罪とすべきではない。」帝はようやく納得した。高祖こうそが丞相となったとき、王謙が乱を起こすと、高祖はこれを討とうとして、高熲に将を問うた。熲は答えて言った。「于義は平素より経略に通じており、元帥とすることができます。」高祖は初めこれを認めた。劉昉が進み出て言った。「梁睿は地位と声望が平素より重く、于義の下に置くことはできません。」高祖はそこでやめた。そこで睿を元帥とし、義を行軍総管とした。謙の将の達奚惎が兵を擁して開遠に拠ると、義は左軍を率いてこれを撃破した。まもなく潼州総管に任ぜられ、奴婢五百人、雑色の絹三千段を賜り、上柱国に超えて任ぜられた。時に義の兄の翼は太尉、弟の智、兄の子の仲文はいずれも上柱国、大将軍以上の者が十余人おり、貴戚と称された。一年余りして、病気により免職となり、京師に帰った。数か月後に卒去した。時に五十歳。州刺史を追贈され、諡を剛といった。葬儀の贈り物として絹千段、粟米五百石を賜った。子の宣道・宣敏はともに名を知られた。

子宣道

宣道は字を元明といい、性格は謹厳で、良からぬ者とは交わらなかった。周に仕え、初官は左侍上士であった。父の功績により、爵を成安県男に賜い、邑二百戸を授けられた。後に小承禦上士に転じた。高祖が丞相となると、外兵曹に抜擢され、まもなく儀同に任ぜられた。帝位につくと、内史舍人に遷り、爵は子に進んだ。父の喪に服し、水さえ口にしない日が幾日も続いた。献皇后は中使を遣わして慰め諭させたが、一年余りして、職務に復するよう命じた。喪が明けると、車騎將軍に任ぜられ、左衛長史を兼ね、舍人はもとのままとした。後六年して、太子左衛副率に遷り、位は上儀同に進んだ。卒去した。年四十二。子の志寧は早くから名を知られ、叔父の宣敏の後を継いだ。

宣道の弟宣敏

宣敏は字を仲達といい、若い頃から沈着で、才知に富んでいた。十一歳の時、周の趙王招のもとを訪れると、王は詩を賦すよう命じた。宣敏が詩を作ると、ひときわ幽玄で貞潔な志を表していた。王は大いにこれを奇とし、座の客も皆嘆賞した。初官は右侍上士、後に千牛備身に遷った。高祖が帝位につくと、奉車都尉に任ぜられ、しょくはしょくを慰撫する使命を受けた。帰還後、上疏して言った。

臣は聞く。磐石の宗を開くは、漢室これにより永く存続し、維城の固を建つるは、周の国祚これにより長く続く所以であると。昔、秦の皇帝は牧守を置いて諸侯を廃し、魏の後帝は諂諛の者に親しんで骨肉を疎んじた。そのため宗廟社稷は他族に移り、神器は異姓に伝わった。この事の明らかさは、火を見るよりも甚だしい。しかし山川の険を設けるも、親族でなければこれを守らせてはならない。かつ蜀の地は肥沃で、人物は豊かであり、西は邛・僰に通じ、南は荊・巫に連なる。周の徳が衰えた時、この地はついに戎狄の首魁となり、漢の政が制御を失った時、この地は禍の先鋒となった。それゆえ明らかな者は形なきに防ぎ、治める者は乱れざるに制する。これにより初めて万世に慶事を隆盛にし、七百年を超えることができる。伏して惟うに、陛下は日角龍顔の相を備え、楽推の運命を受け、天に参じ地に貳し、揖譲の時期に居り、億兆の民は心を安んじ、百神は職務を受ける。理として藩屏を樹て建て、子孫を封じ育て、周・漢の宏大な計画を継ぎ、秦・魏の覆った軌跡を改め、近習の権勢を抑え、公族の本枝を崇めるべきである。ただ三蜀・三齊は、古来天険と称され、親族を分封して王とすることは、今まさにその時である。もし封建が適宜に行われ、封土の樹立が適所を得れば、大いなる奸雄は非望を止め、奸臣は邪謀を断つであろう。盛んな業績と宏大な基盤は、天地と共に長久であり、英明な名声と豊かな実績は、日月と並んで照り輝くであろう。臣は学問は博識に及ばないが、心情は国を思うことに厚く、管見を申し述べる。戦慄し灼熱する思いは深い。

帝は上表文を読みこれを賞賛し、高熲に言った。「于氏の家には代々人材が出るものだ。」ついにその言葉を容れ、蜀王秀を蜀に鎮守させた。宣敏は常に満ちれば欠けるという戒めが、昔の賢者によって重んじられたことを思い、静かに退くことを念願し、『述志賦』を著してその志を表した。まもなく、官のまま卒去した。時に二十九歳。

陰壽

陰壽は、字を羅雲といい、武威の人である。父の嵩は、周の夏州刺史であった。壽は若い頃から果断で烈しく、武勇の才幹があり、性格は謹厚で、約束を重んじた。周の世にしばしば軍功により、儀同に任ぜられた。武帝に従って北斉を平定し、位は開府に進み、物千段、奴婢百人、女楽二十人を賜った。高祖が丞相となると、壽を掾に抜擢した。尉遅迥が乱を起こすと、高祖は韋孝寬を元帥としてこれを討たせ、壽に監軍を命じた。時に孝寬は病気で、自ら軍務を統括できず、常に帳中に臥し、婦人を通じて命令を伝えた。三軍の規律は、全て壽の決断に委ねられた。功により位は上柱国に進んだ。まもなく行軍総管として幽州に鎮し、そのまま幽州総管に任ぜられ、趙国公に封ぜられた。時に高寶寧という者がいた。北斉の皇族の遠縁で、人となりは傑出して狡猾、計略に長け、北斉の時代から長く黄龍を鎮守していた。北斉が滅ぶと、周の武帝は彼を営州刺史に任じ、漢人・夷狄の心を大いに得ていた。高祖が丞相となると、ついに契丹・靺鞨と結託して兵を挙げて反した。高祖は中原に多事があったため、進軍討伐の暇がなく、手紙で諭したが聞き入れられなかった。開皇の初め、また突厥を引き入れて北平を包囲攻撃した。ここに至り、壽に歩兵・騎兵数万を率いさせ、盧龍塞から出撃してこれを討たせた。寶寧は突厥に救援を求めた。時に衛王爽ら諸将が数道から北征しており、突厥は援軍を送れなかった。寶寧は城を棄てて磧北に奔り、黄龍の諸県はことごとく平定された。壽は軍を返し、開府の成道昂を留めてこれを鎮守させた。寶寧はその子の僧伽に軽騎を率いさせて城下を掠めさせて去った。まもなく契丹・靺鞨の兵を引き連れて攻めて来たので、道昂は苦戦して連日にしてようやく退却させた。壽はこれを憂い、そこで寶寧に高額の賞金を懸け、また密かに彼の親任する者である趙世模・王威らを離間する者を遣わした。一月余りして、世模はその配下を率いて降伏し、寶寧は再び契丹に逃れたが、その麾下の趙修羅に殺され、北辺はついに安定した。物千段を賜った。まもなく、官のまま卒去した。司空しくうを追贈された。子の世師が後を継いだ。

子世師

世師は若くして節概あり、性質忠厚にして、武藝多くを備えたり。弱冠にして、功臣の子として儀同に拝され、累遷して驃騎將軍に至る。煬帝嗣位の後、東都瓦工監を領す。後三年、張掖太守に拝せらる。先に、吐谷渾及び党項羌が屡々侵掠を為す。世師郡に至り、来寇する者あれば、自ら捕撃し、輒ち之を擒斬す。深く戎狄に憚らる。入りて武賁郎將となる。遼東の役、襄平道より出づ。明年、帝復た高麗を撃たんとし、本官を以て涿郡留守と為す。時に盗賊蜂起す。世師之を逐捕し、往々にして克捷す。帝還りしに及び、大いに賞労を加え、樓煩太守に拝す。時に帝汾陽宮に在り。世師始畢可汗将に寇を為さんとすと聞き、帝に太原に幸せんことを勧む。帝従わず、遂に雁門の難有り。尋いで左翊衛將軍に遷り、代王と共に京師を留守す。義軍至るに及び、世師自ら世に隋恩を荷い、又藩邸の旧なりと以て、遂に兵を勒して拒守す。月餘にして城陷ち、京兆郡丞骨儀等と見誅せらる。時に年五十三。

骨儀

骨儀は京兆長安ちょうあんの人なり。性質剛鯁にして、奪うべからざる志有り。開皇初、侍御史と為り、法を処するに平当にして、勢利の為に回らされず。煬帝嗣位し、尚書右司郎に遷る。時に朝政漸く乱濁し、貨賂公行す。凡そ枢要の職に当たる者は、貴賤を問わず、並びに家に金宝を累ぬ。天下の士大夫、節を変えざる者莫し。而るに儀は志を励まして常を守り、介然として独立す。帝其の清苦を嘉し、超えて京兆郡丞に拝す。公方弥に著し。時に刑部尚書衛玄京兆内史を兼領す。頗る詭道を行い、輒ち儀の執正する所と為る。玄雖も之を便とせず、能く傷つくること無し。義兵至るに及び、玄は禍己に及ぶを恐れ、遂に老病を称し、干預する所無し。儀は世師と同心協契し、父子並びに誅せらる。其の後遂に絶ゆ。世師に子弘智等有り、幼年の故を以て全きを獲たり。

竇榮定

竇榮定は扶風平陵の人なり。父は善、周の太僕。季父は熾、開皇初、太傅と為る。榮定は沈深にして器局有り、容貌瑰偉、美須髯、弓馬に便す。魏文帝の時、千牛備身と為る。周太祖見て之を奇とし、平東將軍を授け、宜君縣子の爵を賜い、邑三百戸。後に太祖に従い齊人と北芒に戦い、周師利あらず。榮定は汝南公宇文神慶と精騎二千を帥いて邀撃し、齊師乃ち却く。功を以て上儀同に拝す。後に武元皇帝に従い突厥木杆を引きて齊のへい州を侵し、物三百段を賜う。永富縣公の爵を襲ぎ、邑千戸、開府に進位し、忠州刺史を除く。武帝に従い齊を平げ、上開府を加えられ、前將軍、佽飛中大夫に拝す。其の妻は則ち高祖の姉安成長公主なり。高祖少小より之と情契甚だ厚く、榮定亦た高祖に人君の表有るを知り、尤も相推結す。高祖相と作るに及び、左右宮伯を領し、天臺を鎮守せしめ、露門内兩箱の仗衛を総統せしめ、常に禁中に宿す。尉迥初めて平らぐに遇い、朝廷頗る山東を以て意と為す。乃ち榮定を洛州總管に拝して之を鎮めしむ。前後縑四千匹、西涼女樂一部を賜う。

高祖禅を受け、京師に来朝す。上群臣を顧みて謂いて曰く、「朕少くして軽薄を悪む。性相近き者は、唯だ竇榮定のみなり」と。馬三百匹、部曲八十戸を賜いて之を遣わす。事に坐して名を除かる。高祖長公主の故を以て、尋いで右武候大將軍に拝す。上数度其の第に幸し、恩賜甚だ厚し。毎に尚食局に令して日ごと羊一口を供せしめ、珍味是に称す。佐命の功を以て、上柱國、甯州刺史に拝す。未だ幾ばくもあらざるに、復た右武候大將軍と為る。尋いで秦州總管を除き、吳樂一部を賜う。突厥沙缽略辺を寇す。行軍元帥と為し、九總管を率い、歩騎三万、涼州より出づ。虜と高越原に戦う。兩軍相持ち、其の地水無く、士卒渴き甚だしく、馬血を刺して飲むに至り、死者十に二三有り。榮定天を仰ぎて太息す。俄かに澍雨有り、軍乃ち復た振う。於是進撃し、数度其の鋒を挫く。突厥之を憚り、盟を請いて去る。縑一万匹を賜い、安豐郡公に進爵し、邑千六百戸を増す。復た子憲を安康郡公に封じ、縑五千匹を賜う。歳餘、右武衛大將軍に拝し、俄かに左武衛大將軍に転ず。上三公と為さんと欲す。榮定上書して曰く、「臣毎に西朝の衛・霍、東都の梁・鄧を観るに、幸いに葭莩に托し、位極まりて台鉉に至るも、寵積りて驕盈すれば、必ず傾覆を致す。向使前賢、少しく自ら貶損し、権勢を遠く避け、推して居らざれば、則ち天命保つべく、何ぞ宗を覆すこと之有らんや。臣毎に前修を覧るに、実に畏懼す」と。上是に於いて乃ち止む。前後の賞賜、勝げて計ふべからず。開皇六年卒す。時に年五十七。上之が為に朝を廃し、左衛大將軍元旻に令して喪事を監護せしめ、賻に縑三千匹。上侍臣に謂いて曰く、「吾毎に栄定を三事に致さんと欲すれど、其人固く譲りて不可とす。今之に贈らんと欲すれば、重ねて其の志に違ふ」と。於是冀州刺史、陳國公を贈り、諡して懿と曰う。子抗嗣ぐ。

抗は容儀美くしく、性質通率にして、巧思に長ず。父卒したる後、恩遇弥に隆く、賜わる所の錢帛金寶も亦た巨万を以てす。抗官は定州刺史に至り、復た幽州總管を檢校す。煬帝即位し、漢王諒逆を構う。抗と通謀すと為すを以て、是に由りて名を除かれ、其の弟慶に陳公の封を襲がしむ。

慶も亦た姿儀有り、性質和厚にして、頗る草隸に工なり。初め永富郡公に封ぜられ、官は河東太守、衛尉卿に至る。大業の末、出でて南郡太守と為り、盗賊の害に遭う。

慶の弟璿も亦た草隸に工なり、頗る鐘律を解す。官は潁川、南郡、扶風太守を歴る。

元景山

元景山は字を珤岳と云い、河南洛陽の人なり。祖は燮、魏の安定王。父は琰、宋安王。景山は少くして器局有り、幹略人に過ぐ。周の閔帝の時、大司馬賀蘭祥に従い吐谷渾を撃ち、功を以て撫軍將軍に拝す。其の後数度征伐に従い、累遷して儀同三司に至り、文昌縣公の爵を賜い、亹川防主を授かる。後に齊人と北邙に戦い、斬級多くを居し、開府を加えられ、建州刺史に遷り、宋安郡公に進封せられ、邑三千戸。武帝に従い齊を平げ、毎戦功有り、大將軍に拝せられ、平原郡公に改封せられ、邑二千戸、女樂一部、帛六千匹、奴婢二百五十口、牛羊数千を賜う。

亳州總管を治む。先に、州民王回洛、張季真等亡命を聚結し、毎に劫盗を為す。前後の牧守制する能わず。景山下車し、之を逐捕す。回洛、季真は身を挺して江南に奔る。其の党與数百人を禽え、皆之を斬る。法令明肅にして、盗賊跡を屏い、大治と称せらる。陳人張景遵、淮南を以て内属す。陳將任蠻奴の攻撃を受け、其の数柵を破らる。景山譙・潁の兵を発して之を援けしむ。蠻奴軍を引いて退く。徴されて候正と為る。宣帝嗣位し、上柱國韋孝寬に従い淮南を経略す。鄖州總管宇文亮図りて軌に不ならんと謀る。軽兵を以て孝寬を襲う。孝寬窘迫し、未だ陣を整うるを得ずして、亮の薄むる所と為る。景山鐵騎三百を率いて出撃し、之を破り、亮を斬りて首を伝う。功を以て亳州總管に拝す。

高祖が丞相となった時、尉遅迥が兵を挙げて乱を起こした。滎州刺史の宇文冑は遅迥と通謀し、密かに書簡を送って景山を扇動しようとした。景山はその使者を捕らえ、書簡を封じて丞相府に届けた。高祖は大いにこれを賞賛し、位を上大将軍に進めた。司馬消難が鄖州を率いて陳に入った時、陳は将軍の樊毅、馬傑らを派遣して援軍とした。景山は軽騎五百を率いて急行した。樊毅らは恐れ、住民を掠奪して逃げ去った。景山はこれを追撃し、一日一夜に三百余里を行軍し、漳口で樊毅と戦い、二度の戦いでいずれも勝利した。樊毅らは甑山鎮を守って退いた。消難によって陥落させられた城邑は、すべて平定された。安州総管に任じられ、位を柱国に進め、前後して帛二千匹を賜った。時に桐柏山の蛮族が集まって乱を起こしたが、景山は再びこれを撃破平定した。

高祖が禅譲を受けると、上柱国に任じられた。翌年、大規模に陳を討伐することとなり、景山を行軍元帥とし、行軍総管の韓延、呂哲を率いて漢口から出撃させた。上開府の鄧孝儒に精兵四千を率いさせ、陳の甑山鎮を攻撃させた。陳はその将軍陸綸を水軍で援軍に派遣した。孝儒は迎撃してこれを破った。陳の将軍魯達、陳紀が兵を率いて溳口を守ったが、景山は再び兵を派遣してこれを撃退した。陳人は大いに驚き、甑山、沌陽の二鎮の守将は皆城を棄てて逃げ去った。景山が江を渡ろうとした時、ちょうど陳の宣帝が崩御したため、詔勅により軍を返した。景山は大いに威名を轟かせ、敵に大いに恐れられた。数年後、事に坐して免官となり、家で卒した。時に五十五歳。梁州総管を追贈され、縑千匹を賜り、諡して襄といった。子の成寿が後を嗣いだ。

成寿は弓馬に巧みで、千牛備身から出仕した。上柱国の世子として、儀同に任じられた。後に秦王の庫真車騎となった。煬帝が位を嗣ぐと、左親衛郎将に召された。楊玄感の乱の時、刑部尚書の衛玄に従ってこれを討ち、功により位を正議大夫に進め、西平通守に任じられた。

源雄

源雄は、字を世略といい、西平楽都の人である。祖父の懐、父の纂は、ともに魏の隴西王であった。雄は若い頃から寛厚で、姿形が立派であった。魏において秘書郎から出仕し、まもなく征虜将軍を加えられた。父が高氏に誅殺された時、雄は身一つで逃れ、姓名を変えて長安に西帰した。周の太祖(宇文泰)はこれを見て器量ある者と認め、爵位を隴西郡公と賜った。後に武帝に従って斉を伐ち、功により開府を授けられ、封を改めて朔方郡公とされ、冀州刺史に任じられた。時に突厥が辺境を侵したため、雄は平州刺史に転じてこれを鎮めさせた。間もなく、徐州総管を検校した。

高祖が丞相となった時、尉遅迥が乱を起こした。当時、雄の家族は相州にいたが、遅迥は密かに書簡を送って誘ったが、雄はついに顧みなかった。高祖は雄に書簡を送り、「貴公の妻子は鄴城ぎょうじょうにいるが、離れ離れとは言え、賊徒を滅ぼせば再会は難しくない。今日以降、数十日の別れに過ぎず、遅れて慰めを述べるが、心に負担をかけるな。徐州は大藩であり、東南の要地で、呉の敵に近く、特に安撫を要する。貴公の英略を頼りに、辺境の謀略を委ねる。善く功名を立て、朝廷の委嘱に副うように」と言った。遅迥はその将軍畢義緒を派遣して蘭陵を占拠させ、席毗をして昌慮、下邑を陥落させた。雄は徐州刺史の劉仁恩を派遣して畢義緒を撃たせ、儀同の劉弘、李琰を派遣して席毗を討たせ、すべて平定した。

陳人は中原に変事が多いのを見て、その将軍陳紀、蕭摩訶、任蛮奴、周羅睺、樊毅らを派遣して江北を侵し、西は江陵から東は寿陽に至るまで、民多くこれに応じ、城鎮を攻め陥落させた。雄は呉州総管の于顗、揚州総管の賀若弼、黄州総管の元景山らと共にこれを撃退し、すべて旧地を回復した。東潼州刺史の曹孝達が州を占拠して乱を起こしたので、雄は兵を派遣して襲撃し斬殺した。位を上大将軍に進め、徐州総管に任じられた。数年後、懐州刺史に転じ、まもなく朔州総管に遷った。突厥が来寇掠奪すると、雄はすぐに捕らえて斬り、北夷に大いに恐れられた。

陳討伐の役において、高祖は冊書を下して言った。「ああ、そなた上大将軍、朔方公雄よ、識見は明らかで允当、風采は果断剛毅である。かつて徐州を治め、時に寇逆に遭い、馬邑に旗を立て、北蕃を安撫した。嘉謀は外境の憂いを絶ち、剣を挺して韋韝(北方民族)の望みを鎮めた。沙漠以北は皆その威恩を蒙り、呂梁の間には恵みを懐かぬ者はない。ただ江淮の小さき地に、陳が僭逆をなしている。今、戎旅を統率し、かの東南を清めようとする。ここにそなたを行軍総管に命ず。往って慎めよ」。そこで秦王俊に従って信州道から出撃した。陳が平定されると、功により位を上柱国に進めた。子の崇に端氏県伯の爵位を、褒に安化県伯の爵位を賜り、物五千段を賜り、再び朔州を鎮守させた。二年後、表を上って骸骨を乞い、京師に召還され、家で卒した。時に七十歳。

子の崇が後を嗣ぎ、官は儀同に至った。大業年間、上党賛治から入朝して尚書虞部郎となった。天下に盗賊が起こると、兵を率いて北海を討ち、賊と力戦して死んだ。正議大夫を追贈された。

豆盧勣

豆盧勣は、字を定東といい、昌黎徒河の人である。本来の姓は慕容で、燕の北地王慕容精の後裔である。中山が敗れると魏に帰順し、北方の人は帰義を「豆盧」と言うので、これを氏とした。祖父の萇は、魏の柔玄鎮大将であった。父の甯は、柱国、太保であった。勣が生まれた時、周の太祖(宇文泰)が自ら甯の家を訪れて祝い、時に新たに斉軍を破ったばかりであったので、太祖はこれに因んで字を定東とつけた。勣は聡明で悟りが早く、器量があった。若くして国子学で学業を受け、文芸に少し通じた。魏の大統十二年、太祖は勣が勲臣の子であることを以て、義安県侯に封じた。周の閔帝が禅譲を受けると、稍伯下大夫、開府儀同三司を授けられ、封を改めて丹陽郡公とされ、邑千五百戸を賜った。明帝の時、左武伯中大夫となった。勣は自ら経学の業が通じていないと考え、職を解いて露門学に遊学することを請うた。帝はこれを嘉し、本官のまま就学することを命じた。間もなく、斉王憲が勣の妹を妃に迎えたので、恩礼はますます厚くなった。

ちょうど武帝が位を嗣ぐと、邛州刺史に任じられた。まだ任地に赴かないうちに、渭源の焼当羌が飢饉に因って乱を起こしたので、勣に才略があるとして、渭州刺史に転じた。非常に善政を施し、華夷ともに悦服し、徳沢が行き渡り、大いに祥瑞が現れた。鳥鼠山は俗に高武隴と呼び、その下から渭水が流れ出る。その山は絶壁千尋で、古来水に乏しく、諸羌はこれを苦しんでいた。勣の馬の足が踏んだ所、突然飛泉が湧き出た。白鳥が飛来して庁前に止まり、雛を育てて去り、また白狼が襄武に現れた。民はこれについて謡った。「我に丹陽有り、山より玉漿出ず。我が民夷を済わし、神鳥来たり翔く」。百姓はその泉を玉漿泉と号した。後に父の喪に服し、礼を過ぎるほどに憔悴した。天和二年、邵州刺史を授けられ、楚国公の爵位を襲いだ。再び召されて天官府司会となり、信州、夏州の二州総管、相州刺史を歴任した。母の喪のため京に還った。宣帝の大象二年、利州総管に任じられ、位を上大将軍に進めた。一月余りで、柱国に任じられた。

高祖が丞相となった時、益州総管の王謙が乱を起こした。勣は城に拠って固守した。王謙はその将軍達奚念、高阿那肱、乙弗虔らに十万の兵を率いさせて攻撃させ、土山を築き、城壁に七十余りの穴を穿ち、江水を堰き止めて城内に灌がせた。勣の手元の戦士は二千に過ぎなかったが、昼夜抵抗した。四十日を経て、勢い次第に逼迫した。勣はそこで奇兵を出してこれを撃ち、数千の首級を斬り、二千人を降伏させた。梁睿の軍がまさに到らんとしたので、賊はこれによって包囲を解いて去った。高祖は開府の趙仲卿を派遣して労い、詔して言った。「勣は器量識見に優れ長け、気概は英邁で遠大である。藩部を統御し、風化すでに行き渡る。巴蜀が兵を挙げ、たちまち包囲逼迫したが、守りに入り出て戦い、大いに凶醜を摧いた。貞節と雄規、その功は甚だ茂っている。持節、上柱国とせよ。一子に中山県公の爵位を賜う」

開皇二年、突厥が塞を犯すや、勣を北道行軍元帥とし以て辺備に当たらしむ。歳余にして、夏州総管を拝す。上は其の家世貴盛にして、勲効克く彰るるを以て、甚だ之を重んず。後に漢王諒が勣の女を納れて妃と為すに及び、恩遇弥く厚し。七年、詔して曰く、「上柱国・楚国公勣は、蜀人の寇乱の日に当たり、兵を称えて順を犯し、金湯を固守し、敵国の如く隠る。嘉猷大節、其の労已に多し。始州臨津県の邑千戸を食すべし」と。十年、疾を以て征還して京師に至る。詔して諸王並びに勣の第に至らしめ、中使顧問し、道路絶えず。其の年卒す。時に年五十五。上悼惜すること久しく、特らに賵贈を加え、鴻臚に喪事を監護せしめ、諡して襄と曰う。子賢嗣ぐ。官は顕州刺史・大理少卿・武賁郎将に至る。賢の弟毓。

子毓

毓は字を道生と為す。少より英果にして、気節有り。漢王諒、并州に出鎮するに及び、毓は妃の兄を以て王府主簿と為る。趙仲卿に従い北征して突厥を征し、功を以て儀同三司を授かる。高祖崩じ、煬帝即位するに及び、諒を征して朝に入らしむ。諒、諮議王頍の謀を納れ、兵を発して乱を作す。毓苦諫すれども従わず、因りて弟懿に謂ひて曰く、「吾が匹馬朝に帰らば、自ら禍を免るるを得ん。此れ乃ち身の計にして、国の為に非ざるなり。今且く偽りて従ひ、以て後の計を思はん」と。毓の兄顕州刺史賢、帝に言ひて曰く、「臣が弟毓は素より志節を懐き、必ず乱に従はじ。但だ凶威に逼られて、克く遂げる能はざるのみ。臣請ふ軍に従ひ、毓と表裏を為し、諒を図るに足らざらん」と。帝然りと為し、之を許す。賢密かに家人を遣はし勅書を毓の所に齎らしめ、之と計議す。諒城を出で、将に介州に往かんとし、毓と総管属の朱濤を令して留守せしむ。毓、濤に謂ひて曰く、「漢王逆を構ふ。敗は踵を旋らさず。吾豈に坐して夷滅を受け、家国に孤負せんや。当に卿と兵を出して之を拒がん」と。濤驚きて曰く、「王は大事を以て相付す。何ぞ是の語有るを得ん」と。因りて衣を拂ひて去る。毓追ひて之を斬る。時に諒の司馬皇甫誕、前に諒を諫めて囚はれしが、毓是に於て誕を出し、之と協計し、及び開府・磐石侯宿勤武、開府宇文永昌、儀同成端・長孫愷、車騎・安成侯元世雅、原武令皇甫文顥等と、城を閉ぢて諒を拒ぐ。部分未だ定まらず、人有りて諒に告ぐ。諒襲撃して之を攻む。毓、諒の至るを見て、其の衆を紿して曰く、「此れ賊軍なり」と。諒城南門を攻む。毓時に稽胡を遣はし堞を守らしむ。稽胡諒を識らず、之を射る。箭雨の如く下る。諒復た西門に至る。守兵皆并州の人にして、素より諒を識り、即ち門を開きて之を納る。毓遂に害せらる。時に年二十八。諒平ぐるに及び、煬帝詔を下して曰く、「名節を褒顕するは、国の通規なり。等を加へて終を飾るは、抑くも令典を推す。毓は大義を深く識り、姻親を顧みず、万死に出でて、首めて奇策を建つ。逆を去りて順に帰し、義に殉じて身を亡ぼす。栄命を追加し、宜しく恒礼を優すべし。大将軍を贈り、正義県公に封じ、帛二千匹を賜ひ、諡して湣と曰ふべし」と。

子願師嗣ぐ。尋で儀同三司を拝す。大業初、新令を行ふ。五等並びに除かる。未だ幾からず、帝復た詔を下して曰く、「故大将軍・正義湣公毓は、節に臨みて能く固くし、生を捐てて国に殉ず。令典と為り、没世忘れず。象賢墜ちること無く、徳隆くは必ず祀る。雍丘湣侯に改封し、復た願師を以て承襲せしむ」と。大業末、千牛左右を授く。

兄通

通は字を平東と為す。勣の兄なり。一名会。弘厚にして器局有り。周に在りて、少く父の功を以て、爵を臨貞県侯に賜ひ、邑千戸。尋で大都督ととくを授かり、俄に儀同三司に遷る。大塚宰宇文護之を引いて親信兵を督せしむ。沃野県公に改封し、邑四千七百戸。後に開府を加へ、武賁中大夫・北徐州刺史を歴任す。高祖丞相と為るに及び、尉迥逆を作す。其の署する所の莒州刺史烏丸尼を遣はし衆を率ひ来りて攻む。通逆撃し、之を破る。物八百段を賜ひ、位を進めて大将軍と為す。開皇初、爵を進めて南陳郡公と為す。尋で征入して朝に至り、本官を以て宿衛を典す。歳余にして、出でて定州刺史を拝す。後に相州刺史に転ず。高祖の妹昌楽長公主に尚ひ、是より恩礼漸く隆し。夏州総管・洪州総管に遷る。所在の職、並びに寛恵と称せらる。十七年、官に卒す。年五十九。諡して安と曰う。子寬有り。

賀若誼

賀若誼は字を道機と為す。河南洛陽の人なり。祖伏連、魏の雲州刺史。父統、右衛将軍。誼、性剛果にして、幹略有り。魏に在りて功臣の子を以て爵を容城県男に賜はる。累遷して直閤将軍・大都督・通直散騎常侍さんきじょうじ・尚食典禦と為る。周の太祖関中に拠るや、之を左右に引く。嘗て杏城に詣らしむるに、茹茹の種落摧貳するに属し、河表に屯す。誼因りに禍福を譬へて以て、誘ひ令して帰附せしむ。降する者万餘口。太祖深く之を奇とし、金銀百両を賜ふ。斉其の舎人楊暢を遣はし茹茹に好を結ばしむ。太祖其の力を併せ、辺境の患と為らんことを恐れ、誼をして茹茹に聘せしむ。誼因りに厚利を啖ひて以てす。茹茹之を信じ、遂に周と連和し、暢を執りて誼に付す。太祖之を嘉し、車騎大将軍・儀同三司・略陽公府長史を拝す。周の閔帝禅を受く。司射大夫を除き、爵を改めて城県子に封じ、左宮伯に転じ、尋で開府を加ふ。後に霊邵二州刺史、原信二州総管を歴任し、俱に能名有り。其の兄敦、金州総管と為り、讒毀を以て誅せらる。是に坐して免職す。

武帝親しく万機を総べ、誼を召して熊州刺史を治めしむ。斉を平らぐるの役、誼兵を率ひ函谷を出で、先づ洛陽を拠る。即ち洛州刺史を拝し、爵を進めて建威県侯に封ず。斉の范陽王高紹義の突厥に奔るや、誼兵を以て之を追ひ、馬邑に戦ひ、遂に紹義を擒る。功を以て位を進めて大将軍と為す。高祖丞相と為るに及び、亳州総管を拝し、馳驛して部に之く。西は司馬消難を遏ぎ、東は尉迥を拒ぐ。申州刺史李慧反す。誼之を討ち、爵を進めて范陽郡公と為し、上将軍を授かる。

開皇初、入りて右武候将軍と為る。河間王弘北征して突厥を征するに、誼を副元師と為す。軍還り、左武候大将軍に転ず。事に坐して免ぜらる。歳余にして、華州刺史を拝し、俄に敷州刺史に転じ、爵を改めて海陵郡公に封じ、復た涇州刺史に転ず。時に突厥屡く辺患と為る。朝廷誼の素より威名有るを以て、霊州刺史を拝し、位を進めて柱国と為す。誼時に年老ゆれども、筋力衰へず、猶能く重鎧を着て馬に上り、甚だ北夷に憚らる。数載を経て、表を上して骸骨を乞ふ。優詔以て之を許す。誼家財に富み、郊外に一つの別廬を構へ、多く果木を植う。毎に賓客を邀へ、女楽を列ね、其の間を遊集す。家に卒す。時に年七十七。子挙爵を襲ぐ。

庶長子協、官は驃騎将軍に至る。協の弟祥、奉車都尉。祥の弟与、車騎将軍。誼の兄の子弼、別に伝有り。

史評

史臣曰く、于義・竇栄定等は、或いは南陽の姻亞、或いは豊邑ほうゆうの旧遊、運時に属し来たり、俱に力を宣べ用ふ。労を以て国を定め、功を以て賞を懋くし、其の禄位を保ち、厥の子孫を貽す。薪を析くに克く荷ひ、崇基墜ちず。盛んなり。豆盧毓は屯剣の機に遇ひ、身を亡ぼして義に殉ず。陰世師は天の廃する所に遭ひ、命を捨てて渝らず。夫の死者知有らしむれば、以て君親に愧づる無きに足らん。