六年、淮南道行臺尚書令に転じた。その年、雍州牧・内史令に徴されて拝された。八年の冬、大いに軍を挙げて陳を伐ち、上を行軍元帥とした。陳が平定されると、陳の湘州刺史施文慶・散騎常侍沈客卿・市令陽慧朗・刑法監徐析・尚書都令史暨慧を捕らえ、その邪佞で民に害あることを以て、右闕の下で斬り、三呉に謝した。ここに府庫を封じ、資財を取る所なく、天下は賢と称した。太尉に進み、輅車・乗馬、袞冕の服、玄珪・白璧各一つを賜った。再び并州總管に拝された。まもなく江南で高智慧らが相集まって乱を起こしたので、上を揚州總管に移し、江都を鎮めさせ、毎年一度朝見することとした。高祖が泰山を祠る時には、武候大將軍を領した。明年、藩に帰った。後数年を経て、突厥が辺境を侵したので、再び行軍元帥となり、霊武より出撃したが、敵なくして還った。
太子の勇が廃されると、上を皇太子に立てた。この月、冊を受けることとなった。高祖は言った、「我は大興公をもって帝業を成した」。上に命じて大興県に出て舍させた。その夜、烈風大雪、地震山崩があり、民家多く壊れ、圧死者百余口を出した。
仁壽初年、詔を奉じて東南を巡撫した。この後、高祖が仁壽宮に避暑する度に、常に上に国を監させた。
四年七月、高祖崩御し、上は仁壽宮において皇帝の位に即いた。八月、梓宮を奉じて京師に還った。并州總管漢王諒が兵を挙げて反したので、詔して尚書左僕射楊素に討伐平定させた。九月乙巳、備身將軍崔彭を左領軍大將軍とした。十一月乙未、洛陽に行幸した。丙申、丁男数十万を発して塹を掘らせ、龍門より東は長平・汲郡に接し、臨清関に至り、河を渡り、浚儀・襄城を経て上洛に達し、以て関防を置いた。癸丑、詔して曰く、
十二月乙丑、右武衞將軍來護兒を右驍衞大將軍とした。戊辰、柱國李景を右武衞大將軍とした。右衞率周羅睺を右武候大將軍とした。
己酉、呉州總管宇文㢸を刑部尚書とした。
二月己卯、尚書左僕射楊素を尚書令とした。
三月丁未、詔して尚書令楊素・納言楊達・将作大匠宇文愷に東京を営建させ、豫州の城下の住民を移してこれを充実させた。戊申、詔して曰く、「輿頌を聴き採り、謀りを庶民に及ぼすゆえに、政刑の得失を審らかにすることができる。これにより、昧旦に治を思い、幽枉を必ず達せしめ、彝倫に章あらしめんと欲することを知る。ところが牧宰は朝の委任に任じながら、苟も考課を求めて徼幸をなし、虚しく殿最を立てて、治の実を存せず、綱紀ここに理められず、冤屈これにより申さるる莫し。関河重く阻み、自ら達する由なし。朕故に東京を建立し、躬自ら存問す。今将に淮海を巡歴し、風俗を観省し、讜言を眷求せんとすれども、徒らに詞翰を繁くして、郷校の内には、闕けて爾くして聞こゆること無し。恇然として夕に惕み、用いて興寝を忘る。その民下に、州県の官人の政治が苛刻にして、百姓を侵害し、公に背き私に徇い、民に便ならざるを知る者は、宜しく朝堂に詣でて封奏するを聴くべし。庶幾くば四聰以て達し、天下に冤無からんことを」。また皁澗に於いて顯仁宮を営み、海内の奇禽異獣草木の類を採り、以て園苑を充実させた。天下の富商大賈数万家を東京に移した。辛亥、河南諸郡の男女百余万を発し、通済渠を開通させ、西苑より穀水・洛水を引いて河に達せしめ、板渚より河を引いて淮に通ぜしめた。庚申、黄門侍郎王弘・上儀同於士澄を江南に遣わして木材を採らせ、龍舟・鳳艒・黄龍・赤艦・樓船等数万艘を造らせた。
夏四月癸亥、大將軍劉方が林邑を撃ち、これを破った。
五月庚戌、民部尚書義豊侯韋沖が卒した。
六月甲子、熒惑星が太微垣に入る。
秋七月丁酉、戦死した家には十年の租税免除を給する制を定む。丙午、滕王綸及び衞王集はともに爵位を奪われ辺境に流される。
閏七月甲子、尚書令楊素を以て太子太師と為し、安德王雄を以て太子太傅と為し、河間王弘を以て太子太保と為す。丙子、詔して曰く。
八月壬寅、帝は龍舟に御し、江都に行幸す。左武衞大將軍郭衍を以て前軍と為し、右武衞大將軍李景を以て後軍と為す。文武の官五品以上には樓船を給し、九品以上には黄蔑を給す。舳艫相接すること二百餘里。
二月丙戌、詔して尚書令楊素・吏部尚書牛弘・大將軍宇文愷・内史侍郎虞世基・禮部侍郎許善心に輿服を制定せしむ。始めて輦路及び五時の副車を備う。帝の常服は皮弁十有二琪、文官の弁服は佩玉す。五品以上には犢車・通幰を給し、三公親王には油絡を加う。武官は平巾幘・袴褶を着し、三品以上には瓟槊を給す。下は胥吏に至るまで、服色皆差有り。庶人は戎服を着することを得ず。戊戌、都尉官を置く。
三月庚午、車駕江都を発つ。是に先立ち、太府少卿何稠・太府丞雲定興は儀仗を盛んに修め、ここに於て州縣に課して羽毛を送らしむ。百姓はこれを求捕し、網羅は水陸に被わり、氅毦の用に堪うる禽獸は殆ど遺類無し。是に至りて成る。
夏四月庚戌、帝は伊闕より、法駕を陳べ、千乗萬騎を備え、東京に入る。辛亥、帝は端門に御し、大赦し、天下の今年の租税を免ず。癸丑、冀州刺史楊文思を以て民部尚書と為す。
五月甲寅、金紫光禄大夫・兵部尚書李通は事に坐して免ぜらる。乙卯、詔して曰く、「先哲を旌表し、饗祀を存するは、賢能を優礼し、遺愛を顕彰する所以なり。朕は永く前修を鑒み、尚ほ名徳を想う。何ぞ嘗て九原に歎きを興さず、千載に懐いを属さざらんや。其れ自古より以来の賢人君子に、能く声を樹て徳を立て、世を佐け時を匡うる者、博く利し殊功有り、人に益する者有らば、並びに宜しく祠宇を営立し、時に以て祭を致すべし。墳壟の処は侵踐することを得ず。有司は量りて條式を為し、朕が意に称えよ」。
六月壬子、尚書令・太子太師楊素を以て司徒と為す。豫章王暕を進めて齊王と封ず。
秋七月癸丑、衞尉卿衞玄を以て工部尚書と為す。庚申、百官は考を計りて級を増すことを得ざる制を定む。必ず德行功能有り、灼然として顕著なる者を擢ぐ。壬戌、藩邸の旧臣鮮于羅等二十七人の官爵を擢ぐこと差有り。甲戌、皇太子昭薨ず。乙亥、上柱國・司徒・楚國公楊素薨ず。
八月辛卯、皇孫倓を封じて燕王と為し、侗を封じて越王と為し、侑を封じて代王と為す。
九月乙丑、秦孝王俊の子浩を立てて秦王と為す。
冬十月戊子、靈州刺史段文振を以て兵部尚書と為す。甲午、崔善爲、申國公の祠堂を造る。
十二月庚寅の日、詔を下して曰く、「前代の帝王は、時に因りて創業し、君民をして国を建て、礼は南面を尊ぶ。而して歴運推移し、年世永久にして、丘壟は残毀し、樵牧相趨き、塋兆は堙蕪し、封樹は弁ふる莫し。言を興して淪滅を論ずれば、懐に愴然たるもの有り。古より已来の帝王の陵墓には、随近の十戸を給し、其の雑役を蠲免して、以て守視を供せしむべし」。
二月己丑の日、彗星奎に見え、文昌を掃し、大陵・五車・北河を歴て、太微に入り、帝坐を掃す。前後百余日にして止む。
三月辛亥の日、車駕京師に還る。壬子の日、大将軍姚辯を左屯衛将軍と為す。癸丑の日、羽騎尉朱寬を遣わして流求国に使わす。乙卯の日、河間王弘薨ず。
丙申の日、車駕北に巡狩す。丁酉の日、刑部尚書宇文㢸を礼部尚書と為す。戊戌の日、勅して百司に禾稼を践暴することを得ざらしむ。其れ路を開くを須ふる有るものは、有司地の収むる所を計り、即ち近倉を以て酬賜し、務めて優厚に従へ。己亥の日、赤岸沢に次す。太牢を以て故太師李穆の墓を祭る。
五月丁巳の日、突厥の啓民可汗、子の拓特勤を遣わして来朝す。戊午の日、河北十余郡の丁男を発して太行山を鑿ち、并州に達し、以て馳道を通ず。丙寅の日、啓民可汗、其の兄の子の毗黎伽特勤を遣わして来朝す。辛未の日、啓民可汗、使を遣わして自ら塞に入り、輿駕を奉迎せんことを請ふ。上許さず。癸酉の日、星、文昌上将に孛し、星皆動揺す。
六月辛巳の日、連谷にて狩す。丁亥の日、詔して曰く、
戊子の日、榆林郡に次す。丁酉の日、啓民可汗来朝す。己亥の日、吐谷渾・高昌並びに使を遣わして方物を貢ぐ。甲辰の日、上北楼に御し、河にて漁を観、以て百僚を宴す。
秋七月辛亥の日、啓民可汗上表して変服し、冠帯を襲はんことを請ふ。詔して啓民の賛拝は名を称せず、位は諸侯王の上に在らしむ。甲寅の日、上郡城東に於て大帳に御し、其の下に儀衛を備え、旌旗を建て、啓民及び其の部落三千五百人を宴し、百戯の楽を奏す。啓民及び其の部落に賜ふこと各差有り。丙子の日、光禄大夫賀若弼・礼部尚書宇文㢸・太常卿高熲を殺す。尚書左僕射蘇威は事に坐して免ぜらる。丁男百余万を発して長城を築き、西は榆林に距り、東は紫河に至る。一句にして罷み、死者十五六。
八月壬午の日、車駕榆林を発つ。乙酉の日、啓民、廬を飾り道を清めて、以て乗輿を候ふ。帝其の帳に幸す。啓民、觴を奉じて寿を上ぐ。宴賜極めて厚し。上高麗の使者に謂ひて曰く、「帰りて爾が王に語れ、当に早く来朝見すべし。然らざれば、吾と啓民と彼の土を巡らん」。皇后も亦た義城公主の帳に幸す。己丑の日、啓民可汗蕃に帰る。癸巳の日、楼煩関に入る。壬寅の日、太原に次す。詔して晋陽宮を営ましむ。九月己未の日、済源に次す。御史大夫張衡の宅に幸し、宴享極めて歓し。己巳の日、東都に至る。壬申の日、斉王暕を河南尹・開府儀同三司と為す。癸酉の日、民部尚書楊文思を納言と為す。
四年春正月乙巳の日、詔して河北諸郡の男女百余万を発して永済渠を開かしめ、沁水を引いて南は河に達し、北は涿郡に通ぜしむ。庚戌の日、百僚允武殿に於て大射す。丁卯の日、城内の居民に米各十石を賜ふ。壬申の日、太府卿元寿を内史令と為し、鴻臚卿楊玄感を礼部尚書と為す。癸酉の日、工部尚書衛玄を右候衛大将軍と為し、大理卿長孫熾を民部尚書と為す。
二月己卯の日、司朝謁者崔毅を遣わして突厥の処羅に使わし、汗血馬を致さしむ。
三月辛酉の日、将作大匠宇文愷を工部尚書と為す。壬戌の日、百済・倭・赤土・迦羅舍国並びに使を遣わして方物を貢ぐ。乙丑の日、車駕五原に幸し、因りて塞を出で長城を巡る。丙寅の日、屯田主事常駿を遣わして赤土に使わし、羅刹を致さしむ。
夏四月丙午の日、離石の汾源・臨泉、雁門の秀容を以て楼煩郡と為す。汾陽宮を起す。癸丑の日、河内太守張定和を左屯衛大将軍と為す。乙卯の日、詔して曰く、「突厥の意利珍豆啓民可汗、部落を率ひ、関塞に保附し、朝化を遵奉し、戎俗を改めんと思ひ、頻りに入り謁覲し、屡に陳請有り。氈牆毳幕を以てするは、事窮まりて荒陋なり。上棟下宇、願くは比屋に同じくせんとす。誠心懇切、朕の重んずる所なり。宜しく万寿戍に城を置き屋を造り、其の帷帳牀褥已上は、事に随ひ量りて給し、務めて優厚に従ひ、朕が意に称へしむべし」。
五月壬申、蜀郡にて三足烏を獲、張掖にて玄狐を獲、各一。
秋七月辛巳、丁男二十余万を発して長城を築かしむ、榆谷より東に至る。乙未、左翊衛大将軍宇文述、吐谷渾を曼頭・赤水にて破る。
八月辛酉、親しく恒岳を祠り、河北道の郡守畢集す。天下に大赦す。車駕の経る郡県は、一年の租調を免ず。
九月辛未、天下の鷹師を徴し悉く東京に集む、至る者万余人。戊寅、彗星五車より出で、文昌を掃い、房に至りて滅す。辛巳、詔して長城の役者の一年の租賦を免ず。
冬十月丙午、詔して曰く「先師尼父は、聖徳躬に在り、天縦の姿を誕発し、文・武の道を憲章す。命世にして期を膺け、茲に素王を蘊む。而るに頽山の歎、忽ち千祀を踰え、盛徳の美、百代に存せず。永く懿範を惟み、宜しく優崇有るべし。孔子の後を立てて紹聖侯と為す可し。有司其の苗裔を求め、録して以て上を申せ。」辛亥、詔して曰く「昔周王下車し、首に唐・虞の胤を封じ、漢帝曆を承け、亦た殷・周の後に命ず。皆以て先代を褒め立て、昔を憲章する所以なり。朕景業を嗣ぎ膺け、傍らに雅訓を求め、一も弘益有らば、令典を欽若せん。周は夏・殷を兼ね、文質大いに備わり、漢は天下を有ち、車書混一し、魏・晋は沿襲し、風流未だ遠からずと為す。並びに後を立て、以て継絶の義を存すべし。有司其の冑緒を求め列ねて聞かしむ可し。」乙卯、新式を天下に頒つ。
五年春正月丙子、東京を改めて東都と為す。癸未、詔して天下に均田せしむ。戊子、上東都より京師に還る。己丑、制して民間の鉄叉・搭鈎・䂎刃の類は、皆禁絶す。太守は毎歳密かに属官の景迹を上せしむ。
二月戊戌、閿郷に次す。詔して古帝王の陵及び開皇功臣の墓を祭らしむ。庚子、制して魏・周の官は蔭と為すを得ず。辛丑、赤土国使いを遣わし方物を貢ぐ。戊申、車駕京師に至る。丙辰、耆旧四百人を武徳殿に宴し、頒賜各差有り。己未、上崇徳殿の西院に御し、愀然として怡ばず、顧みて左右に謂ひて曰く「此れ先帝の居ます所、実に用て感を増し、情未だ安からず、宜しく此の院の西に別に一殿を営むべし。」壬戌、制して父母は子の官に随ふを聴す。
三月己巳、車駕西に河右を巡る。庚午、有司言ふ、武功の男子史永遵、従父昆弟と同居す。上之を嘉し、物一百段、米二百石を賜ひ、其の門閭を表す。乙亥、扶風の旧宅に幸す。
夏四月己亥、大いに隴西に獵す。壬寅、高昌・吐谷渾・伊吾並びに使いを遣わし来朝す。乙巳、狄道に次し、党項羌来たりて方物を貢ぐ。癸亥、臨津関を出で、黄河を渡り、西平に至り、兵を陳べ武を講ず。
五月乙亥、上大いに拔延山に獵す、長囲周亘二千里。庚辰、長寧谷に入る。壬午、星嶺を度る。甲申、群臣を金山の上に宴す。丙戌、梁浩亹、御馬度るに橋壞れ、朝散大夫黄亘及び督役者九人を斬る。吐谷渾王衆を率ひ覆袁川を保つ。帝分ち命じて内史元壽は南に金山に屯し、兵部尚書段文振は北に雪山に屯し、太僕卿楊義臣は東に琵琶峡に屯し、将軍張壽は西に泥嶺に屯し、四面之を囲む。渾主伏允数十騎を以て遁れ出で、其の名王を遣わし詐りて伏允と称し、車我真山を保つ。壬辰、詔して右屯衛大将軍張定和をして往きて之を捕らしむ。定和身を挺て挑戰し、賊の為に殺さる。亜将柳武建之を撃ち破り、首数百級を斬る。甲午、其の仙頭王囲まれて窮蹙し、男女十余万口を率ひ来降す。
秋七月丁卯、馬牧を青海の渚中に置き、以て龍種を求め、效無くして止む。
九月癸未、車駕長安に入る。
冬十月癸亥、詔して曰く「徳を優れ歳を尚ぶは、典訓に載す。事を尊び言を乞ふは、義膠序に彰る。鬻熊師と為り、筋力を取らざるは、方叔元老、克く其の猷を壮んず。朕永く古を稽へ、用て至治を求めんとす。是を以て厖眉黄髮を更に叙するを令し、務めて簡にして秩優にし、薬膳を虧かさず、庶幾くは臥治に等しく、其の弘益を佇たん。今歳耆老の集に赴く者は、近郡に於いて処置す可し。年七十以上、疾患沈滞にして職に居るに堪へざれば、即ち帛を給賜し、本郡に送還せよ。其の官七品已上に至る者は、量りて廩を給し、以て其の身を終はらしむ。」
十一月丙子、車駕東都に幸す。
六年春正月癸亥朔、旦、盗数十人あり、皆素冠練衣を着け、香を焚き華を持ち、自ら弥勒佛と称し、建國門より入る。監門者は皆稽首す。既にして衞士の仗を奪ひ、乱を為さむとす。齊王暕之に遇ひて斬る。是に於て都下大索し、相連坐する者千餘家。丁丑、角抵大戲を端門街にて行ひ、天下の奇伎異藝畢く集り、終月にして罷む。帝数たび微服して往き之を觀る。己丑、倭國使いを遣はして方物を貢ぐ。
二月乙巳、武賁郎將陳稜・朝請大夫張鎮州流求を撃ち、之を破り、俘萬七千口を獻じ、百官に頒賜す。乙卯、詔して曰く、「夫れ帝圖草創し、王業艱難なり、咸く股肱に仗り、心德を協同し、用て能く厥の頽運を拯ひ、大寶に克く膺る。然る後に庸を疇ひ茂賞を開き、國を開き家を承け、山河を以て誓ひ、之を傳へて朽ちず。近代喪亂し、四海未だ一ならず、茅土妄りに假り、名實相ひ乖き、茲に永久を歷て、能く懲革する莫し。皇運の初、百度始めて起るも、猶舊貫に循ひ、改作に暇あらず。今天下交泰し、文軌攸同なり、宜しく先典に率ひ遵ひ、永く大訓を垂るべし。今より已後、唯だ功勳有る者にして乃ち賜封を得しめ、仍て子孫に承襲せしむべし」と。丙辰、安德王雄を改めて觀王と封じ、河間王子慶を郇王とす。庚申、魏・齊・周・陳の樂人を徵し、悉く太常に配す。三月癸亥、江都宮に幸す。甲子、鴻臚卿史祥を以て左驍衞大將軍とす。
夏四月丁未、江淮已南の父老を宴し、頒賜各差有り。
六月辛卯、室韋・赤土並びに使いを遣はして方物を貢ぐ。壬辰、雁門の賊帥尉文通眾三千を聚め、莫壁谷に保つ。鷹揚楊伯泉を遣はして之を撃破す。甲寅、江都太守の秩を京尹に同じくするを制す。
冬十月壬申、刑部尚書梁毗卒す。壬子、民部尚書・銀青光祿大夫長孫熾卒す。
十二月己未、左光祿大夫・吏部尚書牛弘卒す。辛酉、朱崖人王萬昌兵を舉げて亂を作る。隴西太守韓洪を遣はして之を討平す。
七年春正月壬寅、左武衞大將軍・光祿大夫・真定侯郭衍卒す。
二月己未、上釣臺に升り、揚子津に臨み、百僚を大宴し、頒賜各差有り。庚申、百濟使いを遣はして朝貢す。乙亥、上江都より龍舟に御し通濟渠に入り、遂に涿郡に幸す。壬午、詔して曰く、「武に七德有り、先づ之を以て民を安んず。政に六本有り、之を興すに教義を以てす。高麗の高元、藩禮を虧失し、將に遼左に問罪せんと欲す。勝略を恢宣せんとす。國を伐つことを懷へども、仍て省方を事とす。今涿郡に往き、民俗を巡撫す。其の河北諸郡及び山西・山東にて年九十已上なる者は、版を以て太守を授け、八十なる者は縣令を授くべし」と。
三月丁亥、右光祿大夫・左屯衞大將軍姚辯卒す。
夏四月庚午、涿郡の臨朔宮に至る。
五月戊子、武威太守樊子蓋を以て民部尚書とす。
秋、大水有り、山東・河南三十餘郡を漂沒し、民相ひ賣りて奴婢と為る。
冬十月乙卯、底柱山崩れ、河に偃ぎ逆流すること數十里。戊午、東平太守吐萬緒を以て左屯衞大將軍とす。
十二月己未、西面突厥の處羅多利可汗來朝す。上大いに悅び、殊禮を以て接す。時に遼東の戰士及び餽運する者道に填咽し、晝夜絶えず、苦役する者始めて羣盜を為す。甲子、勑して都尉・鷹揚に郡縣と相知り追捕せしめ、獲るに隨ひ斬決せしむ。