開皇八年
八年春正月乙亥、陳が散騎常侍袁雅、兼通直散騎常侍周止水を遣わして来朝した。
二月庚子、鎮星が東井に入る。辛酉、陳人が硤州を寇す。
三月辛未、上柱国・隴西郡公李詢卒す。壬申、成州刺史姜須達を以て会州総管と為す。甲戌、兼散騎常侍程尚賢・兼通直散騎常侍韋惲を遣わして陳に使わす。戊寅、詔して曰く。
秋八月丁未、河北諸州饑え、吏部尚書蘇威を遣わして賑恤す。
九月丁丑、南征諸将を宴し、頒賜各差有り。癸巳、嘉州龍見ると言う。
冬十月己亥、太白西方に出づ。己未、淮南行台省を寿春に置き、晋王広を以て尚書令と為す。辛酉、陳が兼散騎常侍王琬・兼通直散騎常侍許善心を遣わして来朝す。拘留して遣わさず。甲子、将に陳を伐たんとし、太廟に事有り。晋王広・秦王俊・清河公楊素を並びに行軍元帥と為し、以て陳を伐つ。ここに晋王広は六合より出で、秦王俊は襄陽より出で、清河公楊素は信州より出で、荊州刺史劉仁恩は江陵より出で、宜陽公王世積は蘄春より出で、新義公韓擒虎は廬江より出で、襄邑公賀若弼は呉州より出で、落叢公燕栄は東海より出で、総管合わせて九十、兵五十一万八千、皆晋王の節度を受く。東は滄海に接し、西は巴・蜀に拒ぎ、旌旗舟楫、数千里に横亘す。陳国を曲赦す。星、牽牛に孛す。
十一月丁卯、車駕師を餞る。詔して陳叔宝の位を購い、上柱国・万戸公と為す。乙亥、行幸して定城に至り、師を陳べて衆に誓う。丙子、河東に幸す。
十二月庚子、河東より至る。
開皇九年
九年春正月己巳、白虹日を夾む。辛未、賀若弼陳の京口を抜き、韓擒虎陳の南豫州を抜く。癸酉、尚書右僕射虞慶則を以て右衛大將軍と為す。丙子、賀若弼蔣山に於いて陳師を敗り、其の将蕭摩訶を獲る。韓擒虎師を進めて建鄴に入り、其の将任蛮奴を獲、陳主叔宝を獲る。陳国平ぐ。州合わせて三十、郡一百、県四百。癸巳、使を遣わし持節して之を巡撫す。
二月乙未、淮南行台省を廃す。丙申、五百家を郷と為し、正一人、百家を里と為し、長一人と制す。丁酉、襄州総管韋世康を以て安州総管と為す。
夏四月己亥、驪山に幸し、親しく旋師を労う。乙巳、三軍凱入し、太廟に俘を献ず。晋王広を拝して太尉と為す。庚戌、上広陽門に御し、将士を宴し、頒賜各差有り。辛亥、天下を大赦す。己未、陳の都官尚書孔範、散騎常侍王瑳・王儀、御史中丞沈観等、其の主に邪佞して以て亡滅を致せるを以て、皆之を辺裔に投ず。辛酉、信州総管楊素を以て荊州総管と為し、吏部侍郎宇文㢸を以て刑部尚書と為し、宗正少卿楊异を以て工部尚書と為す。壬戌、詔して曰く。
閏月甲子、安州総管韋世康を信州総管と為す。丁丑、木魚符を総管・刺史に頒つ、雌一雄一。己卯、吏部尚書蘇威を尚書右僕射と為す。
六月乙丑、荊州総管楊素を納言と為す。丁丑、吏部侍郎盧愷を礼部尚書と為す。
時に朝野の物議、皆登封を願う。秋七月丙午、詔して曰く、「豈に一将軍を命じて一小国を除き、遐邇の注意するや、便ち太平と謂わんや。薄徳を以て名山を封じ、虚言を用いて上帝を干すは、朕の聞く所に非ず。今より以後、封禅に言及するは、宜しく即ち禁絶すべし」。
八月壬戌、広平王雄を司空と為す。
冬十一月壬辰、考使定州刺史豆盧通等、表を上りて封禅を請う。上許さず。庚子、右衛大将軍虞慶則を右武候大将軍と為し、右領軍将軍李安を右領軍大将軍と為す。甲寅、囚徒を降す。
十二月甲子、詔して曰く、「朕、天命を祗承し、万方を清蕩す。百王衰敝の後、兆庶澆浮の日、聖人の遺訓、地を掃いて俱に尽き、礼を制し楽を作るは、今其の時なり。朕、古楽を存するの情有り、雅道を深く思う。鄭・衛の淫声、魚龍の雑戯、楽府の内、尽く以て之を除く。今、律呂を更に調べ、琴瑟を改張せんと欲す。且つ妙術精微、教習に因るに非ざれば、工人代わりて掌るも、糟粕を伝うるに止まり、神明の徳に達し、天地の和を論ずるに足らず。区域の間、奇才異芸、天知神授、何れの代にか之れ無からんや。蓋し非時の時に迹を晦まし、好む所に昌言を俟つ。宜しく搜訪すべく、速やかに以て奏聞せしめ、庶幾くは一芸の能を覩、共に九成の業に就かん」。仍て詔して太常牛弘・通直散騎常侍許善心・秘書丞姚察・通直郎虞世基等に議定して楽を作らしむ。己巳、黄州総管周法尚を永州総管と為す。
開皇十年
十年春正月乙未、皇孫昭を河南王と為し、楷を華陽王と為す。
二月庚申、并州に幸す。
夏四月辛酉、并州より至る。
五月乙未、詔して曰く、「魏末喪乱、宇県瓜分し、役車歳に動き、未だ休息に遑あらず。兵士軍人、権に坊府を置き、南征北伐、居処定まり無し。家に完堵無く、地に包桑罕なり、恒に流寓の人と為り、竟に郷里の号無し。朕甚だ之を愍む。凡そ是の軍人は、悉く州県に属すべく、墾田籍帳、一に民と同し。軍府の統領は、宜しく旧式に依るべし。山東河南及び北方縁辺の地の新たに置く軍府を罷めよ」。
六月辛酉、人の年五十なるは、役を免じて庸を収むるを制す。癸亥、霊州総管王世積を荊州総管と為し、淅州刺史元冑を霊州総管と為す。
秋七月癸卯、納言楊素を内史令と為す。庚戌、上自ら囚徒を録す。辛亥、高麗遼東郡公高陽卒す。壬子、吐谷渾使いを遣わして来朝す。
八月壬申、柱国・襄陽郡公韋洸、上開府・東萊郡公王景を遣わし、並びに節を持ちて嶺南を巡撫せしむ。百越皆服す。
冬十月甲子、木魚符を京師の官五品已上に頒つ。戊辰、永州総管周法尚を桂州総管と為す。
十一月辛卯、国学に幸し、頒賜すること各差あり。丙午、契丹使いを遣わして朝貢す。辛丑、南郊に事あり。是の月、婺州の人汪文進、会稽の人高智慧、蘇州の人沈玄懀皆挙兵して反し、自ら天子と称し、百官を署置す。楽安の蔡道人、蔣山の李稜、饒州の呉代華、永嘉の沈孝澈、泉州の王國慶、餘杭の楊寶英、交趾の李春等皆自ら大都督と称し、州県を攻め陥す。詔して上柱国・内史令・越国公楊素に討たしめてこれを平ぐ。
開皇十一年
十一年春正月丁酉、平陳の得たる古器多く妖変を為すを以て、悉く毀するを命ず。辛丑、高麗使いを遣わして朝貢す。丙午、皇太子妃元氏薨ず、上文思殿に於いて哀を挙ぐ。
二月戊午、吐谷渾使いを遣わして方物を貢ぐ。大将軍蘇孝慈を工部尚書と為す。丙子、臨潁令劉曠の治術尤も異なるを以て、擢て莒州刺史と為す。己卯、突厥使いを遣わして七宝盌を献ず。辛巳晦、日蝕あり。
三月壬午、通事舎人若干洽を遣わして吐谷渾に使わす。癸未、幽州総管周搖を寿州総管と為し、朔州総管吐万緒を夏州総管と為す。
夏四月戊午、突厥の雍虞閭可汗その特勤を遣わして来朝せしむ。
五月甲子、高麗使いを遣わして方物を貢ぐ。癸卯、詔して百官悉く朝堂に詣りて封事を上らしむ。乙巳、右衛将軍元旻を左衛大将軍と為す。
秋七月己丑、柱国杜彦を洪州総管と為す。
八月壬申、栗園に幸す。滕王瓚薨ず。乙亥、栗園より至る。上柱国・沛国公鄭訳卒す。
十二月丙辰、靺鞨使いを遣わして方物を貢ぐ。
二月己巳、蜀王秀を内史令と為し、右領軍大将軍を兼ね、漢王諒を雍州牧・右衛大将軍と為す。
夏四月辛卯、寿州総管周搖を襄州総管と為す。
五月辛亥、広州総管席代雅卒す。
秋七月乙巳、尚書右僕射・邳国公蘇威と、礼部尚書・容城県侯盧愷は、ともに事に坐して除名された。壬戌、昆明池に幸し、その日に還宮した。己巳、太廟に事有り。壬申晦、日蝕有り。
八月甲戌、天下の死罪を制し、諸州は便決することを得ず、皆大理に覆治せしむ。乙亥、龍首池に幸す。癸巳、宿衛する者は輒ち所守を離るることを得ざるを制す。丁酉、上柱国・夏州総管・楚国公豆盧勣卒す。戊戌、上自ら囚徒を録す。
九月丁未、工部尚書楊异を以て呉州総管と為す。
冬十月丁丑、遂安王集を以て衛王と為す。壬午、太廟に事有り。太祖の神主の前に至り、上流涕嗚咽し、悲しみ自ら勝えず。
十一月辛亥、南郊に事有り。壬子、百僚を宴し、頒賜各差有り。己未、上柱国・新義郡公韓擒虎卒す。庚申、豫州刺史権武を以て潭州総管と為す。甲子、百僚武徳殿にて大射す。
十二月癸酉、突厥使いを遣わして来朝す。乙酉、上柱国・内史令楊素を以て尚書右僕射と為す。己酉、吐谷渾・靺鞨並びに使いを遣わして方物を貢ぐ。
二月丙子、詔して仁寿宮を営む。丁亥、岐州より至る。戊子、考使を嘉則殿に宴す。己卯、皇孫暕を立てて豫章王と為す。戊子、晋州刺史・南陽郡公賈悉達、隰州総管・撫寧郡公韓延等、賄に坐して誅せらる。己丑、事に坐して官を去る者を制し、一年配流す。丁酉、私家緯候図讖を隠蔵することを得ざるを制す。
夏四月癸未、戦亡の家を制し、一年の給復を行う。
五月癸亥、詔して、民間に国史を撰集し、人物を臧否する者有らば、皆禁絶せしむ。
秋七月戊申、靺鞨使いを遣わして方物を貢ぐ。壬子、左衛大将軍・雲州総管・鉅鹿郡公賀婁子幹卒す。丁巳、昆明池に幸す。戊辰晦、日蝕有り。
九月丙辰、囚徒を降す。庚申、邵国公楊綸を以て滕王と為す。乙丑、柱国杜彦を以て雲州総管と為す。
冬十月乙卯、上柱国・華陽郡公梁彦光卒す。
開皇十四年
十四年夏四月乙丑、詔して曰く、「昔の聖人、楽を作り徳を崇め、風を移し俗を易うるは、これに於いて大なり。晋氏の播遷より以来、兵戈止まず、雅楽流散し、年代既に多く、四方未だ一ならず、辨正する由なし。頼むに上天の鑒臨、明神の降福あり、この塗炭を拯い、蒼生を安息せしめ、天下大同し、治理に帰す。遺文旧物、皆な国有と為る。比に命ずる所司、総べて研究せしめ、正楽雅声、詳かに考へ已に訖る。宜しく即ち施用すべし、見行ふ者は停めよ。人間の音楽、流僻日久しく、その旧体を棄て、競ひて繁声を造り、浮宕して帰らず、遂に以て俗と成る。宜しく禁約を加へ、務む其の本を存すべし」。
五月辛酉、京師地震す。関内諸州旱す。
六月丁卯、詔して省府州県に、皆な公廨田を給し、治生することを得ず、人と利を争ふべからず。
秋七月乙未、邳国公蘇威を以て訥言と為す。
八月辛未、関中大旱し、人飢う。上戸口を率ひて洛陽に就き食す。
九月己未、斉州刺史樊子蓋を以て循州総管と為す。丁巳、基州刺史崔仲方を以て会州総管と為す。
冬閏十月甲寅、詔して曰く、「斉・梁・陳、往に皆な一方に創業し、年代を綿歴す。既に宗祀廃絶し、祭奠主無し。言を興こし念ひを矜むは、良に愴然たらしむ。莒国公蕭琮及び高仁英・陳叔宝等は、宜しく時に令して其の祭祀を修めしむべし。須ふ所の器物は、有司之を給す」。乙卯、制す、外官九品已上の、父母及び子年十五已上の、之を官に将することを得ず。
十二月乙未、東に巡狩す。
開皇十五年
十五年春正月壬戌、車駕斉州に次り、親しく疾苦を問ふ。丙寅、王符山に旅す。庚午、上歳旱を以て、太山に祠り、以て愆咎を謝す。天下に大赦す。
二月丙辰、天下の兵器を収む。敢へて私造する者有らば、之に坐す。関中の縁辺は、其の例に在らず。丁巳、上柱国・蒋国公梁睿卒す。三月己未、東巡狩より至る。五嶽海瀆を望祭す。丁亥、仁寿宮に幸す。営州総管韋芸卒す。
夏四月己丑朔、天下に大赦す。甲辰、趙州刺史楊達を以て工部尚書と為す。丁未、開府儀同三司韋沖を以て営州総管と為す。
五月癸酉、吐谷渾使いを遣はして朝貢す。丁亥、制す、京官五品已上は、銅魚符を佩く。
六月戊子、詔して底柱を鑿つ。庚寅、相州刺史豆盧通綾文布を貢ぐ。朝堂に於いて之を焚かしむ。乙未、林邑使いを遣はして来たり方物を貢ぐ。辛丑、詔す、名山大川祀典に在らざる者は、悉く之を祠れ。
秋七月乙丑、晋王広が毛亀を献上した。甲戌、邳国公蘇威を江南に派遣して巡視させた。戊寅、仁寿宮より帰還した。辛巳、九品以上の官で、理により職を去る者は、笏を執ることを許すと定めた。
冬十月戊子、吏部尚書韋世康を荊州総管とした。
十一月辛酉、温湯に行幸した。乙丑、温湯より帰還した。
十二月戊子、辺境の糧食を一升以上盗んだ者は皆斬刑に処し、併せてその家を没収するよう勅した。己丑、文武の官は四考(四年)ごとに交代するよう詔した。
開皇十六年
十六年春正月丁亥、皇孫裕を平原王とし、筠を安成王とし、嶷を安平王とし、恪を襄城王とし、該を高陽王とし、韶を建安王とし、煚を潁川王とした。
夏五月丁巳、懐州刺史龐晃を夏州総管とし、蔡陽県公姚弁を霊州総管とした。
六月甲午、工商の者は仕官に進むことを許さないと定めた。并州に大蝗が発生した。辛丑、九品以上の者の妻、五品以上の者の妾は、夫が亡くなっても改嫁してはならないと詔した。
秋八月丙戌、死罪を決する者は、三度奏上した後に刑を執行すべきであると詔した。
冬十月己丑、長春宮に行幸した。
十一月壬子、長春宮より帰還した。
開皇十七年
十七年春二月癸未、太平公史万歳が西寧の羌を撃ち、これを平定した。庚寅、仁寿宮に行幸した。庚子、上柱国王世積が桂州の賊李光仕を討ち、これを平定した。壬寅、河南王昭が妃を迎え入れ、群臣を宴し、頒賜はそれぞれ差等があった。
三月丙辰、詔して曰く、「職を分かち官を設けるのは、共に時務を治めるためであり、班位の高下にはそれぞれ等差がある。もし在任する官人が互いに敬い畏れず、多く自ら寛容に甘んじれば、事は成し遂げ難い。諸々の過失があっても、科条は備わっているが、律に拠れば軽く、情を論ずれば重い場合、直ちに罪を決しなければ、懲戒し粛正することはできない。諸司が属官を論ずるに、もし過失・犯行があれば、律の外において斟酌して決杖することを聴す。」辛酉、帝自ら囚徒を録囚した。癸亥、上柱国・彭国公劉昶が罪により誅殺された。庚午、治書侍御史柳彧・皇甫誕を派遣して河南・河北を巡視させた。
夏四月戊寅、新暦を頒布した。壬午、詔して曰く、「周の暦が終わりを告げ、群凶が乱を起こし、禍いは蕃服(辺境)に起こり、毒は生民に及んだ。朕は上玄(天)の命を受け、区宇を廓清し、聖霊が祐を垂れ、文武が心を一つにした。申明公穆・鄖襄公孝寛・広平王雄・蒋国公睿・楚国公勣・斉国公熲・越国公素・魯国公慶則・新寧公長叉・宜陽公世積・趙国公羅雲・隴西公詢・広業公景・真昌公振・沛国公訳・項城公子相・鉅鹿公子幹らは、登庸され納揆(宰相)となる時、草昧にして経綸をなす日に、丹誠と大節をもって、心を尽くして帝の図謀に尽くし、茂績と殊勳をもって、力を尽くして王府に宣べた。その門緒を弘め、国と共に休(福)を同じくすべきである。その世子・世孫で未だ州の任に就いていない者は、才を量って昇用し、栄位を享け、世禄を窮めしめるがよい。」
五月、百官を玉女泉にて宴し、賜物を頒ちて各々差等あり。己巳、蜀王秀来朝す。高麗、使いを遣わして方物を貢ぐ。甲戌、左衞将軍独狐羅雲を以て涼州総管と為す。
閏月己卯、群鹿殿門に入り、馴擾して侍衞の内に在り。
秋七月丁丑、桂州の人李代賢反し、右武候大将軍虞慶則を遣わして之を討ち平らぐ。丁亥、上柱国・并州総管秦王俊、事に坐して免ぜられ、王を以て第に就かしむ。戊戌、突厥、使いを遣わして方物を貢ぐ。
八月丁卯、荊州総管・上庸郡公韋世康卒す。
九月甲申、仁寿宮より至る。庚寅、上侍臣に謂ひて曰く、「礼は敬を主とし、皆当に心を尽くすべし。黍稷は馨しからず、貴ぶ所は祗肅に在り。廟庭に楽を設くるは、本より神を迎ふるを以てす。斎祭の日、目に触るるに多感有り。此の際に当たりて、何を以て心と為すべきや!路に在りて楽を奏するは、礼未だ允ならず。群公卿士、宜しく更に之を詳にすべし」と。
冬十月丁未、銅獣符を驃騎・車騎府に頒つ。戊申、道王静薨ず。庚午、詔して曰く、「五帝は楽を異にし、三王は礼を殊にす。皆事に随ひて損益有り、情に因りて節文を立てる。仰ぎ惟ふに宗廟を祭享するに、瞻敬して在るが如し。罔極の感、情は此の日に深し。而るに礼畢りて路に昇り、鼓吹音を発し、還りて宮門に入り、金石響を振る。是れ則ち哀楽同日にし、心事相違ふ。情の安んぜざる所、理実に未だ允ならず。宜しく此の往式を改め、以て礼教を弘むべし。今より以後、廟を享くる日は鼓吹を備ふるを須ひず、殿庭に楽懸を設くること勿れ」と。辛未、京師に大索す。
十一月丁亥、突厥、使いを遣わして来朝す。
十二月壬子、上柱国・右武候大将軍・魯国公虞慶則、罪を以て誅せらる。
開皇十八年
十八年春正月辛丑、詔して曰く、「呉・越の人、往弊俗を承け、所在の処に、私に大船を造り、因りて相集結し、致して侵害有り。其の江南諸州に於て、人間に船長三丈已上の者有らば、悉く官に括入せよ」と。
二月甲辰、仁寿宮に幸す。乙巳、漢王諒を行軍元帥と為し、水陸三十万を以て高麗を伐つ。
三月乙亥、柱国杜彦を以て朔州総管と為す。
夏四月癸卯、蒋州刺史郭衍を以て洪州総管と為す。
五月辛亥、猫鬼・蠱毒・厭魅・野道を畜ふ家を詔し、四裔に投ず。
六月丙寅、詔を下し高麗王高元の官爵を黜く。
秋七月壬申、詔して河南八州の水害により、その課役を免ず。丙子、詔して京官五品以上、総管・刺史に、志行修謹・清平幹済の二科をもって人を挙げしむ。
九月己丑、漢王諒の軍は疾疫に遭いて引き返し、死者は十のうち八九に及ぶ。庚寅、勅して客舎に公験なき者は、刺史・県令に連座せしむ。辛卯、仁寿宮より至る。
冬十一月甲戌、上みずから囚徒を録す。癸未、南郊に事あり。
十二月庚子、上柱国・夏州総管・任城郡公王景は罪により誅せらる。是の月、京師より仁寿宮に至るまで、行宮十二所を置く。
開皇十九年
十九年春正月癸酉、天下に大赦す。戊寅、武徳殿に大射し、百官に宴賜す。二月己亥、晋王広来朝す。辛丑、并州総管長史宇文㢸を以て朔州総管と為す。甲寅、仁寿宮に幸す。
夏四月丁酉、突厥の利可汗内附す。達頭可汗塞を犯す、行軍総管史万歳を遣わしてこれを撃破せしむ。
六月丁酉、豫章王暕を以て内史令と為す。
秋八月癸卯、上柱国・尚書左僕射・斉国公高熲は事に坐して免ぜらる。辛亥、上柱国・皖城郡公張威卒す。甲寅、上柱国・城陽郡公李徹卒す。
九月乙丑、太常卿牛弘を以て吏部尚書と為す。
冬十月甲午、突厥の利可汗を啓人可汗と為し、大利城を築きてその部落を処置す。庚子、朔州総管宇文㢸を以て代州総管と為す。
十二月乙未、突厥の都藍可汗は部下のために殺さる。丁丑、星勃海に隕つ。
開皇二十年
二十年春正月辛酉朔、上仁寿宮に在り。突厥・高麗・契丹並びに使いを遣わして方物を貢ぐ。癸亥、代州総管宇文㢸を以て呉州総管と為す。
二月己巳、上柱国崔弘度を以て原州総管と為す。丁丑、雲無くして雷す。
三月辛卯、熙州の人李英林が反乱を起こし、行軍総管張衡を派遣してこれを討ち平らげた。
夏四月壬戌、突厥が塞を侵犯したので、晋王広を行軍元帥とし、これを撃破した。乙亥、天に水を瀉ぐが如き声あり、南より北へと至る。
六月丁丑、秦王俊薨ず。
秋八月、老人星現る。
九月丁未、仁寿宮より至る。癸丑、呉州総管楊异卒す。
冬十月己未、太白昼に見ゆ。乙丑、皇太子勇及び諸子並びに廃されて庶人と為る。柱国・太平県公史万歳を殺す。己巳、左衛大将軍・五原郡公元旻を殺す。
十一月戊子、天下地震し、京師大風雪あり。晋王広を以て皇太子と為す。
十二月戊午、詔して東宮官属は皇太子に臣と称することを得ざるべしとす。辛巳、詔して曰く、「仏法は深妙、道教は虚融にして、皆大慈を降し、群品を済度し、凡そ含識に在る者は、皆覆護を蒙る。是の故に霊相を彫鋳し、真形を図写し、率土瞻仰して、以て誠敬を申す。其の五嶽四鎮は、雲雨を節宣し、江・河・淮・海は、区域を浸潤し、並びに万物を生養し、兆人に利益する。故に廟を建て祀を立て、時に恭敬す。敢えて仏及び天尊の像、嶽鎮海瀆の神形を毀壊し偷盗する者は、不道を以て論ず。沙門仏像を壊し、道士天尊を壊す者は、悪逆を以て論ず。」
二月乙卯朔、日蝕あり。辛巳、上柱国独孤楷を以て原州総管と為す。
三月壬辰、豫章王暕を以て揚州総管と為す。
夏四月、淅州刺史蘇孝慈を以て洪州総管と為す。
五月己丑、突厥男女九万口来たり降る。壬辰、驟雨震雷し、大風木を抜き、宜君の湫水始平に移る。
六月癸丑、洪州総管蘇孝慈卒す。乙卯、十六使を派遣して風俗を巡省せしむ。乙丑、詔して曰く、「儒学の道は、生人を訓教し、父子君臣の義を識り、尊卑長幼の序を知り、之を朝に昇らせ、職を以て之に任ず。故に時務を賛理し、風範を弘益する能う。朕天下に撫臨し、徳教を弘めんと思い、学徒を延集し、庠序を崇建し、進仕の路を開き、賢雋の人を佇つ。而るに国学の冑子、将に千数に垂れ、州県の諸生も、亦少なからず。徒に名録有るのみにて、空しく歳時を度り、未だ徳代の範と為り、才国用に任ずる者有らず。良く学を設くるの理、多きも未だ精ならざるに由る。今宜しく簡省し、明らかに奬励を加うべし。」ここに於いて国子学は唯だ留学生七十人を留め、太学・四門及び州県学は並びに廃す。其の日、諸州に舎利を頒つ。
秋七月戊戌、国子を太学と改む。
九月癸未、柱国杜彦を雲州総管と為す。
十一月己丑、南郊に事有り。壬辰、資州刺史衛玄を遂州総管と為す。
三月己亥、仁寿宮に幸す。壬寅、齊州刺史張喬を潭州総管と為す。
夏四月庚戌、岐・雍二州地震有り。
秋七月丙戌、内外の官に詔して各々知る所を挙げしむ。戊子、原州総管獨孤楷を益州総管と為す。
八月己巳、皇后獨孤氏崩ず。
九月丙戌、仁寿宮より至る。壬辰、河南・北諸州大水有り、工部尚書楊達を遣わして賑恤せしむ。乙未、上柱国・襄州総管・金水郡公周搖卒す。隴西地震有り。
冬十月壬子、益州管内を曲赦す。癸丑、工部尚書楊達を納言と為す。
閏月甲申、尚書左僕射楊素に詔して諸術者と陰陽の舛謬を刊定せしむ。己丑、詔して曰く、「礼の用たるや、時の義大なるかな。黄琮蒼璧は天地の神を降し、粢盛牲食は宗廟の敬を展べ、父子君臣の序を正し、婚姻喪紀の節を明らかにす。故に道德仁義は礼なくして成らず、上を安んじ人を治むるは礼より善きは莫し。区宇乱離より以来、年代を緜歴し、王道衰えて変風作し、微言絶えて大義乖き、代と推移し、その弊日甚だし。四時郊祀の節文に至り、五服麻葛の隆殺に至りては、是非異説、踳駁殊塗、聖教の凋訛を致し、軽重準無し。朕天命を祗承し、生人を撫臨す。洗滌の時に当たり、干戈の代に属す。禍乱を克定し、先ず武功を運び、彝典を刪正するに日暇あらず。今四海乂安し、五戎用無し。理宜く風を弘め俗を訓み、徳を導き礼を斉うすべし。往聖の旧章を綴り、先王の茂則を興す。尚書左僕射・越国公楊素、尚書右僕射・邳国公蘇威、吏部尚書・奇章公牛弘、内史侍郎薛道衡、秘書丞許善心、内史舍人虞世基、著作郎王劭、或いは任端揆に居り古今に博達し、或いは器令望に推され経史を学綜す。裁緝に委するは、実に僉議に允かなり。並びに五礼を修定すべし」。壬寅、献皇后を太陵に葬る。
十二月癸巳、上柱国・益州総管蜀王秀を廃して庶人と為す。交州人李仏子兵を挙げて反す。行軍総管劉方を遣わして討ち平げしむ。
夏五月癸卯、詔して曰く、「哀哀たる父母、我を生みて劬労す。報いんと欲するの徳、昊天罔極なり。但だ風樹静かならず、厳敬追う莫く、霜露既に降り、感思空しく切なり。六月十三日は是れ朕が生日なり。宜しく海内に令して武元皇帝・元明皇后の為に屠断せしむべし」。
六月甲午、詔して曰く、
秋七月丁卯、詔して曰く、
八月壬申、上柱国・検校幽州総管・落叢郡公燕栄、罪に坐して誅せらる。
九月壬戌、常平官を置く。甲子、営州総管韋沖を以て民部尚書と為す。
十二月癸酉、河南諸州水害あり、納言楊達を遣わして之を賑恤せしむ。
仁寿四年
四年春正月丙辰、大赦す。甲子、仁寿宮に幸す。乙丑、詔して賞罰支度の事、巨細を問わず、並びに皇太子に付す。
夏四月乙卯、上、豫せず。
六月庚申、天下に大赦す。星有りて月中に入り、数日にして退く。長人、雁門に見ゆ。
秋七月乙未、日青くして光無く、八日にして乃ち復す。己亥、大将軍段文振を以て雲州総管と為す。甲辰、上、疾甚だしきを以て、仁寿宮に臥し、百僚と辞訣し、並びに手を握りて歔欷す。丁未、大宝殿に崩ず。時に年六十四。遺詔して曰く、
乙卯、喪を発す。河間の楊柳四株、故無くして黄落し、既にして花葉復た生ず。
八月丁卯、梓宮、仁寿宮より至る。丙子、大興前殿に殯す。
冬十月己卯、太陵に合葬す。同じ墳にして異なる穴なり。
上、性厳重にして威容有り、外は質木にして内は明敏、大略有り。初め、政を得るの始め、群情附かず、諸子幼弱、内に六王の謀有り、外に三方の乱を致す。強兵を握り重鎮に居る者は、皆周の旧臣なり。上、赤心を推して之に臨み、各其の用を展ばし、朞月を踰えずして三辺を克定し、十年に及ばずして四海を平一す。賦斂を薄くし、刑罰を軽くし、内に制度を修め、外に戎夷を撫す。毎旦朝を聴き、日昃れて倦みを忘れ、居処服玩は務めて節儉を存し、令行き禁止せられ、上下之に化す。開皇・仁寿の間、丈夫は綾綺を衣せず、而して金玉の飾り無く、常服は率ね多く布帛、装帯は銅鉄骨角を以て過ぎざるのみ。財に嗇きと雖も、功有る者を賞賜するに至りては、亦愛吝する所無し。乗輿四出し、路に上表者に逢えば、則ち馬を駐めて自ら臨み問う。或いは潜に行人を遣わして風俗を採聴し、吏治の得失、人間の疾苦、留意せざる無し。嘗て関中の饑に遇い、左右を遣わして百姓の食する所を視しむ。豆屑雑糠を得て之を奏する者有り。上、流涕して群臣に示し、深く自ら咎責し、之が為に膳を徹して酒肉を御せざること殆ど一朞に将たらんとす。東に太山を拝するに及び、関中の戸口洛陽に就食する者、道路相属す。上、斥候に勅して、輒ち駆逼する有るを得ざらしめ、男女杖衛の間に参廁せしむ。扶老携幼する者に逢えば、輒ち馬を引いて之を避け、慰勉して去る。艱険の処に至り、負担する者を見れば、遽に左右を令して之を扶助せしむ。其の将士戦没する者有らば、必ず優賞を加え、仍ち使者を令して家に就きて労問せしむ。自ら強いて息まず、朝夕孜孜として、人庶殷繁、帑蔵充実す。至治に臻くとは雖も未だ能わざれども、亦近代の良主と称すに足る。然れども天性沈猜にして、素より学術無く、小数を好み、大体に達せず、故に忠臣義士、心を尽くし辞を竭くすを得る者莫し。其の草創の元勲及び功有る諸将、誅夷罪退せられ、存する者罕なり。又詩書を悦ばず、学校を廃除し、唯婦言を用い、諸子を廃黜す。暮年に逮ぶや、法を執ること尤も峻しく、喜怒常無く、殺戮に過ぐ。嘗て左右を令して西域朝貢使を送り玉門関を出さしむ。其の人経る所の処、或いは牧宰の小物饋遺、鸚鵡・麖皮・馬鞭の属を受く。上聞きて大いに怒る。又武庫に詣り、署中蕪穢として治まらざるを見る。是に於て武庫令及び諸の遺を受くる者を執り、開遠門外に出で、自ら臨決し、死者数十人。又往往潜かに人をして令史府史に賂遺せしむ。受くる者有らば必ず死し、寛貸する所無し。議者此を以て之を少なしとす。
【論】
史臣が曰く、高祖は龍徳を田に在らしめ、奇表として異を現し、晦明として用を蔵し、故に我を知る者は希なり。初めは外戚の尊を以て、孤を託するの任を受け、能に与するの議、未だ当時に許されず、是を以て周室の旧臣、皆憤惋を懐く。既にして王謙は三蜀の阻を固くすも、朞月を踰えず、尉迥は全斉の衆を挙ぐるも、一戦にして亡ぶ。斯れ乃ち人謀に止まらず、抑も亦天の賛する所なり。茲の機運に乗じ、遂に周鼎を遷す。時に蛮夷夏を猾し、荊・揚未だ一ならず、日昃に劬労し、四方を経営す。楼船南に邁れば則ち金陵険を失い、驃騎北を指せば則ち単于塞に款く。職方の載する所、並びに疆理に入り、禹貢の図する所、皆正朔を受く。晋武の呉・会を克平するも、漢宣の亡を推し存を固むるも、義を比し功を論ずれば、尚ぶ能はざるなり。七徳既に敷かれ、九歌已に洽く。要荒皆暨り、尉候警無し。ここに躬倹約を務め、徭賦を平らげ、倉廩実り、法令行わる。君子は皆其の生を楽しみ、小人は各其の業に安んず。強きは弱きを陵せず、衆は寡を暴かず。人物殷阜し、朝野歓娛す。二十年の間、天下事無く、区宇の内晏如たり。前に王を考うれば、以て盛烈の蹤に参ずるに足る。但だ素より術学無く、能く下を尽くすこと能わず、寛仁の度無く、刻薄の資有り。暮年に暨るに、此の風愈扇る。又雅に符瑞を好み、大道に暗し。彼の維城を建て、権京室に侔ひ、皆帝制と同じくして、適従する所無し。哲婦の言を聴き、邪臣の説に惑ひ、寵に溺れて嫡を廃し、託付する所を失う。父子の道を滅し、昆弟の隙を開き、其の斧を尋ねるに任せ、本枝を翦伐す。墳土未だ乾かず、子孫屠戮に踵を継ぎ、松檟纔に列するに、天下已に隋有に非ず。惜しいかな。其の衰怠の源を迹し、其の乱亡の兆を稽れば、高祖より起り、煬帝に成る。由り来る所遠くして、一朝一夕に非ず。其の祀を忽諸にせざるは、未だ不幸と為さざるなり。
此の作品は全世界に於いて公有領域に属する。何となれば作者の逝去は既に百年を超え、且つ作品は1931年1月1日以前に出版されたればなり。