序
『洪範五行伝』に曰く、「視ること明らかならざるは、是れ不知と謂う。其の咎は舒、其の罰は常燠、其の極は疾。時に則ち草妖有り、時に則ち羽蟲の孽有り。故に羊禍有り、故に目疾有り、赤眚赤祥有り。惟れ水は火を沴う」と。
常燠
後斉の天保八年三月、大いに熱く、人あるいは暍死す。劉向の『五行伝』に曰く、「視ること明らかならざるは、近習を用い、賢者は進まず、不肖は退かず、百職廃壊し、庶事従わず、其の過は政教の舒緩に在り」と。時に帝の狂躁・荒淫度を失うの応なり。
草妖
羽蟲之孽
陳の後主の時、蔣山に衆鳥有り、翼を鼓して鳴きて曰く「奈何帝」と。京房の『易飛候』に曰く、「鳥門闕に鳴き、人音の如きは、邑将に亡ぼんとす」と。蔣山は、呉の望なり。鳥其上に鳴くは、呉空虚の象。陳亡ぶに及び、建康墟と為る。又陳未だ亡びざる時、一足の鳥殿庭に集まり、嘴を以て地に画きて文を成し、曰く「独足高台に上り、盛草灰に変ず」と。独足は、叔宝独り行い衆無きの応。草を成し灰を成すは、陳の政穢無くして、隋の火徳に焚除せらるるなり。叔宝長安に至り、都水台上に館す、高台の義なり。
武成胡后後主を生む初め、梟有り後帳に升りて鳴く。梟は孝ならざるの鳥、不祥の応なり。後主位を嗣ぎ、胡后の淫乱事彰る、遂に後を北宮に幽す。
武平七年、鸛が太極殿に巣を作り、また并州の嘉陽殿にも巣を作った。雉が晉陽宮の御座に集まり、これを捕らえた。京房の『易飛候』に曰く、「鳥、故なくして君門及び殿屋の上に巣居するは、邑まさに虚せんとす」と。その年、国は滅びた。
開皇の初め、梁の主蕭琮が新たに後を起こしたとき、鵂鳥がその帳の隅に集まった。間もなく、琮は入朝し、長安に留め置かれた。梁国は遂に廃された。
大業の末、京師の宮室の中に、常に鴻雁の類が無数にあり、その間を翔けり集まった。やがて長安は守られなくなった。
羊禍
赤眚赤祥
梁の天監十五年七月、荊州市にて人を殺すも身は僵えず、首は地に墮ち、口を動かし目を張り、血は竹箭の如く、直ちに上ること丈餘、然る後に雨の如く細かに下る。是の歳、荊州大旱す。赤祥に近く、冤気の応なり。
陳の太建十四年三月、御座の幄上に一物を見る。車輪の如く、色正しく赤し。間もなくして帝は患い、故なくして数声大叫して崩ず。
四年三月、物有りて殿庭に隕る。色赤く、形数鬥の器の如く、衆星の随う者小鈴の如し。四月、婁太后崩ず。
武平の中、血点地有り、咸陽王斛律明月の宅よりして太廟に至る。大将は社稷の臣なり。後主、讒言を以て之を殺す。天戒は若し曰く、明月を殺せば、則ち宗廟随いて覆らん、と。後主悟らず、国祚竟に絶つ。
『洪範五行伝』に曰く、「聴くこと聡明ならざるは、是れを不謀と謂う。其の咎は急、其の罰は寒、其の極は貧。時に則ち鼓妖有り、魚孽有り、彘禍有り、黒眚黒祥有り、惟れ火水を沴う」と。
寒
東魏の武定四年二月、大いに寒し。人畜凍死する者、道に相望む。京房の『易飛候』に曰く、「誅過深く、燠くあるべきに寒し」と。是の時、後斉の神武(高歓)相たり。先に爾朱文暢等神武を謀害せんとし、事泄れて誅せられ、諸に交通する者、多く濫死す。
陳の太建十年八月、霜隕りて稻菽を殺す。是の時、大いに師を興し衆を選び、将吳明徹を遣わし、周の師と呂梁に於いて相拒つ。
鼓妖
梁の天監四年十一月、天清朗、西南に電光有り、雷声二つ有り。『易』に曰く、「雷霆を以て之を鼓す」と。霆は鼓妖に近し。
『洪範五行伝』に曰く、「雷霆は雲に托す、猶ほ君の人に托するが如し。君天下を恤れみざれば、故に兆人怨叛の心有り」と。是の歳、交州刺史李凱兵を挙げて反す。
十九年九月、西北に声有り雷の如く隠隠として、赤気地に下る。是の歳、盗東莞・琅邪二郡守を殺し、朐山を以て魏軍を引く。
中大通六年十二月、西南に声有り雷の如し。其の年、北梁州刺史蘭欽兵を挙げて反す。
斉の天保四年四月、西南に声有り雷の如し。是の時、帝(北斉の文宣帝)天下を恤れみず、師旅を興す。
後周の建徳六年正月、西方に声有り雷の如し。未だ幾もせず、吐谷渾辺を寇す。
開皇十四年正月旦、廓州の連雲山に雷の如き声あり。是の時に五羌反叛し、辺鎮を侵擾す。二十年、雲無くして雷す。京房の『易飛候』に曰く、「国将に君を易え、下人の静かならず、小人先ず命ず。国凶にして兵甲有り」と。後数歳、帝崩じ、漢王諒兵を挙げて反し、其の党数十万家を徙す。
大業中、滏陽の石鼓頻りに歳を鳴く。其の後、天下大乱し、兵戎並び起こる。
魚の孽
梁の大同十年三月、帝硃方に幸し、四塹の中に至り、及び玄武湖に至るに、魚皆驤首して上に見え、乗輿を望むが若き者なり。帝宮に入りて没す。『洪範五行伝』に曰く、「魚は陰類なり、下人の象なり。又鱗甲有り、兵の応なり」と。下人将に兵を挙げて宮を囲み、而して乗輿を䁹睨するの象なり。後果たして侯景の乱有り。
斉の後主武平七年、相州の鸕鷀泊に、魚尽く飛び去りて水涸る。『洪範五行伝』に曰く、「急の致す所なり。魚は陰類、下人の象なり」と。晏子曰く、「河伯は水を以て国と為し、魚を以て百姓と為す」と。水涸れ魚飛ぶは、国亡び人散るの象なり。明年にして国亡ぶ。
開皇十七年、大興城西南四里、袁村有り、仏会を設く。老翁有り、皓首、白裙襦衣、来たりて食して去る。衆識る莫く、追いて之を観るに、二里許り行きて、復見えず。但だ一陂有り、中に白魚有り、長さ丈余、小魚従う者無數。人争いて之を射るに、或いは弓折れ弦断つ。後竟に之に中り、其の腹を剖くに、粳飯を得、始めて此の魚の向の老翁なるを知る。後数日、漕渠暴に溢れ、射人皆溺死す。
蟲の妖
梁の大同初、大蝗有り、籬門の松柏葉皆尽きる。『洪範五行伝』に曰く、「介蟲の孽なり」と。魚と同占す。京房の『易飛候』に曰く、「禄を食みて聖化を益さず、天虫を以て視す。虫は人に益無くして万物を食らうなり」と。是の時公卿皆虚淡を以て美と為し、職事に親しまず、益無き物を食らうの応なり。
後斉の天保八年、河北六州、河南十二州蝗有り。畿人皆之を祭る。帝魏尹丞崔叔瓚に問ひて曰く、「何故に虫す」と。叔瓚対へて曰く、「『五行志』に雲ふ、'土功時にあらざれば則ち蝗虫災と為る'と。今外に長城を築き、内に三台を修む、故に災を致すなり」と。帝大いに怒り、其の頰を毆ち、其の髪を擢り、溷中の物を以て其の頭を塗る。役者止まず。九年、山東又蝗有り、十年、幽州大蝗有り。『洪範五行伝』に曰く、「刑罰暴虐、食貪厭まず、師を興し衆を動かし、城を取り邑を修め、而して衆心を失へば、則ち虫災と為る」と。是の時帝刑を用ふるに暴虐にして、労役止まざるの応なり。
開皇十六年、并州蝗有り。時に秦孝王俊百姓を裒刻し、盛んに邸第を修む。後竟に譴を獲て死す。
彘の禍
開皇末、渭南に沙門三人有り、頭陀法を人場圃の上行ふ。夜大豕来たりて其の所に詣り、小豕従ふ者十余、沙門に謂ひて曰く、「阿練、我賢聖道を得んと欲す、然れども猶ほ他一命を負ふ」と。言ひ罷みて去る。賢聖道とは、君上の行ふ所なり。皇太子勇業を嗣ぐべく、君上の道を行ひ、而して囚はれ廃せらるるの象なり。一命とは、煬帝に殺さるるを言ふ。
開皇の末、渭南に人ありて他舎に寄宿し、夜中に二匹の豕が対話するを聞く。その一が曰く、「歳将に尽きんとす、阿耶明日我を殺して歳を供す、何れの処にか之を避けん」と。一匹答えて曰く、「水北の姉家に向かうべし」と。因りて相随いて去る。天将に暁けんとす、主人豕を得ず、宿客の為せるかと意えて之を詰る。宿客状を言う、主人其の言の如くにして豕を得たり。其の後蜀王秀罪を得、帝将に之を殺さんとす、楽平公主毎に匡救し、全うするを得たり。後数年にして帝崩じ、歳尽きの応なり。
黒い眚と黒い祥
陳の太建五年六月、西北に黒雲地に属し、散じて猪の如き者十余あり。《洪範五行伝》に曰く、「当に兵西北より起こる有るべし」と。時に後周の将王軌呂梁に軍す。明年、呉明徹を擒え、軍皆覆没す。
火水を沴す
陳の太建十四年七月、江水赤くして血の如く、建康より西は荊州に至る。禎明の中、江水赤く、方州より東は海に至る。《洪範五行伝》に曰く、「火水を沴すなり。法厳しく刑酷なるは、水性を傷つくるなり。五行節を変じ、陰陽干かれるは、気色繆乱し、皆敗乱の象なり」と。京房《易占》に曰く、「水血と化すは、兵将に起こらんとす」と。是の時後主初めに即位し、刑を用いるに酷暴なるの応なり。其の後隋師の為に滅ぼさる。
《洪範五行伝》に曰く、「思心容れず、是を不聖と謂う。其の咎は瞀、其の罰は常風、其の極は凶短折。脂夜の妖有り、華孽有り、牛禍有り、心腹の屙有り、黄眚黄祥有り、木金水火土を沴す」と。
常風
梁の天監六年八月戊戌、大風木を折る。京房《易飛候》に曰く、「角日疾風、天下昏る。三月中に出でずんば、兵必ず起こる」と。是の歳魏軍鐘離に入る。
陳の天嘉六年七月癸未、大風西南より起こり、霊台の候楼を吹き倒す。《洪範五行伝》以為う、大臣の専恣の咎と。時に太子沖幼にして、安成王頊政を専らにし、帝時に抑損せず。明年崩じ、皇太子位を嗣ぎ、頊遂に之を廃す。
至徳年間(583–586年)、大風が朱雀門を吹き倒した。
七年(天統七年、571年)三月、大風が西北より起こり、屋根を剥ぎ樹木を抜いた。五日後にやんだ。時に高阿那肱・駱提婆らが専恣した応報である。
開皇二十年(600年)十一月、京都に大風が起こり、屋根を剥ぎ樹木を抜き、秦・隴の地で圧死者千余人を出した。大地が震動し、鼓は皆それに応じた。浄刹寺の鐘が三度鳴り、仏殿の門の鎖が自ら開き、銅像が自ら戸外に出た。鐘鼓が自ら鳴るのは、鼓妖に近い。揚雄は人君が聡明でなく、衆に惑わされ、空名の者が進用されると鼓妖が現れると考える。時に独孤皇后が政事に干渉し、左僕射楊素が人主を傾ける権勢を持った。帝は二人の讒言を聴き、僕射高熲を罷免し、太子楊勇を廃して庶人とし、晋王楊広が虚名によって立てられた。思心が瞀乱し、陰気が盛んな象である。鎖及び銅像は共に金である。金が動き木がそれを震わせるのは、水が金を沴す応報である。《洪範五行伝》に曰く、「衆心を失うこと甚だしいが故に致る所なり」と。高熲・楊勇は罪なくして皆廃黜され、衆心を失ったのである。
夜妖
東魏の武定四年(546年)冬、大霧が六日間続き、昼夜解けなかった。《洪範五行伝》に曰く、「昼にして晦冥し夜の若きは、陰陽を侵し、臣将に君を侵す象なり」と。翌年、元瑾・劉思逸が大将軍を謀殺しようとした応報である。
仁寿年間(601–604年)、仁寿宮及び長城の下で、数度鬼の哭く声を聞いた。まもなく献后及び帝が、相次いで仁寿宮で崩じた。
大業八年(612年)、楊玄感が東都で乱を起こした。尚書樊子蓋がその党与を長夏門外に坑い、前後数万人に及んだ。末年(大業末年)に至り、数度その処で鬼の哭く声、呻吟する声を聞いた。前と同じ占いである。その後、王世充が洛陽で越王楊侗を害した。
華孽
陳の後主の時、張貴妃・孔貴嬪あり、並びに国色を有し、妖豔と称せらる。後主之に惑ひ、寵は宮掖に冠たり、毎に侍従に充て、詩酒を以て娯しみとす。一度後庭に入れば、数旬出でず、荒淫侈靡、紀極を知ること莫し。府庫空竭し、頭会箕斂し、天下怨叛し、将士は心を離す。敵は鼓行して進み、死戦の士有ること莫し。女徳の咎なり。敗亡の際に及び、後主は此の姫と俱に井に投じ、隋師は張貴妃を執へて之を戮し、以て江東に謝す。『洪範五行伝』に曰く、「華とは、猶ほ栄華容色の象なり。色を以て国を乱す、故に華孽と謂ふ」と。
斉の後主に寵姫馮小憐あり、慧にして色有り、琵琶を弾く能く、特に歌儛に工なり。後主之に惑ひ、淑妃に拝す。彩女数千を選び、之が羽従と為し、一女の飾り、動ね千金を費やす。帝三堆に禽を従へし時、周師大いに至り、辺吏急を告げ、道に相望む。帝師を班せんと欲すも、小憐意已まず、更に合囲を請ふ。帝之に従ふ。是に由りて遅留し、而して晋州遂に陥つ。後に周師と晋州の下に相遇ふや、小憐に坐して機を失ふこと数度なり、因りて国滅ぶ。斉の士庶、今に至るも之を咎む。
牛禍
後周の建徳六年、陽武に獣三有り、状水牛の如し。一は黄、一は赤、一は黒なり。黒なる者と闘ひ久しうして、黄なる者自ら傍より之を触る。黒なる者死し、黄も亦た俱に河に入る。牛禍に近し。黒き者は、周の尚ぶ所の色なり。死する者は、滅亡の象なり。後数載、周果たして滅び而して隋天下を有ち、旗牲は赤を尚び、戎服は黄を以てす。
大業初、恒山に牛有り、四脚の膝上各々一蹄を生ず。其の後、東都を建て、長城を築き、溝洫を開く。
心腹の屙
斉の文宣帝嘗て東山に宴し、杯を投げて赫怒し、詔を下して西伐し、極めて甲兵の盛を陳ぶ。既にして泣きて群臣に謂ひて曰く、「黑衣は我が制する所に非ず」と。卒に行はず。識者有りて以て帝の精魄已に乱れ、帝祚の永からざるを知る。帝後竟に心疾を得、荒酒色に耽り、性忽ち狂暴に忽せられ、数年にして崩ず。
武成帝、太后の憂に丁し、緋袍故の如し。未だ幾ばくもあらずして、三台に登り、酒を置き楽を作す。侍者白袍を進む。帝大いに怒り、之を台下に投ず。未だ幾ばくもあらずして崩ず。
黄眚黄祥
陳の後主の時、黄衣の人に城を囲まれる夢を見た。後主はこれを嫌い、城を巡る橘の樹をことごとく伐り払った。隋の高祖が禅譲を受けた後、上下ともに黄衣を通服した。間もなく隋軍が攻め囲んだ応である。
裸蟲の孽
後主太子たりし時、婦人あり東宮に突入して大いに言うこと、「畢国主」と。後主立ちて祚終わるの応なり。
斉の天保中、臨漳に婦人あり子を産み、二頭共に体を同じくす。この後政は奸佞より出で、上下別無く、両頭の応なり。
後主の時、桑門あり、貌狂人の若く、烏を見れば則ちこれに向かって礼を為し、沙門を見れば則ちこれを毆辱す。烏は周の色なり。未だ幾ばくもせず、斉は周に吞まれる所となり、仏法を滅除す。
武帝の時、強練という者あり、狂を佯い、一つの瓠を持ち、晋蕩公宇文護の門に至りてこれを撃ち破りて曰く、「身は尚お可なり、子苦し」と。時に護は政を専らにし、因って太后に朝すに、帝これを撃ち殺す。兵を発してその諸子を捕え、皆備え楚毒にして死す。強練また市に行きて乞い、人あるいはこれに粟麦を遺わば、輒ち底無き袋を以てこれを受く。因って大笑して曰く、「空を盛る」と。未だ幾ばくもせず、周滅び、高祖都を移し、長安城墟と為る。
開皇六年、霍州に老翁あり、猛獣に化す。
七年、相州に桑門あり、蛇に変じ、尾は樹を繞りて自ら抽き、長さ二丈許り。
仁寿四年、人あり長さ数丈、応門に見え、その跡長さ四尺五寸。その年帝崩ず。
四年、雁門宋穀村に婦人あり一つの肉卵を生み、大きさ斗の如し、これを埋む。後数日、埋めし処雲霧尽く合し、地より雷震して上り、これを視るに洞穴、卵の所在を失う。
六年、趙郡李来王家の婢一物を産み、大きさ卵の如し。
八年、澄公なる者あり、狂人の若く、東都に於いて大いに叫び賊を唱う。帝聞きて之を悪む。明年、玄感兵を挙げ、洛陽を囲む。
木金水火土に沴る。
梁の天監五年十一月、京師地震す、木金水火土に沴るなり。《洪範五行伝》に曰く「臣下盛んなり、将に動きて害を為さんとす」と。京房《易飛候》に曰く「地冬十一月に動くは、其の邑饑えて亡ぶ」と。時に交州刺史李凱兵を挙げて反す。明年、霜あり、歳儉しく人饑う。
六年十二月、地震す。京房《易飛候》に曰く「地冬に動きて音有り、十二月を以てするは、其の邑行兵有り」と。是の時、帝豫章王琮に命じて兵を将いて北伐せしむ。
中大通五年正月、建康地震す。京房《易飛候》に曰く「地春を以て動くは、歳昌ならず」と。是歳、大水あり、百姓饑饉す。
七年二月、建康に地震あり。この歳、交州の人李賁兵を挙げ、刺史蕭諮を逐う。
九年閏正月、地震あり。李賁自ら皇帝を称し、百官を署置す。
太建四年十一月、地震あり。陳宝応、閩中に反す。
開皇十四年五月、京師に地震あり。京房の『易飛候』に曰く、「地動くこと夏五月を以てすは、人流亡す」と。この歳、関中飢え、帝百姓をして関東に就糧せしむ。
大業七年、砥柱山崩れ、河を壅ぎ、逆流すること数十里。劉向の『洪範五行伝』に曰く、「山は君の象なり。水は陰の表、人の類なり。天戒若し曰く、人君威重を擁し、将に崩壊せんとし、百姓其の所を得ず」と。時に帝遼東の師を興し、百姓其の役に堪えず、四海怨叛す。帝悟ること能わず、卒に滅亡に至る。
『洪範五行伝』に曰く、「皇の極まらざるは、是れ建てざると謂う。其の咎は瞀、其の罰は常陰、其の極は弱。時に則ち射妖有り、則ち龍蛇の孽有り、則ち馬禍有り」と。
雲陰
開皇二十年十月、久しく陰りて雨降らず。劉向曰く、「王者中を失い、臣下強盛にして君の明を蔽う、則ち雲陰す」と。是の時に、獨孤后遂に楊素と陰に太子勇を譖り、庶人に廃す。
射妖
東魏武定四年、後斉の神武宰たり、親しく諸軍を率い、西魏を玉壁に攻む。其の年十一月、帝豫せず、師を班す。将士震懼し、皆曰く、「韋孝寬定功弩を以て丞相を射殺す」と。西魏国中に令を下して曰く、「勁弩一発、凶身自ら殞つ」と。神武聞きて之を悪み、其の疾暴に増す、射妖に近し。『洪範五行伝』に曰く、「射は、兵戎禍乱の象、気天に逆らえば則ち禍乱将に起らん」と。神武行くに、殿中將軍曹魏祖諫めて曰く、「王死気を以て生気に逆らい、客と為るは利あらず、主人と為れば則ち可なり」と。帝従わず、軍を頓すること五旬、頻りに戦いて沮衄す。又孤虚の言を聴き、城北に於いて汾水を断ち、土山を起こす。其の処天険千余尺、功竟に就かず、死者七万。気天に逆らうの咎なり。其の年帝崩ず。明年、王思政河南を擾す。
武平、後主并州より鄴に還る、八公嶺に至り、夜左右と歌いて行く。一人忽ち発狂し、意に後主を以て狐媚と為し、草中に伏して弓を彎げて之を射る。数人を傷つけ、幾くんぞ後主に中らんとす。後主執えて之を斬る。其の人自ら覚えず。狐にして能く媚びるは、獣の妖妄なり。時に帝国政を恤れず、専ら内人閹豎と酣歌して楽を為す。或いは襤縷衣を衣、行乞して娯を為す。此れ妖妄の象なり。人又之を射るは、兵戎禍乱の応なり。未だ幾ばくもせずして国滅ぶ。
龍蛇之孽
大同十年夏、龍夜雷に因りて延陵人家の井中に墮つ。明旦之を視るに、驢の如く大なり。将に戟を以て之を刺さんとす、俄に庭中及び室中に各々大蛇有るを見る、数百斛船の如く、家人奔走す。『洪範五行伝』に曰く、「龍は、陽類、貴象なり。上は則ち天に在り、下は則ち地に在り、庶人の邑裡室家に見ゆべからず。井中は、幽深の象なり、諸侯且つ幽執の禍有り、皇建てざるの咎なり」と。後侯景反し、果たして簡文を酒庫に幽殺し、宗室王侯皆幽死す。
陳太建十一年正月、龍南兗州の池中に見ゆ。梁大同十年と占を同じくす。未だ幾ばくもせず、後主位を嗣ぎ、驕淫荒怠し、動くこと中を得ず。其の後竟に国を以て亡び、身幽執せらる。
後斉天保九年、龍長さ七八丈有り、斉州の大堂に見ゆ。大同十年と占を同じくす。時に常山・長広の二王権重く、帝抑損を思わず。明年帝崩じ、太子殷立つを嗣ぐ。常山王演果たして帝を廃して済南王と為し、幽して之を害す。
天統四年、貴郷人枯木を伐り、一の黄龍を得、脚を折り、孔中に死す。斉は木徳を称す。龍は、君の象。木枯れ龍死すは、不祥甚だし。其の年武成崩ず。
武平七年、并州の招遠楼の下に、赤蛇と黒蛇が闘い、数日にして赤蛇が死んだ。赤は、斉の尚ぶ色であり、黒は、周の尚ぶ色である。闘って死ぬとは、滅亡の兆しである。後主は邪佞を用い、周の軍と晋州の下で連戦した。軍を孽臣高阿那肱に委ね、ついに敵を開き、皇天の建てざる咎である。後主は遂に周の軍に捕らえられた。
琅邪王高儼が北宮中の白馬浮図を壊した。これは石趙の時代の澄公が建立したものである。白蛇が長さ数丈あり、回旋して所在を失った。時に高儼は専ら誅殺を行い、中正を失う咎である。変異を見て戒めとせず、難に及んだ。
仁寿四年、龍が代州総管府の井中に現れた。その龍は時に鉄の馬や甲士が弓を引き絞って上を射る象に変わった。鉄の馬に変わるとは、馬禍に近い。弓を引き絞って上を射るとは、また射妖に近く、諸侯に兵革の変あり、幽囚に至る兆しである。この時、漢王楊諒は密かに逆乱を謀り、故に兵変をもって戒めたのである。楊諒は悟らず、遂に兵を興して反し、事敗れて庶人に廃され、数年幽囚の後に死んだ。
馬禍
侯景が江南で尊号を僭称し、戦いあるごとに、その乗る白馬が、長く嘶き足を踏み鳴らせば勝ち、頭を垂れれば必ず不利であった。西州の役では、馬が臥して起たず、侯景が拝礼して請い、かつ鞭打ったが、ついに動かなかった。これは馬禍に近い。『洪範五行伝』に曰く、「馬は兵の象なり。寇戎の事あらんとすれば、故に馬が怪をなす」と。侯景はこれにより大敗した。
陳の太建五年、衡州の馬に角が生えた。『洪範五行伝』に曰く、「馬に角生ずるは、兵の象、敗亡の表なり」と。この時、宣帝は呉明徹を遣わして呂梁に出師させ、周の軍と対峙させた。連年兵を交え、衆軍覆没し、明徹はついに周の軍に捕らえられた。
天保年中、広宗に馬あり、両耳の間に角が生え、羊の尾のようであった。京房『易伝』に曰く、「天子親しく伐つときは、則ち馬に角生ず」と。四年、契丹が塞を犯し、文宣帝は親しく六軍を御してこれを撃った。
大業四年、太原の厩の馬が大半死に、帝は怒り、使者を遣わして審問させた。主務者は言う、「毎夜、厩中の馬が故なく自ら驚き、よって死に至る」と。帝は巫者に視させた。巫者は帝が将に遼東の役を行わんとすることを知り、よって旨に迎合して言う、「先帝が楊素・史万歳に命じてこれを取り、鬼兵を率いて遼東を伐たんとす」と。帝は大いに喜び、よって主務者を釈放した。『洪範五行伝』に曰く、「天気に逆らう、故に馬多く死す」と。この時、帝は毎年巡幸し、北は長城の事に従事し、西は且末に通じ、国内は虚耗し、天戒は言わんとす、厩馬を除き、巡幸する事なかれ、と。帝は悟らず、ついに乱に至った。
十一年、河南・扶風の三郡、ともに馬に角が生え、長さ数寸であった。天保初年の占いと同じである。この時、帝は頻年にわたり親征して高麗を征した。