隋の制、諸岳崩れ瀆竭くれば、天子は素服し、正寝を避け、膳を撤すること三日。使いを遣わして崩竭の山川を祭り、牲は太牢を用う。
皇帝が本服大功以上の親及び外祖父母・皇后の父母・諸官の正一品の喪には、皇帝は三日視事せず。皇帝が本服五服内の親及び嬪・百官の正二品以上の喪には、並びに一たび哀を挙ぐ。太陽虧け・国忌の日、皇帝が本服小功緦麻の親・百官の三品以上の喪には、皇帝は皆一日視事せず。
皇太后・皇后は本服五服内の諸親及び嬪の為に、一たび哀を挙ぐ。皇太子は本服五服内の親及び東宮の三師・三少・宮臣の三品以上の為に、一たび哀を挙ぐ。
四年、凶礼を掌る厳植之が儀注を定むるに、亡月閏に遇い、後年中祥に、附くべき月を疑う。帝曰く、「閏は蓋し余分、月節は則ち各おの隷する所有り。若し節前月に属すれば、則ち宜しく前月を以て忌とすべく、節後月に属すれば、則ち宜しく後月を以て忌とすべし。祥閏に逢えば則ち宜しく遠日を取るべし」と。
又四年、安成国より刺して称す、「廟新たに建つ、剋く今日を以て所生の呉太妃の神主を遷立せんと欲す。国王は既に妃喪有り、臣下をして代わりに祭らしめんと欲す」と。明山賓議して以為く、「不可なり。宜しく王妃の服竟るを待ち、親しく盛礼を奉ずべし」と。
五年、貴嬪の母の車氏喪す。議者其の儀を疑う。明山賓以為く、「貴嬪既に母憂に居る、皇太子は貴嬪の別第に出で、一たび哀を挙げ、以て聖情を申べ、庶くは礼に乖かざらん」と。帝これに従う。
又五年、祠部郎の司馬褧牒す、「貴嬪の母の車氏亡し、応に服制有るべし」と。謂うには「宜しく公子の母の為にする麻衣の制に准うべく、既葬にして除く」と。帝これに従う。
六年、葬制を申明し、凡そ墓に石人・石獣・碑を造るべからず、唯だ石柱を作るを聴し、名位を記するのみとす。
十四年、舍人朱異が議して曰く、「礼に、年未だ成人に及ばずとも、既に爵命ある者は、則ち殤と為さず。封陽侯は年は中殤なりと雖も、既に拜封あり、殤服と為すべからず」と。帝これを可とした。ここにおいて諸王、封陽侯に服するは成人の服に依る。
大同六年、皇太子啓して曰く、「謹んで案ずるに、下殤の小功は、婚冠嫁の三嘉の礼を行わず、則ち降服の大功は、理として三嘉あるべからず。今三嘉の礼を行わんとす、窃かに小疑あり」と。帝曰く、「礼に云う、『大功の末は、以て子を冠すべし。父小功の末は、以て子を冠し、子を嫁し、婦を娶るべし。己小功と雖も、既に卒哭すれば、冠し、妻を娶るべし。下殤の小功は則ち不可』と。晋代の蔡謨・謝沈・丁纂・馮懷等は遂に云う、『降服大功は、以て女を嫁すべし』と。宋代の裴松之・何承天はまた云う、『女に大功の服あれば、亦た出嫁すべし』と。范堅・荀伯子等は、復た率意して難を致すと雖も、亦た未だ折る能わず。太始六年、虞龢議を立てて曰く、『大功の末にして、乃ち婦を娶るべし』と。時に博く詢ね、咸く龢の議に同ず。斉の永明十一年、大司馬長子の喪あり、武帝の子女同じく大功に服す。左丞顧杲之議して云う、『大功の末は、直ちに皇女嬪降に疑い無きのみならず、皇子の娉納も、亦た硋に在らざるべし』と。凡そ此の諸議は、皆な公に正文に背き、務めて通を為すのみ。徐爰・王文憲並びに云う、『朞服降して大功と為るは、皆な以て婚嫁すべからず』と。義に於いて乃ち乖かず、而して又其の意を釈せず。天監十年、信安公主まさに出適せんとし、而して臨川長子の大功の惨あり、此の義を具に論じ、粗く已に詳悉せり。太子今又啓して大功の末及び下殤の小功の婚冠嫁の三吉の事を審らかにす。礼の言う所の下殤小功は、本は朞服なり、故に三吉の礼あるべからず。況んや本服は朞にして、降して大功と為るは、理として不可なるべし。人間の行う者は、是れ鄭玄の逆降の義を用うるなり。雑記に云う、『大功の末は、以て子を冠し子を嫁すべし』と。此れは本服大功、子は則ち小功、月を踰えて以後、情に於いて差し軽し、以て冠嫁あるを許す。此れは則ち小功の末、通じて婦を娶るを得。前に云う所の『大功の末は、以て子を冠し子を嫁すべし』は、此れは簡に出だす大功の身、婦を娶るを得ず。後に言う『小功の末は、以て子を冠し子を嫁すべし』は、直ちに子の冠嫁を得るのみならず、亦た婦を娶るを得。故に出没あり。婚礼は、国の大典、宜しく画一あるべし。今宗室及び外戚は、復た輒に干啓あるべからず、礼官は輒に曲議を為すべからず。此れに依りて以て法と為すべし」。
後斉、令を定む。親王・公主・太妃・妃及び従三品已上の喪ある者は、白鼓一面を借り、喪畢みて進輸す。王・郡公主・太妃・儀同三司已上及び令僕は、皆な凶門柏歴を立てるを聴す。三品已上及び五等開国は、方相を通用す。四品已下、庶人に達するまで、魌頭を以てす。旌は則ち一品九旒、二品・三品七旒、四品・五品五旒、六品・七品三旒、八品已下、庶人に達するまで、唯だ旐のみ。其の旐を建つるは、三品已上及び開国子・男は、其の長軫に至り、四品・五品は輪に至り、六品より九品に至るまで、較に至る。勲品より庶人に達するまで、七尺を過ぎず。
開皇初め、高祖典禮を定めんと思す。太常卿牛弘奏して曰く、「聖教陵替し、国章残欠す。漢・晋は法と為し、俗に随い時に因り、未だ国を経め人を庇い、風を弘め化を施すに足らず。且つ礼を制し楽を作すは、事元首に帰す。江南の王儉は、偏隅の一臣、私かに儀注を撰し、多く古法に違う。廬に就くは東階の位に非ず、凶門豈に重を設くるの礼ならんや。両蕭累代、挙国遵行す。後魏及び斉は、風牛本より隔たり、殊に尋究せず、遥かに相師祖す、故に山東の人、浸して俗を成す。西魏已降、師旅弗遑、賓嘉の礼、尽く未だ詳定せず。今休明運を啓き、憲章始めたり。請う前経に拠り、此の俗弊を革せん」と。詔して曰く「可」と。弘因りて学者を徴するを奏し、儀礼百巻を撰す。悉く東斉の儀注を用いて以て準と為し、亦た微かに王儉の礼を採る。修畢みて上る、詔遂に天下に班ち、咸く用いるを遵わしむ。
其の喪紀は、上は王公より、下は庶人に逮ぶまで、令に著して皆な定制と為し、相い差越無し。正一品薨ずれば、則ち鴻臚卿喪事を監護し、司儀令礼制を示す。二品已上は、則ち鴻臚丞監護し、司儀丞礼制を示す。五品已上薨・卒し、及び三品已上に朞親已上の喪あれば、並びに掌儀一人礼制を示す。官人職に在りて喪あれば、朝服を以て斂するを聴し、封ある者は、冕服を以て斂す。未だ官なき者は、白帢単衣。婦人に官品ある者は、亦た其の服を以て斂す。棺内に金銀珠玉を置くことを得ず。諸重は、一品鬲六を懸け、五品已上四、六品已下二。轜車は、三品已上は油幰、朱絲の絡網、襈を施し、両箱に龍を画き、幰竿諸末に六旒蘇を垂る。七品已上は油幰、襈を施し、両箱に雲気を画き、四旒蘇を垂る。八品已下、庶人に達するまで、鼈甲車、幰襈旒蘇画飾無し。紼を執るは、一品五十人、三品已上四十人、四品三十人、並びに布幘布深衣。三品已上は四引・四披・六鐸・六翣。五品已上は二引・二披・四鐸・四翣。九品已上は二鐸・二翣。四品已上は方相を用い、七品已上は魌頭を用う。京師に葬る者は、城を去ること七里外。三品已上は碑を立て、螭首亀趺。趺上高九尺を過ぐることを得ず。七品已上は碣を立て、高四尺。圭首方趺。若し隠淪道素、孝義著聞の者は、爵無くと雖も、奏し、碣を立てるを聴す。
凶服は公門に入らず。朞喪已下解官せざる者は、外曹にて襵縁紗帽。若し重喪起される者は、皁絹下裙帽。若し宮殿に入り及び須らく朝見する者は、冠服百官の例に依る。
斉衰心喪已上は、奪情有ると雖も、並びに喪終るまで弔せず賀せず宴に預からず。朞喪未練、大功未葬は、弔せず賀せず、並びに喪終るまで宴に預からず。小功已下は、仮満れば例に依る。五服の喪に居る者、冊を受け及び職に之くは、儀衞常式に依る、唯だ鼓楽従いて作さず。若し戎事を以てすれば、此の制を用いず。
秦が天下を兼ねて以来、朝覲の礼は遂に廃れた。周が蕭詧を梁王に封じ、隋に至るまで、常に藩国を称し、初めて朝見の儀礼が有った。梁王が周に朝する時は、畿内に入ると、大冢宰が有司に命じて積(供給物)を致させる。その餼(生肉)は五牢、米は九十筥、䤈(酢)と醢(塩漬け)は各三十五甕、酒は十八壺、米と禾は各五十車、薪と蒭は各百車である。到着すると、大司空が九儐を設けて賓館に導く。梁王は束帛と乗馬を備え、九介を設けてこれを持て成す。礼が成ると退出する。翌日、王は朝し、廟で饗宴を受ける。饗宴を致した後、大冢宰はまた公一人に命じ、玄冕を戴き車に乗り、九儐を陳列し、束帛と乗馬を持って、賓客及び賓客の従者に食を致すこと各々差等有り。食を致し終わると、また公一人に命じ、弁服を着て車に乗り、贄(進物)を執り、九儐を設けて賓客を労う。王は九介を設け、門外で迎える。翌日、朝服を着て車に乗り、贄を公に返す。公は皮弁を戴き大門で迎え、贄を授け受け取ることは、並びに堂の中楹で行う。また翌日、王は朝服を着、九介を設け、車に乗り、儀衞を備えて、公に謁見する。事が終わると、公は饗宴を致す。翌日、三孤の一人が、また贄を執って梁王を労う。翌日、王は贄を返す。また翌日、王は三孤に謁見し、三公に謁見する如くである。翌日、卿一人が、また贄を執って王を労う。王が卿に謁見するも、また三孤の如くである。ここに至り三公、三孤、六卿は、又各々賓客に餼を贈り、並びに属官の長を使者とする。牢、米、束帛は三公と同じである。
開皇四年正月、梁主蕭巋が京師に朝し、郊外に駐屯した。詔して広平王楊雄、吏部尚書韋世康に、節を持って迎えさせた。衞尉が駅館に次(仮設の幕舎)を設けた。楊雄らは降りて便幕に就いた。蕭巋は通天冠、絳紗袍、端珽を着け、東階の下に立ち、西面した。文武の官は陪侍し、その国の如くであった。楊雄らは門の右に立ち、東面した。蕭巋は内史令を摂る柳顧言をして門を出て事を請わせた。韋世康は言った、「詔を奉じて梁帝を労わん」。顧言は入って告げた。蕭巋は出て、館門の外で迎え、西面して再拝した。節を持つ者が楊雄を導き蕭巋と共に入り、庭の下に至った。蕭巋は北面して再拝し詔を受け終わった。楊雄らは乃ち出て、館門外の道の右に立ち東に向かった。蕭巋は門外で送り、西面して再拝した。奉見に及んで、高祖は通天冠を戴き、絳紗袍を着け、大興殿に御し、朝儀の如くであった。蕭巋は遠遊冠を戴き、朝服を着けて入り、君臣並びに拝し、礼が終わると退出した。
古より天子が征伐する時は、則ち社に宜(祭り)し、祖に造(祭り)し、上帝に類(祭り)する。還ってもまた犠牲をもって遍く告げる。梁の天監初年、陸璉が軍礼を議定し、その制に遵った。帝は言った、「宜とは征討の宜しきを請うことであり、造とは廟に謀を禀けることであり、類とは天時に奉じて以て伐つことを明らかにするもので、並びに自ら専断せざることを明らかにするのである。幣を陳べて命を承るべし」。陸璉は答えることが出来なかった。嚴植之がまたこれを争い、ここに告げるに牲幣を用い、帰還してもまたこれと同じくした。
後斉では天子が親征する時は纂厳(戒厳)し、則ち通天冠を戴き、文物(儀仗)が庭に充ちる。有司が更衣を奏し、乃ち入り、武弁を戴き、弁の左に貂附蟬を付けて出る。誓い終わると、日を選び法駕を備え、木輅に乗り、以て廟に造る。遷廟の主を齋車に載せ、以て行を俟つ。次に社に宜し、有司が毛血をもって軍鼓に釁(血を塗る)し、帝社の石主を車に載せ、以て行を俟つ。次に日を選び六軍を陳列し、大駕を備え、上帝に類する。次に日を選び后土、神州、岳鎮、海瀆、源川等を祈る。乃ち坎(穴)を掘って盟し、督将が列牲を坎の南にし、北を首とする。有司が坎の前で盟文を読み、牲の耳を切り、血を受ける。皇帝が牲の耳を受け、大将に遍く授け、乃ち坎の中に置く。又、血を歃し、歃し終わると、又これを以て坎に置く。礼が終わると、牲及び盟書を埋める。又、日を卜し、墠(祭壇)に牙旗を建て、太牢をもって祭り、及び過ぐる所の名山大川に、有司をして祭りを致させる。戦場に至らんとする時は、剛日を卜し、玄牲を備え、軍容を列ね、辰地に柴を設け、墠を作って禡祭を行う。大司馬が矢を奠し、有司が毛血を奠し、楽は大護の音を奏する。礼が終わると、牲を徹し、柴を燎く。戦いの前日、皇帝は祖に禱り、司空は社に禱る。戦勝すれば則ち各々太牢をもって報いる。又、太牢をもって祖において命を用いた戦士を賞し、功臣を旌門に引き入れ、即ち神庭において版を授ける。又、社において命を用いざる者を罰し、即ち神庭において戮を行い終わり、旅を振って還る。廟に格(至)り社に詣り終わると、日を選んで飲至の礼を行い、文物が庭に充ちる。有司が簡を執り、年号と月朔を記し、六師が凱旋して廟に格ることを陳べ、飲至して勲を策するの美を述べ、因ってその功を述べ、賞典を替えざるなり。
隋の制では、行幸して過ぐる所の名山大川には、則ち有司が祭りを致す。岳瀆には太牢を、山川には少牢を用いる。親征及び巡狩には、則ち上帝に類し、社に宜し、廟に造り、還っても礼もまたこれと同じくする。軔(車止め)を発せんとする時は、則ち軷祭を行う。その礼は、有司が国門の外で、土を委ねて山の象と為し、埋める坎を設ける。有司が羊を刳き、俎豆を陳べる。駕が将に至らんとする時、幣を委ねて奠し、脯醢を薦め、羊を軷の上に加え、西を首とする。又、酒を奠し羊を解き、並びに饌を坎に埋める。駕が至ると、太僕が両軹及び軓の前を祭り、乃ち飲み、爵を授け、遂に軷の上を轢いて行く。
大業七年、遼東を征するに当たり、煬帝は諸将を遣わし、薊城南の桑乾河の上に、社稷の二壇を築き、方壝を設け、宜社の礼を行わせた。帝は臨朔宮の懷荒殿で斎戒し、予め官及び侍従に告げ、各々その所在で斎戒させた。十二衞士も並びに斎戒した。帝は袞冕を戴き玉輅に乗り、法駕を備えた。礼が終わると、金輅に御し、通天冠を戴き、宮に還った。又、宮の南で上帝に類し、燎壇に柴を積み、高祖の位を東方に設けた。帝は大裘を着て冕を戴き、玉輅に乗り、祭奠の玉帛は、並びに宜社の如くであった。諸軍が胙を受け終わると、帝は位に就き、燎くのを見て、乃ち出た。又、薊城の北に壇を設け、その上で馬祖を祭り、また燎があった。又、その日、有司をして並びに先牧及び馬歩を祭らせ、鐘鼓の楽は無かった。
ここにおいて毎日一軍を遣わして発進せしめ、四十里を距て、営を連ねて漸次に進む。二十四日に続いて発し尽くす。首尾相継ぎ、鼓角相聞こえ、旌旗は九百六十里に亘る。天子の六軍は次いで発し、両部は前後に先んじて置かれ、また八十里に亘る。諸道を通じて合わせて三十軍、一千四十里に亘る。諸軍はおのおの帛を以て帯と為し、長さ一尺五寸、幅二寸、その軍号を題して記とす。御営内の者は、合わせて十二衞・三臺・五省・九寺に分かれ、内外前後左右の六軍に隷属し、またおのおのその軍号を題し、自ら臺省と称することを得ず。王公以下より、兵丁・厮隷に至るまで、悉く帛を以て帯と為し、衣領に綴じ、名づけて「軍記帯」とす。諸軍には並びに幡数百を与え、事有れば、人を行き来せしむる者は、これを執って行く。幡を執らずして本軍を離るる者は、他軍において軍記帯を験し、部兵に非ざるを知れば、則ち所在に於いてこれを斬る。
この年、行幸して望海鎮に至り、禿黎山に壇を為し、黄帝を祀り、禡祭を行ふ。詔して太常少卿韋霽・博士褚亮に命じ、その礼を奏定せしむ。皇帝及び諸の祭に預かる臣・近侍官・諸軍の将は、皆一宿の斎戒を行ふ。有司は帳を供え位を設け、埋坎を為して神坐を西北にし、内壝の外とす。南門外に二旗を建つ。熊席を以て帝軒轅の神坐を壝内に設け、甲冑弓矢を坐の側に置き、槊を坐の後に建つ。皇帝は次を出で門に入り、群官は位を定め、皆再拝して奠す。礼畢われば、還宮す。
隋の制、常に仲春を用い、少牢を以て大沢に於いて馬祖を祭る。諸の祭に預かる官は、皆祭所に於いて一日の斎戒を致し、柴を燎壇に積み、礼畢われば、就いて燎す。仲夏に先牧を祭り、仲秋に馬社を祭り、仲冬に馬歩を祭る。並びに大沢に於いて行い、皆剛日を用ふ。犠牲は少牢を用い、馬祖を祭るが如くし、埋めて燎さず。
開皇二十年、太尉晉王広、突厥を北伐す。四月己未、河上に次す。禡祭して軒轅黄帝を祀り、太牢制幣を以てし、甲兵を陳べ、三献の礼を行ふ。
後齊、将を命じて出征せしむるときは、則ち太卜、太廟に詣で、霊亀を灼き、鼓旗を廟に於いて授く。皇帝は法駕を陳べ、袞冕を服し、廟に至り、太祖に拝す。遍く告げ訖り、降りて中階に就き、上将を引き、鉞を操りて柯を授け、曰く「此より上は天に至るまで、将軍これを制す」と。また斧を操りて柯を授け、曰く「此より下は泉に至るまで、将軍これを制す」と。将軍、斧鉞を受くるや、対えて曰く「国は外より理むべからず、軍は中より制すべからず。臣既に命を受け、鼓旗斧鉞の威有り。願わくは一言之命を臣に仮せんことを」と。帝曰く「苟も社稷に利あらば、将軍これを裁せ」と。将軍は車に就き、斧鉞を載せて出づ。皇帝は轂を推し閫を度り、曰く「此より以外は、将軍これを制す」と。
隋の制、皇太子親戎及び大将の出師するときは、則ち豭肫一頭を以て鼓を釁ぎ、皆社廟に告ぐ。斧鉞を受け訖りては、家に反宿することを得ず。開皇八年、晉王広、将に陳を伐たんとす。内史令李德林、太尉を摂り、太祖廟に告ぐ。礼畢わり、また命じて有司に太社に宜せしむ。
梁・陳の時、宋の元嘉二十五年の宣武場に蒐するに依る。その法、行軍殿を幕府山の南岡に置き、並びに王公百官の幕を設く。狩猟の一日前に、馬騎を遣わして囲みを布かしむ。右領軍将軍は右を督し、左領軍将軍は左を督し、大司馬は諸軍を董正す。狩猟の日、侍中三たび奏す。一奏、一鼓を搥いて厳と為し、三厳訖り、仗を引いて小駕の鹵簿と為す。皇帝は馬に乗り戎服し、従う者は悉く絳衫幘を着し、黄麾にて警蹕し、鼓吹は常の儀の如し。狩猟畢わり、宴会して享労し、多少を比校す。一人を戮して以て乱法を懲らす。会畢わり、還宮す。
後齊、常に季秋に、皇帝は都外にて武を講ず。有司は先んじて野を萊りて場と為し、二軍の進止の節を為す。また別に北場に墠を設け、輿駕を停めて観る。遂に将に命じて士を簡び衆を教え、戦陣の法を為さしむ。凡そ陣を為すには、少なる者は前に在り、長なる者は後に在る。その還るときは、則ち長なる者は前に在り、少なる者は後に在る。長なる者は弓矢を持ち、短なる者は旌旗を持つ。勇なる者は鉦鼓・刀楯を持ち、前行と為し、戦士これに次ぎ、槊者これに次ぎ、弓箭は後行と為す。将帥は先ず士の目を教え、旌旗の指麾の跡を見習わしめ、発起の意を知らしむ。旗臥せば則ち跪く。士の耳を教え、金鼓の動止の節を習わしめ、鼓を声すれば則ち進み、金を鳴らせば則ち止まる。士の心を教え、刑罰の苦しみ、賞賜の利を知らしむ。士の手を教え、五兵を持つ便、戦闘の備えを習わしむ。士の足を教え、跪くこと及び行列の嶮泥の塗を習わしむ。前五日、皆兵を請うて場所に於いて厳にし、方色に依りて旗を建てて和門と為す。都墠の中及び四角に、皆五采の牙旗を建つ。武を講ずるに応ずる者は、各その軍に集まる。戒鼓一通、軍士は皆厳に備ふ。二通、将士は甲を貫く。三通、歩軍は各直陣を為し、以て相俟つ。大将は各軍中に処り、旗鼓の下に立つ。有司は小駕の鹵簿を陳べ、皇帝は武弁を戴き、革輅に乗る。大司馬は介冑を着し乗り、奉引して行殿に入る。百司は陪列す。位定まり、二軍は迭りに客主と為る。先に挙ぐるを客と為し、後に挙ぐるを主と為す。五行相勝の法に従い、陣を以てこれに応ず。
北斉の春蒐の礼においては、有司が大防を規し、獲旗を建て、獲車を表す。蒐の前日、囲みを布くことを命ず。領軍将軍一人、左甄を督し、護軍将軍一人、右甄を督す。大司馬一人、中に居り、諸軍を節制す。天子は小駕を陳べ、通天冠を服し、木輅に乗り、行宮に詣づ。親しく禽を獲らんとすれば、戎服を服し、鈒戟を執る者は皆厳装す。武衞が甄囲を張り、旗鼓相望み、枚を銜えて進む。甄は常に一方を開き、以て三驅を令す。囲み合えば、吏が騎を奔らせて令して曰く、「鳥獣の肉、俎に登らざる者は射ず。皮革歯牙、骨角毛羽、器に登らざる者は射ず」と。甄合すれば、大司馬鼓を鳴らして囲みを促し、衆軍鼓譟して角を鳴らし、期の処に至りて止む。大司馬は北旌門に屯し、二甄の帥は左右の旌門に屯す。天子馬に乗り、南旌門より入り、親しく禽を射る。謁者は獲車を以て禽を収め、載せて還り、獲旗の北に陳ぶ。王公以下は次を以て禽を射り、皆旗下に送る。事畢れば、大司馬鼓を鳴らして囲みを解き、復た屯す。殿中郎中その属を率いて禽を収め、以て獲車を実す。天子行宮に還る。有司に命じ、毎禽三十を択び取らしむ。一に乾豆、二に賓客、三に君の庖を充つ。其の余は即ち囲みの下に於いて量りて将士に𩝝す。礼畢れば、服を改め、鈒者は刃を韜めて還る。夏苗・秋獮・冬狩、礼皆同じ。
河清年間に令を定め、毎年十二月半ばの後、武を講じ、晦に至りて逐除す。二軍の兵馬、右は千秋門に入り、左は萬歳門に入り、並びに永巷の南に下り、昭陽殿の北に至り、二軍交わる。一軍は西上閤よりし、一軍は東上閤よりし、並びに端門の南より、閶闔門前の橋の南に出で、戯射並びに訖り、城南の郭外に送りて罷む。
北斉の三月三日、皇帝は常服にて乗輿し、射所に詣づ。堂に升り即座す。皇太子及び群官坐定し、登歌し、酒を進め爵を行ふ。皇帝便殿に入り、衣を更えて出づ。驊騮令御馬を進め、有司弓矢を進む。帝射訖り、還りて御座に就き、懸侯を射り、又畢りて、群官乃ち五埒を射る。一品は三十二発(一発は馬を調へ、十発は下を射り、十五発は上を射り、三発は麞頭を射り、三発は獣頭を射る)。二品は三十発(一発は馬を調へ、十発は下を射り、三発は麞を射り、三発は帖を射り、三発は獣頭を射る)。三品は二十五発(一発は馬を調へ、五発は下を射り、十発は上を射り、三発は麞を射り、三発は帖を射り、三発は獣頭を射る)。四品は二十発(一発は馬を調へ、五発は下を射り、八発は上を射り、二発は麞を射り、二発は帖を射り、二発は獣頭を射る)。五品は十五発(一発は馬を調へ、四発は下を射り、五発は上を射り、二発は麞を射り、二発は帖を射り、一発は獣頭を射る)。侍官御仗以上は十発(一発は馬を調へ、四発は下を射り、五発は上を射る)。
大射には大将(太尉公これを為す)・射司馬各一人、録事二人を置く。七埒各々に埒将・射正参軍各一人、埒士四人、威儀一人を置き、白馬に乗りて導き、的別参軍一人、懸侯下府参軍一人を置く。又各々に令史・埒士等の員を置き、以て其の事を司らしむ。
北周は仲春に振旅を教へ、大司馬は大麾を萊田の所に建つ。郷稍の官は、旂物・鼓・鐸・鉦・鐃を以て、各其の人を帥ひて致す。其の後至する者を誅す。麾を後表の中に建て、以て衆庶を集む。質明に麾を偃し、其の及ばざる者を誅す。乃ち徒騎を陳べ、戦の陣の如くす。大司馬北面して之に誓ふ。軍中皆鼓角を聴き、以て進止の節と為す。田の日、萊する所の北に於いて、旗を建てて和門と為す。諸将帥徒騎序を以て其の門に入る。有司門に居り、以て其の人を平らぐ。入りて既に其の地を分つ。険野なれば則ち徒前にして騎後とし、易野なれば則ち騎前にして徒後とす。陣し既に、皆坐し、乃ち驅逆騎を設け、有司は狢を陣前に表す。太牢を以て黄帝軒轅氏を祭り、狩地に於いて墠を為し、二旗を建て、五兵を坐側に列べ、三献の礼を行ふ。遂に田を蒐して禽を致し、以て社を祭る。仲夏に茇舍を教へ、振旅の陣の如くし、遂に苗田を以て蒐法の如くし、禽を致して以て礿を享く。仲秋に練兵を教へ、振旅の陣の如くし、遂に獮田を以て蒐法の如くし、禽を致して以て方を祀る。仲冬に大閲を教へ、振旅の陣の如くし、遂に狩田を以て蒐法の如くし、禽を致して以て烝を享く。
孟秋に太白を迎ふ。太白の夕に西方に見ゆるを候ふ。見る先三日、大司馬は期を戒し、遂に旗を陽武門外に建つ。司空は壇兆を除き、有司は毛血を薦め、登歌して昭夏を奏す。位に在る者拝し、事畢りて出づ。其の日中後の十刻、六軍の士馬、俱に介冑し旗下に集ふ。左右武伯は十二帥を督して街を厳にし、侍臣文武、俱に介冑して奉迎す。楽師は黄鍾を撞き、右の五鍾皆応ず。皇帝は介冑し、警蹕を以て出づ。常の儀の如くして鼓角無く、国門を出でて軷祭す。至れば則ち次に舎す。太白未だ見えざること五刻、中外皆厳にし、皇帝位に就き、六軍鼓譟し、三献の礼を行ふ。毎献、鼓譟すること初献の如し。事訖り、燔燎して胙を賜ひ、畢りて、鼓譟して還る。
囲を布く。囲の南面に闕を設け、方行して前進す。帝は紫の袴褶・黒の介幘を服し、闟猪車に乗る。其の飾りは木輅の如く、重輞漫輪、虯龍轂を繞り、漢の東京鹵簿に所謂る獵車なり。六頭の黒駵を駕す。太常は鼓・笳・鐃・簫・角を帝の左右に陳べ、各々百二十。百官は戎服を着て騎従し、鼓行して囲に入る。諸将も亦た鼓行して囲に赴く。乃ち驅逆騎一千二百を設く。闟猪車を停め軔を下ろすと、有司は大綏を斂め、王公以下は皆、弓矢を整え、駕前に陳ぶ。有司また小綏を斂む。乃ち獣を駆り出だし、帝の前を過らしむ。初めて駆り過ぐる時、有司は御弓矢を整えて前に進み、詔を待つ。再び駆り過ぐる時、備身將軍が弓矢を奉じて進む。三たび駆り過ぐる時、帝乃ち禽に従い、鼓吹皆振い、左より之を射る。毎に駆るるごとに必ず三獣以上とす。帝発つ時は、大綏を抗ぐ。次いで王公発つ時は、則ち小綏を抗ぐ。次いで諸将発射する時は、鼓無く、驅逆の騎は乃ち止む。然る後に三軍・四夷・百姓皆狩りす。凡そ獣を射るに、左の膘より之を射て、右の腢に達するを上等とす。右の耳の本に達するを次等とす。左の髀より右の䯚に達するを下等とす。群獣相従うものは、尽く殺すことを得ず。已に傷つけし獣は、重ねて射ることを得ず。又、人に逆向う者は、其の面を射ず。表を出づる者は之を逐わず。佃将止まんとする時、虞部は囲内に旗を建つ。従駕の鼓及び諸軍の鼓俱に振い、卒徒皆譟く。諸、禽を獲たる者は、旗所に献じ、其の左耳を致す。大獣は公とし、以て宗廟に供え、帰りて京師に腊を薦めしむ。小獣は私とす。
隋の制度では、季春の晦に儺を行い、牲を宮門及び城の四門に磔き、以て陰気を禳う。秋分の前一日に、陽気を禳う。季冬の傍磔・大儺も亦た之の如し。其の牲は、毎門各々羝羊及び雄鷄一を用う。侲子を選ぶことは、後齊の如し。冬は八隊、二時の儺は則ち四隊とす。問事十二人、赤幘褠衣、皮鞭を執る。工人二十二人。其の一人は方相氏、黄金四目、熊皮を蒙り、玄衣朱裳。其の一人は唱師と為り、皮衣を著し、棒を執る。鼓・角各十。有司は予め雄鷄・羝羊及び酒を備え、宮門に坎を為る。未明に、鼓譟して入る。方相氏は戈を執り楯を揚げ、周呼鼓譟して出で、合い趣きて顯陽門に至り、分かれて諸城門に詣る。将に出づるに当たり、諸祝師執事は、予め牲の胸を副え、之を門に磔き、酒を酌み禳祝す。牲を挙げ酒に併せて之を埋む。
後齊の制度では、日蝕の時は、太極殿の西廂を東向きに、東堂の東廂を西向きにし、各々御座を設く。群官は公服を着す。晝漏上水一刻に、内外皆厳す。三門の者は中門を閉じ、単門の者は之を掩う。蝕の前三刻に、皇帝は通天冠を服し、即ち御座に就き、直衞は常の如く、事を省みず。変有れば、鼓音を聞き、則ち正殿を避け、東堂に就き、白袷単衣を服す。侍臣は皆赤幘を着け、剣を帯び、殿に升り侍す。諸司は各々其の所に於いて、赤幘を着け、剣を持ち、戸を出でて日に向かい立つ。有司は各々官属を率い、併せて宮内諸門・掖門を行き、太社を屯衞す。鄴令は官属を以て社を囲み、四門を守り、朱絲の繩を以て社壇を繞り繫ぐこと三匝す。太祝令は辞を陳べて社を責む。太史令二人は、走馬して露版を尚書に上り、門司疾く之を上る。又、清都尹に告げて鼓を鳴らしめ、厳鼓の法の如くす。日光復すれば、乃ち止め、解厳を奏す。
後魏は毎に攻戦して剋捷すれば、天下に知らしめんと欲し、乃ち帛に書し、竿上に建て、名づけて露布と為す。其の後相因りて施行す。開皇年中、乃ち詔して太常卿牛弘・太子庶子裴政に宣露布の礼を撰せしむ。九年に及び陳を平げし時、元帥晉王は、駅伝を以て露布を上る。兵部奏し、請う新礼に依り宣行せんことを。詔を承り百官・四方の客使等を集め、併せて廣陽門外に赴き、朝衣を服し、各々其の列に依る。内史令は詔有りと称し、在位の者皆拝す。宣り訖り、拝し、蹈舞すること三たびし、又拝す。郡縣も亦た同じ。