陳書

巻三十四 列伝第二十八 文学

巻三十四 列伝第二十八 文学

徐伯陽 張正見 蔡凝 阮卓

原文徐伯陽 張正見 蔡凝 阮卓

杜之偉

原文杜之偉

杜之偉、字あざなは子大、呉郡銭塘の人である。家は代々儒学を業とし、三礼を専門とした。父の規は、梁の奉朝請であり、光禄大夫済陽の江革、都官尚書会稽の孔休源と親しく交わった。

原文杜之偉字子大,吳郡錢塘人也。家世儒學,以三禮專門。父規,梁奉朝請,與光祿大夫濟陽江革、都官尚書會稽孔休源友善。

之偉は幼い頃から聡明で、優れた才能があった。七歳で尚書を学び、やがて詩・礼を習い、その学問をほぼ通暁した。十五歳で、広く文史および儀礼故事を読み、当時の人々はその早熟を称えた。僕射の徐勉がかつてその文章を見て、筆力があることを重んじた。中大通元年、梁の武帝が同泰寺に行幸して身を捨てる(捨身)にあたり、徐勉に儀注の撰定を命じたが、勉は朝廷に先例のない礼であるとして、之偉を召してその儀礼の草案を作らせた。そこで東宮学士に補任するよう上奏し、学士の劉陟らと共に群書を抄撰し、それぞれ題目をつけた。撰した富教・政道の二篇は、いずれも之偉が序文を書いた。湘陰侯蕭昂が江州刺史となると、之偉に記室を掌らせた。昂が没すると、廬陵王蕭続が後任となったが、また手教で招聘した。之偉は固辞して応じず、昂の喪柩を送って都に帰った。引き続き臨城公(蕭大行)の侍読を務めた。まもなく揚州議曹従事・南康嗣王墨曹参軍に任じられ、兼ねて太学限内博士となった。大同七年、梁の皇太子が国学で釈奠を行った際、楽府に孔子・顔子の登歌の詞がなかったので、尚書参議が之偉にその文を作るよう命じ、伶人に伝習させて故事とした。安前邵陵王田曹参軍に転補し、さらに刑獄参軍に転じた。之偉の年齢と地位は甚だ低かったが、特に強記と俊才によって、当世にかなり名を知られ、吏部尚書の張纘は深くその人物を知り、朝廷の器と認めた。

原文之偉幼精敏,有逸才。七歲,受尚書,稍習詩、禮,略通其學。十五,遍觀文史及儀禮故事,時輩稱其早成。僕射徐勉嘗見其文,重其有筆力。中大(同)〔通〕元年,梁武帝幸同泰寺捨身,敕勉撰定儀註,〔一〕勉以臺閣先無此禮,召之偉草具其儀。乃啟補東宮學士,與學士劉陟等鈔撰群書,各為題目。所撰富教、政道二篇,皆之偉為序。及湘陰侯蕭昂為江州刺史,以之偉掌記室。〔二〕昂卒,廬陵王續代之,又手教招引,之偉固辭不應命,乃送昂喪柩還京。仍侍臨(成)〔城〕公讀。〔三〕尋除揚州議曹從事、南康嗣王墨曹參軍,兼太學限內博士。〔大同〕七年,〔四〕梁皇太子釋奠於國學,時樂府無孔子、顏子登哥詞,〔五〕尚書參議令之偉制其文,伶人傳習,以為故事。轉補安前邵陵王田曹參軍,又轉刑獄參軍。之偉年位甚卑,特以彊識俊才,頗有名當世,吏部尚書張纘深知之,以為廊廟器也。

侯景が反かえ乱を起こすと、之偉は山沢に逃げ隠れた。高祖(陳霸先はせん)が丞相となると、その名をかねて聞いていたので、召し出して記室参軍に補任した。中書侍郎に遷り、大著作を領した。高祖が禅譲を受けると、鴻臚卿に任じられ、その他の官職はもとのままとした。之偉は著作の職を解くよう上奏し、「臣は紹泰元年に、中書侍郎を辱うけ、国史を掌ってより、今に至るまで四年になります。臣はもとより凡庸で賤しい身であり、誤ってご識別を蒙り、恩奨に報いようと思い、官職を怠ることは致しませんでした。皇暦が新たになり、軒轅・少昊のような聖王が天下を駆り立てられる今、言を記し事を記す職は、人を易えることは容易ではなく、著作の才は、さらに衆人の中から選ぶべきです。御史中丞の沈炯、尚書左丞の徐陵、梁の前兼大著作の虞荔、梁の前黄門侍郎の孔奐は、あるいは清らかな文と豊かな筆、あるいは強記と古事の考究に優れ、司馬遷・董狐の任は、まさにこの群才に属すべきであり、臣が急に朝廷の場を変え、再び賢者の道を妨げることは許されません。堯の朝廷で皆が譲り合ったことは、確かに追い及ぶべくもありませんが、力を尽くしてその列に就き、どうにか免れることを知りたいと存じます」と言った。優詔をもって許さなかった。まもなく大匠卿に転じ、太中大夫に遷り、引き続き梁史の撰述を命じられた。永定三年に卒去した。時に五十二歳。高祖は大いに悼み惜しみ、詔を下して通直散騎常侍を追贈し、賻として銭五万、布五十匹、棺一具を賜り、期日を定めて哀悼の礼を行った。

原文侯景反,之偉逃竄山澤。及高祖為丞相,素聞其名,召補記室參軍。遷中書侍郎,領大著作。高祖受禪,除鴻臚卿,餘並如故。之偉啟求解著作,曰:「臣以紹泰元年,忝中書侍郎,掌國史,于今四載。臣本庸賤,謬蒙盼識,思報恩獎,不敢廢官。皇曆惟新,驅馭軒、昊,記言記事,未易其人,著作之材,更宜選眾。御史中丞沈炯、尚書左丞徐陵、梁前兼大著作虞荔、梁前黃門侍郎孔奐,或清文贍筆,或彊識稽古,遷、董之任,允屬群才,臣無容遽變市朝,〔六〕再妨賢路。堯朝皆讓,誠不可追,陳力就列,庶幾知免。」優敕不許。尋轉大匠卿,遷太中大夫,仍敕撰梁史。永定三年卒,時年五十二。高祖甚悼惜之,詔贈通直散騎常侍,賻錢五萬,布五十匹,棺一具,剋日舉哀。

之偉の文章は、浮華を尊ばず、温雅で広く豊かであった。制作したものの多くは散逸し、現存するものは十七巻である。

原文之偉為文,不尚浮華,而溫雅博贍。所製多遺失,存者十七卷。

顔晃

原文顏晃

顔晃、字は元明、琅邪臨沂の人である。幼くして孤貧であったが、学問を好み、文采があった。梁の邵陵王の兼記室参軍として初めて官に就いた。当時、東宮学士の庾信がたまたま王府に使いに来た。王が晃に応対させると、信はその若さを軽んじて、「この府の兼記室は何人いるか」と問うた。晃は答えて、「なお宮中の学士より少ないはずです」と言った。当時、これは巧みな応答とされた。

原文顏晃字元明,琅邪臨沂人也。少孤貧,好學,有辭采。解褐梁邵陵王兼記室參軍。時東宮學士庾信嘗使于府中,王使晃接對,信輕其尚少,曰「此府兼記室幾人」?晃答曰「猶當少於宮中學士」。當時以為善對。

侯景の乱の際、西に奔って荊州に赴いた。承聖初年、中書侍郎に任じられた。当時、杜龕が呉興太守であり、ひたすら勇力を好み、その配下には軽薄で危険な少年が多かった。元帝(蕭繹)はこれを憂い、晃にその文書を管掌させた。そして杜龕に勅して、「卿は年もまだ若く、学問を修めるのに遅くはない。顔晃は文学の士であるから、補佐させよ。急な場合でも、必ず諮問し報告すべきである」と言った。杜龕が誅殺されると、晃は世祖(陳蒨ちんせん)に帰順し、世祖は書記の任を委ね、親しく遇すること甚だ篤かった。宣毅府中録事に任じられ、兼ねて記室参軍となった。

原文侯景之亂,西奔荊州。承聖初,除中書侍郎。時杜龕為吳興太守,專好勇力,其所部多輕險少年,元帝患之,乃使晃管其書翰。仍敕龕曰:「卿年時尚少,習讀未晚,顏晃文學之士,使相毗佐,造次之閒,必宜諮稟。」及龕誅,晃歸世祖,世祖委以書記,親遇甚篤。除宣毅府中錄事,兼記室參軍。

永定二年、高祖が大荘厳寺に行幸した夜、甘露が降った。晃は甘露頌を献上し、その文意と内容が典拠に適っていたので、高祖は大いに奇異の感を持った。天嘉初年、員外散騎常侍に遷り、兼ねて中書舎人となり、詔誥を掌った。三年に卒去した。時に五十三歳。詔を下して司農卿を追贈し、諡して貞子とし、併せて墓地を賜った。

原文永定二年,高祖幸大莊嚴寺,其夜甘露降,晃獻甘露頌,詞義該典,高祖甚奇之。天嘉初,遷員外散騎常侍,兼中書舍人,掌詔誥。三年卒,時年五十三。詔贈司農卿,謚曰貞子,并賜墓地。

晃の家柄は単なる家系で、傍らに親戚の後ろ盾もなかったが、孤高に身を修め立て、当世に知られた。その表奏・詔誥は、筆を下せばすぐに完成し、事理を得て、しかも優雅で気品があった。文集二十巻がある。

原文晃家世單門,傍無戚援,而介然脩立,為當世所知。其表奏詔誥,下筆立成,便得事理,而雅有氣質。有集二十卷。

江徳藻

原文江德藻

江徳藻、字は徳藻、済陽考城の人である。祖父の柔之は、斉の尚書倉部郎中であった。父の革は、梁の度支尚書・光禄大夫であった。

原文江德(操)〔藻〕字德藻,〔七〕濟陽考城人也。祖柔之,齊尚書倉部郎中。父革,梁度支尚書、光祿大夫。

徳藻は学問を好み、文章を作ることを善くした。風采は美しく、身長は七尺四寸であった。性質は至孝で、親に仕えて礼を尽くした。異母の兄弟と同居し、恩恵は甚だ篤かった。初めて官に就き、梁の南中郎武陵王行参軍となった。大司馬南平王蕭偉がその才能を聞き、召して東閤祭酒とした。安西湘東王府外兵参軍に転じ、まもなく尚書比部郎に任ぜられたが、父の喪により官を去った。喪が明けた後も、容貌は憔悴やつれ、喪中にいる時と変わらなかった。安西武陵王記室に任ぜられたが、就任しなかった。久しくして、廬陵王記室参軍を授けられた。廷尉正に任ぜられ、まもなく出向して南兗州治中となった。高祖が司空・征北将軍となった時、徳藻を招いて府諮議とした。中書侍郎に転じ、雲麾臨海王長史に遷った。陳の朝廷が建てられると、尚書吏部侍郎に拝された。

原文德藻好學,善屬文。美風儀,身長七尺四寸。性至孝,事親盡禮。與異產昆弟居,恩惠甚篤。起家梁南中郎武陵王行參軍。大司馬南平王蕭偉聞其才,召為東閤祭酒。遷安西湘東王府外兵參軍,尋除尚書比部郎,以父憂去職。服闋之後,容貌毀瘠,如居喪時。除安西武陵王記室,不就。久之,授廬陵王記室參軍。除廷尉正,尋出為南兗州治中。及高祖為司空、征北將軍,引德藻為府諮議。轉中書侍郎,遷雲麾臨海王長史。陳臺建,拜尚書吏部侍郎。

高祖が禅譲を受けると、秘書監を授けられ、尚書左丞を兼ねた。まもなく本官のまま中書舎人を兼ねた。天嘉四年、散騎常侍を兼ね、中書郎劉師知と共に斉に使いし、『北征道理記』三巻を著した。帰還して太子中庶子に拝され、歩兵校尉を領した。ほどなく御史中丞に遷ったが、公事に坐して免官された。まもなく振遠将軍・通直散騎常侍に拝された。自ら県令を求めて、出向して新喩令を補し、政治は恩恵を重んじ、頗る異なる業績があった。六年、官にて卒去した。時に年五十七。世祖は甚だ悼み惜しみ、詔して散騎常侍を追贈した。著した文筆は十五巻。

原文高祖受禪,授祕書監,兼尚書左丞。尋以本官兼中書舍人。天嘉四年,兼散騎常侍,與中書郎劉師知使齊,〔八〕著北征道理記三卷。還拜太子中庶子,領步兵校尉。頃之遷御史中丞,坐公事免。尋拜振遠將軍、通直散騎常侍。自求宰縣,出補新喻令,政尚恩惠,頗有異績。六年,卒於官,時年五十七。世祖甚悼惜之,詔贈散騎常侍。所著文筆十五卷。

子の椿もまた文章を作ることを善くし、太子庶子・尚書左丞を歴任した。

原文子椿,亦善屬文,歷太子庶子、尚書左丞。

庾持

原文庾持

庾持は字を允徳といい、潁川郡鄢陵県の人である。祖父の佩玉は、宋の長沙内史であった。父の沙弥は、梁の長城令であった。

原文庾持字允德,〔九〕潁川鄢陵人也。祖佩玉,宋長沙內史。父〔沙〕彌,〔一0〕梁長城令。

庾持は幼くして孤となり、性質は至孝で、父の喪に服するに礼を過ごした。志を篤くして学問を好み、特に書記を善くし、才芸をもって知られた。初めて官に就き、梁の南平王国左常侍・軽車河東王府行参軍となり、尚書郎を兼ね、まもなく正員となった。出向して安吉令となり、鎮東邵陵王府限外記室に遷り、建康令を兼ねた。天監初年、世祖は庾持と旧知であり、世祖が呉興太守となると、庾持を郡丞とし、書翰を兼ねて掌らせ、これより常に文帝に依った。文帝が張彪を平定して会稽を鎮守すると、また庾持に命じて臨海郡を監察させた。貪欲で放縦なため民心を失い、山賊に掠奪され、幽閉されて百日に及んだが、世祖が劉澄を派遣して討伐平定したため、庾持はようやく免れた。高祖が禅譲を受けると、安東臨川王府諮議参軍を授けられた。天嘉初年、尚書左丞に遷った。長城の功に預かったため、崇徳県子に封ぜられ、邑三百戸を賜った。拝封の日、令史を客とし、その贈り物を受けたため、世祖は怒り、これに坐して免官された。まもなく宣恵始興王府諮議参軍となった。臨安令に任ぜられたが、県民を杖殺した罪に坐して封を免ぜられた。給事黄門侍郎に還った。稜威将軍・塩官令に任ぜられた。光大元年、秘書監に遷り、国史の事を掌った。また少府卿となり、羽林監を領した。太中大夫に遷り、歩兵校尉を領した。太建元年に卒去した。時に年六十二。詔して光禄大夫を追贈した。

原文持少孤,性至孝,居父憂過禮。篤志好學,尤善書記,以才藝聞。解褐梁南平王國左常侍、輕車河東王府行參軍,兼尚書郎,尋而為真。出為安吉令,遷鎮東邵陵王府限外記室,兼建康令。天監初,世祖與持有舊,〔一一〕及世祖為吳興太守,以持為郡丞,兼掌書翰,自是常依文帝。文帝剋張彪,鎮會稽,又令持監臨海郡。以貪縱失民和,為山盜所劫,幽執十旬,世祖遣劉澄討平之,持乃獲免。高祖受禪,授安東臨川王府諮議參軍。天嘉初,遷尚書左丞。以預長城之功,封崇德縣子,邑三百戶。拜封之日,請令史為客,受其餉遺,世祖怒之,因坐免。尋為宣惠始興王府諮議參軍。除臨安令,坐杖殺縣民免封。〔一二〕(遷)〔還〕為給事黃門侍郎。〔一三〕除稜威將軍、鹽官令。光大元年,遷祕書監,知國史事。又為少府卿,領羽林監。遷太中大夫,領步兵校尉。太建元年卒,時年六十二。詔贈光祿大夫。

庾持は字書に通じ、文章を作る毎に奇字を好み、文士もこれを以て彼を嘲笑した。文集十巻がある。

原文持善字書,每屬辭,好為奇字,文士亦以此譏之。有集十卷。

許亨

原文許亨

許亨は字を亨道といい、高陽郡新城県の人で、晋の徴士許詢の六世の孫である。曾祖父の珪は、給事中を歴任し、桂陽太守に任命されたが、志を高尚とし、永興の究山に居住した。これは許詢が隠棲した所である。祖父の勇慧は、斉の太子家令・冗従僕射であった。父の懋は、梁の始平・天門二郡太守・太子中庶子・散騎常侍となり、学芸をもって知られ、『毛詩風雅比興義類』十五巻、『述行記』四巻を撰した。

原文許亨字亨道,高陽新城人,晉徵士詢之六世孫也。曾祖珪,歷給事中,委桂陽太守,高尚其志,居永興之究山,即詢之所隱也。祖勇慧,齊太子家令、冗從僕射。父懋,梁始平天門二郡守、太子中庶子、散騎常侍,以學藝聞,撰毛詩風雅比興義類十五卷,述行記四卷。

許亨は若くして家業を伝え、孤高で節操があった。群書に広く通じ、前代の旧事を多く識り、名望ある者たちは皆彼を推賞し、特に南陽の劉之遴に重んぜられ、常に称揚された。初めて官に就き、梁の安東王行参軍となり、太学博士を兼ね、まもなく平西府記室参軍に任ぜられた。太清初年、征西中記室となり、太常丞を兼ねた。

原文亨少傳家業,孤介有節行。博通群書,多識前代舊事,名輩皆推許之,甚為南陽劉之遴所重,每相稱述。解褐梁安東王行參軍,〔一四〕兼太學博士,尋除平西府記室參軍。太清初,為征西中記室,兼太常丞。

侯景の乱の時、郢州えいしゅうに避難した。折しも梁の邵陵王が東路より到着し、召して諮議参軍とした。王僧辯が郢州を襲撃した時、平素よりその名を聞き、召して儀同従事中郎とした。太尉従事中郎に遷り、呉興の沈炯と対になって書記を掌り、府の政務は全て彼に委ねられた。晋安王が制を承けると、給事黄門侍郎を授けられた。許亨は書簡を奉じて府に辞しようとしたが、王僧辯は答えて言った、「告げを省みるに、朝廷より授けられたことを承る。まことに徳行ある挙げである。卿は操り尚ぶところ惇厚深遠、文芸該博にして、学優れて官に就き、自ら青紫に至る。況んや久しく駿足を繋ぎ、将に轡を頓ぜんとし、虚闇を匡輔するに、期寄すること実に深し。既に遊処を欣び、用いて労屈を忘るるも、枳棘に鵷を棲ますは、常に以て歎きを増す。夕郎の選は、清顕たるも、位は才を以て昇り、差し自ら愧じること無し。且つ卿始めて命を知ると云い、方に康衢を騁けんとす。未だ戟を執るの疲れ有らず、便ち夜行の慨を深くす。来翰を循り返すに、殊に用いて憮然たり。古人相思えば、千里にして駕を命ず。素心昧まず、寧く城闉を限らんや。存顧の深きこと、荒慚已むこと無し」。

原文侯景之亂,避地郢州,會梁邵陵王自東道至,引為諮議參軍。王僧辯之襲郢州也,素聞其名,召為儀同從事中郎。遷太尉從事中郎,與吳興沈炯對掌書記,府朝政務,一以委焉。晉安王承制,授給事黃門侍郎,亨奉牋辭府,僧辯答曰:「省告,承有朝授,良為德舉。卿操尚惇深,文藝該洽,學優而官,自致青紫。況久羈駿足,將成頓轡,匡輔虛闇,期寄實深。既欣遊處,用忘勞屈,而枳棘栖鵷,常以增歎。夕郎之選,雖為清顯,位以才升,差自無愧。且卿始云知命,方騁康衢,未有執戟之疲,便深夜行之慨,循復來翰,殊用憮然。古人相思,千里命駕,素心不昧,寧限城闉,存顧之深,荒慚無已。」

高祖が禅譲を受けると、中散大夫を授けられ、羽林監を領した。太中大夫に遷り、大著作を領し、梁史の事を掌った。初め、王僧辯が誅殺された時、所司が王僧辯とその子の頠の屍を収め、方山に同じ穴に埋めたが、この時まで敢えて言う者はいなかった。許亨は旧吏として、表を上って抗弁しその埋葬を請うた。そこで旧義の徐陵・張種・孔奐らと共に、相率いて家財を以て葬具を営み、凡そ七つの柩を皆改葬した。

原文高祖受禪,授中散大夫,領羽林監。遷太中大夫,領大著作,知梁史事。初,僧辯之誅也,所司收僧辯及其子頠〔屍〕,〔一五〕於方山同坎埋瘞,至是無敢言者。亨以故吏,抗表請葬之,乃與故義徐陵、張種、孔奐等,相率以家財營葬(具),〔一六〕凡七柩皆改窆焉。

光大初年、高宗が輔政に入ると、許亨が貞正で古人の風があることを以て、甚だ欽重し、常に師礼を以てこれに事えた。到仲挙が高宗を出そうと謀った時、毛喜はその詐りを知り、高宗が許亨に問うと、許亨は詔を奉ずるなかれと勧めた。高宗が即位すると、衛尉卿に拝された。太建二年に卒去した。時に年五十四。

原文光大初,高宗入輔,以亨貞正有古人之風,甚相欽重,常以師禮事之。及到仲舉之謀出高宗也,毛喜知其詐,高宗問亨,亨勸勿奉詔。高宗即位,拜衛尉卿。太建二年卒,時年五十四。

初め『斉書』及び志五十巻を撰したが、乱に遇って失われた。後に『梁史』を撰し、完成したものは五十八巻。梁の太清の後に制作した文筆は六巻。

原文初撰齊書并志五十卷,遇亂失亡。後撰梁史,成者五十八卷。梁太清之後所製文筆六卷。

子の善心は早くから名を知られ、官は尚書度支侍郎に至った。

原文子善心,早知名,官至尚書度支侍郎。

褚玠

原文褚玠

褚玠は字を溫理といい、河南陽翟の人である。曾祖父の褚炫は、宋の昇明の初めに謝朏・江敩・劉俁と共に殿中に入り侍し、四友と称された。官は侍中・吏部尚書に至り、諡して貞子といった。祖父の褚澐は、梁の御史中丞であった。父の褚蒙は、太子舍人であった。

原文褚玠字溫理,河南陽翟人也。曾祖炫,宋昇明初與謝朏、江效、劉俁入侍殿中,謂之四友。官至侍中、吏部尚書,諡貞子。祖澐,梁御史中丞。父蒙,太子舍人。

褚玠は九歳で孤児となり、叔父の驃騎從事中郎褚隨に養育された。早くから美しい評判があり、先達は多くその才能と器量を認めた。成長すると、風采は優れ、応対に長じ、博学で文章を綴ることができ、言葉と内容は典拠に基づき実質的で、華美なものを好まなかった。王府法曹として出仕し、外兵記室を歴任した。天嘉年間、通直散騎常侍を兼ね、北斉に聘使として赴き、帰朝して桂陽王友となった。太子庶子・中書侍郎に遷った。

原文玠九歲而孤,為叔父驃騎從事中郎隨所養。早有令譽,先達多以才器許之。及長,美風儀,善占對,博學能屬文,詞義典實,不好豔靡。起家王府法曹,歷轉外兵記室。天嘉中,兼通直散騎常侍,聘齊,還為桂陽王友。遷太子庶子、中書侍郎。

太建年間、山陰県には豪族や狡猾な者が多く、前後の県令は皆、贓罪により免職されていた。高宗(陳宣帝)はこれを憂い、中書舍人蔡景歴に言った。「稽陰は大邑であるが、久しく良き宰(県令)がいない。卿は文士の中にあって、その人選を考えてみよ。」景歴が進言して言うには、「褚玠は廉潔で倹約し、実務の才があります。その任に堪えるかどうかは分かりませんが。」高宗は言った。「大変良い。卿の言うことは朕の考えと同じである。」そこで戎昭将軍・山陰令に任じた。県民の張次的・王休達らは諸々の狡猾な役人と賄賂を通じて結託し、全丁(成年男子全員)の大戸を多く隠匿していた。褚玠は張次的らを拘束し、詳細な状況を尚書臺に上奏した。高宗は自ら詔を下して慰労し、使者を遣わして褚玠の調査を助けさせ、出てきた軍戸・民戸は八百余戸に及んだ。

原文太建中,山陰縣多豪猾,前後令皆以贓汙免,高宗患之,謂中書舍人蔡景歷曰:「稽陰大邑,久無良宰,卿文士之內,試思其人。」景歷進曰:「褚玠廉儉有幹用,未審堪其選不?」高宗曰:「甚善,卿言與朕意同。」乃除戎昭將軍、山陰令。縣民張次的、王休達等與諸猾吏賄賂通姦,全丁大戶,類多隱沒。玠乃鎖次的等,具狀啟臺,高宗手敕慰勞,并遣使助玠搜括,所出軍民八百餘戶。

当時、舍人曹義達は高宗の寵愛を受けており、県民の陳信は財産に富み、義達に諂って仕え、陳信の父の陳顯文はその勢いを恃んで横暴であった。褚玠は使者を遣わして陳顯文を捕らえ、鞭打ち一百を加えた。これにより役人や民衆は股を震わせ、敢えて犯す者はなかった。陳信は後に曹義達を通じて褚玠を讒言し、褚玠はついに罪に坐して免官された。褚玠は任にあった一年余り、ただ俸禄を守るだけで、官を去る日には、自ら帰京する旅費も賄えず、県内に留まり、野菜を栽培して自活した。ある者が褚玠を百里(一県)を治める才がないと嗤うと、褚玠は答えて言った。「私は租税を納め、課役の成績は、他の県に劣らない。残虐な者を除き、暴虐を去り、奸吏は恐れおののいている。もし私が自ら脂膏(私腹)を潤すことができないと言うのなら、その通りである。しかし、政治を行うに通じていないと言うのには、私は服さない。」当時の人はこれを真実であると認めた。皇太子(陳叔宝しゅくほう、後の後主)は褚玠に帰りの支度がないことを知り、自ら書をしたためて粟米二百斛こくを賜った。そこで都に戻った。太子は褚玠の文辞を愛し、殿省に入り直番することを命じた。太建十年、電威将軍・仁威淮南王長史に任じられ、間もなく、本官のまま東宮管記を掌った。十二年、御史中丞に遷り、任中に卒した。時に五十二歳。

原文時舍人曹義達為高宗所寵,縣民陳信家富於財,諂事義達,信父顯文恃勢橫暴。玠乃遣使執顯文,鞭之一百,於是吏民股慄,莫敢犯者。信後因義達譖玠,竟坐免官。玠在任歲餘,守祿俸而已,去官之日,不堪自致,因留縣境,種蔬菜以自給。或嗤玠以非百里之才,玠答曰:「吾委輸課最,不後列城,除殘去暴,姦吏局蹐。若謂其不能自潤脂膏,則如來命。以為不達從政,吾未服也。」時人以為信然。皇太子知玠無還裝,手書賜粟米二百斛,於是還都。太子愛玠文辭,令入直殿省。十年,除電威將軍、仁威淮南王長史,頃之,以本官掌東宮管記。十二年,遷御史中丞,卒于官,時年五十二。

褚玠は剛毅で胆力と決断力があり、兼ねて騎射を得意とした。かつて司空侯安都に従って徐州で狩猟に出た時、猛獣に遭遇した。褚玠は弓を引いてこれを射ると、二発とも口から腹へと命中し、間もなく獣は斃れた。御史中丞となってからは、まっすぐな規準を守ることで大いに称えられた。梁末の喪乱以来、朝廷の規律は廃れ弛み、司法・監察の制度は旧態を踏襲し、守るだけで改革されなかった。褚玠はまさにこれを改めようとし、大いに条例を整え、大綱はほぼ挙げたが、編纂が未完成であったため、後世に列挙されることはなかった。死去すると、太子は自ら墓誌銘を撰し、旧臣としての功績を顕彰した。至徳二年、秘書監を追贈された。撰した章奏・雑文二百余篇は、いずれも事理に適切であり、これにより当時に重んじられた。

原文玠剛毅有膽決,兼善騎射。嘗從司空侯安都於徐州出獵,遇有猛獸,〔一七〕玠引弓射之,再發皆中口入腹,俄而獸斃。及為御史中丞,甚有直繩之稱。自梁末喪亂,朝章廢弛,司憲因循,守而勿革,玠方欲改張,大為條例,綱維略舉,而編次未訖,故不列于後焉。及卒,太子親製誌銘,以表惟舊。至德二年,追贈祕書監。所製章奏雜文二百餘篇,皆切事理,由是見重於時。

子の褚亮は才学があり、官は尚書殿中侍郎に至った。

原文子亮,有才學,官至尚書殿中侍郎。

岑之敬

原文岑之敬

岑之敬は字を思禮といい、南陽棘陽の人である。父の岑善紆は、梁の代に経学で知られ、官は呉寧令・司義郎に至った。

原文岑之敬字思禮,南陽棘陽人也。父善紆,梁世以經學聞,官至吳寧令、司義郎。

之敬は五歳の時、孝経を読み、常に香を焚き正座したので、親戚は皆感嘆した。十六歳で、春秋左氏伝の制旨と孝経の義について策問を受け、高第に挙げられた。御史が上奏して言うには、「皇朝には多くの士がおりますが、例として明経に止まります。顔回・閔子騫の流れこそが高第に応じるべきです。」梁の武帝はその策文を御覧になり、「朕がまた顔回・閔子騫を持つことに何の妨げがあろうか」と言い、そこで召し出して面接試験を行い、之敬に講座に昇らせ、中書舍人朱异に孝経を持たせ、士章を唱えさせ、武帝自ら論難した。之敬は縦横に分析し、響きに応えるように応対したので、左右の者は誰もが嘆服した。そこで童子奉車郎に任じ、賞賜は厚かった。十八歳の時、重雲殿の法会に参列した。時に武帝が自ら行香され、之敬をじっと見て言われた。「未だ幾ばくも見ざるに、突として弁(成人の冠)たり!」即日に太学限内博士に任じられた。まもなく寿光学士・司義郎となり、また武陵王安西府刑獄参軍事に任じられた。太清元年、吏職を試みることを上表し、南沙令に任じられた。

原文之敬年五歲,讀孝經,每燒香正坐,親戚咸加歎異。年十六,策春秋左氏制旨、孝經義,擢為高第。御史奏曰:「皇朝多士,例止明經,若顏、閔之流,乃應高第。」梁武帝省其策曰:「何妨我復有顏、閔邪?」因召入面試,令之敬昇講座,敕中書舍人朱异執孝經,唱士章,武帝親自論難。之敬剖釋縱橫,應對如響,左右莫不嗟服。乃除童子奉車郎,賞賜優厚。十八,預重雲殿法會,時武帝親行香,熟視之敬曰:「未幾見兮,突而弁兮!」即日除太學限內博士。尋為壽光學士、司義郎,又除武陵王安西府刑獄參軍事。太清元年,表請試吏,除南沙令。

侯景の乱が起こると、之敬は配下の兵を率いて、京師への救援に赴いた。郡の境界に至り、臺城が陥落したと聞くと、兵衆と別れを告げ、郷里に帰った。承聖二年、晋安王宣恵府中記室参軍に任じられた。この時、蕭勃が嶺表を占拠していたので、詔により之敬が旨を宣べて慰撫することとなったが、江陵が陥落したため、広州に留まった。太建初年、朝廷に戻り、東宮義省学士に任じられた。太子は平素からその名を聞いており、特に礼を下して接遇した。累遷して鄱陽王中衛府記室・鎮北府中録事参軍・南臺治書侍御史・征南府諮議参軍となった。

原文侯景之亂,之敬率領所部,赴援京師。至郡境,聞臺城陷,乃與眾辭訣,歸鄉里。承聖二年,除晉安王宣惠府中記室參軍。是時蕭勃據嶺表,敕之敬宣旨慰喻,會江陵陷,仍留廣州。太建初,還朝,授東宮義省學士,太子素聞其名,尤降賞接。累遷鄱陽王中衛府記室、鎮北府中錄事參軍、南臺治書侍御史、征南府諮議參軍。

之敬は初め経学によって進んだが、広く文史に渉猟し、風雅な文筆があり、純粋な儒者ではなかった。性格は謙虚で慎み深く、才学をもって人を見下すことはなく、後進を引き立てる様子は誠実そのものであった。毎回の忌日には斎を営み、必ず自ら掃除し、一日中涙を流したので、士君子はその篤実な行いを称えた。太建十一年に卒した。時に六十一歳。太子は嘆き惜しみ、賻贈は甚だ厚かった。文集十巻が世に行われた。

原文之敬始以經業進,而博涉文史,雅有詞筆,不為醇儒。性謙謹,未嘗以才學矜物,接引後進,恂恂如也。每忌日營齋,必躬自洒掃,涕泣終日,士君子以篤行稱之。十一年卒,時年六十一。太子嗟惜,賻贈甚厚。有集十卷行於世。

子の岑德潤は父の風があり、官は中軍呉興王記室に至った。

原文子德潤,有父風,官至中軍吳興王記室。

陸琰

原文陸琰

陸琰は字を溫玉といい、吏部尚書陸瓊の従父弟(父の従兄弟の子)である。父の陸令公は、梁の中軍宣城王記室参軍であった。

原文陸琰字溫玉,吏部尚書瓊之從父弟也。父令公,梁中軍宣城王記室參軍。

陸琰は幼くして孤児となり、学問を好み、志操があった。州より秀才に挙げられた。初めて官に就き、宣恵始興王行参軍となり、累進して法曹外兵参軍、直嘉徳殿学士となった。世祖(陳文帝)は政務の余暇に、史籍に心を留め、陸琰が博学で、書物を暗誦するのに長けていることから、左右に引き寄せた。かつて刀の銘文を作らせたところ、陸琰は筆を取ってすぐに完成させ、一字の修正もなく、世祖は長く賞賛し、衣服一揃えを賜った。まもなく通直散騎常侍を兼ね、琅邪王厚に副使として斉に聘問し、鄴に至ったところで王厚が病没したため、陸琰自らが使節の長となった。当時二十余歳で、風采は明るく、応対は優雅で機敏であり、斉の士大夫は大いに心を傾けた。帰国して雲麾新安王主簿となり、安成王長史、寧遠府記室参軍に転じた。太建初年、武陵王明威府功曹史となり、東宮管記を兼ねた。母の喪に服して官を去った。五年に卒去、時に三十四歳。皇太子は大いに悼み、手令を下して哀悼の礼を挙げさせ、贈り物を加え、また自ら誌銘を作った。至徳二年、司農卿を追贈された。

原文琰幼孤、好學,有志操。州舉秀才。解褐宣惠始興王行參軍,累遷法曹外兵參軍,直嘉德殿學士。世祖聽覽餘暇,頗留心史籍,以琰博學,善占誦,引置左右。嘗使製刀銘,琰援筆即成,無所點竄,世祖嗟賞久之,賜衣一襲。俄兼通直散騎常侍,副琅邪王厚聘齊,及至鄴下而厚病卒,琰自為使主。時年二十餘,風神韶亮,占對閑敏,齊士大夫甚傾心焉。還為雲麾新安王主簿,遷安成王長史,〔一八〕寧遠府記室參軍。太建初,為武陵王明威府功曹史,兼東宮管記。丁母憂去官。五年卒,時年三十四。太子甚傷悼之,手令舉哀,加其賻贈,又自製誌銘。至德二年,追贈司農卿。

陸琰は嗜欲が少なく、競い争うことを好まず、心を経籍に遊ばせ、安らかであった。その制作した文章は多く原本が残らず、後主(陳叔宝)がその遺文を求め、二巻に撰成した。弟に陸瑜がいる。

原文琰寡嗜慾,鮮矜競,遊心經籍,晏如也。其所製文筆多不存本,後主求其遺文,撰成二卷。有弟瑜。

弟 陸瑜

原文弟 瑜

陸瑜は字を幹玉という。幼い頃から篤く学び、詞藻を美しくした。州より秀才に挙げられた。初めて官に就き、驃騎安成王行参軍となり、転じて軍師晋安王外兵参軍、東宮学士となった。兄の陸琰が当時管記であり、ともに才学をもって左右に侍して楽しませたので、当時の人は二人を二応(応璩・応瑒)に比した。太建二年、皇太子が太学で釈奠を行い、宮臣がともに詩を賦し、陸瑜に序文を作ることを命じたが、文章は甚だ豊麗であった。尚書祠部郎中に転じ、母の喪に服して職を去った。喪が明けて、桂陽王明威将軍功曹史となり、東宮管記を兼ねた。累進して永陽王文学、太子洗馬、中舎人となった。

原文瑜字幹玉。少篤學,美詞藻。州舉秀才。解褐驃騎安成王行參軍,轉軍師晉安王外兵參軍、東宮學士。兄琰時為管記,並以才學娛侍左右,時人比之二應。太建二年,太子釋奠于太學,宮臣並賦詩,命瑜為序,文甚贍麗。遷尚書祠部郎中,丁母憂去職。服闋,為桂陽王明威將軍功曹史,兼東宮管記。累遷永陽王文學、太子洗馬、中舍人。

陸瑜は幼い頃から読書に励み、昼夜を問わず怠らず、聡明で記憶力が強く、一度見たものは再び遺失することがなかった。かつて汝南の周弘正に『荘子』『老子』を学び、僧滔法師に『成実論』を学び、ともにその大旨を通じた。当時皇太子は学問を好み、群書を博覧しようとしたが、子部・集部の書物が繁多であるため、陸瑜に抄撰を命じたが、完成せずに卒去した。時に四十四歳。皇太子はそのために涙を流し、手令を下して哀悼の礼を挙げさせ、官が喪事を給し、また自ら祭文を作り、使者を遣わして弔祭させた。さらに詹事の江総に書を送り、「管記の陸瑜が突然に逝去し、悲しみ悼み惜しむこの心情は、どうして止められようか。わが平生の愛好は、卿らがよく知るところである。自ら学問が儒雅に渉ると考えても、古人には及ばず、賢者を欽み士を慕うこの心情は、特に篤い。梁室が乱離し、天下が糜沸し、書史は残欠し、礼楽は崩淪し、後進の学徒は、壁に向かうような者でないことはないが、卓然として群を抜く者は、この人だけである。わが識見は狭いが、未だ言葉の議論で人に譲ったことはなく、片善小才に至るまで、特に賞賛して用いた。ましてや広大な識見を持つ奇士であれば、これは言葉を忘れる境地である。その博く子史を綜べ、儒墨に諳究し、耳に経れば遺すことなく、目に触れば誦することができ、一褒一貶、一激一揚、玄理を語り析き、文を披き句を摘むことに、聞く者が心服せず、聴く者が解頤せず、意に会い相得て、自ら布衣の賞賛と思ったことはなかった。わが監撫の暇、事務の隙間の時、多く談笑をもって情を楽しませ、琴や酒樽を間に行い、雅な篇や艶な詩が次々と鋒を起こした。清風朗月、美景良辰のたびに、群山の参差に対し、巨波の滉漾を望み、あるいは新花を賞玩し、時に落葉を観て、春鳥を聴き、また秋雁を聆き、未だ膝を促し觴を挙げ、情を連ね藻を発し、互いに琢磨を代え、間に嘲謔を交え、ともに耳目を怡し、情致に留めたことはなかった。自ら百年を速しと謂い、朝露を傷むべしと謂ったが、まさか玉折れ蘭摧けるように、突然に短い運命に従うとは、悲しみ恨むべきこと、また何を言おうか。遺跡と余文は、目に触れるごとに涙を増し、絃を絶ち筆を投げるたびに、常に酸楚の恨みがある。卿が同志であるので、聊か再び懐を叙べるが、涙の従うところなく、言葉は意を写さない」と記した。このように重んじられたのである。至徳二年、光禄卿を追贈された。文集十巻がある。陸瑜には従父の兄に陸玠、従父の弟に陸琛がいる。

原文瑜幼長讀書,晝夜不廢,聰敏彊記,一覽無復遺失。嘗受莊、老於汝南周弘正,學成實論於僧滔法師,並通大旨。時皇太子好學,欲博覽群書,以子集繁多,命瑜鈔撰,未就而卒,時年四十四。太子為之流涕,手令舉哀,官給喪事,并親製祭文,遣使者弔祭。〔一九〕仍與詹事江總書曰:「管記陸瑜,奄然殂化,悲傷悼惜,此情何已。吾生平愛好,卿等所悉,自以學涉儒雅,不逮古人,欽賢慕士,是情尤篤。梁室亂離,天下糜沸,書史殘缺,禮樂崩淪,晚生後學,匪無牆面,卓爾出群,斯人而已。吾識覽雖局,未曾以言議假人,至於片善小才,特用嗟賞。況復洪識奇士,此故忘言之地。論其博綜子史,諳究儒墨,經耳無遺,觸目成誦,一褒一貶,一激一揚,語玄析理,披文摘句,未嘗不聞者心伏,聽者解頤,會意相得,自以為布衣之賞。吾監撫之暇,事隙之辰,頗用譚笑娛情,琴樽閒作,雅篇豔什,迭互鋒起。每清風朗月,美景良辰,對群山之參差,望巨波之滉瀁,或翫新花,時觀落葉,既聽春鳥,又聆秋鴈,未嘗不促膝舉觴,連情發藻,且代琢磨,間以嘲謔,俱怡耳目,並留情致。自謂百年為速,朝露可傷,豈謂玉折蘭摧,遽從短運,為悲為恨,當復何言。遺跡餘文,觸目增泫,絕絃投筆,恆有酸恨。〔二0〕以卿同志,聊復敘懷,涕之無從,言不寫意。」其見重如此。至德二年,追贈光祿卿。有集十卷。瑜有從父兄玠,從父弟琛。

陸玠は字を潤玉といい、梁の大匠卿陸晏の子である。弘雅で識度があり、学問を好み、文章を綴ることができた。秀才に挙げられ、対策で高第を得た。吏部尚書袁枢が世祖に推薦し、超授で衡陽王文学、直天保殿学士となった。太建初年、長沙王友に転じ、記室を領した。後主が東宮におられた時、その名声を聞き、管記に徴した。そのまま中舎人に任じ、管記は元の通りとし、大いに親しく遇された。まもなく病気で失明し、郷里に帰ろうとした時、皇太子は衣を解いて陸玠に贈り、そのために涙を流した。八年に卒去、時に三十七歳。詔令を下して哀悼の礼を挙げさせ、贈り物を加えた。至徳二年、少府卿を追贈された。文集十巻がある。

原文玠字潤玉,梁大匠卿晏〔子〕之子。〔二一〕弘雅有識度,好學,能屬文。舉秀才,對策高第。吏部尚書袁樞薦之於世祖,超授衡陽王文學,直天保殿學士。太建初,遷長沙王友,領記室。後主在東宮,聞甚名,徵為管記。仍除中舍人,管記如故,甚見親待。尋以疾失明,將還鄉里,太子解衣贈玠,為之流涕。八年卒,時年三十七。有令舉哀,并加賵贈。至德二年,追贈少府卿。有集十卷。

陸琛は字を潔玉といい、宣毅臨川王長史陸丘公の子である。幼い頃から聡明で、後母に仕えて孝行で知られた。世祖が会稽太守であった時、陸琛は十八歳で善政頌を上奏し、甚だ詞采があり、これによって名声を得て、秀才に挙げられた。初めて官に就き、衡陽王主簿となり、東宮管記を兼ねた。豫章王文学、記室を領し、司徒主簿、直宣明殿学士を歴任した。まもなく尚書三公侍郎に転じ、通直散騎常侍を兼ねて斉に聘問し、帰国して司徒左西掾となった。また東宮管記を掌り、皇太子は陸琛の才弁を愛し、深く礼遇した。後主が即位すると、給事黄門侍郎、中書舎人に転じ、機密に参与した。陸琛の性格はやや疎放で、禁中の言葉を漏洩した罪により、詔を下されて死を賜った。時に四十二歳。

原文琛字潔玉,宣毅臨川王長史丘公之子。少警俊,事後母以孝聞。世祖為會稽太守,琛年十八,上善政頌,甚有詞采,由此知名,舉秀才。起家為衡陽王主簿,兼東宮管記。歷豫章王文學,領記室,司徒主簿,直宣明殿學士。尋遷尚書三公侍郎,兼通直散騎常侍,聘齊,還為司徒左西掾。又掌東宮管記,太子愛琛才辯,深禮遇之。後主嗣位,遷給事黃門侍郎、中書舍人,參掌機密。琛性頗疏,坐漏洩禁中語,詔賜死,時年四十二。

何之元

原文何之元

何之元は、廬江郡灊県の人である。祖父の何僧達は、斉の南台治書侍御史であった。父の何法勝は、品行と学業で知られた。

原文何之元,廬江灊人也。祖僧達,齊南臺治書侍御史。父法勝,以行業聞。

何之元は幼い頃から学問を好み、才思があり、喪に服する際に礼を過ごし、梁の司空袁昂に重んじられた。天監末年、袁昂が上表して推薦したため、召し出されて謁見することができた。初めて官に就き、梁の太尉臨川王揚州議曹従事史となり、まもなく主簿に転じた。袁昂が丹陽尹となると、丹陽五官掾に辟召され、戸曹の事務を総管した。まもなく信義県令に任じられた。何之元の同族の何敬容は、勢位が重く、頻繁に訪ねてきたが、何之元は終始彼を訪ねなかった。ある人がその理由を尋ねると、何之元は「昔、楚の人が観起に寵愛を得た時、馬を持つ者は皆逃亡した。徳が薄く任が重ければ、必ず覆敗に近づく。私はその利益を得られずにその禍を招くことを恐れる」と言った。識者はこれをもって彼を称賛した。

原文之元幼好學,有才思,居喪過禮,為梁司空袁昂所重。天監末,昂表薦之,因得召見。解褐梁太尉臨川王揚州議曹從事史,尋轉主簿。及昂為丹陽尹,辟為丹陽五官掾,總戶曹事。尋除信義令。之元宗人敬容者,勢位隆重,頻相顧訪,之元終不造焉。或問其故,之元曰:「昔楚人得寵於觀起,有馬者皆亡。夫德薄任隆,必近覆敗,吾恐不獲其利而招其禍。」識者以是稱之。

ちょうど安西武陵王が益州刺史となった時、何之元を安西刑獄参軍とした。侯景の乱が起こると、武陵王は太尉として制を承け、何之元を南梁州刺史、北巴西太守に任じた。武陵王が成都から兵を挙げて東下しようとした時、何之元は蜀中の民衆とともに上表して行かないよう請願した。王は衆を沮すものと考え、何之元を軍艦の中に囚禁した。武陵王が敗北すると、何之元は邵陵太守劉恭に従ってその郡に赴いた。まもなく江陵が陥落し、劉恭が卒去すると、王琳が召し出して記室参軍とした。梁の敬帝が王琳を司空に冊封すると、何之元は司空府諮議参軍に任じられ、記室を領した。

原文會安西武陵王為益州刺史,以之元為安西刑獄參軍。侯景之亂,武陵王以太尉承制,授南梁州(長)〔刺〕史、〔二二〕北巴西太守。武陵王自成都舉兵東下,之元與蜀中民庶抗表請無行,王以為沮眾,囚之元于艦中。及武陵兵敗,之元從邵陵太守劉恭之郡。〔二三〕俄而江陵陷,劉恭卒,王琳召為記室參軍。梁敬帝冊琳為司空,之元除司空府諮議參軍,領記室。

王琳が蕭莊を擁立したとき、何之元を中書侍郎に任命した。ちょうど斉の文宣帝が崩御したので、之元を弔問に赴かせ、帰途寿春に至ったところで王琳が敗れた。斉の主は之元を揚州別駕とし、その治所は寿春であった。諸軍が北伐し淮南の地を得ると、湘州刺史始興王叔陵は功曹史柳咸を使いとして書を送り之元を召し寄せた。之元は初め朝廷と不和であったが、書が届くと大いに恐れおののき、書を読んで「孔璋に罪なく、左車見用さる」という文句に至り、之元は仰ぎ見て嘆息して言うには、「文意がこのようであるなら、どうして私を欺くことがあろうか」と。かくて柳咸に従い湘州に至った。太建八年、中衛府功曹参軍事に任ぜられ、まもなく諮議参軍に転じた。

原文王琳之立蕭莊也,署為中書侍郎。會齊文宣帝薨,令之元赴弔,還至壽春,而王琳敗,齊主以為揚州別駕,所治即壽春也。及眾軍北伐,得淮南地,湘州刺史始興王叔陵遣功曹史柳咸〓書召之元。之元始與朝庭有隙,及書至,大惶恐,讀書至「孔璋無罪,左車見用」,之元仰而歎曰:「辭旨若此,豈欺我哉?」遂隨咸至湘州。太建八年,除中衛府功曹參軍事,尋遷諮議參軍。

叔陵が誅殺されると、之元は人事を絶ち、著述に専念した。梁氏は武帝に始まり敬帝に終わるが、その興亡の運、盛衰の跡は、鑑戒を垂れ褒貶を定めるに足ると考えた。その始終を究め、斉の永元元年より王琳が捕らえられるまでの七十五年間の事跡を草稿として三十巻にまとめ、『梁典』と号した。その序文は次のようである。

原文及叔陵誅,之元乃屏絕人事,銳精著述。以為梁氏肇自武皇,終于敬帝,其興亡之運,盛衰之跡,足以垂鑒戒,定褒貶。究其始終,起齊永元元年,迄于王琳遇獲,七十五年行事,草創為三十卷,號曰《梁典》。甚序曰:

事を記す史書の流れは一様ではない。編年体の著作は春秋に及ぶものはなく、魯の史書であって帝王の典籍ではない。三皇の簡牘は三墳、五帝の策書は五典であり、これが「典」の意義の由来である。『尚書』が唐帝を述べて堯典とし、虞帝を述べて舜典とするのは、経文に明らかな根拠がある。ゆえに「典」という意義は古くからあるのである。司馬遷の史記、班固の漢書は帝を述べて紀と称し、その後これに習う。陳寿の撰したものは志と名づけ、三国を総括し分かれて進んだ。ただ何法盛の晋書のみが帝紀を帝典と改めた。古に師法すると言い、理において優れている。故に今の著作を梁典と称するのである。

原文記事之史,其流不一,編年之作,〔二四〕無若春秋,則魯史之書,非帝皇之籍也。案三皇之簡為三墳,五帝之策為五典,此典義所由生也。至乃尚書述唐帝為堯典,虞帝為舜典,斯又經文明據。是以典之為義久矣哉。若夫馬史、班漢,述帝稱紀,自茲厥後,因相祖習。及陳壽所撰,名之曰志,總其三國,分路揚鑣。唯何法盛晉書變帝紀為帝典,既云師古,在理為優。故今之所作,稱為梁典。

梁が天下を有してから、中大同以前は天下安寧、太清以後は寇盗相侵した。首尾を通じて言えば、尽く美とは言えない。故にこの一書を開き、六つの意に分ける。高祖が基業を創めたのは斉末によるものであり、宗を尋ね本を討つと永元より始まる。今、若干巻を以てこれを追述とする。高祖は布衣より生まれ、弊俗の中で育ち、風教の善悪を知り、民衆の情偽を識った。君臨に及んでこの政術を弘め、四紀の内は実に殷阜と言えた。今、若干巻を以て太平とする。世は常に夷らざる時なく、時に恒に治まることはない。我が後より、なお横流に属した。今、若干巻を以て乱を叙する。高祖が晏駕した年、太宗が幽辱された歳、謳歌獄訟は西陝に向かい東都に向かわず、朝廷に服さぬ民、流逸の士、征伐礼楽は世祖に帰し太宗に帰さなかった。乱を撥はらい正しに反す、その功はここにあり、治定まり功成る、その勲は属する所がある。今、若干巻を以て世祖とする。四海困窮に至り、五徳升替すれば、敬皇が継いで立ち、なお陳に禅した。今、若干巻を以て敬帝とする。驃騎将軍王琳は後嗣を立てて崇めた。天命に達しなかったが、これその忠節である。今、若干巻を以て後嗣主とする。太宗に至っては、美謚を加えられたが、大宝の号は世に遵われず、賊景に拘られた故である。承聖の紀歴は太清に接し、神筆の詔書はみだりに改めるべきではない。後の論に詳しいが、理があるのである。

原文梁有天下,自中大同以前,區宇寧晏,太清以後,寇盜交侵,首尾而言,未為盡美,故開此一書,分為六意。以高祖創基,因乎齊末,尋宗討本,起自永元,今以前如干卷為追述。高祖生自布衣,長於弊俗,知風教之臧否,識民黎之情偽。爰逮君臨,弘斯政術,四紀之內,寔云殷阜。今以如干卷為太平。世不常夷,時無恆治,非自我後,仍屬橫流,今以如干卷為敘亂。洎高祖晏駕之年,太宗幽辱之歲,謳歌獄訟,向西陝不向東都。不庭之民,流逸之士,征伐禮樂,歸世祖不歸太宗。撥亂反正,厥庸斯在,治定功成,其勳有屬。今以如干卷為世祖。至於四海困窮,五德升替,則敬皇紹立,仍以禪陳,今以如干卷為敬帝。驃騎王琳,崇立後嗣,雖不達天命,然是其忠節,今以如干卷為後嗣主。至在太宗,雖加美謚,而大寶之號,世所不遵,蓋以拘於賊景故也。承聖紀歷,自接太清,神筆詔書,非宜輒改,詳之後論,蓋有理焉。

事には始終があり、人には業行がある。本末の間は、よく叙べるべきである。臧栄緒が史に裁断がなければ、なお起居注に過ぎないと言うが、これによって言えば、実に詳悉を資とするのである。

原文夫事有始終,人有業行,本末之閒,頗宜詮敘。案臧榮緒稱史無裁斷,猶起居注耳,由此而言,寔資詳悉。

また編年で歳次を挙げるのは、分明で探し易くするためである。獫狁が甚だ熾んでは我が中原を鯁ふさぎ、一君より始まり二主に終わる。事が相渉り、言が混漫となる。今、未だ分かれる前を北魏とし、既に分かれた後、高氏の輔ける所を東魏、宇文氏の挟む所を西魏とするのは、相分別するためである。重ねて体の殊を彰わし、文の異を繁省し、その間の損益には、頗る凡例がある。

原文又編年而舉其歲次者,蓋取分明而易尋也。若夫獫狁孔熾,鯁我中原,始自一君,終為二主,事有相涉,言成混漫。今以未分之前為北魏,既分之後高氏所輔為東魏,宇文所挾為西魏,所以相分別也。重以蓋彰殊體,繁省異文,其閒損益,頗有凡例。

禎明三年、京城陥落により、常州の晋陵県に移り住んだ。隋の開皇十三年、家で卒した。

原文禎明三年,京城陷,乃移居常州之晉陵縣。隋開皇十三年,卒于家。

徐伯陽

原文徐伯陽

徐伯陽、字は隠忍、東海の人である。祖父の度之は、斉の南徐州議曹従事史。父の僧権は、梁の東宮通事舎人、秘書を領し、書を善くすることを以て知られた。

原文徐伯陽字隱忍,東海人也。祖度之,齊南徐州議曹從事史。父僧權,梁東宮通事舍人,領祕書,以善書知名。

伯陽は聡明で学を好み、親孝行で、進退に節度があった。十五歳で文筆を称された。春秋左氏を学んだ。家に史書があり、読んだものは三千巻近くに及んだ。試策に高第し、尚書より板を下して梁の河東王国右常侍・東宮学士・臨川嗣王府墨曹参軍に補された。大同年中、出て候官令となり、民の和をよく得た。侯景の乱に、伯陽は海を浮かび南へ広州に至り、蕭勃に依った。勃が平定され朝に還ると、引き続き家族を率いて呉郡に赴いた。

原文伯陽敏而好學,善色養,進止有節。年十五,以文筆稱。學春秋左氏。家有史書,所讀者近三千餘卷。試策高第,尚書板補梁河東王國右常侍、東宮學士、臨川嗣王府墨曹參軍。大同中,出為候官令,甚得民和。侯景之亂,伯陽浮海南至廣州,依於蕭勃。勃平還朝,仍將家屬之吳郡。

天嘉二年、詔により晋安王に侍読した。まもなく司空侯安都府記室参軍事に任ぜられた。安都は平素よりその名を聞いており、会うと席を降りて礼をした。甘露が楽遊苑に降り、詔して安都に賜り、伯陽に謝表を作らせた。世祖はこれを見て奇とした。太建初め、中記室李爽・記室張正見・左民郎賀徹・学士阮卓・黄門郎蕭詮・三公郎王由礼・処士馬枢・記室祖孫登・比部賀循・長史劉刪らが文会の友となり、後に蔡凝・劉助・陳暄・孔範もこれに加わった。皆一時の士である。遊宴し詩を賦し、巻軸に勒きざんだ。伯陽がその集の序文を書き、世に盛んに伝わった。

原文天嘉二年,詔侍晉安王讀。尋除司空侯安都府記室參軍事,安都素聞其名,見之,降席為禮。甘露降樂遊苑,詔賜安都,令伯陽為謝表,世祖覽而奇之。太建初,中記室李爽、記室張正見、左民郎賀徹、學士阮卓、黃門郎蕭詮、三公郎王由禮、處士馬樞、記室祖孫登、比部賀循、長史劉刪等為文會之友,後有蔡凝、劉助、陳暄、孔範亦預焉,皆一時之士也。遊宴賦詩,勒成卷軸,伯陽為其集序,盛傳於世。

新安王が南徐州刺史となると、鎮北新安王府中記室参軍に任ぜられ、南徐州別駕を兼ね、東海郡丞を帯びた。鄱陽王が江州刺史となったとき、伯陽は使を奉じてそこに赴いた。王は府僚を率いて伯陽と共に匡嶺に登り、宴を設けた。酒酣のとき、筆を命じて劇韻二十を賦させた。伯陽と祖孫登が先に成し、王は奴婢雑物を賜った。新安王が京に還ると、臨海嗣王府限外諮議参軍に任ぜられた。十一年春、皇太子が太学に幸し、詔して新安王に辟雍で論語の題を発せしめ、引き続き伯陽に辟雍頌を作らせた。甚だ賞賛された。鎮右新安王府諮議参軍事に任ぜられた。十三年、姉の喪を聞き、発病して卒した。時に六十六歳。

原文及新安王為南徐州刺史,除鎮北新安王府中記室參軍,兼南徐州別駕,帶東海郡丞。鄱陽王為江州刺史,伯陽嘗奉使造焉,王率府僚與伯陽登匡嶺,置宴,酒酣,命筆賦劇韻二十,伯陽與祖孫登前成,王賜以奴婢雜物。及新安王還京,除臨海嗣王府限外諮議參軍。十一年春,皇太子幸太學,詔新安王於辟雍發論語題,仍命伯陽為辟雍頌,甚見佳賞。〔二五〕除鎮右新安王府諮議參軍事。十三年,聞姊喪,發疾而卒,時年六十六。

張正見

原文張正見

張正見、字は見賾、清河東武城の人である。祖父の蓋之は、魏の散騎常侍・勃海長楽二郡太守。父の脩礼は、魏の散騎侍郎、梁に帰順し、引き続き本職を拝し、懐方太守に遷った。

原文張正見字見賾,清河東武城人也。祖蓋之,魏散騎常侍、勃海長樂二郡太守。父脩禮,魏散騎侍郎,歸梁,仍拜本職,遷懷方太守。

正見は幼くして学を好み、清才があった。梁の簡文帝が東宮にいたとき、正見は十三歳で頌を献じ、簡文帝は深く賞賛した。簡文帝は学業を雅尚し、自ら昇座して経を説くたび、正見はしばしば講筵に預かり、疑義の決を請うた。吐納和順、進退詳雅で、四座皆目を属した。太清初め、射策に高第し、邵陵王国左常侍に任ぜられた。

原文正見幼好學,有清才。梁簡文在東宮,正見年十三,獻頌,簡文深贊賞之。簡文雅尚學業,每自昇座說經,正見嘗預講筵,請決疑義,吐納和順,進退詳雅,四座咸屬目焉。太清初,射策高第,除邵陵王國左常侍。

梁の元帝が即位すると、通直散騎侍郎に任ぜられ、彭沢令に遷った。梁の末世の喪乱に属し、匡俗山に避地した。時に焦僧度が衆を擁して自保し、使者を遣わして交わりを請うたが、正見はこれを懼れ、遜った言辞で受け入れた。しかし礼法をもって自らを保ち、僧度もまた雅に相敬い憚った。

原文梁元帝立,拜通直散騎侍郎,遷彭澤令。屬梁季喪亂,避地於匡俗山,時焦僧度擁眾自保,遣使請交,正見懼之,遜辭延納,然以禮法自持,僧度亦雅相敬憚。

高祖が禅を受けると、詔して正見を都に還らせ、鎮東鄱陽王府墨曹行参軍を除し、衡陽王府長史を兼ねた。宜都王限外記室・撰史著士を歴任し、尋陽郡丞を帯びた。累遷して尚書度支郎・通直散騎侍郎となり、著士はもとの如し。太建年間に卒す。時に年四十九。集十四巻あり、その五言詩は特に善く、大いに世に行われた。

原文高祖受禪,詔正見還都,除鎮東鄱陽王府墨曹行參軍,兼衡陽王府長史。歷宜都王限外記室、撰史著士,帶尋陽郡丞。累遷尚書度支郎、通直散騎侍郎,著士如故。太建中卒,時年四十九。有集十四卷,其五言詩尤善,大行於世。

蔡凝

原文蔡凝

蔡凝、字は子居、済陽考城の人である。祖父の撙は、梁の吏部尚書・金紫光禄大夫。父の彦高は、梁の給事黄門侍郎。

原文蔡凝字子居,濟陽考城人也。祖撙,梁吏部尚書、金紫光祿大夫。父彥高,梁給事黃門侍郎。

凝は幼くして聡明で、容姿・挙動が美しかった。長ずるに及んで、経伝に広く渉猟し、文辞があり、特に草隸をよくした。天嘉四年、褐を脱いで秘書郎に任ぜられ、廬陵王文学に転じた。光大元年、太子洗馬・司徒主簿を除された。太建元年、太子中舎人に遷った。名公子として選ばれて信義公主に尚し、駙馬都尉・中書侍郎を拝した。晋陵太守に遷る。郡に赴かんとするに及び、改めて左右に命じて中書の官舎を修繕させ、賓友に謂って曰く、「来る者をして労せしめざらんこと、また可ならずや」と。まもなく寧遠将軍・尚書吏部侍郎を授けられた。

原文凝幼聰晤,美容止。既長,博涉經傳,有文辭,尤工草隸。天嘉四年,釋褐授祕書郎,轉廬陵王文學。光大元年,除太子洗馬、司徒主簿。太建元年,遷太子中舍人。以名公子選尚信義公主,拜駙馬都尉、中書侍郎。遷晉陵太守。及將之郡,更令左右緝治中書廨宇,謂賓友曰:「庶來者無勞,不亦可乎?」尋授寧遠將軍、尚書吏部侍郎。

凝は年齢・地位は未だ高くないが、才能と門地が時に重んぜられ、常に端坐して西斎にあり、もとより貴い名流でなければ、交際すること稀で、時流に趨る者は多くこれを譏った。高宗は常に凝に謂って曰く、「我れ義興主の婿の銭粛を用いて黄門郎とせんと欲す、卿の意いかが」と。凝は正色して対えて曰く、「帝郷の旧戚、恩は聖旨より出ずれば、則ち復た問う所なし。若し僉議をもって格とせば、黄散の職は、故に人と門と兼ねて美なるを須い、惟れ陛下裁くべし」と。高宗は黙然として止んだ。粛はこれを聞いて憾みあり、義興主に命じて日々に高宗にこれを譖せしめ、まもなく官を免ぜられ、交阯に遷された。ほどなく、追還された。

原文凝年位未高,而才地為時所重,常端坐西齋,自非素貴名流,罕所交接,趣時者多譏焉。高宗常謂凝曰:「我欲用義興主婿錢肅為黃門郎,卿意何如?」凝正色對曰:「帝鄉舊戚,恩由聖旨,則無所復問。若格以僉議,黃散之職,故須人門兼美,惟陛下裁之。」高宗默然而止。肅聞而有憾,令義興主日譖之於高宗,尋免官,遷交阯。頃之,追還。

後主が嗣位すると、晋安王諮議参軍を授けられ、給事黄門侍郎に転じた。後主は嘗て酒宴を設け、群臣は甚だ歓び、将に宴を弘範宮に移さんとした。衆人は皆従ったが、唯だ凝と袁憲は行かなかった。後主曰く、「卿は何を為す者ぞ」と。凝対えて曰く、「長楽は尊厳にして、酒後の過ぐる所に非ず、臣は敢えて詔を奉ぜず」と。衆人は色を失った。後主曰く、「卿は酔えり」と。即ち引き出さしめた。他日、後主は吏部尚書蔡徴に謂って曰く、「蔡凝は地を負いて才を矜り、用いる所なし」と。まもなく信威晋熙王府長史に遷り、鬱々として志を得ず、乃ち喟然として歎いて曰く、「天道に廃興あり、夫子云う『天を楽しみて命を知る』と、この理は庶幾く達すべし」と。因りて小室賦を製して志を表し、甚だ辞理あり。陳滅びて隋に入り、道中病に罹り卒す。時に年四十七。

原文後主嗣位,授晉安王諮議參軍,轉給事黃門侍郎。後主嘗置酒會,群臣歡甚,將移醼於弘範宮,眾人咸從,唯凝與袁憲不行。後主曰:「卿何為者?」凝對曰:「長樂尊嚴,非酒後所過,臣不敢奉詔。」眾人失色。後主曰:「卿醉矣。」即令引出。他日,後主謂吏部尚書蔡徵曰:「蔡凝負地矜才,無所用也。」尋遷信威晉熙王府長史,鬱鬱不得志,乃喟然歎曰:「天道有廢興,夫子云『樂天知命』,斯理庶幾可達。」因製小室賦以見志,甚有辭理。陳亡入隋,道病卒,時年四十七。

子の君知は頗る名を知られた。

原文子君知頗知名。

阮卓

原文阮卓

阮卓、陳留尉氏の人。祖父の詮は、梁の散騎侍郎。父の問道は、梁の寧遠岳陽王府記室参軍。

原文阮卓,陳留尉氏人。祖詮,梁散騎侍郎。父問道,梁寧遠岳陽王府記室參軍。

卓は幼くして聡敏で、経籍に篤く志し、談論を善くし、特に五言詩をよくした。性至孝、その父が岳陽王に随い江州に出鎮し、疾に遇って卒した。卓は時に年十五、都より奔赴し、水漿を口にせざること累日。侯景の乱に属し、道路阻絶す。卓は険艱を冒し履み、喪柩を載せて都に還る。路にて賊に遇い、卓は形容毀瘁し、号哭して自ら陳ぶ。賊は哀しんでこれを殺さず、仍って護送して境外に出だす。及び彭蠡湖を渡るに、中流忽ち疾風に遇い、船幾くも没する者数四。卓は天を仰いで悲号す。俄かに風息み、人皆孝感の至りと為す。

原文卓幼而聰敏,篤志經籍,善談論,尤工五言詩。性至孝,其父隨岳陽王出鎮江州,遇疾而卒,卓時年十五,自都奔赴,水漿不入口者累日。屬侯景之亂,道路阻絕,卓冒履險艱,載喪柩還都。在路遇賊,卓形容毀瘁,號哭自陳,賊哀而不殺之,仍護送出境。及渡彭蠡湖,中流忽遇疾風,船幾沒者數四,卓仰天悲號,俄而風息,人皆以為孝感之至焉。

世祖が即位すると、軽車鄱陽王府外兵参軍を除された。天康元年、雲麾新安王府記室参軍に転じ、仍って府に随い翊右記室に転じ、撰史著士を帯びた。鄱陽王中衛府録事に遷り、晋安王府記室に転じ、著士はもとの如し。及び欧陽紇を平げ、交阯の夷獠は往往相聚いて寇抄を為す。卓は使を奉じて招慰す。交阯は日南・象郡に通じ、多く金翠珠貝珍怪の産あり。前後の使者は皆これを致したが、唯だ卓は身を挺して還り、衣装に他なし。時の論皆その廉を伏した。衡陽王府中録事参軍に遷る。入って尚書祠部郎となる。始興王中衛府記室参軍に遷る。

原文世祖即位,除輕車鄱陽王府外兵參軍。天康元年,轉雲麾新安王府記室參軍,仍隨府轉翊右記室,帶撰史著士。遷鄱陽王中衛府錄事,轉晉安王府記室,著士如故。及平歐陽紇,交阯夷獠往往相聚為寇抄,卓奉使招慰。交阯通日南、象郡,多金翠珠貝珍怪之產,前後使者皆致之,唯卓挺身而還,衣裝無他,時論咸伏其廉。遷衡陽王府中錄事參軍。入為尚書祠部郎。遷始興王中衛府記室參軍。

叔陵が誅せられた時、後主は朝臣に謂って曰く、「阮卓は素より逆に同ぜず、宜しく旌異を加うべし」と。至徳元年、入って徳教殿学士となる。まもなく通直散騎常侍を兼ね、王話に副って隋に聘す。隋主は夙に卓の名を聞き、乃ち河東の薛道衡・琅邪の顔之推らを遣わし、卓と談宴し詩を賦せしめ、賜遺して礼を加えた。還って招遠将軍・南海王府諮議参軍を除された。目疾のため官に就かず、里舎に退居し、亭宇を改構し、山池卉木を修め、賓友を招致し、文酒をもって自ら娯しむ。禎明三年、隋に入る。江州に行き至り、その父の終わりし所を追感し、因って疾に遘いて卒す。時に年五十九。

原文叔陵之誅也,後主謂朝臣曰:「阮卓素不同逆,宜加旌異。」至德元年,入為德教殿學士。尋兼通直散騎常侍,副王話聘隋。隋主夙聞卓名,乃遣河東薛道衡、琅邪顏之推等,與卓談醼賦詩,賜遺加禮。還除招遠將軍、南海王府諮議參軍。以目疾不之官,退居里舍,改構亭宇,脩山池卉木,招致賓友,以文酒自娛。禎明三年入于隋,行至江州,追感其父所終,因遘疾而卒,時年五十九。

陰鏗

原文陰鏗

時に武威の陰鏗あり、字は子堅、梁の左衛将軍子春の子。幼くして聡慧、五歳にして詩賦を誦し、日に千言。長ずるに及び、史伝に博く渉猟し、特に五言詩を善くし、当時に重んぜられた。褐を脱いで梁の湘東王法曹参軍となる。天寒きに、鏗は嘗て賓友と宴飲し、行觴する者を見て、因りて酒炙を回してこれを授く。衆坐皆笑う。鏗曰く、「吾儕終日酣飲す、而して爵を執る者はその味を知らず、人情に非ず」と。侯景の乱に及び、鏗は嘗て賊に擒えられたり。或る人これを救いて免るることを得たり。鏗その故を問うに、乃ち前に觴を行いし者なり。天嘉年間、始興王府中録事参軍となる。世祖は嘗て群臣を宴して詩を賦せしむ。徐陵これを世祖に言う。即日鏗を召して宴に預からしめ、新成安楽宮を賦せしむ。鏗は筆を援げば便ち成る。世祖は甚だ歎賞す。累遷して招遠将軍・晋陵太守・員外散騎常侍となり、ほどなく卒す。集三巻あり、世に行わる。

原文時有武威陰鏗,字子堅,梁左衛將軍子春之子。幼聰慧,五歲能誦詩賦,日千言。及長,博涉史傳,尤善五言詩,為當時所重。釋褐梁湘東王法曹參軍。天寒,鏗嘗與賓友宴飲,見行觴者,因回酒炙以授之,眾坐皆笑,鏗曰:「吾儕終日酣飲,而執爵者不知其味,非人情也。」及侯景之亂,鏗嘗為賊所擒,或救之獲免,鏗問其故,乃前所行觴者。天嘉中,為始興王府中錄事參軍。世祖嘗醼群臣賦詩,徐陵言之於世祖,即日召鏗預醼,使賦新成安樂宮,鏗援筆便就,世祖甚歎賞之。累遷招遠將軍、晉陵太守、員外散騎常侍,頃之卒。有集三卷行於世。

【評】

原文【評】

史臣が曰く、文学というものは、およそ人倫の基礎となるものであろうか。それゆえに君子は衆庶とは異なるのである。昔、仲尼が四科を論じたとき、徳行に始まり、文学に終わった。これこそ聖人もまた貴んだところである。至って杜之偉のごとき者どもは、休運に値し、それぞれ才用を展べ、之偉は特に美を著わした。

原文史臣曰:夫文學者,蓋人倫之所基歟?是以君子異乎眾庶。昔仲尼之論四科,始乎德行,終於文學,斯則聖人亦所貴也。至如杜之偉之徒,值於休運,各展才用,之偉尤著美焉。

「江德操、字は德藻」あるいは別本では「江德藻、字は德藻」とあり、疑わしい。

原文「江德操字德藻」或本「江德藻字德藻」,疑。