巻二十八 列伝第二十二 世祖九王 高宗二十九王 後主諸子

陳書

巻二十八 列伝第二十二 世祖九王 高宗二十九王 後主 こうしゅ 諸子

世祖九王

世祖に十三人の男子あり。沈皇后は 廃帝 はいてい と始興王伯茂を生み、厳淑媛は鄱陽王伯山と しん 安王伯恭を生み、潘容華は新安王伯固を生み、劉昭華は衡陽王伯信を生み、王充華は廬陵王伯仁を生み、張脩容は江夏王伯義を生み、韓脩華は武陵王伯禮を生み、江貴妃は永陽王伯智を生み、孔貴妃は桂陽王伯謀を生む。その伯固は逆を犯したため別に伝がある。二男は早く卒し、本書に名はない。

始興王

始興王伯茂、 あざな は鬱之、世祖の第二子なり。初め、 高祖 こうそ の兄始興昭烈王道談は梁の世に仕え、東宮直閤將軍となり、 侯景 こうけい の乱に際し、弩手二千を率いて臺を援け、城中にて流れ矢に中り卒す。(紹泰)〔太平〕二年、侍中・使持節・ 都督 ととく 南兗州諸軍事・南兗州 刺史 しし を追贈され、(義興郡公)〔長城縣公〕に封ぜられ、〔一〕諡して昭烈と曰う。高祖の受禅に際し、重ねて驃騎大將軍・太傅・〔二〕揚州牧を贈られ、始興郡王に改封され、邑二千戸を賜う。王は世祖及び高宗を生む。高宗は梁の承聖末に関右に遷り、この時に至り高祖は遥かに高宗をして始興嗣王を襲封せしめ、以て昭烈王の祀を奉ぜしむ。永定三年六月、高祖崩御、この月世祖帝位に入り継ぐ。時に高宗は周に在りて未だ還らず、世祖は本宗の饗けがたきを以て、その年十月 みことのり を下して曰く、「日にちに皇基肇建し、枝戚を封樹す。朕親地の攸在するに、特に大邦を啓く。弟頊門祀を嗣承すと雖も、土宇開建するも、薦饗するに由なし。重ねて家に遭うこと造らず、閔凶夙に遘い、儲貳遐く隔たり、〓車未だ返らず。猥りに眇身を以て、茲の景命に膺り、式に龜鼎を循い、冰谷に載懐す。今既に大宗に入り奉り、事藩祼を絶つ。始興國廟蒸嘗主無く、言を瞻み霜露し、感尋して慟絶す。その嗣王頊を徙封して安成王と為し、第二子伯茂を始興王に封じ、以て昭烈王の祀を奉ぜしむ。天下に父後に為る者に爵一級を賜う。庶くは罔極の情を申べ、永く山河の祚を保たんことを。」と。

旧制、諸王封を受くるも、未だ戎号を加えざる者は、佐史を置かず。ここにおいて 尚書 しょうしょ 八座奏して曰く、「夫れ徽号を増崇し、車服を飾表するは、以て其の徳を闡彰し、下民の望を変ずる所以なり。第二皇子新たに除せられたる始興王伯茂は、体自ら尊極にし、神姿明穎、玉は戮辰に映じ、蘭は綺歳に芬く。清暉美譽、日に茂り月に昇り、道は平・河に鬱し、声は袞・植を超ゆ。皇情追感し、聖性天深く、本宗の闕緒を以て、藩嗣を纂承す。珪社は是れ膺るも、戎章未だ襲わず。豈に以て睿哲を光崇し、皇枝を寵樹する所以ならんや。臣等参議す、宜しく寧遠將軍を加え、佐史を置くべし。」と。詔して「可」と曰う。尋いで使持節・ 都督 ととく 南琅邪彭城二郡諸軍事・彭城太守を除す。天嘉二年、宣惠將軍・揚州刺史に進号す。

伯茂は性聰敏にして、学を好み、謙恭に下士し、また太子の母弟たるを以て、世祖深く愛重す。是の時、征北軍人が丹徒にて しん の郗曇の墓を盗発し、 しん の右將軍王羲之の書及び諸名賢の遺跡を大いに獲る。事覚え、その書は並びに縣官に没収され、祕府に蔵す。世祖は伯茂の古を好むを以て、多く以て之を賜う。ここにより伯茂は大いに草隸に工なり、甚だ右軍の法を得たり。三年、鎮東將軍・開府儀同三司・東揚州刺史を除す。

廃帝即位の時、伯茂は都に在り、劉師知等が詔を矯りて高宗を出だすに、伯茂これを勧めて成さしむ。師知等誅されたる後、高宗は伯茂の朝廷を扇動するを恐れ、光大元年、乃ち中衛將軍に進号し、禁中に入居せしめ、専ら廃帝と遊処せしむ。是の時、四海の望、咸く高宗に帰す。伯茂深く平らかならず、日夕憤怨し、数え悪言を肆にす。高宗は其の無能を以て、意と為さず。建安の人蔣裕と韓子高等の謀反するに及び、伯茂並びに陰にその事に預る。二年十一月、皇太后、令して廃帝を黜して臨海王と為す。その日また令を下して曰く、「伯茂軽薄、爰に弱齢よりし、厳訓に辜負し、弥に凶狡を肆にす。常に次居介弟を以て、宜しく国権を秉ずべしとし、年徳を涯せず、逾に狂躁を逞うし、禍乱を図り、宮闈を扇動し、麤險を要招し、臺閣に觖望す。嗣君道を喪い、此より乱階をなす。是の諸凶徳、咸く謀主と作る。允に宜しく彼の司甸を罄し、此の剭人を刑すべし。皇支を言念し、尚ほ悲懣を懐う。特に降して溫麻侯と為し、宜しく禁止を加え、別に就第を遣わすべし。此の如きあるを意せず、言泫歎を増す。」と。時に六門の外に別館あり、諸王の冠婚の所と為し、婚第と名づく。ここに至り伯茂をして出居せしむ。路に於いて盗に遇い、車中に殞る。時に年十八。

鄱陽王

鄱陽王伯山、字は靜之、世祖の第三子なり。容儀偉く、挙止閑雅、喜慍色に形らず、世祖深く之を器とす。初め高祖の時、天下草創、諸王の封を受くる儀注多く闕く。伯山の封を受くるに及び、世祖その事を重んぜんと欲し、天嘉元年七月丙辰、尚書八座奏して曰く、「臣聞く、本枝惟允なれば、宗周の業以て弘く、盤石既に建てば、皇漢の基斯に遠し。故に能く五運を協宣し、百王を規範し、式に霊根を固くし、卜世を克隆す。第三皇子伯山は、睿徳を齠年に発し、歧姿を丱日に表し、丹掖に光昭し、青闈に暉映す。而るに玉圭未だ秉せず、金錫靡く駕せず。豈に以て維翰を敦序し、藩戚を建樹する所以ならんや。臣等参議す、宜しく鄱陽郡王に封ずべし。」と。詔して「可」と曰う。乃ち 散騎常侍 さんきじょうじ ・度支尚書蕭睿を持節兼太宰と為し、太廟に告げしむ。又た五兵尚書王質を持節兼太宰と為し、太社に告げしむ。その年十月、上臨軒して策命して曰く、「於戲、夫れ藩屏を建樹し、王室を翼獎するは、前典を欽若し、咸く必ず之に由る。惟れ爾夙に珪璋を挺で、生まれながら孝敬を知り、〔三〕令徳茂親、僉譽の集まる所、大邦を啓建するは、寔に倫序に惟る。是を用いて民瞻を敬遵し、此の圭瑞を錫う。往け欽哉、其れ声業を勉め樹て、永く宗社を保て。慎まざるべけんや。」と。策訖り、王公已下を勅令して並びに王第に醼せしむ。仍って東中郎将・呉郡太守を授く。六年、縁江 都督 ととく ・平北將軍・南徐州刺史と為る。天康元年、鎮北將軍に進号す。

高宗輔政し、伯山を辺に処せしむるを欲せず、光大元年、徙めて鎮東將軍・東揚州刺史と為す。太建元年、徴されて中衛將軍・中領軍と為る。六年、又た征北將軍・南徐州刺史と為る。尋いで征南將軍・江州刺史と為る。十一年、入りて護軍將軍と為り、開府儀同三司を加えられ、〔四〕仍って鼓吹 へい びに扶を与えらる。後主即位、中権大將軍に進号す。至徳四年、出でて持節・ 都督 ととく 東揚豊二州諸軍事・東揚州刺史と為り、侍中を加えられ、余は並びに如し。禎明元年、生母の憂いに遭い、職を去る。明年、起きて鎮衛大將軍・〔五〕開府儀同三司と為り、班剣十人を与えらる。三年正月 こう ず。時に年四十。

伯山は性質寛厚にして、風儀美しく、また諸王の中で最も年長であったので、後主は深く敬重し、朝廷に冠婚饗宴の事ある毎に、常に伯山をして主たらしめた。及びび生母の憂いに遭い、喪に服して孝行をもって聞こえた。後主が嘗て吏部尚書蔡徵の宅に幸し、因りて往きて弔問した時、伯山は慟哭して殆ど絶えんばかりであった。因って鎮衛将軍に起用され、なお群臣に謂って曰く、「鄱陽王は至性嘉すべきものあり、また西第の長なり。 章王は既に 司空 しくう を兼ねたるが、彼も亦 太尉 たいい に遷すべきなり」と。未だ詔を発せざるに伯山薨じ、間もなく陳の滅亡に遭い、遂に贈諡無し。

長子君範は、太建年中に鄱陽国世子に拝され、間もなく貞威将軍・ しん 陵太守となったが、未だ爵を襲わざるに隋師至る。是の時、宗室王侯都に在る者百余り、後主は其の変を為すを恐れ、乃ち併せて召し入れ、朝堂に屯せしめ、 章王叔英をして之を総督せしめ、而して又陰に之が備えを為す。及び六軍敗績し、相率いて出でて降り、因りて後主に従い関中に入る。長安に至り、隋 文帝 ぶんてい は併せて隴右及び河西諸州に配し、各々田業を与えて以て之を処す。初め、君範は尚書 僕射 ぼくや 江総と友善し、是に至り総は君範に書を贈り五言詩を以て他郷離別の意を叙し、辞甚だ酸切なり、当世の文士咸く之を諷誦す。大業二年、隋煬帝は後主の第六女女婤を貴人と為し、絶えて愛幸し、因りて陳氏の子弟を召し尽く京師に還し、才に随い叙用す。是に由りて併せて守宰と為り、天下に遍く在り。其の年君範は温県令と為る。

晋安王

晋安王伯恭は字を肅之と云い、世祖の第六子なり。天嘉六年、立たれて晋安王と為る。間もなく平東将軍・呉郡太守となり、佐史を置く。時に伯恭年十余歳にして、便ち政事に留心し、官曹治む。太建元年、入りて安前将軍・中護軍と為り、中領軍に遷る。間もなく中衛将軍・揚州刺史と為り、公事に坐して免ぜらる。四年、起きて安左将軍と為り、間もなく鎮右将軍・特進となり、扶を与えらる。六年、出でて安南将軍・南 州刺史と為る。九年、入りて安前将軍・祠部尚書と為る。十一年、軍号を進めて軍師将軍・尚書右僕射と為る。十二年、僕射に遷る。十三年、左僕射に遷り、十四年、出でて安南将軍・湘州刺史と為るも、拝せず。至徳元年、侍中・中衛将軍・光禄大夫と為り、生母の憂いに遭い、職を去る。禎明元年、起きて中衛将軍・右光禄大夫と為り、佐史・扶を置くこと並びに旧の如し。三年、関中に入る。隋の大業初め、成州刺史・太常卿と為る。

衡陽王

衡陽王伯信は字を孚之と云い、世祖の第七子なり。天嘉元年、衡陽献王昌周より還朝するも、道に於いて薨ず。其の年世祖伯信を立てて衡陽王と為し、献王の祀を奉ぜしむ。間もなく宣恵将軍・丹陽尹と為り、佐史を置く。太建四年、中護軍と為る。六年、宣毅将軍・揚州刺史と為る。間もなく侍中・ 散騎常侍 さんきじょうじ を加えらる。十一年、軍号を進めて鎮前将軍・太子詹事と為り、余は並びに旧の如し。禎明元年、出でて鎮南将軍・西衡州刺史と為る。三年、隋軍江を渡り、臨汝侯方慶と並びて東衡州刺史王勇に害せらる。事は方慶伝に在り。

廬陵王

廬陵王伯仁は字を壽之と云い、世祖の第八子なり。天嘉六年、立たれて廬陵王と為る。太建初め、軽車将軍と為り、佐史を置く。七年、冠軍将軍・中領軍に遷る。間もなく平北将軍・南徐州刺史と為る。十二年、翊左将軍・中領軍と為る。禎明元年、侍中・国子祭酒を加えられ、太子中庶子を領す。三年、関中に入り、長安に於いて卒す。

長子番は、先に湘濱侯に封ぜられ、隋の大業年中、資陽令と為る。

江夏王

江夏王伯義は字を堅之と云い、世祖の第九子なり。天嘉六年、立たれて江夏王と為る。太建初め、宣恵将軍・東揚州刺史と為り、佐史を置く。間もなく宣毅将軍・持節・ 散騎常侍 さんきじょうじ 都督 ととく 合霍二州諸軍事・合州刺史と為る。十四年、徴されて侍中・忠武将軍・金紫光禄大夫と為る。禎明三年、関中に入り、瓜州に遷され、道に於いて卒す。

長子元基は、先に湘潭侯に封ぜられ、隋の大業年中、穀熟県令と為る。

武陵王

武陵王伯礼は字を用之と云い、世祖の第十子なり。天嘉六年、立たれて武陵王と為る。太建初め、雲旗将軍・持節・ 都督 ととく 呉興諸軍事・呉興太守と為る。郡に在りて恣に暴掠を行い、民下を駆り録し、財貨を逼奪し、前後委積し、百姓之を患う。太建九年、有司に劾せらる。上曰く、王は年少にして未だ治道に達せず、皆佐史の匡弼を能わざるに由る所なりと。特に関号を降し、後若し更に犯せば、必ず之を法に致すべし、有司言わざれば同じく罪とす、と。十一年春、代えられて徴還せらるるも、伯礼遂に遷延して発たず。其の年十月、 散騎常侍 さんきじょうじ ・御史中丞徐君敷奏して曰く、「臣聞く、車屨俟たずは君命の通規、夙夜懈まずは臣子の恒節なりと。謹みて案ずるに、雲旗将軍・持節・ 都督 ととく 呉興諸軍事・呉興太守武陵王伯礼は、早く英猷を擅にし、久しく令問を馳せ、惟良の寄重く、枌郷是に属す。聖上は黔黎を愛育し、政本に留情し、共に化を求め瘼を恤み、早く皇心に赴くべし。遂に復た帰驂を稽緩し、叙燠を取って移り、去鷁を遅回し、空しく載路を淹る。淑慎未だ彰れず、違惰斯に在り。愆を繩し跡を検し、以て懲誡と為す。臣等参議して以て見事に依り伯礼の居む官を免し、王を以て第に還らしむ。謹みて白簡を以て奏聞す」と。詔して曰く「可なり」と。禎明三年、関中に入る。隋の大業年中、散騎侍郎・臨洮太守と為る。

永陽王

永陽王伯智は策之と字し、世祖(陳文帝)の第十二子である。若い頃から篤実で、度量があり、経史に広く通じた。太建年間に永陽王に立てられた。まもなく侍中となり、明威将軍を加えられ、佐史を置いた。まもなく 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられ、累進して尚書左僕射となった。出仕して使持節・ 都督 ととく 東揚豊二州諸軍事・平東将軍となり、会稽内史を兼任した。至徳二年、入朝して侍中・翊左将軍となり、特進を加えられた。禎明三年に関中に入った。隋の大業年間、岐州司馬となり、国子司業に転じた。

桂陽王

桂陽王伯謀は深之と字し、世祖の第十三子である。太建年間に桂陽王に立てられた。七年、明威将軍となり、佐史を置いた。まもなく信威将軍・丹陽尹となった。十年、侍中を加えられた。出仕して持節・ 都督 ととく 呉興諸軍事・東中郎将・呉興太守となった。十一年、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。至徳元年に 薨去 こうきょ した。

子の酆が後を嗣ぎ、大業年間に番禾県令となった。

高宗二十九王

高宗に四十二人の男子があった。柳皇后は後主を生み、彭貴人は始興王叔陵を生み、曹淑華は 章王叔英を生み、何淑儀は長沙王叔堅と宜都王叔明を生み、魏昭容は建安王叔卿を生み、銭貴妃は河東王叔献を生み、劉昭儀は新蔡王叔斉を生み、袁昭容は晋熙王叔文と義陽王叔達と新会王叔坦を生み、王姫は淮南王叔彪と巴山王叔雄を生み、呉姫は始興王叔重を生み、徐姫は尋陽王叔儼を生み、淳于姫は岳陽王叔慎を生み、王脩華は武昌王叔虞を生み、韋脩容は湘東王叔平を生み、施姫は臨賀王叔敖と沅陵王叔興を生み、曾姫は陽山王叔宣を生み、楊姫は西陽王叔穆を生み、申婕妤は南安王叔儉と南郡王叔澄と岳山王叔韶と太原王叔匡を生み、袁姫は新興王叔純を生み、呉姫は巴東王叔謨を生み、劉姫は臨江王叔顕を生み、秦姫は新寧王叔隆と新昌王叔栄を生んだ。その皇子叔叡・叔忠・叔弘・叔毅・叔訓・叔武・叔処・叔封ら八人は、いずれも封を受けるに及ばなかった。叔陵は逆を犯したので、別に伝がある。三人の子は早世し、本書に名はない。

章王

章王叔英は子烈と字し、高宗の第三子である。若い頃から寛厚で仁愛があった。天嘉元年、建安侯に封ぜられた。太建元年、 章王に改封され、引き続き宣恵将軍・ 都督 ととく 東揚州諸軍事・東揚州刺史となった。五年、平北将軍・南 州刺史に進号した。十一年、鎮前将軍・江州刺史となった。後主が即位すると、征南将軍に進号し、まもなく開府儀同三司・中衛大将軍を加えられ、その他の官職はもとのままだった。四年、驃騎大将軍に進号した。禎明元年、鼓吹一部と班剣十人を与えられた。その年、 司空 しくう に転じた。三年、隋軍が長江を渡ると、叔英は石頭の軍戍の事を知った。まもなく朝堂に入って駐屯するよう命じられた。六軍が敗れると、隋の将韓擒虎に降った。その年に関中に入った。隋の大業年間、涪陵太守となった。

長子の弘は、至徳元年に 章国の世子に任ぜられた。

長沙王

長沙王叔堅は子成と字し、高宗の第四子である。母はもと呉中の酒家の下女で、高宗が微賤の時、たびたび飲みに行き、ついに通じた。貴くなってから召し出され、淑儀に任ぜられた。叔堅は若い頃から傑出して狡猾で、凶暴で酒乱、特に数術・卜筮・祝禁を好み、金を鋳たり玉を琢ったりすることも、その妙を極めた。天嘉年間、豊城侯に封ぜられた。太建元年、長沙王に立てられ、引き続き東中郎将・呉郡太守となった。四年、宣毅将軍・江州刺史となり、佐史を置いた。七年、雲麾将軍・郢州刺史に進号したが、拝命せず、平越中郎将・広州刺史に転じた。まもなく平北将軍・合州刺史となった。八年、ふたたび平西将軍・郢州刺史となった。十一年、入朝して翊左将軍・丹陽尹となった。

初め、叔堅は始興王叔陵とともに賓客を招き集め、互いに権勢と寵愛を争い、甚だ不和であった。毎回の朝会の鹵簿で、先後を譲らず、必ず別々の道を急ぎ、左右の者が道を争って闘い、死者が出ることもあった。高宗が病に伏せると、叔堅・叔陵らはともに後主に従って看病した。叔陵はひそかに異心を抱き、典薬の吏に命じて言った、「薬を切る刀が甚だ鈍い、研ぐがよい」。高宗が崩御した時、慌ただしい中で、また左右の者に外で剣を取って来るよう命じたが、左右は悟らず、朝服に佩びる木剣を持って来て進上したので、叔陵は怒った。叔堅は傍らでこれを聞き、変事があると疑い、そのすることを窺った。翌日の小斂の時、叔陵は袖に隠した薬切りの刀を持って進み出て、後主を斬りつけ、首筋に当たった。後主は地面に倒れて気絶し、皇太后と後主の乳母楽安君呉氏がともに身を挺してこれを防ぎ、難を免れた。叔堅は後ろから叔陵を扼え、これを捕らえ、その刀を奪い取って殺そうとし、後主に「ただちに殺し尽くすべきか、待つべきか」と問うたが、後主は答えることができなかった。叔陵はもと力が強く、しばらくして奮って脱出し、雲龍門を出て東府城に入り、左右に命じて青溪橋の道を断ち切り、東城の囚人を放って戦士に充てた。また人を新林に遣わし、その配下の兵馬を追わせ、自ら甲を着け、白布帽をかぶり、城の西門に登って百姓を募集した。この時、諸軍はみな長江沿いに防備しており、朝廷内は空虚であった。叔堅は皇太后に申し上げて太子舎人司馬申を使い、後主の命として蕭摩訶を召し、これを討たせた。その日にその将戴温・譚騏驎らを捕らえ、朝廷に送り、尚書閤の下で斬り、その首を東城に持って行って示した。叔陵は恐れ慌ててどうしてよいか分からず、その妻妾をことごとく殺し、左右数百人を率いて新林へ走った。摩訶がこれを追い、丹陽郡で斬り、残党はことごとく捕らえられた。その年、功により驃騎将軍・開府儀同三司・揚州刺史に進号した。まもなく 司空 しくう に転じ、将軍・刺史はもとのままだった。

この時、後主は創傷を患い、政務を視ることができず、政事の大小を問わず、すべて叔堅に決裁を委ねた。ここにおいてその勢いは朝廷を傾けた。叔堅は驕り高ぶりをほしいままにし、不法なことが多く、後主はこれによって彼を疎んじ忌むようになった。孔範・管斌・施文慶らは、いずれも東宮の旧臣であり、日夜ひそかにその短所を握った。至徳元年、詔を下して本号のまま三司の儀を用いさせ、江州刺史として出させた。出発しないうちに、まもなく詔があり、また驃騎将軍とし、さらに 司空 しくう に任じたが、実はその権勢を去らせようとしたのである。叔堅は自ら安んじず、次第に怨望を抱き、左道の厭魅を行って福助を求め、木を刻んで人形とし、道士の服を着せ、からくりを施して拝跪できるようにし、昼夜を分かたず日月の下で醮を行い、上を呪詛した。その年の冬、ある者が上書してこのことを告げ、取り調べてみるとすべて事実であった。後主は叔堅を召し出して西省に囚え、殺そうとした。その夜、近侍に命じて勅を宣し、罪を数え上げると、叔堅は答えて言うには、「臣の本心は、他に故があるのではなく、ただ親しく媚びを求めたいだけです。臣はすでに天憲を犯し、罪は万死に当たります。臣が死ぬ日には、必ず叔陵に会いましょう。願わくば明詔を宣し、九泉の下で責めさせてください」。後主はその以前の功績に感じ入り、赦し、特に居官を免じ、王として邸に戻した。まもなく侍中・鎮左将軍として起用された。〔二八〕二年、鼓吹と油幢車を給された。三年、征西将軍・荊州刺史として出された。四年、中軍大将軍・開府儀同三司に進号した。禎明二年、任期満了で都に還った。

三年に関中に入り、瓜州に移され、名を叔賢と改めた。〔叔〕賢はもとより貴人であり、家人の生業を知らず、この時には妃の沈氏とともに酒を売り、雇われて働くことを業とした。隋の大業年間、遂寧郡太守となった。

建安王

建安王叔卿は字を子弼といい、高宗の第五子である。性質は質直で材器があり、容貌は甚だ偉かった。太建四年、建安王に立てられ、東中郎将・東揚州刺史を授けられた。七年、雲麾将軍・郢州刺史となり、佐史を置いた。九年、平南将軍・湘州刺史に進号した。後主が即位すると、安南将軍に進号した。また侍中・鎮右将軍・中書令となった。 中書監 ちゅうしょかん に遷った。禎明三年に関中に入り、隋の大業年間、都官郎・上党通守となった。

宜都王

宜都王叔明は字を子昭といい、高宗の第六子である。儀容美麗で、挙動は和やかで弱く、その様は婦人のようであった。太建五年、宜都王に立てられ、まもなく宣恵将軍を授けられ、佐史を置いた。七年、東中郎将・東揚州刺史を授けられ、まもなく軽車将軍・衛尉卿となった。十三年、使持節・雲麾将軍・南徐州刺史として出された。また侍中・翊右将軍となった。至徳四年、安右将軍に進号した。禎明三年に関中に入り、隋の大業年間、鴻臚少卿となった。

河東王

河東王叔献は字を子恭といい、高宗の第九子である。性格は恭謹で、聡敏好学であった。太建五年、河東王に立てられた。七年、宣毅将軍を授けられ、佐史を置いた。まもなく 散騎常侍 さんきじょうじ ・軍師将軍・ 都督 ととく 南徐州諸軍事・南徐州刺史となった。〔三0〕十二年に薨去、十三歳であった。侍中・中撫将軍・ 司空 しくう を追贈され、諡して康簡といった。子の孝寬が嗣いだ。孝寬は至徳元年、河東王の爵を襲った。禎明三年に関中に入り、隋の大業年間、汶城令となった。

新蔡王

新蔡王叔齊は字を子粛といい、高宗の第十一子である。風采は明らかで豊か、経史に広く渉猟し、文章をよくした。太建七年、新蔡王に立てられ、まもなく智武将軍となり、佐史を置いた。東中郎将・東揚州刺史として出された。至徳二年、入朝して侍中となり、将軍・佐史はもとのままとした。禎明元年、国子祭酒を拝命し、侍中・将軍・佐史はもとのままとした。三年に関中に入った。隋の大業年間、尚書主客郎となった。

しん 熙王

しん 熙王叔文は字を子才といい、高宗の第十二子である。性格は軽薄で険しく、虚誉を好み、書史にかなり渉猟した。太建七年、 しん 熙王に立てられた。まもなく侍中・ 散騎常侍 さんきじょうじ ・宣恵将軍となり、佐史を置いた。軽車将軍・揚州刺史に進号した。〔三一〕至徳元年、持節・ 都督 ととく 江州諸軍事・江州刺史を授けられた。二年、信威将軍・督湘衡武桂四州諸軍事・湘州刺史に遷った。禎明二年、任期満了となり、侍中・宣毅将軍として召還され、佐史はもとのままとした。還らないうちに、隋軍が長江を渡り、台城を破り、隋の漢東道行軍元帥秦王が漢口に至った。時に叔文は湘州から朝廷に還る途中、巴州に至り、そこで巴州刺史畢宝らを率いて降伏を請い、秦王に書を送って言うには、「窃かに考えますに、天に二日なく、晦明の序に差違なく、土に二王なく、尊卑の位に別あり。今や車書混一し、文軌大同しております。敢えて丹款を披き、その屈膝を申し上げます」。秦王は書を得て、行軍吏部柳荘と元帥府の僚属らを巴州に派遣して叔文を迎え労った。叔文はここにおいて畢宝・荊州刺史陳紀および文武の将吏とともに漢口に赴き、秦王はともに厚く待遇し、賓館に置いた。隋の開皇九年三月、諸軍が凱旋し、文帝自ら温湯に幸して労うと、叔文は陳紀・周羅〓・荀法尚らおよび諸降人とともに、路傍で謁見した。数日後、叔文は後主および諸王侯将相ならびに乗輿・服御・天文図籍などに従い、みな順序よく行列し、なお鉄騎でこれを囲み、晋王・秦王らに従って凱歌を献じて入り、廟庭に列した。翌日、隋文帝が広陽門に坐して観ると、叔文はまた後主に従って朝堂の南に至り、文帝は内史令李徳林に命じて旨を宣し、その君臣が相い弼えることができず、喪亡を招いたことを責めた。後主とその群臣はともに慚懼して拝伏し、仰ぎ見ることができなかったが、叔文ひとり欣として自得の志があった。十六日後、上表して言うには、「昔、巴州において、すでに先だって款を送りました。この事情をご承知いただき、常例とは異なる扱いを願います」。文帝はその不忠を嫌ったが、まさに江表を懐柔しようとしていたので、開府を授け、宜州刺史に拝した。

淮南王

淮南王叔彪は字を子華といい、高宗の第十三子である。幼少より聡明で、文章をよくした。太建八年、淮南王に立てられた。まもなく侍中・仁威将軍の位に就き、佐史を置いた。禎明三年に関中に入り、長安で卒した。

始興王

始興王叔重は字を子厚といい、高宗(陳 宣帝 せんてい )の第十四子である。性質は質朴にして、技芸はなかった。高宗が崩御し、始興王叔陵が叛逆を起こして誅殺されたその年、叔重を立てて始興王とし、昭烈王(陳道譚)の後を奉祀させた。至徳元年(583)、仁威将軍・揚州刺史となり、佐史を置いた。二年、使持節・ 都督 ととく 江州諸軍事・江州刺史を加えられた。禎明三年(589)に入関した。隋の大業年間に太府少卿となり、卒した。

尋陽王

尋陽王叔儼は字を子思といい、高宗の第十五子である。性質は凝重にして、挙止は方正であった。後主が即位すると、尋陽王に立てられた。至徳元年、侍中・仁武将軍となり、佐史を置いた。禎明三年に入関し、まもなく卒した。

岳陽王

岳陽王叔慎は字を子敬といい、高宗の第十六子である。幼少より聡明で、十歳にして文を作ることができた。太建十四年(582)、岳陽王に立てられ、時に十一歳であった。至徳四年、侍中・智武将軍・丹陽尹に拝された。この時、後主は特に文章を愛好し、叔慎は衡陽王伯信・新蔡王叔齊らと朝夕陪侍し、詔に応じて詩を賦するごとに、常に賞賛された。禎明元年、使持節・ 都督 ととく 湘衡桂武四州諸軍事・智武将軍・湘州刺史として出向した。

三年、隋軍が長江を渡り、台城を陥落させると、前任の刺史である晋熙王叔文が巴州に帰還し、巴州刺史畢宝・荊州刺史陳紀とともに降伏した。隋の行軍元帥清河公楊素の軍が荊門を下り、別にその将の龐暉に兵を率いさせて土地を攻略させ、南は湘州に至った。城内の将士は固守する意志がなく、期日を定めて降伏を請うた。叔慎はそこで酒宴を設けて文武の僚吏を集め、酒が酣になると、叔慎は嘆いて言った、「君臣の義は、ここに尽きるのか」。長史謝基は伏して涙を流し、湘州助防の遂興侯正理が座にいたが、立ち上がって言った、「主辱しめば臣死す、諸君は独り陳国の臣ではないのか。今、天下に難あり、まさに命を尽くす秋である。たとえ成就しなくとも、なお臣節を見せることができよう。青門の外で死ぬことはできない。今日の機会は、躊躇すべきではない。後に応じる者は斬る」。衆は皆承諾し、そこで犠牲を刑して盟を結んだ。なお人を遣わし、龐暉に降伏の書を奉ずると偽った。暉はこれを信じ、期日を定めて入城しようとした。叔慎は甲兵を伏せてこれを待った。暉は数百人を城門に駐屯させ、自ら左右数十人を率いて庁事に入った。やがて伏兵が起こり、暉を縛って示衆し、その徒党をことごとく捕らえて、皆斬った。叔慎は射堂に坐し、士衆を招集した。数日のうちに、兵は五千人に達した。衡陽太守樊通・武州刺史鄔居業は皆、難に赴くことを請うた。未だ到らぬうちに、隋は中牟公薛冑を湘州刺史として派遣した。龐暉の死を聞き、さらに兵を請うた。隋はまた行軍総管劉仁恩を派遣してこれを救援させた。未だ到らぬうちに、薛冑の軍は鵝羊山に駐屯した。叔慎は正理及び樊通らを派遣してこれを防がせ、大いに合戦した。朝から日暮れまで、隋軍は休み戦いを繰り返し、正理の兵は少なくて敵わず、ここにおいて大敗した。冑は勝に乗じて城に入り、叔慎を生け捕りにした。この時、鄔居業はその衆を率いて武州から赴き、横橋江に出たが、叔慎の敗戦を聞き、新康口に頓駐した。隋の総管劉仁恩の軍もまた横橋に到着し、水際に拠って陣営を置き、二晩相持した後、合戦し、居業はまた敗れた。仁恩は叔慎・正理・居業及びその徒党十余人を捕虜とし、秦王(楊俊)が漢口でこれを斬った。叔慎は時に十八歳であった。

義陽王叔達は字を子聰といい、高宗の第十七子である。太建十四年、義陽王に立てられ、まもなく仁武将軍に拝され、佐史を置いた。禎明元年、丹陽尹に除された。三年に入関した。隋の大業年間に内史となり、絳郡通守に至った。

巴山王叔雄は字を子猛といい、高宗の第十八子である。太建十四年、巴山王に立てられた。禎明三年に入関し、長安で卒した。

武昌王叔虞は字を子安といい、高宗の第十九子である。太建十四年、武昌王に立てられ、まもなく壮武将軍となり、佐史を置いた。禎明三年に入関した。隋の大業年間に高苑令となった。

湘東王叔平は字を子康といい、高宗の第二十子である。至徳元年、湘東王に立てられた。禎明三年に入関した。隋の大業年間に湖蘇令となった。

臨賀王叔敖は字を子仁といい、高宗の第二十一子である。至徳元年、臨賀王に立てられ、まもなく仁武将軍となり、佐史を置いた。禎明三年に入関した。隋の大業初年に儀同三司に拝された。

陽山王叔宣は字を子通といい、高宗の第二十二子である。至徳元年、陽山王に立てられた。禎明三年に入関した。隋の大業年間に涇城令となった。

西陽王叔穆は字を子和といい、高宗の第二十三子である。至徳元年、西陽王に立てられた。禎明三年に入関し、長安で卒した。

南安王叔儉は字を子約といい、高宗の第二十四子である。至徳元年、南安王に立てられた。禎明三年に入関し、長安で卒した。

南郡王叔澄は字を子泉といい、高宗の第二十五子である。至徳元年、南郡王に立てられた。禎明三年に入関した。隋の大業年間に霊武令となった。

沅陵王叔興は字を子推といい、高宗の第二十六子である。至徳元年に沅陵王に立てられた。禎明三年に関中に入る。隋の大業年間に給事郎となった。

岳山王叔韶は字を子欽といい、高宗の第二十七子である。至徳元年に岳山王に立てられ、まもなく智武将軍となり、佐史を置いた。四年に丹陽尹を拝命した。禎明三年に関中に入り、長安で卒した。

新興王叔純は字を子共といい、高宗の第二十八子である。至徳元年に新興王に立てられた。禎明三年に関中に入る。隋の大業年間に河北令となった。

巴東王叔謨は字を子軌といい、高宗の第二十九子である。至徳四年に巴東王に立てられた。禎明三年に関中に入る。隋の大業年間に岍陽令となった。

臨江王叔顯は字を子明といい、高宗の第三十子である。至徳四年に臨江王に立てられた。禎明三年に関中に入る。隋の大業年間に鶉觚令となった。

新會王叔坦は字を子開といい、高宗の第三十一子である。至徳四年に新會王に立てられた。禎明三年に関中に入る。隋の大業年間に涉令となった。

新寧王叔隆は字を子遠といい、高宗の第三十二子である。至徳四年に新寧王に立てられた。禎明三年に関中に入り、長安で卒した。

新昌王叔榮は字を子徹といい、高宗の第三十三子である。禎明二年に新昌王に立てられた。三年に関中に入る。隋の大業年間に内黄令となった。

太原王叔匡は字を子佐といい、高宗の第三十四子である。禎明二年に太原王に立てられた。三年に関中に入る。隋の大業年間に寿光令となった。

後主の諸子

後主に男子二十二人あり。張貴妃は皇太子深と會稽王莊を生み、孫姫は呉興王胤を生み、高昭儀は南平王嶷を生み、呂淑媛は永嘉王彥と邵陵王兢を生み、龔貴嬪は南海王虔と錢塘王恬を生み、張淑華は信義王祗を生み、徐淑儀は東陽王恮を生み、孔貴人は呉郡王蕃を生んだ。その皇子総・観・明・綱・統・沖・洽・縚・綽・威・辯の十一人は、いまだ封を受けずに終わった。

皇太子

皇太子深は字を承源といい、後主の第四子である。幼少より聡明で、志操があり、容止は厳然として、左右の近侍といえども、その喜怒を見たことがなかった。母の張貴妃の故により、特に後主に愛された。至徳元年に始安王に封ぜられ、邑二千戸を賜う。まもなく軍師将軍・揚州刺史となり、佐史を置いた。禎明二年、皇太子胤が廃されると、後主は深を皇太子に立てた。三年、隋軍が長江を渡り、六軍は敗北し、隋将韓擒虎が南掖門より入城すると、百官は逃散した。深は時に十余歳、閤を閉じて坐し、舎人孔伯魚が侍っていた。隋軍が閤を押し開けて入ると、深は命じてこれを労うよう宣させて言うには、「軍旅途上にあり、労多くあろう」と。軍人は皆これを敬った。その年に関中に入る。隋の大業年間に枹罕太守となった。

呉興王

呉興王胤は字を承業といい、後主の長子である。太建五年二月乙丑に東宮で生まれた。母の孫姫は出産により卒し、沈皇后が哀れんでこれを養い、己が子とした。時に後主は年長であったが、まだ嗣子がなく、高宗は命じて嫡孫とさせ、その日に詔を下して言うには、「皇孫初めて誕生し、国祚まさに盛んなり。群臣とともにこの慶びを分かちたい。内外の文武官には帛を賜い各差あり、父の後を継ぐ者には爵一級を賜う」と。十年に永康公に封ぜられた。後主が即位すると、皇太子に立てられた。胤は性質聡敏で学問を好み、経書を執り学業に励み、終日倦むことがなく、広く大義に通じ、また文章をよくした。至徳三年、みずから太学に出て孝経を講じ、講義を終えると、また先聖先師に釈奠を行った。その日、太学に金石の楽を設け、王公卿士および太学生ともに宴に預かった。この時、張貴妃・孔貴嬪ともに寵愛を受け、沈皇后は寵がなく、近侍の左右がしばしば東宮に往来し、太子もまたしばしば人を后のもとに遣わしたので、後主はその怨望を疑い、甚だこれを憎んだ。そして張・孔の二貴妃は日夜、后と太子の短所をでっち上げ、孔範の徒は外でこれに加担した。禎明二年、呉興王に廃され、そのまま侍中・中衛将軍を加えられた。三年に関中に入り、長安で卒した。

南平王

南平王陳嶷は字を承嶽といい、後主の第二子である。方正にして器局あり、数歳の時より、風采挙動は成人の如きものがあった。至徳元年(583年)、南平王に立てられる。まもなく信武将軍・南琅邪彭城二郡太守に任じられ、佐史を置く。揚州刺史に遷り、鎮南将軍に進号する。まもなく使持節・ 都督 ととく 郢荊湘三州諸軍事・征西将軍・郢州刺史となる。赴任せずして隋軍が長江を渡る。禎明三年(589年)に関中に入り、長安にて卒す。

永嘉王

永嘉王陳彦は字を承懿といい、後主の第三子である。至徳元年(583年)、永嘉王に立てられる。まもなく忠武将軍・南徐州刺史となり、安南将軍に進号する。 散騎常侍 さんきじょうじ ・使持節・ 都督 ととく 江巴東衡三州諸軍事・平南将軍・江州刺史を授かる。赴任せずして隋師が長江を渡る。禎明三年(589年)に関中に入る。隋の大業年間に襄武県令となる。

南海王

南海王陳虔は字を承恪といい、後主の第五子である。至徳元年(583年)、南海王に立てられる。まもなく武毅将軍となり、佐史を置き、軍師将軍に進号する。禎明二年(588年)、平北将軍・南徐州刺史として出る。三年(589年)に関中に入る。隋の大業年間に涿県令となる。

信義王

信義王陳祗は字を承敬といい、後主の第六子である。至徳元年(583年)、信義王に立てられる。まもなく壮武将軍となり、佐史を置く。使持節・ 都督 ととく ・智武将軍・琅邪彭城二郡太守を授かる。禎明三年(589年)に関中に入る。隋の大業年間に通議郎となる。

邵陵王

邵陵王陳兢は字を承檢といい、後主の第七子である。禎明元年(587年)、邵陵王に立てられ、邑一千戸を賜う。まもなく仁武将軍となり、佐史を置く。三年(589年)に関中に入る。隋の大業年間に国子監丞となる。

会稽王

会稽王陳荘は字を承粛といい、後主の第八子である。容貌は蕞陋(みにくく醜い)にして、性質は厳酷、数歳にして、左右の者が意にかなわぬことがあると、すなわちその面を剟刺(突き刺)し、あるいは焼爇(焼き焦が)すことを加えた。母の張貴妃が寵愛を受けたため、後主は甚だこれを愛した。至徳四年(586年)、会稽王に立てられる。まもなく翊前将軍となり、佐史を置く。使持節・ 都督 ととく 揚州諸軍事・揚州刺史に任じられる。禎明三年(589年)に関中に入る。隋の大業年間に昌隆県令となる。

東陽王

東陽王陳恮は字を承厚といい、後主の第九子である。禎明二年(588年)、東陽王に立てられ、邑一千戸を賜う。拝命せず、三年(589年)に関中に入る。隋の大業年間に通議郎となる。

呉郡王

吳郡王の蕃は字を承廣といい、後主の第十子である。禎明二年に吳郡王に封ぜられた。三年に関中に入る。隋の大業年間に涪城令となった。

錢塘王

錢塘王の恬は字を承惔といい、後主の第十一子である。禎明二年に錢塘王に立てられ、邑一千戸を賜う。三年に関中に入り、長安において卒した。

江左では西 しん より相承し、諸王が国を開くに当たり、皆戸数を以て差等を設け、大小三品とした。大国は上・中・下の三将軍を置き、また司馬一人を置く。次国は中・下の二将軍を置く。小国は将軍一人を置く。その他の官も亦、此れを準拠として差等を設けた。高祖が天命を受けてより、永定より禎明に至るまで、唯だ衡陽王の昌のみは特に殊寵を加えられ、五千戸に至った。その余の大国は二千戸を過ぎず、小国は即ち千戸であった。然るに旧史は残欠し、別に其の国の戸数を知ることができぬ故、其の遺事を綴りて此れに附す。

【史論】

史臣曰く、世祖・高宗・後主は並びに藩屏を建て、以て懿親を樹て、固く乃ち本根とし、斯の盤石を隆くせり。鄱陽王の伯山は風采徳器有り、亦た一代の令藩たり。岳陽王の叔慎は社稷の傾危に属し、情家国を哀しみ、誠を竭くして敵に赴き、志に生を図らざりき。嗚呼、古の忠烈致命するは、斯れ之を謂うなり。

原本を確認する(ウィキソース):陳書 卷028