徐伯陽、張正見、蔡凝、阮卓
杜之偉
杜之偉、字は子大、呉郡銭塘の人である。家は代々儒学を業とし、三礼を専門とした。父の規は、梁の奉朝請であり、光禄大夫済陽の江革、都官尚書会稽の孔休源と親しく交わった。
之偉の文章は、浮華を尊ばず、温雅で広く豊かであった。制作したものの多くは散逸し、現存するものは十七巻である。
顔晃
顔晃、字は元明、琅邪臨沂の人である。幼くして孤貧であったが、学問を好み、文采があった。梁の邵陵王の兼記室参軍として初めて官に就いた。当時、東宮学士の庾信がたまたま王府に使いに来た。王が晃に応対させると、信はその若さを軽んじて、「この府の兼記室は何人いるか」と問うた。晃は答えて、「なお宮中の学士より少ないはずです」と言った。当時、これは巧みな応答とされた。
侯景の乱の際、西に奔って荊州に赴いた。承聖初年、中書侍郎に任じられた。当時、杜龕が呉興太守であり、ひたすら勇力を好み、その配下には軽薄で危険な少年が多かった。元帝(蕭繹)はこれを憂い、晃にその文書を管掌させた。そして杜龕に勅して、「卿は年もまだ若く、学問を修めるのに遅くはない。顔晃は文学の士であるから、補佐させよ。急な場合でも、必ず諮問し報告すべきである」と言った。杜龕が誅殺されると、晃は世祖(陳蒨)に帰順し、世祖は書記の任を委ね、親しく遇すること甚だ篤かった。宣毅府中録事に任じられ、兼ねて記室参軍となった。
晃の家柄は単なる家系で、傍らに親戚の後ろ盾もなかったが、孤高に身を修め立て、当世に知られた。その表奏・詔誥は、筆を下せばすぐに完成し、事理を得て、しかも優雅で気品があった。文集二十巻がある。
江徳藻
江徳藻、字は徳藻、済陽考城の人である。祖父の柔之は、斉の尚書倉部郎中であった。父の革は、梁の度支尚書・光禄大夫であった。
杜之偉は学問を好み、文章を作ることを善くした。風采は美しく、身長は七尺四寸であった。性質は至孝で、親に仕えて礼を尽くした。異母の兄弟と同居し、恩恵は甚だ篤かった。初めて官に就き、梁の南中郎武陵王行参軍となった。大司馬南平王蕭偉がその才能を聞き、召して東閤祭酒とした。安西湘東王府外兵参軍に転じ、まもなく尚書比部郎に任ぜられたが、父の喪により官を去った。喪が明けた後も、容貌は憔悴やつれ、喪中にいる時と変わらなかった。安西武陵王記室に任ぜられたが、就任しなかった。久しくして、廬陵王記室参軍を授けられた。廷尉正に任ぜられ、まもなく出向して南兗州治中となった。高祖が司空・征北将軍となった時、杜之偉を召して府諮議とした。中書侍郎に転じ、雲麾臨海王長史に遷った。陳の朝廷が建てられると、尚書吏部侍郎に拝された。
高祖が禅譲を受けると、秘書監を授けられ、尚書左丞を兼ねた。まもなく本官のまま中書舎人を兼ねた。天嘉四年、散騎常侍を兼ね、中書郎劉師知と共に斉に使いし、『北征道理記』三巻を著した。帰還して太子中庶子に拝され、歩兵校尉を領した。ほどなく御史中丞に遷ったが、公事に坐して免官された。まもなく振遠将軍・通直散騎常侍に拝された。自ら県令を求めて、出向して新喩令を補し、政治は恩恵を重んじ、頗る異なる業績があった。六年、官にて卒去した。時に年五十七。世祖は甚だ悼み惜しみ、詔して散騎常侍を追贈した。著した文筆は十五巻。
子の杜稜も文章を作ることを善くし、太子庶子・尚書左丞を歴任した。
庾持
庾持は字を允徳といい、潁川郡鄢陵県の人である。祖父の佩玉は、宋の長沙内史であった。父の沙弥は、梁の長城令であった。
庾持は字書に通じ、文章を作る毎に奇字を好み、文士もこれを以て彼を嘲笑した。文集十巻がある。
許亨
許亨は字を亨道といい、高陽郡新城県の人で、晋の徴士許詢の六世の孫である。曾祖父の珪は、給事中を歴任し、桂陽太守に任命されたが、志を高尚とし、永興の究山に居住した。これは許詢が隠棲した所である。祖父の勇慧は、斉の太子家令・冗従僕射であった。父の懋は、梁の始平・天門二郡太守・太子中庶子・散騎常侍となり、学芸をもって知られ、『毛詩風雅比興義類』十五巻、『述行記』四巻を撰した。
許亨は若くして家業を伝え、孤高で節操があった。群書に広く通じ、前代の旧事を多く識り、名望ある者たちは皆彼を推賞し、特に南陽の劉之遴に重んぜられ、常に称揚された。初めて官に就き、梁の安東王行参軍となり、太学博士を兼ね、まもなく平西府記室参軍に任ぜられた。太清初年、征西中記室となり、太常丞を兼ねた。
侯景の乱の時、郢州に避難した。折しも梁の邵陵王が東路より到着し、召して諮議参軍とした。王僧辯が郢州を襲撃した時、平素よりその名を聞き、召して儀同従事中郎とした。太尉従事中郎に遷り、呉興の沈炯と対になって書記を掌り、府の政務は全て彼に委ねられた。晋安王が制を承けると、給事黄門侍郎を授けられた。許亨は書簡を奉じて府に辞しようとしたが、王僧辯は答えて言った、「告げを省みるに、朝廷より授けられたことを承る。まことに徳行ある挙げである。卿は操り尚ぶところ惇厚深遠、文芸該博にして、学優れて官に就き、自ら青紫に至る。況んや久しく駿足を繋ぎ、将に轡を頓ぜんとし、虚闇を匡輔するに、期寄すること実に深し。既に遊処を欣び、用いて労屈を忘るるも、枳棘に鵷を棲ますは、常に以て歎きを増す。夕郎の選は、清顕たるも、位は才を以て昇り、差し自ら愧じること無し。且つ卿始めて命を知ると云い、方に康衢を騁けんとす。未だ戟を執るの疲れ有らず、便ち夜行の慨を深くす。来翰を循り返すに、殊に用いて憮然たり。古人相思えば、千里にして駕を命ず。素心昧まず、寧く城闉を限らんや。存顧の深きこと、荒慚已むこと無し」。
高祖が禅譲を受けると、中散大夫を授けられ、羽林監を領した。太中大夫に遷り、大著作を領し、梁史の事を掌った。初め、王僧辯が誅殺された時、所司が王僧辯とその子の頠の屍を収め、方山に同じ穴に埋めたが、この時まで敢えて言う者はいなかった。許亨は旧吏として、表を上って抗弁しその埋葬を請うた。そこで旧義の徐陵・張種・孔奐らと共に、相率いて家財を以て葬具を営み、凡そ七つの柩を皆改葬した。
初め『斉書』及び志五十巻を撰したが、乱に遇って失われた。後に『梁史』を撰し、完成したものは五十八巻。梁の太清の後に制作した文筆は六巻。
子の善心は早くから名を知られ、官は尚書度支侍郎に至った。
褚玠
褚玠は字を溫理といい、河南陽翟の人である。曾祖父の褚炫は、宋の昇明の初めに謝朏・江敩・劉俁と共に殿中に入り侍し、四友と称された。官は侍中・吏部尚書に至り、諡して貞子といった。祖父の褚澐は、梁の御史中丞であった。父の褚蒙は、太子舍人であった。
褚玠は九歳で孤児となり、叔父の驃騎從事中郎褚隨に養育された。早くから美しい評判があり、先達は多くその才能と器量を認めた。成長すると、風采は優れ、応対に長じ、博学で文章を綴ることができ、言葉と内容は典拠に基づき実質的で、華美なものを好まなかった。王府法曹として出仕し、外兵記室を歴任した。天嘉年間、通直散騎常侍を兼ね、北斉に聘使として赴き、帰朝して桂陽王友となった。太子庶子・中書侍郎に遷った。
太建年間、山陰県には豪族や狡猾な者が多く、前後の県令は皆、贓罪により免職されていた。高宗(陳宣帝)はこれを憂い、中書舍人蔡景歴に言った。「稽陰は大邑であるが、久しく良き宰(県令)がいない。卿は文士の中にあって、その人選を考えてみよ。」景歴が進言して言うには、「褚玠は廉潔で倹約し、実務の才があります。その任に堪えるかどうかは分かりませんが。」高宗は言った。「大変良い。卿の言うことは朕の考えと同じである。」そこで戎昭将軍・山陰令に任じた。県民の張次的・王休達らは諸々の狡猾な役人と賄賂を通じて結託し、全丁(成年男子全員)の大戸を多く隠匿していた。褚玠は張次的らを拘束し、詳細な状況を尚書臺に上奏した。高宗は自ら詔を下して慰労し、使者を遣わして褚玠の調査を助けさせ、出てきた軍戸・民戸は八百余戸に及んだ。
子の褚亮は才学があり、官は尚書殿中侍郎に至った。
岑之敬
岑之敬は字を思禮といい、南陽棘陽の人である。父の岑善紆は、梁の代に経学で知られ、官は呉寧令・司義郎に至った。
之敬は初め経学によって進んだが、広く文史に渉猟し、風雅な文筆があり、純粋な儒者ではなかった。性格は謙虚で慎み深く、才学をもって人を見下すことはなく、後進を引き立てる様子は誠実そのものであった。毎回の忌日には斎を営み、必ず自ら掃除し、一日中涙を流したので、士君子はその篤実な行いを称えた。太建十一年に卒した。時に六十一歳。太子は嘆き惜しみ、賻贈は甚だ厚かった。文集十巻が世に行われた。
子の岑德潤は父の風があり、官は中軍呉興王記室に至った。
陸琰
陸琰は字を溫玉といい、吏部尚書陸瓊の従父弟(父の従兄弟の子)である。父の陸令公は、梁の中軍宣城王記室参軍であった。
陸琰は嗜欲が少なく、競い争うことを好まず、心を経籍に遊ばせ、安らかであった。その制作した文章は多く原本が残らず、後主(陳叔宝)がその遺文を求め、二巻に撰成した。弟に陸瑜がいる。
弟 陸瑜
陸琛は字を潔玉といい、宣毅臨川王長史陸丘公の子である。幼い頃から聡明で、後母に仕えて孝行で知られた。世祖が会稽太守であった時、陸琛は十八歳で善政頌を上奏し、甚だ詞采があり、これによって名声を得て、秀才に挙げられた。初めて官に就き、衡陽王主簿となり、東宮管記を兼ねた。豫章王文学、記室を領し、司徒主簿、直宣明殿学士を歴任した。まもなく尚書三公侍郎に転じ、通直散騎常侍を兼ねて斉に聘問し、帰国して司徒左西掾となった。また東宮管記を掌り、皇太子は陸琛の才弁を愛し、深く礼遇した。後主が即位すると、給事黄門侍郎、中書舎人に転じ、機密に参与した。陸琛の性格はやや疎放で、禁中の言葉を漏洩した罪により、詔を下されて死を賜った。時に四十二歳。
何之元
何之元は、廬江郡灊県の人である。祖父の何僧達は、斉の南台治書侍御史であった。父の何法勝は、品行と学業で知られた。
何之元は幼い頃から学問を好み、才思があり、喪に服する際に礼を過ごし、梁の司空袁昂に重んじられた。天監末年、袁昂が上表して推薦したため、召し出されて謁見することができた。初めて官に就き、梁の太尉臨川王揚州議曹従事史となり、まもなく主簿に転じた。袁昂が丹陽尹となると、丹陽五官掾に辟召され、戸曹の事務を総管した。まもなく信義県令に任じられた。何之元の同族の何敬容は、勢位が重く、頻繁に訪ねてきたが、何之元は終始彼を訪ねなかった。ある人がその理由を尋ねると、何之元は「昔、楚の人が観起に寵愛を得た時、馬を持つ者は皆逃亡した。徳が薄く任が重ければ、必ず覆敗に近づく。私はその利益を得られずにその禍を招くことを恐れる」と言った。識者はこれをもって彼を称賛した。
ちょうど安西武陵王が益州刺史となった時、何之元を安西刑獄参軍とした。侯景の乱が起こると、武陵王は太尉として制を承け、何之元を南梁州刺史、北巴西太守に任じた。武陵王が成都から兵を挙げて東下しようとした時、何之元は蜀中の民衆とともに上表して行かないよう請願した。王は衆を沮すものと考え、何之元を軍艦の中に囚禁した。武陵王が敗北すると、何之元は邵陵太守劉恭に従ってその郡に赴いた。まもなく江陵が陥落し、劉恭が卒去すると、王琳が召し出して記室参軍とした。梁の敬帝が王琳を司空に冊封すると、何之元は司空府諮議参軍に任じられ、記室を領した。
王琳が蕭莊を擁立したとき、何之元を中書侍郎に任命した。ちょうど斉の文宣帝が崩御したので、之元を弔問に赴かせ、帰途寿春に至ったところで王琳が敗れた。斉の主は之元を揚州別駕とし、その治所は寿春であった。諸軍が北伐し淮南の地を得ると、湘州刺史始興王叔陵は功曹史柳咸を使いとして書を送り之元を召し寄せた。之元は初め朝廷と不和であったが、書が届くと大いに恐れおののき、書を読んで「孔璋に罪なく、左車見用さる」という文句に至り、之元は仰ぎ見て嘆息して言うには、「文意がこのようであるなら、どうして私を欺くことがあろうか」と。かくて柳咸に従い湘州に至った。太建八年、中衛府功曹参軍事に任ぜられ、まもなく諮議参軍に転じた。
事を記す史書の流れは一様ではない。編年体の著作は春秋に及ぶものはなく、魯の史書であって帝王の典籍ではない。三皇の簡牘は三墳、五帝の策書は五典であり、これが「典」の意義の由来である。『尚書』が唐帝を述べて堯典とし、虞帝を述べて舜典とするのは、経文に明らかな根拠がある。ゆえに「典」という意義は古くからあるのである。司馬遷の史記、班固の漢書は帝を述べて紀と称し、その後これに習う。陳寿の撰したものは志と名づけ、三国を総括し分かれて進んだ。ただ何法盛の晋書のみが帝紀を帝典と改めた。古に師法すると言い、理において優れている。故に今の著作を梁典と称するのである。
梁が天下を有してから、中大同以前は天下安寧、太清以後は寇盗相侵した。首尾を通じて言えば、尽く美とは言えない。故にこの一書を開き、六つの意に分ける。高祖が基業を創めたのは斉末によるものであり、宗を尋ね本を討つと永元より始まる。今、若干巻を以てこれを追述とする。高祖は布衣より生まれ、弊俗の中で育ち、風教の善悪を知り、民衆の情偽を識った。君臨に及んでこの政術を弘め、四紀の内は実に殷阜と言えた。今、若干巻を以て太平とする。世は常に夷らざる時なく、時に恒に治まることはない。我が後より、なお横流に属した。今、若干巻を以て乱を叙する。高祖が晏駕した年、太宗が幽辱された歳、謳歌獄訟は西陝に向かい東都に向かわず、朝廷に服さぬ民、流逸の士、征伐礼楽は世祖に帰し太宗に帰さなかった。乱を撥い正しに反す、その功はここにあり、治定まり功成る、その勲は属する所がある。今、若干巻を以て世祖とする。四海困窮に至り、五徳升替すれば、敬皇が継いで立ち、なお陳に禅した。今、若干巻を以て敬帝とする。驃騎将軍王琳は後嗣を立てて崇めた。天命に達しなかったが、これその忠節である。今、若干巻を以て後嗣主とする。太宗に至っては、美謚を加えられたが、大宝の号は世に遵われず、賊景に拘られた故である。承聖の紀歴は太清に接し、神筆の詔書はみだりに改めるべきではない。後の論に詳しいが、理があるのである。
事には始終があり、人には業行がある。本末の間は、よく叙べるべきである。臧栄緒が史に裁断がなければ、なお起居注に過ぎないと言うが、これによって言えば、実に詳悉を資とするのである。
また編年で歳次を挙げるのは、分明で探し易くするためである。獫狁が甚だ熾んでは我が中原を鯁ぎ、一君より始まり二主に終わる。事が相渉り、言が混漫となる。今、未だ分かれる前を北魏とし、既に分かれた後、高氏の輔ける所を東魏、宇文氏の挟む所を西魏とするのは、相分別するためである。重ねて体の殊を彰わし、文の異を繁省し、その間の損益には、頗る凡例がある。
徐伯陽
徐伯陽、字は隠忍、東海の人である。祖父の度之は、斉の南徐州議曹従事史。父の僧権は、梁の東宮通事舎人、秘書を領し、書を善くすることを以て知られた。
伯陽は聡明で学を好み、親孝行で、進退に節度があった。十五歳で文筆を称された。春秋左氏を学んだ。家に史書があり、読んだものは三千巻近くに及んだ。試策に高第し、尚書より板を下して梁の河東王国右常侍・東宮学士・臨川嗣王府墨曹参軍に補された。大同年中、出て候官令となり、民の和をよく得た。侯景の乱に、伯陽は海を浮かび南へ広州に至り、蕭勃に依った。勃が平定され朝に還ると、引き続き家族を率いて呉郡に赴いた。
張正見
張正見、字は見賾、清河東武城の人である。祖父の蓋之は、魏の散騎常侍・勃海長楽二郡太守。父の脩礼は、魏の散騎侍郎、梁に帰順し、引き続き本職を拝し、懐方太守に遷った。
正見は幼くして学を好み、清才があった。梁の簡文帝が東宮にいたとき、正見は十三歳で頌を献じ、簡文帝は深く賞賛した。簡文帝は学業を雅尚し、自ら昇座して経を説くたび、正見はしばしば講筵に預かり、疑義の決を請うた。吐納和順、進退詳雅で、四座皆目を属した。太清初め、射策に高第し、邵陵王国左常侍に任ぜられた。
梁の元帝が即位すると、通直散騎侍郎に任ぜられ、彭沢令に遷った。梁の末世の喪乱に属し、匡俗山に避地した。時に焦僧度が衆を擁して自保し、使者を遣わして交わりを請うたが、正見はこれを懼れ、遜った言辞で受け入れた。しかし礼法をもって自らを保ち、僧度もまた雅に相敬い憚った。
高祖が禅を受けると、詔して正見を都に還らせ、鎮東鄱陽王府墨曹行参軍を除し、衡陽王府長史を兼ねた。宜都王限外記室・撰史著士を歴任し、尋陽郡丞を帯びた。累遷して尚書度支郎・通直散騎侍郎となり、著士はもとの如し。太建年間に卒す。時に年四十九。集十四巻あり、その五言詩は特に善く、大いに世に行われた。
蔡凝
蔡凝、字は子居、済陽考城の人である。祖父の撙は、梁の吏部尚書・金紫光禄大夫。父の彦高は、梁の給事黄門侍郎。
凝は年齢・地位は未だ高くないが、才能と門地が時に重んぜられ、常に端坐して西斎にあり、もとより貴い名流でなければ、交際すること稀で、時流に趨る者は多くこれを譏った。高宗は常に凝に謂って曰く、「我れ義興主の婿の銭粛を用いて黄門郎とせんと欲す、卿の意いかが」と。凝は正色して対えて曰く、「帝郷の旧戚、恩は聖旨より出ずれば、則ち復た問う所なし。若し僉議をもって格とせば、黄散の職は、故に人と門と兼ねて美なるを須い、惟れ陛下裁くべし」と。高宗は黙然として止んだ。粛はこれを聞いて憾みあり、義興主に命じて日々に高宗にこれを譖せしめ、まもなく官を免ぜられ、交阯に遷された。ほどなく、追還された。
後主が嗣位すると、晋安王諮議参軍を授けられ、給事黄門侍郎に転じた。後主は嘗て酒宴を設け、群臣は甚だ歓び、将に宴を弘範宮に移さんとした。衆人は皆従ったが、唯だ凝と袁憲は行かなかった。後主曰く、「卿は何を為す者ぞ」と。凝対えて曰く、「長楽は尊厳にして、酒後の過ぐる所に非ず、臣は敢えて詔を奉ぜず」と。衆人は色を失った。後主曰く、「卿は酔えり」と。即ち引き出さしめた。他日、後主は吏部尚書蔡徴に謂って曰く、「蔡凝は地を負いて才を矜り、用いる所なし」と。まもなく信威晋熙王府長史に遷り、鬱々として志を得ず、乃ち喟然として歎いて曰く、「天道に廃興あり、夫子云う『天を楽しみて命を知る』と、この理は庶幾く達すべし」と。因りて小室賦を製して志を表し、甚だ辞理あり。陳滅びて隋に入り、道中病に罹り卒す。時に年四十七。
子の君知は頗る名を知られた。
阮卓
阮卓、陳留尉氏の人。祖父の詮は、梁の散騎侍郎。父の問道は、梁の寧遠岳陽王府記室参軍。
卓は幼くして聡敏で、経籍に篤く志し、談論を善くし、特に五言詩をよくした。性至孝、その父が岳陽王に随い江州に出鎮し、疾に遇って卒した。卓は時に年十五、都より奔赴し、水漿を口にせざること累日。侯景の乱に属し、道路阻絶す。卓は険艱を冒し履み、喪柩を載せて都に還る。路にて賊に遇い、卓は形容毀瘁し、号哭して自ら陳ぶ。賊は哀しんでこれを殺さず、仍って護送して境外に出だす。及び彭蠡湖を渡るに、中流忽ち疾風に遇い、船幾くも没する者数四。卓は天を仰いで悲号す。俄かに風息み、人皆孝感の至りと為す。
陰鏗
時に武威の陰鏗あり、字は子堅、梁の左衛将軍子春の子。幼くして聡慧、五歳にして詩賦を誦し、日に千言。長ずるに及び、史伝に博く渉猟し、特に五言詩を善くし、当時に重んぜられた。褐を脱いで梁の湘東王法曹参軍となる。天寒きに、鏗は嘗て賓友と宴飲し、行觴する者を見て、因りて酒炙を回してこれを授く。衆坐皆笑う。鏗曰く、「吾儕終日酣飲す、而して爵を執る者はその味を知らず、人情に非ず」と。侯景の乱に及び、鏗は嘗て賊に擒えられたり。或る人これを救いて免るることを得たり。鏗その故を問うに、乃ち前に觴を行いし者なり。天嘉年間、始興王府中録事参軍となる。世祖は嘗て群臣を宴して詩を賦せしむ。徐陵これを世祖に言う。即日鏗を召して宴に預からしめ、新成安楽宮を賦せしむ。鏗は筆を援げば便ち成る。世祖は甚だ歎賞す。累遷して招遠将軍・晋陵太守・員外散騎常侍となり、ほどなく卒す。集三巻あり、世に行わる。
【評】
史臣が曰く、文学というものは、およそ人倫の基礎となるものであろうか。それゆえに君子は衆庶とは異なるのである。昔、仲尼が四科を論じたとき、徳行に始まり、文学に終わった。これこそ聖人もまた貴んだところである。至って杜之偉のごとき者どもは、休運に値し、それぞれ才用を展べ、之偉は特に美を著わした。
「江德操、字は德藻」あるいは別本では「江德藻、字は德藻」とあり、疑わしい。