巻二十七 列伝第二十一 江総 姚察

陳書

巻二十七 列伝第二十一 江総 姚察

江総

江総は あざな を総持といい、済陽郡考城県の人である。 しん 散騎常侍 さんきじょうじ 江統の十世の孫である。五世の祖の江湛は、宋の左光禄大夫・開府儀同三司、忠簡公であった。祖父の江蒨は、梁の光禄大夫であり、当時に名を知られた。父の江紑は、本州の迎主簿となり、若くして父の喪に服し、哀毀のあまりに卒した。その事績は『梁書』孝行伝にある。

江総は七歳で孤児となり、母方の実家に身を寄せた。幼い頃から聡明で機敏であり、至誠の性情があった。母の兄の呉平光侯蕭勱は、当時に名声が重く、特に江総を鍾愛し、かつて江総に言った。「お前の操行は格別で、神采は英抜している。後年名を知られるようになれば、必ずや我を超えるであろう。」成長すると、篤学で文辞の才があり、家には賜わった書物が数千巻伝わっていた。江総は昼夜を分かたず読み耽り、手を休めることがなかった。十八歳の時、初めて官に就き、宣恵武陵王府の法曹参軍となった。中権将軍・丹陽尹の何敬容が開府し、佐史を置いた際、すべて貴族の子弟をこれに充て、江総は何敬容の府の主簿に任じられた。 尚書 しょうしょ 殿中郎に転じた。梁の武帝が『正言』を撰述し終え、述懐の詩を作った時、江総もこれに参与して同じく詩を作った。帝は江総の詩を覧て、深く嘆賞した。そのまま侍郎に転じた。尚書 僕射 ぼくや の范陽の張纘、度支尚書の琅邪の王筠、都官尚書の南陽の劉之遴は、いずれも高才で学識豊かであった。江総は当時若年で名があり、張纘らは雅に推重し、忘年の友として交わった。劉之遴がかつて江総の詩に酬いたものがあり、その概略は次のようであった。「上位居は崇礼にあり、寺署は栖息に隣る。暁の騶唱を聞くを忌み、毎に晨光の赩きを畏る。高談意未だ窮まらず、晤対賞極まり無し。探急共に遨遊し、休沐退食を忘る。何ぞ用て鄙吝を銷し、枉趾して顔色を覯わん。下上数千載、揚搉して胸臆を吐く。」彼が通人から欽挹されたのはこのようなことであった。太子洗馬に遷り、また出て臨安県令となり、還って中軍宣城王府の限内録事参軍となり、太子中舎人に転じた。

魏国と国交が通じた時、 みことのり により江総と徐陵が官を摂り、返礼の使者となることになったが、江総は病気を理由に行かなかった。 侯景 こうけい が京都を寇した時、詔により江総が権をもって太常卿を兼ね、小廟を守った。台城が陥落すると、江総は難を避けて崎嶇の道を進み、数年を経て会稽郡に至り、龍華寺に憩い、そこで『修心賦』を作り、おおよそ時事を序した。その文辞は次のようである。

太清四年秋七月、会稽の龍華寺に地を避く。この伽藍は、我が六世の祖、宋の尚書右僕射・州陵侯が元嘉二十四年に構えたものである。侯の祖父、晋の護軍将軍(江虨)が、かつてこの地に臨み、山陰県都陽里に居を卜し、子孫に伝え、ここに終焉する志があった。寺域はその旧宅の基であり、左に江、右に湖、山に面し壑を背にし、東西に連なり跨り、南北に紆縈している。苦節の名僧とともに、日々の用を消し、暁に経戒を修め、夕べに図書を覧、風雲の中に寝処し、水月に憑棲する。思いがけず華と戎の区別なく、朝廷と市街が傾き淪び、これによって情を傷つけること、その情は知るべきである。啜泣して筆を濡らし、どうして鬱結を述べ尽くせようか。後世の君子が、我がこの概略を憐れんでくれることを願うのみである。

南斗の分次を嘉し、東越の霊祕を肇む。韓詩に檜風を表し、周記に鎮山を著す。大禹の金書を蘊み、暴秦の石字を鐫る。太史来たりて穴を探り、鍾离去りて笥を開く。竹箭の珍たるを信じ、何ぞ珷玞の値い罕なるを。盛徳の鴻祀を奉じ、安禅の古寺に寓る。実に 章の旧圃、黄金の勝地を成す。遂に寂黙の幽心、鏡中に若くして遠く尋ぬ。曾阜の超忽に面し、平湖の迥深に邇し。山条偃蹇し、水葉侵淫す。猿を掛けて朝落ち、飢鼯夜に吟ず。果叢薬苑、桃蹊橘林、梢雲日を拂い、暗を結び陰を生ず。自然の雅趣を保ち、人間の荒雑を鄙む。島嶼の邅回を望み、江源の重沓に面す。流月の夜迥に泛び、光煙の暁匝を曳く。風蜩を引いて嘶譟し、雨林に鳴いて脩颯す。鳥稍々狎れて来るを知り、雲情無くして自ら合す。

ここにおいて野に霊塔を開き、地に禅居を築く。喜園迢遰、楽樹扶疏。経行は草を籍とし、宴坐は渠に臨む。戒を振錫に持ち、影を度して甘蔬す。堅固の林に喩え可く、寂滅の場に蹔く如し。曲終わりて悲起こるに異なり、木落ちて悲始まるに非ず。豈に志を降して身を辱しめ、才を露わして己を揚げんや。風雨の晦るるが如きを鍾け、鶏鳴の聒耳なるに倦む。幸いに地を避けて高く棲み、調御の遺旨に憑る。四弁の微言を折り、三乗の妙理を悟る。十纏の繫縛を遣り、五惑の塵滓を袪る。久しく栄を勢利に遺し、庶くは累を妻子に忘れん。疇日の意気に感じ、知音を来祀に寄す。何ぞ遠客の悲しむ可き、自ら其の何ぞ已むを知る。

江総の九番目の母の兄の 蕭勃 しょうぼつ が先に広州を占拠していたので、江総はまた会稽からそこへ身を寄せに行った。梁の元帝が侯景を平定した時、江総を明威将軍・始興内史として召し出し、郡の秩米八百斛を江総の行装に給した。ちょうど江陵が陥落したため、遂に行かず、江総はこれより嶺南に流寓すること数年となった。天嘉四年、中書侍郎として朝廷に召し還され、侍中省に直した。累遷して 司徒 しと 右長史となり、東宮の管記を掌り、給事黄門侍郎に任じられ、南徐州大中正を領した。太子中庶子・通直 散騎常侍 さんきじょうじ を授かり、東宮・中正の職はもとのままだった。左民尚書に遷り、太子詹事に転じ、中正の職はもとのままだった。太子と長夜の飲みをし、良娣陳氏を養女としたこと、また太子が微行して江総の邸宅に行ったことにより、上(皇帝)は怒って彼を免官した。まもなく侍中となり、左 ぎょう 騎将軍を領した。再び左民尚書となり、左軍将軍を領したが、拝受せず、また公事により免官された。まもなく起用されて 散騎常侍 さんきじょうじ ・明烈将軍・ 司徒 しと 左長史となり、太常卿に遷った。

後主 こうしゅ が即位すると、祠部尚書に任じられ、また左 ぎょう 騎将軍を領し、選事に参与してこれを掌った。 散騎常侍 さんきじょうじ ・吏部尚書に転じた。まもなく尚書僕射に遷り、参与して掌ることはもとのままだった。至徳四年、宣恵将軍を加えられ、佐史を量って置くことを許された。まもなく 尚書令 しょうしょれい を授かり、鼓吹一部を給され、扶を加えられ、その他の職務はもとのままだった。策書に曰く。「ああ、文昌は政の本、司会は治の経なり。韋彪はこれを枢機と謂い、李固は斗極に方う。ましてやその五曹を綜べ、百揆を諧えること、冢宰の司と同じくし、台閣の任を専にする。ただ爾(汝)は道業標峻、宇量弘深、勝範清規、風流以って准的と為し、辞宗学府、衣冠以って領袖と為す。故に能く六官を師長し、具瞻允塞し、八座を明府し、儀形載遠し。その朝を端め揆を握るは、朕の望むところなり。往け、欽れ哉。爾の徽猷を懋建し、我が邦国の采を亮せよ。慎まざる可けんや。」禎明二年、中権将軍の号を進められた。京城が陥落すると、隋に入り、上開府となった。開皇十四年、江都で卒した。時に七十六歳であった。

江総はかつて自らその略歴を次のように述べた。

清要の官を歴任して昇進し、朝廷の列に備わり、世の利を求めず、権勢に阿ることもなかった。かつて自らを撫でて天を仰ぎ嘆息して言うには、「莊青翟は丞相の位に至ったが、事跡を記すべきものはない。趙元叔は上計吏であったが、列伝に光を放っている。陳の官に仕えて以来、一つの物事にも迎合せず、一つの事柄にも干渉したことはない。世俗の風塵に流され、流俗の士はしばしば怨憎を致すが、栄枯寵辱は意に介さない。太建の世には、権が群小に移り、諂媚嫉妬して威を振るい、たびたび摧黜された。これも天命であろうか。後主が昔東宮におられた時、文芸に留意され、早くから恩顧を受け、情誼は厚かった。帝位を嗣いだ日、時運は誤って私に厚く、天府の儀形となり、庶績を釐正し、八法六典を統べること、統べざるものはなかった。昔、 しん 武帝が荀公曾を策して言われた、『周の冢宰は、今の 尚書令 しょうしょれい である』と。ましてや才は古人の半ばにも及ばず、尸位素餐のこの身である。 しん 太尉 たいい 陸玩が言う、『私を三公とするは、天下に人無きを知るなり』と。軒冕は偶々来る一つの物に過ぎず、どうして予め求めようか。

若年の頃より仏教に帰依し、二十歳余りで鍾山に入り、霊曜寺の則法師について菩薩戒を受けた。晩年に陳の官に仕え、摂山の布上人と交遊し、苦空の理を深く悟り、さらに戒律を練り、心に善を運び、物に慈を行い、自ら励むことを知ってはいたが、菜食を貫くことはできず、なお塵労に染まり、これをもって平生を愧じるのである。

姚察のこの自叙を、当時の人は実録であると称した。

姚察は行義に篤く、寛和で温裕であった。学問を好み、文章を綴ることができ、五言・七言の詩を特に善くした。しかし浮艶に過ぎるきらいがあり、故に後主に愛幸された。多くの側篇(艶詩)があり、好事の者が伝え誦翫し、今に絶えない。後主の世、姚察は権宰に当たりながら政務を執らず、ただ日に後主と後庭で遊宴し、陳暄・孔範・王瑳ら十余人と共にし、当時「狎客」と称された。これにより国政は日に頽れ、綱紀は立たず、これを言う者があれば、すぐに罪を以て斥けた。君臣ともに昏乱し、ついに滅亡に至った。文集三十巻があり、ともに世に行われている。

長子の姚溢は字を深源といい、文辞に優れていた。性質傲慢で、勢いを恃んで人に驕り、近親や旧友といえども、誹謗欺くことを免れなかった。著作佐郎・太子舎人・洗馬・中書黄門侍郎・太子中庶子を歴任した。隋に入り、秦王文学となった。

第七子の姚漼は、駙馬都尉・秘書郎・隋の給事郎となり、直秘書省学士を務めた。

姚察

姚察は字を伯審といい、呉興武康の人である。九世の祖の姚信は、呉の太常卿となり、江左に名声があった。

姚察は幼少より至誠の性質があり、親に仕えること孝行で知られた。六歳で書を万余言誦した。幼い頃から遊戯を好まず、博奕や雑戯には初めから心を留めなかった。勤苦して精神を励まし、夜を日に継いで学んだ。十二歳で既に文章を綴ることができた。父の上開府姚僧垣は、梁の武帝の代に知名で、皇太子や諸王から礼遇厚く、供賜を受けるたびに、すべて姚察兄弟に回して遊学の資とさせた。姚察はこれを用いて図書を蓄積し、これにより見聞は日に博くなった。十三歳の時、梁の簡 文帝 ぶんてい が東宮におられた頃、盛んに文義を修められ、宣猷堂に引かれて講論を聴き難問し、儒者に称えられた。簡文帝が即位されると、特に礼遇して接せられた。南海王国左常侍として起家し、司文侍郎を兼ねた。南郡王行参軍に除され、尚書駕部郎を兼ねた。

梁室の喪乱に遭い、金陵で両親に随って郷里に帰った。当時、東土は兵乱と飢饉で、人は飢えて互いに食らい、穀物を買い求める場所もなかった。姚察の家族は多く、ともに野蔬を採って自給した。姚察は常に険しい道を艱難し、養うための資を求め請い、糧粒は常に継ぐことができた。また常に自分の分を減らして弟妹に推し与え、旧知で困窮している者にも分け与え恤り、自らは藜藿だけを甘んじた。乱離の間にも、篤く学び怠らなかった。

元帝が荊州で即位されると、父は朝士の例に従って西台(荊州朝廷)に赴き、元帝は姚察を原郷令に任じた。当時、県内は蕭条として、流亡の民が帰らず、姚察は賦役を軽くし、耕種を勧めた。そこで戸口は殷盛となり、民は今に至るまで称えている。

中書侍郎で著作を領じた杜之偉は姚察を深く眷遇し、上表して姚察を著作佐官に任用し、引き続き史書を撰修させた。永定初年、始興王府功曹参軍に拝され、まもなく嘉徳殿学士を補し、中衛・儀同始興王府記室参軍に転じた。吏部尚書徐陵が当時著作を領じており、再び史佐に引き入れ、徐陵が官を譲り致仕するなどの上表文は、すべて姚察に作らせた。徐陵は見て嘆じて言うには、「私は及ばない」と。太建初年、宣明殿学士を補し、散騎侍郎・左通直に除された。まもなく通直 散騎常侍 さんきじょうじ を兼ね、周に報聘使として赴いた。江左の耆旧で以前に関右にいた者は、皆傾慕した。沛国の劉臻がひそかに公館を訪れ、漢書に関する疑事十余条を問うと、すべて剖析して経典に根拠を示した。劉臻は親しい者に言うには、「名の下に虚士無し」と。『西聘道里記』を著し、叙述は甚だ詳しかった。

使節から戻り、東宮学士を補した。当時、済陽の江総・呉国の顧野王・陸瓊・従弟の姚瑜・河南の褚玠・北地の傅縡らは、皆才学の美をもって、朝夕に侍して楽しませた。姚察が言論や著述をなすたびに、皆その人々の宗重するところとなった。皇太子は深く礼異を加え、群僚を超える情誼を示され、宮内で必要な正式の文書は、すべて姚察に草稿を作らせた。またたびたび顧野王と互いに策問させ、常に賞賛激励された。

尚書祠部侍郎に遷った。この曹は郊廟の祭祀を司どり、昔、魏の王粛が天地を祀るのに、宮懸の楽と八佾の舞を設けることを奏上し、その後因循して改められなかった。梁の武帝は、人に事える礼は縟(繁)く、神に事える礼は簡であるとし、古に宮懸の文はないとした。陳の初めはこれを受け継いで用い、増減する者はなかった。高宗(陳の 宣帝 せんてい )は備楽を設けようとし、有司に議を立てさせ、梁武帝の説が誤りであるとした。当時、碩学名儒や朝廷の高位にある者は皆、上意に迎合し、すぐに同意の注記をした。姚察は広く経籍を引き、ただ一人群議に違い、梁の楽制が正しいと主張した。当時は驚駭し、慚愧服膺しない者はなく、僕射徐陵はこれにより姚察の議に改めて同調した。時流や俗に順わないことは、皆この類いである。

宣恵宜都王中録事参軍に拝され、東宮学士を帯びた。仁威淮南王・平南建安王の二王府の諮議参軍を歴任し、母の喪で職を去った。まもなく戎昭将軍として起用され、梁史撰修の事を知らされたが、固辞したが免れなかった。後主が業を継がれると、東宮通事舎人を兼ねることを勅され、将軍・史撰知事はもとの通りであった。また、優冊や諡議などの文筆を専ら知ることを勅された。至徳元年、中書侍郎に除され、太子僕に転じ、その他の職はもとの通りであった。

初めに、梁の末世に国が滅び、父の僧垣は長安に入り、姚察は粗食と布衣に甘んじ、音楽を聴かず、この時凶報が聘使によって江南に届いた。当時姚察の母韋氏の喪中がちょうど終わったところで、後主は姚察が痩せ衰えているのを慮り、さらに傷つき弱ることを憂い、密かに中書舎人司馬申を遣わしてその邸で哀悼の儀を行わせ、なお申に命じてひたすら慰め抑えるようにさせた。その後また申を遣わして旨を宣べ諭させて言うには、「近ごろ哀しみのあまり礼を過ぎていると聞き、甚だ憂いとしている。卿はひとり身でありながら宗廟の祭祀を託されている身、悲しみに身を滅ぼすことは聖人の教えが許さぬところ。少しばかり自らを慰め切り、礼の制を存するようにせよ。憂いの思いが深いゆえ、この言葉がある」と。

まもなく忠毅将軍として起用され、東宮通事舎人を兼ねた。姚察は喪に服し終えることを志し、たびたび辞退を申し出たが、いずれも抑えられて許されなかった。また推して表を上り、その概略に曰く、「臣が私門に禍いあり、ともに災いと罰に遭い、かろうじて生き長らえ、情と礼を尽くさんと望むところ、病弱と病いが相次ぎ、喪服を着た穢れた身は、もはや人の列に非ず、土に還らんとしている。どうして朝廷の恩が曲げて及ぶことを期しようか、冠や印綬を授けられ、この寵服を思えば、いよいよ慚愧の念に堪えない。かつ宮廷は奥深く秘事多く、出入りや奏上は煩雑である。どうしてこのような荒廃した身で預かるべきであろうか。伏して願わくは、至徳をもって孝を治められる陛下に、理と情の間にあることを憐れみ、この残りの魂に息をつかせ、余生を全うさせ給え」と。詔を下して答えて曰く、「表を省みてその思いを具にす。卿の行いと業は淳朴深く、声価と誉れは平素より顕著なり。理は情と礼に従うべきであるが、筆硯の任に就くことをまだ望まない。しかし参画して東宮に仕えることは、まことに期待して託すところ、この抑えて奪うことを容れ、辞することは許さぬ」と。ほどなく著作郎事を知ることを命じられ、喪服を脱いだ後、給事黄門侍郎に任じられ、著作を領した。

姚察はすでに幾度も喪に服し、かつ斎戒と粗食の日々が長く続いたため、喪が明けた後、気疾を患うようになった。後主はかつて別に召し出して面会し、姚察がひどく痩せ衰えているのを見て、そのために顔色を動かし、姚察に言うには、「朝廷は卿を惜しんでいる、卿も自らを大切にせよ。すでに粗食を長年続けているので、長斎をやめてもよい」と。また度支尚書王瑗を遣わして旨を宣べ、重ねて慰め諭させ、夕食をとるように命じた。手詔して曰く、「卿がかくも痩せ衰え、長年粗食を続けているので、一食もとらぬのは養生に背く。もし示された通りにするならば、甚だよろしい」と。姚察はこの詔を奉じたが、なおかつ従前の誓いを固く守った。

また詔を下して秘書監を授け、著作を領することを従前の通りとし、姚察はたびたび辞退を進めたが、いずれも優れた返答で許されなかった。姚察は秘書省において大いに削正を加え、また中書表集を撰することを奏上した。 散騎常侍 さんきじょうじ に拝され、まもなく度支尚書を授けられ、一ヶ月ほどで吏部尚書に遷り、著作を領することを従前の通りとした。姚察はすでに典籍を博く極め、特に人物に通じ、姓氏の起こり、枝葉の分かれ、官職や婚姻、興隆と衰退、高下に至るまで、挙げて論じ、遺すところがなかった。かつ人物を鑑定する職務において、当時の人々は久しく大工の棟梁に例えて評価していたが、選部に遷ると、朝廷の声望に雅くかなった。初め、吏部尚書蔡徴が中書令に移ると、後主はちょうどその後任を選んでおり、 尚書令 しょうしょれい 江総らが皆ともに姚察を推薦した。詔を下して答えて曰く、「姚察は学芸に優れ博識であるのみならず、また操行が清く修まっている。選挙を司る難事の才、今これを得た」と。そこで神筆をもって詔を草し、読んで姚察に示すと、姚察はきわめて切実に辞退した。

別の日に召し入れて選挙の事を論じると、姚察は涙を流して拝み請うて曰く、「臣は東の丘の賤しい一族、身も才能も平凡で浅近、遠大な志を忘れ、立身出世の道を絶っている。近ごろ辱くも官位に就き、久しく分を過ぎていることを知っている。特に東宮に仕えることにより、恩寵が誤って加えられた。今日の過分な栄誉は、才能による推挙によるものではない。たとえ陛下が特にこの凡庸な者を昇進させられようとも、朝廷の秩序はどうなるのであろうか。臣の九世の祖の姚信は、往代に名高く、当時ようやく選部の官にあったが、その後これを継ぐ者は稀であった。臣は幸いにも抜擢に遭い、恩沢を浴し、累ねて非分の地位に至り、常に賢者を妨げることを痛切に思う。臣は識見はないが、己を省みることを知っている。言行の実践において、栄華富貴を期したことはない。どうして選挙の重責が、妄りに非才に委ねられようか。かつ皇明が世を治められる今、事は昔の時代よりも高く、世冑の模範、帷幄の名臣がおられる。もし授受が適宜であれば、初めてその職に称するのである。臣は早くより教義を陶冶され、必ずや不可であることを知っている」と。後主は曰く、「多くの者の中から選ぶ挙げ方は、衆議の帰するところである。昔、毛玠は雅量があり清廉で慎み深く、盧毓は心が平らで体が正しく、王蘊は人物評価に適地を得、山濤は推挙して才を失わなかった。卿に求めるならば、必ずやこれを兼ね備えている。かつ我と卿とは君臣の礼は隔てがあれど、情分は格別である。人倫を鑑みることは、まことに期待して託すところ、またこれに恥じるところがなければ、それでよいのだ」と。

姚察は顕要な地位に居てから、清廉潔白を大いに励み、俸禄と賜物以外は一切交際しなかった。かつて私的な門下生が厚い贈り物を差し上げることを敢えず、ただ南布一端、花綀一匹を送ったことがあった。姚察はこれに謂って曰く、「私が着ているものは、麻布と蒲綀だけである。この品は私には用がない。すでに心を通わせようとするなら、どうか煩わせないでほしい」と。この人は譲って請うたが、なお受け入れられることを望んだので、姚察は厳しい顔色で追い出し、これにより仕える者で敢えて贈り物をする者はなくなった。

陳が滅びて隋に入り、開皇九年、詔を下して秘書丞を授けられ、別勅で梁・陳二代の史書を完成させることを命じられた。また朱華閣において長く参内することを命じられた。文帝は姚察が粗食であることを知り、別の日に独り内殿に召し入れ、果物と野菜を賜り、姚察を指して朝臣に謂って曰く、「姚察の学問と行いは当今に比類なく、我が陳を平らげて得た者はこの一人のみである」と。十三年、北絳郡公の爵を襲封した。姚察が往年周に聘使として行った時、父の僧垣と相見えることができ、別れの際には気絶してまた蘇った。この時に襲封を受けるに及び、いよいよ悲しみの感を深くし、見る者でそのために涙を流さぬ者はなかった。

姚察は幼い頃、鍾山の明慶寺の尚禅師について菩薩戒を受け、陳に仕えてからは、俸禄はすべて寺の造営に寄進し、また追って禅師のために碑を建て、その文は甚だ力強く麗しかった。この時、梁の国子祭酒蕭子雲がこの寺の禅斎詩を書いたものに出会い、それを見て愴然とし、蕭の韻を用いて懐を述べて詠じた。その詞はまた哀切で、僧俗ともにこれによってますます称賛した。後母の杜氏の喪に遭い、職を解かれた。喪中に、白鳩が戸の上に巣を作った。

仁寿二年、詔して曰く、「前秘書丞北絳郡開国公姚察は、学問に励み疑問に答え、群書の典籍を博く極め、身を修め徳を立て、白髪になっても変わらず、哀しみの最中にあるとはいえ、情と礼を抑えるべきである。員外 散騎常侍 さんきじょうじ とし、封は従前の通りとする」と。また晋王昭の読書侍従を命じられた。煬帝が初め東宮にいた時、たびたび召し出され、文籍について問われた。即位の初め、詔を下して太子内舎人を授けられ、その他の官職は従前の通りとした。天子の巡幸には常に侍従した。衣冠の制を改め、朝廷の儀式を削正する際には、身近に問い対するのは姚察ただ一人だけであった。

七十四歳、大業二年、東都にて没す。遺言は薄葬を命じ、倹約に従うことを務めよとした。その概略に曰く、「我が家は代々素士であり、常の法がある。私は法服で納め、すべて布を用い、土を身の周りにすることとしたい。また汝らがこれを行うに忍びないであろうことを恐れる。必ずしもそうでなくとも、松の薄い棺で、ようやく身の周りを覆い、土を棺の周りにするだけでよい。葬日の車は粗末なものとし、ただちに旧い墓域の北に仮葬せよ。私は梁の世にいた時、当時十四歳で、鍾山の明慶寺の尚禅師について菩薩戒を受け、それより深く苦と空を悟り、回向を知るようになった。かつて山寺に留まり連なり、帰ることを忘れたことがある。陳に仕えてからは、諸名流が遂に声価を認め、時に主君の恩遇もあり、官途は遂に顕位に至った。朝に入ってからは、また恩沢に浴した。すでに人世に引きずられ、素志に従うことはできなかった。かつ私は粗食を五十余年習い、歳月を経て、これを守り失わなかった。瞑目した後は、霊位を設ける必要はなく、小さな床を置き、毎日清水を供え、六斎日には斎食と果物野菜を供える。家にあるものでよく、別に用意する必要はない」と。初め、姚察は一切経を読み通すことを願い、すでにことごとく究めていた。臨終に際し、少しも痛み苦しむことなく、ただ西に向かって坐し、正念を保ち、「一切は空寂である」と言った。その後身体は柔らかく、顔色は平常のようであった。両宮は悼み惜しみ、贈り物は甚だ厚かった。

姚察は性、至孝にして、人倫を鑑識する識見あり。沖虚謙遜にして、以て己れの長ずる所を以て人に矜らず。終日恬静にして、唯だ書記を以て楽しみと為し、墳籍に於いて睹らざる所なし。毎に制述有るごとに、多く新奇を用い、人の未だ見ざる所にして、皆な其の富博を重んず。且つ専ら志を著書に注ぎ、白首も倦まず、手自ら抄撰し、時に暫く輟むること無し。特に古今を研覈し、文字を諟正するを好み、精采流贍にして、老いると雖も衰えず。兼ねて内典に諳識し、撰する所の寺塔及び衆僧の文章は、特に綺密を為す。在位に多く称引する所有り、一善録す可きは、賞薦せざる無し。若し分に非ざる相干うは、皆な理を以て遣わす。心を尽くして上に事え、知る所は為さざる無し。機密を侍奉し、未だ嘗て洩漏せず。且つ任遇已に隆く、衣冠の属する所、深く退静を懐き、声勢を避く。清潔自ら処し、貲産毎に虚しく、或いは生計を営むを勧むる有りとも、笑って答えず。親属に穆く、旧故に篤く、得る所の禄賜は、皆な周卹に充つ。

後主の製する所の文筆、卷軸甚だ多し、乃ち別に一本を写して察に付し、疑有るは悉く刊定を令す。察も亦た心を推して上に奉じ、事に隠す所無し。後主嘗て従容として朝士に謂ひて曰く、「姚察は学達し聞に洽く、手筆典裁、之を古に求めれば、猶ほ輩匹し難く、今世に在りては、足らく師範と為すべし。且つ訪対甚だ詳明、之を聴けば人をして倦を忘れしむ。」察の文筆を製する毎に、勅して便ち本を索む。上曰く、「我れ姚察の文章に於いては、唯だ玩味已む無きに非ず、故に是れ一の宗匠なり。」

徐陵は一代に名高く、毎に察の製述を見るに、特に推重す。嘗て子の儉に謂ひて曰く、「姚学士は徳学前に無く、汝之を師とす可し。」 尚書令 しょうしょれい 江総は察と特に篤く厚く善し、毎に制作有るに、必ず先ず簡を以て察に示し、然る後に施用す。総が詹事たりし時、嘗て宮城に登る五百字の詩を製す。当時の副君及び徐陵以下の諸名賢並びに此の作に同じ。徐公後れて江に謂ひて曰く、「我が和する所の弟の五十韻、弟の集内に寄す。」江の文章を編次するに及び、復た察の和する所の本無く、徐の此の意を述べて、察に謂ひて曰く、「高才碩学、拙文を光らすべく、今公の和する所の五百字を須い、以て徐侯の章に偶せん。」察謙遜して未だ付さず。江曰く、「若し公の此の制を得ずんば、僕が詩も亦た本を棄つるを須い、復た徐公の寄する所に乖き、豈に両失を見令せんや。」察已むを得ず、乃ち本を写して之に付す。通人の推挹する所と為る、例皆な此の如し。

著する所に漢書訓纂三十卷、説林十卷、西聘、玉 、建康三鍾等の記各一卷有り、悉く該博を窮め、並びに文集二十卷有り、並びに世に行わる。察の撰する梁、陳の史は未だ功を畢へざるも、隋文帝開皇の時、内史舍人虞世基を遣わして本を索め、且つ進上せしむ。今内殿に在り。梁、陳二史の本は多く是れ察の撰する所、其中の序論及び紀、伝に闕くる所有るは、臨亡の時、仍て体例を以て子の思廉に誡約し、博く訪ひて撰続せしむ。思廉泣涕して奉行す。思廉は陳に在りて衡陽王府法曹参軍と為り、転じて会稽王主簿と為る。隋に入り、漢王府行参軍を補し、記室を掌り、尋いで河間郡司法を除く。大業初、内史侍郎虞世基、思廉の梁、陳二代の史を踵成するを奏す。爾来より、稍々補續に就く。

【評】

史臣曰く、江総は清標簡貴にして、辞采を以て潤し、及び六官を師長し、朝望に雅允す。史臣の先臣は此の令徳を稟け、斯の百行を光らし、以て風俗を厲し、以て人倫を厚くす可し。九流、七略の書、名山石室の記、汲郡、孔堂の書、玉箱金板の文に至るまで、旨奥を窮研せざる無く、坎井を遍探す。故に道は人師に冠たり、搢紳以て準的と為す。既に職を歴て貴顕たり、国典朝章、古今の疑議、後主皆な先臣に取って断決せしむ。

原本を確認する(ウィキソース):陳書 卷027