隋書

巻九 志第四 礼儀四

周の大定元年、静帝は兼太傅・上柱国・杞国公の椿、大宗伯・大将軍・金城公の煚を遣わし、皇帝の璽紱と策書を奉じ、隋に禅位させた。司録の虞慶則が白し、東第に壇を設けることを請うた。博士の何妥が議し、受禅して壇に登るのは、天に告げるためであると考える。故に魏が漢の禅を受けた時は、繁昌に壇を設け、行旅にあるため、郊壇は欠けていた。漢の高祖こうそが汜にあり、光武帝が鄗にあった如きは、皆、京邑に築いた壇ではない。晋・宋の揖譲以来、皆都下にあり、南郊に就くことを併せて行い、別に築く義は更にない。また後魏の即位は朱雀観に登り、周帝の初立は路門で朝を受けたが、我より古を作すと雖も、皆礼に非ず。今、府を即ち壇と為すは、恐らく後世の誚りを招かん。議者はこれに従った。

二月甲子、椿らは象輅に乗り、鹵簿を備え、節を持ち、百官を率いて門下に至り、策を奉じて次に入る。百官文武は朝服を着て門の南に立ち、北面する。高祖は遠遊冠を冠り、府僚が陪列する。詔室が入って白し、礼曹が高祖を導き、府僚が従い、大門の東廂より出て西に向かう。椿が策書を奉じ、煚が璽紱を奉じ、次より出て、節が導き進む。高祖はこれに揖し、門に入って左に就く。椿らは門に入って右に就く。百官は随いて庭中に入る。椿は南面し、冊書を読み終え、進みて高祖に授ける。高祖は北面して再拝し、詔を受けることを辞す。上柱国の李穆が進みて朝旨を諭し、また百官と共に勧進するも、高祖は納れず。椿らはまた策書を奉じて進み敦促し、高祖は再拝し、俯して策を受け、高熲に授ける。璽を受け、虞慶則に授ける。退きて東階の位に就く。使者と百官は皆、北面して再拝し、笏を搢し、三たび万歳を称える。有司が法駕を備えることを請うも、高祖は許さず、紗帽・黄袍に改服し、臨光殿に入幸する。閤内にて袞冕を服し、小輿に乗り、西序より出で、元会の儀の如し。礼部尚書は案を以て符命及び祥瑞の牒を承け、東階の下に進む。納言は御前に跪きて以て聞かしむ。内史令は詔を奉じて宣し、大赦し、元を改めて開皇と曰う。この日、有司に命じて冊を奉じ南郊に祀らしむ。

後齊において皇太后を崇めんとすれば、太尉は玉帛を以て圓丘方澤に告げ、幣を以て廟に告ぐ。皇帝は乃ち軒に臨み、太保に命じて節を持たしめ、太尉はこれを副う。九儐を設け、使者に命じて璽綬冊及び節を受けさせ、西上閤に詣らしむ。その日、昭陽殿に文物を具陳し、軒に臨み終わり、使者は位に就き、節及び璽綬を持ちて詔と称す。二侍中は拝して進み、節及び冊璽綬を受け、小黄門に付す。黄門は以て閤に詣る。皇太后は褘衣を服し、昭陽殿に処り、公主及び命婦は殿に陪列し、皆拝す。小黄門は節綬を持ちて入り、女侍中が受け、進めて皇太后に奉る。皇太后は興り、受け、左右に授ける。復た坐し、節を使者に返す。使者は節を受け出づ。

皇后を冊するは、太后の礼の如し。

後齊において皇太子を冊するは、皇帝は軒に臨み、司徒しとを使者と為し、司空しくうはこれを副う。太子は遠遊冠を服し、入りて位に至る。使者入り、冊を奉じて読み終え、皇太子は跪きて使者より冊を受け、中庶子に授ける。また尚書より璽綬を受け、庶子に授ける。稽首して出づ。冊に就くは、則ち使者は節を持ちて東宮に至り、宮臣内外の官は列を定む。皇太子は階の東、西面す。若し幼ければ、太師がこれを抱き、主衣二人が空頂幘の服を奉じて従い、以て冊を受く。明日、章表を東宮の殿庭に拝し、中庶子・中舍人が軺車に乗り、章を奉じて朝堂に詣り謝す。日を択びて崇正殿に斎し、冕を服し、石山安車に乗りて廟を謁す。日を択びて羣臣礼を上し、また日を択びて会す。明日、三品以上牋を以て賀す。

諸王を冊するは、軒に臨む日、上水一刻に、吏部令史は馬に乗り、召版を齎し、王の第に詣る。王は高車に乗り、鹵簿は東掖門に至りて止み、軺車に乗る。既に入り、席に至る。尚書は冊を読み終え、以て王に授け、また章綬を授く。事畢り、軺車に乗り、鹵簿に入り、高車に乗り、閶闔門に詣り、闕に伏して表を謝す。報い終わり、廟を拝し第に還る。第に就くは、則ち鴻臚卿が節を持ち、吏部尚書が冊を授け、侍御史が節を授く。使者は受け出で、軺車に乗り、節を持ち、王の第に詣る。入りて西階に就き、東面す。王入り、東階に立ち、西面す。使者は冊を読み、博士は版を読み、王は俛伏す。興り、進みて冊章綬茅土を受け、俛伏して三たび稽首し、本位に還り、謝することは上儀の如し。州鎮に在りては、則ち使者は節冊を受け、軺車に乗りて州に至り、王の第の如し。

諸王・三公・儀同・尚書令しょうしょれい・五等開国・太妃・妃・公主が恭しく冊を拝するは、軸一枚、長さ二尺、白練を以てこれを衣す。竹簡十二枚を用い、六枚は軸と等しく、六枚は長さ一尺二寸。文は集書より出で、書は皆篆字。哀冊・贈冊もまた同じ。

諸王・五等開国及び郷男が恭しく拝するは、その封国所在の方に因り、社壇の方の土を取り、白茅を以て包み、青箱の中に内す。函は方五寸、青を以て塗飾し、封じてこれを授け、以て社と為す。

隋において軒に臨み三師・諸王・三公を冊命するは、並びに車輅を陳ぶ。余りは則ち然らず。百司は列を定め、内史令は冊を読み終え、冊を受ける者は拝して受け出づ。また次に冊を受ける者を引き、上儀の如し。若し開国を冊するは、郊社令は茅土を奉じ、仗の南に立ち、西面す。毎に冊を受け終わり、茅土を授く。

後齊において皇帝が元服を加うるは、玉帛を以て圓丘方澤に告げ、幣を以て廟に告げ、日を択びて軒に臨む。中厳し、羣官の位定まり、皇帝は空頂介幘を著して出づ。太尉は盥ぎ終わり、升り、空頂幘を脱ぎ、黒介幘を以て奉じて加え終わり、太尉は太保の右に進み、北面して祝を読み終わり、太保が冕を加え、侍中が玄紘を繫ぎ、絳紗袍を脱ぎ、袞服を加う。事畢り、太保が寿を上し、羣官は三たび万歳を称す。皇帝は温室に入り、御坐を移し、会するも寿を上せず。後日、文武の羣官は朝服を着し、礼として酒十二鍾、米十二囊、牛十二頭を上る。また日を択び、親しく圓丘方澤を拝し、廟を謁す。

皇太子が冠するは、太尉は制幣を以て七廟に告げ、日を択びて軒に臨む。有司は崇正殿に帳を供す。中厳し、皇太子は空頂幘に公服を着して出で、東階の南に立ち、西面す。使者入り、西階の南に立ち、東面す。皇太子は詔を受け終わり、室に入り盥櫛し、出で、南面す。使者進み揖し、冠席に詣り、西面して坐す。光禄卿は盥ぎ終わり、太子の前に詣り疏櫛す。使者また盥ぎ、進賢三梁冠を奉じ、太子の前に至り、東面して祝し、空頂幘を脱ぎ、冠を加う。太子興り、室に入り衣を更え、出で、また南面して席に就く。光禄卿は盥櫛す。使者また盥ぎ祝し、三梁冠を脱ぎ、遠遊冠を加う。太子また室に入り衣を更う。席を中楹の西に設け、使者は揖して席に就かしめ、南面す。光禄卿は爵を洗い醴を酌み、使者は席の前に詣り、北面して祝す。太子は拝して醴を受け、即ち席に坐し、これを祭り、これを啐し、爵を奠し、階を降り、本位に復し、西面す。三師・三少及び在位の羣官は拝して事畢る。また日を択びて宮臣と会し、また日を択びて廟を謁す。

隋の皇太子が冠礼を挙行せんとするに当たり、前日、皇帝は大興殿にて斎戒す。皇太子と賓・賛及び従事の官は、正寝にて斎戒す。当日、夜明けに、有司が廟に告げ、各々阼階に筵を設く。皇帝は袞冕を着して入り拝し、即座に就く。賓は皇太子を揖して進ませ、筵に昇り、西に向かって坐す。賛冠者は坐して櫛を用い、纚を設く。賓は手を洗い終わり、進みて緇布冠を加う。賛冠者は進みて頍纓を設く。賓は皇太子を揖して東序に赴かせ、玄衣素裳を着して出づ。賛冠者はまた坐して櫛を用い、賓は進みて遠遊冠を加う。服を改め終わり、賓はまた冕を受く。太子は東序に赴き、服を改めて出づ。賓は皇太子を揖して南面に立たせ、賓は進みて醴を受け、筵前に進み、北面に立ちて祝す。皇太子は拝して觶を受く。賓は位に復し、東面して拝を答う。賛冠者は饌を筵前に奉り、皇太子は祭奠す。礼畢し、筵より降り、進みて御前に当たり東面して拝す。納言が詔を承け、太子の許に至りて戒し終わり、太子は拝す。賛冠者は太子を導き西階より降りる。賓は少し進み、字を授く。賛冠者は皇太子を導き進ませ、庭に立ち、東面す。諸親の拝畢し、賛冠者が拝し、太子は皆拝を答う。賓・賛とともに位に復す。納言が詔を承けて降り、有司に礼を致さしむ。賓・賛はまた拝す。皇帝は降りて阼階に復し、拝し、皇太子以下皆拝す。皇帝は出で、更衣して宮に還る。皇太子は闕に従い至り、因りて入り皇后に謁し、拝して還る。

後斉の皇帝が皇后を納れる礼は、納采・問名・納徵を終え、円丘・方沢及び廟に告ぐこと、元服を加うるが如し。この日、皇帝は軒に臨み、太尉を使者とし、司徒を副えと命ず。節を持ち皇后の行宮に詣で、東向き、璽綬冊を奉じ、以て中常侍に授く。皇后は行殿にて冊を受く。使者出で、公卿以下とともに皆拝す。有司は迎礼を備う。太保・太尉は、詔を受けて行く。主人は公服を着し、門にて迎え拝す。使者入り、賓階より昇り、東面す。主人は阼階より昇り、西面す。礼物は庭に陳ぶ。両楹の間に席を設け、童子が璽書の版を捧げて昇り、主人は跪いて受く。使者を送り、大門の外にて拝す。有司は先んじて昭陽殿の両楹の間に帳を供え、同牢の具と為す。皇后は大厳繍衣を着し、綬・珮を帯び、幜を加う。女長御が引き出し、画輪四望車に昇らしむ。女侍中が璽を負い陪乗す。鹵簿は大駕の如し。皇帝は袞冕を着して出で、御座に昇る。皇后は門に入り、大鹵簿は門外に留まり、小鹵簿は入る。東上閤に到り、歩鄣を施し、車より降り、席道を以て昭陽殿に入る。前に進みて席位に至り、姆が幜を去り、皇后は先に拝し後に起ち、皇帝は後に拝し先に起つ。帝は西階より昇り、同牢の座に詣で、皇后とともに坐す。各々三飯を終え、また各々二爵一卺を酳す。礼の奏畢し、皇后は興ち、南面に立つ。皇帝は太極殿に御し、王公以下拝し、皇帝は興ち、入る。明日、后は展衣を着し、昭陽殿にて表を奉りて謝す。また明日、榛・栗・棗・脩を以て、昭陽殿にて皇太后に謁す。日を択び、群官礼を上る。また日を択び、廟に謁す。皇帝は太尉を使わし、先ず太牢を以て告げ、而して後ち群廟を遍く謁見せしむ。

皇太子が妃を納れる礼は、皇帝が使者を遣わして納采し、有司が礼物を備う。会終わり、使者は詔を受けて行く。主人は大門外にて迎う。礼畢し、聴事にて会す。次に問名・納吉を行い、並びに納采の如し。納徴には、則ち司徒及び尚書令を使者とし、礼物を備えて行く。請期には、則ち太常・宗正卿を使者とし、納采の如し。親迎には、則ち太尉を使者とす。三日目、妃は昭陽殿にて皇帝に朝し、また宣光殿にて皇后に朝す。日を択び、群官礼を上る。他日、妃は還る。また他日、皇太子は閤に拝す。

隋の皇太子が妃を納れる礼は、皇帝が軒に臨み、使者が詔を受けて行く。主人は廟にて待つ。使者は雁を執り、主人は大門の東にて迎え拝す。使者入り、西階より昇り、楹間に立ち、南面す。納采を終え、乃ち問名の儀を行ふ。事畢し、主人は従者に礼を致さんことを請う。礼に幣馬有り。次に日を択びて納吉を行い、納采の如し。また日を択び、玉帛・乗馬を以て納徴す。また日を択びて期を告ぐ。また日を択び、有司に命じて特牲を以て廟に告げ、妃を冊す。皇太子将に親迎せんとす、皇帝は軒に臨み、醮して誡めて曰く「往きて爾が相を迎え、我が宗事を承け、敬を以て帥うことを勗めよ」と。対えて曰く「謹みて詔を奉ず」と。既に命を受け、羽儀を行ふ。主人は廟に几筵を設け、妃は褕翟を着し、東房に立つ。主人は門外にて迎え、西面して拝す。皇太子は拝を答う。主人は皇太子を揖して先に入らしめ、主人は昇り、阼階に立ち、西面す。皇太子は昇り進み、房戸の前に当たり、北面し、跪きて雁を奠め、俛伏し、興ちて拝し、降りて出づ。妃の父は少し進み、西面してこれを戒む。母は西階の上にて、衿を施し帨を結び、及び門内にて、鞶を施してこれを申す。門を出で、妃は輅に昇り、几を以て乗る。姆が幜を加う。皇太子乃ち御し、輪を三周し、御者これに代わる。皇太子は大門を出で、輅に乗り、羽儀して宮に還る。妃は三日目、鶏鳴きて夙に興きて以て朝す。笲を皇帝に奠め、皇帝はこれを撫づ。また笲を皇后に奠め、皇后はこれを撫づ。戸牖の間に席を設け、妃は席の西に立ち、祭奠して出づ。

後斉の娉礼は、一に納采、二に問名、三に納吉、四に納徴、五に請期、六に親迎と曰ふ。皆、羔羊一口、雁一隻、酒・黍・稷・稻米・麪各一斛を用う。皇子・王より以下、九品に至るまで、皆同じ。流外及び庶人は、則ちその半を減ず。納徴には、皇子・王は玄三匹、纁二匹、束帛十匹、大璋一、〈第一品より以下、従三品に至るまで、璧玉を用い、四品より以下は皆無し。〉獣皮二、〈第一品より以下、従五品に至るまで、豹皮二を用い、六品より以下、従九品に至るまで、鹿皮を用う。〉錦綵六十匹、〈一品は錦綵四十匹、二品三十匹、三品二十匹、四品は雑綵十六匹、五品十匹、六品・七品五匹。〉絹二百匹、〈一品一百四十匹、二品一百二十匹、三品一百匹、四品八十匹、五品六十匹、六品・七品五十匹、八品・九品三十匹。〉羔羊一口、羊四口、犢二頭、酒・黍・稷・稻米・麪各十斛。〈一品より三品までは、羊二口を減じ、酒・黍・稷・稻米・麪は各六斛を減ず。四品・五品は犢一頭を減じ、酒・黍・稷・稻米・麪はまた二斛を減ず。六品より以下は犢無く、酒・黍・稷・稻米・麪は各一斛。〉諸王の子は、已に封ぜられたるも未だ封ぜられざるも、礼は皆第一品と同じ。新婚の従車は、皇子は百乗、一品は五十乗、第二・第三品は三十乗、第四・第五品は二十乗、第六・第七品は十乗、八品より庶人に達するまで五乗。各々その秩に依りし飾りに依る。

梁の大同五年、臨城公の婚礼があり、公の夫人は皇太子妃にとって姑姪の関係にあったが、進見の礼式について、議論する者たちはそれぞれ異なる意見を持っていた。詔令が下された。「婚礼の儀礼は、既に二姓の結びつきに相応しいと称えられ、酒食の宴もまた、姻戚関係を失わないものである。もし榛栗や腶脩を捧げ、贄饋の礼が必ず行われ、副筓や編珈を飾り、盛んな装いが整うならば、婦人の謁見の礼だけが、親族関係を理由に欠けるべきではない。近ごろ敬って酏醴を進める礼は、既に婦人の務めの規範として伝えられており、盤を捧げて手を注ぐ礼が、侯服の家では行われない。これによって繁簡の違いがあり、質実と文飾は時代によって異なることが分かる。臨城公の夫人は妃にとって姑姪であるから、礼の省略を止めるのがよろしい。」

後斉では、天子に講義を行う前に、まず孔父廟で経典を定め、執経一人、侍講二人、執読一人、擿句二人、録義六人、奉経二人を置いた。講義の朝、皇帝は通天冠と玄紗袍を着用し、象輅に乗り、学舎に至り、廟堂の上に座した。講義が終わると、便殿に戻り、服を改めて絳紗袍を着用し、象輅に乗り、宮中に還った。講義が全て終わると、一太牢をもって孔父に釈奠の礼を行い、顔回を配祀し、軒懸の楽を列ね、六佾の舞を舞わせた。三献の礼が終わると、皇帝は通天冠と絳紗袍を着用し、阼階を昇り、即座に着座した。宴が終わると、宮中に還った。皇太子が毎に一経を通じた時も、釈奠を行い、石山安車に乗り、三師が車に乗って前を進み、三少が後に従って学舎に至った。

梁の天監八年、皇太子が釈奠を行った。周捨が議して、「釈奠の後に宴会を行うことは、既に大礼であるから、東宮の元会に倣い、太子は絳紗襮を着用し、楽は軒懸を用いることを請う。殿上に昇って座する予定の者は、皆朱衣を着用すべきである。」と述べた。帝はこれに従った。また、有司が「礼に云う、『凡そ人子たる者は、升降に阼階を用いず』と。案ずるに、今の学堂には凡そ三つの階がある。愚考するに、客が降等するならば、主人の階に従うべきである。今、先師が堂上におられるのは、義として尊敬すべきことであるから、太子は阼階を登り、師に従う義を明らかにすべきである。もし釈奠の事が終わり、宴会の時には、もはや先師への敬いはなく、太子が堂に昇るならば、西階から昇るのが宜しく、阼階を用いない義を明らかにすべきである。」と述べた。吏部郎の徐勉が議して、「鄭玄は云う、『命士以上は、父子異宮』と。宮室が既に異なるならば、阼階を用いない礼はない。釈奠及び宴会において、太子が堂に昇るのは、共に東階からであるべきことを請う。もし輿駕が学舎に行幸されるならば、自然と中陛を用いる。また、東宮の元会の儀注を検すると、太子が崇正殿に昇る時、東西の階を区別していない。東宮の典儀に問いただすと、『太子の元会では、西階から昇る』と列記されており、これは相承してきた誤りである。請う、今より東宮の大公事において、太子が崇正殿に昇るのは、皆阼階からとすること。その会に預かる賓客は、旧来通り西階からとする。」と述べた。

大同七年、皇太子がその子である寧国公と臨城公の入学を上表した。当時、議論する者たちは太子と年齢の順序(歯冑)の義があるとして、疑義を唱えた。侍中・尚書令の臣敬容、尚書僕射の臣纘、尚書の臣僧旻、臣之遴、臣筠らは、「曾参や曽点は共に宣尼(孔子)に仕え、顔回や子路は同じく泗水で教えを請い、鄒魯では盛んと称えられ、洙汶では非難されなかった。師の道が既に光輝くならば、一つの敬意を資することは、副君たる立場を損なうことなく、ましてや両公において、不可ということがあろうか?」と述べた。詔が下された。「可とする。」

後斉の制度では、新たに学を立てる時は、必ず先聖先師に釈奠の礼を行い、毎年春秋の二仲月に、常にこの礼を行った。毎月の朔日には、祭酒が博士以下及び国子諸学生以上を率い、太学・四門博士は堂上に昇り、助教以下・太学諸生は階下にて、孔子に拝礼し顔回に揖礼した。日が出て行事が始まっても来ない者は、一負として記録した。雨で服が濡れる時は中止した。学生は十日毎に休暇を与え、皆丙の日にこれを放った。郡学では坊内に孔廟・顔廟を立て、博士以下も、毎月朝拝したという。

隋の制度では、国子寺は毎年、四仲月の上丁の日に、先聖先師に釈奠を行った。年毎に一度、郷飲酒礼を行った。州郡の学では春秋の仲月に釈奠を行った。州郡県も毎年、学において一度郷飲酒礼を行った。学生は皆乙の日に書を試み、丙の日に休暇を与えられた。

梁の元会の礼では、夜明け前、庭燎を設け、文物で庭を満たした。台門が開かれ、禁衛は皆厳重にし、有司は各々その職務に従った。太階の東に白獸樽を置いた。群臣及び諸蕃の客は皆集まり、各々その班に従って拝礼した。侍中が中厳を奏上すると、王公卿尹は各々珪璧を執って入り拝礼した。侍中が外辦を奏上すると、皇帝は袞冕を着用し、乗輿に乗って出御した。侍中が左を扶け、常侍が右を扶け、黄門侍郎一人が曲直華蓋を執って従った。階に至り、輿を降り、舄を納めて座に昇った。有司が御前で珪を奉るための敷物を設けた。王公以下は、阼階に至り、舄と剣を脱ぎ、殿に昇り、席の南で贄としての珪璧を奉り終えると、殿を下り、舄を納め剣を佩き、自らの本位に詣でた。主客が直ちに珪璧を東廂に移した。帝が立ち上がり、入ると、御座を西壁の下に移し、東に向かせた。皇太子王公以下の位を設けた。また中厳を奏上し、皇帝は通天冠を着用し、御座に昇った。王公の上寿の礼が終わると、食事となった。食事が終わると、楽伎が演奏した。太官が御酒を進め、主書が黄甘を賦し、二品以上に及んだ。尚書の騶騎が計吏を導き、郡国各一人が皆跪いて詔を受け、侍中が五条の詔を読み上げた。計吏が毎に応諾し終わるごとに、便宜を陳べることを許し、白獸樽に詣でることを聴し、順次に座に還った。宴楽が終わると、皇帝は乗輿に乗って入った。皇太子が朝する時は、遠遊冠服を着用し、金輅に乗り、鹵簿を行った。会に預かる時は剣を佩き履を履いたまま座に昇った。会が終わると、先に立って退出した。

天監六年に詔して曰く、「近世以来、元日の朝礼が終わると、次に群臣を会する時、西壁の下に移り、東に向かって座している。古義を求めれば、王者が万国を宴するには、唯だ南面すべきであり、どうして更に東面に居るのか?」。ここにおいて御座を南向きとし、西方を上座とした。皇太子以下、北壁に座する者は、皆西側を東に向かせた。尚書令以下、南方に座する者は、皆東側を西に向かせた。旧来の元日は、御座が東向きで、酒壺は東壁の下にあった。御座が既に南向きとなったので、乃ち詔して壺を南蘭の下に置かせた。また詔して、「元日に五等の贄を受け、珪璧は皆量って所司に付す。」。周捨が案じて、「周礼の冢宰は、大朝覲の時、玉幣を賛助する。尚書は、古の冢宰である。近ごろ王者が自ら玉を撫でられないならば、則ち復た冢宰の賛助を須いない。尋ねるに尚書の主客曹郎は、既に冢宰の隷属する職務であり、今、元日の五等の奠玉が既に終わったならば、主客郎に受けさせんことを請う。鄭玄が覲礼に注して云う、『既に受けた後、出でて玉人に外で付す』と。漢の時、少府は珪璧を職掌した。主客に玉を受けさせ、少府の掌るところに付すことを請う。」。帝はこれに従った。また尚書僕射の沈約が議して、「正会の儀注では、御が出御し、乗輿で太極殿前に至り、舄を納めて階を昇る。尋ねるに路寝の設けは、本来人君の居処であり、自ら宮室を敬うことは容れられない。漢代を案ずるに、則ち小車に乗って殿に昇った。請う、今より元正及び大公事において、御は宜しく小輿で太極階に至り、仍って版輿に乗って殿に昇ること。」。詔が下された。「可とする。」

陳の制度では、元会の十日前に、百官は皆儀注を習い、令僕以下は、悉く公服を着てこれを監督した。庭燎を設け、街闕・城上・殿前には皆厳重に兵を配置し、百官は各々部位を設けて朝した。宮人は皆東堂にて、綺疏を隔てて観覧した。宮門には籍が無く、外人でもただ絳衣を着る者も、入って観覧することができた。この日、上事する人が白獸樽を発した。その他も多く梁の礼に依ったという。

後斉の正旦の日、侍中が詔を宣して州郡国使を慰労する。詔牘の長さは一尺三寸、幅は一尺、雌黄で塗装し、上に詔書を三つ書く。計会の日、侍中は儀礼に従って郡国の計吏を慰労し、刺史や太守の安否、及び穀物の価格や麦の苗の善し悪し、民間の疾苦を問う。また五条の詔書を諸州郡国の使人に頒布し、詔牘一枚に書き写す。長さは二尺五寸、幅は一尺三寸、これも雌黄で塗装し、上に詔書を書く。正会の日、儀礼に従って使人に宣示し、帰って刺史や二千石に告げさせる。第一条は、政治は身を正し、人を愛し、残賊を去り、良吏を選び、獄を正しく決し、徭役と賦税を公平にすること。第二条は、人の生は勤勉にあり、勤めれば欠乏せず、田桑を勧奨し率い、煩わしく擾乱させてはならないこと。第三条は、六極に陥った人々は、必ず寛大に養い、生きて自救する道があり、死んで自給する手段があるようにすること。第四条は、長吏が華美で浮つき、客人をもてなして小さな名誉を求め、末を追って本を捨てるのは、政治の忌むところであり、謹んでこれを察すること。第五条は、人々が私情や意気込みで、公務を乱し、内外が混濁し、綱紀が設けられないのは、糾弾すべきこと。正会の日、侍中や黄門が詔を宣して諸郡の上計を慰労する。慰労が終わると紙を与え、土地の適宜を述べさせる。字に脱落や誤りがある者は、席を起こして後ろに立たせる。筆跡が粗末で劣る者は、墨汁一升を飲ませる。文理がでたらめで取るべきところがない者は、容刀と席を奪う。その後、当該の曹の郎中が、その文跡や才辞に取るべきものがある者を考査し、牒に記して吏部に送り、流外三品と同じく選考して叙任する。

元正の大饗では、百官の一品以下、流外九品以上が会に参列する。一品以下、正三品以上、開国公侯伯、散位の公侯及び特命の官、下代の刺史は、皆殿上に昇る。従三品以下、従九品以上及び奉正使人で流官に比する者は、階下にいる。勲品以下は端門外にいる。

隋の制度では、正旦及び冬至に、文物が庭に満ち、皇帝が西房より出御し、御座に就く。皇太子の鹵簿が顕陽門外に至り、入って賀する。再び皇后の御殿に詣で、拝賀し終えて、宮に還る。皇太子の朝賀が終わると、群官と客使が入って位に就き、再拝する。上公一人が西階に詣で、剣を解き、昇って賀する。階を降り、剣を帯び、位に復して拝する。有司が諸州の上表を奏上する。位にいる群官がまた拝して出る。皇帝が東房に入り、有司が行事が終わったことを奏上し、乃ち西房より出る。坐が定まると、群官が入って位に就き、上寿が終わると、上下ともに拝する。皇帝が酒を挙げると、上下が舞蹈し、三たび万歳を称える。皇太子が会に参列する場合は、御座の東南に座を設け、西に向かせる。群臣の上寿が終わると、入り、剣を解いて昇る。会が終わると、先に退出する。

後斉の元日、中宮の朝会では、楽を陳列し、皇后が褘衣を着て乗輿に乗り、昭陽殿より出御する。坐が定まると、内外の命婦が拝し、皇后が立ち上がると、妃や主は皆跪く。皇后が坐ると、妃や主は皆起き、長公主一人が前に進み出て跪き拝賀する。礼が終わると、皇后は室に入り、乃ち幄座を西廂に移す。皇后が褕狄に改服して出る。坐が定まると、公主一人が上寿し終え、坐に就く。御酒食を賜り、爵を賜ることは、皆外朝の会と同じである。

隋の儀礼は後斉の制度と同じであり、さらに皇后が群臣の賀礼を受ける儀礼がある。則ち皇后が御座に着き、内侍が群臣の拝礼を受けて入り、命令を受けて退出し、群臣は拝して罷める。

後斉では皇太子は月に五度朝見する。未明の二刻、小輿に乗って出て、三師のために降車する。承華門に至り、石山安車に乗り換え、三師の軺車が前、三少が後について、雲龍門より入る。皇帝が殿前に出御し、拝席位を設けると、柏閣に至り、齋帥が導き、洗馬、中庶子が従う。殿前の席の南に至り、北面して再拝する。

天保元年、皇太子が監国となり、西林園で冬会を行った。群議は皆東面とした。二年、北城の邸内で冬会を行い、また東面と議した。吏部郎の陸卬が礼に非ざるを疑い、魏収が西面に改めた。邢子才は前に依るべきと議し、曰く。

魏収の議に云う。

子才は終に東面を執り、収は西面を執り、経典を援引し根拠とし、大いに往復して論争した。その後、遂に西面を定案とした。

当時の議論はまた、宮吏の姓が太子の名と同じであることを疑った。子才はまた謂って曰く、「『曲礼』を案ずるに『大夫士の子は、世子と同名にせず』とある。鄭玄の注に云う『もし先に生まれたならば、改めない』と。漢の法では、天子が即位すると、名を天下に布告し、四海の内、避けない者はない。『春秋経』を案ずるに『衛の石悪、晋に出奔す』とあるが、これは衛侯衎の卒する前である。衎が卒すると、その子の悪が始めて立つ。明らかに石悪は長子と同名である。諸侯の長子は一国の内において、皇太子が天子に対して持つ礼と異なることはない。鄭玄が先生は改めないと言うのは、蓋しこの義によるのであろう。衛の石悪、宋の向戌は皆君と同名であるが、春秋はこれを譏らない。皇太子は儲貳の重きあれども、未だ海内に避けられる存在ではない。どうして人の姓を改めさせることができようか。然れども事には消息があり、皆古に同じくすることはできない。宮吏は至って微賎でありながら、犯すところがある。朝夕事に従事するのは、また難しく安からぬことである。宜しく宮を出ることを聴し、尚書が更に他の職に補うべきである。」制して曰く「可なり」。

後周の制度では、正月二日に、皇太子が南面し、軒懸を列ね、宮官が朝賀する。

開皇の初めに至り、皇太子の楊勇は故事に準じて楽を張り朝賀を受け、宮臣及び京官が北面して慶賀を称えた。高祖(文帝)はこれを誚った。この後、儀注を定め、西面して坐り、唯だ宮臣のみが慶賀を称え、台官は再び総集しなかった。煬帝が太子であった時、章服を降格することを奏上し、宮官が臣と称しないことを請うた。詔してこれを許した。

後斉の立春の日、皇帝は通天冠、青介幘、青紗袍を着け、蒼玉を佩び、青帯、青袴、青襪舄を履き、太極殿で朝賀を受ける。尚書令等が坐に着くと、三公郎中が席に詣で、跪いて時令を読み終えると、典御が酒卮に酌み、郎中の前に置く。郎中は拝し、席に還って伏して飲み、礼が成って退出する。立夏、季夏、立秋に令を読む時は、御座を中楹に設け、南向きとする。立冬は立春と同じく、西廂に東向きとする。各々その時の色の服を着け、儀礼は皆春の礼と同じである。

後斉では秀才孝廉を策試する毎に、中書が秀才を策問し、集書が考貢士を策問し、考功郎中が廉良を策問する。皇帝は常服を着け、乗輿に乗って出御し、朝堂の中楹に坐る。秀孝は各々班を分けて草稿で対答する。脱落や誤り、書が粗末、でたらめな者は、席の後ろに起立させ、墨汁を飲ませ、容刀を脱がせる。

後斉の宗室を宴する礼では、皇帝は常服を着け、別殿の西廂に東向きに坐る。七廟の子孫は皆公服を着け、官の無い者は単衣に介幘を着け、神武門に集まる。宗室の尊卑に従い、殿庭に序列する。七十歳の者は二人が扶いて拝し、八十歳の者は扶するだけで拝させない。殿上に昇って位に就くと、皇帝が立ち上がると、宗室は伏す。皇帝が坐ると、乃ち起きて拝し坐る。尊者は南面し、卑者は北面し、皆西を上座とする。八十歳の者は一度坐る。再び至ると、絲竹の楽を進める。三爵が終わると、宗室は席を避け、詔を待って後に位に復する。乃ち無算爵を行う。

正晦(正月晦日)に舟遊びを催すときは、皇帝が乗輿に乗り、鼓吹を奏しながら行殿に至る。御座に昇り、版輿に乗って、王公とともに舟に登り、酒宴を設ける。予め舟遊びに加わらない者は、便幕の中に座す。

仲春の良辰に、養老の礼を陳べる。前日、三老と五更は国子学で斎戒する。皇帝は進賢冠を戴き、玄紗袍を着て、辟雍に至り、総章堂に入る。宮懸を列ねる。王公以下および国老・庶老はそれぞれ定位置に就く。司徒が羽儀と武賁を従えた安車で、三老と五更を国子学に迎える。ともに進賢冠・玄服・黒舄・素帯を着ける。国子生は黒介幘・青袷・単衣を着け、馬に乗って従い来る。皇帝は剣を解き、珽を執り、門内で迎える。三老が門に至り、五更は門から十歩のところで車を降りて入る。皇帝が拝すると、三老と五更は裳の裾を整えて答拝する。皇帝が揖して進めば、三老が前、五更が後となり、右の階から昇り、筵に就く。三老は座し、五更は立つ。皇帝が堂に昇り、北面する。公卿は左の階から昇り、北面する。三公が几杖を授け、卿が履を正し、国老・庶老はそれぞれ席に就く。皇帝が三老を拝すると、群臣も皆拝する。五更は拝さない。やがて座すと、皇帝は西に向かい、恭しく五更を拝する。珍羞と酒食を進め、自ら袒ぎ割き、醤を執って饋り、爵を執って酳う。順次五更にも進める。また国老・庶老のために酒酏を設ける。皇帝が御座に昇ると、三老は五孝六順を論じ、典訓の大綱を説く。皇帝は虚心に請い受け、礼が終わって還る。また都下および外州の人で年七十以上の者には、鳩杖と黄帽を賜う。〈勅があれば即時に給するが、常例とはしない。〉

後周の保定三年、養老の礼を陳べた。太傅・燕国公の于謹を三老とした。有司が礼を整え日を選び、高祖(宇文邕)は太学に行幸してこれを饗した。事は謹伝に見える。