隋書

巻二十四志第十九

王者は地を量りて邑を制し、地を度りて人を居らしめ、土地の生ずる所を総べ、山沢の利を料り、行令に遵い、人時に授くるを敬い、農商の趣向、各々本業に事う。書に称す、有無を懋遷すと、穀貨の流通し、咸く其の所を得る者なりと。周官の太府は、九貢九賦の法を掌り、王の経用、各々等差有り。所謂、之を取るに道を以てし、之を用いるに節有り、故に能く百官の政を養い、戦士の功を勗け、天災を救い、方外を服し、国を活かし人を安んずるの大経なり。爰に軒・頊より、堯・舜に至るまで、皆其の利する所に因りて之を勧め、其の欲する所に因りて之を化す。其の時を奪わず、其の力を窮めず、其の征を軽くし、其の賦を薄くす、此れ五帝三皇の易えざるの教なり。古語に曰く、「人と為すに善きは、其の力を愛して其の財を成す。」若し之を使うに道を以てせず、之を斂むるに及ばざるが如くせば、財尽きれば則ち怨み、力尽きれば則ち叛く。昔、禹は九等を制して康歌興り、周人は十一にして頌声作る。是に於いて東周は洛に遷り、諸侯軌にせず、魯の宣公初めて畝を税し、鄭の産丘賦を為す、先王の制、孑遺有ること靡し。秦氏は西戎より起り、力を以て天下を正し、之を駆るに刑罰を以てし、之を棄つるに仁恩を以てし、太半の収を以て、長城地脈に絶え、頭会の斂を以て、屯戍嶺外に窮す。漢の高祖こうそは秦の凋敝を承け、十五税一とし、中元武を継ぎ、府廪弥に殷し。世宗之を得て、用て雄侈を成し、辺を開き胡を撃ち、蕭然として咸く罄く。宮宇は天漢に捫し、巡遊は海表に跨り、旱歳には道を除き、凶年には秣を嘗め、戸口之を以て減半し、盗賊之を以て公行す。是に於いて譎詭の賦税、異端俱に起り、賦は童齓に及び、算は船車に至る。光武中興し、聿に前事に遵い、成賦単薄にして、経遠と称すに足る。霊帝は鴻都の牓を開き、官を売るの路を通じ、公卿州郡、各々等差有り。漢の常科、土貢方物、帝又遣わして先ず中署に輸せしめ、名けて導行と為し、天下賄成り、人其の敝を受く。魏・晋二十一帝より、宋・齊十有五主に至るまで、用度の衆寡有りと雖も、租賦の重軽有りと雖も、大抵人の産業を傾くる能わず、政乱に関わるに道たり。

隋の文帝は既に江表を平げ、天下大同し、躬より先ず儉約を以て府帑に事う。開皇十七年、戸口滋に盛んにして、中外の倉庫、盈積せざる無し。所有の賚給、経費を踰えず、京司の帑屋既に充ち、廊廡の下に積む。高祖遂に此の年の正賦を停め、以て黎元に賜う。煬皇は鴻基を嗣ぎ守り、国家殷富なり、雅に宏玩を愛し、肆情方に騁け、初めて東都を造り、諸の巨麗を窮む。帝昔藩翰に居り、親しく江左を平げ、兼ねて梁・陳の曲折を以て、規摹に就く。曾雉芒を踰え、浮橋洛に跨り、金門象闕、咸く飛観を竦え、頽巖川を塞ぎ、雲綺を構成し、嶺樹を移して以て林藪と為し、芒山を包んで以て苑囿と為す。長城御河、人力に計わず、運驢武馬、期を百姓に指し、天下は役に死し而して家は財に傷つく。既にして一たび渾庭を討ち、三たび遼沢に駕し、天子親しく伐ち、師兵大挙し、糧を飛ばし秣を輓き、水陸交り至る。疆埸の傾敗する所、労敝の殂殞する所、復た太半帰らずと雖も、而して每年興発し、比屋の良家の子、多く辺陲に赴き、分離哭泣の声、連響して州県に響く。老弱耕稼、以て飢餌を救うに足らず、婦工紡績、以て資装を贍うに足らず。九区の内、鸞和歳に動き、行に従う宮掖、常に十万人、所有の供須、皆州県に仰ぐ。租賦の外、一切の徴斂、趣て周備せんとし、元元を顧みず、吏因りて割剝し、其の太半を盗む。遐方の珍膳、必ず庖厨に登り、翔禽の毛羽、用て玩飾と為し、買いて以て官に供し、千倍其の価。人愁えて堪えず、室宇を離棄し、長吏は扉を叩いて曙に達し、猛犬は迎えて吠えて終夕す。燕・趙より斉・韓に跨り、江・淮より襄・鄧に入り、東周洛邑の地、西秦隴山の右、僭偽交り侵し、盗賊充斥す。宮観は茂草に鞠し、郷亭は其の煙火を絶ち、人相食み、十にして四五。関中に癘疫有り、炎旱稼を傷め、代王は永豊の粟を開き、以て飢人を振わす、倉を去ること数百里、老幼雲集す。吏は貪残に在り、官は攸次無く、咸く鏹貨を資とし、動もすれば旬月を移し、頓臥墟野し、返らんと欲して能わず、死人積むが如く、勝ちて計う可からず。復た皇王運を撫で、天祿終わり有ると雖も、而して隋氏の亡ぶるも、亦此に由る。

馬遷は平準書を為し、班固は食貨志を述ぶ、上下数千載、損益粗挙ぐ。此より史官曾て概見無し。夫れ厥の初め人を生む、食貨を本と為す。聖王は廬井を割きて以て之を業とし、貨財を通じて以て之を富ます。富みて之を教えば、仁義之を以て興り、貧しくして盗を為せば、刑罰止む能わず。故に食貨志を為し、用て前書の末に編すと云う。

食貨

晋は中原喪乱より、元帝は江左に寓居し、百姓の自ら抜けて南奔する者、並びに之を僑人と謂う。皆旧壤の名を取り、郡県を僑立し、往往散居し、土著有ること無し。而して江南の俗、火耕水耨し、土地卑湿にして、蓄積の資無し。諸蛮の陬俚洞、王化に霑沐する者、各々軽重に随い、其の賧物を収め、以て国用を裨う。又嶺外の酋帥、生口翡翠明珠犀象の饒に因り、郷曲に雄なる者、朝廷多く因りて之を署し、以て其の利を収む。宋・斉・梁・陳を歴て、皆因りて改めず。其の軍国須うる所の雑物、土の出す所に随い、臨時に折課市取し、乃ち恒の法定令無し。州郡県を列ね、其の任土の出す所を制し、以て徴賦と為す。

戸籍に登録されず、州県の編戸となることを好まない者を、浮浪人と称し、その納めるものも定数なく、任意の量に任せ、納める分を基準として、正規の課役よりは優遇された。都下の人々は多く諸王公貴人の左右、佃客、典計、衣食客の類となり、いずれも課役を負わなかった。官品第一・第二は、佃客四十戸を超えず。第三品は三十五戸。第四品は三十戸。第五品は二十五戸。第六品は二十戸。第七品は十五戸。第八品は十戸。第九品は五戸。その佃客の収穫した穀物は、皆、主家と分量を分かつ。その典計は、官品第一・第二は三人を置く。第三・第四は二人を置く。第五・第六及び公府参軍、殿中監、監軍、長史、司馬、部曲督、関外侯、材官、議郎以上は、一人。皆、佃客の数の中に通算される。官品第六以上は、併せて衣食客三人を得る。第七・第八は二人。第九品及び轝輦、跡禽、前駆、由基強弩司馬、羽林郎、殿中冗従武賁、殿中武賁、持椎斧武騎武賁、持鈒冗従武賁、命中武賁武騎は、一人。客は皆、主家の戸籍に注記される。その課役は、丁男は調として布・絹各二丈、絲三両、綿八両、禄絹八尺、禄綿三両二分、租米五石、禄米二石。丁女は全てその半額とする。男女で年十六以上から六十までを丁とする。男は年十六も半課とし、年十八で正課とし、六十六で課役を免じる。女は嫁いだ者を丁とし、もし未婚の者は、年二十にして初めて丁となる。その男丁は、毎年の役は二十日を超えず。また、概ね十八人につき一人の運丁を出して役に服させる。その田は、一畝につき税米二斗を納める。おおよそこのようであった。その度量衡は、斗は三斗が当時の一斗に当たり、称は三両が当時の一両に当たり、尺は一尺二寸が当時の一尺に当たる。

その倉は、京都有には龍首倉(即ち石頭津倉)、台城内倉、南塘倉、常平倉、東・西太倉、東宮倉があり、貯蔵総量は五十余万石を超えなかった。外には章倉、釣磯倉、錢塘倉があり、いずれも大規模な備蓄の場所であった。その他の諸州郡の台伝にも、それぞれ倉があった。おおよそ侯景の乱以来、国家の財用は常に逼迫していた。京官の文武は、月ごとにただ廩食を得るのみで、多くは遠く一郡県の官を兼帯してその禄秩を取った。揚州、徐州などの大州は、令・僕の班次に比した。寧州、桂州などの小州は、参軍の班次に比した。丹陽郡、呉郡、会稽郡などの郡は、太子詹事、尚書の班次と同じであった。高涼郡、晉康郡などの小郡は、三班に過ぎなかった。大県は六班、小県は二転して初めて一班に至る。品第が既に異なるので、委細を記載することはできない。州郡県の禄米・絹・布・絲・綿は、当該地において台伝の倉庫に輸納する。もし刺史・守・令などに給する場合は、先ずその管轄する文武の人物の多少を基準として、詔勅によって裁定する。凡そこのような禄秩は、管轄する兵士に通じて給するので、その家が得るものは少なかった。諸王・諸主が、宮門を出て邸宅に就き、婚冠に要するもの、及び衣裳服飾、並びに酒・米・魚・鮭・香油・紙・燭などは、全て官が給する。王及び主の婿で外禄を受ける者は、給しない。任を解かれて京に還る時は、依然として公給するという。

魏は永安の年号以後、政治の道が衰え、寇賊の乱が実に多く、農民・商人は生業を失った。官に征伐があれば、皆、臨時に人々から調発したが、なお資給に足らず、そこで所在の地で互いに糾発させたので、百姓は愁怨し、再び生きる楽しみがなくなった。やがて六鎮が擾乱し、相率いて内徙し、斉・晉の郊外に寄食した。斉の神武帝(高歓)はこれに乗じて、大業を成し遂げた。魏の武帝(孝武帝)が西遷すると、連年の戦争で、河・洛の間は、また共に空竭した。天平元年、鄴に遷都し、粟一百三十万石を出して、貧民を賑済した。この時、六坊の衆で武帝に従って西行した者は、一万人に満たず、残りは皆北へ移住し、併せて常時の廩給を受け、春秋二時に帛を賜り、衣服の費用に充てた。常調の外に、豊作の地を選び、絹を折納して粟を買い入れ、国庫の儲蓄に充てた。諸州の河沿いの渡し場には、皆、官倉を置いて貯積し、漕運に備えた。滄州、瀛州、幽州、青州の四州の境に、海に沿って塩官を置き、塩を煮させ、毎年収益を得て、軍国の費用を充足させた。これ以降、倉廩は充実し、水害・旱害・凶作・飢饉の地があっても、皆、倉を開いて賑済した。元象・興和の年間には、連年大豊作で、穀物一斛が九銭にまで下がった。この時、法網は寛弛し、百姓は多く旧居を離れ、徭役・租調が不足した。神武帝は孫騰・高隆之に命じ、無籍の戸を分けて調査させ、六十余万戸を得た。そこで僑居する者をそれぞれ本属に還らせ、これ以後、租調の収入が増加した。文襄帝(高澄)が業を嗣ぐと、侯景が背叛し、河南の地は兵革に苦しんだ。やがて侯景が梁を乱すと、行台辛術に命じ、淮南の地を攻略させた。その新たに帰附した州郡は、羈縻して軽税とするのみであった。

文宣帝(高洋)が禅を受けると、多くの創革を行った。六坊の内徙者を、さらに簡練し、一人必ず百人に当たるものとし、その臨陣必死の任に耐える者を選び取って、これを百保鮮卑と称した。また、華人で勇力絶倫の者を選抜し、これを勇士と称して、辺境の要地に備えさせた。初めて九等の戸を立て、富者はその銭を税し、貧者はその力を役した。北には長城築造の役を興し、南には金陵の戦いがあった。その後、南征の諸将は連年陷没し、士馬の死者は数十万を数えた。重ねて台殿を修創するのに、役使する範囲が甚だ広かった。しかるに帝は刑罰が酷く濫り、官吏の道もこれによって姦を成し、豪族・徒党が兼併し、戸口はますます多くが隠漏した。旧制では、未娶の者は半牀の租調を納めたが、陽翟一郡で、戸数が数万に至り、戸籍に妻の記載がない者が多かった。有司がこれを弾劾したが、帝は事を生じさせると考えた。これによって姦欺が特に甚だしくなり、戸口・租調は十のうち六七を失った。

この時、費用が転じて広がり、賜与に節度がなく、府庫の蓄積は供給に足りず、そこで百官の禄を減じ、軍人の常廩を撤廃し、州郡県鎮戍の職を併省した。また、刺史・守・宰で行・兼の職にある者は、併せて幹(給与の一種)を与えず、以て国の費用を節約した。

天保八年、冀州、定州、瀛州の無田の人々を移住させることを議し、これを楽遷と称し、幽州范陽の寛郷に居住させた。百姓は驚き騒いだ。連年の不作が続き、米の買い入れ価格が高騰した時期に属した。廃帝の乾明年中、尚書左丞蘇珍芝が、石鼈などの屯田を修復することを議し、毎年数万石を収穫した。これより淮南の軍防は、糧食が充足した。孝昭帝の皇建年中、平州刺史嵇曄が建議し、幽州督亢の旧陂を開き、長城の左右に営屯を設け、毎年稻粟数十万石を収穫し、北境を充足させた。また、河内に懷義などの屯を置き、以て河南の費用に充てた。これより転輸の労は次第に止んだ。

河清三年に令を定め、そこで人々の居住を十家を比鄰とし、五十家を閭里とし、百家を族黨とした。男子は十八歳以上、六十五歳以下を丁とし、十六歳以上、十七歳以下を中とし、六十六歳以上を老とし、十五歳以下を小とする。概ね十八歳で田を受け、租調を納め、二十歳で兵役に充て、六十歳で力役を免じ、六十六歳で田を退き、租調を免じる。

京城の四面、諸坊の外三十里以内を公田とする。公田を受ける者は、三県の代遷戸で執事官一品以下から、羽林・武賁に至るまで、それぞれ差がある。その外の畿郡では、華人の官で第一品以下、羽林・武賁以上に、それぞれ差がある。

職事官及び百姓で墾田を請う者は、これを永業田と称す。奴婢に田を受ける者は、親王は三百人に限り、嗣王は二百人に限り、第二品嗣王以下及び庶姓の王は、百五十人に限り、正三品以上及び皇宗は、百人に限り、七品以上は、八十人に限り、八品以下より庶人に至るは、六十人に限る。奴婢で限外に田を与えられざる者は、皆租調を輸納せず。その方百里外及び州の人は、一夫露田八十畝を受け、婦人は四十畝を受く。奴婢は良人に準じ、限数は在京の百官と同じ。丁牛一頭は、田六十畝を受け、四頭に限る。また毎丁に永業田二十畝を与え、桑田となす。その中に桑五十本、榆三本、棗五本を植う。還受の限に在らず。この田に非ざる者は、悉く還受の分に入る。土、桑に宜しからざる者は、麻田を与え、桑田の法の如し。

率いて人一牀ごとに、調は絹一疋、綿八両、凡そ十斤の綿の中、一斤を折りて絲と為し、墾租は二石、義租は五斗。奴婢は各々良人の半に准ず。牛の調は二尺、墾租は一斗、義租は五升。墾租は台に送り、義租は郡に納め、以て水旱に備う。墾租は皆貧富に依りて三梟と為す。その賦税常調は、則ち少なき者は直ちに上戸に出し、中なる者は中戸に及び、多き者は下戸に及ぶ。上梟は遠方に輸し、中梟は次遠に輸し、下梟は当州の倉に輸す。三年ごとに一たび校む。租、台に入る者は、五百里内は粟を輸し、五百里外は米を輸す。州鎮に入る者は、粟を輸す。人、銭を輸せんと欲する者は、上絹に准じて銭を収む。諸州郡は皆別に富人倉を置く。初め立てし日、領する所の中下戸口の数に准じ、一年の糧を得て支う。逐って当州の穀価賤しき時に当たり、斟量して当年の義租を割き充てて入る。穀貴ければ、下価にて糶し、賤しければ則ち還って糶したる物を用い、価に依りて糴し貯う。

毎歳春月、各々郷土の早晚に依り、人に農桑を課す。春より秋に及び、男十五歳以上は、皆田畝に布く。桑蚕の月、婦女十五歳以上は、皆蚕桑を営む。孟冬、刺史は邦教の優劣を聴審し、殿最の科品を定む。人に人力有りて牛無く、或いは牛有りて人力無き者は、須らく相便ならしめ、皆種を納め得しむ。地に遺利無く、人に遊手無からしむ。

縁辺の城守の地、墾食に堪うる者は、皆屯田を営み、都使・子使を置きて以て之を統ぶ。一子使は田五十頃に当たり、歳終に其の入る所を考へ、以て褒貶を論ず。

是の時、頻りに歳大水有り、州郡多く沈溺に遇ひ、穀価騰踊す。朝廷使いを遣はし倉を開き、貴価に従ひて以て之を糶くも、而して百姓益無く、饑饉尤も甚だし。重ねて疾疫相乗じ、死者十に四五なり。

天統中に至り、又東宮を毀ち、修文・偃武・隆基嬪嬙諸院を造り、玳瑁楼を起す。又遊豫園に於いて池を穿ち、周りに列館を以てし、中に三山を起し、台を構へ、以て滄海に象り、併せて大いに仏寺を修し、労役鉅万を計る。財用給せず、乃ち朝士の禄を減じ、諸曹の糧膳を断ち、及び九州軍人の常賜を以て之を供す。武平の後、権幸並びに進み、賜与限り無く、之に旱蝗を加ふ、国用転じて屈す。乃ち境内の六等の富人を料し、調を令して銭を出さしむ。而して給事黄門侍郎顔之推、関市邸店の税を立てんことを奏請し、開府鄧長顒之を賛成す、後主大いに悦ぶ。是に於いて其の入る所を以て、御府の声色の費に供し、軍国の用は預からず。未だ幾ばくもせずして亡ぶ。

後周の太祖相と為り、六官を創制す。載師は任土の法を掌り、夫家田里の数を辨へ、六畜車乗の稽を会し、賦役斂弛の節を審にし、畿疆修広の域を制し、施恵の要を頒ち、牧産の政を審にする。司均は田里の政令を掌る。凡そ人口十以上は、宅五畝、口九以上は、宅四畝、口五以下は、宅三畝。室有る者は、田百四十畝、丁者は田百畝。司賦は功賦の政令を掌る。凡そ人、十八より以て六十有四に至るまで、及び軽癃の者と、皆之に賦す。其の賦の法、室有る者は、歳絹一疋、綿八両、粟五斛を過ぎず、丁者は其の半。其の桑土に非ざるは、室有る者は、布一疋、麻十斤、丁者は又其の半。豊年は則ち全賦、中年は其の半、下年は其の一、皆時に従ひて之を徴す。若し艱凶札有らば、則ち其の賦を徴せず。司役は力役の政令を掌る。凡そ人、十八より以て五十有九に至るまで、皆役に任ず。豊年は三旬を過ぎず、中年は則ち二旬、下年は則ち一旬。凡そ徒役を起すは、家一人を過ぎず。其の人に年八十なる者は、一子役に従はず、百年なる者は、家役に従はず。廃疾にて人に養はれざる者は、一人役に従はず。若し凶札有らば、又力征無し。掌塩は四塩の政令を掌る。一に散塩と曰ひ、海を煑じて以て之を成す。二に盬塩と曰ひ、池を引いて以て之を化す。三に形塩と曰ひ、地に物して以て之を出す。四に飴塩と曰ひ、戎に於いて以て之を取る。凡そ盬塩・形塩は、毎地之が為に禁を為し、百姓之を取るは、皆之に税す。司倉は九穀の物を辨じ、以て国用を量る。国用足れば、即ち其の余を蓄へ、以て凶荒に待つ。足らざれば則ち止む。余用足れば、則ち粟を以て人に貸す。春之を頒ち、秋之を斂む。

閔帝元年、初めて市門税を除く。宣帝即位に及び、復た入市の税を興す。武帝保定元年、八丁兵を改めて十二丁兵と為し、率いて歳一月の役とす。建徳二年、軍士を改めて侍官と為し、百姓を募りて之に充て、其の県籍を除く。是れより後、夏人の半ば兵と為る。宣帝の時、山東諸州を発し、一月の功を増して四十五日の役と為し、以て洛陽らくよう宮を起す。併せて相州六府を洛陽に移し、東京六府と称す。

武帝保定二年正月、初めて蒲州に於いて河渠を開き、同州に於いて龍首渠を開き、以て溉灌を広む。

高祖(文帝)が帝位に即くと、東京(洛陽)造営の労役を廃止し、市への入場税を免除した。この時、尉遅迥・王謙・司馬消難が相次いで叛逆し、兵を興して誅伐し、賞賜と費用は巨万に及んだ。禅譲を受けた後、また都を遷し、山東の丁男を徴発して宮室を造営した。依然として周の制度に依り、丁男の役は十二番、工匠は六番とした。新令を頒布すると、制度として人民五家を保とし、保には長を置いた。保五つを閭とし、閭四つを族とし、いずれも正を置いた。畿外には里正を置き、閭正に比し、党長は族正に比して、互いに監察させた。男女三歳以下を黄、十歳以下を小、十七歳以下を中、十八歳以上を丁とした。丁は課役に従い、六十歳を老として免じた。諸王以下より都督ととくに至るまで、皆に永業田を給し、それぞれ差等があった。多い者は百頃に至り、少ない者は四十畝であった。その丁男・中男の永業露田は、皆後斉の制度に従った。併せて桑・榆および棗を植えることを課した。その園宅は、おおよそ三口に一畝を給し、奴婢は五口に一畝を給した。丁男一牀(一夫婦)につき、租粟三石。桑土は調として絹・絁を、麻土は布・絹を納めた。絁は一疋につき、綿三両を加える。布は一端につき、麻三斤を加える。単丁および僕隷はそれぞれ半額とする。田地を受けていない者は皆課さない。品爵ある者および孝子・順孫・義夫・節婦は、併せて課役を免じた。京官にはまた職分田を給した。一品は田五頃を給する。毎品五十畝を差とし、五品に至れば田三頃、六品は二頃五十畝となる。その下は毎品五十畝を差とし、九品で一頃となる。外官もまたそれぞれ職分田がある。また公廨田を給し、公用に供えた。

開皇三年正月、帝は新宮に入った。初めて軍人を二十一歳で丁とすることとした。十二番の役を毎歳二十日に減じ、調絹一疋を二丈に減じた。先だっては依然として周の末の弊に依り、官が酒坊を置いて利益を収め、塩池・塩井は皆百姓の採用を禁じていた。この時に至り酒坊を廃し、塩池・塩井を通じて百姓と共にした。遠近大いに悦んだ。

この時、突厥が塞を犯し、吐谷渾が辺を寇し、軍旅が数度起こり、輸送は労弊した。帝は朔州総管趙仲卿に命じ、長城以北において大いに屯田を興し、塞下を充実させた。また河西において、百姓を督して堡を立てさせ、田を営み穀を積ませた。京師に常平監を置いた。

この時、山東は尚斉の習俗を承けており、機巧・姦偽、役を避けて惰遊する者が十の六七を占めた。四方の疲弊した民は、あるいは老と詐り小と詐り、租賦を免れようと図った。高祖は州県に大いに索貌閲を行わせ、戸口が実態と合わない者は、正長を遠方に配流し、また互いに糾発する科条を開いた。大功以下の親族は、併せて籍を分けることを命じ、各々戸頭とし、容隠を防いだ。ここにおいて計帳により四十四万三千丁が進み、新たに附した者は百六十四万一千五百口であった。

高熲はまた、民間の課税輸納について、定分はあるものの、毎年常に徴収納入する際、免除・注記が恒常的に多く、長吏が情に任せ、文帳が出入りし、また定まった簿がなく、推し量り校合し難いことを以て、輸籍定様を作り、諸州に遍く下すことを請うた。毎年正月五日、県令が人を巡り、各々便近に従い、五党・三党を共に一団とし、様に依って戸の上下を定める。帝はこれに従った。ここより姦偽の隠れる所無し。

時に百姓は平穏な日が久しく、数度水旱に遭うも、戸口は年々増加した。諸州の調物は、毎年河南は潼関より、河北は蒲坂より、京師に達し、路上相連なり、昼夜絶えること数ヶ月に及んだ。帝は既に自ら倹約を実践し、六宮は皆洗濯した衣を着用した。乗輿の供御に古びたものがあれば、随時に補って用い、皆改めて作らせなかった。饗宴の事でなければ、食するものは一肉に過ぎなかった。有司が乾薑を進上した際、布袋に貯えており、帝は浪費と見做し、大いに譴責した。後に香を進上するに、また氈袋を用いたため、因って所司を笞打ち、後の戒めとした。ここにより内外職務に励み、府庫の財は充実し、百官の禄賜および功臣への賞賜は、皆豊厚の中から出た。九年に陳が平定され、帝は親しく朱雀門に御し凱旋軍を労い、因って慶賞を行った。門外より、道を挟んで布帛の積み上げを列ね、南郭に達し、順次頒給した。費やす所三百余万段。帝は江表が初めて平定されたことを以て、十年の復除を与えた。その他の諸州は、併せて当年の租賦を免じた。十年五月、また宇内に事無きを以て、更に徭役租賦を寛大にした。百姓で年五十の者は、庸を納めて防戍を停める。十一年、江南がまた反し、越国公楊素が討伐平定し、軍が還ると、賜物は甚だ広かった。その他の出師への命賞も、また優厚でないことは無かった。十二年、有司が上言し、庫蔵は皆満ちていると。帝は「朕は既に人に薄く賦し、また大いに賜用しているのに、どうしてこうなったのか」と。答えて「用いるところは常に出し、納めるところは常に入ります。略計するに毎年の賜用は、数百万段に至りますが、曾て減損はありません」と。ここにおいて更に左蔵の院を開き、屋を構えてこれを受けた。詔を下して「既に富みて教えれば、方に廉恥を知り、寧ろ人に積むも、府庫に蔵すこと無かれ。河北・河東の今年の田租は、三分の一を減じ、兵役は半減し、功調は全免する」と。

時に天下の戸口は年々増加し、京輔および三河は、地少なくして人衆く、衣食が給わなかった。議する者は皆寛郷への移住を望んだ。その年の冬、帝は諸州の考使に命じてこれを議させた。また尚書に命じ、その事を以て四方の貢士に策問させたが、竟に長策は無かった。帝は使者を発して四方に出し、天下の田を均した。その狭郷では、毎丁わずか二十畝に至り、老小はまたこれより少なかった。

十三年、帝は楊素を出させ、岐州の北に仁寿宮を造営させた。素は遂に山を平らげ谷を埋め、観宇を営み構え、高き台を重ね累ねた榭は、宛転として相連なった。役使は厳急で、丁夫は多く死に、疲弊して倒れる者は、坑坎に推し埋め、土石で覆い、因って平地に築いた。死者は万を数えた。宮が完成し、帝は行幸した。時は暑月であったが、死人が道上に相次ぎ、素は一切これを焼き除いた。帝はその事を頗る知り、甚だ悦ばなかった。新宮に入り遊観すると、乃ち喜び、また素を忠と謂った。後、帝が歳暮の夕べに、仁寿殿に登り、周囲の原隰を望むと、宮外に燐火が瀰漫し、また哭声を聞いた。左右に観させると、報じて「鬼火です」と。帝は「此等は工役で死した者で、既に年暮に属し、魂魄帰るを思うのか」と。乃ち酒を灑ぎ勅を宣し、呪文を以て遣わした。ここより乃ち止んだ。

開皇三年、朝廷は京師の倉廩が尚虚であることを以て、水旱の備えを議し、ここにおいて蒲・陝・虢・熊・伊・洛・鄭・懷・邵・えい・汴・許・汝等の水辺十三州に詔して、運米丁を募集させた。また衞州に黎陽倉を、洛州に河陽倉を、陝州に常平倉を、華州に広通倉を置き、転相灌注させた。関東および汾・晋の粟を漕送し、以て京師に給した。また倉部侍郎韋瓚を遣わし、蒲・陝以東に向かわせ、洛陽より米四十石を運び、砥柱の険を経て、常平倉に達する者を募集し、その征戍を免じた。その後、渭水は沙多く、流れに深浅あり、漕運する者を苦しめた。四年、詔して曰く。

ここにおいて宇文愷に命じ水工を率いて渠を鑿ち、渭水を引き、大興城東より潼関に至る三百余里、名づけて広通渠と曰う。転運通利し、関内はこれに頼った。諸州の水旱凶饑の処も、また便に開倉して賑給した。

五年(開皇五年)五月、工部尚書・襄陽県公長孫平が上奏して言うには、「古は三年耕して一年の積み余りあり、九年作して三年の儲えあり。水旱の災あれども、人に菜色なく、皆勧導方あり、蓄積先に備わるが故なり。去年は亢陽(日照り)にて、関内は熟さず。陛下は黎元(民)を哀愍し、赤子に甚だし。山東の粟を運び、常平の官を置き、倉廩を開き発し、普く賑賜を加う。少食の人、豊かに足らざるは莫し。鴻恩大徳、前古未だ比ぶる無し。其の強宗富室、家道余りある者は、皆競いて私財を出し、遞(次々)に相い賙贍(救済)す。此れ乃ち風行きて草偃なびくが如く、化に従いて然るなり。但し経国(国を治むる)の理、定式を存すべし」と。ここにおいて諸州の百姓及び軍人に令し、当社(その里社)において勧課(奨励・徴収)し、共に義倉を立てしむるを奏す。収穫の日、其の得る所に随い、粟及び麦を出だすを勧課し、当社に於いて倉窖を造りて之を貯えしむ。即ち社司に委ね、帳を執りて検校せしめ、毎年収積し、損敗せしめざらしむ。若し時に熟さず、当社に饑饉ある者は、即ち此の穀を以て賑給す。是より諸州の儲峙(蓄え)委積(積み重)ぬ。其の後、関中は連年大旱し、而して青・兗・汴・許・曹・亳・陳・仁・譙・豫・鄭・洛・伊・潁・邳等の州は大水あり、百姓饑饉す。高祖(文帝)乃ち蘇威等を命じ、道を分かちて倉を開き賑給せしむ。又た司農丞王亶を命じ、広通(倉)の粟三百余万石を発し、以て関中を拯わしむ。又た故城(長安ちょうあん旧城)中の周代の旧粟を発し、賤く糶(売り)て人に与う。牛・驢六千余頭を買い、分けて尤も貧しき者に給し、関東に往きて食に就かしむ。其の水旱に遭える州は、皆其の年の租賦を免ず。

十四年(開皇十四年)、関中大旱し、人飢う。上(文帝)洛陽に幸し、因りて百姓に就食(食を求む)せしむ。従官並びに現口(実際の人数)に准じて賑給し、官位を以て限りとせず。明年、東に巡狩し、因りて泰山に祠る。是の時、義倉の貯えは人間(民間)に在りて、多く費損あり。十五年二月、詔して曰く、「本に義倉を置くは、只だ水旱を防ぐに止まる。百姓の徒、久計を思わず、軽々しく費損し、後には乏絶せんとす。又た北境の諸州は、余の処に異なり、雲・夏・長・靈・鹽・蘭・豐・鄯・涼・甘・瓜等の州は、所有の義倉雑種(雑穀)を並びに本州に納めよ。若し人に旱儉(日照り凶作)少糧あらば、先ず雑種及び遠年(年数の経過した)の粟を給せよ」と。十六年正月、又た詔して秦・疊・成・康・武・文・芳・宕・旭・洮・岷・渭・紀・河・廓・豳・隴・涇・寧・原・敷・丹・延・綏・銀・扶等の州の社倉は、並びに当県に安置せしむ。二月、又た詔して社倉は、上中下三等の税に准じ、上戸は一石を過ぎず、中戸は七斗を過ぎず、下戸は四斗を過ぎざらしむ。其の後、山東は頻年に霖雨(長雨)し、杞・宋・陳・亳・曹・戴・譙・潁等の諸州、滄海に達するまで、皆水災に困しみ、所在に沈溺す。十八年、天子は使を遣わし、水工を将い、川源を巡行し、高下を相視(調査)せしめ、随近の丁を発して以て之を疏導せしむ。困乏する者は、倉を開き賑給し、前後用うる所の穀五百余石。水に遭える処は、租調皆免ず。是より頻りに年(豊作)有り。

開皇八年五月、高熲は諸州の課調(租税)無き処及び課州の管戸数少なき処は、官人の祿力(俸禄・人件費)は、前より已来、恒に随近の州より出づるを奏す。但し判官は本より牧人(民を治むる者)たるを為し、役力は理(当然)に所部より出づべし。請うらくは、管ずる戸内に於いて、戸を計りて税を徴すべしと。帝(文帝)之に従う。先に京官及び諸州は、並びに公廨銭を給し、廻易(売買)して利を生じ、以て公用に給す。十四年六月に至り、工部尚書・安平郡公蘇孝慈等は、所在の官司が往昔に因循し、公廨銭物を以て出挙(貸付)興生(営利)し、唯だ利を求むるのみにて、百姓を煩擾し、風俗を敗損するは、此れに甚だしきは莫しと為す。ここにおいて皆地を給して以て農を営ましめ、廻易して利を取ることを一に皆禁止すべしと奏す。十七年十一月、詔して在京及び在外の諸司の公廨が、市に於いて廻易し、及び諸処に興生することを並びに聴す。唯だ出挙して利を収むるを禁ずと云う。

煬帝即位す。是の時、戸口益々多く、府庫盈溢す。乃ち婦人及び奴婢・部曲の課を除く。男子は二十二歳を以て丁と成す。始めて東都を建つ。尚書令しょうしょれい楊素を以て営作大監と為し、毎月丁二百万人を役す。洛州郭内の人及び天下諸州の富商大賈数万家を徙し、以て之を実(満た)す。新たに興洛倉及び廻洛倉を置く。又た皁澗に於いて顕仁宮を営み、苑囿連接し、北は新安に至り、南は飛山に及び、西は澠池に至り、周囲数百里。天下諸州に課し、各々草木花果・奇禽異獸を其の中に貢せしむ。渠を開き、穀水・洛水を引き、苑西より入りて、東に洛に注がしむ。又た板渚より河(黄河)を引き、淮海に達せしめ、之を御河と謂う。河畔に御道を築き、柳を以て樹う。又た黄門侍郎王弘・上儀同於士澄を命じ、江南諸州に往きて大木を採り、東都に引き至らしむ。経過する州県は、遞送(継ぎ送り)往返し、首尾相い属し、絶えざる者千里。而して東都の役使は促迫し、僵仆(倒れ伏)して斃るる者、十に四五なり。毎月死丁を載せ、東は城臯に至り、北は河陽に至り、車道に相い望む。時に帝将に遼・碣(高句麗)に事(征伐)せんとし、軍府を増置し、地を掃いて兵と為す。是より租賦の入益々減ず。

又た龍舟・鳳䑽(鳳凰の飾りの船)・黄龍・赤艦・楼船・篾舫(竹製の船)を造る。諸の水工を募り、之を殿脚と謂い、錦を衣て行幐(脚絆)し、青絲の纜を執りて船を挽かしめ、以て江都に幸す。帝は龍舟に御し、文武官五品以上には楼船を給し、九品以上には黄篾舫を給す。舳艫相接し、二百余里。経過する州県は、並びに供頓(接待・供給)を令し、食を献じて豊かに弁ずる者は官爵を加え、闕乏する者は死に譴(罰)す。又た盛んに車輿・輦輅・旌旗・羽儀の飾りを修む。天下の州県に課し、凡そ骨角歯牙・皮革毛羽、器用を飾るべく、氅毦(飾り羽)と為すに堪うる者は、皆之を責む。徴発倉卒(突然)に、朝に命じて夕に弁じ、百姓は求捕し、網罟野に徧(満)ち、水陸の禽獸殆ど尽き、猶お給する能わず。而して豪富蓄積の家に買うに、其の価騰踊す。是の歳、翟雉(キジの一種)の尾一、直(値)十縑、白鷺鮮(白鷺の羽)は其の半。

乃ち屯田主事常駿をして赤土国に使わしめ、羅剎(国か)を致さしむ。又た朝請大夫張鎮州をして流求(台湾)を撃たしめ、俘虜数万。士卒深入し、瘴癘を蒙犯し、餒疾して死する者十に八九。又た西域は諸の宝物多しと以て、裴矩をして張掖に往かしめ、諸の商胡の互市を監せしむ。利を以て啖(誘)い、入朝を勧め令す。是より西域の諸蕃、往来相い継ぎ、経る所の州郡、送迎に疲れ、縻費(浪費)万萬を以て計る。

翌年、帝は北を巡狩した。また民衆百万人を動員し、北に長城を築き、西は楡林から、東は紫河に至るまで、連綿千余里に及び、死者は大半を占めた。四年、河北諸郡より百余万の民衆を徴発し、沁水を引き、南は黄河に達し、北は涿郡に通じた。これより丁男が供給されず、初めて婦人を役務に従わせた。五年、西に河右を巡幸した。西域の諸胡は、金玉を佩き、錦罽をまとい、香を焚き楽を奏し、道の左に迎え待った。帝は武威・張掖の士女に命じ、盛装して見物させた。衣服車馬の鮮やかでない者は、州県が督促し、これを誇示した。その年、帝は親征して吐谷渾を討ち、赤水においてこれを破った。慕容仏允はその家属を棄て、西に青海へ奔った。帝は兵を駐めて出撃せず、天の霖雨に遭い、大斗抜谷を経るに及び、士卒の死者は十二三に及び、馬驢は十八九に及んだ。ここにおいて河源郡・積石鎮を置いた。また西域の地に、西海・鄯善・且末等の郡を置いた。天下の罪人を流刑とし、戍卒に配し、大いに屯田を開き、西方諸郡に発して糧を運ばせてこれを供給した。道里は懸遠で、かつ寇抄に遭い、死亡が相続した。

六年、高麗を征伐せんとし、有司が兵馬がすでに多く損耗したと奏上した。詔してまた天下の富人に課し、その資産を量り、銭を出して武馬を買い、元の数を埋め合わせた。限りを令して取り足らしむ。また兵を点検し器仗を具え、皆精新ならしめ、濫悪なれば則ち人をして便ち斬らしめた。ここにおいて馬匹は十万に至った。七年冬、涿郡に大いに会した。江淮南の兵を分け、ぎょう衞大将軍来護児に配し、別に舟師をもって滄海を渡り、舳艫数百里に及んだ。併せて軍糧を載せ、期して大兵と平壤に会せんとした。この年、山東・河南に大水があり、四十余郡を漂没し、重ねて遼東の覆敗により、死者数十万に及んだ。疫疾が属し、山東は特に甚だしかった。所在皆、徴斂して供帳軍旅の資とすることを務めとし、百姓は困窮するも、これを恤れむことはなかった。急な徭役や卒賦、徴求があるごとに、長吏は必ず先ずこれを安く買い、然る後に下に宣べ、乃ち人に高く売り、旦暮の間に、価は数倍に盈ち、裒刻して徴斂し、一時に取り整えた。強者は聚まって盗賊となり、弱者は自ら売れて奴婢となった。九年、詔してまた関中の富人に課し、その資産を計って驢を出し、伊吾・河源・且末へ糧を運ばせた。多い者は数百頭に至り、毎頭の価は万余に至った。また諸州の丁を発し、四番に分け、遼西柳城に営屯し、往来艱苦で、生業は尽く罄きた。盗賊四起し、道路南に絶え、隴右の牧馬は、尽く奴賊に掠められ、楊玄感が虚に乗じて乱を為した。時に帝は遼東に在り、これを聞き、急ぎ高陽郡に帰った。玄感が平定された後、帝は侍臣に謂いて曰く、「玄感が一呼すれば従う者が市の如し、益々天下の人は多くを欲せざるを知る。多ければ則ち賊となる。尽く誅さざれば、後に以て勧めを示すこと無からん。」乃ち裴蘊に命じてその党与を窮めさせ、詔して郡県に坑殺せしめ、死者は勝えず数えるべからず。所在驚駭した。天下の人を挙げて十分とすれば、九は盗賊となり、皆武馬を盗み、始めて長槍を作り、城邑を攻め陥れた。帝はまた郡県に督捕を置いて賊を討たしめた。益々人を募って遼を征し、馬少なく八馱に充たず、而して六馱を許した。また足らず、半ばを以て驢に充つることを聴した。路に在って逃ぐる者相継ぎ、執獲すれば皆これを斬ったが、止む能わざりき。帝は悦ばず。高麗が叛臣斛斯政を執って送り、使を遣わして降を求むるに遇い、詔を発してこれを赦した。政を囚えて京師に至らしめ、開遠門外に於いて、磔にして射殺した。遂に太原に幸し、突厥に雁門に囲まれた。突厥は尋いで散じ、急ぎ洛陽に還り、益々驍果を募り、以て旧の数を充たした。

この時、百姓は生業を廃し、城堡に屯集し、自ら給する術無かりき。然るに所在の倉庫は、猶大いに充牣し、吏は皆法を懼れ、肯って賑救せず、これにより益々困窮した。初めは皆樹皮を剥ぎてこれを食い、漸く葉に及び、皮葉皆尽き、乃ち土を煮るか、あるいは藁を擣きて末としこれを食った。その後、人乃ち相食うに至った。十二年、帝は江都に幸した。この時、李密は洛口倉を拠り、衆百万を聚めた。越王侗は段達等とともに東都を守った。東都城内は糧尽き、布帛は山積し、乃ち絹を以て汲綆とし、布を燃やして爨とした。代王侑は衞玄とともに京師を守り、百姓は饑饉に陥ったが、亦救う能わざりき。義師が長安に入り、永豊倉を開いてこれを賑い、百姓は方に蘇息した。

晋は江を渡って以来、凡そ奴婢・馬牛・田宅を貨売するに、文券有る者は、率ね銭一万について、估四百を官に輸し、売者三百、買者一百とす。文券無き者は、物の堪えるに随い、亦百分の四を収め、散估と名づく。宋・斉・梁・陳を歴て、此の如く以て常と為す。これにより人は競って商販し、田業を為さず、故に均輸を行い、以て懲励せんと欲す。此れを以て辞と為すと雖も、其の実は侵削に利あり。また都の西に石頭津有り、東に方山津有り、各津主一人、賊曹一人、直水五人を置き、以て禁物及び亡叛者を検察す。其の荻炭・魚薪の類、津を過ぐる者は、併せて十分の一を税し以て官に入る。其の東路は禁貨無く、故に方山津の検察は甚だ簡なり。淮水の北に大市百余、小市十余所有り。大市は官司を備え置き、税斂既に重く、時に甚だこれを苦しむ。

梁の初め、唯だ京師及び三呉・荊・郢・江・湘・梁・益は銭を用う。其の余の州郡は、則ち穀帛を雑えて交易す。交・広の域は、全く金銀を以て貨と為す。武帝は乃ち銭を鋳、肉好周郭有り、文に「五銖」と曰い、重さ其の文の如し。而して又別に鋳、其の肉郭を除き、之を女銭と謂う。二品並び行わる。百姓或いは私かに古銭を以て交易し、直百五銖・五銖・女銖・太平百銖・定平一百・五銖雉銖・五銖対文等の号有り。軽重一ならず。天子頻りに詔書を下し、新に鋳たる二種の銭に非ざれば、併せて用いることを許さず。而して利を趣くの徒、私用転じて甚だし。普通の中に至り、乃ち議して尽く銅銭を罷め、更に鉄銭を鋳る。人は鉄賤しく易得を以てし、併せて皆私鋳す。大同已後に至り、所在の鉄銭、遂に丘山の如く、物価騰貴す。交易する者は車に銭を載せ、復た数を計らず、而して唯だ貫を論ず。商旅姦詐、之に因りて以て利を求む。破嶺より以東は、八十を以て百と為し、名づけて東銭と曰う。江・郢已上は、七十を以て百と為し、名づけて西銭と曰う。京師は九十を以て百と為し、名づけて長銭と曰う。中大同元年、天子は乃ち詔して通用足陌を用いしむ。詔下るも人従わず、銭陌益だ少なし。末年に至りて、遂に三十五を以て百と為すと云う。

陳の初め、梁の喪乱の後を承け、鉄銭行わず。初め梁の末に又両柱銭及び鵝眼銭有り、当時人雑用し、其の価同じと雖も、但だ両柱は重くして鵝眼は軽し。私家多く銭を鎔かし、又間に錫鉄を以てし、兼ねて粟帛を以て貨と為す。文帝天嘉五年に至り、五銖を改めて鋳る。初めて出づるや、一は鵝眼の十に当たる。宣帝太建十一年、又大貨六銖を鋳、一を以て五銖の十に当て、五銖と並び行わる。後還って一に当たり、人皆便ならず。乃ち相与に訛言して曰く、「六銖銭は県官に不利の象有り。」未だ幾ばくもせずして帝崩じ、遂に六銖を廃し五銖を行わる。竟に陳の亡ぶるに至る。其の嶺南諸州は、多く塩・米・布を以て交易し、俱に銭を用いずと云う。

斉の神武帝が覇政を始めた初め、魏の制度を承けてなお永安五銖を用いた。鄴に遷都した後、百姓が私鋳し、形制が次第に異なり、遂にそれぞれ名を以て呼ばれるようになった。雍州青赤、梁州生厚・緊銭・吉銭、河陽生澀・天柱・赤牽などの称があった。冀州の北では、銭は皆通用せず、交易する者は皆絹布を用いた。神武帝は境内の銅及び銭を収め、なお旧来の銘文に従って更に鋳造し、四境に流通させた。間もなく、次第に再び細薄となり、奸偽が競い起こった。文宣帝が禅譲を受けると、永安の銭を廃し、常平五銖を改めて鋳造し、その重さは銘文の通りであった。その銭は甚だ貴重で、かつ製造は甚だ精巧であった。乾明・皇建の間になると、往々にして私鋳された。鄴中で用いる銭には、赤熟・青熟・細眉・赤生の違いがあった。河南で用いるものには、青薄鉛錫の別があった。青・斉・徐・兗・梁・豫州では、種類がそれぞれ異なった。武平以後、私鋳は転じて甚だしく、あるいは生鉄を銅に混ぜた。斉が滅亡するに至るまで、遂に禁止することができなかった。

後周の初め、なお魏銭を用いた。武帝の保定元年七月に至り、更に布泉の銭を鋳造し、一を以て五に当て、五銖と並行させた。当時、梁・益の地域では、また古銭を交えて交易に用いた。河西の諸郡では、あるいは西域の金銀の銭を用いたが、官は禁止しなかった。建徳三年六月、更に五行大布銭を鋳造し、一を以て十に当て、商人の利益を大いに収め、布泉銭と並行させた。四年七月、また辺境の地では、人が多く盗鋳するを以て、五行大布を禁止し、四関を出入することを得ず、布泉の銭は、入るを聴すれども出づるを聴さずとした。五年正月、布泉が次第に賤しくなり人が用いないを以て、遂にこれを廃した。初めて私鋳する者を絞刑にし、従う者を遠方に配流して戸と為すことを命じた。斉平定以後、山東の人は、なお斉氏の旧銭を交えて用いた。宣帝の大象元年十一月に至り、また永通万国銭を鋳造した。一を以て十に当て、五行大布及び五銖と、凡そ三品を並用した。

高祖(文帝)が周の禅譲を受けると、天下の銭貨の軽重が等しくないを以て、乃ち更に新銭を鋳造した。背面と表面の肉(地金)と孔(穴)には、皆周囲に郭(縁)があり、銘文は「五銖」とし、その重さは銘文の通りであった。銭一千毎に、重さ四斤二両であった。この時、銭は既に新しく出たが、百姓が或いは私かに熔解鋳造した。三年四月、詔して四面の諸関に、各々百銭を交付して見本と為した。関外より来る者は、見本と照合して相似すれば、然る後に過ぎることを得た。見本と異なるものは、即ち壊して銅と為し、官に没収した。詔して新銭を行った以後も、前代の旧銭、五行大布・永通万国及び斉の常平が、所在で用いられ貿易が止まなかった。四年、詔してなお旧来の通り禁止しない者は、県令は半年の禄を奪うとした。然れども百姓が習用すること既に久しく、尚猶絶えなかった。五年正月、詔して又その制を厳しくした。ここより銭貨は始めて統一され、所在に流通し、百姓はこれを便利とした。この時、現に用いる銭は、皆須らく錫鑞を和するを要した。錫鑞は既に賤しいを以て、利を求める者が多く、私鋳の銭は、禁止制約することができなかった。その年、詔して乃ち錫鑞の産出する処を禁じ、並びに私かに採取することを得ずとした。十年、詔して晋王広に、揚州に五鑪を立てて銭を鋳造することを聴した。その後、奸狡な者が次第に銭の郭を磨鑢し、銅を取って私鋳し、又錫銭を交ぜ、互いに模倣し、銭は遂に軽薄となった。乃ち悪銭の禁令を下した。京師及び諸州の邸肆の上に、皆榜を立て、見本を置いて標準と為すことを命じた。見本に合わないものは、市に入ることを許さなかった。十八年、詔して漢王諒に、へい州に五鑪を立てて銭を鋳造することを聴した。この時、江南では民間に銭が少なく、晋王広は又鄂州の白紵山に銅鉱のある処で、銅を錮めて銭を鋳造することを聴した。ここにおいて詔して十鑪を置いて銭を鋳造することを聴した。又詔してしょく王秀に、益州に五鑪を立てて銭を鋳造することを聴した。この時、銭は益々濫悪となった。乃ち官司に命じ、天下の邸肆にある現銭を調査し、官鋳でないものは、皆これを毀ち、その銅を官に没収させた。而して京師では悪銭で貿易し、吏に捕えられ、死する者があった。数年之間、私鋳は頗る止んだ。大業以後、王綱弛緩紊乱し、巨奸大猾が遂に多く私鋳し、銭は転じて薄悪となった。初めは毎千なお二斤の重さがあったが、後には次第に軽くなって一斤に至った。或いは鉄鍱を翦り、皮を裁ち紙を糊して銭と為し、互いに交えて用いた。貨賤く物貴く、以て滅亡に至った。