陳書

巻三十二 列伝第二十六 孝行

巻三十二 列伝第二十六 孝行

殷不害

原文殷不害

殷不害、字あざなは長卿、陳郡長平の人である。祖父の任は、斉の豫章王行参軍であった。父の高明は、梁の尚書中あた兵郎であった。不害は性、至孝にして、父の喪に服するや礼を過ぎ、これにより少にして名を知られた。家は代々倹約で、住まいは甚だ貧しく、弟が五人おり、皆幼弱であったが、不害は老母に仕え、小弟を養い、勤苦すること至らざるところなく、士大夫は篤行をもってこれを称えた。

原文殷不害字長卿,陳郡長平人也。祖任,齊豫章王行參軍。父高明,梁尚書中兵郎。不害性至孝,居父憂過禮,由是少知名。家世儉約,居甚貧窶,有弟五人,皆幼弱,不害事老母,養小弟,勤劇無所不至,士大夫以篤行稱之。

十七歳の時、梁の廷尉平に仕えた。不害は政事に長じ、兼ねて儒術をもって飾り、名法に軽重不便なことがあれば、すなわち上書してこれを言い、多くは採用された。大同五年、鎮西府記室参軍に遷り、まもなく本官のまま東宮通事舎人を兼ねた。この時、朝廷の政事は多く東宮に委ねられ、不害は舎人の庾肩吾とともに直日にて奏事した。梁の武帝はかつて肩吾に言われた、「卿は文学の士である。吏事は卿の長ずるところではない。どうして殷不害を使わないのか」と。そのように見知られていたのである。簡文帝もまた不害が親に善く仕えることを以て、その母の蔡氏に錦の裙襦、氈席、被褥を賜い、単衣も複衣もことごとく備わった。七年、東宮歩兵校尉に除された。太清の初め、平北府諮議参軍に遷り、舎人はもとの通りであった。

原文年十七,仕梁廷尉平。不害長於政事,兼飾以儒術,名法有輕重不便者,輒上書言之,多見納用。大同五年,遷鎮西府記室參軍,尋以本官兼東宮通事舍人。是時朝廷政事多委東宮,不害與舍人庾肩吾直日奏事,梁武帝嘗謂肩吾曰:「卿是文學之士,吏事非卿所長,何不使殷不害來邪?」其見知如此。簡文又以不害善事親,賜其母蔡氏錦裙襦、氈席、被褥,單復畢備。七年,除東宮步兵校尉。太清初,遷平北府諮議參軍,舍人如故。

侯景の乱に際し、不害は簡文帝に従って台城に入った。台城が陥落すると、簡文帝は中書省におられ、侯景は甲を帯び兵を将いて朝に参内し、拝謁して簡文帝に過ぎた。侯景の兵士は皆、羌・胡の雑種で、左右に衝突し、甚だ不遜であり、侍衛の者は驚恐して退かなかったが、ただ不害と中庶子の徐摛のみが側に侍して動じなかった。簡文帝が侯景に幽閉されると、人を遣わして不害に同居を請い、侯景はこれを許したので、不害は供侍することますます謹んだ。簡文帝は夜、土塊を呑む夢を見て、心中甚だ快からず、不害に告げると、不害は言った、「昔、晋の文公が出奔した時、野人が彼に土塊を贈り、ついに晋国に返りました。陛下のこの夢は、事がこれに符合するのではありますまいか」と。簡文帝は言われた、「もし天に徴があるなら、この言葉が虚妄でないことを願う」と。

原文侯景之亂,不害從簡文入臺。及臺城陷,簡文在中書省,景帶甲將兵入朝陛見,過謁簡文。景兵士皆羌、胡雜種,衝突左右,甚不遜,侍衛者不驚恐辟易,唯不害與中庶子徐摛侍側不動。及簡文為景所幽,遣人請不害與居處,景許之,不害供侍益謹。簡文夜夢吞一塊土,意甚不悅,以告不害,不害曰:「昔晉文公出奔,野人遺之塊,卒反晉國,陛下此夢,事符是乎?」簡文曰:「若天有徵,冀斯言不妄。」

梁の元帝が即位すると、不害を中書郎とし、兼ねて廷尉卿とし、これにより家属を率いて西上させた。江陵が陥落した時、不害は先に別の場所で督戦しており、母の所在を見失った。時に寒さ甚だしく、冰雪が交えて降り、老弱で凍死する者が溝塹に満ちた。不害は道を行きながら泣き、遠近を求め尋ね、至らざるところなく、溝水の中で死人に遇うと、すなわち身を投げて下り、扶け捧げて検視し、体全体が凍えて湿り、水漿も口に入れず、号泣して声を絶やさず、このようにすること七日にして、ようやく母の屍を得た。不害は屍によりかかって泣き、声を挙げるごとに気絶し、行き交う人はこれがために涙を流さない者はなかった。すなわち江陵に仮に殯し、王裒・庾信とともに長安に入った。これより蔬食布衣、枯槁して骨立ち、見る者哀しまざるはなかった。

原文梁元帝立,以不害為中書郎,兼廷尉卿,因將家屬西上。江陵之陷也,不害先於別所督戰,失母所在。于時甚寒,冰雪交下,老弱凍死者填滿溝塹‵不害行哭道路,遠近尋求,無所不至,遇見死人溝水中,即投身而下,扶捧閱視,舉體凍濕,水漿不入口,號泣不輟聲,如是者七日,始得母屍。不害憑屍而哭,每舉音輒氣絕,行路無不為之流涕。即於江陵權殯,與王裒、庾信俱入長安,自是蔬食布衣,枯槁骨立,見者莫不哀之。

太建七年、周より還朝し、その年に詔して司農卿に除し、まもなく光禄大夫に遷った。八年、明威将軍・晋陵太守を加えられた。郡において疾を感じ、詔して光禄大夫をもって召還し疾を養わせた。後主が即位すると、給事中を加えられた。初め、不害が還った時、周はその長子の僧首を留め、これにより関中に居住させた。禎明三年、京城が陥落し、僧首が迎えに来たが、不害は道中病を得て卒した。時に八十五歳であった。

原文太建七年,自周還朝,其年詔除司農卿,尋遷光祿大夫。八年,加明威將軍、晉陵太守。在郡感疾,詔以光祿大夫徵還養疾。後主即位,加給事中。初,不害之還也,周留其長子僧首,因居關中。禎明三年,京城陷,僧首來迎,不害道病卒,時年八十五。

弟の不佞

原文弟不佞

不佞、字は季卿、不害の弟である。少にして名節を立て、父の喪に服すること至孝をもって称された。読書を好み、特に吏術に長じ、梁に仕えて尚書中兵郎を起家とし、甚だ能あると称された。梁の元帝が制を承けると、戎昭将軍・武陵王諮議参軍を授けられた。承聖の初め、武康令に遷った。時に兵荒飢饉、百姓流移する中、不佞は巡撫して招集し、繈負して至る者千数を数えた。江陵陥落に際会し、母が卒したが、道路隔絶し、久しく奔赴することができず、四年の間、昼夜号泣し、居処飲食、常に喪に服する礼とした。高祖が禅を受けると、起用されて戎昭将軍とされ、婁令に除された。この時、第四兄の不斉が初めて江陵に行き、母の喪柩を迎えて帰葬した。不佞の居処の節は、初めて訃報を聞いた時のように、このようにすることさらに三年であった。自ら土を負い、手ずから松柏を植え、毎年時の伏臘には、必ず三日食を断った。

原文不佞字季卿,不害弟也。少立名節,居父喪以至孝稱。好讀書,尤長吏術,仕梁起家為尚書中兵郎,甚有能稱。梁元帝承制,授戎昭將軍、武陵王諮議參軍。承聖初,遷武康令。時兵荒飢饉,百姓流移,不佞巡撫招集,繈負而至者以千數。會江陵陷,而母卒,道路隔絕,久不得奔赴,四載之中,晝夜號泣,居處飲食,常為居喪之禮。高祖受禪,起為戎昭將軍,除婁令。至是,第四兄不齊始之江陵,迎母喪柩歸葬。不佞居處之節,如始聞問,若此者又三年。身自負土,手植松柏,每歲時伏臘,必三日不食。

世祖が即位すると、尚書左民郎に除されたが、就かず、後に始興王諮議参軍となり、兼ねて尚書右丞、東宮通事舎人に遷った。世祖が崩じ、廃帝が嗣ぎ立つと、高宗が太傅となり、録尚書として政を輔け、甚だ朝望の帰するところとなった。不佞は平素より名節をもって自立し、また東宮に委任を受けていたので、僕射の到仲挙・中書舎人の劉師知・尚書右丞の王暹らと謀り、詔を矯って高宗を出そうとした。衆人躊躇し、敢えて先に発しようとしなかったが、不佞はすなわち馳せて相府に詣で、面して勅を宣べ、相王に邸に還るよう命じた。事が発覚すると、仲挙らは皆誅に伏したが、高宗は不佞を雅く重んじ、特赦して、その官を免じたのみであった。

原文世祖即位,除尚書左民郎,不就,後為始興王諮議參軍,兼尚書右丞,遷東宮通事舍人。及世祖崩,廢帝嗣立,高宗為太傅,錄尚書輔政,甚為朝望所歸。不佞素以名節自立,又受委東宮,乃與僕射到仲舉、中書舍人劉師知、尚書右丞王暹等,謀矯詔出高宗。眾人猶豫,未敢先發,不佞乃馳詣相府,面宣敕,令相王還第。及事發,仲舉等皆伏誅,高宗雅重不佞,特赦之,免其官而已。

高宗が即位すると、軍師始興王諮議参軍とし、招遠将軍を加えられた。まもなく大匠卿に除されたが、拝せず、員外散騎常侍を加えられ、また尚書右丞を兼ねた。ほどなく通直散騎常侍に遷り、右丞はもとの通りであった。太建五年に卒した。時に五十六歳。詔して秘書監を贈られた。

原文高宗即位,以為軍師始興王諮議參軍,加招遠將軍。尋除大匠卿,未拜,加員外散騎常侍,又兼尚書右丞。俄遷通直散騎常侍,右丞如故。太建五年卒,時年五十六。詔贈祕書監。

第三兄の不疑、次に不占、次に不斉、ともに早く亡くなった。不佞は最も幼く、第二の寡嫂の張氏に甚だ謹んで仕え、得た禄俸は私室に入れなかった。長子の梵童は、官は尚書金部郎に至った。

原文第三兄不疑,次不占,次不齊,並早亡。不佞最小,事第二寡嫂張氏甚謹,所得祿俸,不入私室。長子梵童,官至尚書金部郎。

謝貞

原文謝貞

謝貞、字は元正、陳郡陽夏の人、晋の太傅謝安の九世孫である。祖父の綏は、梁の著作佐郎・太子舎人であった。父の藺は、正員外郎、兼散騎常侍であった。

原文謝貞字元正,陳郡陽夏人,晉太傅安九世孫也。祖綏,梁著作佐郎、太子舍人。父藺,正員外郎,兼散騎常侍。

謝貞は幼少より聡明で、天性の孝心を備えていた。祖母の阮氏はかねてより眩暈に苦しみ、発作があると一二日飲食ができなかったが、謝貞が七歳の時、祖母が食べないと謝貞も食べず、しばしばこのようであったため、親族は皆これを奇異に思った。母の王氏は謝貞に論語と孝経を授け、読み終えるとすぐに暗誦した。八歳の時、春日閑居という五言詩を作ったことがあり、母方の叔父である尚書の王筠はその優れた趣向を奇異に思い、親しい者に言った。「この子は必ず大成するであろう。『風定花猶落』の句に至っては、謝恵連の跡を追うものである。」これにより名士たちに知られるようになった。十三歳で五経の大旨をほぼ理解し、特に左氏伝に優れ、草書・隷書・虫篆を巧みにした。十四歳で父の喪に遭い、地に倒れて号泣し、気絶しては蘇生することを幾度も繰り返した。初め、父の謝藺は母の阮氏の喪に服し、飲食を絶ち血を吐いて泣き、ついに亡くなった。家人と賓客は謝貞もまた同じようになることを恐れ、叔父の謝洽と族兄の謝暠が共に華厳寺へ赴き、長爪禅師に謝貞のために説法を請うた。そして謝貞に言った。「孝子には既に兄弟もなく、極めて自愛せねばならぬ。もし憂いのあまり身を滅ぼせば、誰が母を養うのか。」その後、少し粥を摂るようになった。

原文貞幼聰敏,有至性。祖母阮氏先苦風眩,每發便一二日不能飲食,貞時年七歲,祖母不食,貞亦不食,往往如是,親族莫不奇之。母王氏,授貞論語、孝經,讀訖便誦。八歲,嘗為春日閑居五言詩,從舅尚書王筠奇其有佳致,謂所親曰:「此兒方可大成,至如『風定花猶落』,乃追步惠連矣。」由是名輩知之。年十三,略通五經大旨,尤善左氏傳,工草隸蟲篆。十四,丁父艱,號頓於地,絕而復蘇者數矣。初,父藺居母阮氏憂,不食泣血而卒,家人賓客懼貞復然,從父洽、族兄暠乃共往華嚴寺,請長爪禪師為貞說法,仍謂貞曰:「孝子既無兄弟,極須自愛,若憂毀滅性,誰養母邪?」自後少進饘粥。

太清の乱(侯景の乱)の際、親族は散り散りとなり、謝貞は江陵陥落時に捕らわれ、謝暠は番禺へ逃難し、謝貞の母は宣明寺で出家した。高祖(陳霸先はせん)が禅譲を受けると、謝暠は郷里に戻り、謝貞の母を供養すること二十年近くに及んだ。太建五年、謝貞はようやく朝廷に戻り、智武府外兵参軍事に任じられた。まもなく尚書駕部郎中に転じ、間もなく侍郎に昇進した。始興王陳叔陵が揚州刺史となると、祠部侍郎の阮卓を記室に引き入れ、謝貞を主簿に招聘した。謝貞はやむなくこれに従った。間もなく府録事参軍に転じ、丹陽丞を兼任した。謝貞は叔陵に異心あることを察知し、阮卓と共に自ら王から距離を置き、宴や遊びがあれば常に病気を理由に辞退し、一度も参与しなかった。叔陵はかえって彼を重んじ、罪に問うことはなかった。まもなく高宗(陳頊ちんきょく)が崩御し、叔陵が叛逆を企てると、府の官僚の多くは連座して捕らわれたが、謝貞と阮卓だけは罪に問われなかった。

原文太清之亂,親屬散亡,貞於江陵陷沒,暠逃難番禺,貞母出家於宣明寺。及高祖受禪,暠還鄉里,供養貞母,將二十年。太建五年,貞乃還朝,除智武府外兵參軍事。俄遷尚書駕部郎中,尋遷侍郎。及始興王叔陵為揚州刺史,引祠部侍郎阮卓為記室,辟貞為主薄,貞不得已乃行。尋遷府錄事參軍,領丹陽丞。貞度叔陵將有異志,因與卓自疏於王,每有宴遊,輒辭以疾,未嘗參預,叔陵雅欽重之,弗之罪也。俄而高宗崩,叔陵肆逆,府僚多相連逮,唯貞與卓獨不坐。

後主(陳叔宝しゅくほう)は引き続き詔を下して謝貞を中宮に召し出して管記を執らせ、南平王友に転じ、招遠将軍を加えられ、記室の事務を掌った。府の長史である汝南の周確が新たに都官尚書に任じられた際、謝貞に辞退の上奏文を作らせた。後主はこれを見て奇異に思い、宴席で周確に尋ねた。「卿の上奏文は自ら作ったのか。」周確は答えて言った。「臣の上奏文は謝貞の作です。」後主はそこで舎人の施文慶に命じて言った。「謝貞は王の下にあって禄を受けていない。米百石を賜え。」至徳三年、母の喪のため職を去った。間もなく、詔により府に戻るよう命じられ、引き続き招遠将軍を加えられ、記室を掌ることとなった。謝貞は累次にわたり固く辞退する上奏をした。詔は答えて言った。「上奏を読み、心中を察する。哀悼の情に苛まれていることは知るが、官には人材を必要とし、礼には権宜による変更がある。ただちに病を押して府に戻るがよい。」謝貞は哀痛のあまり衰弱し、ついに官舎に赴くことができなかった。時に尚書右丞の徐祚と尚書左丞の沈客卿が共に謝貞を見舞いに来たが、そのやせ衰えた姿を見て、徐祚らは悲しみ嘆息し、徐々に諭して言った。「弟は年齢も衰え、礼には一定の制がある。少しばかり思い切って身を全うすべきである。」謝貞はさらに感動して慟哭し、しばらく気絶した。二人は涙を流し、自らを抑えることができず、哀れみ黙って退出した。徐祚は沈客卿に言った。「誠に孝の家には孝子がいるものだ。」沈客卿は言った。「謝公の家は代々至孝で、士大夫で誰が敬慕しないだろうか。これは恐らく起き上がれまい。どうしたものか。」吏部尚書の呉興の姚察は謝貞と親しくしていた。謝貞が病篤くなると、姚察は見舞いに行き、後事を尋ねた。謝貞は言った。「孤児は禍が集まり、灰土に随おうとしている。族子の謝凱らはほぼ自立しており、すでに遺書を託した。これでは厚い恩徳に報いるには足りない。今日はもう意識朦朧、時は移せず、これが永訣となろう。幼い子は年六歳、名は靖、字は依仁。情愛のゆえに忘れられず、敢えて託そうと思う。」その夜に卒去した。詔により葬儀のための米百斛こく、布三十匹が賜られた。後主は姚察に尋ねた。「謝貞にどのような親族がいるか。」姚察は答えて言った。「謝貞には一子あり、年六歳です。」すぐに詔があり、長く衣服と食糧を給付することとなった。

原文後主仍詔貞入掌中宮管記,遷南平王友,加招遠將軍,掌記室事。府長史汝南周確新除都官尚書,請貞為讓表,後主覽而奇之。嘗因宴席問確曰:「卿表自製邪?」確對曰:「臣表謝貞所作。」後主因敕舍人施文慶曰:「謝貞在王處,未有祿秩,可賜米百石。」至德三年,以母憂去職。頃之,敕起還府,仍加招遠將軍,掌記室。貞累啟固辭,敕報曰:「省啟具懷,雖知哀煢在疚,而官俟得才,禮有權奪,可便力疾還府也。」貞哀毀羸瘠,終不能之官舍。時尚書右丞徐祚、尚書左丞沈客卿俱來候貞,見其形體骨立,祚等愴然歎息,徐喻之曰:「弟年事已衰,禮有恆制,小宜引割自全。」貞因更感慟,氣絕良久,二人涕泣,不能自勝,憫默而出。祚謂客卿曰:「信哉,孝門有孝子。」客卿曰:「謝公家傳至孝,士大夫誰不仰止,此恐不能起,如何?」吏部尚書吳興姚察與貞友善,及貞病篤,察往省之,問以後事,貞曰:「孤子舋禍所集,將隨灰壤。族子凱等粗自成立,已有疏付之,此固不足仰塵厚德。即日迷喘,時不可移,便為永訣。弱兒年甫六歲,名靖,字依仁,情累所不能忘,敢以為託耳。」是夜卒,敕賻米一百斛,布三十匹。後主問察曰:「謝貞有何親屬?」察因啟曰:「貞有一子年六歲。」即有敕長給衣糧。

初め、謝貞が病篤い時、遺書を族子の謝凱に送り告げて言った。「私は幼くして厳しい罰に遭い、十四歳で父の庇蔭を失い、十六歳で太清の禍に遭い、離散して異国に流れ、二十余年を過ごした。天地に号泣し、ついに共感する者がいて、帰還して母に仕え、先人の墓を守ることができた。私の本分としてはこれで十分である。思いがけず朝廷が微力を拾い上げ、累次清い官位に至らせた。たとえ私が死んでも、報いることはできない。今は喪中で苦しみ、残された時は尽きようとしている。手を束ねて帰るのみで、何を多く思うことがあろうか。気絶した後、もしただ草野に棄てるならば、僧家の尸陀林の法に依るのが私の願いである。ただ、あまりに独自の異例を恐れるのみである。薄い板で体を覆い、霊車に載せ、葦の筵で覆い、山に穴を掘って埋めてほしい。また、私はついに兄弟に恵まれず、他の子孫もいない。謝靖は幼く、まだ世事に通じていない。ただ三ヶ月の間、小さな寝台を設け、香水を供えるだけで、卿ら兄弟の厚い情けを尽くせばよい。その後は除いてほしい。益のないことはするな。」

原文初,貞之病亟也,遺疏告族子凱曰:「吾少罹酷罰,十四傾外蔭,十六鍾太清之禍,流離絕國,二十餘載。號天蹐地,遂同有感,得還侍奉,守先人墳墓,於吾之分足矣。不悟朝廷採拾空薄,累致清階,縱其殞絕,無所酬報。今在憂棘,晷漏將盡,斂手而歸,何所多念。氣絕之後,若直棄之草野,依僧家尸陀林法,是吾所願,正恐過為獨異耳。可用薄板周身,載以靈車,覆以葦席,坎山而埋之。又吾終尠兄弟,無他子孫,靖年幼少,未閑人事,但可三月施小床,設香水,盡卿兄弟相厚之情,即除之,無益之事,勿為也。」

初め、謝貞は北周にいた時、趙王(宇文招)に侍読として仕えたことがある。王は周武帝の愛弟であったため、厚く礼遇された。王は左右から、謝貞が独りでいる時は必ず昼夜を問わず泣いていると聞き、密かに使いをやって尋ねさせたところ、謝貞の母が年老いて遠く江南にいることを知った。そこで謝貞に言った。「寡人もし藩国に出ることあれば、必ず侍読を家に帰して母を供養させよう。」数年後、王は実際に藩国に出ることとなり、別れの挨拶の際、面会して奏上した。「謝貞は至孝でありながら母は年老いている。臣は彼を放還したい。」帝は王の仁愛を奇異に思い、謝貞を帰国させた。謝貞は聘使の杜とざ子暉に随って帰国した。所有の文集は、兵乱に遭い多くは現存しなかった。

原文初,貞在周嘗侍趙王讀,王即周武帝之愛弟也,厚相禮遇。王嘗聞左右說貞每獨處必晝夜涕泣,因私使訪問,知貞母年老,遠在江南,乃謂貞曰:「寡人若出居藩,當遣侍讀還家供養。」後數年,王果出,因辭見,面奏曰:「謝貞至孝而母老,臣願放還。」帝奇王仁愛而遣之,因隨聘使杜子暉還國。所有文集,值兵亂多不存。

司馬暠

原文司馬暠

司馬暠は字を文昇といい、河内郡温県の人である。高祖は晋の侍中・光禄勲の司馬柔之で、南頓王の孫として斉の文献王司馬攸の後を継いだ。父の司馬子産は、梁の尚書水部侍郎・岳陽太守であり、すなわち梁武帝の母方の従兄にあたる。

原文司馬暠字文昇,河內溫人也。高祖晉侍中、光祿勳柔之,以南頓王孫紹齊文獻王攸之後。父子產,梁尚書水部侍郎、岳陽太守,即梁武帝之外兄也。

司馬暠は幼少より聡明で機敏、天性の孝心を備えていた。十二歳で母の喪に遭い、慕情が礼を超え、水や汁物も口にせず、ほぼ十日間に及んだ。号泣するたびに必ず気絶しそうになり、内外の親戚は皆、喪に耐えられないのではないかと恐れた。父の司馬子産は毎度諭し、粥を無理に摂らせたが、やせ衰えて骨ばかりとなった。喪が明け、姻戚の子弟として、例に預かって問訊に入った。梁武帝は司馬暠のやせ衰えた姿を見て、しばし嘆息し、その父の司馬子産に言った。「昨日羅児の顔色が憔悴しているのを見て、人を哀れに思わせた。まさに家風を墜とさず、子があるというものだ。」羅児とは、すなわち司馬暠の幼名である。初めて官に就き太学博士となり、累進して正員郎となった。父の喪に遭い、哀痛のあまり以前にも増してやつれ、墓の傍らに廬を結んだ。一日のうち、薄い麦粥一升のみを摂った。墓は新林にあり、山と丘陵が連なり、かねてより猛獣が多かったが、司馬暠が数年廬を結ぶと、豺狼は跡を絶った。常に二羽の鳩が廬に棲み、異常に馴れ親しんだ。新林では今に至るまでこの話が伝わっている。

原文暠幼聰警,有至性。年十二,丁內艱,孺慕過禮,水漿不入口,殆經一旬。每至號慟,必致悶絕,內外親戚,皆懼其不勝喪。父子產每曉喻之,逼進饘粥,然毀瘠骨立。服闋,以姻戚子弟,預入問訊,梁武帝見暠羸瘦,歎息良久,謂其父子產曰;「昨見羅兒面顏憔悴,使人惻然,便是不墜家風,為有子矣。」羅兒,即暠小字也。釋褐太學博士,累遷正員郎。丁父艱,哀毀逾甚,廬于墓側,一日之內,唯進薄麥粥一升。墓在新林,連接山阜,舊多猛獸,暠結廬數載,豺狼絕跡。常有兩鳩棲宿廬所,馴狎異常,新林至今猶傳之。

承聖年間(梁元帝)、太子庶子に任じられた。江陵陥落後、例に従って関中に入った。梁の皇太子が殺害され、埋葬の場所も失われたため、司馬暠は宮臣として、北周朝廷に強く上表し、江陵に戻って改葬することを求めた。その文面は非常に悲痛であった。北周朝廷は優れた詔で答えて言った。「昔、主父偃が刑に処せられた時、孔車には長者の風があった。彭越が誅殺された時、欒布は陪臣の礼を得た。庶子(司馬暠)は郷国が既に改まったにもかかわらず、なお送り往く情を懐いている。忠貞を験し、臣たる道を知る。ただちに荊州に命じ、礼をもって安葬せよ。」

原文承聖中,除太子庶子。江陵陷,隨例入關,而梁室屠戮太子,瘞殯失所,暠以宮臣,乃抗表周朝,求還江陵改葬,辭甚酸切。周朝優詔答曰:「昔主父從戮,孔車有長者之風,彭越就誅,欒布得陪臣之禮。庶子鄉國已改,猶懷送往之情,始驗忠貞,方知臣道,即敕荊州,以禮安厝。」

太建八年、北周から帰朝すると、高宗(陳頊)は特に殊礼を降し、賞賜を加えた。宜都王諮議参軍事に任じられ、後に安德宮長秋卿・通直散騎常侍・太中大夫・司州大中正に転じ、官の任上で卒去した。文集十巻がある。

原文太建八年,自周還朝,高宗特降殊禮,賞錫有加。除宜都王諮議參軍事,徙安德宮長秋卿、通直散騎常侍、太中大夫、司州大中正,卒于官。有集十卷。

子の延義、字は希忠、幼少より沈着で聡明、学問を好む。江陵陥落の際、父に従って関中に入る。母の喪に服し、喪に過ぎる礼をとる。暠が都に還ると、延義は自ら霊柩を背負い、昼は潜伏し夜に行動し、霜氷を踏みしめ、手足はことごとく皸瘃ひび・あかぎれとなる。都に至り、中風冷(風寒の邪気)に冒され、遂に攣縮して廃疾となり、数年を経て漸く癒える。稍々に鄱陽王録事参軍・沅陵王友・司徒従事中郎に遷る。

原文子延義,字希忠,少沈敏好學。江陵之陷,隨父入關。丁母憂,喪過于禮。及暠還都,延義乃躬負靈櫬,晝伏宵行,冒履冰霜,手足皆皸瘃。及至都,以中風冷,遂致攣廢,數年方愈。稍遷鄱陽王錄事參軍、沅陵王友、司徒從事中郎。

張昭

原文張昭

張昭、字は徳明、呉郡呉県の人なり。幼少より孝行の天性あり、容色を和らげて養い甚だ謹み、礼に違うことなし。父の熯、常に消渇(糖尿病)を患い、鮮魚を嗜む。昭は自ら網を結び魚を捕らえ、朝夕の供えとす。弟の乾、字は玄明、聡明で博学、また至誠の天性あり。父の死に及び、兄弟ともに綿帛を衣とせず、塩酢を食さず、日に唯だ一升の麦屑粥を食するのみ。一たび感慟するごとに、必ず嘔血に至り、隣里その哭声を聞き、皆これがために涕泣す。父の喪服未だ終わらざるに、母の陸氏また亡くなる。兄弟遂に六年の間、哀傷に身を毀ち、容貌は骨立し、親友これを見る者、識る者なし。家貧しく、大葬を得ず、遂に布衣蔬食、十余年に及び、門を杜して出でず、人事を屏絶す。時に衡陽王伯信郡に臨み、乾を孝廉に挙ぐるも、固辞して就かず。兄弟ともに毀損により疾を成し、昭は一眼を失い、乾もまた中冷苦癖(内寒の苦しい病)に中り、年ともに未だ五十ならずして家に終わる。子の胤、ともに絶ゆ。

原文張昭字德明,吳郡吳人也。幼有孝性,色養甚謹,禮無違者。父熯,常患消渴,嗜鮮魚,昭乃身自結網捕魚,以供朝夕。弟乾,字玄明,聰敏博學,亦有至性。及父卒,兄弟並不衣綿帛,不食鹽醋,日唯食一升麥屑粥而已。每一感慟,必致嘔血,鄰里聞其哭聲,皆為之涕泣。父服未終,母陸氏又亡,兄弟遂六年哀毀,形容骨立,親友見者莫識焉。家貧,未得大葬,遂布衣蔬食,十有餘年,杜門不出,屏絕人事。時衡陽王伯信臨郡,舉乾孝廉,固辭不就。兄弟並因毀成疾,昭失一眼,乾亦中冷苦癖,年並未五十終于家,子胤俱絕。

高宗の世に太原の王知玄という者あり、会稽郡剡県に僑居し、家に居て孝行をもって聞こゆ。父の喪に服し、哀傷に身を毀ちて卒す。高宗これを嘉し、詔してその居る清苦里を「孝家里」と改む、と云う。

原文高宗世有太原王知玄者,僑居于會稽剡縣,居家以孝聞。及丁父憂,哀毀而卒,高宗嘉之,詔改其所居清苦里為「孝家里」云。

【評】

原文【評】

史臣曰く、人倫の徳、孝より大なるは莫し。是をもって本に報い始めに反かえり、性を尽くし神を窮むるは、孝なるかな惟れ孝、勗つとめざるべからざるなり。故に記に云う「天地に塞みつ」と、盛んなるかな。

原文史臣曰:人倫之德,莫大於孝,是以報本反始,盡性窮神,孝乎惟孝,不可不勗矣。故記云「塞乎天地」,盛哉!