皇妣呂氏は、大統七年六月癸丑の夜、高祖を馮翊の般若寺に生み、紫気が庭に満ちた。河東から来た尼がおり、皇妣に言うには、「この児の来歴は甚だ異なり、俗世間において処することはできません。」尼は高祖を別館に置き、自ら養育した。皇妣がかつて高祖を抱いていた時、突然その頭に角が生え、体中に鱗が立ち上がるのを見た。皇妣は大いに驚き、高祖を地に落とした。尼が外から入って来て見て言うには、「すでに我が児を驚かせ、天下を得るのが遅くなることになった。」人となりは龍顔で、額に五本の柱が頂に入り込み、目光は外に射て、手に「王」という文があった。上体は長く下体は短く、沈着で厳重であった。初めて太学に入った時、最も親しい者でも軽々しく接することができなかった。
十四歳の時、京兆尹薛善が功曹に辟召した。十五歳、太祖の勲功により散騎常侍・車騎大将軍・儀同三司を授けられ、成紀県公に封ぜられた。十六歳、驃騎大将軍に遷り、開府を加えられた。周の太祖は見て嘆じて言った、「この児の風骨は、世間の人に似ていない。」明帝が即位すると、右小宮伯を授けられ、大興郡公に進封された。帝はかつて善く相を見る者趙昭に命じてこれを見させた。趙昭は偽って答えて言った、「柱国を超えることはないでしょう。」その後ひそかに高祖に言った、「公は天下の君主となるべきであり、必ず大いに誅殺を行った後に天下は定まるでしょう。私の言葉をよく覚えておいてください。」
建徳年間、水軍三万を率い、河橋において斉軍を破った。翌年、帝に従って斉を平定し、柱国に進位した。宇文憲とともに冀州において斉の任城王高湝を破り、定州総管に任ぜられた。先に、定州城の西門は長く閉ざされて通れなかった。斉の文宣帝の時、ある者がこれを開いて通路の便とすべきことを請うたが、帝は許さず、言った、「聖人が来てこれを開くだろう。」高祖が到着して開くと、驚かない者はなかった。まもなく亳州総管に転じた。宣帝が即位すると、后の父として召されて上柱国・大司馬に拝された。大象初年、大後丞・右司武に遷り、まもなく大前疑に転じた。帝が巡幸するたびに、常に留守を委ねられた。当時、帝は刑経聖制を作り、その法は厳しく深刻であった。高祖は法令がますます煩雑になるのは、教化を興す道ではないとして、切に諫めたが、聞き入れられなかった。
高祖の地位と声望はますます高まり、帝は甚だこれを忌み嫌った。帝には四人の寵姫がおり、皆皇后とされ、各家は寵を争い、しばしば互いに誹謗中傷した。帝はしばしば怒って后に言った、「必ずお前の一族を滅ぼす。」そこで高祖を召し、左右に命じて言った、「もし顔色が動いたら、即座に殺せ。」高祖が到着すると、容色は自若としていたので、やめた。
六月、趙王宇文招・陳王宇文純・越王宇文盛・代王宇文達・滕王宇文逌が皆長安に到着した。相州総管尉遅迥は自ら重臣の宿将として、志が平らかでないことを以て、遂に東夏で兵を挙げた。趙・魏の士は、従う者が流れの如く、十日ほどの間に、その衆は十余万に至った。また宇文冑は滎州において、石愻は建州において、席毗は沛郡において、毗の弟叉羅は兗州において、皆尉遅迥に応じた。迥は子を人質として陳に送り援軍を請うた。高祖は上柱国・鄖国公韋孝寛に命じてこれを討たせた。雍州牧畢王宇文賢及び趙王ら五王は、天下の望みが高祖に帰するのを以て、謀って乱を起こそうとした。高祖は宇文賢を捕らえて斬り、趙王らの罪は問わず、そこで詔して五王に剣を帯び履を穿いて殿に上り、朝に入るに趨らず、その心を安んじさせた。
七月、陳の将軍陳紀・蕭摩訶らが広陵を寇し、呉州総管于顗が転じてこれを撃破した。広陵の人杜喬生が衆を集めて反乱を起こし、刺史元義が討って平定した。韋孝寛が相州において尉遅迥を破り、その首を闕下に伝え、残党は悉く平定した。初め、尉遅迥の乱の時、鄖州総管司馬消難が州を拠ってこれに呼応し、淮南の州県は多くこれに同調した。襄州総管王誼に命じてこれを討たせ、消難は陳に奔った。荊・郢の諸蛮が隙に乗じて乱を起こし、亳州総管賀若誼に命じてこれを討平させた。先に、上柱国王謙が益州総管であったが、幼主が位に在り、政が高祖から出るのを見て、遂に巴・蜀の衆を起こし、匡復を名目とした。高祖はちょうど東夏・山南のことを憂慮しており、討伐に及ぶ暇がなかった。王謙は兵を進めて剣閣に屯し、始州を陥れた。ここに至り、行軍元帥・上柱国梁睿に命じてこれを討平させ、その首を闕下に伝えた。巴・蜀は険阻を頼み、人は乱を好むので、ここに平らかな道を開き、剣閣の路を壊し、銘を立てて戒めを垂れた。五王の陰謀はますます甚だしくなり、高祖は酒肴を持って趙王の邸を訪れ、その振る舞いを見ようとした。趙王は甲兵を伏せて高祖を宴に招き、高祖は危うくするところであったが、元冑に頼って難を免れ、詳細は冑伝にある。ここにおいて趙王宇文招・越王宇文盛を誅殺した。
九月、世子の勇を洛州総管・東京小冢宰に任ず。壬子、周帝詔して曰く、「仮黄鉞・使持節・左大丞相・都督内外諸軍事・上柱国・大冢宰・隋国公堅は、山河の霊に感じ、星辰の気に応じ、道は雅俗を高め、徳は幽顕に協う。巾を釈ぎて仕に登り、縉紳傾き属し、物を開き務を成し、朝野風を承く。先皇の詔を受け、寡薄を弼諧し、天地に合して万物を生じ、陰陽に順いて四夷を撫す。近くは、内に艱虞有り、外に妖寇を聞く。鷹鸇の志を以て、帷帳の謀を運らし、両観の誅を行い、万里の外を掃う。遐邇清粛、実に頼む所なり。四海の広き、百官の富める、倶に大訓を稟り、咸く至道を餐す。治定まり功成り、棟梁斯に託す。神猷盛徳、時に二つ莫し。大丞相を授くべし。左・右丞相の官を罷め、余は故の如し」と。
冬十月壬申、詔して高祖の曾祖烈を柱国・太保・都督徐兗等十州諸軍事・徐州刺史・隋国公に贈り、諡して康と曰う。祖禎を柱国・太傅・都督陝蒲等十三州諸軍事・同州刺史・隋国公に贈り、諡して献と曰う。考忠を上柱国・太師・大冢宰・都督冀定等十三州諸軍事・雍州牧に贈る。陳王純を誅す。癸酉、上柱国・鄖国公韋孝寛卒す。
十一月辛未、代王達・滕王逌を誅す。
十二月甲子、周帝詔して曰く、
高祖再び譲るも、許さず。乃ち王爵・十郡のみを受く。詔して皇祖・考の爵を進めて並びに王と為し、夫人を王妃と為す。辛巳、司馬消難、陳の師を以て江州に寇し、刺史成休寧之を撃ちて却く。
ここに於いて台を建て官を置く。
丙辰、詔して王の冕に十二旒を立て、天子の旌旗を建て、出には警し入には蹕し、金根車に乗り、六馬を駕し、五時の副車を備え、旄頭雲䍐を置き、楽舞は八佾とし、鍾虡宮懸を設く。王妃を王后と為し、長子を太子と為す。前後三たび譲りて、乃ち受く。
俄にして周帝、衆望帰する有るを以て、乃ち詔を下して曰く、「元気肇めて闢き、之に君を樹つ。命有りて恒ならず、輔うる所は惟だ徳のみ。天心人事、賢を選び能に与し、四海を尽くして推すを楽しましむ。一人に独り有するに非ず。周の徳将に尽き、妖孽遞に生じ、骨肉虞多く、藩維釁を構う。影響悪を同じくし、区宇の過半を過ぐ。或いは小なり或いは大なり、帝を図り王を図る。則ち我が祖宗の業、線の如く絶えず。相国隋王、叡聖天よりし、英華独り秀で、刑法と礼儀と運を同じくし、文徳と武功と遠く倶にし、万物を愛すること其れ己の如くし、兆庶を任ずること以て憂いと為す。手ずから璣衡を運らし、躬から将士を命じ、姦宄を芟夷し、氛祲を刷蕩し、化は冠帯に通じ、威は幽遐に震う。虞舜の大功二十、未だ比ぶるに足らず、姬発の位を合する三五、豈に足りて論ずべけんや。況んや木行已に謝し、火運既に興り、河・洛革命の符を出だし、星辰代終の象を表す。煙雲色を改め、笙簧音を変じ、獄訟咸く帰し、謳歌尽く至る。且つ天地徳を合し、日月貞明なり。故に大を称して王と為し、下土を照臨す。朕寡昧と雖も、未だ変通に達せず、幽顕の情、皎然として識り易し。今便ち祗って天命に順い、出でて別宮に遜り、位を隋に禅る。一に唐・虞・漢・魏の故事に依る」と。高祖三たび譲るも、許さず。兼太傅・上柱国・杞国公椿を遣わし、冊を奉って曰く、
大宗伯・大将軍・金城公趙煚を遣わし、皇帝の璽紱を奉らしむ。百官進むを勧む。高祖乃ち之を受く。
三月辛巳の日、高平にて赤雀を獲、太原にて蒼烏を獲、長安にて白雀を獲、各一羽。宣仁門の槐樹に連理あり、衆枝内に附く。壬午、白狼国より方物を献ず。甲申、太白昼に見ゆ。乙酉、また昼に見ゆ。上柱国元景山を以て安州総管と為す。丁亥、詔して犬馬器玩口味を献上することを得ざらしむ。戊子、山沢の禁を弛む。上開府、当亭県公賀若弼を以て楚州総管と為し、和州刺史、新義県公韓擒を廬州総管と為す。己丑、盩厔県連理樹を献じ、これを宮庭に植う。辛卯、上柱国、神武郡公竇毅を以て定州総管と為す。戊戌、太子少保蘇威を以て納言・吏部尚書を兼ねしめ、余官は故の如し。庚子、詔して曰く、「古より帝王終を受け代を革むるに、侯を建て爵を錫うこと、多く運とともに遷る。朕は籙に応え図を受け、海内に君臨し、沿革を懐うに、事同じからず。然れども前帝後王、倶に兼済に在り、功を立て事を立つるに、爵賞仍り行わる。時に利するあらば、その致すところ一揆なり、何ぞ物我の異を謂い、今古の殊を計わんや。その前代の品爵は、悉く旧に依るべし」。丁未、梁主蕭巋その太宰蕭巖・司空劉義を使わして来賀せしむ。
四月辛巳、大赦す。壬午、太白・歳星昼に見ゆ。戊戌、太常の散楽並びに放ち百姓と為す。雑楽百戯を禁ず。辛丑、陳の散騎常侍韋鼎・兼通直散騎常侍王瑳、周に聘せんとして来たり、至るに上既に禅を受けたり、これを介国に致す。是の月、稽胡を発して長城を修築せしめ、二旬にして罷む。
五月戊子、邗国公楊雄を封じて広平王と為し、永康郡公楊弘を河間王と為す。辛未、介国公薨ず、上朝堂に於いて哀を挙ぐ、その族人洛を以て嗣がしむ。
六月癸未、詔して初めて天命を受く、赤雀降りて祥をなす、五徳相生し、赤は火の色なりとす。その郊及び社廟は、服冕の儀に依り、而して朝会の服、旗幟犠牲は、尽く赤を尚しむるを令す。戎服は黄を以てす。
秋七月乙卯、上始めて黄を服し、百僚畢く賀す。庚午、靺鞨の酋長方物を貢ぐ。
八月壬午、東京の官を廃す。突厥の阿波可汗使いを遣わし方物を貢ぐ。甲午、行軍元帥楽安公元諧を遣わし、青海に於いて吐谷渾を撃ち、これを破りて降す。
九月戊申、戦亡の家に、使いを遣わし賑給す。庚午、陳の将周羅睺胡墅を攻め陥れ、蕭摩訶江北を寇す。辛未、越王秀を以て益州総管と為し、改めて封じて蜀王と為す。壬申、上柱国、薛国公長孫覧、上柱国、宋安公元景山を以て、並びに行軍元帥と為し、もって陳を伐たしめ、仍りて尚書左僕射高熲に命じて諸軍を節度せしむ。突厥の沙鉢略可汗使いを遣わし方物を貢ぐ。是の月、五銖錢を行ふ。
冬十月乙酉、百済王扶餘昌使いを遣わし来賀し、昌を授けて上開府・儀同三司・帯方郡公と為す。戊子、新律を行ふ。壬辰、岐州に行幸す。
十一月乙卯、永昌郡公竇栄定を以て右武候大将軍と為す。丁卯、兼散騎侍郎鄭撝を遣わし陳に使せしむ。己巳、流星有り、声は牆の隤るるが如く、光地を燭す。
十二月戊寅、申州刺史尒朱敞を以て金州総管と為す。甲申、礼部尚書韋世康を以て吏部尚書と為す。己丑、柱国元袞を以て廓州総管と為し、興勢郡公衞玄を淮州総管と為す。庚子、岐州より至る。壬寅、高麗王高陽使いを遣わし朝貢し、陽を授けて大将軍・遼東郡公と為す。太子太保柳敏卒す。
二月己丑、詔して高熲等に班師せしむ。庚寅、晋王広を以て左武衞大将軍と為し、秦王俊を右武衞大将軍と為し、余官並びに故の如し。辛卯、趙国公獨孤陀の第に幸す。庚子、京師に土雨ふる。
三月戊申、渠を開き、杜陽水を三畤原に引く。
四月丁丑、寧州刺史竇栄定を以て左武候大将軍と為す。庚寅、大将軍韓僧寿、鶏頭山に於いて突厥を破り、上柱国李充、河北山に於いて突厥を破る。
五月戊申、上柱国、開府長孫平を以て度支尚書と為す。己酉、旱す、上親しく囚徒を省みる。その日大雨ふる。己未、高宝寧平州を寇し、突厥長城に入る。庚申、豫州刺史皇甫績を以て都官尚書と為す。壬戌、太尉、任国公于翼薨ず。甲子、伝国璽を改めて受命璽と曰う。
六月壬午、太府卿蘇孝慈を兵部尚書とし、雍州牧・衞王爽を原州総管とした。甲申、使者を遣わして陳国に弔問した。乙酉、上柱国李充が馬邑において突厥を破った。戊子、上柱国叱李長叉を蘭州総管とした。辛卯、上開府尒朱敞を徐州総管とした。
丙申、詔して曰く、「朕は上玄を祗奉し、万国に君臨す。生民の弊に属し、前代の宮に処す。常に作る者は労し、居る者は逸すと為し、改創の事は心に遑あらざるなり。然るに王公大臣謀を陳べ策を献じ、咸に云う、羲・農より以降、姬・劉に至るまで、代に当たりて屡遷する有り、革命にして徙らざるは無しと。曹・馬の後、時に因循を見るは、乃ち末世の宴安にして、往聖の宏義に非ざるなり。此の城は漢に従い、彫残日久しく、屡び戦場と為り、旧に喪乱を経たり。今の宮室は、事権宜に近く、又謀筮に従い龜を瞻し星を揆り日に足らず、皇王の邑を建て、大衆の聚まるに合するに足らず。変通の数を論じ、幽顕の情を具え、同心固く請う、詞情深切なり。然らば則ち京師は百官の府、四海の帰向、朕一人の独り有する所に非ず。苟くも物に利あらば、其れ違う可けんや。且つ殷の五遷は、人の尽く死するを恐る、是れ則ち吉凶の土を以て、長短の命を制す。新を謀り故を去るは、農の秋を望むが如く、暫くは劬労と雖も、其れ究むるは安宅なり。今区宇寧一、陰陽順序し、安安として以て遷るに、胥怨を懐うること勿れ。龍首山は川原秀麗、卉物滋阜し、卜食相土、宜しく都邑を建つべし。定鼎の基永く固く、無窮の業斯に在り。公私の府宅、規模の遠近、営構の資費、事に随い条奏せよ」と。仍て詔して左僕射高熲・将作大匠劉龍・鉅鹿郡公賀婁子幹・太府少卿高龍叉等に新都を創造せしむ。
秋八月癸巳、左武候大将軍竇栄定を秦州総管とした。
十月癸酉、皇太子勇に兵を咸陽に屯せしめ、以て胡に備う。庚寅、上疾愈え、観徳殿において百僚を饗す。銭帛を賜い、皆其の自ら取るに任せ、力を尽くして出ださしむ。辛卯、新都営造の副監賀婁子幹を工部尚書とした。
十一月丙午、高麗使いを遣わして方物を献ず。
十二月辛未、上後園において武を講ず。甲戌、上柱国竇毅卒す。丙子、新都を名づけて大興城と曰う。乙酉、沁源公虞慶則を遣わして弘化に屯せしめ、胡に備う。突厥周槃を寇す。行軍総管達奚長儒之を撃つも、虜に敗れられる。丙戌、国子生に経明なる者に束帛を賜う。丁亥、親しく囚徒を録す。
二月己巳朔、日蝕有り。壬申、北道の勲人を宴す。癸酉、陳使いを遣わし、散騎常侍賀徹を兼ね、通直散騎常侍蕭褒を兼ねて来聘せしむ。突厥辺を寇す。甲戌、涇陽に毛龜を獲る。癸未、左衞大将軍李礼成を右武衞大将軍とした。
三月丁未、上柱国・鮮虞県公謝慶恩卒す。己酉、上柱国達奚長儒を蘭州総管とした。丙辰、雨、常服にて新都に入る。京師に醴泉出づ。丁巳、詔して天下に遺書を購求す。庚申、百僚を宴し、班賜各差有り。癸亥、榆関を城す。
夏四月己巳、上柱国・建平郡公于義卒す。庚午、吐谷渾臨洮を寇し、洮州刺史皮子信之に死す。辛未、高麗使いを遣わして来朝す。壬申、尚書右僕射趙煚に内史令を兼ねしむ。丁丑、滕王瓚を雍州牧とした。己卯、衞王爽白道において突厥を破る。庚辰、行軍総管陰寿黄龍において高宝寧を破る。甲申、旱、上親しく国城の西南に雨師を祀る。丙戌、詔して天下に学を勧め礼を行わしむ。済北郡公梁遠を汶州総管とした。己丑、陳の郢州城主張子譏使いを遣わして降を請う。上和好を以て、納れず。辛卯、使いを遣わし、散騎常侍薛舒を兼ね、通直散騎常侍王劭を兼ねて陳に使わしむ。癸巳、上親しく雩す。甲午、突厥使いを遣わして来朝す。
五月癸卯、行軍総管李晃摩那渡口において突厥を破る。甲辰、高麗使いを遣わして来朝す。乙巳、梁の太子蕭琮来たりて遷都を賀す。丁未、靺鞨方物を貢ぐ。戊申、幽州総管陰寿卒す。辛酉、方沢に事有り。壬戌、行軍元帥竇栄定涼州において突厥及び吐谷渾を破る。丙寅、黄龍の死罪以下を赦す。
六月庚午、衞王爽の子集を遂安郡王とした。戊寅、突厥使いを遣わして和を請う。庚辰、行軍総管梁遠爾汗山において吐谷渾を破り、其の名王を斬る。壬申、晋州刺史燕栄を青州総管とした。己丑、河間王弘を寧州総管とした。乙未、安成長公主の第に幸す。
秋七月辛丑、豫州刺史周搖を幽州総管とした。壬戌、詔して曰く、「仁を行い義に蹈むは、名教の先んずる所、俗を厲し風を敦くするは、宜しく褒奬を見すべし。往者、山東・河表、此の妖乱を経て、孤城遠く守り、多く自ら全からず。済陰太守杜猷身賊徒に陷り、命寇手に懸かる。郡省事范臺玫産を傾けて護り営み、其の戮辱を免れしむ。眷言誠節、実に嘉す可き有り、宜しく恒賞を超え、用て沮勸を明らかにすべし。臺玫は大都督・仮の湘州刺史とす可し」と。丁卯、日蝕有り。
八月丁丑、靺鞨方物を貢ぐ。己卯、右武衞大将軍李礼成を襄州総管とした。壬午、尚書左僕射高熲を遣わして寧州道より出で、内史監虞慶則を遣わして原州道より出でしめ、並びに行軍元帥と為し、以て胡を撃たしむ。戊子、上太社に事有り。
九月壬子、城東に幸し、稼穀を観る。癸丑、大赦天下す。
冬十月甲戌、河南道行臺省を廃し、秦王楊俊を秦州総管とする。
十一月己酉、使者を発して風俗を巡省せしめ、詔を下して曰く、「朕は区宇に君臨し、治術を深く思い、生民をして教化に従わしめ、徳を以て刑に代えんと欲す。草萊の善を求め、閭里の行を旌せんとす。民間の情偽、備聞せんことを欲す。既に使人に詔し、所在に賑恤せしめ、鑣を揚げて路を分ち、将に四海に遍からんとす。必ず朕の耳目たらしめよ。もし文武の才用ありて、未だ時に知られざる者あらば、宜しく礼を以て発遣し、朕将に銓擢せん。其れ志節高妙、等を越え倫を超ゆる者あらば、亦仰せて使人に就きて旌異を加えしめ、一行一善を以て人を奨励せしめよ。遠近の官司、遐邇の風俗、巨細必ず紀し、還る日に奏聞せよ。庶幾くは戸庭を出でずして、坐して万里を知らん。」庚辰、陳が散騎常侍周墳・通直散騎常侍袁彦を遣わして来聘す。陳主は上の容貌世人に異なるを知り、彦に画像させて持たしめて去る。甲午、天下の諸郡を罷む。
閏十二月乙卯、兼散騎常侍曹令則・通直散騎常侍魏澹を遣わして陳に使わす。戊午、上柱国竇栄定を右武衛大将軍とし、刑部尚書蘇威を民部尚書とする。
四年春正月甲子、日蝕あり。己巳、太廟に事あり。辛未、南郊に事あり。壬申、梁主蕭巋来朝す。甲戌、北苑に大射し、十日にして罷む。壬午、斉州に水害あり。辛卯、渝州に獣を獲ること麋に似て、一角同じき蹄あり。壬辰、新暦を班つ。
二月乙巳、上は梁主を覇上にて餞る。丁未、靺鞨方物を貢ぐ。突厥蘇尼部男女一万余人来降す。庚戌、隴州に幸す。突厥可汗阿史那玷その属を率いて来降す。
夏四月己亥、総管・刺史の父母及び子年十五以上は、之を官に将ゆることを得ざるを勅す。庚子、吏部尚書虞慶則を尚書右僕射とし、瀛州刺史楊尚希を兵部尚書とし、毛州刺史劉仁恩を刑部尚書とする。甲辰、上柱国叱李長叉を信州総管とする。丁未、突厥・高麗・吐谷渾の使者を大興殿にて宴す。丁巳、上大将軍賀婁子幹を榆関総管とする。
五月癸酉、契丹主莫賀弗使いを遣わして降を請い、大将軍に拝す。丙子、柱国馮昱を汾州総管とする。乙酉、汴州刺史呂仲泉を延州総管とする。
六月庚子、囚徒を降す。乙巳、鴻臚卿乙弗寔を翼州総管とし、上柱国豆盧勣を夏州総管とする。壬子、渠を開き、渭より河に至りて運漕を通ず。戊午、秦王楊俊来朝す。
秋七月丙寅、陳が兼散騎常侍謝泉・兼通直散騎常侍賀徳基を遣わして来聘す。
八月甲午、十使を遣わして天下を巡省せしむ。戊戌、衛王楊爽来朝す。是の日、秦王楊俊妃を納るるを以て、百僚を宴し、頒賜各差あり。壬寅、上柱国・太傅・鄧国公竇熾薨ず。丁未、秦王の官属を宴し、賜物各差あり。壬子、陳使を饗す。乙卯、陳将夏侯苗降を請う、上は通和を以て、納れず。
九月甲子、襄国公主の第に幸す。乙丑、覇水に幸し、漕渠を観、督役者に帛を賜うこと各差あり。己巳、上親しく囚徒を録す。庚午、契丹内附す。甲戌、駕洛陽に幸す、関内飢饉の故なり。癸未、太白昼見す。
冬十一月壬戌、兼散騎常侍薛道衡・通直散騎常侍豆盧寔を遣わして陳に使わす。癸亥、榆関総管賀婁子幹を雲州総管とする。
五年春正月戊辰、詔して新礼を行わしむ。
三月戊午、尚書左僕射高熲を左領軍大将軍とし、上柱国宇文忻を右領軍大将軍とする。
夏四月甲午、契丹主多彌使いを遣わして方物を貢ぐ。壬寅、上柱国王誼謀反し、誅に伏す。乙巳、詔して山東の馬栄伯等六儒を徴す。戊申、車駕洛陽より至る。
五月甲申、詔して義倉を置く。梁主蕭巋殂す、其の太子琮嗣ぎ立つ。上大将軍元契を遣わして突厥の阿波可汗に使わす。
秋七月庚申、陳、兼散騎常侍王話・兼通直散騎常侍阮卓を遣わして来聘す。丁丑、上柱国宇文慶を以て涼州総管と為す。壬午、突厥の沙鉢略、表を上りて臣と称す。
八月丙戌、沙鉢略可汗、子の庫合真特勤を遣わして来朝す。甲辰、河南諸州水有り、民部尚書邳国公蘇威を遣わして之を賑給す。戊申、流星数百有り、四散して下る。己酉、栗園に幸す。
九月丁巳、栗園より至る。乙丑、鮑陂を改めて杜陂と曰い、霸水を滋水と為す。陳将湛文徹、和州を寇す、儀同三司費宝首之を獲る。丙子、兼散騎常侍李若・兼通直散騎常侍崔君贍を遣わして陳に使わす。
冬十月壬辰、上柱国楊素を以て信州総管と為し、朔州総管吐万緒を徐州総管と為す。
十一月甲子、上大将軍源雄を以て朔州総管と為す。丁卯、晋王広来朝す。
十二月丁未、囚徒を降す。戊申、上柱国達奚長儒を以て夏州総管と為す。
六年春正月甲子、党項羌内附す。庚午、暦を突厥に班つ。辛未、柱国韋洸を以て安州総管と為す。壬申、民部尚書蘇威を遣わして山東を巡省せしむ。
二月乙酉、山南の荊・淅七州水有り、前工部尚書長孫毗を遣わして之を賑恤す。丙戌、刺史・上佐の制を為し、毎歳暮更に入朝し、上考課せしむ。丁亥、丁男十一万を発して長城を修築せしめ、二旬にして罷む。乙未、上柱国崔弘度を以て襄州総管と為す。庚子、天下に大赦す。
三月己未、洛陽の男子高德上書し、上を請いて太上皇と為し、位を皇太子に伝えんことを請う。上曰く、「朕は天命を承け、蒼生を撫育す。日旰くして孜孜として、猶お及ばざるを恐る。豈に近代の帝王に学び、事古に師せず、位を子に伝え、自ら逸楽を求むる者にせんや」と。癸亥、突厥の沙鉢略、使いを遣わして方物を貢す。
夏四月己亥、陳、兼散騎常侍周磻・兼通直散騎常侍江椿を遣わして来聘す。
秋七月辛亥、河南諸州水有り。乙丑、京師に雨毛有り、馬の鬉尾の如く、長き者は二尺余、短き者は六七寸。
八月辛卯、関内七州旱有り、其の賦税を免ず。散騎常侍裴豪・兼通直散騎常侍劉顗を遣わして陳に聘す。戊申、上柱国・太師・申国公李穆薨ず。
閏月己酉、河州刺史段文振を以て蘭州総管と為す。丁卯、皇太子洛陽を鎮む。辛未、晋王広・秦王俊並びに来朝す。丙子、上柱国・郕国公梁士彦、上柱国・杞国公宇文忻、柱国・舒国公劉昉、謀反を以て誅に伏す。上柱国・許国公宇文善、事に坐して名を除かる。
九月辛巳、上素服して射殿に御し、詔して百僚に射せしめ、梁士彦の三家の資物を賜う。丙戌、上柱国・宋安郡公元景山卒す。庚子、上柱国李詢を以て隰州総管と為す。辛丑、詔して大象以来死事の家、咸に賑恤せしむ。
冬十月己酉、河北道行臺尚書令・并州総管・晉王楊広を雍州牧とし、その他の官職はもとのままとする。兵部尚書楊尚希を礼部尚書とする。癸丑、山南道行臺尚書省を襄州に設置し、秦王楊俊を尚書令とする。丙辰、芳州刺史駱平難を疊州刺史とし、衡州総管周法尚を黄州総管とする。甲子、甘露が華林園に降る。
七年春正月癸巳、太廟にて祭祀を行う。乙未、諸州が毎年三人を貢士する制度を定める。
二月丁巳、東郊にて朝日を祀る。己巳、陳が兼散騎常侍王亨・兼通直散騎常侍王眘を派遣して来朝する。壬申、車駕(天子の行幸)は醴泉宮に至る。この月、丁男十万余りを徴発して長城を修築し、二十日で終える。
夏四月己酉、晉王(楊広)の邸宅に至る。庚戌、揚州に山陽瀆を開鑿し、運漕を通じさせる。突厥の沙鉢略可汗が卒去し、その子雍虞閭が嗣立する。これが都藍可汗である。癸亥、青龍符を東方の総管・刺史に頒ち、西方には騶虞符、南方には朱雀符、北方には玄武符を以てする。甲戌、兼散騎常侍楊同・兼通直散騎常侍崔儦を陳に派遣する。民部尚書蘇威を吏部尚書とする。
五月乙亥朔、日蝕あり。己卯、武安・滏陽の間十余里に石が雨のように降る。
秋七月己丑、衞王楊爽薨去す。上(皇帝)は門下外省にて喪を発する。
八月丙午、懐州刺史源雄を朔州総管とする。庚申、梁の主蕭琮が来朝する。
九月乙酉、梁の安平王蕭巖がその国において掠奪を行い、陳に奔る。辛卯、梁国を廃し、江陵を曲赦する。梁主蕭琮を柱国とし、莒国公に封ずる。
冬十月庚申、同州に行幸し、先帝(文帝)が居住された所であるため、囚徒を赦す。癸亥、蒲州に至る。丙寅、父老を宴し、上は大いに歓びて曰く、「此の地の人物は、衣服鮮麗にして、容止閑雅なり。まことに官途に就く者の郷里たるにより、陶冶され習俗となったものである」。
十一月甲午、馮翊に至り、故社を親祠する。父老が詔に対し趣旨を誤る。上は大いに怒り、その県官を免じて去る。戊戌、馮翊より帰還する。