巻三十五 列伝第二十九 熊曇朗 周迪 留異 陳寶應

陳書

巻三十五 列伝第二十九 熊曇朗 周迪 留異 陳寶應

熊曇朗

熊曇朗は、 章郡南昌県の人であり、代々郡の著姓であった。曇朗は放縦で束縛されず、膂力があり、容貌は甚だ魁偉であった。 侯景 こうけい の乱の際、少しずつ若者を集め、豊城県を占拠して柵を築き、凶暴で狡猾な劫盗の多くがこれに附いた。梁の元帝は彼を巴山太守に任じた。荊州が陥落すると、曇朗の兵力は次第に強くなり、近隣の県を劫掠し、住民を縛って売り飛ばし、山谷の中で最も大きな禍患となった。

侯瑱が 章を鎮守するに及んで、曇朗は表向きは服従を示しながら、密かに瑱を図ろうとした。侯方児が瑱に反逆したとき、曇朗はその謀主となり、瑱が敗れると、曇朗は瑱の馬・武器・子女を多く獲得した。 蕭勃 しょうぼつ が嶺を越えてくると、歐陽頠が前軍となり、曇朗は頠を欺いて共に巴山へ赴き黃法𣰋を襲わせ、また法𣰋には期日を伝えて共に頠を破ると報じ、約束して「事が成功したら馬と武器を我に与えよ」と言った。出軍すると、頠と犄角の勢いで進み、また頠を欺いて「余孝頃が不意を襲おうとしているので、奇兵を分けて留め置く必要がある。甲冑武器が既に少ないので、恐らく成功しないだろう」と言った。頠はそこで甲三百領を送って援助した。城下に至り、戦おうとしたとき、曇朗は偽って敗走し、法𣰋がこれに乗じたので、頠は援護を失い、狼狽して退却し敗北し、曇朗はその馬と武器を取って帰還した。当時、巴山の陳定も兵を擁して寨を立てていた。曇朗は偽って娘を定の子に嫁がせた。また定に言うには「周迪と余孝頃は共にこの婚姻を望んでおらず、必ず強兵をもって迎えに来なければならない」と。定はそこで精鋭の甲兵三百と土豪二十人を派遣して迎えに行かせた。到着すると、曇朗は彼らを捕らえ、その馬と武器を没収し、併せて代価を論じて身代金を要求した。

紹泰二年、曇朗は南川の豪族の首領として、先例に従い游騎將軍に任じられた。まもなく持節・飆猛將軍・桂州 刺史 しし の資格をもって、豊城県令を兼任し、宜新・ 章の二郡太守を歴任した。王琳が李孝欽らを派遣し余孝頃に従って臨川で周迪を攻撃すると、曇朗は配下の兵を率いて救援に赴いた。その年、功績により持節・通直 散騎常侍 さんきじょうじ ・寧遠將軍に任じられ、永化県侯に封ぜられ、邑一千戸を与えられ、鼓吹一部を給された。また王琳への抗禦の功績により、平西將軍・開府儀同三司を授けられ、その他の官職は全て元のままとした。 周文育 しゅうぶんいく 章で余孝勱を攻撃したとき、曇朗は軍を出してこれと合流したが、文育が不利になると、曇朗は文育を害して王琳に応じた。事は文育伝に見える。ここにおいて文育配下の諸将をことごとく捕らえ、新淦県を占拠し、江に沿って城を構えた。

王琳が東下すると、世祖は南川の兵を徴発した。江州刺史周迪と高州刺史黃法𣰋は流れに沿って応援に赴こうとしたが、曇朗は城を占拠して艦隊を並べて遮断した。迪らと法𣰋はそこで南中の兵を率いて城を築きこれを包囲し、琳との間の使者を断った。王琳が敗走すると、曇朗の与党と援軍は離反し、迪がその城を陥落させ、男女一万余りを捕虜とした。曇朗は村中に逃げ込んだが、村民がこれを斬り、首を京師に伝え、朱雀観に懸けた。ここにおいてその宗族をことごとく捕らえ、老少を問わず皆、市で斬首に処した。

周迪

周迪は、臨川郡南城県の人である。若い頃は山谷に住み、膂力があり、強弩を引くことができ、弋射と狩猟を生業としていた。侯景の乱の際、迪の同族の周續が臨川で兵を起こし、梁の始興王蕭毅が郡を續に譲ると、迪は郷人を召募してこれに従い、戦うごとに必ず勇気が諸軍の冠となった。續の配下の渠帥は皆、郡中の豪族であり、次第に驕慢横暴になったので、續はこれをかなり禁じたが、渠帥らは皆、怨みを抱き、相率いて續を殺し、迪を主に推した。迪はそこで臨川の地を占有し、工塘に城を築いた。梁の元帝は迪に持節・通直 散騎常侍 さんきじょうじ ・壯武將軍・高州刺史を授け、臨汝県侯に封じ、邑五百戸を与えた。

紹泰二年、臨川内史に任じられた。まもなく使持節・ 散騎常侍 さんきじょうじ ・信威將軍・衡州刺史を授けられ、臨川内史を兼任した。周文育が蕭勃を討伐したとき、迪は甲冑を整えて境を保ち、成敗を観望した。文育が長史陸山才を遣わして迪を説得すると、迪は大いに糧食を出して文育を援助した。勃が平定されると、功績により振遠將軍を加えられ、江州刺史に転じた。

高祖 こうそ が禅を受けると、王琳が東下した。迪は自ら南川を占拠しようと企て、配下の八郡の守宰を総召集して盟約を結び、声をあげて入朝赴援すると言った。朝廷は彼が変を起こすことを恐れ、厚く慰撫した。琳が湓城に至ると、新呉洞主の余孝頃が兵を挙げて琳に応じた。琳は南川の諸郡は檄文を伝えるだけで平定できると考え、その将李孝欽・樊猛らを派遣して南征の糧食を徴発させた。猛らは余孝頃と合流し、兵は二万に及び、工塘に向かって進み、八つの城を連ねて迪を脅かした。迪は周敷に命じて兵を率いて臨川の故郡に駐屯させ、江口を遮断し、そこで出撃して戦い、これを大いに破り、その八城を屠り、李孝欽・樊猛・余孝頃を生け捕りにして京師に送り、その軍需物資を収奪した。器械は山のように積まれ、併せてその人馬を捕虜としたが、迪は全てこれを自ら取り込んだ。永定二年、功績により平南將軍・開府儀同三司を加えられ、邑一千五百戸を増やされ、鼓吹一部を給された。

世祖が位を継ぐと、安南將軍の号を進めた。熊曇朗が反逆したとき、迪は周敷・黃法𣰋らと兵を率いて共に曇朗を包囲し、これを屠り、その兵を全て手中に収めた。王琳敗北後、世祖は迪を徴発して湓城を鎮守させようとし、またその子を朝廷に入朝させようとしたが、迪は躊躇して傍観し、共に来なかった。 章太守周敷は本来迪に属していたが、この時に至って黃法𣰋と共に配下の兵を率いて宮門に赴いた。世祖は彼の熊曇朗撃破の功績を記録し、併せて官位と賞賜を加えた。迪はこれを聞き、甚だ不平を抱き、密かに留異と結託した。官軍が異を討伐すると、迪は疑惧して自ら安んぜず、弟の方興に兵を率いさせて周敷を襲撃させた。敷はこれと戦い、これを破った。また別に兵を派遣して湓城の華皎を襲撃させたが、事が発覚し、全て皎に捕らえられた。〔天嘉〕三年春、世祖は みことのり を下して南川の士民で迪に欺かれた者を赦免し、江州刺史吳明徹に諸軍を 都督 ととく させ、高州刺史黃法𣰋・ 章太守周敷と共に迪を討伐させた。ここにおいて 尚書 しょうしょ が符を下して言うには、

告げる、臨川郡の士庶に。昔、西京が盛んな時、韓信・彭越は背き放縦であった。東都が中興した時、龐萌・彭寵は背き逆らった。それ故に鷹や鸇が競って追いかけ、醢にすることや極刑による誅殺が行われた。これは古より存在し、その由来は久しい。

逆賊周迪は、元来は卑賤の身に生まれ、梁の喪乱の際に山谷を暴掠した。我が高祖( 陳霸先 ちんばせん )はみずから百越を率い、軍を九川に駐屯させ、その泥を洗い流し、毛羽を与えて、豚の佩玉を解き、獣の符を割き、卵を温め翼で守る恩は、これに比べても及ばないほどであった。皇運が始まると、誠意を示し、国歩が艱難の時には、ついに微力を尽くした。龍節と繍衣を以て王爵を借りて下を統御し、熊旗と組甲を以て地の険を恃んで上を陵駕した。かつて王琳が初めて離反し、蕭勃が未だ平定されず、西は三湘と結び、南は五嶺に通じ、衡州・広州が平定され、反側の徒が安んじられると、江州・郢州は紛糾し梗澁し、再び離反を生じ、一郡を擁拠し、苟且に百の心を抱き、志と外貌は常に違背し、言動と事跡は一致しなかった。特に新呉が未だ静まらず、地遠く兵強く、互いに併呑し、その形勢を成した。獲たる器械を収め、士民を俘虜し、ともに私財と称し、ついに献捷することはなかった。時に一介の使者を遣わしても、終に両端を持した。朝廷は光大にして含弘であり、引納して崇遇し、ついに位は三槐に等しく、任は四嶽に均しく、富貴隆赫にして、功臣を超絶した。これに加えて嶺を出師し、遠く相響援し、甲を按じて江を断ち、翻然として猜拒した。故 司空 しくう 愍公(侯瑱)は、宗盟を以て敦睦し、情は骨肉に同じくし、城池は連接し、勢いは脣歯の如くであったが、彭亡の禍を坐観して難作を看過し、この舋故を階として、その党与を結んだ。当時北寇が侵軼し、西賊が憑陵し、扉履と糧食を悉く以て寇に資し、爵号と軍容を一に偽党に遵った。王師が凱振し、大いに区中を定めると、天網は恢弘にして、これを度外に棄て、 書と綸誥を以て撫慰綢繆し、冠蓋と縉紳を以て敦授重疊した。熊曇朗が勦滅され、豊城が克定されたのは、蓋し儀同法𣰋の元功と、安西周敷の効力によるものであり、司勲に典有り、懋賞は斯の旧なり、悪直醜正にして、自ら仇讎と為り、悖礼姦謀、ここに因りて滋甚となった。湓城に徴出するも、歴年就かず、侍子を遣わすを求めても、累載朝せず。外には逋亡を誘い、不逞を招集し、中には京輦を調べ、規冀して非常を図った。征賦を擅に斂め、九府に帰すること罕にして、二賈を擁遏し、害は四民に及んだ。賊異と潜かに結び、共に表裏と為り、同悪相求めて、密かに応援を加えた。我が六軍が薄伐し、三越が未だ寧かずと謂い、述城を屠破し、妻子を虜縛し、分かちて湓鎮を襲い、兵を蠡邦に称し、酋豪を拘逼し、城邑を攻囲したが、幸い国に備え有り、時に応じて衄殄した。

仮節・通直 散騎常侍 さんきじょうじ ・仁武将軍・尋陽太守・懐仁県伯の華皎、明威将軍・廬陵太守・益陽県子の 陸子隆 りくしりゅう は、ともに賊徒を破り、郡境を全うした。持節・ 散騎常侍 さんきじょうじ ・安西将軍・定州刺史・ 章太守を領する西豊県侯の周敷は、みずから溝壘を扞ぎ、身をもって矢石に当たり、この義勇を率い、寡を以て衆を摧き、斬馘は万を数え、俘虜は千群に及んだ。周迪は余燼を収め、還って墉堞を固めた。使持節・安南将軍・開府儀同三司・高州刺史・新建県侯の法𣰋は、雄績早く宣べ、忠誠夙に著しく、未だ王命を奉ぜずして、先に義旅を率い、既に周敷らを援け、また陸子隆を全うし、糧を裹み甲を擐き、なお飛走を躡い、批羆の旅は越電の如く駆馳し、振武の衆は山を移す如く叱咤し、これをもって奔を追えば、理として遺類無かるべし。

朽株将に抜けんとするは、尋斧を待たず、落葉就に殞んとするは、烈風を労せずと雖も、但だ草を去り根を絶つは、未だ蔓らざるに在り、火を撲ぎ燎を止むるは、速やかに滅するを貴ぶ。将帥を分命するは、実に英果に資る。今、鎮南儀同司馬・湘東公相の劉広徳、兼平西司馬の孫暁、北新蔡太守の魯広達、持節・安南将軍・呉州刺史・彭沢県侯の魯悉達に、甲士一万人を以て、歩み出でて興口より出撃せしむ。また前呉興太守の胡鑠、樹功将軍・前宣城太守の銭法成、天門・義陽二郡太守の樊毅、雲麾将軍・合州刺史・南固県侯の焦僧度、厳武将軍・建州刺史・辰県子の張智達、持節・ 都督 ととく 江呉二州諸軍事・安南将軍・江州刺史・安呉県侯の呉明徹に、楼艦馬歩を以て、直ちに臨川を指さしむ。前安成内史の劉士京、巴山太守の蔡僧貴、南康内史の劉峰、廬陵太守の陸子隆、安成内史の闕慎は、並びに儀同法𣰋の節度を受け、故郡に会同せしむ。また尋陽太守の華皎、光烈将軍・巴州刺史の潘純陀、平西将軍・郢州刺史・欣楽県侯の 章昭達 しょうしょうたつ に、並びに貔豹を率い、径ちに賊城に造らしむ。使持節・ 散騎常侍 さんきじょうじ ・鎮南将軍・開府儀同三司・湘州刺史・湘東郡公の度(陳度)は、偏裨を分遣し、相継いで上道せしめ、戈船は水を蔽い、彀騎は山に満つ。また詔して鎮南将軍・開府儀同三司の欧陽頠に、その子弟たる交州刺史の盛(欧陽盛)、新たに除された太子右率の邃(欧陽邃)、衡州刺史の侯暁らを率い、勁越の兵を以て、嶺を踰えて北邁せしむ。千里同期し、百道俱に集い、もし誅を稽えれば、更に旬晦を淹るべし。 司空 しくう ・大 都督 ととく の安都( 侯安都 こうあんと )は既に賊異を平定し、凱帰間近く、飲至の礼畢りて、乗勝長駆し、凶醜を勦撲すること、毛髪を燎くが如し。既に明詔有り、罪は唯だ周迪一身に在り、黎民何の辜ぞ、一に皆原宥す。其れ機に因りて功を立てる者有らば、賞は別格の如く、執迷して改めざれば、刑は茲に罔赦なり。呉明徹は臨川に至り、衆軍に命じて連城を築き周迪を攻めさせたが、相拒して克つことができず、世祖( 文帝 ぶんてい )は高宗( 宣帝 せんてい )を遣わして総督として討たせた。周迪の衆は潰え、妻子は悉く擒えられ、乃ち身を脱して嶺を踰え しん 安に至り、陳宝応に依った。宝応は兵を以て周迪を資し、留異もまた第二子の忠臣を遣わしてこれに随わせた。

明年の秋、再び東興嶺を越え、東興・南城・永成県の民は、皆周迪の故人であり、再び共にこれに応じた。世祖は 都督 ととく の章昭達を遣わして周迪を征し、周迪はまた山谷に散じた。初め、侯景の乱の際、百姓は皆本業を棄て、群聚して盗賊と為ったが、唯だ周迪の所部のみは、侵擾せず、併せて田疇を分け与え、その耕作を督し、民下は肆業し、各々贏儲有り、政教厳明にして、徴斂必ず至り、余郡の乏絶する者は、皆仰ぎて取給した。周迪の性質朴にして、威儀を事とせず、冬は短身の布袍、夏は紫紗の〓腹(腹巻き)、居常徒跣、外に兵衛を列ね、内に女伎有りと雖も、縄を挼ぎ篾を破り、傍若無人なり。然れども財を軽んじ施しを好み、凡そ周贖する所は、毫釐必ず鈞しく、言語に訥なるも、襟懐信実にして、臨川の人皆これを徳とした。ここに至り並びに共に蔵匿し、誅戮を加うるも、肯て言う者無し。章昭達は仍って嶺を度り、建安に頓し、陳宝応と相抗し、周迪は再び収合して東興に出た。時に宣城太守の銭粛が東興を鎮め、城を以て周迪に降った。呉州刺史の陳詳が師を率いて周迪を攻め、陳詳の兵大いに敗れ、虔化侯の陳訬・陳留太守の張遂並びに戦死し、ここにおいて周迪の衆再び振るう。世祖は 都督 ととく の程霊洗を遣わしてこれを撃破し、周迪はまた十余人と山穴に竄る。日月転じて久しく、相随う者も稍々これを苦しむ。後に人を潜かに遣わし臨川郡にて魚鮭を市う。足痛み、邑子の家に捨てる。邑子が臨川太守の 駱牙 らくが に告げ、牙はこれを執り、周迪を取って自ら効うことを命じた。ここにおいて腹心の勇士をして山中に随い入らしめ、周迪を誘い出して狩猟せしめ、道傍に伏兵し、これを斬り、首を京都に伝え、朱雀観に三日間梟した。

留異

留異は、東陽郡長山県の人である。代々郡の名門として知られた。異は身の処し方を心得、言葉は含蓄があり、郷里の豪傑であった。多くの悪少年を集め、貧しい者を陵辱し、地方官は皆これを憂いた。梁の時代に蟹浦の戍主となり、晋安・安固の二県令を歴任した。侯景の乱の時、郷里に帰り、兵士を募集した。東陽郡丞は異と不和であり、兵を率いてこれを誅殺し、その妻子をも殺した。太守沈巡が朝廷を救援するため、郡を異に譲ると、異は兄の子超に郡の事務を監督させ、自らは兵を率いて沈巡に従い都に出た。

京城が陥落すると、異は臨城公蕭大連に従い、大連は板授により異を司馬とし、軍事を委ねた。異の性質は残暴で遠大な計略がなく、大連の軍主や側近を督責し、私的に威福を振るったため、人々は皆これを憂いた。ちょうど侯景の将軍宋子仙が浙江を渡ると、異は郷里に逃げ帰り、まもなく配下を率いて子仙に降った。この時、大連もまた東陽の信安嶺に向かい、鄱陽へ行こうとしたので、異は子仙の案内役となり、大連を捕らえさせた。侯景は異を東陽太守に任命し、その妻子を人質に取った。侯景の行臺劉神茂が義兵を挙げて景に抵抗すると、異は表向きは神茂に同調したが、密かに景と結んだ。神茂が敗れて景に誅殺されると、異だけが難を免れた。

侯景が平定された後、王僧辯は異を使者として東陽を慰労させ、引き続き郷里の者を糾合させて要害の地を守らせた。その徒党は非常に多く、州郡はこれを恐れた。元帝は異を信安県令とした。荊州が陥落すると、王僧辯は異を東陽太守とした。世祖(陳の文帝)が会稽を平定した時、異は糧食を輸送してはいたが、一郡を専有し、威福を己のものとしていた。紹泰二年、応接の功により、持節・通直 散騎常侍 さんきじょうじ ・信武將軍・縉州刺史に任じられ、東陽太守を兼ね、永興県侯に封ぜられ、邑五百戸を賜った。その年、 散騎常侍 さんきじょうじ ・信威將軍に遷り、邑三百戸を加増され、その他の官職はもとのままとした。また世祖の長女である豊安公主を異の三男貞臣に娶わせた。永定二年、異を召して使持節・ 散騎常侍 さんきじょうじ 都督 ととく 南徐州諸軍事・平北將軍・南徐州刺史としようとしたが、異は引き延ばして就任しなかった。

世祖が即位すると、 都督 ととく 縉州諸軍事・安南將軍・縉州刺史に改めて任じ、東陽太守を兼ねさせた。異はしばしばその長史王澌を使者として朝廷に遣わした。澌は毎度朝廷が弱体であると述べたので、異はこれを信じ、表向きは臣下の礼を示しながらも、常に二心を抱き、王琳と鄱陽の信安嶺を経て密かに使者を往来させた。王琳もまた使者を東陽に遣わし、守宰を任命した。王琳が敗れると、世祖は左衛將軍 沈恪 しんかく を遣わして異に代わって郡を治めさせると称し、実際には兵をもってこれを襲撃させた。異は下淮に出て抵抗し、恪と戦ってこれを破り、恪は敗れて錢塘に退いた。異はそこで上表して謝罪した。この時、諸軍はちょうど湘州・郢州の平定に当たっていたため、詔書を下して慰撫し、しばらく懐柔することとした。異もまた朝廷が結局は己を討伐することを知り、兵を下淮と建德に駐屯させて江路を防備させた。湘州が平定されると、世祖はついに詔を下して言った。

昔、四凶の罪は広く知られ、大媯(舜の臣)もこれを赦さず、九黎が徳を乱せば、少昊も必ずこれを誅した。古来の帝王は、みだりに征伐を好まず、もし時勢の害となる者がいれば、やむを得ず事を行うのである。

逆賊留異は、幾度も滅亡に応ずべきでありながら、甲冑を整え徒党を集め、長年にわたってきた。進んでは群龍に謝し、自ら千里を躍り出で、退いては首鼠両端を懐き、常に百の心を持ち続けた。中年には密かに番禺(王琳)と結び、既に天網は広く、名爵を賜り、国姻をもって厚く遇したのに、もしも恩恵に応える心があれば、なおも面目を改めることができたであろう。王琳が中流を窃据すると、翻ってこれに応接し、別に南川の嶺路を引き、専ら東道の主人となり、凶徒と結び付き、ただ禍乱を喜んだ。既に妖気が平定されると、意気沮喪し心細くなり、傷ついた鳥が弓弦に驚くが如く、窮した獣が触れんとするを謀るに等しい。たとえ家人を人質として遣わしても、子陽(公孫述)の態度はますます強くなり、侍子を朝廷に還しても、隗囂の心はまさに盛んとなるばかりである。

朕は養い成そうと志し、欠点や悪行を問題とせず、襟を開き帯を解き、厚く諭し殷勤に説いた。しかし蜂の目の如き凶相はますます明らかとなり、梟の声は改まらず、ついに軍を江口に置き、下淮に厳重に戍を置き、明らかに反逆し、容認隠匿すべきではない。かつ縉州の地は肥沃であり、稽南は広大豊かであるのに、永久に王の賦税を絶ち、長く国民を閉ざし、良材たる竹箭は京輦への望みを絶たれ、萑蒲の小盗は共に貪残をほしいままにし、かの地の残された民を思うと、ともに慨嘆せざるを得ない。西戎は膝を屈して自ら重関に款き、秦の国は風に依り、併せて侵した地を返還し、三辺は既に治まり、四方は皆寧んじている。ただこの微かな妖賊のみが、清め滅ぼすべきである。使持節・ 都督 ととく 南徐州諸軍事・征北將軍・ 司空 しくう ・南徐州刺史桂陽郡開國公の安都を遣わし、往きて擒らえ戮すべし。罪は異一身に止め、その他は問わない。

異はもともと官軍が錢塘江を遡上して来ると考えていたが、安都は会稽・諸暨から歩道を進んで襲撃した。異は兵が来たと聞き、大いに恐れ、郡を捨てて桃支嶺に奔り、嶺口に柵を立てて自らを固めた。翌年の春、安都がその柵を大破すると、異は第二子忠臣とともに陳寶應のもとに奔った。そこでその残党の男女数千人を捕虜とした。天嘉五年、陳寶應が平定され、異も併せて捕らえられ都に送られ、建康の市で斬られた。子・甥および同党は、老若を問わず皆誅殺され、ただ第三子貞臣のみが公主を娶っていたため罪を免れた。

陳寶應

陳寶應は、 しん 安郡候官県の人である。代々閩中の四姓の一つであった。父の羽は才幹があり、郡の豪傑であった。寶應の性質は反覆し、変詐に富んでいた。梁の時代、 しん 安はしばしば反乱を起こし、累次郡将を殺害したが、羽は初めは扇動してこれに加担し、後には官軍の案内役となってこれを破った。これにより一郡の兵権はすべて己の手中に出た。

侯景の乱の時、 しん 安太守・賓化侯蕭雲は郡を羽に譲った。羽は年老いていたので、ただ郡の事務を治め、寶應に兵を統率させた。この時、東境は飢饉に見舞われ、会稽は特にひどく、死者は十のうち七八に及び、平民の男女は皆自ら身を売ったが、 しん 安だけは豊かであった。寶應は海路から臨安・永嘉および会稽・餘姚・諸暨を寇掠し、また米粟を積んでこれらと交易し、多く玉帛子女を得た。舟車を調達できる者もまた皆これに奔り帰った。これにより大いに資産を増やし、兵士も強盛となった。侯景が平定されると、元帝はこれにより羽を しん 安太守とした。

高祖(陳の武帝)が政を輔けると、羽は老齢を理由に帰郷を請い、郡を寶應に伝えることを求めた。高祖はこれを許した。紹泰元年、壯武將軍・ しん 安太守に任じられ、まもなく員外 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。二年、候官県侯に封ぜられ、邑五百戸を賜った。当時、東西の嶺路は賊によって遮断されていたため、寶應は海路から会稽に向かい貢献した。高祖が禅を受けると、持節・ 散騎常侍 さんきじょうじ ・信武將軍・閩州刺史に任じられ、会稽太守を兼ねた。世祖が位を嗣ぐと、宣毅將軍の号を進められ、またその父に光祿大夫を加え、さらに宗正に命じてその本系を記録させ、宗室に編入させた。併せて使者を遣わしてその子女を条記させ、大小を問わず皆封爵を加えた。

寶應は留異の娘を妻に娶った。侯安都が留異を討伐した時、寶應は兵を遣わしてこれを助け、また周迪に兵糧を供給し、出て臨川を寇掠した。 都督 ととく 章昭達が東興・南城で周迪を破ると、世祖はこれにより昭達に命じて諸軍を 都督 ととく させ、建安の南道から嶺を渡らせ、また益州刺史で信義太守を兼ねる余孝頃に命じて会稽・東陽・臨海・永嘉の諸軍を 都督 ととく させ、東道からこれと会合させ、寶應を討伐させた。併せて宗正に詔してその属籍を絶たせた。そこで尚書が符を下して言った。

しん 安の士庶に告ぐ。昔、隴西が旅拒(抵抗)したが、漢はすぐには誅伐せず、遼東が叛換(反乱)したが、魏は宏略を伸べた。たとえば無諸は漢に勲功を立て、有扈氏は夏と同姓でありながら、呉王濞の子を容れたために横海の軍を招き、姒啓の命に背いたために甘誓の討伐を受けた。ましてや、族は宗盟に繋がらず、名は庸器(功績を記す器)に紀されず、しかも三叛を顕わに成し、四罪よりも深い罪を犯す者においておや。

閩の賊陳宝応父子は、蛮族の末裔にて、元より敬愛の心に迷う。梁の末の喪乱に、閩の地は阻絶し、父は豪侠にして、蛮族を扇動し、椎髻箕坐して、自ら渠帥となり、訓義を聞かず、奸諂を資とし、蜂や豺のごとく暴虐をほしいままにし、やがて官印を解く。炎運(梁)の行く方謝れ、網は吞舟の魚を漏らし、日月居諸(時が経つ)、これを度外に棄つ。東南の王気は、実に聖基(陳朝)を表し、斗牛に星聚し、まさに王跡に符す。梯山航海して、款誠の如く見えながらも、瑰珍を擅に割き、ついに職貢を微にす。朝廷は含弘に遵養し、寵霊隆赫、家を起して臨郡とし、兼ねて昼繡の栄を帯び、地を裂き州を置き、藩麾の盛を仮す。即ち戸牖に封じ、なお櫟陽に邑し、華轂に乗ずる者十人、弊廬を保ちて万石。また盛漢の君臨に、婁敬に推恩し、隆周の朝会に、滕侯を長とす。ここにより紫泥青紙、遠く恩沢を賁し、郷亭の亀組、嬰孩にまで頒つ。

谷より喬に遷り、誰かまた擬すべきか。而して鴆毒を苞蔵し、敢えて狼戾を行ふ。留異と連結し、周迪と表裏し、盟歃婚姻して、自ら唇歯と為り、山谷に屈彊し、歳時を推移す。我が彀騎山を防ぎ、秦望の西部を定め、戈船瀬を下り、匯沢の南川を克つに及び、遂に敢えて斧を挙げ、並びに凶孽を助け、弦に応じて摧衄せざるはなく、尽く醜徒を殪す。毎に罪は酋渠に在り、茲の駆逼を憫み、収むる所の俘馘は、並びに矜放を勒す。なお中使を遣わし、爰に詔書を降す。天網恢弘、なお改思を許す。異は既に険に走り、迪はまた刑を逃れ、王人を誑侮し、之が川藪と為り、遂に袁熙に席を請わしめ、遠く頭行を歎かしめ、馬援蛙を観るも、なお井底に安んず。至て九賦を遏絶し、四民を剽掠し、闔境の資財、尽く室を封奪し、凡そ厥の倉頭は、皆黔首を略す。蝥賊相扇ぎ、契を協け蹤を連ね、乃ち復た瀛溟を踰超し、浹口を寇擾し、嶺嶠を侵軼し、述城を掩襲し、吏民を縛掠し、官寺を焚焼す。此れをして縱すべくんば、孰か容るべからざらんや。

今、沙州刺史俞文冏、明威將軍程文季、假節・宣猛將軍・成州刺史甘他、假節・雲旗將軍譚瑱、假節・宣猛將軍・前監臨海郡陳思慶、前軍將軍徐智遠、明毅將軍宜黃縣開國侯慧紀、開遠將軍・新除 しん 安太守趙彖、持節・通直 散騎常侍 さんきじょうじ ・壯武將軍・定州刺史康樂縣開國侯林馮、假節・信威將軍・ 都督 ととく 東討諸軍事・益州刺史余孝頃を遣わし、羽林二万を率い、蒙衝蓋海、滄波に乗跨し、巣窟を掃蕩せしむ。此れ皆、恥を明かにし戦を教え、濡須にて旅を鞠み、累ねて楊僕に従い、亟に孫恩を走らせ、中流に蛟を斬り、馮夷に命じて鼓を鳴らし、黿鼉を駕と為し、方壺に旗を建つる者なり。

義安太守張紹賓は、忠誠款到にして、累ねて軍を求め、南康内史裴忌、新除軽車將軍劉峰、東衡州刺史銭道戢は、並びに即ち人仗を遣わし、紹賓と同行せしむ。

司空 しくう 歐陽公(歐陽頠)は、昔より表奏有り、薄伐を宣ぶるを請い、遙途意合し、伏波(馬援)の兵を論ずるが若く、長逝遺誠、子顔(祭遵)の赦す勿れに同じ。征南(歐陽頠) こう 謝すれども、上策忘るる無く、周南の余恨、嗣子(歐陽紇)忝うせず。広州刺史歐陽紇は、家声に克く符し、聿に広略を遵い、舟師歩卒、二万分趨し、水に長鯨を扼し、陸に封狶を掣し、衡・広の師を董率し、我が六軍に会せしむ。

潼州刺史李䐗、明州刺史戴晃、新州刺史区白獣、壮武將軍修行師、陳留太守張遂、前安成内史闕慎、前廬陵太守陸子隆、前 寧太守任蛮奴、巴山太守黄法慈、戎昭將軍・湘東公世子徐敬成、呉州刺史魯広達、前呉州刺史遂興縣開國侯詳、使持節・ 都督 ととく 征討諸軍事・ 散騎常侍 さんきじょうじ ・護軍將軍昭達(章昭達)は、緹騎五千、組甲二万を率い、直ちに邵武を渡り、仍って晋安に頓す。轡を按じ旌を揚げ、山を夷にし谷を堙め、期を指して掎角し、以て飛走を制す。

前宣城太守銭粛、臨川太守駱牙、太子左衛率孫詡、尋陽太守莫景隆、 章太守劉広徳は、並びに機に随い鎮遏し、絡驛として路に在り。

使持節・ 散騎常侍 さんきじょうじ ・鎮南將軍・開府儀同三司・江州刺史新建縣開國侯法𣰋(黄法𣰋)は、中流に戒厳し、以て後殿と為す。

斧鉞の臨む所、罪は唯だ元悪及び留異父子に在り。其の党の主帥は、泥を請いて函谷を函め、淮陰に背く有りと雖も、若能く翻然として図を改め、機に因りて効を立てば、止だ眚を肆うに非ず、仍って賞擢を加う。其の建・晋の士民、久しく駆迫せられたる者は、大軍明らかに撫慰を加え、各々楽業に安んじ、流寓して郷を失える者は、即ち本土に還るべし。其の余の功を立て事を立つるは、已に賞格を具す。若し迷いに執りて改めず、悪に同じくして趑趄せば、斧鉞一たび臨む、赦す所を知る無からん。

昭達は周迪を剋つに及び、東興嶺を踰え、建安に頓す。余孝頃はまた自ら臨海道より晋安を襲う。宝応は建安の湖際に拠り、逆に王師を拒ぎ、水陸に柵を為す。昭達は溝を深くし壘を高くし、戦わず、但だ軍士に命じて木を伐り簰と為す。俄かに水盛んにして、流れに乗じて之を放ち、其の水柵を突き、仍って水歩を以て之に薄し、宝応の衆潰え、身は山草の間に奔り、窘して就に執られ、其の子弟二十人と共に都に送られ、建康市に斬らる。

【史論】

史臣曰く、梁末の災沴に、群凶競い起り、郡邑巖穴の長、村屯鄔壁の豪は、剽掠を資として以て彊を致し、陵侮を恣にして以て大と為る。高祖(陳霸先)は期に応じて乱を撥い、戡定安輯す。熊曇朗・周迪・留異・陳宝応は、身は興運に逢えども、猶乱常に志す。曇朗は奸慝翻覆し、夷滅するは斯れ幸いと為す。宝応及び異に、世祖( 陳蒨 ちんせん )は或いは婚姻を以て敦くし、或いは其の類族を処す。豈に威制能わざらんや、蓋し徳を以て懐うなり。遂に乃ち恩を背き義に負き、各々異なる図を立て、地は淮南に匪ずして、帝たるの志有り、勢は庸・蜀に非ずして、自ら王たるの心を啓く。嗚呼、其の迷暗の致す所既に、五宗屠勦せらる、宜なるかな。

原本を確認する(ウィキソース):陳書 卷035