隋書

巻023

巻二十三志第十八 五行下

巻二十三志第十八 五行下

原文卷二十三志第十八 五行下 ► 食貨

序

原文序

『洪範五行伝』に曰く、「視ること明らかならざるは、是れ不知と謂う。其の咎は舒、其の罰は常燠、其の極は疾。時に則ち草妖有り、時に則ち羽蟲の孽有り。故に羊禍有り、故に目疾有り、赤眚赤祥有り。惟れ水は火を沴(そこな)う」と。

原文《洪範五行傳》曰:「視之不明,是謂不知。厥咎舒,厥罰常燠,厥極疾。時則有草妖,時則有羽蟲之孽。故有羊禍,故有目疾,有赤眚赤祥。惟水沴火。」

常燠

原文常燠

後斉の天保八年三月、大いに熱く、人あるいは暍死す。劉向の『五行伝』に曰く、「視ること明らかならざるは、近習を用い、賢者は進まず、不肖は退かず、百職廃壊し、庶事従わず、其の過は政教の舒緩に在り」と。時に帝の狂躁・荒淫度を失うの応なり。

原文後齊天保八年三月,大熱,人或暍死。劉向《五行傳》曰:「視不明,用近習,賢者不進,不肖不退,百職廢壞,庶事不從,其過在政教舒緩。」時帝狂躁、荒淫無度之應。

草妖

原文草妖

高祖こうその時、上党に人あり、宅の後毎夜人の呼ぶ声有り、求めても得ず。宅を去ること一里ばかりにして、但だ人参一本を見る、枝葉峻茂なり。因ってこれを掘り去るに、其の根五尺余、具に人形を体し、呼ぶ声遂に絶ゆ。蓋し草妖なり。視ること明らかならざるの咎。時に晋王陰かに宗を奪わんとする計有り、親要に諂事し、以て声譽を求め皇太子を譖(そし)り、高祖之に惑う。人参言うべからざるに、物の之に憑く有り。上党は、党与なり。親要の人、乃ち晋王に党して太子を譖る。高祖悟らず、邪言を聴き、無辜を廃し、罪有る者を用い、此に因って乱るるなり。

原文高祖時,上黨有人,宅後每夜有人呼聲,求之不得。去宅一里所,但見人參一本,枝葉峻茂。因掘去之,其根五尺餘,具體人狀,呼聲遂絕。蓋草妖也。視不明之咎。時晉王陰有奪宗之計,諂事親要,以求聲譽譖皇太子,高祖惑之。人參不當言,有物憑之。上黨,黨與也。親要之人,乃党晉王而譖太子。高祖不悟,聽邪言,廢無辜,有罪用,因此而亂也。

羽蟲之孽

原文羽蟲之孽

梁の中大同元年、邵陵王綸南徐州に在り、廳事に坐す。野鳥鳶の如きもの数百有り、屋梁の上に飛び、弾射も中たらず。俄頃にして在る所を失う。京房の『易飛候』に曰く、「野鳥君室に入るは、其の邑虚しく、君他方に亡ぶ」と。後に綸は湘東王に襲われ、竟に奔亡を致し、西魏に殺さる。

原文梁中大同元年,邵陵王綸在南徐州,坐廳事。有野鳥如鳶數百,飛屋樑上,彈射不中。俄頃失所在。京房《易飛候》曰:「野鳥入君室,其邑虛,君亡之他方。」後綸為湘東王所襲,竟致奔亡,為西魏所殺。

侯景梁に在り、将に錫命を受けんとし、備物を庭に陳ぶ。野鳥山鵲の如き有り、嘴赤く、冊書の上に集まり、鵂鶹鳥殿に鳴く。中大同元年と同じ占い。景尋いで敗れ、将に海中に亡入せんとして、羊鶤に殺さる。

原文侯景在梁,將受錫命,陳備物於庭。有野鳥如山鵲,赤嘴,集於冊書之上,鵂鶹鳥鳴於殿。與中大同元年同占。景尋敗,將亡入海中,為羊鶤所殺。

陳の後主の時、蔣山に衆鳥有り、翼を鼓して鳴きて曰く「奈何いかん帝」と。京房の『易飛候』に曰く、「鳥門闕に鳴き、人音の如きは、邑将に亡ぼんとす」と。蔣山は、呉の望なり。鳥其上に鳴くは、呉空虚の象。陳亡ぶに及び、建康墟と為る。又陳未だ亡びざる時、一足の鳥殿庭に集まり、嘴を以て地に画きて文を成し、曰く「独足高台に上り、盛草灰に変ず」と。独足は、叔宝独り行い衆無きの応。草を成し灰を成すは、陳の政穢無くして、隋の火徳に焚除せらるるなり。叔宝長安ちょうあんに至り、都水台上に館す、高台の義なり。

原文陳後主時,蔣山有眾鳥,鼓翼而鳴曰:「奈何帝。」京房《易飛候》曰:「鳥鳴門闕,如人音,邑且亡。」蔣山,吳之望也。鳥于上鳴,吳空虛之象。及陳亡,建康為墟。又陳未亡時,有一足鳥集於殿庭,以嘴畫地成文,曰:「獨足上高臺,盛草變成灰。」獨足者,叔寶獨行無眾之應。成草成灰者,陳政無穢,被隋火德所焚除也。叔寶至長安,館于都水臺上,高臺之義也。

後斉の孝昭帝即位の後、雉御座に飛び上る。占いは中大同元年と同じ。又鳥有り後園に止まる、其の色赤く、形鴨に似て九頭有り。其の年帝崩ず。

原文後齊孝昭帝即位之後,有雉飛上御座。占同中大同元年。又有鳥止於後園,其色赤,形似鴨而有九頭。其年帝崩。

天統三年九月、万春鳥仙都苑に集まる。京房の『易飛候』に曰く、「常ならざるの鳥、来りて邑中に宿るは、邑に兵有り」と。周の師の鄴に入るの応なり。

原文天統三年九月,萬春鳥集仙都苑。京房《易飛候》曰:「非常之鳥,來宿於邑中,邑有兵。」周師入鄴之應也。

武成胡后後主を生む初め、梟有り後帳に升りて鳴く。梟は孝ならざるの鳥、不祥の応なり。後主位を嗣ぎ、胡后の淫乱事彰る、遂に後を北宮に幽す。

原文武成胡後生後主初,有梟升後帳而鳴。梟不孝之鳥,不祥之應也。後主嗣位,胡後淫亂事彰,遂幽後於北宮焉。

武平七年、鸛が太極殿に巣を作り、また并州へいしゅうの嘉陽殿にも巣を作った。雉が晉陽宮の御座に集まり、これを捕らえた。京房の『易飛候』に曰く、「鳥、故なくして君門及び殿屋の上に巣居するは、邑まさに虚せんとす」と。その年、国は滅びた。

原文武平七年,有鸛巢太極殿,又巢并州嘉陽殿。雉集晉陽宮御座,獲之。京房《易飛候》曰:「鳥無故巢居君門及殿屋上,邑且虛。」其年國滅。

周の大象二年二月、禿鶖が洛陽らくよう宮の太極殿に集まった。その年、帝は崩御し、後宮は常に虚しかった。

原文周大象二年二月,有禿鶖集洛陽宮太極殿。其年帝崩,後宮常虛。

開皇かいこうの初め、梁の主蕭琮が新たに後を起こしたとき、鵂鳥がその帳の隅に集まった。間もなく、琮は入朝し、長安に留め置かれた。梁国は遂に廃された。

原文開皇初,梁主蕭琮新起後,有鵂鳥集其帳隅。未幾,琮入朝,被留于長安。梁國遂廢。

大業たいぎょうの末、京師の宮室の中に、常に鴻雁の類が無数にあり、その間を翔けり集まった。やがて長安は守られなくなった。

原文大業末,京師宮室中,恆有鴻雁之類無數,翔集其間。俄而長安不守。

十三年十一月、烏鵲が帝の帳幄に巣を作り、追い払っても止まらなかった。帝はまもなく弑逆しいぎゃくに逢った。

原文十三年十一月,烏鵲巢帝帳幄,驅不能止。帝尋逢弑。

羊禍

原文羊禍

開皇十二年六月、繁昌の楊悦が雲中に二つの物を見た。羝羊の如く、黄色く、新生の犬の如く大きく、闘って墜ちた。悦はその一つを獲たが、数十日で所在を失った。羊禍に近い。『洪範五行伝』に曰く、「君明らかならず、火政に逆らうことの致す所なり」と。状、新生の犬の如きは、羔の類なり。雲体掩蔽するは、邪佞の象なり。羊は国姓なり。羔は羊の子なり。皇太子勇、既に儲貳に昇りしも、晉王の陰毀によりて廃黜せらる。二羔闘い、一羔墜つるの応なり。

原文開皇十二年六月,繁昌楊悅見雲中二物,如羝羊,黃色,大如新生犬,鬥而墜。悅獲其一,數旬失所在。近羊禍也。《洪範五行傳》曰:「君不明,逆火政之所致也。」狀如新生犬者,羔類也。雲體掩蔽,邪佞之象。羊,國姓。羔,羊子也。皇太子勇既升儲貳,晉王陰毀而被廢黜。二羔鬥,一羔墜之應也。

恭帝義寧二年、麟游太守司馬武、羊羔を献ず。生まれながらにして尾なし。時に議する者、楊氏の子孫後無きの象と為す。是の歳、煬帝ようだいは江都に殺され、恭帝は位を遜る。

原文恭帝義寧二年,麟游太守司馬武,獻羊羔,生而無尾。時議者以為楊氏子孫無後之象。是歲,煬帝被殺于江都,恭帝遜位。

赤眚赤祥

原文赤眚赤祥

梁の天監十五年七月、荊州市にて人を殺すも身は僵えず、首は地に墮ち、口を動かし目を張り、血は竹箭の如く、直ちに上ること丈餘、然る後に雨の如く細かに下る。是の歳、荊州大旱す。赤祥に近く、冤気の応なり。

原文梁天監十五年七月,荊州市殺人而身不僵,首墮於地,動口張目,血如竹箭,直上丈餘,然後如雨細下。是歲荊州大旱。近赤祥,冤氣之應。

陳の太建十四年三月、御座の幄上に一物を見る。車輪の如く、色正しく赤し。間もなくして帝は患い、故なくして数声大叫して崩ず。

原文陳太建十四年三月,御座幄上見一物,如車輪,色正赤。尋而帝患,無故大叫數聲而崩。

至德三年十二月、赤き物、太極殿前に隕る。初め下る時、鐘皆鳴る。又嘗て白飲を進むるに、忽ち血に変ず。又血有りて殿階に沾き、瀝瀝然として御榻に至る。間もなくして国滅ぶ。

原文至德三年十二月,有赤物隕於太極殿前,初下時,鐘皆鳴。又嘗進白飲,忽變為血。又有血沾殿階,瀝瀝然至禦榻。尋而國滅。

後齊の河清二年、太原に血雨ふる。劉向曰く、「血は陰の精なり、傷害の象、僵屍の類なり」と。明年、周師と突厥、并州に入り、城西に大戦し、伏屍百余里。京房の『易飛候』に曰く、「天血を雨いて衣を染む、国亡び君戮さる」と。亦た後主の亡国の応なり。

原文後齊河清二年,太原雨血。劉向曰:「血者陰之精,傷害之象,僵屍之類也。」明年,周師與突厥入并州,大戰城西,伏屍百餘里。京房《易飛候》曰:「天雨血染衣,國亡君戮。」亦後主亡國之應。

四年三月、物有りて殿庭に隕る。色赤く、形数鬥の器の如く、衆星の随う者小鈴の如し。四月、婁太后崩ず。

原文四年三月,有物隕於殿庭,色赤,形如數鬥器,眾星隨者如小鈴。四月,婁太后崩。

武平の中、血点地有り、咸陽王斛こく律明月の宅よりして太廟に至る。大将は社稷しゃしょくの臣なり。後主、讒言を以て之を殺す。天戒は若し曰く、明月を殺せば、則ち宗廟随いて覆らん、と。後主悟らず、国祚竟に絶つ。

原文武平中,有血點地,自咸陽王斛律明月宅而至於太廟。大將,社稷之臣也,後主以讒言殺之。天戒若曰,殺明月,則宗廟隨而覆矣。後主不悟,國祚竟絕。

『洪範五行伝』に曰く、「聴くこと聡明ならざるは、是れを不謀と謂う。其の咎は急、其の罰は寒、其の極は貧。時に則ち鼓妖有り、魚孽有り、彘禍有り、黒眚黒祥有り、惟れ火水を沴(そこな)う」と。

原文《洪範五行傳》曰:「聽之不聰,是謂不謀。厥咎急,厥罰寒,厥極貧。時則有鼓妖,有魚孽,有彘禍,有黑眚黑祥,惟火沴水。」

寒

原文寒

東魏の武定四年二月、大いに寒し。人畜凍死する者、道に相望む。京房の『易飛候』に曰く、「誅過深く、燠(あたたか)くあるべきに寒し」と。是の時、後斉の神武(高歓)相たり。先に爾朱文暢等神武を謀害せんとし、事泄れて誅せられ、諸に交通する者、多く濫死す。

原文東魏武定四年二月,大寒。人畜凍死者,相望於道。京房《易飛候》曰:「誅過深,當燠而寒。」是時後齊神武作相。先是爾硃文暢等謀害神武,事泄伏誅,諸與交通者,多有濫死。

河清元年、歳大いに寒し。京房の『易伝』に曰く、「徳有るも険に遭う、茲れを逆命と謂う。其の異は寒」と。讖に曰く、「罪無きを殺せば、其の寒必ず異なり」と。是の時、帝(北斉の武成帝)文宣李后に淫し、因りて子を生む。后愧恨し、之を挙げず。帝大いに怒り、后の前に於いて其の子太原王紹徳を殺す。后大いに哭き、帝后を倮(はだか)にして撻殺し、水中に投ず。良久にして乃ち蘇る。冤酷の応なり。

原文河清元年,歲大寒。京房《易傳》曰:「有德遭險,茲謂逆命。厥異寒。」讖曰:「殺無罪,其寒必異。」是時帝淫于文宣李後,因生子,後愧恨,不舉之。帝大怒,於後前殺其子太原王紹德。後大哭,帝倮後而撻殺之,投于水中,良久乃蘇。冤酷之應。

梁の天監三年三月、六年三月、並びに霜隕りて草を殺す。京房の『易伝』に曰く、「兵を興して妄りに誅す、法を亡うと謂う。其の罰は霜」と。是の時、大いに卒を発し、鐘離に於いて魏軍を拒ぎ、兵を連ねること数歳。

原文梁天監三年三月,六年三月,並隕霜殺草。京房《易傳》曰:「興兵妄誅,謂亡法,厥罰霜。」是時,大發卒,拒魏軍于鐘離,連兵數歲。

大同三年六月、朐山に霜隕る。

原文大同三年六月,朐山隕霜。

陳の太建十年八月、霜隕りて稻菽を殺す。是の時、大いに師を興し衆を選び、将吳明徹を遣わし、周の師と呂梁に於いて相拒つ。

原文陳太建十年八月,隕霜,殺稻菽。是時,大興師選眾,遣將吳明徹,與周師相拒于呂梁。

鼓妖

原文鼓妖

梁の天監四年十一月、天清朗、西南に電光有り、雷声二つ有り。『易』に曰く、「雷霆を以て之を鼓す」と。霆は鼓妖に近し。

原文梁天監四年十一月,天清朗,西南有電光,有雷聲二。《易》曰:「鼓之以雷霆。」霆近鼓妖。

『洪範五行伝』に曰く、「雷霆は雲に托す、猶ほ君の人に托するが如し。君天下を恤れみざれば、故に兆人怨叛の心有り」と。是の歳、交州刺史李凱兵を挙げて反す。

原文《洪範五行傳》曰:「雷霆托於雲,猶君之托於人也。君不恤於天下,故兆人有怨叛之心也。」是歲,交州刺史李凱舉兵反。

十九年九月、西北に声有り雷の如く隠隠として、赤気地に下る。是の歳、盗東莞・琅邪二郡守を殺し、朐山を以て魏軍を引く。

原文十九年九月,西北隱隱有聲如雷,赤氣下至地。是歲,盜殺東莞、琅邪二郡守,以朐山引魏軍。

中大通六年十二月、西南に声有り雷の如し。其の年、北梁州刺史蘭欽兵を挙げて反す。

原文中大通六年十二月,西南有聲如雷。其年北梁州刺史蘭欽舉兵反。

陳の太建二年十二月、西北に声有り雷の如し。其の年、湘州刺史華皎兵を挙げて反す。

原文陳太建二年十二月,西北有聲如雷。其年湘州刺史華皎舉兵反。

斉の天保四年四月、西南に声有り雷の如し。是の時、帝(北斉の文宣帝)天下を恤れみず、師旅を興す。

原文齊天保四年四月,西南有聲如雷。是時,帝不恤天下,興師旅。

後周の建徳六年正月、西方に声有り雷の如し。未だ幾もせず、吐谷渾辺を寇す。

原文後周建德六年正月,西方有聲如雷。未幾,吐谷渾寇邊。

開皇十四年正月旦、廓州の連雲山に雷の如き声あり。是の時に五羌反叛し、辺鎮を侵擾す。二十年、雲無くして雷す。京房の『易飛候』に曰く、「国将に君を易え、下人の静かならず、小人先ず命ず。国凶にして兵甲有り」と。後数歳、帝崩じ、漢王諒兵を挙げて反し、其の党数十万家を徙す。

原文開皇十四年正月旦,廓州連雲山有聲如雷。是時五羌反叛,侵擾邊鎮。二十年,無雲而雷。京房《易飛候》曰:「國將易君,下人不靜,小人先命。國凶,有兵甲。」後數歲,帝崩,漢王諒舉兵反,徙其黨數十萬家。

大業中、滏陽の石鼓頻りに歳を鳴く。其の後、天下大乱し、兵戎並び起こる。

原文大業中,滏陽石鼓頻歲鳴。其後,天下大亂,兵戎並起。

魚の孽

原文魚孽

梁の大同十年三月、帝硃方に幸し、四塹の中に至り、及び玄武湖に至るに、魚皆驤首して上に見え、乗輿を望むが若き者なり。帝宮に入りて没す。『洪範五行伝』に曰く、「魚は陰類なり、下人の象なり。又鱗甲有り、兵の応なり」と。下人将に兵を挙げて宮を囲み、而して乗輿を䁹睨するの象なり。後果たして侯景の乱有り。

原文梁大同十年三月,帝幸硃方,至四塹中,及玄武湖,魚皆驤首見於上,若望乘輿者。帝入宮而沒。《洪範五行傳》曰:「魚陰類也,下人象。又有鱗甲,兵之應也。」下人將舉兵圍宮,而䁹睨乘輿之象也。後果有侯景之亂。

斉の後主武平七年、相州の鸕鷀泊に、魚尽く飛び去りて水涸る。『洪範五行伝』に曰く、「急の致す所なり。魚は陰類、下人の象なり」と。晏子曰く、「河伯は水を以て国と為し、魚を以て百姓と為す」と。水涸れ魚飛ぶは、国亡び人散るの象なり。明年にして国亡ぶ。

原文齊後主武平七年,相州鸕鷀泊,魚盡飛去而水涸。《洪範五行傳》曰:「急之所致。魚陰類,下人象也。」晏子曰:「河伯以水為國,以魚為百姓。」水涸魚飛,國亡人散之象。明年而國亡。

後周の大象元年六月、陽武に鯉魚空に乗りて闘う。猶お臣下興起し、小人之を縦にして闘わしむるが如し。明年帝崩じ、国政を失う。尉迥兵を起こして相州に在り、高祖兵を遣わして之を撃ち敗る。

原文後周大象元年六月,陽武有鯉魚乘空而鬥。猶臣下興起,小人縱之而鬥也。明年帝崩,國失政。尉迥起兵相州,高祖遣兵擊敗之。

開皇十七年、大興城西南四里、袁村有り、仏会を設く。老翁有り、皓首、白裙襦衣、来たりて食して去る。衆識る莫く、追いて之を観るに、二里許り行きて、復見えず。但だ一陂有り、中に白魚有り、長さ丈余、小魚従う者無數。人争いて之を射るに、或いは弓折れ弦断つ。後竟に之に中り、其の腹を剖くに、粳飯を得、始めて此の魚の向の老翁なるを知る。後数日、漕渠暴に溢れ、射人皆溺死す。

原文開皇十七年,大興城西南四里,有袁村,設佛會。有老翁,皓首,白裙襦衣,來食而去。眾莫識,追而觀之,行二里許,不復見。但有一陂,中有白魚,長丈餘,小魚從者無數。人爭射之,或弓折弦斷。後竟中之,剖其腹,得粳飯,始知此魚向老翁也。後數日,漕渠暴溢,射人皆溺死。

大業十二年、淮陽郡人を駆りて子城に入り、羅郎郭を鑿断す。女垣の下に至り、穴有り、其の中に鯉魚を得、長さ七尺余。昔、魏の嘉平四年、魚武庫の屋上に集る。王肅以為く、魚は水に生まるるも、而して屋に亢するは、水の物其の所を失うなり、辺将殆ど甲を棄つるの変有らん、と。後果たして東闕の敗有り。是の時、長白山の賊河南を寇掠し、月余り、賊城下に至る。郡兵之を拒ぐも、反って敗を為され、男女死者万余人。

原文大業十二年,淮陽郡驅人入子城,鑿斷羅郎郭。至女垣之下,有穴,其中得鯉魚,長七尺餘。昔魏嘉平四年,魚集武庫屋上。王肅以為魚生於水,而亢于屋,水之物失其所也,邊將殆棄甲之變。後果有東闕之敗。是時,長白山賊寇掠河南,月餘,賊至城下。郡兵拒之,反為所敗,男女死者萬余人。

蟲の妖

原文蟲妖

梁の大同初、大蝗有り、籬門の松柏葉皆尽きる。『洪範五行伝』に曰く、「介蟲の孽なり」と。魚と同占す。京房の『易飛候』に曰く、「禄を食みて聖化を益さず、天虫を以て視す。虫は人に益無くして万物を食らうなり」と。是の時公卿皆虚淡を以て美と為し、職事に親しまず、益無き物を食らうの応なり。

原文梁大同初,大蝗,籬門松柏葉皆盡。《洪範五行傳》曰:「介蟲之孽也。」與魚同占。京房《易飛候》曰:「食祿不益聖化,天視以蟲。蟲無益於人而食萬物也。」是時公卿皆以虛淡為美,不親職事,無益食物之應也。

後斉の天保八年、河北六州、河南十二州蝗有り。畿人皆之を祭る。帝魏尹丞崔叔瓚に問ひて曰く、「何故に虫す」と。叔瓚対へて曰く、「『五行志』に雲ふ、'土功時にあらざれば則ち蝗虫災と為る'と。今外に長城を築き、内に三台を修む、故に災を致すなり」と。帝大いに怒り、其の頰を毆ち、其の髪を擢り、溷中の物を以て其の頭を塗る。役者止まず。九年、山東又蝗有り、十年、幽州大蝗有り。『洪範五行伝』に曰く、「刑罰暴虐、食貪厭まず、師を興し衆を動かし、城を取り邑を修め、而して衆心を失へば、則ち虫災と為る」と。是の時帝刑を用ふるに暴虐にして、労役止まざるの応なり。

原文後齊天保八年,河北六州、河南十二州蝗。畿人皆祭之。帝問魏尹丞崔叔瓚曰:「何故蟲?」叔瓚對曰:「《五行志》雲:'土功不時則蝗蟲為災。'今外築長城,內修三台,故致災也。」帝大怒,毆其頰,擢其發,溷中物塗其頭。役者不止。九年,山東又蝗,十年,幽州大蝗。《洪範五行傳》曰:「刑罰暴虐,食貪不厭,興師動眾,取城修邑,而失眾心,則蟲為災。」是時帝用刑暴虐,勞役不止之應也。

後周の建德二年、関中大蝗有り。

原文後周建德二年,關中大蝗。

開皇十六年、并州蝗有り。時に秦孝王俊百姓を裒刻し、盛んに邸第を修む。後竟に譴を獲て死す。

原文開皇十六年,并州蝗。時秦孝王俊裒刻百姓,盛修邸第。後竟獲譴而死。

彘の禍

原文彘禍

開皇末、渭南に沙門三人有り、頭陀法を人場圃の上行ふ。夜大豕来たりて其の所に詣り、小豕従ふ者十余、沙門に謂ひて曰く、「阿練、我賢聖道を得んと欲す、然れども猶ほ他一命を負ふ」と。言ひ罷みて去る。賢聖道とは、君上の行ふ所なり。皇太子勇業を嗣ぐべく、君上の道を行ひ、而して囚はれ廃せらるるの象なり。一命とは、煬帝に殺さるるを言ふ。

原文開皇末,渭南有沙門三人,行頭陀法於人場圃之上。夜見大豕來詣其所,小豕從者十餘,謂沙門曰:「阿練,我欲得賢聖道,然猶負他一命。」言罷而去。賢聖道者,君上之所行也。皇太子勇當嗣業,行君上之道,而被囚廢之象也。一命者,言為煬帝所殺。

開皇の末、渭南に人ありて他舎に寄宿し、夜中に二匹の豕が対話するを聞く。その一が曰く、「歳将に尽きんとす、阿耶明日我を殺して歳を供す、何れの処にか之を避けん」と。一匹答えて曰く、「水北の姉家に向かうべし」と。因りて相随いて去る。天将に暁けんとす、主人豕を得ず、宿客の為せるかと意えて之を詰る。宿客状を言う、主人其の言の如くにして豕を得たり。其の後蜀王秀罪を得、帝将に之を殺さんとす、楽平公主毎に匡救し、全うするを得たり。後数年にして帝崩じ、歳尽きの応なり。

原文開皇末,渭南有人寄宿他舍,夜中聞二豕對語。其一曰:「歲將盡,阿耶明日殺我供歲,何處避之?」一答曰:「可向水北姊家。」因相隨而去。天將曉,主人覓豕不得,意是宿客而詰之。宿客言狀,主人如其言而得豕。其後蜀王秀得罪,帝將殺之,樂平公主每匡救,得全。後數年而帝崩,歲盡之應。

黒い眚と黒い祥

原文黑眚黑祥

梁の承聖三年六月、黒き気龍の如く有りて、殿内に見ゆ。黒祥に近し。黒は周の尚ぶ所の色なり。今殿内に見ゆるは、周師梁に入るの象なり。其の年、周の為に滅ぼされ、帝も亦害に遇う。

原文梁承聖三年六月,有黑氣如龍,見於殿內。近黑祥也。黑,周所尚之色。今見於殿內,周師入梁之象。其年,為周所滅,帝亦遇害。

陳の太建五年六月、西北に黒雲地に属し、散じて猪の如き者十余あり。《洪範五行伝》に曰く、「当に兵西北より起こる有るべし」と。時に後周の将王軌呂梁に軍す。明年、呉明徹を擒え、軍皆覆没す。

原文陳太建五年六月,西北有黑雲屬地,散如豬者十餘。《洪範五行傳》曰:「當有兵起西北。」時後周將王軌軍于呂梁。明年,擒吳明徹,軍皆覆沒。

火水を沴す

原文火沴水

後斉の河清元年四月、河・済清む。襄楷曰く、「河は諸侯の象なり。濁に応ずるに反って清むは、諸侯将に天子と為るの象なり」と。是より後十余歳、隋天下を有つ。

原文後齊河清元年四月,河、濟清。襄楷曰:「河,諸侯之象。應濁反清,諸侯將為天子之象。」是後十余歲,隋有天下。

大業三年、武陽郡に河清み、数里鏡の如く澈す。十二年、龍門又河清む。後二歳、大唐禅を受く。

原文大業三年,武陽郡河清,數裡鏡澈。十二年,龍門又河清。後二歲,大唐受禪。

陳の太建十四年七月、江水赤くして血の如く、建康より西は荊州に至る。禎明の中、江水赤く、方州より東は海に至る。《洪範五行伝》に曰く、「火水を沴すなり。法厳しく刑酷なるは、水性を傷つくるなり。五行節を変じ、陰陽干かれるは、気色繆乱し、皆敗乱の象なり」と。京房《易占》に曰く、「水血と化すは、兵将に起こらんとす」と。是の時後主初めに即位し、刑を用いるに酷暴なるの応なり。其の後隋師の為に滅ぼさる。

原文陳太建十四年七月,江水赤如血,自建康西至荊州。禎明中,江水赤,自方州東至海。《洪範五行傳》曰:「火沴水也。法嚴刑酷,傷水性也。五行變節,陰陽相干,氣色繆亂,皆敗亂之象也。」京房《易占》曰:「水化為血,兵且起。」是時後主初即位,用刑酷暴之應。其後為隋師所滅。

禎明二年四月、郢州えいしゅう南浦の水、黒きこと墨の如し。黒水は関中に在り、而るに今淮南の水黒し、荊・揚州の地、関中に陥るの応なり。

原文禎明二年四月,郢州南浦水,黑如墨。黑水在關中,而今淮南水黑,荊、揚州之地,陷於關中之應。

後周の大象元年六月、咸陽の池水血に変ず。陳の太建十四年と占を同じくす。是の時、刑罰厳急にして、未だ幾ばくもせず国亡ぶ。

原文後周大象元年六月,咸陽池水變為血。與陳太建十四年同占。是時,刑罰嚴急,未幾國亡。

《洪範五行伝》に曰く、「思心容れず、是を不聖と謂う。其の咎は瞀、其の罰は常風、其の極は凶短折。脂夜の妖有り、華孽有り、牛禍有り、心腹の屙有り、黄眚黄祥有り、木金水火土を沴す」と。

原文《洪範五行傳》曰:「思心不容,是謂不聖。厥咎瞀,厥罰常風,厥極凶短折。有脂夜之妖,有華孽,有牛禍,有心腹之屙,有黃眚黃祥,木金水火沴土。」

常風

原文常風

梁の天監六年八月戊戌、大風木を折る。京房《易飛候》に曰く、「角日疾風、天下昏る。三月中に出でずんば、兵必ず起こる」と。是の歳魏軍鐘離に入る。

原文梁天監六年八月戊戌,大風折木。京房《易飛候》曰:「角日疾風,天下昏。不出三月中,兵必起。」是歲魏軍入鐘離。

承聖三年十一月癸未、帝南城に武を閲し、北風大いに急にして、普天昏暗なり。《洪範五行伝》に曰く、「人君瞀乱の応なり」と。時に帝既に侯景を平げ、公卿咸く帝を勧めて丹陽に反らんとす、帝従わず、又多く猜忌有り、瞀乱の行有り、故に天変風を以て之に応ず。是の歳西魏の為に滅ぼさる。

原文承聖三年十一月癸未,帝閱武於南城,北風大急,普天昏暗。《洪範五行傳》曰:「人君瞀亂之應。」時帝既平侯景,公卿鹹勸帝反丹陽,帝不從,又多猜忌,有瞀亂之行,故天變應之以風。是歲為西魏滅。

陳の天嘉六年七月癸未、大風西南より起こり、霊台の候楼を吹き倒す。《洪範五行伝》以為う、大臣の専恣の咎と。時に太子沖幼にして、安成王頊政を専らにし、帝時に抑損せず。明年崩じ、皇太子位を嗣ぎ、頊遂に之を廃す。

原文陳天嘉六年七月癸未,大風起西南,吹倒靈台候樓。《洪範五行傳》,以為大臣專恣之咎。時太子沖幼,安成王頊專政,帝不時抑損。明年崩,皇太子嗣位,頊遂廢之。

太建十二年(580年)六月壬戌、大風が皋門の中闥を吹き壊した。同年九月、夜また風が起こり、屋根を剥ぎ樹木を抜いた。始興王叔陵の専横恣意の応報である。

原文太建十二年六月壬戌,大風吹壞皋門中闥。十二年九月,夜又風,髮屋拔樹。始興王叔陵專恣之應。

至徳年間(583–586年)、大風が朱雀門を吹き倒した。

原文至德中,大風吹倒硃雀門。

禎明三年(589年)六月丁巳、大風が西北より起こり、濤水を激して石頭城・秦淮に入った。この時、後主は司馬申を任用し、忠諫の臣を誅戮した。沈客卿・施文慶は邪僻な行いを専ら行い、江総・孔範らは淫縦を崇め長じて、君主の聡明を杜塞した。瞀乱の咎である。

原文禎明三年六月丁巳,大風,自西北,激濤水入石頭、淮。是時,後主任司馬申,誅戮忠諫。沈客卿、施文慶專行邪僻。江總、孔範等崇長淫縱,杜塞聰明,瞀亂之咎。

後斉の河清二年(563年)、大風が三十日間続いてやんだ。時に帝は初めて佞臣和士開に政事を委ね、その専恣は日増しに甚だしくなった。天統三年(567年)五月、大風が起こり、昼間暗くなり、屋根を剥ぎ樹木を抜いた。天変が再び現れたが、帝は悟らなかった。翌年、帝は崩じた。後主は詔して内外の表奏は皆まず士開に詣で、その後で聞き徹すべしとした。趙郡王高叡・馮翊王高潤が士開の驕恣を按じ、内職に仍いるべからずと奏したが、反って士開の讒言にあい、高叡は遂に死罪に坐した。士開は宮掖に出入りし、生殺の権を口にし、まもなく琅邪王高儼に誅殺された。

原文後齊河清二年,大風,三旬乃止。時帝初委政佞臣和士開,專恣日甚。天統三年五月,大風,晝晦,髮屋拔樹。天變再見,而帝不悟。明年帝崩。後主詔內外表奏,皆先詣士開,然後聞徹。趙郡王睿、馮翊王潤按士開驕恣,不宜仍居內職,反為士開所譖,睿竟坐死。士開出入宮掖,生殺在口,尋為琅邪王儼所誅。

七年(天統七年、571年)三月、大風が西北より起こり、屋根を剥ぎ樹木を抜いた。五日後にやんだ。時に高阿那肱・駱提婆らが専恣した応報である。

原文七年三月,大風起西北,髮屋拔樹。五日乃止。時高阿那瑰、駱提婆等專恣之應。

開皇二十年(600年)十一月、京都に大風が起こり、屋根を剥ぎ樹木を抜き、秦・隴の地で圧死者千余人を出した。大地が震動し、鼓は皆それに応じた。浄刹寺の鐘が三度鳴り、仏殿の門の鎖が自ら開き、銅像が自ら戸外に出た。鐘鼓が自ら鳴るのは、鼓妖に近い。揚雄は人君が聡明でなく、衆に惑わされ、空名の者が進用されると鼓妖が現れると考える。時に独孤皇后が政事に干渉し、左僕射ぼくや楊素が人主を傾ける権勢を持った。帝は二人の讒言を聴き、僕射高熲を罷免し、太子楊勇を廃して庶人とし、晋王楊広が虚名によって立てられた。思心が瞀乱し、陰気が盛んな象である。鎖及び銅像は共に金である。金が動き木がそれを震わせるのは、水が金を沴す応報である。《洪範五行伝》に曰く、「衆心を失うこと甚だしいが故に致る所なり」と。高熲・楊勇は罪なくして皆廃黜され、衆心を失ったのである。

原文開皇二十年十一月,京都大風,髮屋拔樹,秦、隴壓死者千余人。地大震,鼓皆應。淨刹寺鐘三鳴,佛殿門鎖自開,銅像自出戶外。鐘鼓自鳴者,近鼓妖也。揚雄以為人君不聰,為眾所惑,空名得進,則鼓妖見。時獨孤皇后干預政事,左僕射楊素權傾人主。帝聽二人之讒,而黜僕射高熲,廢太子勇為庶人,晉王釣虛名而見立。思心瞀亂,陰氣盛之象也。鎖及銅像,並金也。金動木震之,水沴金之應。《洪範五行傳》曰:「失眾心甚之所致也。」高熲、楊勇無罪而鹹廢黜,失眾心也。

仁寿じんじゅ二年(602年)、西河に胡人がおり、騾に乗って道中におり、忽ち旋風に飄われ、車一台と共に千余尺の高さに上がり、乃ち墜落し、皆粉々になった。京房《易伝》に曰く、「衆逆同志し、至徳乃ち潜む、その異は風なり」と。後二歳、漢王楊諒が并州におり、密かに逆乱を謀った。車及び騾騎の象である。空に昇りて墜ちるのは、顛隕の応報である。天戒は若し曰く、妄りに車騎を動かすなかれ、終に当に覆敗すべし、と。しかし楊諒は悟らなかった。高祖が崩ずるに及んで、楊諒は兵を発して反し、州県はこれに応じ、衆は数十万に至った。一ヶ月余りで敗れた。

原文仁壽二年,西河有胡人,乘騾在道,忽為回風所飄,並一車上千餘尺,乃墜,皆碎焉。京房《易傳》曰:「眾逆同志,至德乃潛,厥異風。」後二載,漢王諒在并州,潛謀逆亂,車及騾騎之象也。升空而墜,顛隕之應也。天戒若曰,無妄動車騎,終當覆敗,而諒不悟。及高祖崩,諒發兵反,州縣響應,眾至數十萬。月餘而敗。

夜妖

原文夜妖

梁の承聖二年(553年)十月丁卯、大風が起こり、昼間暗くなり、天地が昏暗した。夜妖に近い。京房《易飛候》に曰く、「羽日に風、天下昏く、人大いに疾む。然らざれば、多く寇盗あり」と。三年後に西魏に滅ぼされた。

原文梁承聖二年十月丁卯,大風,晝晦,天地昏暗。近夜妖也。京房《易飛候》曰:「羽日風,天下昏,人大疾。不然,多寇盜。」三年為西魏所滅。

陳の禎明三年(589年)正月朔旦、雲霧が晦冥し、鼻に入ると辛酸を感じた。後主が昏昧であった、夜妖に近い。《洪範五行伝》に曰く、「王中を失い、臣下強盛にして、以て君の明を蔽うときは、則ち雲陰す」と。この時北軍が江に臨み、柳荘・任蛮奴が共に内応の意を進言したが、後主は佞臣孔範の言に惑い、昏暗にして用いることができず、以て覆敗に至った。

原文陳禎明三年正月朔旦,雲霧晦冥,入鼻辛酸。後主昏昧,近夜妖也。《洪範五行傳》曰:「王失中,臣下強盛,以蔽君明,則雲陰。」是時北軍臨江,柳莊、任蠻奴並進中款,後主惑佞臣孔範之言,而昏暗不能用,以至覆敗。

東魏の武定四年(546年)冬、大霧が六日間続き、昼夜解けなかった。《洪範五行伝》に曰く、「昼にして晦冥し夜の若きは、陰陽を侵し、臣将に君を侵す象なり」と。翌年、元瑾・劉思逸が大将軍を謀殺しようとした応報である。

原文東魏武定四年冬,大霧六日,晝夜不解。《洪範五行傳》曰:「晝而晦冥若夜者,陰侵陽,臣將侵君之象也。」明年,元瑾、劉思逸謀殺大將軍之應。

周の大象二年(580年)、尉遅迥が相州で敗れた。その党与数万人を遊豫園に坑った。その処では毎夜鬼の哭く声を聞いた。范洪《五行伝》に曰く、「哭くは死亡の表、夜妖に近し。鬼にして夜哭くは、将に死亡の応有らんとす」と。京房《易飛候》に曰く、「鬼夜に哭く、国将に亡ぶ」と。翌年、周氏の王公は皆殺害され、周室もまた亡んだ。

原文周大象二年,尉迥敗於相州。坑其党與數萬人于遊豫園。其處每聞鬼夜哭聲。范洪《五行傳》曰:「哭者死亡之表,近夜妖也。鬼而夜哭者,將有死亡之應。」京房《易飛候》曰:「鬼夜哭,國將亡。」明年,周氏王公皆見殺,周室亦亡。

仁寿年間(601–604年)、仁寿宮及び長城の下で、数度鬼の哭く声を聞いた。まもなく献后及び帝が、相次いで仁寿宮で崩じた。

原文仁壽中,仁壽宮及長城之下,數聞鬼哭。尋而獻後及帝,相次而崩于仁壽宮。

大業八年(612年)、楊玄感が東都で乱を起こした。尚書樊子蓋がその党与を長夏門外に坑い、前後数万人に及んだ。末年(大業末年)に至り、数度その処で鬼の哭く声、呻吟する声を聞いた。前と同じ占いである。その後、王世充が洛陽で越王楊侗を害した。

原文大業八年,楊玄感作亂於東都。尚書樊子蓋坑其党與于長夏門外,前後數萬。洎于末年,數聞其處鬼哭,有呻吟之聲。與前同占。其後王世充害越王侗於洛陽。

華孽

原文華孽

後斉の武平元年、槐の花は咲くも実を結ばず。槐は三公の位なり、華にして実なく、萎れ落つる象なり。明年に至り、録尚書事和士開誅せられ、隴東王胡長仁、太保・琅邪王儼皆害せられ、左丞相段韶薨ず。

原文後齊武平元年,槐華而不結實。槐,三公之位也,華而不實,萎落之象。至明年,錄尚書事和士開伏誅。隴東王胡長仁,太保、琅邪王儼皆遇害。左丞相段韶薨。

陳の後主の時、張貴妃・孔貴嬪あり、並びに国色を有し、妖豔と称せらる。後主之に惑ひ、寵は宮掖に冠たり、毎に侍従に充て、詩酒を以て娯しみとす。一度後庭に入れば、数旬出でず、荒淫侈靡、紀極を知ること莫し。府庫空竭し、頭会箕斂し、天下怨叛し、将士は心を離す。敵は鼓行して進み、死戦の士有ること莫し。女徳の咎なり。敗亡の際に及び、後主は此の姫と俱に井に投じ、隋師は張貴妃を執へて之を戮し、以て江東に謝す。『洪範五行伝』に曰く、「華とは、猶ほ栄華容色の象なり。色を以て国を乱す、故に華孽と謂ふ」と。

原文陳後主時,有張貴妃、孔貴嬪,並有國色,稱為妖豔。後主惑之,寵冠宮掖,每充侍從,詩酒為娛。一入後庭,數旬不出,荒淫侈靡,莫知紀極。府庫空竭,頭會箕斂,天下怨叛,將士離心。敵人鼓行而進,莫有死戰之士。女德之咎也。及敗亡之際,後主與此姬俱投于井,隋師執張貴妃而戮之,以謝江東。《洪範五行傳》曰:「華者,猶榮華容色之象也。以色亂國,故謂華孽。」

斉の後主に寵姫馮小憐あり、慧にして色有り、琵琶を弾く能く、特に歌儛かぶに工なり。後主之に惑ひ、淑妃に拝す。彩女数千を選び、之が羽従と為し、一女の飾り、動ね千金を費やす。帝三堆に禽を従へし時、周師大いに至り、辺吏急を告げ、道に相望む。帝師を班せんと欲すも、小憐意已まず、更に合囲を請ふ。帝之に従ふ。是に由りて遅留し、而して晋州遂に陥つ。後に周師と晋州の下に相遇ふや、小憐に坐して機を失ふこと数度なり、因りて国滅ぶ。斉の士庶、今に至るも之を咎む。

原文齊後主有寵姬馮小憐,慧而有色,能彈琵琶,尤工歌儛。後主惑之,拜為淑妃。選彩女數千,為之羽從,一女之飾,動費千金。帝從禽於三堆,而周師大至,邊吏告急,相望於道。帝欲班師,小憐意不已,更請合圍。帝從之。由是遲留,而晉州遂陷。後與周師相遇于晉州之下,坐小憐而失機者數矣,因而國滅。齊之士庶,至今咎之。

牛禍

原文牛禍

梁の武陵王紀、城隍神を祭り、将に牛を烹らんとす。忽ち赤蛇有りて牛の口を繞る。牛禍なり。象類に言之ば、又た龍蛇の孽なり。魯の宣公三年、郊牛の口傷つく。時に以て天享けずと為す。宣公を棄つるなり。『五行伝』に曰く、「君道に逆ひ傷つく、故に龍蛇の孽有り」と。是の時、紀は赴援を名と為すと雖も、実は妄りに自ら尊亢す。思心の咎、神享けず、君道傷つくの応なり。果たして元帝に敗れらる。

原文梁武陵王紀祭城隍神,將烹牛,忽有赤蛇繞牛口,牛禍也。象類言之,又為龍蛇之孽。魯宣公三年,郊牛之口傷,時以為天不享。棄宣公也。《五行傳》曰:「逆君道傷,故有龍蛇之孽。」是時紀雖以赴援為名,而實妄自尊亢。思心之咎,神不享,君道傷之應。果為元帝所敗。

後斉の武平二年、并州五足の牛を献ず。牛禍なり。『洪範五行伝』に曰く、「牛事応ずるは、宮室の象なり」と。帝尋ねて大いに卒を発し、仙都苑に於て池を穿ち山を築き、楼殿間を起し、華を窮め麗を極む。功始めて就く而して国亡ぶ。

原文後齊武平二年,并州獻五足牛,牛禍也。《洪範五行傳》曰:「牛事應,宮室之象也。」帝尋大發卒,于仙都苑穿池築山,樓殿間起,窮華極麗。功始就而亡國。

後周の建徳六年、陽武に獣三有り、状水牛の如し。一は黄、一は赤、一は黒なり。黒なる者と闘ひ久しうして、黄なる者自ら傍より之を触る。黒なる者死し、黄も亦た俱に河に入る。牛禍に近し。黒き者は、周の尚ぶ所の色なり。死する者は、滅亡の象なり。後数載、周果たして滅び而して隋天下を有ち、旗牲は赤を尚び、戎服は黄を以てす。

原文後周建德六年,陽武有獸三,狀如水牛,一黃,一赤,一黑。與黑者鬥久之,黃者自傍觸之,黑者死,黃亦俱入於河。近牛禍也。黑者,周之所尚色。死者,滅亡之象。後數載,周果滅而隋有天下,旗牲尚赤,戎服以黃。

大業初、恒山に牛有り、四脚の膝上各々一蹄を生ず。其の後、東都を建て、長城を築き、溝洫を開く。

原文大業初,恆山有牛,四腳膝上各生一蹄。其後建東都,築長城,開溝洫。

心腹の屙

原文心腹之屙

陳の禎明三年、隋師江に臨む。後主従容として言ひて曰く、「斉兵三たび来り、周師再び来るも、摧敗せざるは無し。彼何を為さんとする者ぞ」と。都官尚書孔范曰く、「長江天塹、古より以て南北を限隔すと為す。今日北軍豈に飛んで渡らんや。臣毎に官卑きを患ふ。彼若し渡り来らば、臣は太尉と為らん」と。後主大いに悦び、因りて妓を奏し酒を縦し、詩を賦して輟まず。心腹の屙なり。存亡の機、之を定むる俄頃、君臣旰食暇あらず。後主已に懼るるを知らず、孔範従ひて之を蕩す。天其の心を奪ふ、曷ぞ能く敗れざらんや。陳国遂に亡び、範も亦た遠く徙す。

原文陳禎明三年,隋師臨江,後主從容而言曰:「齊兵三來,周師再來,無弗摧敗。彼何為者?」都官尚書孔范曰:「長江天塹,古以為限隔南北。今日北軍豈能飛渡耶?臣每患官卑,彼若渡來,臣為太尉矣。」後主大悅,因奏妓縱酒,賦詩不輟。心腹之屙也。存亡之機,定之俄頃,君臣旰食不暇,後主已不知懼,孔範從而蕩之,天奪其心,曷能不敗?陳國遂亡,範亦遠徙。

斉の文宣帝嘗て東山に宴し、杯を投げて赫怒し、詔を下して西伐し、極めて甲兵の盛を陳ぶ。既にして泣きて群臣に謂ひて曰く、「黑衣は我が制する所に非ず」と。卒に行はず。識者有りて以て帝の精魄已に乱れ、帝祚の永からざるを知る。帝後竟に心疾を得、荒酒色に耽り、性忽ち狂暴に忽せられ、数年にして崩ず。

原文齊文宣帝嘗宴於東山,投杯赫怒,下詔西伐,極陳甲兵之盛。既而泣謂群臣曰:「黑衣非我所制。」卒不行。有識者以帝精魄已亂,知帝祚之不永。帝后竟得心疾,耽荒酒色,性忽狂暴,數年而崩。

武成帝、太后の憂に丁し、緋袍故の如し。未だ幾ばくもあらずして、三台に登り、酒を置き楽を作す。侍者白袍を進む。帝大いに怒り、之を台下に投ず。未だ幾ばくもあらずして崩ず。

原文武成帝丁太后憂,緋袍如故。未幾,登三台,置酒作樂,侍者進白袍,帝大怒,投之台下。未幾而崩。

黄眚黄祥

原文黃眚黃祥

梁の大同元年、天土を雨ふ。二年、天灰を雨ふ。其の色黄なり。黄祥に近し。京房『易飛候』に曰く、「善を聞くに及ばず、此れを有知と謂ふ。其の異黄、其の咎龍、其の災嗣がず。賢を蔽ひ道を絶つ咎なり」と。時に帝自ら聰明博達と為し、人の己に勝るを悪む。又た篤く佛法を信じ、身を捨てて奴と為る。道を絶ち賢を蔽ふ罰なり。

原文梁大同元年,天雨土。二年,天雨灰,其色黃。近黃祥也。京房《易飛候》曰:「聞善不及,茲謂有知。厥異黃,厥咎龍,厥災不嗣。蔽賢絕道之咎也。」時帝自以為聰明博達,惡人勝己。又篤信佛法,捨身為奴,絕道蔽賢之罰也。

大寶元年正月、天黄沙を雨ふ。二年、簡文帝ぶんてい、丸土を夢みて之を吞む。尋ねて侯景に為りて廃せられ、土囊を以て之を圧して斃れ、諸子害せらる。嗣がざるの応なり。

原文大寶元年正月,天雨黃沙。二年,簡文帝夢丸土而吞之。尋為侯景所廢,以土囊壓之而斃,諸子遇害,不嗣之應也。

陳の後主の時、黄衣の人に城を囲まれる夢を見た。後主はこれを嫌い、城を巡る橘の樹をことごとく伐り払った。隋の高祖が禅譲を受けた後、上下ともに黄衣を通服した。間もなく隋軍が攻め囲んだ応である。

原文陳後主時,夢黃衣人圍城。後主惡之,繞城橘樹,盡伐去之。隋高祖受禪之後,上下通服黃衣。未幾隋師攻圍之應也。

後周の大象二年正月、天より黄土が降り、しばらくしてやんだ。大同元年と同じ占いである。時に帝は昏狂ますます甚だしく、一年にして崩じ、静帝に至り、位を譲るに用いた。道を絶ち嗣がない応である。

原文後周大象二年正月,天雨黃土,移時乃息。與大同元年同占。時帝昏狂滋甚,期年而崩,至於靜帝,用遜厥位。絕道不嗣之應也。

開皇二年、京師に土が降った。この時帝は周室の諸侯微弱にして天下を亡ぼしたことを戒め、故に諸子を分封し、みな行台と為し、方面を専制せしめた。土を失う故、土気の祥あり、その後諸王各謀逆乱を為さんとす。京房の『易飛候』に曰く、「天土を降らせば、百姓労苦にして功無し」と。その時都邑を営む。後に仁寿宮を起こし、山を頽し谷を埋め、丁匠死者太半なり。

原文開皇二年,京師雨土。是時帝懲周室諸侯微弱,以亡天下,故分封諸子,並為行台,專制方面。失土之故,有土氣之祥,其後諸王各謀為逆亂。京房《易飛候》曰:「天雨土,百姓勞苦而無功。」其時營都邑。後起仁壽宮,頹山堙谷,丁匠死者太半。

裸蟲の孽

原文裸蟲之孽

梁の太清元年、丹陽に莫氏の妻あり、男児を生み、眼は頂上に在り、大きさ二歳児の如し。地に墜ちて言うこと、「児は旱疫鬼なり、住むを得ず」と。母曰く、「汝当に我をして得て過ごさしむべし」と。疫鬼曰く、「上官有り、何ぞ自由を得ん。母急に絳帽を作るべし、故に憂い無かるべし」と。母帽を作る暇なく、絳を以て髪を繫ぐ。ここより旱疫すること二年、揚・徐・兗・豫特に甚だし。莫氏の郷鄰、多く絳を以て免れ、他の土これに效いて験無し。

原文梁太清元年,丹陽有莫氏妻,生男,眼在頂上,大如兩歲兒。墜地而言曰:「兒是旱疫鬼,不得住。」母曰:「汝當令我得過。」疫鬼曰:「有上官,何得自由。母可急作絳帽,故當無憂。」母不暇作帽,以絳系發。自是旱疫者二年,揚、徐、兗、豫尤甚。莫氏鄉鄰,多以絳免,他土效之無驗。

大宝二年、京口の人于蔵児、年五歳、城の西南角の大樓に登り、鼓を打ちて『長江櫑』を作す。鼓は兵の象なり。この時侯景江南に乱る。

原文大寶二年,京口人于藏兒,年五歲,登城西南角大樓,打鼓作《長江櫑》。鼓,兵象也。是時侯景亂江南。

陳の永定三年、人あり長さ三丈、羅浮山に見え、通身潔白、衣服楚麗なり。京房の占いに曰く、「長人見ゆれば、亡ぶ」と。後二歳、帝崩ず。

原文陳永定三年,有人長三丈,見羅浮山,通身潔白,衣服楚麗。京房占曰:「長人見,亡。」後二歲,帝崩。

後主太子たりし時、婦人あり東宮に突入して大いに言うこと、「畢国主」と。後主立ちて祚終わるの応なり。

原文後主為太子時,有婦人突入東宮而大言曰:「畢國主。」後主立而祚終之應也。

至徳三年八月、建康の人婢を死なせ、これを埋めて九日にして更に生き返る。牧牛の人あり聞きてこれを出だす。

原文至德三年八月,建康人家婢死,埋之九日而更生。有牧牛人聞而出之。

禎明二年、船下りて、忽ち人の言うを聞くこと、「明年乱る」と。これを視れば、死嬰児を得たり、長さ二尺にして頭無し。明年陳滅ぶ。

原文禎明二年,有船下,忽聞人言曰:「明年亂。」視之,得死嬰兒,長二尺而無頭。明年陳滅。

斉の天保中、臨漳に婦人あり子を産み、二頭共に体を同じくす。この後政は奸佞より出で、上下別無く、両頭の応なり。

原文齊天保中,臨漳有婦人產子,二頭共體。是後政由奸佞,上下無別,兩頭之應也。

後主の時、桑門あり、貌狂人の若く、烏を見れば則ちこれに向かって礼を為し、沙門を見れば則ちこれを毆辱す。烏は周の色なり。未だ幾ばくもせず、斉は周に吞まれる所となり、仏法を滅除す。

原文後主時,有桑門,貌若狂人,見烏則向之作禮,見沙門則毆辱之。烏,周色也。未幾,齊為周所吞,滅除佛法。

後周の保定三年、人あり子男を産み、陰は背上に在りて尾の如く、両足の指は獣の爪の如し。陰は当に背に生ずべからざるに背に生ずるは、陰陽反覆、君臣顛倒の象なり。人の足は当に爪有るべからざるに爪有るは、将に人を攫むの変を致さんとす。この時、晋蕩公宇文護朝政を専擅し、征伐は自己じこより出で、陰に篡逆を懐く。天戒は若し曰く、君臣の分已に倒れたり、将に攫噬の禍を行わんとすと。帝変を見て悟り、遂に晋公を誅し、万機に親しみ、躬倹約を節し、斉国を克平し、高祖と号す。禍を転じて福と為すの効なり。

原文後周保定三年,有人產子男,陰在背上如尾,兩足指如獸爪。陰不當生於背而生於背者,陰陽反覆,君臣顛倒之象。人足不當有爪而有爪者,將致攫人之變也。是時,晉蕩公宇文護專擅朝政,征伐自己,陰懷篡逆。天戒若曰,君臣之分已倒矣,將行攫噬之禍。帝見變而悟,遂誅晉公,親萬機,躬節儉,克平齊國,號為高祖。轉禍為福之效也。

武帝の時、強練という者あり、狂を佯い、一つの瓠を持ち、晋蕩公宇文護の門に至りてこれを撃ち破りて曰く、「身は尚お可なり、子苦し」と。時に護は政を専らにし、因って太后に朝すに、帝これを撃ち殺す。兵を発してその諸子を捕え、皆備え楚毒にして死す。強練また市に行きて乞い、人あるいはこれに粟麦を遺わば、輒ち底無き袋を以てこれを受く。因って大笑して曰く、「空を盛る」と。未だ幾ばくもせず、周滅び、高祖都を移し、長安城墟と為る。

原文武帝時,有強練者,佯狂,持一瓠,至晉蕩公護門而擊破之,曰:「身尚可,子苦矣。」時護專政,因朝太后,帝擊殺之。發兵捕其諸子,皆備楚毒而死。強練又行乞於市,人或遺之粟麥,輒以無底袋受之。因大笑曰:「盛空。」未幾,周滅,高祖移都,長安城為墟矣。

開皇六年、霍州に老翁あり、猛獣に化す。

原文開皇六年,霍州有老翁,化為猛獸。

七年、相州に桑門あり、蛇に変じ、尾は樹を繞りて自ら抽き、長さ二丈許り。

原文七年,相州有桑門,變為蛇,尾繞樹而自抽,長二丈許。

仁寿四年、人あり長さ数丈、応門に見え、その跡長さ四尺五寸。その年帝崩ず。

原文仁壽四年,有人長數丈,見於應門,其跡長四尺五寸。其年帝崩。

大業元年、雁門の人房回安、母年百歳、額上に角を生じ、長さ二寸。《洪範五行伝》に曰く「婦人は陰象なり。角は兵象なり。下より上に反するの応なり」と。是より後天下果たして大いに乱れ、陰戎帝を雁門に囲む。

原文大業元年,雁門人房回安,母年百歲,額上生角,長二寸。《洪範五行傳》曰:「婦人,陰象也。角,兵象也。下反上之應。」是後天下果大亂,陰戎圍帝於雁門。

四年、雁門宋穀村に婦人あり一つの肉卵を生み、大きさ斗の如し、これを埋む。後数日、埋めし処雲霧尽く合し、地より雷震して上り、これを視るに洞穴、卵の所在を失う。

原文四年,雁門宋穀村有婦人生一肉卵,大如鬥,埋之。後數日,所埋處雲霧盡合,從地雷震而上,視之洞穴,失卵所在。

六年、趙郡李来王家の婢一物を産み、大きさ卵の如し。

原文六年,趙郡李來王家婢產一物,大如卵。

六年正月朔旦、盗あり白練の裙襦を衣、手に香花を持ち、自ら弥勒仏の出世と称す。建国門に入り、衛士の仗を奪い、将に乱を為さんとす。斉王暕之に遇い斬る。後三年、楊玄感乱を起こし、兵を引きて洛陽を囲み、戦いに敗れて誅せらる。

原文六年正月朔旦,有盜衣白練裙襦,手持香花,自稱彌勒佛出世。入建國門,奪衛士仗,將為亂。齊王暕遇而斬之。後三年,楊玄感作亂,引兵圍洛陽,戰敗伏誅。

八年、澄公なる者あり、狂人の若く、東都に於いて大いに叫び賊を唱う。帝聞きて之を悪む。明年、玄感兵を挙げ、洛陽を囲む。

原文八年,有澄公者,若狂人,於東都大叫唱賊。帝聞而惡之。明年,玄感舉兵,圍洛陽。

十二年、澄公また賊を叫ぶ。李密東都に逼り、孟讓豊都市を焼きて去る。

原文十二年,澄公又叫賊。李密逼東都,孟讓燒豐都市而去。

九年、帝高陽に在り。唐県の人宋子賢、幻術を善くす。毎夜、楼上有光明あり、能く仏形に変じ、自ら弥勒の出世と称す。又大鏡を堂上に懸け、紙素の上に蛇と為り獣と為り及び人形を画く。礼謁に来る者あれば、其の鏡を転側し、来生の形像を観ぜしむ。或いは紙上の蛇形に映見すれば、子賢輒ち告げて云く「此れ罪業なり、当に更に礼念すべし」と。又礼謁せしめ、乃ち人形に転じて之を示す。遠近惑い信じ、日数百千人。遂に潜かに乱を謀り、将に無遮仏会を為し、因りて兵を挙げ、乗輿を襲撃せんと欲す。事泄れ、鷹揚郎将兵を以て之を捕う。夜其の所に至り、其の居る所を繞るも、但だ火坑を見るのみ、兵進むを敢えず。郎将曰く「此の地素より坑無し、只妖妄のみ」と。及び進むに及び、復た火無し。遂に之を擒え斬り、並びに其の党与千余家を坐す。其の後復た桑門向海明あり、扶風に於いて自ら弥勒仏の出世と称し、潜かに逆乱を謀る。人に帰心する者あれば、輒ち吉夢を獲たり。由りて人皆之に惑わされ、三輔の士、翕然として大聖と称す。因りて兵を挙げて反し、衆数万に至る。官軍之を撃ち破る。京房《易飛候》に曰く「妖言衆を動かす者は、茲に信ぜざるを謂う。路に行人無し。三年を出でずして、兵起こる」と。是より天下大いに乱れ、路に行人無し。

原文九年,帝在高陽。唐縣人宋子賢,善為幻術。每夜,樓上有光明,能變作佛形,自稱彌勒出世。又懸大鏡於堂上,紙素上畫為蛇為獸及人形。有人來禮謁者,轉側其鏡,遣觀來生形像。或映見紙上蛇形,子賢輒告雲:「此罪業也,當更禮念。」又令禮謁,乃轉人形示之。遠近惑信,日數百千人。遂潛謀作亂,將為無遮佛會,因舉兵,欲襲擊乘輿。事泄,鷹揚郎將以兵捕之。夜至其所,繞其所居,但見火坑,兵不敢進。郎將曰:「此地素無坑,止妖妄耳。」及進,無複火矣。遂擒斬之,並坐其党與千餘家。其後複有桑門向海明,於扶風自稱彌勒佛出世,潛謀逆亂。人有歸心者,輒獲吉夢。由是人皆惑之,三輔之士,翕然稱為大聖。因舉兵反,眾至數萬。官軍擊破之。京房《易飛候》曰:「妖言動眾者,茲謂不信。路無人行。不出三年,起兵。」自是天下大亂,路無人行。

木金水火土に沴る。

原文木金水火沴土

梁の天監五年十一月、京師地震す、木金水火土に沴るなり。《洪範五行伝》に曰く「臣下盛んなり、将に動きて害を為さんとす」と。京房《易飛候》に曰く「地冬十一月に動くは、其の邑饑えて亡ぶ」と。時に交州刺史李凱兵を挙げて反す。明年、霜あり、歳儉しく人饑う。

原文梁天監五年十一月,京師地震,木金水火沴土也。《洪範五行傳》曰:「臣下盛,將動而為害。」京房《易飛候》曰:「地動以冬十一月者,其邑饑亡。」時交州刺史李凱舉兵反。明年,霜,歲儉人饑。

普通三年正月、建康地震す。是の時、義州刺史文僧朗州を以て叛く。

原文普通三年正月,建康地震。是時,義州刺史文僧朗以州叛。

六年十二月、地震す。京房《易飛候》に曰く「地冬に動きて音有り、十二月を以てするは、其の邑行兵有り」と。是の時、帝豫章王琮に命じて兵を将いて北伐せしむ。

原文六年十二月,地震。京房《易飛候》曰:「地冬動有音,以十二月者,其邑有行兵。」是時,帝令豫章王琮將兵北伐。

中大通五年正月、建康地震す。京房《易飛候》に曰く「地春を以て動くは、歳昌ならず」と。是歳、大水あり、百姓饑饉す。

原文中大通五年正月,建康地震。京房《易飛候》曰:「地以春動,歲不昌。」是歲,大水,百姓饑饉。

大同三年十一月、建康地震す。京房《易飛候》に曰く「地震十一月を以てするは、邑大喪及び饑亡有り」と。明年、霜災を為し、百姓饑う。

原文大同三年十一月,建康地震。京房《易飛候》曰:「地震以十一月,邑有大喪及饑亡。」明年,霜為災,百姓饑。

三年十月、建康に地震あり。この歳、会稽山の賊起こる。

原文三年十月,建康地震。是歲,會稽山賊起。

七年二月、建康に地震あり。この歳、交州の人李賁兵を挙げ、刺史蕭諮を逐う。

原文七年二月,建康地震。是歲,交州人李賁舉兵,逐刺史蕭諮。

九年閏正月、地震あり。李賁自ら皇帝を称し、百官を署置す。

原文九年閏正月,地震。李賁自稱皇帝,署置百官。

太清三年四月、建康に地再び震う。時に侯景自ら大丞相・録尚書事となり、帝の須ふる所給せず。この月、憂憤して崩ず。

原文太清三年四月,建康地再震。時侯景自為大丞相、錄尚書事,帝所須不給。是月,以憂憤崩。

陳の永定二年五月、建康に地震あり。時に王琳、蕭荘を郢州に立てる。

原文陳永定二年五月,建康地震。時王琳立蕭莊於郢州。

太建四年十一月、地震あり。陳宝応、閩中に反す。

原文太建四年十一月,地震。陳寶應反閩中。

禎明元年正月、地震あり。施文慶・沈客卿の専恣の応なり。

原文禎明元年正月,地震。施文慶、沈客卿專恣之應也。

東魏の武定二年十一月、西河に地陥ちて且つ燃ゆ。京房の『易妖占』に曰く、「地自ら陥つは、其の君亡ぶ」と。祖珽曰く、「火は陽の精なり。地は陰の主なり。地燃ゆるは、陰の道を越え、陽の政を行い、臣下擅恣し、終に自ら害するに至る」と。時に後斉の神武宰たり、而して侯景河南に専擅す。後二歳、神武果たして崩じ、景遂に乱を起こし、而して自ら敗亡を取るの応なり。

原文東魏武定二年十一月,西河地陷而且燃。京房《易妖占》曰:「地自陷,其君亡。」祖釭曰:「火,陽精也;地者,陰主也。地燃,越陰之道,行陽之政,臣下擅恣,終以自害。」時後齊神武作宰,而侯景專擅河南。後二歲,神武果崩,景遂作亂,而自取敗亡之應。

後斉の河清二年、并州に地震あり。和士開の専恣の応なり。

原文後齊河清二年,并州地震。和士開專恣之應。

後周の建徳二年、涼州に地頻りに震う。城郭多く壊れ、地裂けて泉出づ。京房の『易妖占』に曰く、「地分裂すは、羌夷叛く」と。時に吐谷渾頻りに河西を寇す。

原文後周建德二年,涼州地頻震。城郭多壞,地裂出泉。京房《易妖占》曰:「地分裂,羌夷叛。」時吐谷渾頻寇河西。

開皇十四年五月、京師に地震あり。京房の『易飛候』に曰く、「地動くこと夏五月を以てすは、人流亡す」と。この歳、関中飢え、帝百姓をして関東に就糧せしむ。

原文開皇十四年五月,京師地震。京房《易飛候》曰:「地動以夏五月,人流亡。」是歲關中饑,帝令百姓就糧于關東。

仁寿二年四月、岐・雍に地震あり。京房の『易飛候』に曰く、「地動くこと夏四月を以てすは、五穀熟せず、人大いに飢う」と。

原文仁壽二年四月,岐、雍地震。京房《易飛候》曰:「地動以夏四月,五穀不熟,人大饑。」

三年、梁州の就穀山崩る。『洪範五行伝』に曰く、「崩散落つは、背叛して上に事えざるの類なり」と。梁州は漢の地なり。明年、漢王諒兵を挙げて反す。

原文三年,梁州就穀山崩。《洪範五行傳》曰:「崩散落,背叛不事上之類也。」梁州為漢地。明年,漢王諒舉兵反。

大業七年、砥柱山崩れ、河を壅ぎ、逆流すること数十里。劉向の『洪範五行伝』に曰く、「山は君の象なり。水は陰の表、人の類なり。天戒若し曰く、人君威重を擁し、将に崩壊せんとし、百姓其の所を得ず」と。時に帝遼東の師を興し、百姓其の役に堪えず、四海しかい怨叛す。帝悟ること能わず、卒に滅亡に至る。

原文大業七年,砥柱山崩,壅河,逆流數十里。劉向《洪範五行傳》曰:「山者,君之象;水者,陰之表,人之類也。天戒若曰,君人擁威重,將崩壞,百姓不得其所。」時帝興遼東之師,百姓不堪其役,四海怨叛。帝不能悟,卒以滅亡。

『洪範五行伝』に曰く、「皇の極まらざるは、是れ建てざると謂う。其の咎は瞀、其の罰は常陰、其の極は弱。時に則ち射妖有り、則ち龍蛇の孽有り、則ち馬禍有り」と。

原文《洪範五行傳》曰:「皇之不極,是謂不建。厥咎瞀,厥罰常陰,厥極弱。時則有射妖,則有龍蛇之孽,則有馬禍。」

雲陰

原文雲陰

開皇二十年十月、久しく陰りて雨降らず。劉向曰く、「王者中を失い、臣下強盛にして君の明を蔽う、則ち雲陰す」と。是の時に、獨孤后遂に楊素と陰に太子勇を譖り、庶人に廃す。

原文開皇二十年十月,久陰不雨。劉向曰:「王者失中,臣下強盛而蔽君明,則雲陰。」是時,獨孤後遂與楊素陰譖太子勇,廢為庶人。

射妖

原文射妖

東魏武定四年、後斉の神武宰たり、親しく諸軍を率い、西魏を玉壁に攻む。其の年十一月、帝豫せず、師を班す。将士震懼し、皆曰く、「韋孝寬定功弩を以て丞相を射殺す」と。西魏国中に令を下して曰く、「勁弩一発、凶身自ら殞つ」と。神武聞きて之を悪み、其の疾暴に増す、射妖に近し。『洪範五行伝』に曰く、「射は、兵戎禍乱の象、気天に逆らえば則ち禍乱将に起らん」と。神武行くに、殿中將軍曹魏祖諫めて曰く、「王死気を以て生気に逆らい、客と為るは利あらず、主人と為れば則ち可なり」と。帝従わず、軍を頓すること五旬、頻りに戦いて沮衄す。又孤虚の言を聴き、城北に於いて汾水を断ち、土山を起こす。其の処天険千余尺、功竟に就かず、死者七万。気天に逆らうの咎なり。其の年帝崩ず。明年、王思政河南を擾す。

原文東魏武定四年,後齊神武作宰,親率諸軍,攻西魏於玉壁。其年十一月,帝不豫,班師。將士震懼,皆曰:「韋孝寬以定功弩射殺丞相。」西魏下令國中曰:「勁弩一發,凶身自殞。」神武聞而惡之,其疾暴增,近射妖也。《洪範五行傳》曰:「射者,兵戎禍亂之象,氣逆天則禍亂將起。」神武行,殿中將軍曹魏祖諫曰:「王以死氣逆生氣,為客不利,主人則可。」帝不從,頓軍五旬,頻戰沮衄。又聽孤虛之言,於城北斷汾水,起土山。其處天險千餘尺,功竟不就,死者七萬。氣逆天之咎也。其年帝崩。明年,王思政擾河南。

武平、後主并州より鄴に還る、八公嶺に至り、夜左右と歌いて行く。一人忽ち発狂し、意に後主を以て狐媚と為し、草中に伏して弓を彎げて之を射る。数人を傷つけ、幾くんぞ後主に中らんとす。後主執えて之を斬る。其の人自ら覚えず。狐にして能く媚びるは、獣の妖妄なり。時に帝国政を恤れず、専ら内人閹豎と酣歌して楽を為す。或いは襤縷衣を衣、行乞して娯を為す。此れ妖妄の象なり。人又之を射るは、兵戎禍乱の応なり。未だ幾ばくもせずして国滅ぶ。

原文武平,後主自并州還鄴,至八公嶺,夜與左右歌而行。有一人忽發狂,意後主以為狐媚,伏草中彎弓而射之。傷數人,幾中後主。後主執而斬之。其人不自覺也。狐而能媚,獸之妖妄也。時帝不恤國政,專與內人閹豎酣歌為樂。或衣襤縷衣,行乞為娛。此妖妄之象。人又射之,兵戎禍亂之應也。未幾而國滅。

龍蛇之孽

原文龍蛇之孽

梁天監二年、北梁州の潭中に龍闘い、霧を濆して数里。龍蛇の孽。『洪範五行伝』に曰く、「龍は、獣の害し難き者なり。天の類、君の象。天気害し、君道傷つけば、則ち龍も亦害す。闘う者は兵革の象なり」と。京房『易飛候』に曰く、「衆心安からず、厥の妖龍闘う」と。是の時に帝初めに即位し、而して陳伯之・劉季連の乱有り、国内危懼す。

原文梁天監二年,北梁州潭中有龍鬥,濆霧數裡。龍蛇之孽。《洪範五行傳》曰:「龍,獸之難害者也。天之類,君之象。天氣害,君道傷,則龍亦害。鬥者兵革之象也。」京房《易飛候》曰:「眾心不安,厥妖龍鬥。」是時帝初即位,而有陳伯之、劉季連之亂,國內危懼。

普通五年六月、龍曲阿の王陂に於いて闘い、因りて西に行き、建陵城に至る。経る所の処、樹木皆数十丈に折開す。天監二年と占を同じくす。建陵を経て樹木折るるは、国に兵革の禍有り、園陵残毀の象なり。時に帝専ら講論を以て務めと為し、耕戦を崇めず、将軽くして卒惰る。君道既に傷つけば、故に龍孽の応有り。帝殊に悟らず。太清元年に至り、黎州の水中又龍闘う。波浪湧き起こり、雲霧四合し、而して白龍南に走り、黒龍之に随うを見る。其の年、侯景兵を以て来降し、帝之を納れて備え無く、国人皆懼る。俄にして難作し、帝憂いを以て崩ず。

原文普通五年六月,龍鬥于曲阿王陂,因西行,至建陵城,所經之處,樹木皆折開數十丈。與天監二年同占。經建陵而樹木折者,國有兵革之禍,園陵殘毀之象。時帝專以講論為務,不崇耕戰,將輕而卒惰。君道既傷,故有龍孽之應。帝殊不悟。至太清元年,黎州水中又有龍鬥。波浪湧起,雲霧四合,而見白龍南走,黑龍隨之。其年,侯景以兵來降,帝納之而無備,國人皆懼。俄而難作,帝以憂崩。

大同十年夏、龍夜雷に因りて延陵人家の井中に墮つ。明旦之を視るに、驢の如く大なり。将に戟を以て之を刺さんとす、俄に庭中及び室中に各々大蛇有るを見る、数百斛船の如く、家人奔走す。『洪範五行伝』に曰く、「龍は、陽類、貴象なり。上は則ち天に在り、下は則ち地に在り、庶人の邑裡室家に見ゆべからず。井中は、幽深の象なり、諸侯且つ幽執の禍有り、皇建てざるの咎なり」と。後侯景反し、果たして簡文を酒庫に幽殺し、宗室王侯皆幽死す。

原文大同十年夏,有龍夜因雷而墮延陵人家井中,明旦視之,大如驢。將以戟刺之,俄見庭中及室中各有大蛇,如數百斛船,家人奔走。《洪範五行傳》曰:「龍,陽類,貴象也。上則在天,下則在地,不當見庶人邑裡室家。井中,幽深之象也,諸侯且有幽執之禍,皇不建之咎也。」後侯景反,果幽殺簡文於酒庫,宗室王侯皆幽死。

陳太建十一年正月、龍南兗州の池中に見ゆ。梁大同十年と占を同じくす。未だ幾ばくもせず、後主位を嗣ぎ、驕淫荒怠し、動くこと中を得ず。其の後竟に国を以て亡び、身幽執せらる。

原文陳太建十一年正月,龍見南兗州池中,與梁大同十年同占。未幾,後主嗣位,驕淫荒怠,動不得中。其後竟以國亡,身被幽執。

東魏武定元年、大蛇武牢城に見ゆ。是の時に、北豫州刺史高仲密の妻李氏、慧にして豔なり。世子澄之を悦び、仲密内に自ら安からず、遂に武牢を以て叛き、陰に西魏を引き、河陽に於いて大戦す。神武西兵に窘せられ、僅かに獲免し、死者数千。

原文東魏武定元年,有大蛇見武牢城。是時,北豫州刺史高仲密妻李氏,慧而豔。世子澄悅之,仲密內不自安,遂以武牢叛,陰引西魏,大戰于河陽。神武為西兵所窘,僅而獲免,死者數千。

後斉天保九年、龍長さ七八丈有り、斉州の大堂に見ゆ。大同十年と占を同じくす。時に常山・長広の二王権重く、帝抑損を思わず。明年帝崩じ、太子殷立つを嗣ぐ。常山王演果たして帝を廃して済南王と為し、幽して之を害す。

原文後齊天保九年,有龍長七八丈,見齊州大堂。占同大同十年。時常山、長廣二王權重,帝不思抑損。明年帝崩,太子殷嗣立。常山王演果廢帝為濟南王,幽而害之。

河清元年、龍済州の浴堂中に見ゆ。天保九年と占を同じくす。先ず是れ平秦王帰彦昭帝の遺詔を受け、太子百年を立てて嗣と為す。而して帰彦遂に長広王湛を立てる、是れ武成帝と為す。而して百年を廃して楽陵王と為し、竟に幽死す。

原文河清元年,龍見濟州浴堂中。占同天保九年。先是平秦王歸彥受昭帝遺詔,立太子百年為嗣。而歸彥遂立長廣王湛,是為武成帝。而廢百年為樂陵王,竟以幽死。

天統四年、貴郷人枯木を伐り、一の黄龍を得、脚を折り、孔中に死す。斉は木徳を称す。龍は、君の象。木枯れ龍死すは、不祥甚だし。其の年武成崩ず。

原文天統四年,貴鄉人伐枯木,得一黃龍,折腳,死于孔中,齊稱木德。龍,君象。木枯龍死,不祥之甚。其年武成崩。

武平三年、龍邯鄲の井中に見ゆ。其の気五色天に属す。又汲郡の仏寺涸井中に見ゆ。河清元年と占を同じくす。後主竟に周に降り、後誅せらる。

原文武平三年,龍見邯鄲井中,其氣五色屬天。又見汲郡佛寺涸井中。占同河清元年。後主竟降周,後被誅。

武平七年、并州の招遠楼の下に、赤蛇と黒蛇が闘い、数日にして赤蛇が死んだ。赤は、斉の尚ぶ色であり、黒は、周の尚ぶ色である。闘って死ぬとは、滅亡の兆しである。後主は邪佞を用い、周の軍と晋州の下で連戦した。軍を孽臣高阿那肱に委ね、ついに敵を開き、皇天の建てざる咎である。後主は遂に周の軍に捕らえられた。

原文武平七年,并州招遠樓下,有赤蛇與黑蛇鬥,數日,赤蛇死。赤,齊尚色;黑,周尚色。鬥而死,滅亡之象也。後主任用邪佞,與周師連兵于晉州之下。委軍于孽臣高阿那肱,竟啟敵人,皇不建之咎也。後主遂為周師所虜。

琅邪王高儼が北宮中の白馬浮図を壊した。これは石趙の時代の澄公が建立したものである。白蛇が長さ数丈あり、回旋して所在を失った。時に高儼は専ら誅殺を行い、中正を失う咎である。変異を見て戒めとせず、難に及んだ。

原文琅邪王儼壞北宮中白馬浮圖,石趙時澄公所建。見白蛇長數丈,迴旋失所在。時儼專誅,失中之咎也。見變不知戒,以及於難。

後周の建徳五年、黒龍が亳州に墜ちて死んだ。龍は君主の象徴である。黒は周の尚ぶ色である。墜ちて死ぬとは、不祥の極みである。時に皇太子は才なく、帝は常にこれを憂慮し、直臣の王軌・宇文孝伯らがしばしば廃立を請うたが、帝は用いなかった。後二年、帝は崩じ、太子が立ち、斉王及び孝伯らを虐殺し、よって国は滅亡した。

原文後周建德五年,黑龍墜於亳州而死。龍,君之象。黑,周所尚色。墜而死,不祥之甚。時皇太子不才,帝每以為慮,直臣王軌、宇文孝伯等驟請廢立,帝不能用。後二歲,帝崩,太子立,虐殺齊王及孝伯等,因而國亡。

仁寿四年、龍が代州総管府の井中に現れた。その龍は時に鉄の馬や甲士こうしが弓を引き絞って上を射る象に変わった。鉄の馬に変わるとは、馬禍に近い。弓を引き絞って上を射るとは、また射妖に近く、諸侯に兵革の変あり、幽囚に至る兆しである。この時、漢王楊諒は密かに逆乱を謀り、故に兵変をもって戒めたのである。楊諒は悟らず、遂に兵を興して反し、事敗れて庶人に廃され、数年幽囚の後に死んだ。

原文仁壽四年,龍見代州總管府井中。其龍或變為鐵馬甲士彎弓上射之象。變為鐵馬,近馬禍也。彎弓上射,又近射妖,諸侯將有兵革之變,以致幽囚也。是時漢王諒潛謀逆亂,故變兵戒之。諒不悟,遂興兵反,事敗,廢為庶人,幽囚數年而死。

馬禍

原文馬禍

侯景が江南で尊号を僭称せんしょうし、戦いあるごとに、その乗る白馬が、長く嘶き足を踏み鳴らせば勝ち、頭を垂れれば必ず不利であった。西州の役では、馬が臥して起たず、侯景が拝礼して請い、かつ鞭打ったが、ついに動かなかった。これは馬禍に近い。『洪範五行伝』に曰く、「馬は兵の象なり。寇戎の事あらんとすれば、故に馬が怪をなす」と。侯景はこれにより大敗した。

原文侯景僭尊號於江南,每將戰,其所乘白馬,長鳴蹀足者輒勝,垂頭者輒不利。西州之役,馬臥不起,景拜請,且棰之,竟不動。近馬禍也。《洪範五行傳》曰:「馬者兵象。將有寇戎之事,故馬為怪。」景因此大敗。

陳の太建五年、衡州の馬に角が生えた。『洪範五行伝』に曰く、「馬に角生ずるは、兵の象、敗亡の表なり」と。この時、宣帝は呉明徹を遣わして呂梁に出師させ、周の軍と対峙させた。連年兵を交え、衆軍覆没し、明徹はついに周の軍に捕らえられた。

原文陳太建五年,衡州馬生角。《洪範五行傳》曰:「馬生角,兵之象,敗亡之表也。」是時宣帝遣吳明徹出師呂梁,與周師拒。連兵數歲,眾軍覆沒,明徹竟為周師所虜。

天保年中、広宗に馬あり、両耳の間に角が生え、羊の尾のようであった。京房『易伝』に曰く、「天子親しく伐つときは、則ち馬に角生ず」と。四年、契丹が塞を犯し、文宣帝は親しく六軍を御してこれを撃った。

原文天保中,廣宗有馬,兩耳間生角,如羊尾。京房《易傳》曰:「天子親伐,則馬生角。」四年,契丹犯塞,文宣帝親禦六軍以擊之。

大業四年、太原の厩の馬が大半死に、帝は怒り、使者を遣わして審問させた。主務者は言う、「毎夜、厩中の馬が故なく自ら驚き、よって死に至る」と。帝は巫者に視させた。巫者は帝が将に遼東の役を行わんとすることを知り、よって旨に迎合して言う、「先帝が楊素・史万歳に命じてこれを取り、鬼兵を率いて遼東を伐たんとす」と。帝は大いに喜び、よって主務者を釈放した。『洪範五行伝』に曰く、「天気に逆らう、故に馬多く死す」と。この時、帝は毎年巡幸し、北は長城の事に従事し、西は且末に通じ、国内は虚耗し、天戒は言わんとす、厩馬を除き、巡幸する事なかれ、と。帝は悟らず、ついに乱に至った。

原文大業四年,太原廄馬死者太半,帝怒,遣使案問。主者曰:「每夜廄中馬無故自驚,因而致死。」帝令巫者視之。巫者知帝將有遼東之役,因希旨言曰:「先帝令楊素、史萬歲取之,將鬼兵以伐遼東也。」帝大悅,因釋主者。《洪範五行傳》曰:「逆天氣,故馬多死。」是時,帝每歲巡幸,北事長城,西通且末,國內虛耗,天戒若曰,除廄馬,無事巡幸。帝不悟,遂至亂。

十一年、河南・扶風の三郡、ともに馬に角が生え、長さ数寸であった。天保初年の占いと同じである。この時、帝は頻年にわたり親征して高麗を征した。

原文十一年,河南、扶風三郡,並有馬生角,長數寸。與天保初同占。是時,帝頻歲親征高麗。

義寧元年、帝が江都宮におられた時、龍厩の馬が故なくして死に、旬日のうちに、死ぬこと数百匹に至った。大業四年の占いと同じである。

原文義甯元年,帝在江都宮,龍廄馬無故而死,旬日,死至數百匹。與大業四年同占。