陳書

巻二十八 列伝第二十二 世祖九王 高宗二十九王 後主諸子

巻二十八 列伝第二十二 世祖九王 高宗二十九王 後主諸子

世祖九王

原文世祖九王

世祖に十三人の男子あり。沈皇后は廃帝と始興王伯茂を生み、厳淑媛は鄱陽王伯山と晉安王伯恭を生み、潘容華は新安王伯固を生み、劉昭華は衡陽王伯信を生み、王充華は廬陵王伯仁を生み、張脩容は江夏王伯義を生み、韓脩華は武陵王伯禮を生み、江貴妃は永陽王伯智を生み、孔貴妃は桂陽王伯謀を生む。その伯固は逆を犯したため別に伝がある。二男は早く卒し、本書に名はない。

原文世祖十三男:沈皇后生廢帝、始興王伯茂,嚴淑媛生鄱陽王伯山、晉安王伯恭,潘容華生新安王伯固,劉昭華生衡陽王伯信,王充華生廬陵王伯仁,張脩容生江夏王伯義,韓脩華生武陵王伯禮,江貴妃生永陽王伯智,孔貴妃生桂陽王伯謀。其伯固犯逆別有傳。二男早卒,本書無名。

始興王

原文始興王

始興王伯茂、字あざなは鬱之、世祖の第二子なり。初め、高祖の兄始興昭烈王道談は梁の世に仕え、東宮直閤將軍となり、侯景の乱に際し、弩手二千を率いて臺を援け、城中にて流れ矢に中り卒す。(紹泰)〔太平〕二年、侍中・使持節・都督南兗州諸軍事・南兗州刺史を追贈され、(義興郡公)〔長城縣公〕に封ぜられ、〔一〕諡して昭烈と曰う。高祖の受禅に際し、重ねて驃騎大將軍・太傅・〔二〕揚州牧を贈られ、始興郡王に改封され、邑二千戸を賜う。王は世祖及び高宗を生む。高宗は梁の承聖末に関右に遷り、この時に至り高祖は遥かに高宗をして始興嗣王を襲封せしめ、以て昭烈王の祀を奉ぜしむ。永定三年六月、高祖崩御、この月世祖帝位に入り継ぐ。時に高宗は周に在りて未だ還らず、世祖は本宗の饗けがたきを以て、その年十月詔を下して曰く、「日にちに皇基肇建し、枝戚を封樹す。朕親地の攸在するに、特に大邦を啓く。弟頊門祀を嗣承すと雖も、土宇開建するも、薦饗するに由なし。重ねて家に遭うこと造らず、閔凶夙に遘い、儲貳遐く隔たり、〓車未だ返らず。猥りに眇身を以て、茲の景命に膺り、式に龜鼎を循い、冰谷に載懐す。今既に大宗に入り奉り、事藩祼を絶つ。始興國廟蒸嘗主無く、言を瞻み霜露し、感尋して慟絶す。その嗣王頊を徙封して安成王と為し、第二子伯茂を始興王に封じ、以て昭烈王の祀を奉ぜしむ。天下に父後に為る者に爵一級を賜う。庶くは罔極の情を申べ、永く山河の祚を保たんことを。」と。

原文始興王伯茂字鬱之,世祖第二子也。初,高祖兄始興昭烈王道談仕於梁世,為東宮直閤將軍,侯景之亂,領弩手二千援臺,於城中中流矢卒。(紹泰)〔太平〕二年,追贈侍中、使持節、都督南兗州諸軍事、南兗州刺史,封(義興郡公)〔長城縣公〕,〔一〕諡曰昭烈。高祖受禪,重贈驃騎大將軍、太傅、〔二〕揚州牧,改封始興郡王,邑二千戶。王生世祖及高宗。高宗以梁承聖末遷于關右,至是高祖遙以高宗襲封始興嗣王,以奉昭烈王祀。永定三年六月,高祖崩,是月世祖入纂帝位。時高宗在周未還,世祖以本宗乏饗,其年十月下詔曰:「日者皇基肇建,封樹枝戚,朕親地攸在,特啟大邦。弟頊嗣承門祀,雖土宇開建,薦饗莫由。重以遭家不造,閔凶夙遘,儲貳遐隔,〓車未返。猥以眇身,膺茲景命,式循龜鼎,冰谷載懷。今既入奉大宗,事絕藩祼,始興國廟蒸嘗無主,瞻言霜露,感尋慟絕。其徙封嗣王頊為安成王,封第二子伯茂為始興王,以奉昭烈王祀。賜天下為父後者爵一級。庶申罔極之情,永保山河之祚。」

旧制、諸王封を受くるも、未だ戎号を加えざる者は、佐史を置かず。ここにおいて尚書八座奏して曰く、「夫れ徽号を増崇し、車服を飾表するは、以て其の徳を闡彰し、下民の望を変ずる所以なり。第二皇子新たに除せられたる始興王伯茂は、体自ら尊極にし、神姿明穎、玉は戮辰に映じ、蘭は綺歳に芬く。清暉美譽、日に茂り月に昇り、道は平・河に鬱し、声は袞・植を超ゆ。皇情追感し、聖性天深く、本宗の闕緒を以て、藩嗣を纂承す。珪社は是れ膺るも、戎章未だ襲わず。豈に以て睿哲を光崇し、皇枝を寵樹する所以ならんや。臣等参議す、宜しく寧遠將軍を加え、佐史を置くべし。」と。詔して「可」と曰う。尋いで使持節・都督南琅邪彭城二郡諸軍事・彭城太守を除す。天嘉二年、宣惠將軍・揚州刺史に進号す。

原文舊制諸王受封,未加戎號者,不置佐史,於是尚書八座奏曰:「夫增崇徽號,飾表車服,所以闡彰厥德,下變民望。第二皇子新除始興王伯茂,體自尊極,神姿明穎,玉映戮辰,蘭芬綺歲,清暉美譽,日茂月升,道鬱平、河,聲超袞、植。皇情追感,聖性天深,以本宗闕緒,纂承藩嗣,雖珪社是膺,而戎章未襲,豈所以光崇睿哲,寵樹皇枝。臣等參議,宜加寧遠將軍,置佐史。」詔曰「可」。尋除使持節、都督南琅邪彭城二郡諸軍事、彭城太守。天嘉二年,進號宣惠將軍、揚州刺史。

伯茂は性聰敏にして、学を好み、謙恭に下士し、また太子の母弟たるを以て、世祖深く愛重す。是の時、征北軍人が丹徒にて晉の郗曇の墓を盗発し、晉の右將軍王羲之の書及び諸名賢の遺跡を大いに獲る。事覚え、その書は並びに縣官に没収され、祕府に蔵す。世祖は伯茂の古を好むを以て、多く以て之を賜う。ここにより伯茂は大いに草隸に工なり、甚だ右軍の法を得たり。三年、鎮東將軍・開府儀同三司・東揚州刺史を除す。

原文伯茂性聰敏,好學,謙恭下士,又以太子母弟,世祖深愛重之。是時征北軍人於丹徒盜發晉郗曇墓,大獲晉右將軍王羲之書及諸名賢遺跡。事覺,其書並沒縣官,藏于祕府,世祖以伯茂好古,多以賜之,由是伯茂大工草隸,甚得右軍之法。三年,除鎮東將軍、開府儀同三司、東揚州刺史。

廃帝即位の時、伯茂は都に在り、劉師知等が詔を矯りて高宗を出だすに、伯茂これを勧めて成さしむ。師知等誅されたる後、高宗は伯茂の朝廷を扇動するを恐れ、光大元年、乃ち中衛將軍に進号し、禁中に入居せしめ、専ら廃帝と遊処せしむ。是の時、四海の望、咸く高宗に帰す。伯茂深く平らかならず、日夕憤怨し、数え悪言を肆にす。高宗は其の無能を以て、意と為さず。建安の人蔣裕と韓子高等の謀反するに及び、伯茂並びに陰にその事に預る。二年十一月、皇太后、令して廃帝を黜して臨海王と為す。その日また令を下して曰く、「伯茂軽薄、爰に弱齢よりし、厳訓に辜負し、弥に凶狡を肆にす。常に次居介弟を以て、宜しく国権を秉ずべしとし、年徳を涯せず、逾に狂躁を逞うし、禍乱を図り、宮闈を扇動し、麤險を要招し、臺閣に觖望す。嗣君道を喪い、此より乱階をなす。是の諸凶徳、咸く謀主と作る。允に宜しく彼の司甸を罄し、此の剭人を刑すべし。皇支を言念し、尚ほ悲懣を懐う。特に降して溫麻侯と為し、宜しく禁止を加え、別に就第を遣わすべし。此の如きあるを意せず、言泫歎を増す。」と。時に六門の外に別館あり、諸王の冠婚の所と為し、婚第と名づく。ここに至り伯茂をして出居せしむ。路に於いて盗に遇い、車中に殞る。時に年十八。

原文廢帝即位,時伯茂在都,劉師知等矯詔出高宗也,伯茂勸成之。師知等誅後,高宗恐伯茂扇動朝廷,光大元年,乃進號中衛將軍,令入居禁中,專與廢帝遊處。是時四海之望,咸歸高宗,伯茂深不平,日夕憤怨,數肆惡言,高宗以其無能,不以為意。及建安人蔣裕與韓子高等謀反,伯茂並陰豫其事。二年十一月,皇太后令黜廢帝為臨海王,其日又下令曰:「伯茂輕薄,爰自弱齡,辜負嚴訓,彌肆凶狡。常以次居介弟,宜秉國權,不涯年德,逾逞狂躁,圖為禍亂,扇動宮闈,要招麤險,觖望臺閣,嗣君喪道,由此亂階,是諸凶德,咸作謀主。允宜罄彼司甸,刑斯剭人。言念皇支,尚懷悲懣,可特降為溫麻侯,宜加禁止,別遣就第。不意如此,言增泫歎。」時六門之外有別館,以為諸王冠婚之所,名為婚第,至是命伯茂出居之。於路遇盜,殞于車中,時年十八。

鄱陽王

原文鄱陽王

鄱陽王伯山、字は靜之、世祖の第三子なり。容儀偉く、挙止閑雅、喜慍色に形らず、世祖深く之を器とす。初め高祖の時、天下草創、諸王の封を受くる儀注多く闕く。伯山の封を受くるに及び、世祖その事を重んぜんと欲し、天嘉元年七月丙辰、尚書八座奏して曰く、「臣聞く、本枝惟允なれば、宗周の業以て弘く、盤石既に建てば、皇漢の基斯に遠し。故に能く五運を協宣し、百王を規範し、式に霊根を固くし、卜世を克隆す。第三皇子伯山は、睿徳を齠年に発し、歧姿を丱日に表し、丹掖に光昭し、青闈に暉映す。而るに玉圭未だ秉せず、金錫靡く駕せず。豈に以て維翰を敦序し、藩戚を建樹する所以ならんや。臣等参議す、宜しく鄱陽郡王に封ずべし。」と。詔して「可」と曰う。乃ち散騎常侍・度支尚書蕭睿を持節兼太宰と為し、太廟に告げしむ。又た五兵尚書王質を持節兼太宰と為し、太社に告げしむ。その年十月、上臨軒して策命して曰く、「於戲、夫れ藩屏を建樹し、王室を翼獎するは、前典を欽若し、咸く必ず之に由る。惟れ爾夙に珪璋を挺で、生まれながら孝敬を知り、〔三〕令徳茂親、僉譽の集まる所、大邦を啓建するは、寔に倫序に惟る。是を用いて民瞻を敬遵し、此の圭瑞を錫う。往け欽哉、其れ声業を勉め樹て、永く宗社を保て。慎まざるべけんや。」と。策訖り、王公已下を勅令して並びに王第に醼せしむ。仍って東中郎将・呉郡太守を授く。六年、縁江都督・平北將軍・南徐州刺史と為る。天康元年、鎮北將軍に進号す。

原文鄱陽王伯山字靜之,世祖第三子也。偉容儀,舉止閑雅,喜慍不形於色,世祖深器之。初高祖時,天下草創,諸王受封儀注多闕,及伯山受封,世祖欲重其事,天嘉元年七月丙辰,尚書八座奏曰:「臣聞本枝惟允,宗周之業以弘,盤石既建,皇漢之基斯遠,故能協宣五運,規範百王,式固靈根,克隆卜世。第三皇子伯山,發睿德於齠年,表歧姿於丱日,光昭丹掖,暉映青闈,而玉圭未秉,金錫靡駕,豈所以敦序維翰,建樹藩戚。臣等參議,宜封鄱陽郡王。」詔曰「可」。乃遣散騎常侍、度支尚書蕭睿持節兼太宰告于太廟;又遣五兵尚書王質持節兼太宰告于太社。其年十月,上臨軒策命之曰:「於戲!夫建樹藩屏,翼獎王室,欽若前典,咸必由之。惟爾夙挺珪璋,生知孝敬,〔三〕令德茂親,僉譽所集,啟建大邦,寔惟倫序,是用敬遵民瞻,錫此圭瑞。往欽哉!其勉樹聲業,永保宗社,可不慎歟!」策訖,敕令王公已下並醼於王第。仍授東中郎將、吳郡太守。六年,為緣江都督、平北將軍、南徐州刺史。天康元年,進號鎮北將軍。

高宗輔政し、伯山を辺に処せしむるを欲せず、光大元年、徙めて鎮東將軍・東揚州刺史と為す。太建元年、徴されて中衛將軍・中領軍と為る。六年、又た征北將軍・南徐州刺史と為る。尋いで征南將軍・江州刺史と為る。十一年、入りて護軍將軍と為り、開府儀同三司を加えられ、〔四〕仍って鼓吹并びに扶を与えらる。後主即位、中権大將軍に進号す。至徳四年、出でて持節・都督東揚豊二州諸軍事・東揚州刺史と為り、侍中を加えられ、余は並びに如し。禎明元年、生母の憂いに遭い、職を去る。明年、起きて鎮衛大將軍・〔五〕開府儀同三司と為り、班剣十人を与えらる。三年正月薨ず。時に年四十。

原文高宗輔政,不欲令伯山處邊,光大元年,徙為鎮東將軍、東揚州刺史。太建元年,徵為中衛將軍、中領軍。六年,又為征北將軍、南徐州刺史。尋為征南將軍、江州刺史。十一年,入為護軍將軍,加開府儀同三司,〔四〕仍給鼓吹并扶。後主即位,進號中權大將軍。至德四年,出為持節、都督東揚豐二州諸軍事、東揚州刺史,加侍中,餘並如故。禎明元年,丁所生母憂,去職。明年,起為鎮衛大將軍、〔五〕開府儀同三司,給班劍十人。三年正月薨,時年四十。

伯山は性質寛厚にして、風儀美しく、また諸王の中で最も年長であったので、後主は深く敬重し、朝廷に冠婚饗宴の事ある毎に、常に伯山をして主たらしめた。及びび生母の憂いに遭い、喪に服して孝行をもって聞こえた。後主が嘗て吏部尚書蔡徵の宅に幸し、因りて往きて弔問した時、伯山は慟哭して殆ど絶えんばかりであった。因って鎮衛将軍に起用され、なお群臣に謂って曰く、「鄱陽王は至性嘉すべきものあり、また西第の長なり。豫章王は既に司空を兼ねたるが、彼も亦太尉に遷すべきなり」と。未だ詔を発せざるに伯山薨じ、間もなく陳の滅亡に遭い、遂に贈諡無し。

原文伯山性寬厚,美風儀,又於諸王最長,後主深敬重之,每朝廷有冠婚饗醼之事,恆使伯山為主。及丁所生母憂,居喪以孝聞。後主嘗幸吏部尚書蔡徵宅,因往弔之,伯山號慟殆絕,因起為鎮衛將軍,仍謂群臣曰:「鄱陽王至性可嘉,又是西第之長,豫章已兼司空,其亦須遷太尉。」未及發詔而伯山薨,尋值陳亡,遂無贈諡。

長子君範は、太建年中に鄱陽国世子に拝され、間もなく貞威将軍・晋陵太守となったが、未だ爵を襲わざるに隋師至る。是の時、宗室王侯都に在る者百余り、後主は其の変を為すを恐れ、乃ち併せて召し入れ、朝堂に屯せしめ、豫章王叔英をして之を総督せしめ、而して又陰に之が備えを為す。及び六軍敗績し、相率いて出でて降り、因りて後主に従い関中に入る。長安に至り、隋文帝は併せて隴右及び河西諸州に配し、各々田業を与えて以て之を処す。初め、君範は尚書僕射江総と友善し、是に至り総は君範に書を贈り五言詩を以て他郷離別の意を叙し、辞甚だ酸切なり、当世の文士咸く之を諷誦す。大業二年、隋煬帝は後主の第六女女婤を貴人と為し、絶えて愛幸し、因りて陳氏の子弟を召し尽く京師に還し、才に随い叙用す。是に由りて併せて守宰と為り、天下に遍く在り。其の年君範は温県令と為る。

原文長子君範,太建中拜鄱陽國世子,尋為貞威將軍、晉陵太守,未襲爵而隋師至。是時宗室王侯在都者百餘人,後主恐其為變,乃並召入,令屯朝堂,使豫章王叔英總督之,而又陰為之備。及六軍敗績,相率出降,因從後主入關。至長安,隋文帝並配于隴右及河西諸州,各給田業以處之。初,君範與尚書僕射江總友善,至是總贈君範書五言詩,以敘他鄉離別之意,辭甚酸切,當世文士咸諷誦之。大業二年,隋煬帝以後主第六女女婤為貴人,絕愛幸,因召陳氏子弟盡還京師,隨才敘用,由是並為守宰,遍於天下。其年君範為溫令。

晋安王

原文晉安王

晋安王伯恭は字を肅之と云い、世祖の第六子なり。天嘉六年、立たれて晋安王と為る。間もなく平東将軍・呉郡太守となり、佐史を置く。時に伯恭年十余歳にして、便ち政事に留心し、官曹治む。太建元年、入りて安前将軍・中護軍と為り、中領軍に遷る。間もなく中衛将軍・揚州刺史と為り、公事に坐して免ぜらる。四年、起きて安左将軍と為り、間もなく鎮右将軍・特進となり、扶を与えらる。六年、出でて安南将軍・南豫州刺史と為る。九年、入りて安前将軍・祠部尚書と為る。十一年、軍号を進めて軍師将軍・尚書右僕射と為る。十二年、僕射に遷る。十三年、左僕射に遷り、十四年、出でて安南将軍・湘州刺史と為るも、拝せず。至徳元年、侍中・中衛将軍・光禄大夫と為り、生母の憂いに遭い、職を去る。禎明元年、起きて中衛将軍・右光禄大夫と為り、佐史・扶を置くこと並びに旧の如し。三年、関中に入る。隋の大業初め、成州刺史・太常卿と為る。

原文晉安王伯恭字肅之,世祖第六子也。天嘉六年,立為晉安王。尋為平東將軍、吳郡太守,置佐史。時伯恭年十餘歲,便留心政事,官曹治理。太建元年,入為安前將軍、中護軍,遷中領軍。尋為中衛將軍、揚州刺史,以公事免。四年,起為安左將軍,尋為鎮右將軍、特進,給扶。六年,出為安南將軍、南豫州刺史。九年,入為安前將軍、祠部尚書。十一年,進號軍師將軍、尚書右僕射。十二年,遷僕射。十三年,遷左僕射,十四年,出為安南將軍、湘州刺史,未拜。至德元年,為侍中、中衛將軍、光祿大夫,丁所生母憂,去職。禎明元年,起為中衛將軍、右光祿大夫,置佐史、扶並如故。三年入關。隋大業初,為成州刺史、太常卿。

衡陽王

原文衡陽王

衡陽王伯信は字を孚之と云い、世祖の第七子なり。天嘉元年、衡陽献王昌周より還朝するも、道に於いて薨ず。其の年世祖伯信を立てて衡陽王と為し、献王の祀を奉ぜしむ。間もなく宣恵将軍・丹陽尹と為り、佐史を置く。太建四年、中護軍と為る。六年、宣毅将軍・揚州刺史と為る。間もなく侍中・散騎常侍を加えらる。十一年、軍号を進めて鎮前将軍・太子詹事と為り、余は並びに旧の如し。禎明元年、出でて鎮南将軍・西衡州刺史と為る。三年、隋軍江を渡り、臨汝侯方慶と並びて東衡州刺史王勇に害せらる。事は方慶伝に在り。

原文衡陽王伯信字孚之,世祖第七子也。天嘉元年,衡陽獻王昌自周還朝,於道薨,其年世祖立伯信為衡陽王,奉獻王祀。尋為宣惠將軍、丹陽尹,置佐史。太建四年,為中護軍。六年,為宣毅將軍、揚州刺史。尋加侍中、散騎常侍。十一年,進號鎮前將軍,〔六〕太子詹事,餘並如故。禎明元年,出為鎮南將軍、西衡州刺史。三年,隋軍濟江,與臨汝侯方慶並為東衡州刺史王勇所害,〔七〕事在方慶傳。

廬陵王

原文廬陵王

廬陵王伯仁は字を壽之と云い、世祖の第八子なり。天嘉六年、立たれて廬陵王と為る。太建初め、軽車将軍と為り、佐史を置く。七年、冠軍将軍・中領軍に遷る。間もなく平北将軍・南徐州刺史と為る。十二年、翊左将軍・中領軍と為る。禎明元年、侍中・国子祭酒を加えられ、太子中庶子を領す。三年、関中に入り、長安に於いて卒す。

原文廬陵王伯仁字壽之,世祖第八子也。天嘉六年,立為廬陵王。太建初,為輕車將軍,置佐史。七年,遷冠軍將軍、中領軍。〔八〕尋為平北將軍、南徐州刺史。十二年,為翊左將軍、中領軍。禎明元年,加侍中、〔九〕國子祭酒,領太子中庶子。三年入關,卒于長安。

長子番は、先に湘濱侯に封ぜられ、隋の大業年中、資陽令と為る。

原文長子番,先封湘濱侯,隋大業中,為資陽令。

江夏王

原文江夏王

江夏王伯義は字を堅之と云い、世祖の第九子なり。天嘉六年、立たれて江夏王と為る。太建初め、宣恵将軍・東揚州刺史と為り、佐史を置く。間もなく宣毅将軍・持節・散騎常侍・都督合霍二州諸軍事・合州刺史と為る。十四年、徴されて侍中・忠武将軍・金紫光禄大夫と為る。禎明三年、関中に入り、瓜州に遷され、道に於いて卒す。

原文江夏王伯義字堅之,世祖第九子也。天嘉六年,立為江夏王。太建初,為宣惠將軍、東揚州刺史,置佐史。尋為宣毅將軍、持節、散騎常侍、都督合霍二州諸軍事、合州刺史。〔一0〕十四年,徵為侍中、忠武將軍、金紫光祿大夫。禎明三年入關,遷于瓜州,於道卒。

長子元基は、先に湘潭侯に封ぜられ、隋の大業年中、穀熟県令と為る。

原文長子元基,先封湘潭侯,隋大業中為穀熟縣令。

武陵王

原文武陵王

武陵王伯礼は字を用之と云い、世祖の第十子なり。天嘉六年、立たれて武陵王と為る。太建初め、雲旗将軍・持節・都督呉興諸軍事・呉興太守と為る。郡に在りて恣に暴掠を行い、民下を駆り録し、財貨を逼奪し、前後委積し、百姓之を患う。太建九年、有司に劾せらる。上曰く、王は年少にして未だ治道に達せず、皆佐史の匡弼を能わざるに由る所なりと。特に関号を降し、後若し更に犯せば、必ず之を法に致すべし、有司言わざれば同じく罪とす、と。十一年春、代えられて徴還せらるるも、伯礼遂に遷延して発たず。其の年十月、散騎常侍・御史中丞徐君敷奏して曰く、「臣聞く、車屨俟たずは君命の通規、夙夜懈まずは臣子の恒節なりと。謹みて案ずるに、雲旗将軍・持節・都督呉興諸軍事・呉興太守武陵王伯礼は、早く英猷を擅にし、久しく令問を馳せ、惟良の寄重く、枌郷是に属す。聖上は黔黎を愛育し、政本に留情し、共に化を求め瘼を恤み、早く皇心に赴くべし。遂に復た帰驂を稽緩し、叙燠を取って移り、去鷁を遅回し、空しく載路を淹る。淑慎未だ彰れず、違惰斯に在り。愆を繩し跡を検し、以て懲誡と為す。臣等参議して以て見事に依り伯礼の居む官を免し、王を以て第に還らしむ。謹みて白簡を以て奏聞す」と。詔して曰く「可なり」と。禎明三年、関中に入る。隋の大業年中、散騎侍郎・臨洮太守と為る。

原文武陵王伯禮字用之,世祖第十子也。天嘉六年,立為武陵王。太建初,為雲旗將軍、持節、都督吳興諸軍事、吳興太守。在郡恣行暴掠,驅錄民下,逼奪財貨,前後委積,百姓患之。太建九年,為有司所劾,上曰王年少,未達治道,皆由佐史不能匡弼所致,特降軍號,後若更犯,必致之以法,有司不言與同罪。十一年春,被代徵還,伯禮遂遷延不發。其年十月,散騎常侍、御史中丞徐君敷奏曰:〔一一〕「臣聞車屨不俟,君命之通規,夙夜匪懈,臣子之恆節。謹案雲旗將軍、持節、都督吳興諸軍事、吳興太守武陵王伯禮,早擅英猷〔一二〕,久馳令問,惟良寄重,枌鄉是屬。聖上愛育黔黎,留情政本,共化求瘼,早赴皇心,遂復稽緩歸驂,取移敘燠,遲回去鷁,空淹載路,淑慎未彰,違惰斯在,繩愆檢跡,以為懲誡。臣等參議以見事免伯禮所居官,以王還第,謹以白簡奏聞。」詔曰「可」。禎明三年入關,隋大業中為散騎侍郎、臨洮太守。

永陽王

原文永陽王

永陽王伯智は策之と字し、世祖(陳文帝)の第十二子である。若い頃から篤実で、度量があり、経史に広く通じた。太建年間に永陽王に立てられた。まもなく侍中となり、明威将軍を加えられ、佐史を置いた。まもなく散騎常侍を加えられ、累進して尚書左僕射となった。出仕して使持節・都督東揚豊二州諸軍事・平東将軍となり、会稽内史を兼任した。至徳二年、入朝して侍中・翊左将軍となり、特進を加えられた。禎明三年に関中に入った。隋の大業年間、岐州司馬となり、国子司業に転じた。

原文永陽王伯智字策之,世祖第十二子也。少敦厚,有器局,博涉經史。太建中,立為永陽王。〔一三〕尋為侍中,加明威將軍,置佐史。尋加散騎常侍,累遷尚書左僕射,〔一四〕出為使持節、都督東揚豐二州諸軍事、〔一五〕平東將軍,領會稽內史。至德二年,入為侍中、翊左將軍,加特進。禎明三年入關。隋大業中,為岐州司馬,遷國子司業。

桂陽王

原文桂陽王

桂陽王伯謀は深之と字し、世祖の第十三子である。太建年間に桂陽王に立てられた。七年、明威将軍となり、佐史を置いた。まもなく信威将軍・丹陽尹となった。十年、侍中を加えられた。出仕して持節・都督呉興諸軍事・東中郎将・呉興太守となった。十一年、散騎常侍を加えられた。至徳元年に薨去した。

原文桂陽王伯謀,字深之,世祖第十三子也。太建中,立為桂陽王。〔一六〕七年,為明威將軍,置佐史。尋為信威將軍、丹陽尹。十年,加侍中。出為持節、都督吳興諸軍事、東中郎將、吳興太守。十一年,加散騎常侍。至德元年薨。

子の酆が後を嗣ぎ、大業年間に番禾県令となった。

原文子酆嗣,大業中,為番禾令。

高宗二十九王

原文高宗二十九王

高宗に四十二人の男子があった。柳皇后は後主を生み、彭貴人は始興王叔陵を生み、曹淑華は豫章王叔英を生み、何淑儀は長沙王叔堅と宜都王叔明を生み、魏昭容は建安王叔卿を生み、銭貴妃は河東王叔献を生み、劉昭儀は新蔡王叔斉を生み、袁昭容は晋熙王叔文と義陽王叔達と新会王叔坦を生み、王姫は淮南王叔彪と巴山王叔雄を生み、呉姫は始興王叔重を生み、徐姫は尋陽王叔儼を生み、淳于姫は岳陽王叔慎を生み、王脩華は武昌王叔虞を生み、韋脩容は湘東王叔平を生み、施姫は臨賀王叔敖と沅陵王叔興を生み、曾姫は陽山王叔宣を生み、楊姫は西陽王叔穆を生み、申婕妤は南安王叔儉と南郡王叔澄と岳山王叔韶と太原王叔匡を生み、袁姫は新興王叔純を生み、呉姫は巴東王叔謨を生み、劉姫は臨江王叔顕を生み、秦姫は新寧王叔隆と新昌王叔栄を生んだ。その皇子叔叡・叔忠・叔弘・叔毅・叔訓・叔武・叔処・叔封ら八人は、いずれも封を受けるに及ばなかった。叔陵は逆を犯したので、別に伝がある。三人の子は早世し、本書に名はない。

原文高宗四十二男:柳皇后生後主,彭貴人生始興王叔陵,曹淑華生豫章王叔英,何淑儀生長沙王叔堅、宜都王叔明,魏昭容生建安王叔卿,〔一七〕錢貴妃生河東王叔獻,劉昭儀生新蔡王叔齊,袁昭容生晉熙王叔文、義陽王叔達、新會王叔坦,王姬生淮南王叔彪、巴山王叔雄,〔一八〕吳姬生始興王叔重,徐姬生尋陽王叔儼,淳于姬生岳陽王叔慎,王脩華生武昌王叔虞,韋脩容生湘東王叔平,施姬生臨賀王叔敖、沅陵王叔興,曾姬生陽山王叔宣,楊姬生西陽王叔穆,申婕妤生南安王叔儉、南郡王叔澄、岳山王叔韶、太原王叔匡,袁姬生新興王叔純,吳姬生巴東王叔謨,劉姬生臨江王叔顯,〔一九〕秦姬生新寧王叔隆、新昌王叔榮。其皇子叔叡、叔忠、叔(引)〔弘〕〔二0〕、叔毅、叔訓、叔武、叔處、叔封等八人,並未及封。叔陵犯逆,別有傳。三子早卒,本書無名。

豫章王

原文豫章王

豫章王叔英は子烈と字し、高宗の第三子である。若い頃から寛厚で仁愛があった。天嘉元年、建安侯に封ぜられた。太建元年、豫章王に改封され、引き続き宣恵将軍・都督東揚州諸軍事・東揚州刺史となった。五年、平北将軍・南豫州刺史に進号した。十一年、鎮前将軍・江州刺史となった。後主が即位すると、征南将軍に進号し、まもなく開府儀同三司・中衛大将軍を加えられ、その他の官職はもとのままだった。四年、驃騎大将軍に進号した。禎明元年、鼓吹一部と班剣十人を与えられた。その年、司空に転じた。三年、隋軍が長江を渡ると、叔英は石頭の軍戍の事を知った。まもなく朝堂に入って駐屯するよう命じられた。六軍が敗れると、隋の将韓擒虎に降った。その年に関中に入った。隋の大業年間、涪陵太守となった。

原文豫章王叔英字子烈,高宗第三子也。少寬厚仁愛。天嘉元年,封建安侯。太建元年,改封豫章王,仍為宣惠將軍、都督東揚州諸軍事、東揚州刺史。五年,進號平北將軍、南豫州刺史。〔二一〕十一年,為鎮前將軍、江州刺史。〔二二〕後主即位,進號征南將軍,尋加開府儀同三司、中衛大將軍,餘並如故。四年,進號驃騎大將軍〔二三〕。禎明元年,給鼓吹一部,班劍十人。其年,遷司空。〔二四〕三年,隋師濟江,叔英知石頭軍戍事。尋令入屯朝堂。及六軍敗績,降于隋將韓擒虎。其年入關。隋大業中為涪陵太守。

長子の弘は、至徳元年に豫章国の世子に任ぜられた。

原文長子弘,至德元年,拜豫章國世子。

長沙王

原文長沙王

長沙王叔堅は子成と字し、高宗の第四子である。母はもと呉中の酒家の下女で、高宗が微賤の時、たびたび飲みに行き、ついに通じた。貴くなってから召し出され、淑儀に任ぜられた。叔堅は若い頃から傑出して狡猾で、凶暴で酒乱、特に数術・卜筮・祝禁を好み、金を鋳たり玉を琢ったりすることも、その妙を極めた。天嘉年間、豊城侯に封ぜられた。太建元年、長沙王に立てられ、引き続き東中郎将・呉郡太守となった。四年、宣毅将軍・江州刺史となり、佐史を置いた。七年、雲麾将軍・郢州えいしゅう刺史に進号したが、拝命せず、平越中郎将・広州刺史に転じた。まもなく平北将軍・合州刺史となった。八年、ふたたび平西将軍・郢州刺史となった。十一年、入朝して翊左将軍・丹陽尹となった。

原文長沙王叔堅字子成,高宗第四子也。母本吳中酒家隸,高宗微時,嘗往飲,遂與通,及貴,召拜淑儀。叔堅少傑黠,凶虐使酒,尤好數術、卜筮、祝禁,鎔金琢玉,並究其妙。天嘉中,封豐城侯。太建元年,立為長沙王,仍為東中郎將、吳郡太守。四年,為宣毅將軍、江州刺史,置佐史。七年,進號雲麾將軍、郢州刺史,未拜,轉為平越中郎將、廣州刺史。尋為平北將軍、合州刺史。〔二五〕八年,復為平西將軍、郢州刺史。十一年,入為翊左將軍、丹陽尹。〔二六〕

初め、叔堅は始興王叔陵とともに賓客を招き集め、互いに権勢と寵愛を争い、甚だ不和であった。毎回の朝会の鹵簿で、先後を譲らず、必ず別々の道を急ぎ、左右の者が道を争って闘い、死者が出ることもあった。高宗が病に伏せると、叔堅・叔陵らはともに後主に従って看病した。叔陵はひそかに異心を抱き、典薬の吏に命じて言った、「薬を切る刀が甚だ鈍い、研ぐがよい」。高宗が崩御した時、慌ただしい中で、また左右の者に外で剣を取って来るよう命じたが、左右は悟らず、朝服に佩びる木剣を持って来て進上したので、叔陵は怒った。叔堅は傍らでこれを聞き、変事があると疑い、そのすることを窺った。翌日の小斂の時、叔陵は袖に隠した薬切りの刀を持って進み出て、後主を斬りつけ、首筋に当たった。後主は地面に倒れて気絶し、皇太后と後主の乳母楽安君呉氏がともに身を挺してこれを防ぎ、難を免れた。叔堅は後ろから叔陵を扼え、これを捕らえ、その刀を奪い取って殺そうとし、後主に「ただちに殺し尽くすべきか、待つべきか」と問うたが、後主は答えることができなかった。叔陵はもと力が強く、しばらくして奮って脱出し、雲龍門を出て東府城に入り、左右に命じて青溪橋の道を断ち切り、東城の囚人を放って戦士に充てた。また人を新林に遣わし、その配下の兵馬を追わせ、自ら甲を着け、白布帽をかぶり、城の西門に登って百姓を募集した。この時、諸軍はみな長江沿いに防備しており、朝廷内は空虚であった。叔堅は皇太后に申し上げて太子舎人司馬申を使い、後主の命として蕭摩訶を召し、これを討たせた。その日にその将戴温・譚騏驎らを捕らえ、朝廷に送り、尚書閤の下で斬り、その首を東城に持って行って示した。叔陵は恐れ慌ててどうしてよいか分からず、その妻妾をことごとく殺し、左右数百人を率いて新林へ走った。摩訶がこれを追い、丹陽郡で斬り、残党はことごとく捕らえられた。その年、功により驃騎将軍・開府儀同三司・揚州刺史に進号した。まもなく司空に転じ、将軍・刺史はもとのままだった。

原文初,叔堅與始興王叔陵並招聚賓客,各爭權寵,甚不平。每朝會鹵簿,不肯為先後,必分道而趨,左右或爭道而鬥,至有死者。及高宗弗豫,叔堅、叔陵等並從後主侍疾。叔陵陰有異志,乃命典藥吏曰:「切藥刀甚鈍,可礪之。」及高宗崩,倉卒之際,又命其左右於外取劍,左右弗悟,乃取朝服所佩木劍以進,叔陵怒。叔堅在側聞之,疑有變,伺其所為。及翌日小斂,叔陵袖剉藥刀趨進,斫後主,中項,後主悶絕于地,皇太后與後主乳母樂安君吳氏俱以身捍之,獲免。叔堅自後扼叔陵,擒之,并奪其刀,將殺之,問後主曰:「即盡之,為待也。」後主不能應。叔陵舊多力,須臾,自奮得脫,出雲龍門,入于東府城,召左右斷青溪橋道,放東城囚以充戰士。又遣人往新林,追其所部兵馬,仍自被甲,著白布帽,登城西門,招募百姓。是時眾軍並緣江防守,臺內空虛,叔堅乃白太后使太子舍人司馬申以後主命召蕭摩訶,令討之。即日擒其將戴(洫)〔溫〕、譚騏驎等,〔二七〕送臺,斬于尚書閤下,持其首徇于東城。叔陵恇擾不知所為,乃盡殺其妻妾,率左右數百人走趨新林,摩訶追之,斬于丹陽郡,餘黨悉擒。其年,以功進號驃騎將軍、開府儀同三司、揚州刺史。尋遷司空,將軍、刺史如故。

この時、後主は創傷を患い、政務を視ることができず、政事の大小を問わず、すべて叔堅に決裁を委ねた。ここにおいてその勢いは朝廷を傾けた。叔堅は驕り高ぶりをほしいままにし、不法なことが多く、後主はこれによって彼を疎んじ忌むようになった。孔範・管斌・施文慶らは、いずれも東宮の旧臣であり、日夜ひそかにその短所を握った。至徳元年、詔を下して本号のまま三司の儀を用いさせ、江州刺史として出させた。出発しないうちに、まもなく詔があり、また驃騎将軍とし、さらに司空に任じたが、実はその権勢を去らせようとしたのである。叔堅は自ら安んじず、次第に怨望を抱き、左道の厭魅を行って福助を求め、木を刻んで人形とし、道士の服を着せ、からくりを施して拝跪できるようにし、昼夜を分かたず日月の下で醮を行い、上を呪詛した。その年の冬、ある者が上書してこのことを告げ、取り調べてみるとすべて事実であった。後主は叔堅を召し出して西省に囚え、殺そうとした。その夜、近侍に命じて勅を宣し、罪を数え上げると、叔堅は答えて言うには、「臣の本心は、他に故があるのではなく、ただ親しく媚びを求めたいだけです。臣はすでに天憲を犯し、罪は万死に当たります。臣が死ぬ日には、必ず叔陵に会いましょう。願わくば明詔を宣し、九泉の下で責めさせてください」。後主はその以前の功績に感じ入り、赦し、特に居官を免じ、王として邸に戻した。まもなく侍中・鎮左将軍として起用された。〔二八〕二年、鼓吹と油幢車を給された。三年、征西将軍・荊州刺史として出された。四年、中軍大将軍・開府儀同三司に進号した。禎明二年、任期満了で都に還った。

原文是時後主患創,不能視事,政無小大,悉委叔堅決之,於是勢傾朝廷。叔堅因肆驕縱,事多不法,後主由是疏而忌之。孔範、管斌、施文慶之徒,並東宮舊臣,日夜陰持其短。至德元年,乃詔令即本號用三司之儀,出為江州刺史。未發,尋有詔又以為驃騎將軍,重為司空,實欲去其權勢。叔堅不自安,稍怨望,乃為左道厭魅以求福助,刻木為偶人,衣以道士之服,施機關,能拜跪,晝夜於日月下醮之,祝詛於上。其年冬,有人上書告其事,案驗並實,後主召叔堅囚于西省,將殺之。其夜,令近侍宣敕,數之以罪,叔堅對曰:「臣之本心,非有他故,但欲求親媚耳。臣既犯天憲,罪當萬死,臣死之日,必見叔陵,願宣明詔,責於九泉之下。」後主感其前功,乃赦之,特免所居官,以王還第。尋起為侍中、鎮左將軍。〔二八〕二年,又給鼓吹、油幢車。三年,出為征西將軍、荊州刺史。四年,進號中軍大將軍、開府儀同三司。禎明二年,秩滿還都。

三年に関中に入り、瓜州に移され、名を叔賢と改めた。〔叔〕賢はもとより貴人であり、家人の生業を知らず、この時には妃の沈氏とともに酒を売り、雇われて働くことを業とした。隋の大業年間、遂寧郡太守となった。

原文三年入關,遷于瓜州,更名叔賢。〔叔〕賢素貴,〔二九〕不知家人生產,至是與妃沈氏酤酒,以傭保為事。隋大業中,為遂寧郡太守。

建安王

原文建安王

建安王叔卿は字を子弼といい、高宗の第五子である。性質は質直で材器があり、容貌は甚だ偉かった。太建四年、建安王に立てられ、東中郎将・東揚州刺史を授けられた。七年、雲麾将軍・郢州刺史となり、佐史を置いた。九年、平南将軍・湘州刺史に進号した。後主が即位すると、安南将軍に進号した。また侍中・鎮右将軍・中書令となった。中書監に遷った。禎明三年に関中に入り、隋の大業年間、都官郎・上党通守となった。

原文建安王叔卿字子弼,高宗第五子也。性質直有材器,容貌甚偉。太建四年,立為建安王,授東中郎將、東揚州刺史。七年,為雲麾將軍、郢州刺史,置佐史。九年,進號平南將軍、湘州刺史。後主即位,進號安南將軍。又為侍中、鎮右將軍、中書令。遷中書監。禎明三年入關,隋大業中,為都官郎、上黨通守。

宜都王

原文宜都王

宜都王叔明は字を子昭といい、高宗の第六子である。儀容美麗で、挙動は和やかで弱く、その様は婦人のようであった。太建五年、宜都王に立てられ、まもなく宣恵将軍を授けられ、佐史を置いた。七年、東中郎将・東揚州刺史を授けられ、まもなく軽車将軍・衛尉卿となった。十三年、使持節・雲麾将軍・南徐州刺史として出された。また侍中・翊右将軍となった。至徳四年、安右将軍に進号した。禎明三年に関中に入り、隋の大業年間、鴻臚少卿となった。

原文宜都王叔明字子昭,高宗第六子也。儀容美麗,舉止和弱,狀似婦人。太建五年,立為宜都王,尋授宣惠將軍,置佐史。七年,授東中郎將、東揚州刺史,尋為輕車將軍、衛尉卿。十三年,出為使持節、雲麾將軍、南徐州刺史。又為侍中、翊右將軍。至德四年,進號安右將軍。禎明三年入關,隋大業中為鴻臚少卿。

河東王

原文河東王

河東王叔献は字を子恭といい、高宗の第九子である。性格は恭謹で、聡敏好学であった。太建五年、河東王に立てられた。七年、宣毅将軍を授けられ、佐史を置いた。まもなく散騎常侍・軍師将軍・都督南徐州諸軍事・南徐州刺史となった。〔三0〕十二年に薨去、十三歳であった。侍中・中撫将軍・司空を追贈され、諡して康簡といった。子の孝寬が嗣いだ。孝寬は至徳元年、河東王の爵を襲った。禎明三年に関中に入り、隋の大業年間、汶城令となった。

原文河東王叔獻字子恭,高宗第九子也。性恭謹,聰敏好學。太建五年,立為河東王。七年,授宣毅將軍,置佐史。尋為散騎常侍、軍師將軍、都督南徐州諸軍事、南徐州刺史。〔三0〕十二年薨,年十三。贈侍中、中撫將軍、司空,謚曰康簡。子孝寬嗣。孝寬以至德元年,襲爵河東王。禎明三年入關,隋大業中為汶城令。

新蔡王

原文新蔡王

新蔡王叔齊は字を子粛といい、高宗の第十一子である。風采は明らかで豊か、経史に広く渉猟し、文章をよくした。太建七年、新蔡王に立てられ、まもなく智武将軍となり、佐史を置いた。東中郎将・東揚州刺史として出された。至徳二年、入朝して侍中となり、将軍・佐史はもとのままとした。禎明元年、国子祭酒を拝命し、侍中・将軍・佐史はもとのままとした。三年に関中に入った。隋の大業年間、尚書主客郎となった。

原文新蔡王叔齊字子肅,高宗第十一子也。風彩明贍,博涉經史,善屬文。太建七年,立為新蔡王,尋為智武將軍,置佐史。出為東中郎將、東揚州刺史。至德二年,入為侍中,將軍、佐史如故。禎明元年,除國子祭酒,侍中、將軍、佐史如故。三年入關。隋大業中為尚書主客郎。

晉熙王

原文晉熙王

晉熙王叔文は字を子才といい、高宗の第十二子である。性格は軽薄で険しく、虚誉を好み、書史にかなり渉猟した。太建七年、晉熙王に立てられた。まもなく侍中・散騎常侍・宣恵将軍となり、佐史を置いた。軽車将軍・揚州刺史に進号した。〔三一〕至徳元年、持節・都督江州諸軍事・江州刺史を授けられた。二年、信威将軍・督湘衡武桂四州諸軍事・湘州刺史に遷った。禎明二年、任期満了となり、侍中・宣毅将軍として召還され、佐史はもとのままとした。還らないうちに、隋軍が長江を渡り、台城を破り、隋の漢東道行軍元帥秦王が漢口に至った。時に叔文は湘州から朝廷に還る途中、巴州に至り、そこで巴州刺史畢宝らを率いて降伏を請い、秦王に書を送って言うには、「窃かに考えますに、天に二日なく、晦明の序に差違なく、土に二王なく、尊卑の位に別あり。今や車書混一し、文軌大同しております。敢えて丹款を披き、その屈膝を申し上げます」。秦王は書を得て、行軍吏部柳荘と元帥府の僚属らを巴州に派遣して叔文を迎え労った。叔文はここにおいて畢宝・荊州刺史陳紀および文武の将吏とともに漢口に赴き、秦王はともに厚く待遇し、賓館に置いた。隋の開皇九年三月、諸軍が凱旋し、文帝自ら温湯に幸して労うと、叔文は陳紀・周羅〓・荀法尚らおよび諸降人とともに、路傍で謁見した。数日後、叔文は後主および諸王侯将相ならびに乗輿・服御・天文図籍などに従い、みな順序よく行列し、なお鉄騎でこれを囲み、晋王・秦王らに従って凱歌を献じて入り、廟庭に列した。翌日、隋文帝が広陽門に坐して観ると、叔文はまた後主に従って朝堂の南に至り、文帝は内史令李徳林に命じて旨を宣し、その君臣が相い弼えることができず、喪亡を招いたことを責めた。後主とその群臣はともに慚懼して拝伏し、仰ぎ見ることができなかったが、叔文ひとり欣として自得の志があった。十六日後、上表して言うには、「昔、巴州において、すでに先だって款を送りました。この事情をご承知いただき、常例とは異なる扱いを願います」。文帝はその不忠を嫌ったが、まさに江表を懐柔しようとしていたので、開府を授け、宜州刺史に拝した。

原文晉熙王叔文字子才,高宗第十二子也。性輕險,好虛譽,頗涉書史。太建七年,立為晉熙王。尋為侍中、散騎常侍、宣惠將軍,置佐史。進號輕車將軍、揚州刺史。〔三一〕至德元年,授持節、都督江州諸軍事、江州刺史。二年,遷信威將軍、督湘衡武桂四州諸軍事、湘州刺史。禎明二年,秩滿,徵為侍中、宣毅將軍,佐史如故。未還,而隋軍濟江,破臺城,隋漢東道行軍元帥秦王至于漢口。時叔文自湘州還朝,至巴州,乃率巴州刺史畢寶等請降,致書於秦王曰:「竊以天無二日,晦明之序不差,土無二王,尊卑之位乃別。今車書混壹,文軌大同,敢披丹款,申其屈膝。」秦王得書,因遣行軍吏部柳莊與元帥府僚屬等往巴州迎勞叔文。叔文於是與畢寶、荊州刺史陳紀及文武將吏赴于漢口,秦王並厚待之,置于賓館。隋開皇九年三月,眾軍凱旋,文帝親幸溫湯勞之,叔文與陳紀、周羅〓、荀法尚等并諸降人,見于路次。數日,叔文從後主及諸王侯將相并乘輿、服御、天文圖籍等,並以次行列,仍以鐵騎圍之,隨晉王、秦王等獻凱而入,列于廟庭。明日,隋文帝坐于廣陽門觀,叔文又從後主至朝堂南,文帝使內史令李德林宣旨,責其君臣不能相弼,以致喪亡。後主與其群臣並慚懼拜伏,莫能仰視,叔文獨欣然而有自得之志。旬有六日,乃上表曰:「昔在巴州,已先送款,乞知此情,望異常例。」文帝雖嫌其不忠,而方欲懷柔江表,乃授開府,拜宜州刺史。

淮南王

原文淮南王

淮南王叔彪は字を子華といい、高宗の第十三子である。幼少より聡明で、文章をよくした。太建八年、淮南王に立てられた。まもなく侍中・仁威将軍の位に就き、佐史を置いた。禎明三年に関中に入り、長安で卒した。

原文淮南王叔彪字子華,高宗第十三子也。少聰惠,善屬文。太建八年,立為淮南王。尋位侍中、仁威將軍,置佐史。禎明三年入關,卒于長安。

始興王

原文始興王

始興王叔重は字を子厚といい、高宗(陳宣帝)の第十四子である。性質は質朴にして、技芸はなかった。高宗が崩御し、始興王叔陵が叛逆を起こして誅殺されたその年、叔重を立てて始興王とし、昭烈王(陳道譚)の後を奉祀させた。至徳元年(583)、仁威将軍・揚州刺史となり、佐史を置いた。二年、使持節・都督江州諸軍事・江州刺史を加えられた。禎明三年(589)に入関した。隋の大業年間に太府少卿となり、卒した。

原文始興王叔重字子厚,高宗第十四子也。性質朴,無伎藝。高宗崩,始興王叔陵為逆,誅死,其年立叔重為始興王,以奉昭烈王後。至德元年,為仁威將軍、揚州刺史,置佐史。二年,加使持節、都督江州諸軍事、江州刺史。禎明三年入關。隋大業中為太府少卿,卒。

尋陽王

原文尋陽王

尋陽王叔儼は字を子思といい、高宗の第十五子である。性質は凝重にして、挙止は方正であった。後主が即位すると、尋陽王に立てられた。至徳元年、侍中・仁武将軍となり、佐史を置いた。禎明三年に入関し、まもなく卒した。

原文尋陽王叔儼字子思,高宗第十五子也。性凝重,舉止方正。後主即位,立為尋陽王。至德元年,為侍中、仁武將軍,置佐史。禎明三年入關,尋卒。

岳陽王

原文岳陽王

岳陽王叔慎は字を子敬といい、高宗の第十六子である。幼少より聡明で、十歳にして文を作ることができた。太建十四年(582)、岳陽王に立てられ、時に十一歳であった。至徳四年、侍中・智武将軍・丹陽尹に拝された。この時、後主は特に文章を愛好し、叔慎は衡陽王伯信・新蔡王叔齊らと朝夕陪侍し、詔に応じて詩を賦するごとに、常に賞賛された。禎明元年、使持節・都督湘衡桂武四州諸軍事・智武将軍・湘州刺史として出向した。

原文岳陽王叔慎字子敬,高宗第十六子也。少聰敏,十歲能屬文。太建十四年,立為岳陽王,時年十一。至德四年,拜侍中、智武將軍、丹陽尹。是時,後主尤愛文章,叔慎與衡陽王伯信、新蔡王叔齊等日夕陪侍,每應詔賦詩,恆被嗟賞。禎明元年,出為使持節、都督湘衡桂武四州諸軍事、智武將軍、湘州刺史。

三年、隋軍が長江を渡り、台城を陥落させると、前任の刺史である晋熙王叔文が巴州に帰還し、巴州刺史畢宝・荊州刺史陳紀とともに降伏した。隋の行軍元帥清河公楊素の軍が荊門を下り、別にその将の龐暉に兵を率いさせて土地を攻略させ、南は湘州に至った。城内の将士は固守する意志がなく、期日を定めて降伏を請うた。叔慎はそこで酒宴を設けて文武の僚吏を集め、酒が酣になると、叔慎は嘆いて言った、「君臣の義は、ここに尽きるのか」。長史謝基は伏して涙を流し、湘州助防の遂興侯正理が座にいたが、立ち上がって言った、「主辱しめば臣死す、諸君は独り陳国の臣ではないのか。今、天下に難あり、まさに命を尽くす秋である。たとえ成就しなくとも、なお臣節を見せることができよう。青門の外で死ぬことはできない。今日の機会は、躊躇すべきではない。後に応じる者は斬る」。衆は皆承諾し、そこで犠牲を刑して盟を結んだ。なお人を遣わし、龐暉に降伏の書を奉ずると偽った。暉はこれを信じ、期日を定めて入城しようとした。叔慎は甲兵を伏せてこれを待った。暉は数百人を城門に駐屯させ、自ら左右数十人を率いて庁事に入った。やがて伏兵が起こり、暉を縛って示衆し、その徒党をことごとく捕らえて、皆斬った。叔慎は射堂に坐し、士衆を招集した。数日のうちに、兵は五千人に達した。衡陽太守樊通・武州刺史鄔居業は皆、難に赴くことを請うた。未だ到らぬうちに、隋は中牟公薛冑を湘州刺史として派遣した。龐暉の死を聞き、さらに兵を請うた。隋はまた行軍総管劉仁恩を派遣してこれを救援させた。未だ到らぬうちに、薛冑の軍は鵝羊山に駐屯した。叔慎は正理及び樊通らを派遣してこれを防がせ、大いに合戦した。朝から日暮れまで、隋軍は休み戦いを繰り返し、正理の兵は少なくて敵わず、ここにおいて大敗した。冑は勝に乗じて城に入り、叔慎を生け捕りにした。この時、鄔居業はその衆を率いて武州から赴き、横橋江に出たが、叔慎の敗戦を聞き、新康口に頓駐した。隋の総管劉仁恩の軍もまた横橋に到着し、水際に拠って陣営を置き、二晩相持した後、合戦し、居業はまた敗れた。仁恩は叔慎・正理・居業及びその徒党十余人を捕虜とし、秦王(楊俊)が漢口でこれを斬った。叔慎は時に十八歳であった。

原文三年,隋師濟江,破臺城,前刺史晉熙王叔文還至巴州,與巴州刺史畢寶、荊州刺史陳紀並降。隋行軍元帥清河公楊素兵下荊門,別遣其將龐暉將兵略地,南至湘州,城內將士,莫有固志,克日請降。叔慎乃置酒會文武僚吏,酒酣,叔慎歎曰「君臣之義,盡於此乎!」長史謝基伏而流涕,湘州助防遂興侯正理在坐,乃起曰:「主辱臣死,諸君獨非陳國之臣乎?今天下有難,實是致命之秋也。縱其無成,猶見臣節,青門之外,有死不能。今日之機,不可猶豫,後應者斬。」眾咸許諾,乃刑牲結盟。仍遣人詐奉降書於龐暉,暉信之,克期而入,叔慎伏甲待之。暉令數百人屯于城門,自將左右數十人入于廳事,俄而伏兵發,縛暉以徇,盡擒其黨,皆斬之。叔慎坐于射堂,招合士眾,數日之中,兵至五千人。衡陽太守樊通、武州刺史鄔居業,皆請赴難。未至,隋遣中牟公薛冑為湘州刺史,聞龐暉死,乃益請兵,隋又遣行軍總管劉仁恩救之。未至,薛冑兵次鵝羊山,叔慎遣正理及樊通等拒之,因大合戰,自旦至于日昃,隋軍迭息迭戰,而正理兵少不敵,於是大敗。冑乘勝入城,生擒叔慎。是時,鄔居業率其眾自武州來赴,出橫橋江,聞叔慎敗績,乃頓于新康口。隋總管劉仁恩兵亦至橫橋,據水置營,相持信宿,因合戰,居業又敗。仁恩虜叔慎、正理、居業及其黨與十餘人,秦王斬之于漢口。叔慎時年十八。

義陽王叔達は字を子聰といい、高宗の第十七子である。太建十四年、義陽王に立てられ、まもなく仁武将軍に拝され、佐史を置いた。禎明元年、丹陽尹に除された。三年に入関した。隋の大業年間に内史となり、絳郡通守に至った。

原文義陽王叔達字子聰,高宗第十七子也。太建十四年,立為義陽王,尋拜仁武將軍,置佐史。禎明元年,除丹陽尹。三年入關。隋大業中為內史,至絳郡通守。

巴山王叔雄は字を子猛といい、高宗の第十八子である。太建十四年、巴山王に立てられた。禎明三年に入関し、長安で卒した。

原文巴山王叔雄字子猛,高宗第十八子也。太建十四年,立為巴山王。禎明三年入關,卒于長安。

武昌王叔虞は字を子安といい、高宗の第十九子である。太建十四年、武昌王に立てられ、まもなく壮武将軍となり、佐史を置いた。禎明三年に入関した。隋の大業年間に高苑令となった。

原文武昌王叔虞字子安,高宗第十九子也。太建十四年,立為武昌王,尋為壯武將軍,置佐史。禎明三年入關。隋大業中為高苑令。

湘東王叔平は字を子康といい、高宗の第二十子である。至徳元年、湘東王に立てられた。禎明三年に入関した。隋の大業年間に湖蘇令となった。

原文湘東王叔平字子康,高宗第二十子也。至德元年,立為湘東王。禎明三年入關。隋大業中為湖蘇令。

臨賀王叔敖は字を子仁といい、高宗の第二十一子である。至徳元年、臨賀王に立てられ、まもなく仁武将軍となり、佐史を置いた。禎明三年に入関した。隋の大業初年に儀同三司に拝された。

原文臨賀王叔敖字子仁,高宗第二十一子也。至德元年,立為臨賀王,尋為仁武將軍,置佐史。禎明三年入關。隋大業初拜儀同三司。

陽山王叔宣は字を子通といい、高宗の第二十二子である。至徳元年、陽山王に立てられた。禎明三年に入関した。隋の大業年間に涇城令となった。

原文陽山王叔宣字子通,高宗第二十二子也。至德元年,立為陽山王。禎明三年入關。隋大業中為涇城令。

西陽王叔穆は字を子和といい、高宗の第二十三子である。至徳元年、西陽王に立てられた。禎明三年に入関し、長安で卒した。

原文西陽王叔穆字子和,高宗第二十三子也。至德元年,立為西陽王。禎明三年入關,卒于長安。

南安王叔儉は字を子約といい、高宗の第二十四子である。至徳元年、南安王に立てられた。禎明三年に入関し、長安で卒した。

原文南安王叔儉字子約,高宗第二十四子也。至德元年,立為南安王。禎明三年入關,卒于長安。

南郡王叔澄は字を子泉といい、高宗の第二十五子である。至徳元年、南郡王に立てられた。禎明三年に入関した。隋の大業年間に霊武令となった。

原文南郡王叔澄字子泉,高宗第二十五子也。至德元年,立為南郡王。禎明三年入關。隋大業中為靈武令。

沅陵王叔興は字を子推といい、高宗の第二十六子である。至徳元年に沅陵王に立てられた。禎明三年に関中に入る。隋の大業年間に給事郎となった。

原文沅陵王叔興字子推,高宗第二十六子也。至德元年,立為沅陵王。禎明三年入關。隋大業中為給事郎。

岳山王叔韶は字を子欽といい、高宗の第二十七子である。至徳元年に岳山王に立てられ、まもなく智武将軍となり、佐史を置いた。四年に丹陽尹を拝命した。禎明三年に関中に入り、長安で卒した。

原文岳山王叔韶字子欽,高宗第二十七子也。至德元年,立為岳山王,尋為智武將軍,置佐史。四年,除丹陽尹。禎明三年入關,卒于長安。

新興王叔純は字を子共といい、高宗の第二十八子である。至徳元年に新興王に立てられた。禎明三年に関中に入る。隋の大業年間に河北令となった。

原文新興王叔純字子共,〔三二〕高宗第二十八子也。至德元年,立為新興王。禎明三年入關。隋大業中為河北令。

巴東王叔謨は字を子軌といい、高宗の第二十九子である。至徳四年に巴東王に立てられた。禎明三年に関中に入る。隋の大業年間に岍陽令となった。

原文巴東王叔謨字子軌,〔三三〕高宗第二十九子也。至德四年,立為巴東王。禎明三年入關。隋大業中為岍陽令。

臨江王叔顯は字を子明といい、高宗の第三十子である。至徳四年に臨江王に立てられた。禎明三年に関中に入る。隋の大業年間に鶉觚令となった。

原文臨江王叔顯字子明,〔三四〕高宗第三十子也。至德四年,立為臨江王。禎明三年入關。隋大業中為鶉觚令。

新會王叔坦は字を子開といい、高宗の第三十一子である。至徳四年に新會王に立てられた。禎明三年に関中に入る。隋の大業年間に涉令となった。

原文新會王叔坦字子開,高宗第三十一子也。至德四年,立為新會王。禎明三年入關。隋大業中為涉令。

新寧王叔隆は字を子遠といい、高宗の第三十二子である。至徳四年に新寧王に立てられた。禎明三年に関中に入り、長安で卒した。

原文新寧王叔隆字子遠,高宗第三十二子也。至德四年,立為新寧王。禎明三年入關,卒于長安。

新昌王叔榮は字を子徹といい、高宗の第三十三子である。禎明二年に新昌王に立てられた。三年に関中に入る。隋の大業年間に内黄令となった。

原文新昌王叔榮字子徹,高宗第三十三子也。禎明二年,立為新昌王。三年入關。隋大業中為內黃令。

太原王叔匡は字を子佐といい、高宗の第三十四子である。禎明二年に太原王に立てられた。三年に関中に入る。隋の大業年間に寿光令となった。

原文太原王叔匡字子佐,高宗第三十四子也。禎明二年,立為太原王。三年入關。隋大業中為壽光令。

後主の諸子

原文後主諸子

後主に男子二十二人あり。張貴妃は皇太子深と會稽王莊を生み、孫姫は呉興王胤を生み、高昭儀は南平王嶷を生み、呂淑媛は永嘉王彥と邵陵王兢を生み、龔貴嬪は南海王虔と錢塘王恬を生み、張淑華は信義王祗を生み、徐淑儀は東陽王恮を生み、孔貴人は呉郡王蕃を生んだ。その皇子総・観・明・綱・統・沖・洽・縚・綽・威・辯の十一人は、いまだ封を受けずに終わった。

原文後主二十二男:張貴妃生皇太子深、會稽王莊,孫姬生吳興王胤,高昭儀生南平王嶷,呂淑媛生永嘉王彥、邵陵王兢,龔貴嬪生南海王虔、錢塘王恬,張淑華生信義王祗,徐淑儀生東陽王恮,孔貴人生吳郡王蕃。其皇子總、觀、明、綱、統、沖、洽、縚、綽、威、辯十一人,並未及封。

皇太子

原文皇太子

皇太子深は字を承源といい、後主の第四子である。幼少より聡明で、志操があり、容止は厳然として、左右の近侍といえども、その喜怒を見たことがなかった。母の張貴妃の故により、特に後主に愛された。至徳元年に始安王に封ぜられ、邑二千戸を賜う。まもなく軍師将軍・揚州刺史となり、佐史を置いた。禎明二年、皇太子胤が廃されると、後主は深を皇太子に立てた。三年、隋軍が長江を渡り、六軍は敗北し、隋将韓擒虎が南掖門より入城すると、百官は逃散した。深は時に十余歳、閤を閉じて坐し、舎人孔伯魚が侍っていた。隋軍が閤を押し開けて入ると、深は命じてこれを労うよう宣させて言うには、「軍旅途上にあり、労多くあろう」と。軍人は皆これを敬った。その年に関中に入る。隋の大業年間に枹罕ふかん太守となった。

原文皇太子深字承源,後主第四子也。少聰惠,有志操,容止儼然,雖左右近侍,未嘗見其喜慍。以母張貴妃故,特為後主所愛。至德元年,封始安王,邑二千戶。尋為軍師將軍、揚州刺史,置佐史。禎明二年,皇太子胤廢,後主乃立深為皇太子。三年,隋師濟江,六軍敗績,隋將韓擒虎自南掖門入,百僚逃散。深時年十餘歲,閉閤而坐,舍人孔伯魚侍焉,隋軍排閤而入,深使宣令勞之曰「軍旅在途,不乃勞也」?軍人咸敬焉。其年入關。隋大業中為枹罕太守。

呉興王

原文吳興王

呉興王胤は字を承業といい、後主の長子である。太建五年二月乙丑に東宮で生まれた。母の孫姫は出産により卒し、沈皇后が哀れんでこれを養い、己が子とした。時に後主は年長であったが、まだ嗣子がなく、高宗は命じて嫡孫とさせ、その日に詔を下して言うには、「皇孫初めて誕生し、国祚まさに盛んなり。群臣とともにこの慶びを分かちたい。内外の文武官には帛を賜い各差あり、父の後を継ぐ者には爵一級を賜う」と。十年に永康公に封ぜられた。後主が即位すると、皇太子に立てられた。胤は性質聡敏で学問を好み、経書を執り学業に励み、終日倦むことがなく、広く大義に通じ、また文章をよくした。至徳三年、みずから太学に出て孝経を講じ、講義を終えると、また先聖先師に釈奠を行った。その日、太学に金石の楽を設け、王公卿士および太学生ともに宴に預かった。この時、張貴妃・孔貴嬪ともに寵愛を受け、沈皇后は寵がなく、近侍の左右がしばしば東宮に往来し、太子もまたしばしば人を后のもとに遣わしたので、後主はその怨望を疑い、甚だこれを憎んだ。そして張・孔の二貴妃は日夜、后と太子の短所をでっち上げ、孔範の徒は外でこれに加担した。禎明二年、呉興王に廃され、そのまま侍中・中衛将軍を加えられた。三年に関中に入り、長安で卒した。

原文吳興王胤字承業,後主長子也。太建五年二月乙丑生于東宮,母孫姬因產卒,沈皇后哀而養之,以為己子。時後主年長,未有胤嗣,高宗因命以為嫡孫,其日下詔曰:「皇孫初誕,國祚方熙,思與群臣,共同斯慶,內外文武賜帛各有差,為父後者賜爵一級。」十年,封為永康公。後主即位,立為皇太子。胤性聰敏,好學,執經肄業,終日不倦,博通大義,兼善屬文。至德三年,躬出太學講孝經,講畢,又釋奠於先聖先師。其日設金石之樂於太學,王公卿士及太學生並預宴。是時張貴妃、孔貴嬪並愛幸,沈皇后無寵,而近侍左右數於東宮往來,太子亦數使人至后所,後主疑其怨望,甚惡之。而張、孔二貴妃又日夜構成后及太子之短,孔範之徒又於外合成其事,禎明二年,廢為吳興王,仍加侍中、中衛將軍。三年入關,卒于長安。

南平王

原文南平王

南平王陳嶷は字を承嶽といい、後主の第二子である。方正にして器局あり、数歳の時より、風采挙動は成人の如きものがあった。至徳元年(583年)、南平王に立てられる。まもなく信武将軍・南琅邪彭城二郡太守に任じられ、佐史を置く。揚州刺史に遷り、鎮南将軍に進号する。まもなく使持節・都督郢荊湘三州諸軍事・征西将軍・郢州刺史となる。赴任せずして隋軍が長江を渡る。禎明三年(589年)に関中に入り、長安にて卒す。

原文南平王嶷字承嶽,後主第二子也。方正有器局,年數歲,風采舉動,有若成人。至德元年,立為南平王。尋除信武將軍、南琅邪彭城二郡太守,置佐史。遷揚州刺史,進號鎮南將軍。尋為使持節、都督郢荊湘三州諸軍事、征西將軍、郢州刺史。未行而隋軍濟江。禎明三年入關,卒于長安。

永嘉王

原文永嘉王

永嘉王陳彦は字を承懿といい、後主の第三子である。至徳元年(583年)、永嘉王に立てられる。まもなく忠武将軍・南徐州刺史となり、安南将軍に進号する。散騎常侍・使持節・都督江巴東衡三州諸軍事・平南将軍・江州刺史を授かる。赴任せずして隋師が長江を渡る。禎明三年(589年)に関中に入る。隋の大業年間に襄武県令となる。

原文永嘉王彥字承懿,後主第三子也。至德元年,立為永嘉王。尋為忠武將軍,南徐州刺史,進號安南將軍。〔三五〕授散騎常侍、使持節、都督江巴東衡三州諸軍事、平南將軍、江州刺史。〔三六〕未行,隋師濟江。禎明三年入關。隋大業中為襄武令。

南海王

原文南海王

南海王陳虔は字を承恪といい、後主の第五子である。至徳元年(583年)、南海王に立てられる。まもなく武毅将軍となり、佐史を置き、軍師将軍に進号する。禎明二年(588年)、平北将軍・南徐州刺史として出る。三年(589年)に関中に入る。隋の大業年間に涿県令となる。

原文南海王虔字承恪,後主第五子也。至德元年,立為南海王。尋為武毅將軍,置佐史,進號軍師將軍。禎明二年,出為平北將軍、南徐州刺史。〔三七〕三年入關。隋大業中為涿令。

信義王

原文信義王

信義王陳祗は字を承敬といい、後主の第六子である。至徳元年(583年)、信義王に立てられる。まもなく壮武将軍となり、佐史を置く。使持節・都督・智武将軍・琅邪彭城二郡太守を授かる。禎明三年(589年)に関中に入る。隋の大業年間に通議郎となる。

原文信義王祗字承敬,後主第六子也。至德元年,立為信義王。尋為壯武將軍,置佐史。授使持節、都督、智武將軍、琅邪彭城二郡太守。禎明三年入關。隋大業中為通議郎。

邵陵王

原文邵陵王

邵陵王陳兢は字を承檢といい、後主の第七子である。禎明元年(587年)、邵陵王に立てられ、邑一千戸を賜う。まもなく仁武将軍となり、佐史を置く。三年(589年)に関中に入る。隋の大業年間に国子監丞となる。

原文邵陵王兢字承檢,後主第七子也。禎明元年,立為邵陵王,邑一千戶。尋為仁武將軍,置佐史。三年入關。隋大業中為國子監丞。

会稽王

原文會稽王

会稽王陳荘は字を承粛といい、後主の第八子である。容貌は蕞陋(みにくく醜い)にして、性質は厳酷、数歳にして、左右の者が意にかなわぬことがあると、すなわちその面を剟刺(突き刺)し、あるいは焼爇(焼き焦が)すことを加えた。母の張貴妃が寵愛を受けたため、後主は甚だこれを愛した。至徳四年(586年)、会稽王に立てられる。まもなく翊前将軍となり、佐史を置く。使持節・都督揚州諸軍事・揚州刺史に任じられる。禎明三年(589年)に関中に入る。隋の大業年間に昌隆県令となる。

原文會稽王莊字承肅,後主第八子也。容貌蕞陋,性嚴酷,數歲,左右有不如意,輒剟刺其面,或加燒爇。以母張貴妃有寵,後主甚愛之。至德四年,立為會稽王。尋為翊前將軍,置佐史。除使持節、都督揚州諸軍事、揚州刺史。禎明三年入關。隋大業中為昌〔隆〕令。〔三八〕

東陽王

原文東陽王

東陽王陳恮は字を承厚といい、後主の第九子である。禎明二年(588年)、東陽王に立てられ、邑一千戸を賜う。拝命せず、三年(589年)に関中に入る。隋の大業年間に通議郎となる。

原文東陽王恮字承厚,後主第九子也。禎明二年,立為東陽王,邑一千戶。未拜,三年入關。隋大業中為通議郎。

呉郡王

原文吳郡王

吳郡王の蕃は字を承廣といい、後主の第十子である。禎明二年に吳郡王に封ぜられた。三年に関中に入る。隋の大業年間に涪城令となった。

原文吳郡王蕃字承廣,後主第十子也。禎明二年,封吳郡王。三年入關。隋大業中為涪城令。

錢塘王

原文錢塘王

錢塘王の恬は字を承惔といい、後主の第十一子である。禎明二年に錢塘王に立てられ、邑一千戸を賜う。三年に関中に入り、長安において卒した。

原文錢塘王恬字承惔,後主第十一子也。禎明二年,立為錢塘王,邑一千戶。三年入關,卒于長安。

江左では西晉より相承し、諸王が国を開くに当たり、皆戸数を以て差等を設け、大小三品とした。大国は上・中・下の三将軍を置き、また司馬一人を置く。次国は中・下の二将軍を置く。小国は将軍一人を置く。その他の官も亦、此れを準拠として差等を設けた。高祖が天命を受けてより、永定より禎明に至るまで、唯だ衡陽王の昌のみは特に殊寵を加えられ、五千戸に至った。その余の大国は二千戸を過ぎず、小国は即ち千戸であった。然るに旧史は残欠し、別に其の国の戸数を知ることができぬ故、其の遺事を綴りて此れに附す。

原文江左自西晉相承,諸王開國,並以戶數相差為大小三品。大國置上、中、下三將軍,又置司馬一人;次國置中、下二將軍;小國置將軍一人。餘官亦准此為差。高祖受命,自永定訖于禎明,唯衡陽王昌特加殊寵,至五千戶。自餘大國不過二千戶,小國即千戶。而舊史殘缺,不能別知其國戶數,故綴其遺事附于此。

【史論】

原文【史論】

史臣曰く、世祖・高宗・後主は並びに藩屏を建て、以て懿親を樹て、固く乃ち本根とし、斯の盤石を隆くせり。鄱陽王の伯山は風采徳器有り、亦た一代の令藩たり。岳陽王の叔慎は社稷の傾危に属し、情家国を哀しみ、誠を竭くして敵に赴き、志に生を図らざりき。嗚呼、古の忠烈致命するは、斯れ之を謂うなり。

原文史臣曰:世祖、高宗、後主並建藩屏,以樹懿親,固乃本根,隆斯盤石。鄱陽王伯山有風采德器,亦一代令藩矣。岳陽王叔慎屬社稷傾危,情哀家國,竭誠赴敵,志不圖生。嗚呼!古之忠烈致命,斯之謂也。