『隋書』

巻三 帝紀第三 煬帝上

煬皇帝は諱を廣といい、一名は英、小字は阿𡡉、高祖こうその第二子である。母は文獻獨孤皇后という。上は姿容が美しく、幼少より聡明で、高祖及び后は諸子の中でも特に寵愛した。周に在っては、高祖の勲功により、雁門郡公に封ぜられた。

開皇元年、晉王に立てられ、柱國・へい州總管に拝され、時に十三歳であった。まもなく武えい大將軍を授けられ、上柱國・河北道行臺尚書令しょうしょれいに進み、大將軍はもとのままとした。高祖は項城公の王韶、安道公の李徹をしてこれを輔導させた。上は学を好み、文をよくし、沈着で重厚であり、朝廷と民間の期待を集めた。高祖は密かに善相者である來和に命じて諸子を遍く見させたところ、和は言った、「晉王の眉の上に双骨が隆起しており、貴きこと言うべからず」。やがて高祖が上の居る邸に行幸した時、楽器の弦が多く断絶し、また塵埃がかぶっており、用いていないようであったので、声妓を好まないものと思い、これを良しとした。上は特に自らを飾り立て、当時は仁孝と称された。かつて狩猟を見物中に雨に遭い、左右が油衣を進めたが、上は言った、「士卒は皆濡れているのに、私だけがこれを着ることができようか」と。そこで持って行かせた。

六年、淮南道行臺尚書令に転じた。その年、雍州牧・内史令に徴されて拝された。八年の冬、大いに軍を挙げて陳を伐ち、上を行軍元帥とした。陳が平定されると、陳の湘州刺史施文慶・散騎常侍さんきじょうじ沈客卿・市令陽慧朗・刑法監徐析・尚書都令史暨慧を捕らえ、その邪佞で民に害あることを以て、右闕の下で斬り、三呉に謝した。ここに府庫を封じ、資財を取る所なく、天下は賢と称した。太尉に進み、輅車・乗馬、袞冕の服、玄珪・白璧各一つを賜った。再び并州總管に拝された。まもなく江南で高智慧らが相集まって乱を起こしたので、上を揚州總管に移し、江都を鎮めさせ、毎年一度朝見することとした。高祖が泰山を祠る時には、武候大將軍を領した。明年、藩に帰った。後数年を経て、突厥が辺境を侵したので、再び行軍元帥となり、霊武より出撃したが、敵なくして還った。

太子の勇が廃されると、上を皇太子に立てた。この月、冊を受けることとなった。高祖は言った、「我は大興公をもって帝業を成した」。上に命じて大興県に出て舍させた。その夜、烈風大雪、地震山崩があり、民家多く壊れ、圧死者百余口を出した。

仁壽初年、詔を奉じて東南を巡撫した。この後、高祖が仁壽宮に避暑する度に、常に上に国を監させた。

四年七月、高祖崩御し、上は仁壽宮において皇帝の位に即いた。八月、梓宮を奉じて京師に還った。并州總管漢王諒が兵を挙げて反したので、詔して尚書左僕射楊素に討伐平定させた。九月乙巳、備身將軍崔彭を左領軍大將軍とした。十一月乙未、洛陽らくように行幸した。丙申、丁男数十万を発して塹を掘らせ、龍門より東は長平・汲郡に接し、臨清関に至り、河を渡り、浚儀・襄城を経て上洛に達し、以て関防を置いた。癸丑、詔して曰く、

十二月乙丑、右武衞將軍來護兒を右ぎょう衞大將軍とした。戊辰、柱國李景を右武衞大將軍とした。右衞率周羅睺を右武候大將軍とした。

大業元年春正月壬辰朔、大赦し、元号を改めた。妃蕭氏を皇后に立てた。州を溱州と改め、洛州を豫州と改めた。諸州の總管府を廃した。丙申、晉王昭を皇太子に立てた。丁酉、上柱國宇文述を左衞大將軍とし、上柱國郭衍を左武衞大將軍とし、延壽公于仲文を右衞大將軍とした。己亥、豫章王暕を豫州牧とした。戊申、八使を発して風俗を巡省させた。詔を下して曰く、

己酉、呉州總管宇文㢸を刑部尚書とした。

二月己卯、尚書左僕射楊素を尚書令とした。

三月丁未、詔して尚書令楊素・納言楊達・将作大匠宇文愷に東京を営建させ、豫州の城下の住民を移してこれを充実させた。戊申、詔して曰く、「輿頌を聴き採り、謀りを庶民に及ぼすゆえに、政刑の得失を審らかにすることができる。これにより、昧旦に治を思い、幽枉を必ず達せしめ、彝倫に章あらしめんと欲することを知る。ところが牧宰は朝の委任に任じながら、苟も考課を求めて徼幸をなし、虚しく殿最を立てて、治の実を存せず、綱紀ここに理められず、冤屈これにより申さるる莫し。関河重く阻み、自ら達する由なし。朕故に東京を建立し、躬自ら存問す。今将に淮海を巡歴し、風俗を観省し、讜言を眷求せんとすれども、徒らに詞翰を繁くして、郷校の内には、闕けて爾くして聞こゆること無し。恇然として夕に惕み、用いて興寝を忘る。その民下に、州県の官人の政治が苛刻にして、百姓を侵害し、公に背き私に徇い、民に便ならざるを知る者は、宜しく朝堂に詣でて封奏するを聴くべし。庶幾くば四聰以て達し、天下に冤無からんことを」。また皁澗に於いて顯仁宮を営み、海内の奇禽異獣草木の類を採り、以て園苑を充実させた。天下の富商大賈数万家を東京に移した。辛亥、河南諸郡の男女百余万を発し、通済渠を開通させ、西苑より穀水・洛水を引いて河に達せしめ、板渚より河を引いて淮に通ぜしめた。庚申、黄門侍郎王弘・上儀同於士澄を江南に遣わして木材を採らせ、龍舟・鳳艒・黄龍・赤艦・樓船等数万艘を造らせた。

夏四月癸亥、大將軍劉方が林邑を撃ち、これを破った。

五月庚戌、民部尚書義豊侯韋沖が卒した。

六月甲子、熒惑星が太微垣に入る。

秋七月丁酉、戦死した家には十年の租税免除を給する制を定む。丙午、滕王綸及び衞王集はともに爵位を奪われ辺境に流される。

閏七月甲子、尚書令楊素を以て太子太師と為し、安德王雄を以て太子太傅と為し、河間王弘を以て太子太保と為す。丙子、詔して曰く。

八月壬寅、帝は龍舟に御し、江都に行幸す。左武衞大將軍郭衍を以て前軍と為し、右武衞大將軍李景を以て後軍と為す。文武の官五品以上には樓船を給し、九品以上には黄蔑を給す。舳艫相接すること二百餘里。

冬十月己丑、江淮以南を赦す。揚州には五年の租税免除を給し、旧総管の管内には三年の租税免除を給す。十一月己未、大將軍崔仲方を以て禮部尚書と為す。

二年春正月辛酉、東京成る。監督者に賜うこと各差有り。大理卿梁毗を以て刑部尚書と為す。丁卯、十使を遣わして州縣を併省せしむ。

二月丙戌、詔して尚書令楊素・吏部尚書牛弘・大將軍宇文愷・内史侍郎虞世基・禮部侍郎許善心に輿服を制定せしむ。始めて輦路及び五時の副車を備う。帝の常服は皮弁十有二琪、文官の弁服は佩玉す。五品以上には犢車・通幰を給し、三公親王には油絡を加う。武官は平巾幘・袴褶を着し、三品以上には瓟槊を給す。下は胥吏に至るまで、服色皆差有り。庶人は戎服を着することを得ず。戊戌、都尉官を置く。

三月庚午、車駕江都を発つ。是に先立ち、太府少卿何稠・太府丞雲定興は儀仗を盛んに修め、ここに於て州縣に課して羽毛を送らしむ。百姓はこれを求捕し、網羅は水陸に被わり、氅毦の用に堪うる禽獸は殆ど遺類無し。是に至りて成る。

夏四月庚戌、帝は伊闕より、法駕を陳べ、千乗萬騎を備え、東京に入る。辛亥、帝は端門に御し、大赦し、天下の今年の租税を免ず。癸丑、冀州刺史楊文思を以て民部尚書と為す。

五月甲寅、金紫光禄大夫・兵部尚書李通は事に坐して免ぜらる。乙卯、詔して曰く、「先哲を旌表し、饗祀を存するは、賢能を優礼し、遺愛を顕彰する所以なり。朕は永く前修を鑒み、尚ほ名徳を想う。何ぞ嘗て九原に歎きを興さず、千載に懐いを属さざらんや。其れ自古より以来の賢人君子に、能く声を樹て徳を立て、世を佐け時を匡うる者、博く利し殊功有り、人に益する者有らば、並びに宜しく祠宇を営立し、時に以て祭を致すべし。墳壟の処は侵踐することを得ず。有司は量りて條式を為し、朕が意に称えよ」。

六月壬子、尚書令・太子太師楊素を以て司徒しとと為す。豫章王暕を進めて齊王と封ず。

秋七月癸丑、衞尉卿衞玄を以て工部尚書と為す。庚申、百官は考を計りて級を増すことを得ざる制を定む。必ず德行功能有り、灼然として顕著なる者を擢ぐ。壬戌、藩邸の旧臣鮮于羅等二十七人の官爵を擢ぐこと差有り。甲戌、皇太子昭薨ず。乙亥、上柱國・司徒・楚國公楊素薨ず。

八月辛卯、皇孫倓を封じて燕王と為し、侗を封じて越王と為し、侑を封じて代王と為す。

九月乙丑、秦孝王俊の子浩を立てて秦王と為す。

冬十月戊子、靈州刺史段文振を以て兵部尚書と為す。甲午、崔善爲、申國公の祠堂を造る。

十二月庚寅の日、詔を下して曰く、「前代の帝王は、時に因りて創業し、君民をして国を建て、礼は南面を尊ぶ。而して歴運推移し、年世永久にして、丘壟は残毀し、樵牧相趨き、塋兆は堙蕪し、封樹は弁ふる莫し。言を興して淪滅を論ずれば、懐に愴然たるもの有り。古より已来の帝王の陵墓には、随近の十戸を給し、其の雑役を蠲免して、以て守視を供せしむべし」。

三年春正月癸亥の日、勅して、并州の逆党にして既に流配せられし者にして逃亡するものは、獲る所の処に於て、即ち宜しく斬決すべし。丙子の日、長星天に竟き、東壁に出で、二旬にして止む。是の月、武陽郡言上す、河水清しと。

二月己丑の日、彗星奎に見え、文昌を掃し、大陵・五車・北河を歴て、太微に入り、帝坐を掃す。前後百余日にして止む。

三月辛亥の日、車駕京師に還る。壬子の日、大将軍姚辯を左屯衛将軍と為す。癸丑の日、羽騎尉朱寬を遣わして流求国に使わす。乙卯の日、河間王弘薨ず。

夏四月庚辰の日、詔して曰く、「古の帝王、風を観て俗を問ふは、皆以て兆庶を憂勤し、遐荒を安集せんとする所以なり。蕃夷の内附するより以来、未だ親撫に遑あらず。山東は乱を経て、須らく存恤を加ふべし。今河北を安輯せんと欲し、趙・魏を巡省せんとす。所司は式に依れ」。甲申の日、律令を頒ち、天下に大赦し、関内には復を三年給す。壬辰の日、州を郡に改む。度量権衡を改め、並びに古式に依る。上柱国已下の官を大夫と改む。甲午の日、詔して曰く、

丙申の日、車駕北に巡狩す。丁酉の日、刑部尚書宇文㢸を礼部尚書と為す。戊戌の日、勅して百司に禾稼を践暴することを得ざらしむ。其れ路を開くを須ふる有るものは、有司地の収むる所を計り、即ち近倉を以て酬賜し、務めて優厚に従へ。己亥の日、赤岸沢に次す。太牢を以て故太師李穆の墓を祭る。

五月丁巳の日、突厥の啓民可汗、子の拓特勤を遣わして来朝す。戊午の日、河北十余郡の丁男を発して太行山を鑿ち、并州に達し、以て馳道を通ず。丙寅の日、啓民可汗、其の兄の子の毗黎伽特勤を遣わして来朝す。辛未の日、啓民可汗、使を遣わして自ら塞に入り、輿駕を奉迎せんことを請ふ。上許さず。癸酉の日、星、文昌上将に孛し、星皆動揺す。

六月辛巳の日、連谷にて狩す。丁亥の日、詔して曰く、

戊子の日、榆林郡に次す。丁酉の日、啓民可汗来朝す。己亥の日、吐谷渾・高昌並びに使を遣わして方物を貢ぐ。甲辰の日、上北楼に御し、河にて漁を観、以て百僚を宴す。

秋七月辛亥の日、啓民可汗上表して変服し、冠帯を襲はんことを請ふ。詔して啓民の賛拝は名を称せず、位は諸侯王の上に在らしむ。甲寅の日、上郡城東に於て大帳に御し、其の下に儀衛を備え、旌旗を建て、啓民及び其の部落三千五百人を宴し、百戯の楽を奏す。啓民及び其の部落に賜ふこと各差有り。丙子の日、光禄大夫賀若弼・礼部尚書宇文㢸・太常卿高熲を殺す。尚書左僕射蘇威は事に坐して免ぜらる。丁男百余万を発して長城を築き、西は榆林に距り、東は紫河に至る。一句にして罷み、死者十五六。

八月壬午の日、車駕榆林を発つ。乙酉の日、啓民、廬を飾り道を清めて、以て乗輿を候ふ。帝其の帳に幸す。啓民、觴を奉じて寿を上ぐ。宴賜極めて厚し。上高麗の使者に謂ひて曰く、「帰りて爾が王に語れ、当に早く来朝見すべし。然らざれば、吾と啓民と彼の土を巡らん」。皇后も亦た義城公主の帳に幸す。己丑の日、啓民可汗蕃に帰る。癸巳の日、楼煩関に入る。壬寅の日、太原に次す。詔して晋陽宮を営ましむ。九月己未の日、済源に次す。御史大夫張衡の宅に幸し、宴享極めて歓し。己巳の日、東都に至る。壬申の日、斉王暕を河南尹・開府儀同三司と為す。癸酉の日、民部尚書楊文思を納言と為す。

四年春正月乙巳の日、詔して河北諸郡の男女百余万を発して永済渠を開かしめ、沁水を引いて南は河に達し、北は涿郡に通ぜしむ。庚戌の日、百僚允武殿に於て大射す。丁卯の日、城内の居民に米各十石を賜ふ。壬申の日、太府卿元寿を内史令と為し、鴻臚卿楊玄感を礼部尚書と為す。癸酉の日、工部尚書衛玄を右候衛大将軍と為し、大理卿長孫熾を民部尚書と為す。

二月己卯の日、司朝謁者崔毅を遣わして突厥の処羅に使わし、汗血馬を致さしむ。

三月辛酉の日、将作大匠宇文愷を工部尚書と為す。壬戌の日、百済・倭・赤土・迦羅舍国並びに使を遣わして方物を貢ぐ。乙丑の日、車駕五原に幸し、因りて塞を出で長城を巡る。丙寅の日、屯田主事常駿を遣わして赤土に使わし、羅刹を致さしむ。

夏四月丙午の日、離石の汾源・臨泉、雁門の秀容を以て楼煩郡と為す。汾陽宮を起す。癸丑の日、河内太守張定和を左屯衛大将軍と為す。乙卯の日、詔して曰く、「突厥の意利珍豆啓民可汗、部落を率ひ、関塞に保附し、朝化を遵奉し、戎俗を改めんと思ひ、頻りに入り謁覲し、屡に陳請有り。氈牆毳幕を以てするは、事窮まりて荒陋なり。上棟下宇、願くは比屋に同じくせんとす。誠心懇切、朕の重んずる所なり。宜しく万寿戍に城を置き屋を造り、其の帷帳牀褥已上は、事に随ひ量りて給し、務めて優厚に従ひ、朕が意に称へしむべし」。

五月壬申、しょく郡にて三足烏を獲、張掖にて玄狐を獲、各一。

秋七月辛巳、丁男二十余万を発して長城を築かしむ、榆谷より東に至る。乙未、左翊衛大将軍宇文述、吐谷渾を曼頭・赤水にて破る。

八月辛酉、親しく恒岳を祠り、河北道の郡守畢集す。天下に大赦す。車駕の経る郡県は、一年の租調を免ず。

九月辛未、天下の鷹師を徴し悉く東京に集む、至る者万余人。戊寅、彗星五車より出で、文昌を掃い、房に至りて滅す。辛巳、詔して長城の役者の一年の租賦を免ず。

冬十月丙午、詔して曰く「先師尼父は、聖徳躬に在り、天縦の姿を誕発し、文・武の道を憲章す。命世にして期を膺け、茲に素王を蘊む。而るに頽山の歎、忽ち千祀を踰え、盛徳の美、百代に存せず。永く懿範を惟み、宜しく優崇有るべし。孔子の後を立てて紹聖侯と為す可し。有司其の苗裔を求め、録して以て上を申せ。」辛亥、詔して曰く「昔周王下車し、首に唐・虞の胤を封じ、漢帝曆を承け、亦た殷・周の後に命ず。皆以て先代を褒め立て、昔を憲章する所以なり。朕景業を嗣ぎ膺け、傍らに雅訓を求め、一も弘益有らば、令典を欽若せん。周は夏・殷を兼ね、文質大いに備わり、漢は天下を有ち、車書混一し、魏・晋は沿襲し、風流未だ遠からずと為す。並びに後を立て、以て継絶の義を存すべし。有司其の冑緒を求め列ねて聞かしむ可し。」乙卯、新式を天下に頒つ。

五年春正月丙子、東京を改めて東都と為す。癸未、詔して天下に均田せしむ。戊子、上東都より京師に還る。己丑、制して民間の鉄叉・搭鈎・䂎刃の類は、皆禁絶す。太守は毎歳密かに属官の景迹を上せしむ。

二月戊戌、閿郷に次す。詔して古帝王の陵及び開皇功臣の墓を祭らしむ。庚子、制して魏・周の官は蔭と為すを得ず。辛丑、赤土国使いを遣わし方物を貢ぐ。戊申、車駕京師に至る。丙辰、耆旧四百人を武徳殿に宴し、頒賜各差有り。己未、上崇徳殿の西院に御し、愀然として怡ばず、顧みて左右に謂ひて曰く「此れ先帝の居ます所、実に用て感を増し、情未だ安からず、宜しく此の院の西に別に一殿を営むべし。」壬戌、制して父母は子の官に随ふを聴す。

三月己巳、車駕西に河右を巡る。庚午、有司言ふ、武功の男子史永遵、従父昆弟と同居す。上之を嘉し、物一百段、米二百石を賜ひ、其の門閭を表す。乙亥、扶風の旧宅に幸す。

夏四月己亥、大いに隴西に獵す。壬寅、高昌・吐谷渾・伊吾並びに使いを遣わし来朝す。乙巳、狄道に次し、党項羌来たりて方物を貢ぐ。癸亥、臨津関を出で、黄河を渡り、西平に至り、兵を陳べ武を講ず。

五月乙亥、上大いに拔延山に獵す、長囲周亘二千里。庚辰、長寧谷に入る。壬午、星嶺を度る。甲申、群臣を金山の上に宴す。丙戌、梁浩亹、御馬度るに橋壞れ、朝散大夫黄亘及び督役者九人を斬る。吐谷渾王衆を率ひ覆袁川を保つ。帝分ち命じて内史元壽は南に金山に屯し、兵部尚書段文振は北に雪山に屯し、太僕卿楊義臣は東に琵琶峡に屯し、将軍張壽は西に泥嶺に屯し、四面之を囲む。渾主伏允数十騎を以て遁れ出で、其の名王を遣わし詐りて伏允と称し、車我真山を保つ。壬辰、詔して右屯衛大将軍張定和をして往きて之を捕らしむ。定和身を挺て挑戰し、賊の為に殺さる。亜将柳武建之を撃ち破り、首数百級を斬る。甲午、其の仙頭王囲まれて窮蹙し、男女十余万口を率ひ来降す。

六月丁酉、左光禄大夫梁默・右翊衛将軍李瓊等を遣わし渾主を追はしむ、皆賊に遇ひて之に死す。癸卯、大斗拔谷を経る、山路隘險にして、魚貫して出づ。風霰晦冥、従官と相失ひ、士卒凍死する者太半。丙午、張掖に次す。辛亥、詔して諸郡の学業該通・才藝優洽、膂力驍壮・超絶等倫、在官勤奮・政事を理むに堪へ、立性正直・強禦を避けざる四科の挙人を挙げしむ。壬子、高昌王麴伯雅来朝し、伊吾吐屯設等西域数千里の地を献ず。上大いに悦ぶ。癸丑、西海・河源・鄯善・且末等四郡を置く。丙辰、上観風行殿に御し、盛んに文物を陳べ、九部楽を奏し、魚龍曼延を設け、高昌王・吐屯設を殿上に宴し、以て寵異す。其の蛮夷陪列する者三十余国。戊午、天下に大赦す。開皇已来の流配は、悉く郷に放還す、晋陽の逆党は、此の例に在らず。隴右の諸郡は、復を給すること一年、行経の所は、復を給すること二年。

秋七月丁卯、馬牧を青海の渚中に置き、以て龍種を求め、效無くして止む。

九月癸未、車駕長安ちょうあんに入る。

冬十月癸亥、詔して曰く「徳を優れ歳を尚ぶは、典訓に載す。事を尊び言を乞ふは、義膠序に彰る。鬻熊師と為り、筋力を取らざるは、方叔元老、克く其の猷を壮んず。朕永く古を稽へ、用て至治を求めんとす。是を以て厖眉黄髮を更に叙するを令し、務めて簡にして秩優にし、薬膳を虧かさず、庶幾くは臥治に等しく、其の弘益を佇たん。今歳耆老の集に赴く者は、近郡に於いて処置す可し。年七十以上、疾患沈滞にして職に居るに堪へざれば、即ち帛を給賜し、本郡に送還せよ。其の官七品已上に至る者は、量りて廩を給し、以て其の身を終はらしむ。」

十一月丙子、車駕東都に幸す。

六年春正月癸亥朔、旦、盗数十人あり、皆素冠練衣を着け、香を焚き華を持ち、自ら弥勒佛と称し、建國門より入る。監門者は皆稽首す。既にして衞士の仗を奪ひ、乱を為さむとす。齊王暕之に遇ひて斬る。是に於て都下大索し、相連坐する者千餘家。丁丑、角抵大戲を端門街にて行ひ、天下の奇伎異藝畢く集り、終月にして罷む。帝数たび微服して往き之を觀る。己丑、倭國使いを遣はして方物を貢ぐ。

二月乙巳、武賁郎將陳稜・朝請大夫張鎮州流求を撃ち、之を破り、俘萬七千口を獻じ、百官に頒賜す。乙卯、詔して曰く、「夫れ帝圖草創し、王業艱難なり、咸く股肱に仗り、心德を協同し、用て能く厥の頽運を拯ひ、大寶に克く膺る。然る後に庸を疇ひ茂賞を開き、國を開き家を承け、山河を以て誓ひ、之を傳へて朽ちず。近代喪亂し、四海未だ一ならず、茅土妄りに假り、名實相ひ乖き、茲に永久を歷て、能く懲革する莫し。皇運の初、百度始めて起るも、猶舊貫に循ひ、改作に暇あらず。今天下交泰し、文軌攸同なり、宜しく先典に率ひ遵ひ、永く大訓を垂るべし。今より已後、唯だ功勳有る者にして乃ち賜封を得しめ、仍て子孫に承襲せしむべし」と。丙辰、安德王雄を改めて觀王と封じ、河間王子慶を郇王とす。庚申、魏・齊・周・陳の樂人を徵し、悉く太常に配す。三月癸亥、江都宮に幸す。甲子、鴻臚卿史祥を以て左驍衞大將軍とす。

夏四月丁未、江淮已南の父老を宴し、頒賜各差有り。

六月辛卯、室韋・赤土並びに使いを遣はして方物を貢ぐ。壬辰、雁門の賊帥尉文通眾三千を聚め、莫壁谷に保つ。鷹揚楊伯泉を遣はして之を撃破す。甲寅、江都太守の秩を京尹に同じくするを制す。

冬十月壬申、刑部尚書梁毗卒す。壬子、民部尚書・銀青光祿大夫長孫熾卒す。

十二月己未、左光祿大夫・吏部尚書牛弘卒す。辛酉、朱崖人王萬昌兵を舉げて亂を作る。隴西太守韓洪を遣はして之を討平す。

七年春正月壬寅、左武衞大將軍・光祿大夫・真定侯郭衍卒す。

二月己未、上釣臺に升り、揚子津に臨み、百僚を大宴し、頒賜各差有り。庚申、百濟使いを遣はして朝貢す。乙亥、上江都より龍舟に御し通濟渠に入り、遂に涿郡に幸す。壬午、詔して曰く、「武に七德有り、先づ之を以て民を安んず。政に六本有り、之を興すに教義を以てす。高麗の高元、藩禮を虧失し、將に遼左に問罪せんと欲す。勝略を恢宣せんとす。國を伐つことを懷へども、仍て省方を事とす。今涿郡に往き、民俗を巡撫す。其の河北諸郡及び山西・山東にて年九十已上なる者は、版を以て太守を授け、八十なる者は縣令を授くべし」と。

三月丁亥、右光祿大夫・左屯衞大將軍姚辯卒す。

夏四月庚午、涿郡の臨朔宮に至る。

五月戊子、武威太守樊子蓋を以て民部尚書とす。

秋、大水有り、山東・河南三十餘郡を漂沒し、民相ひ賣りて奴婢と為る。

冬十月乙卯、底柱山崩れ、河に偃ぎ逆流すること數十里。戊午、東平太守吐萬緒を以て左屯衞大將軍とす。

十二月己未、西面突厥の處羅多利可汗來朝す。上大いに悅び、殊禮を以て接す。時に遼東の戰士及び餽運する者道に填咽し、晝夜絶えず、苦役する者始めて羣盜を為す。甲子、勑して都尉・鷹揚に郡縣と相知り追捕せしめ、獲るに隨ひ斬決せしむ。