卷二十九 列傳第二十三 宗元饒 司馬申 毛喜 蔡徵

陳書

卷二十九 列傳第二十三 宗元饒 司馬申 毛喜 蔡徵

宗元饒

宗元饒は、南郡江陵の人である。若くして学問を好み、孝行と敬愛をもって知られた。梁の時代に仕え、本州の主簿に初任官し、征南府行参軍に昇進し、そのまま外兵参軍に転じた。 司徒 しと 王僧辯の幕府が初めて建てられた時、元饒は沛国の劉師知とともに主簿となった。 高祖 こうそ 陳霸先 ちんばせん )が禅譲を受けると、 しん 陵県令に任ぜられた。中央に入り 尚書 しょうしょ 功論郎となった。北斉への使者として帰還すると、廷尉正となった。太僕卿に昇進し、本邑の大中正を兼ね、中書通事舍人となった。まもなく廷尉卿に転じ、通直 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられ、尚書左丞を兼ねた。当時、高宗( 陳頊 ちんきょ )が即位したばかりで、軍国事務は広範にわたり、事の大小を問わず、すべて彼に諮問し、尚書省・中書省では称職と評された。

御史中丞に転じ、五礼の事務を管掌した。当時、合州 刺史 しし の陳裒は贓物汚職が狼藉を極め、使者を遣わして渚で魚を徴収し、また六郡に米を乞い、民衆は甚だ苦しんでいた。元饒は弾劾上奏して言うには、「臣は聞く、旗を立てて民の苦しみを求めるのは、実に廉潔公平に寄せるものであり、帷を開けて隠れた民を憐れむのは、本来仁恕に資するものである。もし貪汙をほしいままにし、徴税に飽くことを知らなければ、天網は疎いといえども、ここに漏れることはない。謹んで案ずるに、鍾陵県開国侯・合州刺史たる臣・裒は、幸運を多く頼り、抜擢に預かり、爵は恩寵により授けられ、官は私情により加えられ、徳も功もなく、坐して栄華富貴をむさぼる。譙・肥の地は、久しく不当な者の手に陥ちていたが、皇帝の威光がこれを克服し回復させると、万物は仁風を仰いだ。新たな邦では軽い税制を用い、一層の寛大な恵みを待ち望んでおり、これに応えて州牧となる者は、その任は特に重い。そこで特別な恩寵を降し、宣室で餞別し、自ら規律と訓戒を承け、事は言葉で提げるのと同じであった。清廉潔白の志は、誠に平素から蓄えていたものではないが、この厳しい訓戒を受け、精励することができたはずである。それなのに、勝手に賦税を徴収し、専ら貪り取ることをほしいままにし、粟を求めて飽くことを知らず、王沈の出賑に愧じ、魚を徴収して限りなく、羊続の懸魚と異なり、厳しい科条を適用するのは、実に明らかな法である。臣ら参議して、 みことのり に依って裒の応ずるべき復除官を免じ、その応ずるべき禁錮及び後選左降の本資は、すべて免官の法に依ることを請う。」遂にその上奏を許可した。呉興太守の武陵王陳伯礼、 章内史の南康嗣王陳方泰は、ともに驕慢で横暴であったが、元饒が取り調べて上奏すると、ともに官爵を削られ罷免された。

元饒は公平な性格で、法をよく守り、故事に精通し、政治の根本に明るく練達しており、官吏に法を犯す者、政治が民に不便な者、および名教に足りない者がいれば、事に随ってこれを糾弾し正し、多く益するところがあった。貞威将軍・南康内史に転じ、秩禄米三千余斛を民の租税の助けとし、高齢者を慰問し、困窮者を救済したので、民衆は甚だ頼りとした。考課が最上で朝廷に入り、詔により 散騎常侍 さんきじょうじ ・荊雍湘巴武五州大中正を加えられた。まもなく本官で重ねて尚書左丞を管掌した。また御史中丞となった。左民尚書・右衛将軍・前将軍を兼ね、吏部尚書に昇進した。太建十三年に卒去、時に六十四歳。詔により侍中・金紫光禄大夫を追贈され、官が喪事を給した。

司馬申

司馬申は あざな を季和といい、河内郡温県の人である。祖父の慧遠は、梁の都水使者であった。父の玄通は、梁の尚書左民郎であった。申は早くから風格があり、十四歳で既に囲碁を得意とし、かつて父に従って吏部尚書の到溉を訪ねた時、梁州刺史の陰子春・領軍の朱异がそこにいた。子春は平素から申を知っており、その座で呼び寄せて対局させた。申はしばしば妙手を考え出し、朱异はこれを見て奇異に思い、そこで申を引き入れて交遊した。梁の邵陵王が丹陽尹となった時、申を主簿とした。太清の難に遭い、父母ともに亡くなったため、このことをもって自ら誓い、菜食を終生続けた。

梁の元帝が制を承けると、開遠将軍として起用され、鎮西外兵記室参軍に昇進した。 侯景 こうけい が郢州を寇した時、申は 都督 ととく の王僧辯に従って巴陵を占拠し、献策するたびに、すべて採用された。僧辯は嘆じて言うには、「この若者は弓袋を帯び汗馬の労をとるのは、あるいは長所ではないかもしれぬが、もし衆を撫で城を守らせれば、必ず奇跡的な功績を挙げるであろう。」僧辯が陸納を討伐した時、申は軍中におり、その時賊の大軍が突然到来し、左右の者は潰走したが、申は身を挺して僧辯を蔽い、楯をかぶって前進した。ちょうど裴之横の救軍が到着し、賊は退いた。僧辯は申を顧みて笑いながら言うには、「仁者には必ず勇あり、とは虚言ではないな。」散騎侍郎に任ぜられた。紹泰初年、儀同 侯安都 こうあんと の従事中郎に昇進した。

高祖が禅譲を受けると、安東臨川王諮議参軍に任ぜられた。天嘉三年、征北諮議参軍に昇進し、廷尉監を兼ねた。五年、鎮東諮議参軍に任ぜられ、起部郎を兼ねた。地方に出て戎昭将軍・江乗県令となり、治績が大いにあった。中央に入り尚書金部郎となった。左民郎に昇進したが、公事により免官された。太建初年、貞威将軍・征南鄱陽王諮議参軍として起用された。九年、秣陵県令に任ぜられ、在職中は清廉で有能であると記録され、白雀が県庁の庭に巣を作った。任期が満了し、しばらくして、東宮賓客に預かり、まもなく東宮通事舍人を兼ねた。員外 散騎常侍 さんきじょうじ に昇進し、舍人はもとのままとした。

叔陵(陳叔陵)が叛逆をほしいままにした時、事既に成功せず、東府城を占拠して出た。申は馳せて右衛将軍の蕭摩訶を召し、兵を率いて先に至らせ、追撃してこれを斬った。そこで城中に入り、その府庫を収めた。 後主 こうしゅ は深くこれを称賛した。功により太子左衛率に任ぜられ、文招県伯に封ぜられ、邑四百戸を賜り、中書通事舍人を兼ねた。まもなく右衛将軍に昇進し、通直 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。病気により邸宅に戻り、そのまま 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられ、右衛将軍・舍人はもとのままとした。

至徳四年に卒去した。後主は長く嘆き悼み、詔を下して言うには、「終わりを慎み遠きを追うのは、旧則を敬うものであり、棺を閉じて諡を定めるのは、前典によるものである。故 散騎常侍 さんきじょうじ ・右衛将軍・文招県開国伯の申は、公に忠実で謹厳、己を立てるに清廉公正、繁雑を治めて簡約に処し、身を投げ打って義に殉じた。朕は任寄の情が深く、まさに諸々の功績を安んじようとしていたのに、突然に逝去され、心中傷み悲しむ。侍中・護軍将軍を追贈し、爵を侯に進め、邑を五百戸に増やすことを可とする。諡を忠という。朝服一具、衣一襲を給し、期日を定めて哀悼の礼を挙げ、喪事に必要なものは、すべて官から支給する。」葬儀の際、後主は自ら誌銘を撰し、文辞と心情は悲切であった。終章に言うには、「ああ、天は善人を与えず、我が良臣を殲ぼす。」これほどに寵愛を受けたのである。

申は三帝に仕え、内で機密を掌り、倉卒の間においても、軍国大事について、指揮し決断し、滞ることがなかった。子の琇が後を嗣ぎ、官は太子舎人に至った。

毛喜

毛喜は字を伯武といい、 滎陽 けいよう 郡陽武県の人である。祖父の称は、梁の散騎侍郎であった。父の栖忠は、梁の尚書比部侍郎・中権司馬であった。

毛喜は若くして学問を好み、草書・隷書に長じた。初めて官に就いて梁の中衛西昌侯行参軍となり、まもなく記室参軍に転じた。高祖(陳霸先)はもとより毛喜を知っており、京口を鎮守するに及んで、毛喜に高宗(陳頊)とともに江陵へ赴くよう命じ、さらに高宗に詔して言った、「汝が西朝(江陵の梁元帝朝廷)に至れば、毛喜に諮問しその指示を受けよ」と。毛喜は高宗とともに梁元帝に謁見し、その場で高宗は領直に、毛喜は尚書功論侍郎に任じられた。江陵が陥落すると、毛喜と高宗はともに関右(長安)に連行された。世祖( 陳蒨 ちんせん )が即位すると、毛喜は周より帰還し、和好の策を進言したので、朝廷は周弘正らを派遣して聘問を通じさせた。高宗が帰国する際には、毛喜は郢州で出迎えた。また毛喜は関中へ派遣され、高宗の家族の帰還を請願した。周の冢宰宇文護は毛喜の手を取って言った、「二国の友好を結ぶことのできたのは、卿によるものである」と。かくして柳皇后と後主(陳叔宝)を迎え還した。天嘉三年(562年)に京師に至ると、高宗は当時驃騎将軍であったが、毛喜を府諮議参軍とし、中記室を兼ねさせた。府中の文書はすべて毛喜の文章であった。

世祖はかつて高宗に言った、「我が諸子は皆『伯』の字を名に用いている。汝の諸児は『叔』の字を用いるのがよい」と。高宗が毛喜に諮ると、毛喜はただちに古来の名賢である杜叔英、虞叔卿ら二十余人を列挙して文書を作り世祖に上奏した。世祖はこれを称善した。

世祖が崩御し、 廃帝 はいてい 陳伯宗 ちんはくそう )が幼少で暗愚であったため、高宗が録尚書として政務を補佐した。 僕射 ぼくや の到仲挙らは朝廷の人心が高宗に帰することを知り、偽って太后の令を出し高宗を東府に還らせようとした。当時、人々は疑惧し、敢えて発言する者はいなかった。毛喜はただちに馳せ参じ、高宗に言った、「陳が天下を得て日は浅く、海内は未だ平らかでない。加えて国の禍が重なり、万邦は危惧している。皇太后は深く社稷の大計を考え、王(高宗)に省中に入ることを命じ、まさに共に衆務を治め、伊尹・周公に比すべき徳をなさんとしているのである。今日の言葉は必ずや太后の本意ではない。宗廟社稷の重きこと、願わくは三思を加えられよ。愚臣毛喜の考えでは、改めて上奏を聞くべきであり、奸賊にその謀をほしいままにさせてはなりません」と。結局、その策の通りになった。

右衛将軍韓子高が初めから到仲挙と謀を共にしていたが、その事は未だ発覚していなかった。毛喜は高宗に請うて言った、「宜しく人馬を選び簡抜して韓子高に配し、併せて鉄と炭を賜り、武器甲冑を修繕させられるべきです」と。高宗は驚いて言った、「子高が謀反を企てているなら、すぐに捕らえるべきである。なぜさらにこのようなことをするのか」と。毛喜は答えて言った、「先帝の山陵(葬儀)が終わったばかりで、辺境の寇賊はなお多い。しかるに子高は前朝より委任を受け、名目上は順臣を称しているが、実は甚だ軽率で狭量である。恐らくは時に及んでその首を斬ることはできず、もしその誅罰が遅れれば、あるいは王の法度を損なうでしょう。宜しく心を推して安んじ誘い、彼に疑いを抱かせぬようにし、これを図るのは一壮士の力で足ります」と。高宗は深くそれに同意し、ついにその計を実行した。

高宗が即位すると、給事黄門侍郎に任じ、中書舎人を兼ね、軍国の機密を掌った。高宗が北伐を議しようとした時、毛喜に命じて軍制を撰述させ、凡そ十三条に及び、詔して天下に頒布したが、文は多く載せない。まもなく太子右衛率、右衛将軍に転じた。策定の功により東昌県侯に封ぜられ、邑五百戸を賜った。また本官のまま江夏・武陵・桂陽の三王府の国事を行った。太建三年(571年)、母の喪に服し官を去った。詔して毛喜の母の庾氏を追贈して東昌国太夫人とし、布五百匹、銭三十万を賜り、官が喪事を給した。また員外 散騎常侍 さんきじょうじ の杜緬を派遣してその墓田の図を描かせ、高宗は自ら杜緬と図を案じ指画した。その重用された様はこのようなものであった。まもなく明威将軍として起用され、右衛・舎人はもとの通りとした。宣遠将軍、義興太守に改めて任じた。まもなく本号のまま御史中丞として朝廷に入った。喪が明けると、 散騎常侍 さんきじょうじ 、五兵尚書を加えられ、選事に参与して掌った。

諸軍が北伐し淮南の地を得た時、毛喜は辺境安定の術を陳べた。高宗はこれを採用し、即日施行した。また毛喜に問うて言った、「我れ兵を進めて彭城・汴水に至らんと欲するが、卿の意はどうか」と。毛喜は対えて言った、「臣は実に智者たる才はなく、安んぞ未然のことを予言できましょう。窃かに考えますに、淮左(淮南)は新たに平定されたばかりで、辺境の民は未だ安定せず、周氏は斉国を併呑したばかりで、争って鋒を交えることは難しい。どうして疲弊した兵卒をもって、さらに深く進軍できましょうか。かつ舟楫の利を捨てて、車騎の地を踏み、長を去って短に就くことは、呉人の便とする所ではありません。愚臣の考えでは、民を安んじ境を保ち、兵を休め約を復し、その後に広く英奇の士を募り、時に順って動く方が、これこそ久長の術であると思います」と。高宗は従わなかった。後に呉明徹が周に敗れて捕らえられると、高宗は毛喜に言った、「卿の言ったことは、今となって実証された」と。

太建十二年(580年)、侍中を加えられた。十三年、 散騎常侍 さんきじょうじ 、丹陽尹に任じられた。吏部尚書に転じ、常侍はもとの通りとした。高宗が崩御すると、叔陵(始興王陳叔陵)が叛逆を企てた。中庶子の陸瓊に旨を宣するよう命じ、南北の諸軍はすべて毛喜の処分に従うこととした。賊が平定されると、さらに侍中を加えられ、封邑を増やして以前と合わせて九百戸となった。至徳元年(583年)、信威将軍、永嘉内史に任じられ、秩禄は中二千石に加えられた。

初め、高宗は毛喜に政務を委ねた。毛喜もまた心を勤めて忠言を納れ、多く補佐し益するところがあり、幾度も諫諍し、その事はすべて聞き入れられた。これによって十余年の間、江東は狭小ながらも、ついに全盛と称されるに至った。ただ淮北の地を攻略するにあたっては、毛喜の謀を容れなかったため、呉明徹はついに敗北した。高宗は深くこれを悔い、袁憲に言った、「毛喜の計を用いなかったために、このような事態を招いた。朕の過ちである」と。毛喜はますます親任されるようになると、言うところに回避がなく、皇太子(後主陳叔宝)は酒を好み徳を失い、常に寵臣と共に長夜の宴を開いていた。毛喜がかつてこれを言上したため、高宗が太子を戒めた。太子は内心これを患い、この頃から次第に毛喜は疎遠にされるようになった。

初め、後主は始興王(陳叔陵)に傷つけられたが、創が癒えて自ら慶賀し、後殿に酒宴を設け、江総以下を引き連れ、音楽を奏で詩を賦し、酔って毛喜を呼び出した。当時は先帝(高宗)の山陵が終わったばかりで、一年も経っていなかった。毛喜はこれを見て快からず、諫めようとしたが後主はすでに酔っていた。毛喜は階を昇り、仮に心疾を発したふりをして階下に倒れ、省中から運び出された。後主が醒めると、これを疑い、江総に言った、「毛喜を召したことを悔いる。彼に病気がないことを知っている。ただ我が歓宴を阻もうとしているだけで、我が為す所ではない。故に奸詐を働いたのだ」と。そこで司馬申と謀って言った、「この者は意気に任せている。我れ鄱陽王兄弟(高宗の子ら)に彼を乞い与え、その仇を報わせようと思うが、よろしいか」と。司馬申は対えて言った、「結局は官に用いられることはありません。聖旨の通りにされることを願います」と。傅縡が争って言った、「そうではありません。もし仇を報ずることを許せば、先皇(高宗)をどのような地に置かれるというのですか」と。後主は言った、「一小郡を乞い与え、人事に関わらせぬようにするだけだ」と。そこで毛喜を永嘉内史とした。

毛喜が郡に至ると、俸禄を受け取らず、政治は広く清静で、民吏はこれを便利とした。豊州刺史の章大宝が挙兵して反逆した時、その郡は豊州と境を接していたが、平素から備えがなかった。毛喜は城塁を修治し、器械を厳かに整えた。また配下の松陽令の周磻に千人の兵を率いさせて建安を救援させた。賊が平定されると、南安内史に任じられた。禎明元年(587年)、光禄大夫に召され、左 ぎょう 騎将軍を兼ねた。毛喜は郡において善政を施していたので、朝廷に召し入れられた時、道中の送別者が数百里に及んだ。その年、道中で病没した。時に七十二歳。文集十巻があった。子の処沖が後を嗣ぎ、官は儀同従事中郎、中書侍郎に至った。

蔡徵

蔡徵は字を希祥といい、侍中・中撫軍将軍蔡景歴の子である。幼くして聡明で、識見は精しく記憶力が強かった。六歳の時、梁の吏部尚書河南の褚翔(字は仲挙)のもとを訪れると、褚翔はその穎悟さに感嘆した。七歳で母の喪に遭い、喪に服する礼は成人と同じであった。継母の劉氏は性悍で嫉妬深く、彼を道理に合わぬ扱いをしたが、蔡徵は供養し仕えることをますます謹んで、初めから怨む色はなかった。蔡徵は本名を覧といったが、景歴は彼に王祥のような孝行の性があるとして、名を徴と改め、字を希祥とした。

梁の承聖初年、高祖(陳霸先)が南徐州刺史となった時、召されて迎主簿に補され、まもなく太学博士を授けられた。天嘉初年、始興王府法曹行参軍に転じ、外兵参軍事・尚書主客郎を歴任し、在任する所では幹理に優れたと称された。太建初年、太子少傅丞・新安王主簿・通直散騎侍郎・ しん 安王功曹史・太子中舎人に転じ、東宮領直を兼ね、中舎人はもとのままとした。父の喪に服して職を去り、喪が明けると、新豊県侯の爵を襲封し、戎昭将軍・鎮右新安王諮議参軍を授けられた。

至徳二年、廷尉卿に転じ、まもなく吏部郎となった。太子中庶子・中書舎人に転じ、詔誥を掌った。まもなく左民尚書を授けられ、僕射の江総とともに五礼の撰修を知った。まもなく寧遠将軍を加えられた。後主はその材幹を重んじ、任せ寄せる事が日に日に重くなり、吏部尚書・安右将軍に転じ、十日ごとに一度東宮に赴き、太子の前で古今の得失や当時の政務について論述した。また詔勅により廷尉寺の獄事は、事の大小を問わず、蔡徴に諮って議決を取ることとなった。やがて詔勅があり、徴を派遣して兵士を募集させ、自ら部曲とし、徴はよく撫卹して人心を得、一ヶ月ほどの間に、衆は一万人近くに及んだ。徴の位望は既に重く、兼ねて声勢が人を焼き焦がすほどであったため、世間の議論は皆これを忌み憚った。まもなく中書令に転じ、将軍はもとのままとした。中書令の職は清簡で事が少なかったが、ある者が徴に怨言があると云い、事が後主に聞こえると、後主は大いに怒り、人馬を収奪し、誅殺しようとしたが、強く諫める者がいて誅を免れた。

禎明三年、隋軍が長江を渡ると、後主は徴に幹用があるとして、権をもって中領軍を代行させた。徴は日夜勤苦し、心力を尽くして備え、後主はこれを嘉して、「事が平らかになったら、お前に報いることがあろう」と謂った。そして鍾山の南崗で決戦するに及んで、詔勅により徴に宮城西北の大営を守らせ、まもなく衆軍の戦事を督させることを命じた。城が陥落すると、例に従って関中に入った。

徴は容儀が美しく、弁舌に優れ、多くを詳しく究めていた。士流の官宦、皇家の戚属、及び当朝の制度、憲章儀軌、戸口風俗、山川土地に至るまで、問えば答えられないことはなかった。しかし性質は甚だ便佞で進取に走り、退いて素朴を以て自らを治めることができなかった。初めて吏部尚書に拝された時、後主に鼓吹を借りるよう啓上した。後主は所司に謂って、「鼓吹は軍楽であり、功績があって初めて授けるものだ。蔡徴は自らの力量を量らず、我が朝の章を乱す。しかしその父の蔡景歴には既に締構の功績がある。宜しく暫く啓上の通りとし、拝命が終われば直ちに追い返せ」と云った。徴が廉隅を修めなかったことは、皆この類いである。隋の 文帝 ぶんてい はその敏捷で豊かな才覚を聞き、召見して顧問とし、言うことは常に旨に会ったが、累年昇進せず、久しくして太常丞に除された。尚書民部儀曹郎を歴任し、給事郎に転じ、そのまま卒した。時に六十七歳。子の蔡翼は尚書を治め、官は 司徒 しと 属・徳教学士に至った。隋に入り、東宮学士となった。

【史論】

史臣曰く、宗元饒は夙夜懈怠なく、時務を済し時益を加えた。司馬申は朝廷にあって清く慎み深く、苦労を厭わず行いを立て、これに忠節を加えた。美しいことである。毛喜は事機に深く通達し、時の主君を匡め補佐した。蔡徴は聡明で才覚豊かであったが、権を擅にして自ら躓いた。惜しいことである。

原本を確認する(ウィキソース):陳書 卷029