陳書
巻三十 列伝第二十四 蕭済 陸瓊 顧野王 傅縡
蕭済
蕭済、 字 は孝康、東海蘭陵の人である。幼少より学問を好み、経史に広く通じ、梁の武帝に左氏伝の疑義三十余条を諮問し、 尚書 僕射 范陽の張纘、太常卿南陽の劉之遴が共に蕭済と討論したが、張纘らは抗対することができなかった。初めて官に就き梁の秘書郎となり、太子舎人に遷った。 侯景 平定の功に預かり、松陽県侯に封ぜられ、邑五百戸を賜った。
高祖 が徐方に鎮すると、蕭済を明威将軍・征北長史とした。承聖二年、徴されて中書侍郎となり、転じて通直 散騎常侍 となった。世祖が会稽太守となると、また蕭済を宣毅府長史とし、 司徒 左長史に遷った。世祖が即位すると、侍中を授けられた。まもなく太府卿に遷ったが、生母の喪に服し、拝命しなかった。蕭済は二主を輔佐し、恩遇は甚だ篤く、賞賜は凡等を超えた。蘭陵・陽羨・臨津・臨安等の郡を歴任し、所在において皆名声と実績を顕著にした。
太建初年、召されて五兵尚書となり、左僕射徐陵・特進周弘正・度支尚書王瑒・ 散騎常侍 袁憲と共に東宮に侍した。再び 司徒 長史となった。まもなく度支尚書を授けられ、羽林監を領した。国子祭酒に遷り、羽林監を領するはもとの如くであった。金紫光禄大夫を加えられ、兼ねて安德宮衛尉となった。まもなく仁威将軍・揚州長史に遷った。高宗はかつて勅して揚州の曹事を取らせ、自ら省 覧 し、蕭済の条理が詳悉で、文に滞りや妨げがないのを見て、顧みて左右に謂って「私はもと蕭長史が経伝に長じていると期待していたが、繁劇な事務に精通しているとは言わなかった。まさにここに至ったか」と言った。 祠 部尚書に遷り、給事中を加えられ、再び金紫光禄大夫となった。拝命せずして卒した。時に年六十六。 詔 して本官を追贈し、官が喪事を給した。
陸瓊
陸瓊、字は伯玉、呉郡呉の人である。祖父の完は、梁の琅邪・彭城二郡丞であった。父の雲公は、梁の給事黄門侍郎で、著作を掌った。
陸瓊は幼くして聡明で思慮があり、六歳で五言詩を作り、頗る詞采があった。大同の末、雲公が梁の武帝の詔を受けて棋品を校定した時、到溉・朱异以下が皆集まり、陸瓊は時に八歳、客の前で局を覆した。これにより京師では神童と号した。朱异がこれを武帝に言上すると、勅して召し見られ、陸瓊は風神が警抜で明るく、進退が詳しく審らかであったので、帝は甚だ異とされた。十一歳で父の喪に服し、憔悴して至性を示し、従祖の襄は歎じて「この児は必ずや門戸の基業を担うであろう。いわゆる一として少なからず、である」と言った。侯景が逆をなすに及んで、母を携えて県の西郷に避難し、勤苦して書を読み、昼夜怠ることなく、遂に博学となり、文を属することを善くした。
永定年間、州より秀才に挙げられた。天嘉元年、寧遠始興王府法曹行参軍となった。まもなく本官のまま尚書外兵郎を兼ね、文学をもって転じて殿中郎を兼ね、満歳して真除となった。陸瓊は平素より令名があり、深く世祖に賞された。周迪・陳宝応等を討つに及んで、都官符及び諸々の大手筆は、皆中勅して陸瓊に付された。新安王文学に遷り、東宮管記を掌った。
高宗が 司徒 となった時、僚佐を精選し、吏部尚書徐陵が高宗に陸瓊を推薦して言うには、「新安王文学陸瓊は、見識が優れて敏速で、文史に足る用をなし、郎署に進んで仕えてから、歳月が過ぎて淹滞しております。左西掾に欠員があり、まさにこの選に応えるべきです。階次が少し越えるとしても、その屈滞は既に積もっております」と。そこで 司徒 左西掾に除した。まもなく通直 散騎常侍 を兼ね、斉に聘使として赴いた。
太建元年、重ねて本官をもって東宮管記を掌った。太子庶子を除し、通事舎人を兼ねた。中書侍郎・太子家令に転じた。長沙王が江州 刺史 となったが、法度に循わず、高宗は王が年少であるとして、陸瓊に長史を授け、江州府国事を行わせ、尋陽太守を帯させた。陸瓊は母が老いていることを理由に、遠出したくないとし、太子もまた固く留めるよう請うたので、遂に行かなかった。累遷して給事黄門侍郎となり、羽林監を領した。太子中庶子に転じ、歩兵 校尉 を領した。また大著作を領し、国史を撰した。
後主 が即位すると、中書省に直し、詔誥を掌った。ほどなく 散騎常侍 を授けられ、度支尚書を兼ね、揚州大中正を領した。至徳元年、度支尚書を除し、詔誥を参掌し、併せて廷尉・建康の二獄の事を判じた。初め、陸瓊の父雲公が梁の武帝の勅を受けて『嘉瑞記』を撰したが、陸瓊はその旨を述べてこれを継ぎ、永定より至徳に至るまで、一家の言を勒成した。吏部尚書に遷り、著作はもとの如くであった。陸瓊は譜諜に詳練で、人倫を 雅 に鑑みた。先に、吏部尚書宗元饒が卒し、右僕射袁憲が陸瓊を推挙したが、高宗は用いなかった。この時に至ってその職に就くと、称職と号され、後主は甚だ委任した。
陸瓊は性質謙虚で倹約し、自らを立てようとせず、位望が日々隆盛になっても、志を執ることはますます謙下であった。園池や室宇には改作せず、車馬や衣服には鮮やかさや華美を尚ばず、四時の禄俸は皆宗族に散じ、家に余財がなかった。晩年には深く止足を懐き、権要を避けようと考え、常に病と称して事務を視なかった。ほどなく母の喪に服し、職を去った。初め、陸瓊が東宮に侍していた時、母は官舎に随っていたので、後主は賞賜を優厚にした。喪柩が郷里に還るに及んで、詔して賻贈を加え、併せて謁者黄長貴に冊を持たせて奠祭させ、後主はまた自ら誌銘を製したので、朝野はこれを栄とした。陸瓊は哀慕のあまり過度に身を毀ち、至徳四年に卒した。時に年五十。詔して領軍将軍を追贈し、官が喪事を給した。文集二十巻が世に行われた。長子の従宜は、武昌王文学に至った。
子 従典
第三子の従典、字は由儀。幼くして聡明で機敏であった。八歳の時、沈約の文集を読み、回文研銘を見て、従典は筆を取ってこれを模倣し、すぐに佳致があった。十三歳の時、柳賦を作り、その詞は甚だ美しかった。瓊が当時東宮管記であったが、宮僚は皆一時の俊偉であり、瓊がこの賦を示すと、皆その異才を奇とした。従父の瑜は特に賞愛し、瑜が終わろうとする時、家中の墳籍を全て従典に託し、従典はそこで瑜の文を集めて十巻とし、さらに集序を製し、その文は甚だ巧みであった。
従典は篤く学業を好み、広く群書に渉猟し、班固の『漢書』に特に意を注いだ。十五歳の時、本州より秀才に挙げられた。著作佐郎として解褐し、転じて太子舎人となった。時に後主が僕射の江総とその父の瓊に詩を賜ると、総は従典に命じて謝啓を作らせたが、俄頃にして完成し、文華は理に暢び、総は甚だこれを異とした。まもなく信義王文学を授けられ、転じて太子洗馬となった。また 司徒 左西掾に遷り、東宮学士を兼ねた。父の憂に服して職を去った。まもなく徳教学士として起用されたが、固辞して就かず、後主は一員を留めて従典を待つよう勅した。俄かに金陵の淪没に属し、例に随って関右に遷った。隋に仕えて給事郎となり、東宮学士を兼ねた。また著作佐郎を除された。右僕射の楊素が従典に司馬遷の『史記』を隋に至るまで続けさせるよう上奏したが、その書は未だ完成しなかった。隋末の喪乱に値し、南陽郡に寓居し、病により卒した。時に年五十七。
顧野王
顧野王、字は希馮、吳郡吳の人である。祖父の子喬は、梁の東中郎武陵王府参軍事であった。父の烜は、信威臨賀王記室、兼ねて本郡の五官掾となり、儒術をもって知名であった。
野王は幼くして学を好んだ。七歳で五経を読み、大旨を略知した。九歳で文を作ることができ、嘗て日賦を製すると、領軍の朱异が見てこれを奇とした。十二歳の時、父に従って建安に赴き、『建安地記』二篇を撰した。長じて経史を遍く観覧し、精しく記し黙識し、天文地理・蓍亀占候・虫篆奇字に通じざるものはなかった。梁の大同四年、太学博士を除された。中領軍臨賀王府記室参軍に遷った。宣城王が揚州刺史となると、野王及び琅邪の王褒が共に賓客となり、王は甚だその才を愛した。野王はまた丹青を好み、図写に巧みであり、王が東府に斎を建てると、乃ち野王に命じて古の賢人を画かせ、王褒に命じて賛を書かせた。時に人はこれを二絶と称した。
侯景の乱の時、野王は父の憂に服し、本郡に帰った。乃ち郷党数百人を召募し、義軍に随って京邑を援けた。野王は体質元来清羸で、身長僅か六尺、また喪に居て過度に毀瘠し、衣を勝えぬほどであったが、戈を杖し甲を 被 り、君臣の義、逆順の理を陳べ、抗辞して色を作すと、見る者壮とせざるはなかった。京城が陥落すると、野王は会稽に逃れ、まもなく東陽に往き、劉帰義と合軍して城を拠り賊に拒んだ。侯景が平定されると、 太尉 の王僧辯は深くこれを嘉し、海塩県を監させた。
高祖が宰となると、金威将軍・安東臨川王府記室参軍となり、まもなく府諮議参軍に転じた。天嘉元年、勅により撰史学士を補し、まもなく招遠将軍を加えられた。光大元年、鎮東鄱陽王諮議参軍を除された。太建二年、国子博士に遷った。後主が東宮に在った時、野王は東宮管記を兼ね、本官は元の如くであった。六年、太子率更令を除し、まもなく大著作を領し、国史を掌り、梁史の事を知り、東宮通事舎人を兼ねた。時に宮僚には済陽の江総、呉国の陸瓊、北地の傅縡、呉興の姚察がおり、皆才学をもって顕著であり、論者は推重した。黄門侍郎、光禄卿に遷り、五礼の事を知り、その他の官は並びに元の如くであった。十三年に卒した。時に年六十三。詔により秘書監を贈られた。至徳二年、また右衛将軍を贈られた。
野王は少くして篤学至性をもって知名であり、物に接して過言や失色することがなく、その容貌を観れば、言うことができないかのようであったが、その精力を励まし行うところは、皆人の及ぶところではなかった。第三弟の充国が早世すると、野王は孤幼を撫養し、恩義甚だ厚かった。その撰した『玉篇』三十巻、『輿地志』三十巻、『符瑞図』十巻、『顧氏譜伝』十巻、『分野枢要』一巻、『続洞冥紀』一巻、『玄象表』一巻は、並びに世に行われた。また『通史要略』一百巻、『国史紀伝』二百巻を撰したが、未だ完成せずして卒した。文集二十巻がある。
傅縡
傅縡、字は宜事、北地霊州の人である。父の彝は、梁の臨沂令であった。
縡は幼くして聡明で機敏であり、七歳で古詩賦を十余万言誦した。長じて学を好み、文を作ることができた。梁の太清末、母を携えて南奔し難を避けたが、俄かに母の憂に服し、兵乱の中にあって、喪に居て礼を尽くし、哀毀して骨立し、士友はこれをもって称した。後に湘州刺史の蕭循に依ったが、循は頗る士を好み、広く墳籍を集めたので、縡は志を 肆 にして尋閲し、よって群書に博通した。王琳がその名を聞き、府記室として引き入れた。琳が敗れると、琳の将の孫瑒に随って都に還った。時に世祖が顔晃を使者として孫瑒に雑物を賜ると、孫瑒は縡に託して啓謝させたが、詞理優洽で、文に加筆するところなく、晃が還って世祖に言上すると、まもなく撰史学士として召された。 司空 府記室参軍を除し、驃騎安成王中記室に遷り、撰史は元の如くであった。
縡は篤く仏教を信じ、興皇の恵朗法師に従って三論を受け、その学を尽く通した。時に大心の暠法師が無諍論を著してこれを誹ったので、縡は乃ち明道論を作り、以てその難を釈した。その略は次の如くである。
『無諍論』に言う。近ごろ三論を弘める者がおり、雷同して誹謗し、勝手に罪状を言い立て、歴代の諸師を毀り、多くの学説を排斥し、中道を論じて偏った心を執し、忘懐を語りながら独勝を競い、方や数論を学び、さらに仇敵となる。仇敵が既に構えられれば、諍いの闘いが大いに生じ、この心をもって罪業を成し、罪業が止まなければ、生死を重ねて増し、大苦が集積することにならぬか。答えて言う。三論の興りは、久しい。龍樹がその源を創め、内学の偏見を除き、提婆がその旨を揚げ、外道の邪執を蕩った。大いなる教化が流れて滞らず、玄妙な風が闡明されて墜ちないようにせんとしたのである。その言葉は広大、その意は遠大、その道は博く、その流れは深い。これはまさに龍象の騰驤、鯤鵬の摶運であって、(寋)〔蹇〕乗が羽を決するごとき者が、どうしてその間に望みをかけることができようか。近ごろの世は浅薄で、時に曠士なく、ただ小学を習って蒙き心を化し、漸く染まって俗となり、遂に正路に迷い、ただ穿鑿を競い、各々勝手に造作し、枝葉のみ繁って、本源は日に翳り、一師の解釈は、また一師と異なり、旧宗を改め、各々新意を立て、同学の中でも、悟りはさらに別れ、かくのごとく展転して、添糅倍多となる。総じて用いれば、心に 的 準なく、択んで行えば、何を正とすべきか。渾沌が竅を傷つけられ、嘉樹が牙を弊わされるようなものではないか。たとえ人ごとに非馬を説き、家ごとに霊蛇を握るといえども、当てどない卮をもって、地に画いた餅と同じである。その道を失うこと、また宜ならずや。摂山の学は、かくのごとくならず。一を守り本に遵い、改作の過ちなく、文を約して意を申し、臆断の情を杜ぐ。言は予説せず、理は宿構せず。縁を見て爾ち応じ、敵を見て然る後に動く。縦横絡驛、忽怳杳冥。あるいは弥綸して窮まらず、あるいは消散して所なし。煥乎として文章あり、蹤朕を得ず。深乎として量るべからず、即事にして遠からず。凡そ相酬対するに、理に随って詳らかに覈す。何の嫉詐があって、諸師を干犯せんや。かつ諸師の説くところは、毀つべきか、毀つべからざるか。もし毀つべきならば、毀つゆえに衰える。もし毀つべからざるならば、毀つも自ら及ばず。法師は何ぞ独り蔽護して毀つを聴かざるか。かつ教えに大小あり、聖誥に備わる。大乗の文は、すなわち小道を指斥す。今大法を弘むるに、どうして大乗の意を言わざるを得ようか。これはすなわち褒貶の事、弘放の学に従い、与奪の辞、経に依って議論す。どうして仏説を見て信順し、我が語に在っては忤逆せん。無諍平等の心かくのごとくならんや。かつ忿恚煩悩は、凡夫の恒性、理を失う徒、率ね皆これあり。どうして三脩未だ愜わず、六師恨みを懐くをもって、涅槃の妙法を蘊し、永く宣揚せざるべけんや。ただその忿憤の心既に極まり、恬淡の悟り自ら成るを冀うのみ。人面同じからず、その心もまた異なり、あるいは辞意相反し、あるいは心口相符す。どうして必ず他人が中道を説いて心は偏執し、己は無諍を行い、外は違わずして内は平等なりと謂わん。仇敵の闘訟、豈に我が事ならんや。罪業の集積、闘諍する者の畏れるところなり。
『無諍論』に言う。摂山大師の誘進化導は、かくのごとくならず、すなわち無諍を行じて習う者である。導悟の徳既に往き、淳一の風已に澆く。競勝の心、呵毀の曲、茲に盛んである。我は諍いを息めて道を通じ、勝を譲って徳を忘れんことを願う。何ぞ必ずしも異家を排拂し、その恚怒を生ぜしめんや。もし中道の心をもって成実を行えば、また能く諍わず。もし偏著の心をもって中論を説けば、また諍い有り。固より知る、諍と不諍は、偏に一法に在り。答えて言う。摂山大師は実に無諍である。しかし法師の賞する所、その節に衷せず。彼は静かに幽谷を守り、寂爾として無為、凡そ訓勉する有れば、同志に非ざる 莫 く、従容として語嘿し、物に間然無し。故にその意は深くとも、その言は甚だ約である。今の敷暢は、地勢然らず。王城の隅に処り、聚落の内に居り、呼吸顧望の客、脣吻縦横の士、鋒穎を奮い、羽翼を励まし、明目張胆、堅きを被り鋭きを執り、異家を騁け、別解を衒い、間隙を窺伺し、長短を邀冀し、相酬対して、その軽重を捔る。どうして黙黙として言無く、唯唯として命に応ぜんや。必ずや同異を掎摭し、玼瑕を発擿し、身を忘れて道を弘め、俗に忤いて教えを通ぜざるべからず。これを以て病と為せば、益々未達なるを知る。もし大師をしてこの地に当たらしめば、また何ぞ必ずしも己を黙して、法師の貴ぶ所と為らんや。法師また言う、「我は諍いを息めて道を通じ、勝を譲って徳を忘れんことを願う」と。道德の事は、諍と不諍、譲と不譲に止まらず。この語は直ちに人間の重んずる所、法師慕いてこれを言うも、竟に勝として如何に譲るべきかを知らざるなり。もし他人の道高ければ、則ち自ら勝ちて譲るを労せず。他人の道劣れば、則ち譲ると雖も益無し。譲らんと欲するの辞、将に虚設に非ずや。中道の心は、処として不可なる無し。成実と三論、何事か乖くを致さん。ただ株を守るの解を息め、柱に膠するの意を除くを 須 う。是の事皆な中なり。来旨に「諍と不諍は、偏に一法に在り」と言う。何ぞ独り無諍を褒むるや。豈に矛楯に非ずや。
『無諍論』に言う。邪正得失、勝負是非は、必ず心に生ずるのであって、説く所の法に定相有りて勝劣を論ずるというのではない。もし異論の是非、偏著を以て失言と為し、是無く非無く、彼の得失を消し、この論を以て勝妙と為し、他論の及ばざる所とすれば、これもまた失である。何となれば、凡そ心の破る所、能く破るに心無きこと有らんや。則ち勝負の心忘れず、寧く勝者を存せざらんや。これすなわち我を矜りて得と為し、他を棄てて失と為し、即ち取捨有り、大いに是非を生じ、便ち諍いを増す。答えて言う。言は心に使われ、心は言に詮ぜられる。根塵和合し、風気を鼓動して、故に語と成る。事は必ず心に由る、実に如来の説く如し。心に偽を造りて口を使わしめ、口に詐を行いて心に応じ、外は和して内は険く、言は随いて意は逆らい、利養を求め、声名を引く、入道の人、在家の士、この輩一に非ず。聖人の曲く教誡を陳べ、深く防杜を致す所以は、見在の殃咎を説き、将来の患害を叙べるためである。この文明らかに著はしく、日月に甚だし。猶お愛躯を忘れ、峻制を冒し、湯炭を蹈み、虀粉を甘んじて、必ず行いて顧みざる者あり。どうして無諍の作を悦びて、首を回らし音を革めんや。もし道を弘むる人、化を宣ぐる士は、心に勝を知れば、口に勝を言い、心に劣を知れば、口に劣を言い、また包蔵する所無く、また忌憚する所無く、ただ直心を行いて之れに従うのみ。他道は劣ると雖も、聖人の教えなり。己徳は優ると雖も、また聖人の教えなり。我勝てば則ち聖人勝ち、他劣れば則ち聖人劣る。聖人の優劣は、蓋し根縁の宜しき所に依る。彼に於いて此に於いて、何の厚薄か有らん。たとえ終日剣を按じ、極夜柝を撃ち、目を瞋らして得失を争い、気を作して勝負を求めるとも、誰れに在るか。有心と無心と、徒らに虚空を分別せんと欲するのみ。何の意か我が論説を許さずして、我をして謙退せしむる。これは鷦(鵬)〔敕〕既に寥廓に翔けりて、虞者猶お藪沢を窺いて之れを求むるという。嗟乎、丈夫まさに斯の道を弘むべし。
『無諍論』に言う。無諍の道は、内外に通ずる。子が言うところの諍いを 須 いるというのは、これは末を用いて本を救い、本を失って末を営むものである。今、子のためにこれを言おう。何となれば、もし外典に依って、書契以前を尋ねれば、至淳の世に至り、その心は朴質にして、不言の教えを行い、当のこの時に、民は老死するまで互いに往来せず、しかも各々その所を得る。また何の諍いがあろうか。固より知る、本来は諍わず、これ物の真であると。答えて曰く、諍いと無諍とは、偏執すべからず。本と末とは、また安んぞ知らんや。由来諍わざるは、寧んぞ末に非ざるを知らんや。今に於いて諍うは、何の 験 をもって本に非ざるとせんや。夫れ後ろに居て前を望めば、則ち前となり、前に居て後ろを望めば、則ち後ろとなる。而して前後の事は猶お彼此の如し。彼はこれを彼と呼び、此は彼を彼と呼ぶ。彼此の名、 的 に誰が処にか居る。これを以て言えば、万事知るべし。本末前後、是非善悪、恒に守るべきか。何ぞ自ら聰明を信じ、他の耳目を廃せんや。夫れ水泡は生滅し、火輪は旋転し、牢阱に入り、羈紲を受け、憂畏を生じ、煩悩を起こす。その失い何ぞ。道と相応せずして、諸見を起こすが故なり。相応する者は則ち然らず、無為にして、無為ならざるはなし。善悪は 偕 にすること能わず、而も未だ嘗て善悪を離れず、生死は至ること能わず、亦終然として生死に在り。故に永く離れて任放するを得るなり。是を以て聖人は、繞桎の脱せざるを念い、黏膠の離れ難きを 愍 み、故に殷勤に教示し、諸の便巧を備う。希向の徒、渉求するに類あり。雖も驎角は成り難く、象形は失い易しと雖も、寧んぞ遐路に髣彿せずして、短晨を勉励せんや。且つ当に己が身の善悪を念い、他物を 揣 って分別せんと欲する 莫 れ。而して我は聰明なり、我は知見なり、我は計校なり、我は思惟なりと言う。これを以て言えば、亦疏なり。他人は実に測り難し。或いは是れ凡夫の 真爾 たるべく、亦た是れ聖人の俯同たるべし。時俗の宜しく見る所、果報の応に睹る所なり。安んぞ胸衿を 肆 にし、情性を尽くして、譏誚を生ぜんや。正に応に己を虚しくして世に遊び、電露の間に俛仰すべし。明月は天に在り、衆水ことごとく見、清風は林に至り、 群籟畢 く響く。吾豈に物に逆らわんや。鮑魚に入らず、腐鼠を甘んぜず。吾豈に物に同ぜんや。誰か能く我を知り、共に斯の路を行わん。浩浩たるかな、堂堂たるかな。豈に復た諍い有るを非と為し、無諍を是と為すを見んや。此れ則ち諍う者は自ら諍い、無諍の者は自ら無諍なり。吾は倶に取りて之を用う。寧ろ法師の功夫を費やし、筆紙を点じて、但だ無諍を申すを労せんや。弟子の脣舌を疲わし、晷漏を消して、唯だ明道に対すを労せんや。戯論なるかな、糟粕なるかな。必ずや且く真偽を考へ、 蹔 く得失を観んと欲せば、賢聖の言に依り、行蔵の理を検するに過ぎず。始終を研究し、表裏を綜覈して、浮辞を用いる所無からしめ、詐道自然に消えんことを請う。後筵を待ちて、その妙を観んことを。
まもなく本官のまま通直散騎侍郎を兼ねて斉に使い、帰還して散騎侍郎・鎮南始興王諮議参軍に任ぜられ、東宮管記を兼ねた。太子庶子・僕を歴任し、管記を兼ねることはもとの如し。後主即位後、秘書監・右衛将軍に遷り、中書通事舎人を兼ね、詔誥を掌った。傅縡は文章が典麗で、性質また敏速であり、軍国大事といえども、筆を下せば即ち成り、未だ草稿を作らず、沈思する者もまたこれに加うるもの無く、甚だ後主に重んぜられた。然れども性質木彊(頑固)にして、検操を持せず、才を負って気を使い、人物を陵侮したので、朝士多くこれを 銜 んだ。時に施文慶・沈客卿が便佞をもって親幸され、衡軸を専制するに及び、傅縡は益々疎んぜられた。文慶らは因って共に傅縡が高句麗の使者より金を受けたと讒言し、後主は傅縡を収めて獄に下した。傅縡は素より剛直であったので、憤恚に因り、乃ち獄中において上書して曰く、「人君たる者は、恭しく上帝に事え、下民を子として愛し、嗜慾を省み、諂佞を遠ざけ、未明に衣を求め、 日旰 も食を忘れず、是を以て沢は区宇に 被 い、 慶 は子孫に流る。陛下は頃来酒色に過度し、郊廟の神を 虔 まず、専ら淫昏の鬼に媚び、小人側に在り、宦豎権を弄し、忠直を悪むこと仇讎の如く、生民を視ること草芥の如し。後宮は綺繡を曳き、廄馬は菽粟を余し、百姓は流離し、殭尸は野を蔽う。貨賄は公行し、帑蔵は損耗し、神は怒り民は怨み、衆は叛き離る。恐らくは東南の王気、ここより尽きん。」書が奏上されると、後主は大いに怒った。間もなく、意少し解け、使者を遣わして傅縡に謂って曰く、「我卿を赦さんと欲す。卿能く過ちを改めんか。」傅縡対えて曰く、「臣が心は面の如し。臣が面改め得ば、則ち臣が心改め得べし。」後主はここにおいて益々怒り、宦者李善慶に命じてその事を窮治させ、遂に獄中に賜死させた。時に年五十五。集十巻世に行わる。
章華
時に呉興に章華有り、字は仲宗。家世は農夫であったが、章華に至り独り好学し、士君子と遊処し、頗る経史を 覧 、属文を善くした。侯景の乱の時、乃ち嶺南に遊び、羅浮山寺に居て、専精に業を習った。欧陽頠が広州刺史となると、南海太守に署した。及んで欧陽紇が敗れると、乃ち京師に還った。太建年中、高宗は吏部侍郎蕭引をして広州刺史馬靖を諭し、子を入れて質とせしめ、引は章華を奏して共に行かせた。使いより還りて、高宗崩御す。後主即位後、朝臣は章華が素より伐閲(功績と門地)無きを以て、競って排詆したので、乃ち大市令に除した。既に 雅 より好む所に非ず、乃ち疾を以て辞し、鬱々として志を得ず。禎明初年、上書して極諫し、その大略に曰く、「昔、高祖は南に百越を平げ、北に逆虜を誅し、世祖は東に呉会を定め、西に王琳を破り、高宗は淮南を克復し、地を千里に辟く。三祖の功、亦至って勤めり。陛下即位以来、今に五年、先帝の艱難を思わず、天命の畏るべきを知らず、嬖寵に溺れ、酒色に惑い、七廟を 祠 りて出でず、妃嬪を拝して軒に臨み、老臣宿将はこれを草莽に棄て、諂佞讒邪はこれを朝廷に昇す。今、疆埸日々に 蹙 まり、隋軍境に圧す。陛下もし改弦易張せずんば、臣、麋鹿復た姑蘇台に遊ぶを見ん。」書が奏上されると、後主は大いに怒り、即日命じてこれを斬らせた。
【史論】
史臣曰く、蕭済・陸瓊は、倶に才学を以て著しく、顧野王は群典を博く極め、傅縡は聰警特達にして、並びに一代の英霊なり。然れども傅縡は道に循って進退する能わず、遂に極網に 寘 かる。悲しいかな。