巻三十三 列伝第二十七 儒林

陳書

巻三十三 列伝第二十七 儒林

沈文阿

沈文阿、 あざな は国衛、呉興郡武康県の人である。父の峻は儒学をもって梁の世に聞こえ、桂州 刺史 しし に任ぜられたが、赴任しなかった。

文阿は性質剛強で膂力があり、若くして父の業を習い、章句の研究に精緻を極めた。祖舅の太史叔明と舅の王慧興はともに経術に通じており、文阿は彼らから多くを伝授された。また広く先儒の異同を採り、自ら義疏を撰した。三礼・三伝を修めた。孝廉に察挙され、梁の臨川王国侍郎となり、累遷して国子助教・五経博士を兼ねた。

梁の簡 文帝 ぶんてい が東宮にあった時、学士として招かれ、深く礼遇された。長春義記を撰するに当たり、多く文阿に異聞を集めさせてこれを広めた。 侯景 こうけい が叛逆すると、簡文帝は別に文阿を遣わして士卒を募り、京師に入って救援させた。都城が陥落すると、張嵊と共に呉興を守ったが、嵊が敗れると、文阿は山野に逃れた。景は平素よりその名を聞いており、激しく捜索した。文阿は窮迫して逃れる所を知らず、木に登って自縊しようとしたが、たまたま親しい者が救い、自ら飛び降りて左腕を折った。景が平定されると、 高祖 こうそ 陳霸先 ちんばせん )は文阿が同郷であることから、上表して原郷県令とし、江陰郡を監察させた。

紹泰元年、国子博士として召され、まもなく歩兵 校尉 こうい を領し、儀礼を兼ねて掌った。太清の乱以来、台閣の故事は残る所がなく、文阿の父・峻は梁の武帝の世に朝儀を掌り、かなりの遺文があった。そこで斟酌して裁定撰述し、礼の制度はすべて彼から出た。高祖が禅を受けると、文阿は官を棄てて武康に帰った。高祖は大いに怒り、使者を発して誅殺しようとした。時に文阿の同族の 沈恪 しんかく が郡太守であり、使者にその死を寛大にするよう請い、直ちに面縛して鎖を頸にかけ高祖のもとに送致した。高祖はこれを見て笑い、「腐儒がまた何をしようというのか」と言い、遂に赦した。

高祖が崩御すると、文阿は 尚書 しょうしょ 左丞の徐陵・中書舎人の劉師知らと大行皇帝の霊座の夾侍や御衣服の制度を議し、その言葉は師知伝にある。世祖(文帝)が皇帝の位に即くと、日を定めて宗廟を謁するにあたり、尚書右丞の庾持が みことのり を奉じて博士にその礼を議させた。〔四〕文阿が議して言うには、

民と物は推移し、質と文は軌を異にする。聖賢は機に因って教えを立て、王公は時に随って適宜を行う。千人に君なくば散ぜずんば乱れ、万乗に主なくば危からずんば亡ぶ。隆周の日に当たり、公旦は叔父、呂・召は爪牙たりしも、成王が喪中にあれば、禍い幾くにか国を覆さんとした。このゆえに葬り終えてすなわち公冠の儀があり、殯を始めて麻冕の策を受けた。これは天下に主あることを示し、社稷の艱難を慮ったのである。末葉の縦横に及び、漢はその弊を承け、文・景は刑措くも、七国は兵を連ねた。あるいは月を踰えて即尊し、あるいは崩日に称詔す。これらは皆なすところあってこれを為したのであり、礼制に心なきにあらず。今、国 いみな の日、 紱の重さに哀を抑うるも、なお君臣の儀に序せず。古礼では、朝廟して退き正寝に坐し、群臣の政を聴く。今、皇帝が廟を拝して還るには、太極殿に御し、以て南面の尊を正すべきである。これすなわち周の康王が朝に在りて一二の臣衛する者である。

その壤奠の節は、周礼では玉をもって贄と作し、公侯は珪を以てし、子男は璧を執る。これは瑞玉である。奠贄既に竟り、また復た享を致す。天子は璧を以てし、王后は琮を以てす。秦が經典を焼き、威儀散滅し、叔孫通が礼を定めて、特に前憲を失い、奠贄に珪なく、享を致すに帛なく、公王同じく璧とし、鴻臚賀を奏す。この数事、古に聞かず、後に相い沿襲し、梁に至りてこれを行った。觴を称え寿を奉ずるは、家国の大慶、四廂の雅楽、歌奏歓欣たり。今、君臣哀を呑み、万民割を抑うるは、豈に惟新の礼と同じからんや。かつ周の康王、賓称して珪を奉ずるも、万寿の献なく、これ前の準明らかなり。三宿三吒し、上宗饗すと曰う。これは祭儐して福を受けるを蓋し、寧ろ賀酒を謂うや。愚は今、正殿に坐し、ただ璧を薦むるの儀を行い、賀酒の礼なからんことを以てす。謹んで廟を謁して還り正寝に升り、群臣陪して薦むる儀注を別の如く撰す。

詔して施行を可とした。まもなく通直 散騎常侍 さんきじょうじ に遷り、国子博士を兼ね、羽林監を領し、なお東宮において孝経・論語を講ぜしめた。天嘉四年に卒す。時に年六十一。詔して廷尉卿を贈られた。

文阿の撰した儀礼八十余巻、經典大義十八巻は、ともに世に行われ、諸儒多くその学を伝えた。

沈洙

沈洙、字は弘道、呉興郡武康県の人である。祖父の休稚は、〔五〕梁の余杭県令。父の山卿は、梁の国子博士・中散大夫。

洙は若くして方正雅正で学を好み、妄りに交遊しなかった。三礼・春秋左氏伝を修めた。識見精しく記憶強く、五経の章句、諸子史書、問うて答えざる所なし。解巾して梁の湘東王国左常侍となり、転じて中軍宣城王限内参軍、板仁威臨賀王記室参軍に任ぜられ、尚書祠部郎中に遷った。時に年およそ二十余歳。大同年中、学者多くは文史に渉猟し、章句を為さなかったが、洙のみ経術に積思し、呉郡の朱异・会稽の賀琛は甚だこれを嘉した。异・琛が士林館において制旨義を講ずる時、常に洙をして都講と為らしめた。侯景の乱、洙は臨安に逃れた。時に世祖( 陳蒨 ちんせん )がそこにおり、親しく就いて業を習った。高祖(陳霸先)が輔政に入ると、国子博士に除かれ、沈文阿とともに儀礼を掌った。

高祖(陳霸先)が禅譲を受けると、員外 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられ、揚州別駕従事史・大匠卿を歴任した。役所が上奏したところによれば、前寧遠将軍・建康令の沈孝軌の門生である陳三児が申し立てて言うには、主人の霊柩は北周にあり、主人は関内に使者として赴いており、それゆえ喪を迎えようとしたが、長くして未だ帰還していない。今月の晦日はちょうど二周忌にあたり、主人の弟や息子でここにいる者は、月末までに除霊し、内外ともに吉服に改めるべきか、それとも主人の帰還を待って情と礼を尽くすべきか、ということであった。この件について左丞の江徳藻に諮問したところ、徳藻は議して言うには、「王衛軍(王曇首か)が言うには、『長く喪に服して葬らない場合は、主人だけが喪服を変えず、その他の親族はそれぞれ月数を満たして除喪する』と。これは礼の条文を引いて、家内に事故があって葬ることができない者について論じたものであろう。孝軌はすでに異域におり、喪を迎えようとしているとはいえ、帰還の期日は定かではない。諸弟がもし遂に除喪しなければ、永遠に婚嫁を絶つことになり、これは人情において、あるいは妥当でないかもしれない。中原が陥落した後には、理屈として先例があるはずであり、沈常侍に諮問して詳しく議論すべきである」と。沈洙が議して言うには、「礼には変正があり、また時宜に従うものがある。礼小記に云う、『久しく葬らない者は、ただ主喪者だけが除喪せず、その他は麻を着けて月数を終えれば除喪する』と。注に云う、『その他とは傍親を謂う』と。鄭玄の解釈によれば、衆子は皆除喪すべきでないことになるが、王衛軍が引用したのは、これが礼の正しいあり方であろう。しかし魏氏の東関の役では、すでに屍柩を失い、葬儀の期日がなく、議論では礼に終身の喪はないとして、除服させる制度を定めた。 しん 氏の喪乱では、ある者は虜庭で死に、殯を迎える由もなく、江左では故にその制度を再び明らかにした。李胤の祖父、王華の父は、ともに存亡が不測であり、その子は喪服を着けて時節に従って縗を解いた。これらは皆、変礼として時宜に適ったものである。孝軌は使者として赴いたついでに喪を迎えようとしたが、戎狄は親しみ難く、帰還の期日は定かでない。愚見では東関の故事に依るのが宜しく、この国内にいる者は、ともに縗麻を解き、霊を毀して祭に附し、もし喪柩が還ってくれば、別に改葬の礼を行うべきである。天下が寇乱し、西朝が傾覆して以来、絶域に流離し、情と礼を尽くすことができない者は、おそらく一二に止まらず、どうして喪期を数えず、衰服を除かないことがあろうか。朝廷は自らこれに制限を設け、義をもって恩を断ち、広く博識を訪ね、礼の衷を折衷すべきである」。徳藻は沈洙の議に従い、上奏して許可された。

世祖(陳蒨)が即位すると、通直 散騎常侍 さんきじょうじ に遷り、東宮に侍して読書を講じた。まもなく尚書左丞を兼ね、揚州大中正を領し、光禄卿に遷り、侍読はもとの通りであった。 廃帝 はいてい 陳伯宗 ちんはくそう )が位を嗣ぐと、再び通直 散騎常侍 さんきじょうじ となり、尚書左丞を兼ねた。戎昭将軍・軽車衡陽王長史に遷り、府国の事を行い、琅邪・彭城二郡丞を帯びた。梁代の旧律では、囚人を測る方法は、一日に一度、晡鼓から始めて二更に終わるものであった。比部郎の范泉が律令を刪定した際、旧法では測立の時間が長く、人が耐えられるものではないとして、その刻数を分け、一日に二度とするものとした。廷尉は新制が軽すぎると考え、八座・丞郎および祭酒の孔奐・行事の沈洙ら五人の舎人を集め、尚書省で詳しく議論するよう請うた。時に高宗( 陳頊 ちんきょ )が尚書を録しており、衆議を集めた。都官尚書の周弘正が言うには、「獄で測られた者が、幾人が服罪し、幾人が不服なのか知らない。まず人名と数、およびその罪目を責め取る必要があり、それから改めて集まるべきである」。廷尉監の沈仲由が列挙して称えるところを得たところ、別制以後、寿羽児一人が寿慧を殺した罪に坐し、劉磊渴ら八人が馬仗と家口を盗んで北に渡った罪に坐し、法に依って測ったが、期限が終わっても服罪しなかった。劉道朔は七回の窃盗を犯した罪に坐し、法に依って測立させたところ、首尾二日で服罪した。陳法満は封蔵を命じられて使いに出た罪、阿法は賄賂を受け取った罪に坐し、測立に及ばずに服罪した。弘正が議して言うには、「およそ大小の獄は、必ず情実に基づき、正しく五聴に依拠して、その虚実を験すべきであり、どうして拷問に任せて、刑罪を判決することができようか。かつ測る時間は、本来古制ではなく、近代になってから、この法ができた。晡鼓から始めて二更に終わるなど、常人に耐えられるものだろうか。重い械の下、危険な墜落の上では、服さない者はなく、誣枉される者が多い。朝夕二時、同等の刻数とし、進退を求めて、事に衷を得るべきである。もし時間が短いために、実罪を伏さないというなら、時間を延長すれば、過ちなく服罪するというわけでもない。かつ人の堪えられる力には強弱があり、人の意志の立て方も固より多様である。貫高が榜笞刺爇され、身に完膚なきに至り、戴就が熏針を極められ、困篤であっても動じなかったのは、時刻の長短や掠測の優劣に関わることであろうか。罪なき者を殺すよりは、経典に合わないことを失う方がましであり、罪に疑いあれば軽くし、功に疑いあれば重くする。これこそ古の聖王が垂れた明法である。愚見では范泉の定めた制度に依るのが、事において妥当である」。舎人の盛権が議して言うには、「比部の范泉の新制、尚書の周弘正の明議は、いずれも虞書の惟軽の旨、殷頌の敷正の言に允っている。窃かに尋ねるに、廷尉監の沈仲由らが列挙した新制以後の獄は凡そ十一人あり、そのうち測られた者は十人で、服罪した者はただ一人である。愚見では、罪に染まった囚人に対しては、獄官が明らかに弁析を加え、事理を窮めて考うべきである。もし罪に疑いがあれば、自ら啓して審理し分判すべきであり、濫りに測ることは避けるべきである。もし罪に確証があれば、初めて啓して審理し測立すべきである。これによって枉直に分かれ、刑と宥の理が明らかになる。范泉が今、漢律を牒述して云うには、『死罪および除名は、罪証明白で、考掠が既に加えられ、それに抵って隠して服さない者は、処当を列上する』と。杜預が注して云うには、『処当とは、証驗明白の状を列し、その抵隠の意を述べる』と。窃かに旧制は深峻で、百人中服罪しない者は一人、新制は寛優で、十人中服罪しない者は九人であり、両文を参合すると、寛猛の違いは明らかである。処当列上の規定は、未だ釐革されていない。愚見では典法に付し、更に『処当列上』の条文を詳しくすべきである」。沈洙が議して言うには、「夜中に測立するのは、緩急によって欺き易く、兼ねて昼漏を用いるのが、事において妥当である。ただし漏刻の賒促は、今古で異なる。漢書律暦、何承天・祖沖之・祖暅之父子の漏経では、いずれも関鼓から下鼓まで、晡鼓から関鼓まで、皆十三刻であり、冬夏四時に異ならない。もしその日に長短があれば、中時を分けて前後する。今は梁末に改めた漏を用い、下鼓の後、その短長を分け、夏至の日は各十七刻、冬至の日は各十二刻である。伏して承る命旨によれば、刻は勒令と同じとされるが、一日の刻を検すれば同じでも、四時の用は等しくない。廷尉が今牒で、時刻が短促なために罪人が服罪しないとしている。愚意としては、夜測の暗さを去り、昼漏の明るさに従い、今古の間を斟酌し、二漏の義を参合し、秋冬の少刻を捨て、夏日の長い日影に従い、寒暑を問わず、皆今の夏至に依り、朝夕に測立し、各十七刻とする。古漏と比べれば、一度の測立で昔より四刻多く、今漏を用いれば、冬至では五刻多くなる。冬至の時、数刻夜に侵されるとしても、正に日が短い時であり、事において疑うには及ばない。これによって罪人が漏短を以て抵抗せず、獄囚が夜であることを以て誣られることがなくなることを願う。鄙意を求めるに、窃かに允合すると考える」。衆議は范泉の前制に依るのが宜しいとしたが、高宗は言うには、「沈長史(沈洙)の議は中を得ている。更に博く議論すべきである」。左丞の宗元饒が議して言うには、「窃かに沈議は頓に范と異なるのではなく、正に四時にその刻数を均しくし、兼ねてその佳きを斟酌して、優劇に会わせようとするものである。即ち同牒に請うて、刪定曹に書き還して前制を詳しく改めさせる」。高宗は事に依って施行した。

沈洙は太建元年に卒し、時に五十二歳であった。

戚袞

戚袞は字を公文といい、呉郡塩官県の人である。祖父の顕は、斉の給事中であった。父の覇は、梁の臨賀王府中兵参軍であった。

袞は幼少より聡明で、京都に遊学し、国子助教の劉文紹に三礼を学び、一二年のうちに大義をほぼ習得した。十九歳の時、梁の武帝が孔子正言及び周礼・礼記の義について策問を下すと、袞は高第で及第した。そこで揚州祭酒従事史に任じられた。

国子博士の宋懐方のもとへ赴き儀礼の義を質した。懐方は北方の出身で、魏より儀礼・礼記の疏を持ち帰り、秘蔵して伝えようとしなかったが、臨終の際に家人に「我が死後、戚生が弔問に来たら、儀礼・礼記の義本を彼に渡せ。もし来なければ、屍とともに葬れ」と言った。彼が儒者から推賞されたのはこのような次第であった。まもなく太学博士を兼ねた。

梁の簡文帝が東宮にあった時、袞を召して講論させた。またかつて宴を設けて玄儒の士を集め、まず道学に互いに質疑応答させ、次に中庶子の徐摛に大義を縦横に論じさせ、間に激しい談論を交えさせた。摛の弁論は縦横無尽で、応答抗弁が難しく、一同は気圧されて皆順序を失った。その時、袞が義を縦横に論じ、摛と往復したが、袞は精采自若として、流れるように応答したので、簡文帝は深く賞賛した。まもなく員外散騎侍郎に任じられ、さらに員外 散騎常侍 さんきじょうじ に昇進した。敬帝が制を承けると、江州長史として出向し、引き続き沈泰に従って南 州を鎮撫した。泰が斉に奔った時、袞を脅して同行させたが、後に鄴から遁走して帰還した。また程文季に従って北伐し、呂梁で軍が敗れると、袞は周に捕らわれたが、久しくして帰還した。引き続き国子助教を兼ね、中衛始興王府録事参軍に任じられた。太建十三年に卒去した。時に六十三歳であった。

袞は梁代に三礼義記を撰したが、乱に遭って散逸し、礼記義四十巻のみが世に行われた。

鄭灼

鄭灼は字を茂昭といい、東陽郡信安県の人である。祖父の恵は、梁の衡陽太守であった。父の季徽は、通直散騎侍郎・建安令であった。

灼は幼少より聡敏で、儒学に志を励まし、若くして皇侃に師事した。梁の中大通五年、奉朝請に初任した。累進して員外散騎侍郎・給事中・安東臨川王府記室参軍となり、平西邵陵王府記室に転じた。簡文帝が東宮にあった時、経術を殊に愛好し、灼を召して西省義学士とした。承聖年間、通直散騎侍郎に任じられ、国子博士を兼ねた。まもなく威戎将軍となり、中書通事舎人を兼ねた。高祖・世祖の時代、安東臨川王・鎮北鄱陽王の二王府諮議参軍を歴任し、累進して中散大夫となり、本職のまま国子博士を兼ねた。拝命に及ばず、太建十三年に卒去した。時に六十八歳であった。

灼は性質精勤で、特に三礼に明るかった。若い時、かつて夢に皇侃と路上で出会い、侃が灼に「鄭郎、口を開け」と言い、侃は灼の口の中に唾を吐きかけた。その後、義理がますます進歩した。灼は家が貧しく、義疏を書き写すのに日夜を継ぎ、筆の穂先が尽きるたびに削って用いた。灼は常に粗食で、講授に苦心して熱を発することが多く、瓜の時節には、いつも横たわって瓜を胸に当てて鎮め、起き上がればすぐに誦読した。その志の篤い様はこのようなものであった。

張崖、陸詡

時に晋陵の張崖、呉郡の陸詡、呉興の沈徳威、会稽の賀徳基がおり、皆礼学を以て自任していた。

張崖は同郡の劉文紹に三礼を伝え、梁に仕えて王府中記室を歴任した。天嘉元年、尚書儀曹郎となり、沈文阿の儀注を広め、五礼を撰した。丹陽令・王府諮議参軍として出向した。御史中丞の宗元饒が上表して国子博士に推薦した。

陸詡は若くして崔霊恩の三礼義宗を学び、梁代に百済国が表を奉って講礼博士を求めたため、詔により詡が派遣された。帰還後、給事中・定陽令に任じられた。天嘉初年、始興王伯茂に侍読し、尚書祠部郎中に昇進した。

沈徳威

沈徳威は字を懐遠といい、若くして操行があった。梁の太清末年、天目山に遁世し、室を築いて住んだ。乱離の世にあっても学問に篤く倦むことなく、遂に経学を修めた。天嘉元年、都に召し出され、太子に侍って礼伝を講じた。まもなく太学博士に任じられ、国子助教に転じた。毎回、学より私室に帰って講授し、道俗の受業者は数十百人に及び、常にこのような有様であった。太常丞に昇進し、五礼学士を兼ね、まもなく尚書儀曹郎となり、後に祠部郎となった。俄かに母の喪に遭い職を去った。禎明三年に隋に入り、官は秦王府主簿に至った。五十五歳で卒去した。

賀德基

賀德基は字を承業といい、代々礼学を伝えた。祖父の文発と父の淹は梁に仕えてともに祠部郎となり、ともに当世に名を知られた。德基は若くして京邑に遊学し、数年帰らず、衣服や資金が尽きて乏しくなり、また古びた衣服を着るのを恥じ、厳冬でも袷の短衣一枚を着るのみであった。かつて白馬寺の前で一人の婦人に逢い、その容貌と衣服は甚だ盛んで、德基を呼んで寺門に入り、白綸の巾を脱いでこれを贈った。そして德基に言うには、「君はまさに重き器とならんとし、久しからず貧寒を脱するゆえ、故にこれを以て相い遺るのみ」と。德基が嫗の姓名を問うと、答えずして去った。德基は礼記に精通していると称され、住まいを以て教授し、累遷して尚書祠部郎となった。德基は大官には至らなかったが、三世儒学にて、ともに祠部郎となり、時の論はその墜ちざるを美とした。

全緩

全緩は字を弘立といい、呉郡錢塘の人である。幼くして博士の褚仲都に易を受けて学び、志を篤くして研鑽し、その精微を得た。梁の太清初年、王国侍郎・奉朝請を歴任し、まもなく国子助教に転じ、司義郎を兼ね、専ら詩・易を講じた。紹泰元年、尚書水部郎に任ぜられた。太建年中、累遷して鎮南始興王府諮議参軍となり、府に従って湘州に赴き、病により卒した。時に七十四歳。緩は周易・老子・荘子を研究し、当時の玄言を論ずる者は皆これを推した。

張譏

張譏は字を直言といい、清河武城の人である。祖父の僧宝は梁の散騎侍郎・太子洗馬。父の仲悦は梁の廬陵王府録事参軍・尚書祠部郎中。

譏は幼くして聡明で才知があり、思理あり、十四歳にして孝経・論語に通じた。玄言を篤く好み、汝南の周弘正に学び、毎に新意あり、先輩に推伏された。梁の大同年中、召されて国子正言生に補せられた。梁の武帝がかつて文徳殿にて乾・坤の文言を釈したとき、譏は陳郡の袁憲らとともにこれに預かり、勅して論議させると、諸儒は敢えて先に出る者なく、譏は容を整えて進み、諮審循環し、辞令は温雅であった。梁の武帝は甚だこれを異とし、裙襦や絹などを賜い、なお「卿の稽古の力を表す」と言った。

譏は幼くして母を喪い、錯綵の経帕があり、すなわち母の遺製であった。物心つくと、家人がことごとくこれを告げ、毎年の節句には経帕に対し哽咽し、自ら勝えなかった。父の憂いに遭い、喪に居ること礼を過ぎた。服喪が終わり、召されて湘東王国左常侍に補せられ、田曹参軍に転じ、士林館学士に遷った。

簡文帝が東宮におられたとき、士林館に出て孝経の題を発し、譏が論議を往復し、甚だ賞賛された。これより毎に講集があるごとに、必ず使いを遣わして譏を召した。侯景が逆を寇すに及んで、囲まれた城の中においても、なお哀太子に侍して武徳後殿で老子・荘子を講じた。梁の台城が陥落すると、譏は崎嶇として難を避け、ついに景に仕えなかった。景が平らぎ、臨安令を歴任した。

高祖が禅を受けると、太常丞に任ぜられ、始興王府刑獄参軍に転じた。天嘉年中、国子助教に遷った。このとき周弘正が国学におり、周易の題を発した。弘正の四弟の弘直も講席に在った。譏が弘正と論議すると、弘正は屈し、弘直は危坐して声を厲し、その理を申すを助けた。譏は正色として弘直に謂いて曰く、「今日の義集は、名理を弁正するものなり。兄弟の急難を知るといえども、四公は助くるを得ず」と。弘直曰く、「僕は君の師を助く、何ぞ不可ならんや」と。座を挙げて笑楽と為した。弘正は嘗て人に謂いて曰く、「吾が毎に座に登り、張譏が席に在るを見れば、人をして凛然たらしむ」と。高宗の世、建安王府記室参軍を歴任し、東宮学士を兼ね、武陵王限内記室に転じ、学士はもと通りであった。

後主 こうしゅ が東宮におられたとき、官僚を集めて宴を設け、時に玉柄の麈尾を新たに造り成す。後主自らこれを執りて曰く、「当今はまた士多く林の如しといえども、これを持つに堪える者は、ただ張譏のみなり」と。すなわち手ずから譏に授けた。なお温文殿において荘子・老子を講ぜしめ、高宗が宮に幸して臨聴し、御所服の衣一襲を賜った。後主が位を嗣ぐと、南平王府諮議参軍・東宮学士を領した。まもなく国子博士に遷り、学士はもと通りであった。後主がかつて鍾山の開善寺に幸し、従臣を召して寺の西南の松林の下に坐らせ、勅して譏を召し義を立てさせた。時に麈尾を索むるも未だ至らず、後主は勅して松枝を取らせ、手ずから譏に属して曰く、「麈尾に代えうべし」と。群臣を顧みて曰く、「これ即ち張譏の後事なり」と。禎明三年、隋に入り、長安にて終わる。時に七十六歳。

譏は性恬静にして、栄利を求めず、常に閑逸を慕い、居る宅に山池を営み、花果を植え、周易・老子・荘子を講じて教授した。呉郡の陸元朗・朱孟博、一乗寺の沙門法才、法雲寺の沙門慧休、至真観の道士姚綏は、皆その業を伝えた。譏の撰する所に周易義三十巻、尚書義十五巻、毛詩義二十巻、孝経義八巻、論語義二十巻、老子義十一巻、荘子内篇義十二巻、外篇義二十巻、雑篇義十巻、玄部通義十二巻、また遊玄桂林二十四巻を撰し、後主はかつて勅して人をその家に遣わし、秘閣に書き入れしめた。

子の孝則は、官は始安王記室参軍に至った。

顧越

顧越は字を思南といい、呉郡塩官の人である。居る所は新坡黄岡で、代々郷校があり、これにより顧氏は多く儒学に通じた。

沈越は幼くして孤となり、勤苦をもって自立し、聡慧にして弁舌に優れ、毛氏の詩を説き、傍らに異義を通じ、梁の太子詹事周捨は大いにこれを賞した。解褐して揚州議曹史となり、兼ねて太子左率丞を務めた。沈越は義理に精通し、特に議論を巧みにし、会稽の賀文発とともに梁の南平王蕭偉に重んじられ、賓客として招かれた。まもなく五経博士を補任した。紹泰元年、国子博士に遷った。世祖が即位すると、始興王諮議参軍に任じられ、東宮に侍して読書を講じた。世祖は沈越が篤老であることを以て厚く遇し、給事黄門侍郎に任じ、また国子博士を領し、侍読はもと通りとした。廃帝が嗣立すると、通直 散騎常侍 さんきじょうじ ・中書舎人に任じられた。華皎が逆を構えたとき、沈越は東陽におり、ある者が高宗に讒言して、異志ありと述べたため、詔により獄に下され、これに坐して免官となった。太建元年、家で卒した。時に七十八歳。

時に東陽の龔孟舒という者あり、また毛氏の詩を治め、名理を談ずるに善かった。梁の武帝の世、尋陽郡丞に至り、元帝が江州におられたとき、これを遇すること甚だ重く、躬ら師事した。承聖年間、中書舎人を兼ねた。天嘉初年、員外 散騎常侍 さんきじょうじ に任じられ、国子助教・太中大夫を兼ねた。太建年間に卒した。

沈不害

沈不害は字を孝和といい、呉興武康の人である。祖父の沈総は、斉の尚書祠部郎であった。父の沈懿は、梁の邵陵王参軍であった。

不害は幼くして孤となり、修立して学を好んだ。十四歳のとき、召されて国子生に補せられ、明経に挙げられた。累遷して梁の太学博士となり、転じて廬陵王府刑獄参軍、長沙王府諮議となり、汝南令を帯びた。天嘉初年、衡陽王府中記室参軍に任じられ、嘉徳殿学士を兼ねた。梁の末の喪乱以来、この時まで国学が未だ立たず、不害は上書して言った。

臣は聞く、人を立て国を建つるには、儒を尊ぶに尚ぶはなく、俗を成し民を化するには、必ず教学を崇ぐと。故に東膠西序は、事三代に隆く、環林璧水は、業両京に盛んなり。淳源遠く既にしてより、澆波已に扇がれ、物の人を感ずること無窮、人の欲を逐うこと節無し。是をもって訓を設け範を垂れ、心霊を啓導す。譬えばかの藍を染むるが如く、諸を琢玉するに類し、然る後に人倫以て睦び、卑高序有り、忠孝の理既に明らかにして、君臣の道固し。礼を執ること自ら基とし、魯公以て侮り難き所以なり。楽を歌うこと已に細く、鄭伯ここに於いて前に亡ぶ。干戚舞いて有苗至り、泮宮成りて淮夷服す。長く洙・泗の風を想い、載せて淹・稷の盛を懐う。国有り家有るもの、尚ばざるは莫し。

梁の太清の末年、数たび否剝に鍾り、戎狄外に侵し、姦回内に奰き、朝に鼓鼙を聞き、夕に烽火を炤す。洪儒碩学は、解散すること坑夷に甚だしく、五典・九丘は、湮滅すること帷蓋に逾えたり。成均ここに自ら業を墜し、瞽宗ここに於いて修まらず、褒成の祠は祼享を陳べず、釈菜の礼は俎豆を称せず、頌声寂莫として、遂に一紀を踰えたり。後生敦悦するも、函杖の儀を見ず、晚学鑽仰するも、徒らに倚席の歎を深くす。

陛下は歴を継ぎ統を升し、鏡を握り宇に臨み、道は寰中に洽く、威は無外に加わり、濁流已に清く、重氛載せて廓く、含生熙阜し、品庶咸亨す。宜しく其れ礼楽を弘振し、庠序を建立し、古典に式稽し、儒宮に紆跡し、公卿の門子を選び、皆学に入らしめ、助教博士は朝夕講肄し、簦を擔ぎ笈を負うて、鏘鏘として衽を接ぎ、方領矩歩して、済済として林を成さしむべし。切るが如く磋くが如く、詩を聞き礼を聞き、一年以て功倍すべく、三冬ここに於いて足用たり。故に能く秀を雄州に擢げ、庭を揚げ国を観、入仕して朝に登り、優学を資として自ら輔け、官に蒞み政に従い、経業有りて身を治め、轖駕は庭に列し、青紫は地を拾う。

古えには王世子の貴きも、猶国子と歯す。降りて漢の儲に及び、茲の礼墜ちず、両 しん に至りて、斯の事弥隆し、師厳にして道尊きを見る所以なり。皇太子は天縱の生知にして、審喻を待たず、猶宜しく跡を晦まして俯同し、経に専ら業を請い、爵を師の前に奠し、粛として旧典の若くすべし。昔、闕里の堂には、萊自ら辟け、旧宅の内には、絲竹音を流す。前聖の遺烈、深く以て炯戒とす。況んや復た江表に虞無く、海外截有り、豈に大猷を開闡し、至道を恢弘せざらんや。寧ろ玄教儒風をして、聖世に興らず、盛徳大業をして、遂に堯年に蘊せしめんや。臣は末学小生、詞筭に足らず、軽く瞽言を献じ、伏して悚惕を増す。詔して答えて曰く、「表を省みて之を聞く。旧章弛廃より、微言将に絶えんとす。朕は宝業を嗣膺し、緝熙に念う。而して兵革未だ息まず、軍国草創す。常に前王の令典、一朝に泯滅せんことを恐る。卿が才思優洽、文理求む可く、大體を弘惜し、名教に殷勤なる。外に付して詳議せしめ、事に依り施行せよ」。

また表を上して楽章を改定し、詔して三朝の楽歌八首を製せしめ、二十八曲に合わせ、楽府に行わせた。

五年、灨令に任じられた。入朝して尚書儀曹郎となり、国子博士に遷り、羽林監を領し、勅により五礼を治め、策文・諡議を掌った。太建年間、仁武南康嗣王府長史に任じられ、丹陽郡事を行った。転じて員外 散騎常侍 さんきじょうじ ・光禄卿となった。まもなく戎昭将軍・明威武陵王長史となり、呉興郡事を行った。俄かに入朝して通直 散騎常侍 さんきじょうじ となり、尚書左丞を兼ねた。十二年、卒した。時に六十三歳。

不害は経術を治め、文を属するに善く、博く墳典を綜べるも、家に巻軸無し。文を製する毎に、筆を操り立ち成り、曾て尋検すること無かりき。 僕射 ぼくや 汝南の周弘正は常にこれを称して曰く、「沈生は聖人を意とすと謂う可きか」と。治五礼儀一百巻、文集十四巻を著す。

子の志道は、字を崇基といい、少にして知名なり。解褐して揚州主簿となり、まもなく文林著士を兼ね、安東新蔡王記室参軍を歴任した。禎明三年、隋に入った。

王元規

王元規は字を正範といい、太原 しん 陽の人である。祖父の王道宝は、斉の員外 散騎常侍 さんきじょうじ しん 安郡守であった。父の王瑋は、梁の武陵王府中記室参軍であった。

元規は八歳で孤児となり、兄弟三人は母に従って舅の家に身を寄せ臨海郡に赴いた。時に十二歳であった。郡の土豪劉瑱という者は、資財巨万で、娘を彼に娶せようとした。元規の母はその兄弟が幼弱であることを以て、強力な後援を結ぼうとしたが、元規は涙を流して請うて言うには、「婚姻は親族を失わず、古人の重んずるところである。どうして異境に安んじ苟且に、みだりに非類と婚姻を結ぶことができようか」と。母はその言葉に感じてやめた。

元規は性孝にして、母に事えること甚だ謹み、朝夕未だ嘗て左右を離れなかった。梁の時、山陰県に暴水があり、居宅が流され漂った。元規は唯だ小船一隻あるのみで、倉卒にその母と妹及び孤姪を船に引き入れ、元規自ら楫棹を執って去り、その男女三人を留めて樹の梢に置いた。水が退いて全うするを得た時、人皆その至行を称えた。

元規は少にして学を好み、呉興の沈文阿に従って業を受けた。十八歳で春秋左氏、孝経、論語、喪服に通じた。梁の中大通元年、春秋について詔策があり、高第に挙げられ、当時の名儒皆これを称賞した。起家して湘東王国左常侍となり、転じて員外散騎侍郎となった。簡文が東宮に在った時、賓客として引き入れ、毎度講論を命じ、甚だ優礼を以て遇された。中軍宣城王府記室参軍を除された。侯景の寇乱に及び、家族を携えて会稽に還った。天嘉年中、始興王府功曹参軍を除され、国子助教を領し、転じて鎮東鄱陽王府記室参軍となり、助教を領するはもとの如くであった。

後主が東宮に在った時、学士として引き入れ、親しく礼記、左伝、喪服等の義を受け、賞賜は優厚であった。国子祭酒に遷った。新安王伯固は嘗て入宮に因って恰も元規が将に講じんとするに会い、乃ち経を執ることを啓請し、当時の論はこれを栄えと為した。俄かに尚書祠部郎を除された。梁代以来諸儒が相伝えて左氏学者と為る者は、皆賈逵、服虔の義を以て杜預を難駁し、凡そ一百八十条あったが、元規は引証して通析し、再び疑滞する所がなかった。毎に国家吉凶の大礼を議するに、常に参預した。母憂に遭い職を去り、服闋して、鄱陽王府中録事参軍を除され、俄かに散騎侍郎に転じ、南平王府限内参軍に遷った。王が江州となると、元規は府に随って鎮に赴き、四方の学徒、千里を遠しとせず来て道を請う者は、常に数十百人であった。禎明三年隋に入り、秦王府東閤祭酒と為った。年七十四、広陵に卒した。

元規は春秋発題辞及び義記十一巻、続經典大義十四巻、孝経義記二巻、左伝音三巻、礼記音二巻を著した。

子の大業は、聡敏にして名を知られた。

時に呉郡の陸慶あり、少にして学を好み、遍く五経を知り、特に春秋左氏伝に明るく、節操甚だ高かった。梁の武陵王国右常侍に釋褐し、征西府墨曹行参軍を歴任し、婁令を除された。梁の末世の喪乱に値し、乃ち心を釋典に覃め、経論に該究せざるはなかった。天嘉初め、通直散騎侍郎に徴されたが、就かず。永陽王が呉郡太守となった時、その名を聞き、相見えんとしたが、慶は固く疾を以て辞した。時に宗人の陸栄が郡の五官掾となっており、慶は嘗て彼を訪れた。王は乃ち微服して栄の邸に往き、壁を穿ってこれを観た。王は栄に謂うには、「陸慶の風神凝峻なるを観るに、殆ど測るべからず、厳君平、鄭子真何を以てか茲に尚ばん」と。鄱陽、晋安王俱に記室を以て徴したが、 へい びに就かず。乃ち室を築き屏居し、禅誦を事とし、これにより経を伝え業を受くる者は蓋し鮮かであった。

【評】

史臣曰く、身を砥ぎ行いを励ますには、必ず先ず経術にあり、国を樹て家を崇むるは、率ね茲の道に由る。故に王政は之に因りて至治に至り、人倫は之を得て攸序となる。沈文阿の徒の如きは、各々専ら経を授け業を教え、亦一代の鴻儒なり。文阿は復た礼儀を草創するを加え、蓋し叔孫通の流亜なり。

原本を確認する(ウィキソース):陳書 卷033