隋書

巻二十三志第十八 五行下

『洪範五行伝』に曰く、「視ること明らかならざるは、是れ不知と謂う。其の咎は舒、其の罰は常燠、其の極は疾。時に則ち草妖有り、時に則ち羽蟲の孽有り。故に羊禍有り、故に目疾有り、赤眚赤祥有り。惟れ水は火をそこなう」と。

常燠

後斉の天保八年三月、大いに熱く、人あるいは暍死す。劉向の『五行伝』に曰く、「視ること明らかならざるは、近習を用い、賢者は進まず、不肖は退かず、百職廃壊し、庶事従わず、其の過は政教の舒緩に在り」と。時に帝の狂躁・荒淫度を失うの応なり。

草妖

羽蟲之孽

梁の中大同元年、邵陵王綸南徐州に在り、廳事に坐す。野鳥鳶の如きもの数百有り、屋梁の上に飛び、弾射も中たらず。俄頃にして在る所を失う。京房の『易飛候』に曰く、「野鳥君室に入るは、其の邑虚しく、君他方に亡ぶ」と。後に綸は湘東王に襲われ、竟に奔亡を致し、西魏に殺さる。

侯景梁に在り、将に錫命を受けんとし、備物を庭に陳ぶ。野鳥山鵲の如き有り、嘴赤く、冊書の上に集まり、鵂鶹鳥殿に鳴く。中大同元年と同じ占い。景尋いで敗れ、将に海中に亡入せんとして、羊鶤に殺さる。

陳の後主の時、蔣山に衆鳥有り、翼を鼓して鳴きて曰く「奈何帝」と。京房の『易飛候』に曰く、「鳥門闕に鳴き、人音の如きは、邑将に亡ぼんとす」と。蔣山は、呉の望なり。鳥其上に鳴くは、呉空虚の象。陳亡ぶに及び、建康墟と為る。又陳未だ亡びざる時、一足の鳥殿庭に集まり、嘴を以て地に画きて文を成し、曰く「独足高台に上り、盛草灰に変ず」と。独足は、叔宝独り行い衆無きの応。草を成し灰を成すは、陳の政穢無くして、隋の火徳に焚除せらるるなり。叔宝長安ちょうあんに至り、都水台上に館す、高台の義なり。

後斉の孝昭帝即位の後、雉御座に飛び上る。占いは中大同元年と同じ。又鳥有り後園に止まる、其の色赤く、形鴨に似て九頭有り。其の年帝崩ず。

天統三年九月、万春鳥仙都苑に集まる。京房の『易飛候』に曰く、「常ならざるの鳥、来りて邑中に宿るは、邑に兵有り」と。周の師の鄴に入るの応なり。

武成胡后後主を生む初め、梟有り後帳に升りて鳴く。梟は孝ならざるの鳥、不祥の応なり。後主位を嗣ぎ、胡后の淫乱事彰る、遂に後を北宮に幽す。

武平七年、鸛が太極殿に巣を作り、またへい州の嘉陽殿にも巣を作った。雉が晉陽宮の御座に集まり、これを捕らえた。京房の『易飛候』に曰く、「鳥、故なくして君門及び殿屋の上に巣居するは、邑まさに虚せんとす」と。その年、国は滅びた。

周の大象二年二月、禿鶖が洛陽らくよう宮の太極殿に集まった。その年、帝は崩御し、後宮は常に虚しかった。

開皇の初め、梁の主蕭琮が新たに後を起こしたとき、鵂鳥がその帳の隅に集まった。間もなく、琮は入朝し、長安に留め置かれた。梁国は遂に廃された。

大業の末、京師の宮室の中に、常に鴻雁の類が無数にあり、その間を翔けり集まった。やがて長安は守られなくなった。

十三年十一月、烏鵲が帝の帳幄に巣を作り、追い払っても止まらなかった。帝はまもなくしいしいぎゃくに逢った。

羊禍

開皇十二年六月、繁昌の楊悦が雲中に二つの物を見た。羝羊の如く、黄色く、新生の犬の如く大きく、闘って墜ちた。悦はその一つを獲たが、数十日で所在を失った。羊禍に近い。『洪範五行伝』に曰く、「君明らかならず、火政に逆らうことの致す所なり」と。状、新生の犬の如きは、羔の類なり。雲体掩蔽するは、邪佞の象なり。羊は国姓なり。羔は羊の子なり。皇太子勇、既に儲貳に昇りしも、晉王の陰毀によりて廃黜せらる。二羔闘い、一羔墜つるの応なり。

恭帝義寧二年、麟游太守司馬武、羊羔を献ず。生まれながらにして尾なし。時に議する者、楊氏の子孫後無きの象と為す。是の歳、煬帝は江都に殺され、恭帝は位を遜る。

赤眚赤祥

梁の天監十五年七月、荊州市にて人を殺すも身は僵えず、首は地に墮ち、口を動かし目を張り、血は竹箭の如く、直ちに上ること丈餘、然る後に雨の如く細かに下る。是の歳、荊州大旱す。赤祥に近く、冤気の応なり。

陳の太建十四年三月、御座の幄上に一物を見る。車輪の如く、色正しく赤し。間もなくして帝は患い、故なくして数声大叫して崩ず。

至德三年十二月、赤き物、太極殿前に隕る。初め下る時、鐘皆鳴る。又嘗て白飲を進むるに、忽ち血に変ず。又血有りて殿階に沾き、瀝瀝然として御榻に至る。間もなくして国滅ぶ。

後齊の河清二年、太原に血雨ふる。劉向曰く、「血は陰の精なり、傷害の象、僵屍の類なり」と。明年、周師と突厥、并州に入り、城西に大戦し、伏屍百余里。京房の『易飛候』に曰く、「天血を雨いて衣を染む、国亡び君戮さる」と。亦た後主の亡国の応なり。

四年三月、物有りて殿庭に隕る。色赤く、形数鬥の器の如く、衆星の随う者小鈴の如し。四月、婁太后崩ず。

武平の中、血点地有り、咸陽王斛律明月の宅よりして太廟に至る。大将は社稷の臣なり。後主、讒言を以て之を殺す。天戒は若し曰く、明月を殺せば、則ち宗廟随いて覆らん、と。後主悟らず、国祚竟に絶つ。

『洪範五行伝』に曰く、「聴くこと聡明ならざるは、是れを不謀と謂う。其の咎は急、其の罰は寒、其の極は貧。時に則ち鼓妖有り、魚孽有り、彘禍有り、黒眚黒祥有り、惟れ火水を沴う」と。

東魏の武定四年二月、大いに寒し。人畜凍死する者、道に相望む。京房の『易飛候』に曰く、「誅過深く、あたたかくあるべきに寒し」と。是の時、後斉の神武(高歓)相たり。先に爾朱文暢等神武を謀害せんとし、事泄れて誅せられ、諸に交通する者、多く濫死す。

河清元年、歳大いに寒し。京房の『易伝』に曰く、「徳有るも険に遭う、茲れを逆命と謂う。其の異は寒」と。讖に曰く、「罪無きを殺せば、其の寒必ず異なり」と。是の時、帝(北斉の武成帝)文宣李后に淫し、因りて子を生む。后愧恨し、之を挙げず。帝大いに怒り、后の前に於いて其の子太原王紹徳を殺す。后大いに哭き、帝后をはだかにして撻殺し、水中に投ず。良久にして乃ち蘇る。冤酷の応なり。

梁の天監三年三月、六年三月、並びに霜隕りて草を殺す。京房の『易伝』に曰く、「兵を興して妄りに誅す、法を亡うと謂う。其の罰は霜」と。是の時、大いに卒を発し、鐘離に於いて魏軍を拒ぎ、兵を連ねること数歳。

大同三年六月、朐山に霜隕る。

陳の太建十年八月、霜隕りて稻菽を殺す。是の時、大いに師を興し衆を選び、将吳明徹を遣わし、周の師と呂梁に於いて相拒つ。

鼓妖

梁の天監四年十一月、天清朗、西南に電光有り、雷声二つ有り。『易』に曰く、「雷霆を以て之を鼓す」と。霆は鼓妖に近し。

『洪範五行伝』に曰く、「雷霆は雲に托す、猶ほ君の人に托するが如し。君天下を恤れみざれば、故に兆人怨叛の心有り」と。是の歳、交州刺史李凱兵を挙げて反す。

十九年九月、西北に声有り雷の如く隠隠として、赤気地に下る。是の歳、盗東莞・琅邪二郡守を殺し、朐山を以て魏軍を引く。

中大通六年十二月、西南に声有り雷の如し。其の年、北梁州刺史蘭欽兵を挙げて反す。

陳の太建二年十二月、西北に声有り雷の如し。其の年、湘州刺史華皎兵を挙げて反す。

斉の天保四年四月、西南に声有り雷の如し。是の時、帝(北斉の文宣帝)天下を恤れみず、師旅を興す。

後周の建徳六年正月、西方に声有り雷の如し。未だ幾もせず、吐谷渾辺を寇す。

開皇十四年正月旦、廓州の連雲山に雷の如き声あり。是の時に五羌反叛し、辺鎮を侵擾す。二十年、雲無くして雷す。京房の『易飛候』に曰く、「国将に君を易え、下人の静かならず、小人先ず命ず。国凶にして兵甲有り」と。後数歳、帝崩じ、漢王諒兵を挙げて反し、其の党数十万家を徙す。

大業中、滏陽の石鼓頻りに歳を鳴く。其の後、天下大乱し、兵戎並び起こる。

魚の孽

梁の大同十年三月、帝硃方に幸し、四塹の中に至り、及び玄武湖に至るに、魚皆驤首して上に見え、乗輿を望むが若き者なり。帝宮に入りて没す。『洪範五行伝』に曰く、「魚は陰類なり、下人の象なり。又鱗甲有り、兵の応なり」と。下人将に兵を挙げて宮を囲み、而して乗輿を䁹睨するの象なり。後果たして侯景の乱有り。

斉の後主武平七年、相州の鸕鷀泊に、魚尽く飛び去りて水涸る。『洪範五行伝』に曰く、「急の致す所なり。魚は陰類、下人の象なり」と。晏子曰く、「河伯は水を以て国と為し、魚を以て百姓と為す」と。水涸れ魚飛ぶは、国亡び人散るの象なり。明年にして国亡ぶ。

後周の大象元年六月、陽武に鯉魚空に乗りて闘う。猶お臣下興起し、小人之を縦にして闘わしむるが如し。明年帝崩じ、国政を失う。尉迥兵を起こして相州に在り、高祖兵を遣わして之を撃ち敗る。

開皇十七年、大興城西南四里、袁村有り、仏会を設く。老翁有り、皓首、白裙襦衣、来たりて食して去る。衆識る莫く、追いて之を観るに、二里許り行きて、復見えず。但だ一陂有り、中に白魚有り、長さ丈余、小魚従う者無數。人争いて之を射るに、或いは弓折れ弦断つ。後竟に之に中り、其の腹を剖くに、粳飯を得、始めて此の魚の向の老翁なるを知る。後数日、漕渠暴に溢れ、射人皆溺死す。

大業十二年、淮陽郡人を駆りて子城に入り、羅郎郭を鑿断す。女垣の下に至り、穴有り、其の中に鯉魚を得、長さ七尺余。昔、魏の嘉平四年、魚武庫の屋上に集る。王肅以為く、魚は水に生まるるも、而して屋に亢するは、水の物其の所を失うなり、辺将殆ど甲を棄つるの変有らん、と。後果たして東闕の敗有り。是の時、長白山の賊河南を寇掠し、月余り、賊城下に至る。郡兵之を拒ぐも、反って敗を為され、男女死者万余人。

蟲の妖

梁の大同初、大蝗有り、籬門の松柏葉皆尽きる。『洪範五行伝』に曰く、「介蟲の孽なり」と。魚と同占す。京房の『易飛候』に曰く、「禄を食みて聖化を益さず、天虫を以て視す。虫は人に益無くして万物を食らうなり」と。是の時公卿皆虚淡を以て美と為し、職事に親しまず、益無き物を食らうの応なり。

後斉の天保八年、河北六州、河南十二州蝗有り。畿人皆之を祭る。帝魏尹丞崔叔瓚に問ひて曰く、「何故に虫す」と。叔瓚対へて曰く、「『五行志』に雲ふ、'土功時にあらざれば則ち蝗虫災と為る'と。今外に長城を築き、内に三台を修む、故に災を致すなり」と。帝大いに怒り、其の頰を毆ち、其の髪を擢り、溷中の物を以て其の頭を塗る。役者止まず。九年、山東又蝗有り、十年、幽州大蝗有り。『洪範五行伝』に曰く、「刑罰暴虐、食貪厭まず、師を興し衆を動かし、城を取り邑を修め、而して衆心を失へば、則ち虫災と為る」と。是の時帝刑を用ふるに暴虐にして、労役止まざるの応なり。

後周の建德二年、関中大蝗有り。

開皇十六年、并州蝗有り。時に秦孝王俊百姓を裒刻し、盛んに邸第を修む。後竟に譴を獲て死す。

彘の禍

開皇末、渭南に沙門三人有り、頭陀法を人場圃の上行ふ。夜大豕来たりて其の所に詣り、小豕従ふ者十余、沙門に謂ひて曰く、「阿練、我賢聖道を得んと欲す、然れども猶ほ他一命を負ふ」と。言ひ罷みて去る。賢聖道とは、君上の行ふ所なり。皇太子勇業を嗣ぐべく、君上の道を行ひ、而して囚はれ廃せらるるの象なり。一命とは、煬帝に殺さるるを言ふ。

開皇の末、渭南に人ありて他舎に寄宿し、夜中に二匹の豕が対話するを聞く。その一が曰く、「歳将に尽きんとす、阿耶明日我を殺して歳を供す、何れの処にか之を避けん」と。一匹答えて曰く、「水北の姉家に向かうべし」と。因りて相随いて去る。天将に暁けんとす、主人豕を得ず、宿客の為せるかと意えて之を詰る。宿客状を言う、主人其の言の如くにして豕を得たり。其の後しょく王秀罪を得、帝将に之を殺さんとす、楽平公主毎に匡救し、全うするを得たり。後数年にして帝崩じ、歳尽きの応なり。

黒い眚と黒い祥

梁の承聖三年六月、黒き気龍の如く有りて、殿内に見ゆ。黒祥に近し。黒は周の尚ぶ所の色なり。今殿内に見ゆるは、周師梁に入るの象なり。其の年、周の為に滅ぼされ、帝も亦害に遇う。

陳の太建五年六月、西北に黒雲地に属し、散じて猪の如き者十余あり。《洪範五行伝》に曰く、「当に兵西北より起こる有るべし」と。時に後周の将王軌呂梁に軍す。明年、呉明徹を擒え、軍皆覆没す。

火水を沴す

後斉の河清元年四月、河・済清む。襄楷曰く、「河は諸侯の象なり。濁に応ずるに反って清むは、諸侯将に天子と為るの象なり」と。是より後十余歳、隋天下を有つ。

大業三年、武陽郡に河清み、数里鏡の如く澈す。十二年、龍門又河清む。後二歳、大唐禅を受く。

陳の太建十四年七月、江水赤くして血の如く、建康より西は荊州に至る。禎明の中、江水赤く、方州より東は海に至る。《洪範五行伝》に曰く、「火水を沴すなり。法厳しく刑酷なるは、水性を傷つくるなり。五行節を変じ、陰陽干かれるは、気色繆乱し、皆敗乱の象なり」と。京房《易占》に曰く、「水血と化すは、兵将に起こらんとす」と。是の時後主初めに即位し、刑を用いるに酷暴なるの応なり。其の後隋師の為に滅ぼさる。

禎明二年四月、郢州南浦の水、黒きこと墨の如し。黒水は関中に在り、而るに今淮南の水黒し、荊・揚州の地、関中に陥るの応なり。

後周の大象元年六月、咸陽の池水血に変ず。陳の太建十四年と占を同じくす。是の時、刑罰厳急にして、未だ幾ばくもせず国亡ぶ。

《洪範五行伝》に曰く、「思心容れず、是を不聖と謂う。其の咎は瞀、其の罰は常風、其の極は凶短折。脂夜の妖有り、華孽有り、牛禍有り、心腹の屙有り、黄眚黄祥有り、木金水火土を沴す」と。

常風

梁の天監六年八月戊戌、大風木を折る。京房《易飛候》に曰く、「角日疾風、天下昏る。三月中に出でずんば、兵必ず起こる」と。是の歳魏軍鐘離に入る。

承聖三年十一月癸未、帝南城に武を閲し、北風大いに急にして、普天昏暗なり。《洪範五行伝》に曰く、「人君瞀乱の応なり」と。時に帝既に侯景を平げ、公卿咸く帝を勧めて丹陽に反らんとす、帝従わず、又多く猜忌有り、瞀乱の行有り、故に天変風を以て之に応ず。是の歳西魏の為に滅ぼさる。

陳の天嘉六年七月癸未、大風西南より起こり、霊台の候楼を吹き倒す。《洪範五行伝》以為う、大臣の専恣の咎と。時に太子沖幼にして、安成王頊政を専らにし、帝時に抑損せず。明年崩じ、皇太子位を嗣ぎ、頊遂に之を廃す。

太建十二年(580年)六月壬戌、大風が皋門の中闥を吹き壊した。同年九月、夜また風が起こり、屋根を剥ぎ樹木を抜いた。始興王叔陵の専横恣意の応報である。

至徳年間(583–586年)、大風が朱雀門を吹き倒した。

禎明三年(589年)六月丁巳、大風が西北より起こり、濤水を激して石頭城・秦淮に入った。この時、後主は司馬申を任用し、忠諫の臣を誅戮した。沈客卿・施文慶は邪僻な行いを専ら行い、江総・孔範らは淫縦を崇め長じて、君主の聡明を杜塞した。瞀乱の咎である。

後斉の河清二年(563年)、大風が三十日間続いてやんだ。時に帝は初めて佞臣和士開に政事を委ね、その専恣は日増しに甚だしくなった。天統三年(567年)五月、大風が起こり、昼間暗くなり、屋根を剥ぎ樹木を抜いた。天変が再び現れたが、帝は悟らなかった。翌年、帝は崩じた。後主は詔して内外の表奏は皆まず士開に詣で、その後で聞き徹すべしとした。趙郡王高叡・馮翊王高潤が士開の驕恣を按じ、内職に仍いるべからずと奏したが、反って士開の讒言にあい、高叡は遂に死罪に坐した。士開は宮掖に出入りし、生殺の権を口にし、まもなく琅邪王高儼に誅殺された。

七年(天統七年、571年)三月、大風が西北より起こり、屋根を剥ぎ樹木を抜いた。五日後にやんだ。時に高阿那肱・駱提婆らが専恣した応報である。

開皇二十年(600年)十一月、京都に大風が起こり、屋根を剥ぎ樹木を抜き、秦・隴の地で圧死者千余人を出した。大地が震動し、鼓は皆それに応じた。浄刹寺の鐘が三度鳴り、仏殿の門の鎖が自ら開き、銅像が自ら戸外に出た。鐘鼓が自ら鳴るのは、鼓妖に近い。揚雄は人君が聡明でなく、衆に惑わされ、空名の者が進用されると鼓妖が現れると考える。時に独孤皇后が政事に干渉し、左僕射楊素が人主を傾ける権勢を持った。帝は二人の讒言を聴き、僕射高熲を罷免し、太子楊勇を廃して庶人とし、晋王楊広が虚名によって立てられた。思心が瞀乱し、陰気が盛んな象である。鎖及び銅像は共に金である。金が動き木がそれを震わせるのは、水が金を沴す応報である。《洪範五行伝》に曰く、「衆心を失うこと甚だしいが故に致る所なり」と。高熲・楊勇は罪なくして皆廃黜され、衆心を失ったのである。

仁寿二年(602年)、西河に胡人がおり、騾に乗って道中におり、忽ち旋風に飄われ、車一台と共に千余尺の高さに上がり、乃ち墜落し、皆粉々になった。京房《易伝》に曰く、「衆逆同志し、至徳乃ち潜む、その異は風なり」と。後二歳、漢王楊諒が并州におり、密かに逆乱を謀った。車及び騾騎の象である。空に昇りて墜ちるのは、顛隕の応報である。天戒は若し曰く、妄りに車騎を動かすなかれ、終に当に覆敗すべし、と。しかし楊諒は悟らなかった。高祖が崩ずるに及んで、楊諒は兵を発して反し、州県はこれに応じ、衆は数十万に至った。一ヶ月余りで敗れた。

夜妖

梁の承聖二年(553年)十月丁卯、大風が起こり、昼間暗くなり、天地が昏暗した。夜妖に近い。京房《易飛候》に曰く、「羽日に風、天下昏く、人大いに疾む。然らざれば、多く寇盗あり」と。三年後に西魏に滅ぼされた。

陳の禎明三年(589年)正月朔旦、雲霧が晦冥し、鼻に入ると辛酸を感じた。後主が昏昧であった、夜妖に近い。《洪範五行伝》に曰く、「王中を失い、臣下強盛にして、以て君の明を蔽うときは、則ち雲陰す」と。この時北軍が江に臨み、柳荘・任蛮奴が共に内応の意を進言したが、後主は佞臣孔範の言に惑い、昏暗にして用いることができず、以て覆敗に至った。

東魏の武定四年(546年)冬、大霧が六日間続き、昼夜解けなかった。《洪範五行伝》に曰く、「昼にして晦冥し夜の若きは、陰陽を侵し、臣将に君を侵す象なり」と。翌年、元瑾・劉思逸が大将軍を謀殺しようとした応報である。

周の大象二年(580年)、尉遅迥が相州で敗れた。その党与数万人を遊園に坑った。その処では毎夜鬼の哭く声を聞いた。范洪《五行伝》に曰く、「哭くは死亡の表、夜妖に近し。鬼にして夜哭くは、将に死亡の応有らんとす」と。京房《易飛候》に曰く、「鬼夜に哭く、国将に亡ぶ」と。翌年、周氏の王公は皆殺害され、周室もまた亡んだ。

仁寿年間(601–604年)、仁寿宮及び長城の下で、数度鬼の哭く声を聞いた。まもなく献后及び帝が、相次いで仁寿宮で崩じた。

大業八年(612年)、楊玄感が東都で乱を起こした。尚書樊子蓋がその党与を長夏門外に坑い、前後数万人に及んだ。末年(大業末年)に至り、数度その処で鬼の哭く声、呻吟する声を聞いた。前と同じ占いである。その後、王世充が洛陽で越王楊侗を害した。

華孽

後斉の武平元年、槐の花は咲くも実を結ばず。槐は三公の位なり、華にして実なく、萎れ落つる象なり。明年に至り、録尚書事和士開誅せられ、隴東王胡長仁、太保・琅邪王儼皆害せられ、左丞相段韶薨ず。

陳の後主の時、張貴妃・孔貴嬪あり、並びに国色を有し、妖豔と称せらる。後主之に惑ひ、寵は宮掖に冠たり、毎に侍従に充て、詩酒を以て娯しみとす。一度後庭に入れば、数旬出でず、荒淫侈靡、紀極を知ること莫し。府庫空竭し、頭会箕斂し、天下怨叛し、将士は心を離す。敵は鼓行して進み、死戦の士有ること莫し。女徳の咎なり。敗亡の際に及び、後主は此の姫と俱に井に投じ、隋師は張貴妃を執へて之を戮し、以て江東に謝す。『洪範五行伝』に曰く、「華とは、猶ほ栄華容色の象なり。色を以て国を乱す、故に華孽と謂ふ」と。

斉の後主に寵姫馮小憐あり、慧にして色有り、琵琶を弾く能く、特に歌儛に工なり。後主之に惑ひ、淑妃に拝す。彩女数千を選び、之が羽従と為し、一女の飾り、動ね千金を費やす。帝三堆に禽を従へし時、周師大いに至り、辺吏急を告げ、道に相望む。帝師を班せんと欲すも、小憐意已まず、更に合囲を請ふ。帝之に従ふ。是に由りて遅留し、而して晋州遂に陥つ。後に周師と晋州の下に相遇ふや、小憐に坐して機を失ふこと数度なり、因りて国滅ぶ。斉の士庶、今に至るも之を咎む。

牛禍

梁の武陵王紀、城隍神を祭り、将に牛を烹らんとす。忽ち赤蛇有りて牛の口を繞る。牛禍なり。象類に言之ば、又た龍蛇の孽なり。魯の宣公三年、郊牛の口傷つく。時に以て天享けずと為す。宣公を棄つるなり。『五行伝』に曰く、「君道に逆ひ傷つく、故に龍蛇の孽有り」と。是の時、紀は赴援を名と為すと雖も、実は妄りに自ら尊亢す。思心の咎、神享けず、君道傷つくの応なり。果たして元帝に敗れらる。

後斉の武平二年、并州五足の牛を献ず。牛禍なり。『洪範五行伝』に曰く、「牛事応ずるは、宮室の象なり」と。帝尋ねて大いに卒を発し、仙都苑に於て池を穿ち山を築き、楼殿間を起し、華を窮め麗を極む。功始めて就く而して国亡ぶ。

後周の建徳六年、陽武に獣三有り、状水牛の如し。一は黄、一は赤、一は黒なり。黒なる者と闘ひ久しうして、黄なる者自ら傍より之を触る。黒なる者死し、黄も亦た俱に河に入る。牛禍に近し。黒き者は、周の尚ぶ所の色なり。死する者は、滅亡の象なり。後数載、周果たして滅び而して隋天下を有ち、旗牲は赤を尚び、戎服は黄を以てす。

大業初、恒山に牛有り、四脚の膝上各々一蹄を生ず。其の後、東都を建て、長城を築き、溝洫を開く。

心腹の屙

陳の禎明三年、隋師江に臨む。後主従容として言ひて曰く、「斉兵三たび来り、周師再び来るも、摧敗せざるは無し。彼何を為さんとする者ぞ」と。都官尚書孔范曰く、「長江天塹、古より以て南北を限隔すと為す。今日北軍豈に飛んで渡らんや。臣毎に官卑きを患ふ。彼若し渡り来らば、臣は太尉と為らん」と。後主大いに悦び、因りて妓を奏し酒を縦し、詩を賦して輟まず。心腹の屙なり。存亡の機、之を定むる俄頃、君臣旰食暇あらず。後主已に懼るるを知らず、孔範従ひて之を蕩す。天其の心を奪ふ、曷ぞ能く敗れざらんや。陳国遂に亡び、範も亦た遠く徙す。

斉の文宣帝嘗て東山に宴し、杯を投げて赫怒し、詔を下して西伐し、極めて甲兵の盛を陳ぶ。既にして泣きて群臣に謂ひて曰く、「黑衣は我が制する所に非ず」と。卒に行はず。識者有りて以て帝の精魄已に乱れ、帝祚の永からざるを知る。帝後竟に心疾を得、荒酒色に耽り、性忽ち狂暴に忽せられ、数年にして崩ず。

武成帝、太后の憂に丁し、緋袍故の如し。未だ幾ばくもあらずして、三台に登り、酒を置き楽を作す。侍者白袍を進む。帝大いに怒り、之を台下に投ず。未だ幾ばくもあらずして崩ず。

黄眚黄祥

梁の大同元年、天土を雨ふ。二年、天灰を雨ふ。其の色黄なり。黄祥に近し。京房『易飛候』に曰く、「善を聞くに及ばず、此れを有知と謂ふ。其の異黄、其の咎龍、其の災嗣がず。賢を蔽ひ道を絶つ咎なり」と。時に帝自ら聰明博達と為し、人の己に勝るを悪む。又た篤く佛法を信じ、身を捨てて奴と為る。道を絶ち賢を蔽ふ罰なり。

大寶元年正月、天黄沙を雨ふ。二年、簡文帝、丸土を夢みて之を吞む。尋ねて侯景に為りて廃せられ、土囊を以て之を圧して斃れ、諸子害せらる。嗣がざるの応なり。

陳の後主の時、黄衣の人に城を囲まれる夢を見た。後主はこれを嫌い、城を巡る橘の樹をことごとく伐り払った。隋の高祖が禅譲を受けた後、上下ともに黄衣を通服した。間もなく隋軍が攻め囲んだ応である。

後周の大象二年正月、天より黄土が降り、しばらくしてやんだ。大同元年と同じ占いである。時に帝は昏狂ますます甚だしく、一年にして崩じ、静帝に至り、位を譲るに用いた。道を絶ち嗣がない応である。

開皇二年、京師に土が降った。この時帝は周室の諸侯微弱にして天下を亡ぼしたことを戒め、故に諸子を分封し、みな行台と為し、方面を専制せしめた。土を失う故、土気の祥あり、その後諸王各謀逆乱を為さんとす。京房の『易飛候』に曰く、「天土を降らせば、百姓労苦にして功無し」と。その時都邑を営む。後に仁寿宮を起こし、山を頽し谷を埋め、丁匠死者太半なり。

裸蟲の孽

梁の太清元年、丹陽に莫氏の妻あり、男児を生み、眼は頂上に在り、大きさ二歳児の如し。地に墜ちて言うこと、「児は旱疫鬼なり、住むを得ず」と。母曰く、「汝当に我をして得て過ごさしむべし」と。疫鬼曰く、「上官有り、何ぞ自由を得ん。母急に絳帽を作るべし、故に憂い無かるべし」と。母帽を作る暇なく、絳を以て髪を繫ぐ。ここより旱疫すること二年、揚・徐・兗・豫特に甚だし。莫氏の郷鄰、多く絳を以て免れ、他の土これに效いて験無し。

大宝二年、京口の人于蔵児、年五歳、城の西南角の大樓に登り、鼓を打ちて『長江櫑』を作す。鼓は兵の象なり。この時侯景江南に乱る。

陳の永定三年、人あり長さ三丈、羅浮山に見え、通身潔白、衣服楚麗なり。京房の占いに曰く、「長人見ゆれば、亡ぶ」と。後二歳、帝崩ず。

後主太子たりし時、婦人あり東宮に突入して大いに言うこと、「畢国主」と。後主立ちて祚終わるの応なり。

至徳三年八月、建康の人婢を死なせ、これを埋めて九日にして更に生き返る。牧牛の人あり聞きてこれを出だす。

禎明二年、船下りて、忽ち人の言うを聞くこと、「明年乱る」と。これを視れば、死嬰児を得たり、長さ二尺にして頭無し。明年陳滅ぶ。

斉の天保中、臨漳に婦人あり子を産み、二頭共に体を同じくす。この後政は奸佞より出で、上下別無く、両頭の応なり。

後主の時、桑門あり、貌狂人の若く、烏を見れば則ちこれに向かって礼を為し、沙門を見れば則ちこれを毆辱す。烏は周の色なり。未だ幾ばくもせず、斉は周に吞まれる所となり、仏法を滅除す。

後周の保定三年、人あり子男を産み、陰は背上に在りて尾の如く、両足の指は獣の爪の如し。陰は当に背に生ずべからざるに背に生ずるは、陰陽反覆、君臣顛倒の象なり。人の足は当に爪有るべからざるに爪有るは、将に人を攫むの変を致さんとす。この時、晋蕩公宇文護朝政を専擅し、征伐は自己より出で、陰に篡逆を懐く。天戒は若し曰く、君臣の分已に倒れたり、将に攫ぜいの禍を行わんとすと。帝変を見て悟り、遂に晋公を誅し、万機に親しみ、躬倹約を節し、斉国を克平し、高祖と号す。禍を転じて福と為すの効なり。

武帝の時、強練という者あり、狂を佯い、一つの瓠を持ち、晋蕩公宇文護の門に至りてこれを撃ち破りて曰く、「身は尚お可なり、子苦し」と。時に護は政を専らにし、因って太后に朝すに、帝これを撃ち殺す。兵を発してその諸子を捕え、皆備え楚毒にして死す。強練また市に行きて乞い、人あるいはこれに粟麦を遺わば、輒ち底無き袋を以てこれを受く。因って大笑して曰く、「空を盛る」と。未だ幾ばくもせず、周滅び、高祖都を移し、長安城墟と為る。

開皇六年、霍州に老翁あり、猛獣に化す。

七年、相州に桑門あり、蛇に変じ、尾は樹を繞りて自ら抽き、長さ二丈許り。

仁寿四年、人あり長さ数丈、応門に見え、その跡長さ四尺五寸。その年帝崩ず。

大業元年、雁門の人房回安、母年百歳、額上に角を生じ、長さ二寸。《洪範五行伝》に曰く「婦人は陰象なり。角は兵象なり。下より上に反するの応なり」と。是より後天下果たして大いに乱れ、陰戎帝を雁門に囲む。

四年、雁門宋穀村に婦人あり一つの肉卵を生み、大きさ斗の如し、これを埋む。後数日、埋めし処雲霧尽く合し、地より雷震して上り、これを視るに洞穴、卵の所在を失う。

六年、趙郡李来王家の婢一物を産み、大きさ卵の如し。

六年正月朔旦、盗あり白練の裙襦を衣、手に香花を持ち、自ら弥勒仏の出世と称す。建国門に入り、衛士の仗を奪い、将に乱を為さんとす。斉王暕之に遇い斬る。後三年、楊玄感乱を起こし、兵を引きて洛陽を囲み、戦いに敗れて誅せらる。

八年、澄公なる者あり、狂人の若く、東都に於いて大いに叫び賊を唱う。帝聞きて之を悪む。明年、玄感兵を挙げ、洛陽を囲む。

十二年、澄公また賊を叫ぶ。李密東都に逼り、孟讓豊都市を焼きて去る。

九年、帝高陽に在り。唐県の人宋子賢、幻術を善くす。毎夜、楼上有光明あり、能く仏形に変じ、自ら弥勒の出世と称す。又大鏡を堂上に懸け、紙素の上に蛇と為り獣と為り及び人形を画く。礼謁に来る者あれば、其の鏡を転側し、来生の形像を観ぜしむ。或いは紙上の蛇形に映見すれば、子賢輒ち告げて云く「此れ罪業なり、当に更に礼念すべし」と。又礼謁せしめ、乃ち人形に転じて之を示す。遠近惑い信じ、日数百千人。遂に潜かに乱を謀り、将に無遮仏会を為し、因りて兵を挙げ、乗輿を襲撃せんと欲す。事泄れ、鷹揚郎将兵を以て之を捕う。夜其の所に至り、其の居る所を繞るも、但だ火坑を見るのみ、兵進むを敢えず。郎将曰く「此の地素より坑無し、只妖妄のみ」と。及び進むに及び、復た火無し。遂に之を擒え斬り、並びに其の党与千余家を坐す。其の後復た桑門向海明あり、扶風に於いて自ら弥勒仏の出世と称し、潜かに逆乱を謀る。人に帰心する者あれば、輒ち吉夢を獲たり。由りて人皆之に惑わされ、三輔の士、翕然として大聖と称す。因りて兵を挙げて反し、衆数万に至る。官軍之を撃ち破る。京房《易飛候》に曰く「妖言衆を動かす者は、茲に信ぜざるを謂う。路に行人無し。三年を出でずして、兵起こる」と。是より天下大いに乱れ、路に行人無し。

木金水火土に沴る。

梁の天監五年十一月、京師地震す、木金水火土に沴るなり。《洪範五行伝》に曰く「臣下盛んなり、将に動きて害を為さんとす」と。京房《易飛候》に曰く「地冬十一月に動くは、其の邑饑えて亡ぶ」と。時に交州刺史李凱兵を挙げて反す。明年、霜あり、歳儉しく人饑う。

普通三年正月、建康地震す。是の時、義州刺史文僧朗州を以て叛く。

六年十二月、地震す。京房《易飛候》に曰く「地冬に動きて音有り、十二月を以てするは、其の邑行兵有り」と。是の時、帝豫章王琮に命じて兵を将いて北伐せしむ。

中大通五年正月、建康地震す。京房《易飛候》に曰く「地春を以て動くは、歳昌ならず」と。是歳、大水あり、百姓饑饉す。

大同三年十一月、建康地震す。京房《易飛候》に曰く「地震十一月を以てするは、邑大喪及び饑亡有り」と。明年、霜災を為し、百姓饑う。

三年十月、建康に地震あり。この歳、会稽山の賊起こる。

七年二月、建康に地震あり。この歳、交州の人李賁兵を挙げ、刺史蕭諮を逐う。

九年閏正月、地震あり。李賁自ら皇帝を称し、百官を署置す。

太清三年四月、建康に地再び震う。時に侯景自ら大丞相・録尚書事となり、帝の須ふる所給せず。この月、憂憤して崩ず。

陳の永定二年五月、建康に地震あり。時に王琳、蕭荘を郢州に立てる。

太建四年十一月、地震あり。陳宝応、閩中に反す。

禎明元年正月、地震あり。施文慶・沈客卿の専恣の応なり。

東魏の武定二年十一月、西河に地陥ちて且つ燃ゆ。京房の『易妖占』に曰く、「地自ら陥つは、其の君亡ぶ」と。祖珽曰く、「火は陽の精なり。地は陰の主なり。地燃ゆるは、陰の道を越え、陽の政を行い、臣下擅恣し、終に自ら害するに至る」と。時に後斉の神武宰たり、而して侯景河南に専擅す。後二歳、神武果たして崩じ、景遂に乱を起こし、而して自ら敗亡を取るの応なり。

後斉の河清二年、并州に地震あり。和士開の専恣の応なり。

後周の建徳二年、涼州に地頻りに震う。城郭多く壊れ、地裂けて泉出づ。京房の『易妖占』に曰く、「地分裂すは、羌夷叛く」と。時に吐谷渾頻りに河西を寇す。

開皇十四年五月、京師に地震あり。京房の『易飛候』に曰く、「地動くこと夏五月を以てすは、人流亡す」と。この歳、関中飢え、帝百姓をして関東に就糧せしむ。

仁寿二年四月、岐・雍に地震あり。京房の『易飛候』に曰く、「地動くこと夏四月を以てすは、五穀熟せず、人大いに飢う」と。

三年、梁州の就穀山崩る。『洪範五行伝』に曰く、「崩散落つは、背叛して上に事えざるの類なり」と。梁州は漢の地なり。明年、漢王諒兵を挙げて反す。

大業七年、砥柱山崩れ、河を壅ぎ、逆流すること数十里。劉向の『洪範五行伝』に曰く、「山は君の象なり。水は陰の表、人の類なり。天戒若し曰く、人君威重を擁し、将に崩壊せんとし、百姓其の所を得ず」と。時に帝遼東の師を興し、百姓其の役に堪えず、四海怨叛す。帝悟ること能わず、卒に滅亡に至る。

『洪範五行伝』に曰く、「皇の極まらざるは、是れ建てざると謂う。其の咎は瞀、其の罰は常陰、其の極は弱。時に則ち射妖有り、則ち龍蛇の孽有り、則ち馬禍有り」と。

雲陰

開皇二十年十月、久しく陰りて雨降らず。劉向曰く、「王者中を失い、臣下強盛にして君の明を蔽う、則ち雲陰す」と。是の時に、獨孤后遂に楊素と陰に太子勇を譖り、庶人に廃す。

射妖

東魏武定四年、後斉の神武宰たり、親しく諸軍を率い、西魏を玉壁に攻む。其の年十一月、帝豫せず、師を班す。将士震懼し、皆曰く、「韋孝寬定功弩を以て丞相を射殺す」と。西魏国中に令を下して曰く、「勁弩一発、凶身自ら殞つ」と。神武聞きて之を悪み、其の疾暴に増す、射妖に近し。『洪範五行伝』に曰く、「射は、兵戎禍乱の象、気天に逆らえば則ち禍乱将に起らん」と。神武行くに、殿中將軍曹魏祖諫めて曰く、「王死気を以て生気に逆らい、客と為るは利あらず、主人と為れば則ち可なり」と。帝従わず、軍を頓すること五旬、頻りに戦いて沮衄す。又孤虚の言を聴き、城北に於いて汾水を断ち、土山を起こす。其の処天険千余尺、功竟に就かず、死者七万。気天に逆らうの咎なり。其の年帝崩ず。明年、王思政河南を擾す。

武平、後主并州より鄴に還る、八公嶺に至り、夜左右と歌いて行く。一人忽ち発狂し、意に後主を以て狐媚と為し、草中に伏して弓を彎げて之を射る。数人を傷つけ、幾くんぞ後主に中らんとす。後主執えて之を斬る。其の人自ら覚えず。狐にして能く媚びるは、獣の妖妄なり。時に帝国政を恤れず、専ら内人閹豎と酣歌して楽を為す。或いは襤縷衣を衣、行乞して娯を為す。此れ妖妄の象なり。人又之を射るは、兵戎禍乱の応なり。未だ幾ばくもせずして国滅ぶ。

龍蛇之孽

梁天監二年、北梁州の潭中に龍闘い、霧を濆して数里。龍蛇の孽。『洪範五行伝』に曰く、「龍は、獣の害し難き者なり。天の類、君の象。天気害し、君道傷つけば、則ち龍も亦害す。闘う者は兵革の象なり」と。京房『易飛候』に曰く、「衆心安からず、厥の妖龍闘う」と。是の時に帝初めに即位し、而して陳伯之・劉季連の乱有り、国内危懼す。

普通五年六月、龍曲阿の王陂に於いて闘い、因りて西に行き、建陵城に至る。経る所の処、樹木皆数十丈に折開す。天監二年と占を同じくす。建陵を経て樹木折るるは、国に兵革の禍有り、園陵残毀の象なり。時に帝専ら講論を以て務めと為し、耕戦を崇めず、将軽くして卒惰る。君道既に傷つけば、故に龍孽の応有り。帝殊に悟らず。太清元年に至り、黎州の水中又龍闘う。波浪湧き起こり、雲霧四合し、而して白龍南に走り、黒龍之に随うを見る。其の年、侯景兵を以て来降し、帝之を納れて備え無く、国人皆懼る。俄にして難作し、帝憂いを以て崩ず。

大同十年夏、龍夜雷に因りて延陵人家の井中に墮つ。明旦之を視るに、驢の如く大なり。将に戟を以て之を刺さんとす、俄に庭中及び室中に各々大蛇有るを見る、数百斛船の如く、家人奔走す。『洪範五行伝』に曰く、「龍は、陽類、貴象なり。上は則ち天に在り、下は則ち地に在り、庶人の邑裡室家に見ゆべからず。井中は、幽深の象なり、諸侯且つ幽執の禍有り、皇建てざるの咎なり」と。後侯景反し、果たして簡文を酒庫に幽殺し、宗室王侯皆幽死す。

陳太建十一年正月、龍南兗州の池中に見ゆ。梁大同十年と占を同じくす。未だ幾ばくもせず、後主位を嗣ぎ、驕淫荒怠し、動くこと中を得ず。其の後竟に国を以て亡び、身幽執せらる。

東魏武定元年、大蛇武牢城に見ゆ。是の時に、北豫州刺史高仲密の妻李氏、慧にして豔なり。世子澄之を悦び、仲密内に自ら安からず、遂に武牢を以て叛き、陰に西魏を引き、河陽に於いて大戦す。神武西兵に窘せられ、僅かに獲免し、死者数千。

後斉天保九年、龍長さ七八丈有り、斉州の大堂に見ゆ。大同十年と占を同じくす。時に常山・長広の二王権重く、帝抑損を思わず。明年帝崩じ、太子殷立つを嗣ぐ。常山王演果たして帝を廃して済南王と為し、幽して之を害す。

河清元年、龍済州の浴堂中に見ゆ。天保九年と占を同じくす。先ず是れ平秦王帰彦昭帝の遺詔を受け、太子百年を立てて嗣と為す。而して帰彦遂に長広王湛を立てる、是れ武成帝と為す。而して百年を廃して楽陵王と為し、竟に幽死す。

天統四年、貴郷人枯木を伐り、一の黄龍を得、脚を折り、孔中に死す。斉は木徳を称す。龍は、君の象。木枯れ龍死すは、不祥甚だし。其の年武成崩ず。

武平三年、龍邯鄲の井中に見ゆ。其の気五色天に属す。又汲郡の仏寺涸井中に見ゆ。河清元年と占を同じくす。後主竟に周に降り、後誅せらる。

武平七年、并州の招遠楼の下に、赤蛇と黒蛇が闘い、数日にして赤蛇が死んだ。赤は、斉の尚ぶ色であり、黒は、周の尚ぶ色である。闘って死ぬとは、滅亡の兆しである。後主は邪佞を用い、周の軍と晋州の下で連戦した。軍を孽臣高阿那肱に委ね、ついに敵を開き、皇天の建てざる咎である。後主は遂に周の軍に捕らえられた。

琅邪王高儼が北宮中の白馬浮図を壊した。これは石趙の時代の澄公が建立したものである。白蛇が長さ数丈あり、回旋して所在を失った。時に高儼は専ら誅殺を行い、中正を失う咎である。変異を見て戒めとせず、難に及んだ。

後周の建徳五年、黒龍が亳州に墜ちて死んだ。龍は君主の象徴である。黒は周の尚ぶ色である。墜ちて死ぬとは、不祥の極みである。時に皇太子は才なく、帝は常にこれを憂慮し、直臣の王軌・宇文孝伯らがしばしば廃立を請うたが、帝は用いなかった。後二年、帝は崩じ、太子が立ち、斉王及び孝伯らを虐殺し、よって国は滅亡した。

仁寿四年、龍が代州総管府の井中に現れた。その龍は時に鉄の馬や甲士が弓を引き絞って上を射る象に変わった。鉄の馬に変わるとは、馬禍に近い。弓を引き絞って上を射るとは、また射妖に近く、諸侯に兵革の変あり、幽囚に至る兆しである。この時、漢王楊諒は密かに逆乱を謀り、故に兵変をもって戒めたのである。楊諒は悟らず、遂に兵を興して反し、事敗れて庶人に廃され、数年幽囚の後に死んだ。

馬禍

侯景が江南で尊号を僭称し、戦いあるごとに、その乗る白馬が、長く嘶き足を踏み鳴らせば勝ち、頭を垂れれば必ず不利であった。西州の役では、馬が臥して起たず、侯景が拝礼して請い、かつ鞭打ったが、ついに動かなかった。これは馬禍に近い。『洪範五行伝』に曰く、「馬は兵の象なり。寇戎の事あらんとすれば、故に馬が怪をなす」と。侯景はこれにより大敗した。

陳の太建五年、衡州の馬に角が生えた。『洪範五行伝』に曰く、「馬に角生ずるは、兵の象、敗亡の表なり」と。この時、宣帝は呉明徹を遣わして呂梁に出師させ、周の軍と対峙させた。連年兵を交え、衆軍覆没し、明徹はついに周の軍に捕らえられた。

天保年中、広宗に馬あり、両耳の間に角が生え、羊の尾のようであった。京房『易伝』に曰く、「天子親しく伐つときは、則ち馬に角生ず」と。四年、契丹が塞を犯し、文宣帝は親しく六軍を御してこれを撃った。

大業四年、太原の厩の馬が大半死に、帝は怒り、使者を遣わして審問させた。主務者は言う、「毎夜、厩中の馬が故なく自ら驚き、よって死に至る」と。帝は巫者に視させた。巫者は帝が将に遼東の役を行わんとすることを知り、よって旨に迎合して言う、「先帝が楊素・史万歳に命じてこれを取り、鬼兵を率いて遼東を伐たんとす」と。帝は大いに喜び、よって主務者を釈放した。『洪範五行伝』に曰く、「天気に逆らう、故に馬多く死す」と。この時、帝は毎年巡幸し、北は長城の事に従事し、西は且末に通じ、国内は虚耗し、天戒は言わんとす、厩馬を除き、巡幸する事なかれ、と。帝は悟らず、ついに乱に至った。

十一年、河南・扶風の三郡、ともに馬に角が生え、長さ数寸であった。天保初年の占いと同じである。この時、帝は頻年にわたり親征して高麗を征した。

義寧元年、帝が江都宮におられた時、龍厩の馬が故なくして死に、旬日のうちに、死ぬこと数百匹に至った。大業四年の占いと同じである。