陳書
巻二十六 列伝第二十 徐陵
徐陵
徐陵、 字 は孝穆、東海郡郯県の人である。祖父の超之は、斉の鬱林太守、梁の員外 散騎常侍 を務めた。父の摛は、梁の戎昭将軍・太子左衛率であり、侍中・太子詹事を追贈され、貞子と諡された。母の臧氏は、かつて五色の雲が鳳凰に化け、左肩の上に集まる夢を見て、やがて陵を生んだ。時に宝誌上人という者がおり、世間では有道と称されていたが、陵が数歳の時、家人が連れて挨拶に行くと、宝誌はその頭頂を手で撫でて、「天上の石麒麟である」と言った。光宅寺の恵雲法師はしばしば陵の早熟を嘆賞し、彼を顔回と呼んだ。八歳で文章を作ることができた。十二歳で『荘子』『老子』の義理を通暁した。成長すると、史籍に広く渉猟し、縦横に弁舌に優れた。
梁の普通二年、 晋 安王が平西将軍・寧蛮 校尉 となると、父の摛が王の諮議となり、王はさらに陵を召し出して寧蛮府の軍事に参与させた。大通三年、王が皇太子に立てられると、東宮に学士を置き、陵はその選に充てられた。やがて 尚書 度支郎に昇進した。出向して上虞県令となったが、御史中丞の劉孝儀は以前から陵と不和であり、風聞をもって陵が県で贓物を収奪したと弾劾し、これによって免官された。久しくして、南平王府行参軍として起用され、通直散騎侍郎に転じた。梁の簡 文帝 が東宮にあって『長春殿義記』を撰した時、陵に序を作らせた。また少傅府において自ら作った『荘子』の義疏を講述させた。まもなく鎮西湘東王中記室参軍に転じた。
太清二年、通直 散騎常侍 を兼ねた。魏に使いし、魏人は賓館を授けて賓客を宴した。この日は非常に暑く、その主客である魏収が陵を嘲って言った、「今日の暑さは、徐常侍が来たからであろう」。陵は即座に答えて言った、「昔、王肅がここに至り、魏のために初めて礼儀を制定した。今、私が聘問に来て、卿に再び寒暑を知らしめているのである」。収は大いに慚じた。
侯景 が京師を侵犯すると、陵の父の摛は先に包囲された城内におり、陵は家からの手紙を受け取れなかったため、菜食と粗衣をし、喪に服しているかのようにしていた。ちょうど斉が魏の禅譲を受け、梁の元帝が江陵において制を承け、再び斉と使者を通わせることとなった。陵は累次にわたって帰国の命令を求めたが、終に拘留されて送還されず、陵はついに 僕射 の楊遵彦に書簡を送った。
一言の感動によって、光輝が魯陽に照り、一心の冥通によって、飛泉が疏勒に湧くというのに、ましてや君主が安泰であり、補佐の臣が良く、隣国が互いに聞き知り、風教を互いに期待している場合であろうか。天道が窮まり乱れ、禍乱が本朝に集まり、心情は焦り慌て、公私ともに悲しみ恐れているのに、骸骨を故郷に葬らせてほしいという願いは徒らに年月を過ごし、困窮の中での祈願は空しく巻物を満たすばかりである。これは図るべきことではなく、望むべきことではない。
執事は聞いていないのか。昔、分鼇命〓の世、河図洛書を拝した年に、日烏が災いを流し、風禽が暴を逞しくし、天は西北に傾き、地は東南に欠け、激しい旱魃が三川を裂き、長大な波濤が五嶽を飲み込んだ。我が大梁は金図に応じて興ったが、玉鏡を継いでもなお艱難にある。なぜか。聖人といえども時勢を作ることはできず、これはそもそも窮通の常理である。荊州 刺史 湘東王に至っては、機微と神妙の根本は言葉に表しようもなく、教化の余沢はなお堯・舜のようであり、たとえ六代の舞楽を総章に陳列し、九州の歌謡を司楽に登用し、虞の夔が石を打ち、晋の曠が鐘を調べたとしても、この英声を称え尽くすには足らず、その盛徳を宣揚する方法はない。もし郊祀を楚の地で行えば、夏を祀る君主に他ならず、艱難を平定すれば、まさに周を匡す覇者である。ただ豳王が雍に遷り一月で都とし、姚帝が河に遷り一年で邑を成しただけではない。今、越常は遠く、馴らした雉が北へ飛び、粛〓は広漠として、風に吹かれた牛が南に伏す。我が君の子は、識見ある者が帰依することを知っている。それなのに返答の趣旨にはどこに身を投じるべきかという。これが理解できない第一の点である。
また晋熙などの郡は、皆貴朝に入り、我が尋陽を去って、道程はどれほどであろうか。鐺鐺と響く暁の漏刻、的々と輝く夜の烽火は、漵浦を隔てて互いに聞こえ、高台に臨んで望むことができる。泉が宝碗のように流れるのを眺めれば、遥かに湓城を思い、峰が香炉と呼ばれるのは、依然として廬岳である。かつて鄱陽嗣王が匯派で兵を治め、淪波に屯戍し、朝夕に文書を交わし、春秋に方物を贈った。私は草鞋を履いて従う術がなく、彼はどの道を並び駆けるというのか。果たしてそうであろうか。そうではない。また近ごろ邵陵王がこの国と通好し、郢中の上客が雲のごとく魏の都に集まり、鄴下の名卿が風のごとく江浦に馳せた。まさか盧龍の径が彼の地で新たに開かれ、銅駝の街が我が地で長く閉ざされているわけではあるまい。なぜ彼の道は甚だ易しく、五丁の労を要せず、我が路は難しく、九折の坂を登るようであるのか。地は私的に載せるものではないのに、なんと不公平なことであろうか。それなのに返答の趣旨には帰路がないという。これが理解できない第二の点である。
晋熙・廬江・義陽・安陸は、皆帰順を申し出て、もはや危険な国ではなく、その途中までは平穏であろうと推測される。ここから北では、戦鼓は鳴らず、ここから南では、封疆は未だ統一されていない。もしその境外で軽い身命を失うことがあっても、幸いにも辺境の吏の恥辱ではなく、どうして一匹夫の命が問題になろうか。またこの賓客たる我々は、通商による財産などなく、韓起が鄭に聘して私的に玉環を買い求めたり、呉札が徐を過ぎて自ら宝剣を請うたようなことはない。これまでの宴席での賜物、すべての行李は、行役と滞在によって既に空っぽになっており、限られた微財を散じて、期限のない長客を供していることは、これで分かるであろう。また地図を見て首を刎ねることは、愚者でもせず、斧を運んで身を全うすることは、凡庸な者でも理解する。なぜか。髪の毛一本ほどの命を軽んじて、千鈞の重みを尊ぶのであり、盗みを働く者でないことは明らかである。骨肉は鼎俎に充たすに足らず、皮毛は貨財に入れるに足りない。盗みにも道理があるというのに、私は憂えることはない。また公の使者を派遣するに当たり、もし物資が必要ならば、本朝は太平の時ではなく、遊客は『皇皇者華』の勢いではない。軽装で独り宿るのに、夜警の柝を集める儀礼は必要なく、微騎で閑に行くのに、輶軒の礼を望むだろうか。帰る者に従わせるのに、私的に驢騾を用意し、沿道の亭郵では、ただ蔬菜と粟を望むのみである。もし留めるのは執事に煩わせず、遣わすのは官司に費用がかかる、あるいは困窮を理由にし、あるいは旅装が恐ろしいと言うならば、もとより通論ではなく、すべて的外れである。これが理解できない第三の点である。
またもし我々を侯景のもとに返すべきだというならば、侯景は凶逆であり、我が国家を殲滅し、天下の生ある者は皆、憤りを懐いている。既に社稷に身を投じて、乗輿の難を衛ることができないならば、四つの冢で蚩尤を磔にし、千の刀で王莽を刺し貫くべきであり、どうしてうつむき膝を折り、寇讎に帰順し、弓袋を帯び箭筒を腰に、その下僕となれと言えようか。かつて通好し、旧来の親睦を厚くしようとした時、凶人が狡猾な詐謀をもって、狼の心を駭させ、宋万の誅殺を疑い、荀罃の請いを恐れたので、奔り蹄を奮い角を強くして、専ら侵陵に恣にし、凡そ我が行く者は、偏くに讐怨を受けたのである。たとえ肉を刻み骨を塩漬けにし、舌を抜き肝を探られようとも、あの凶悪な者に対する憤りは、なお雪がれないであろう。これは海内の知るところであり、君侯のご存じの通りである。また聞くところでは、本朝の公主、都の人士女は、風に吹かれ雨に散るように、東に流れ西に播き、京邑は丘墟となり、蓬が生い茂り寂寥とし、偃師を振り返って望めば、皆草むらとなり、覇陵を顧みれば、共に霜露に濡れている。これまた君の知るところである。彼はどのような義によって、寇讎を免れようと争うのか。私はどのような親によって、帰順して身を委ねようと争うのか。昔、鉅平の貴将は陸公に重んじられ、叔向の名流は鬷篾に深く知られた。私は不敏ではあるが、常に前賢を慕ってきた。明らかな民衆が思いを抱いているとは考えず、かえってこのことで物事を量るとは。昔、魏氏が亡びんとした時、群凶が争いを起こし、諸賢は力を合わせ、その仲間を得ようとした。葛栄の党となるのか、邢杲の徒となるのか。もしそうでないと言うならば、これが理解できない第四の点である。
仮に我々の仲間が凶党に戻ったとしても、侯景は趙代の地に生まれ、家は幽州・恒州にあり、在朝すれば台司の位にあり、出向けば連率の任にあって、山川の形勢や軍国に関する常法は、箸を請うて策を籌う労もなく、指を屈して計算することができた。侯景は逃亡の小醜であり、羊や豚と同群で、身は江辺に寓居し、家は河朔に留まっており、細々とした事柄も、鬼神の如くであった。そうではなかったか?また、君の知るところでもあろう。そもそも宮闈の秘事は、ことごとく雲霄の如く遠く、英俊の大謀も、帷幄の中にあって、あるいは陽に驚いて策を定め、あるいは草稿を焼いて書を奏上するものであり、朝廷の士でさえ参預することは難しく、羇旅の身の者が、どうして耳や目となる段階があろうか。礼楽の沿革や刑政の寛猛については、謳歌はすでに遠く、万舞は風となり、手を舞い足を踏むことを知らないのである。どうして牙を鳴らして間諜となろうか?もし西朝に復命し、ついに東虜に奔るというなら、たとえ斉と梁に隔たりがあっても、尉候(国境の守備)に何の違いがあろう?どうして河曲が渡り難いからといって、江関が渡れると言えようか?河橋を馬で渡るのは、まさに宋典の奸ではなかったか?関路で鶏が鳴くのは、みな田文の客と言われた。どうして道理に通じたり蔽われたりして、このように妨げられるのか?これが理解できない五つ目である。
また、兵が交われば使者ありとは、前の経典にも明らかであるが、もしも僕を殉死させた罪と同じように、寒山の怒りを追って恣にすれば、すべての元帥は囚われの身を解かれ、偏将や裨将に至るまで、同じく殺戮を免れることになる。ついに鍾儀が赦され、友が道で笑い、襄老が帰還を蒙り、虞の歌が道を導いた。我々は弓を張り玉を拭い、友好を修めて盟を尋ね、泗水を渡り黄河を浮かび、郊外での慰労から贈賄に至るまで、公の恩は既に被り、賓客としての礼を欠くことはなかった。今、何の過ちがあって、翻って貶責を蒙るのか?もしこれを以て言うならば、これが理解できない六つ目である。
もし妖気が永久に続き、喪乱が悠然としていると言うなら、我々の奔波を哀れみ、その形魄を存することは、固よりこの厚徳を銘記し、この洪恩を戴くべきであり、渤海や東海と共に深く、嵩山や華山と比べてもなお重い。しかし、山梁で飲み啄むのは、籠や樊に意があるわけではなく、江海を飛び浮かぶのは、本来鐘や鼓に情けはない。ましてや我々は魂は既に消え、余息を空しく留め、悲しみ黙して生きるのみで、どうして長く支えられようか。これは養護を蒙っても、かえって天年を夭折させることになる。もしこれを以て言うならば、これが理解できない七つ目である。
もし逆賊が殲滅されれば、反命を聴き、高軒が道を継ぎ、飛ぶ車蓋が相随うべきだと言うなら、その言葉を解さず、どうしてよく戯れることができようか?屯亨や治乱は、前もって期することなどあるだろうか。謝常侍は今年五十一歳、私は今年四十四歳、介は既に命を知り、賓はまた杖郷の年である。あの侯生を計れば、肩を並べるだけである。どうして銀台の要諦を、彼は師に従わず、金竈の方術を、私はその決断を知るなどということがあろうか。ただ恐れるのは、南陽の菊水がついに齢を延ばさず、東海の桑田が望む由もないことである。もしこれを以て言うならば、これが理解できない八つ目である。
足下の清い襟懐と優れた託付、書物の園林と文の林は、洪荒の時代から、ついに幽王・厲王に至るまで、私のような今日の者が、どうしてその人があるだろうか。春秋に至っては、少しばかり議論すべきである。宗姬が墜ち、霸道が昏凶で、或いは執政が多門に分かれ、或いは陪臣が徳を述べた。故に臧孫は礼があっても、かえって与国の賓客を囚え、周伯に過ちがなくても、空しく天王の使者を怒らせ、箕卿を両館に遷し、驥子を三年も繋いだ。これは乱を貪る風ではなかったか?どうして今の高い例とすべきであろうか?双崤でかつて帝となり、四海が争って雄を競い、或いは趙を構えて燕を侵し、或いは韓を連ねて魏を謀り、身を楚の殿で盟を求め、躬を秦の庭で璧を奪い、宝鼎を輸送して斉王に託し、安車を馳せて梁の客を誘った。その外、唇に膏を塗り舌を販う者が、分かれた道で鑣を揚げ、罪もなく咎もなく、兄の如く弟の如くであった。中陽が天命を受けるに至り、天下は同じ規矩となり、諸華を巡省して、幽辱を聞くことはなかった。三方の覇者に及んでは、孫は甘言を以て媚び、曹は詐りを屈して縛り、旌と軫は歳ごとに句呉に到り、冠蓋は年ごとに庸蜀に馳せ、客の嘲りは殊に険しく、賓の戯れは既に深く、共に遊談を尽くし、誰が猜忤を言おうか。もし故実を搜求して、前の蹤跡があるとすれば、恐らくは末世の奸謀であって、国を治める勝れた方略ではないだろう。
また聞くところによれば、雲師や火帝の時代は、淳朴と澆薄でその風が異なり、龍が躍り麟が驚く時代は、王道と覇道でその道は異なるが、みな君親を崇めて物に銘じ、敬養を敦めて民を治め、予め邦司があって、かつて隆替はなかった。私は温凊に背き、なお乱離に属し、寇虜が猖狂を極め、公私ともに播越した。蕭軒は御する者なく、王舫は誰が持つだろうか?郷関を瞻望すれば、天地に何の心があろう?自ら生を廩竹に憑り、源を空桑に出さない限り、行路の人も情を含み、なおその哀れみを覚える。常に官を選んで仕えるのは、孝家と言うべきではなく、事を選んで趨くのは、忠国と言うべきではないと言ってきた。ましてや有道を欽承し、前王に驂駕し、郎吏は経を明らかにし、鴟鳶は礼を知り、方化を巡省して、みな高年を問い、東序や西膠では、みな耆耋を尊ぶ。私は圭璋や玉帛を以て、通聘して来朝したが、世道の屯期に属し、生民の否運に鍾り、年を重ね載を累ねても、元直の祈りを申すことができず、涙を呑み声を吞み、長く公閭の怒りに対し、情礼の訴えは、逆鱗に同じくし、忠孝の言葉は、みな舌を噛むべきものであり、これは図るところではなく、仰望するところでもない。
また天倫の愛は、どうして忘れられようか?妻子の情は、誰が累わされないことがあろうか?清河公主の貴さや、餘姚の書佐の家であっても、高卑を限らず、みな駆略された。東南の醜虜以来、飢えた民を抄販し、台署の郎官も、みな壁に餓えている。ましてや我々の生離死別は、多くの寒暑を経て、寡婦の室や嬰児のことは、何と言って念おうか。もし身が郷土に還り、躬自ら推求することができれば、なお提携して、共に凶虐を免れることを冀う。
四聡が達せずとも、華陽君は乱臣と言い、百姓に冤みがなくとも、孫叔敖は良相と呼ばれた。足下は高才と重誉を持ち、経綸に参贊し、豹でも貔でもなく、詩や礼を聞いているが、中朝の大議は、かつて矜論せず、清禁の嘉謀は、どうして相及ぶことができようか。諤諤として周舍ではなく、容容として胡広のようであり、どうして諍臣がないのか?歳月は流れる如く、平生は幾ばくもなく、朝に旅雁を見れば、心は江淮に赴き、昏に牽牛を望めば、情は揚越に馳せ、朝には千の悲しみに泣きを掩い、夜には万の思いに腸を回らし、自ら生であることを知らず、自ら死であることを知らない。足下は素より詞鋒を挺で、兼ねて理窟に長け、匡丞相の解頤の説や、楽令君の清耳の談を、前に諮疑したが、誰がよく諭すことができようか。もし私の言が謬りなら、来旨は必ず通じるだろうから、灰釘を分けて請い、甘んじて斧鑊に従おう。どうしてただ規規として默默とし、舌を噛んで頭を低れるだけであろうか。もし一理でも存するならば、なお矜眷を希う。どうして必ず我々を斉の都で死なせ、趙魏の黄塵に足を踏ませ、幽 并 の片骨を加え、遂に東平の拱樹が、長く漢に向かう悲しみを懐き、西洛の孤墳が、常に郷を思う夢を表すようにさせようとするのか。祈りを重ねるごとに、哽慟は増して深くなる。
遵彥はついに返書をしなかった。江陵が陥落すると、斉は貞陽侯蕭淵明を梁の後嗣として送り、そこで陵を随行させて還した。 太尉 王僧辯は初め国境で拒んで受け入れず、淵明が往復して送った書は、すべて陵の文であった。淵明が入ると、僧辯は陵を得て大いに喜び、接待と饋遺は、その礼が甚だ優れていた。陵を尚書吏部郎とし、 詔 誥を掌らせた。その年、 高祖 が兵を率いて僧辯を誅し、引き続き韋載を討った。時に任約と徐嗣徽が虚に乗じて石頭を襲うと、陵は僧辯の旧恩に感じ、そこで約のもとに赴いた。約らが平定されると、高祖は陵を釈放して問わなかった。まもなく貞威将軍・尚書左丞とした。
紹泰二年(556年)、また斉に使いし、還って給事黄門侍郎・秘書監に任ぜられた。高祖( 陳霸先 )が禅を受けると、 散騎常侍 を加えられ、左丞はもとの如し。天嘉(560–566)の初め、太府卿に任ぜられる。四年(563年)、五兵尚書に遷り、大著作を領す。六年(565年)、 散騎常侍 ・御史中丞に任ぜられた。時に安成王 陳頊 は 司空 であり、帝弟の尊をもって勢い朝野を傾けていた。直兵の鮑僧叡が王の威権を仮り、辞訟を抑塞し、大臣として敢えて言う者なし。徐陵これを聞き、乃ち奏弾を為し、南臺の官属を導従し、奏案を引いて入る。世祖(文帝 陳蒨 )は陵の服章厳粛なるを見て、犯すべからざるが如く、容を斂めて正坐す。陵進みて奏版を読む時、安成王は殿上に侍立し、仰いで世祖を視、汗を流して色を失う。陵は殿中御史を遣わして王を殿下に引き下ろし、遂に侍中・ 中書監 を劾免せしむ。ここより朝廷粛然たり。
天康元年(566年)、吏部尚書に遷り、大著作を領す。陵は梁末以来、選授多くその所を失うを以て、ここに綱維を提挙し、名実を綜覈す。時に冒進して官を求め、諠競止まざる者あり、陵乃ち書を為して宣示して曰く、「古より吏部尚書たる者は、人倫を品藻し、その才能を簡び、その門冑を尋ね、その大小を逐い、その官爵を量る。梁元帝は侯景の凶荒を承け、王太尉(王僧弁)は荊州の禍敗を接ぐ、爾時喪乱、復た典章無く、故に官方をして、この紛雑に窮ましむ。永定(557–559)の時、聖朝草創し、干戈未だ息まず、亦た条序無し。府庫空虚、賞賜懸乏し、白銀得難く、黄札営み易く、権りに官階を以て、錢絹に代え、義は撫接に存し、多少を計わず、致して員外・常侍をして、路上に比肩せしめ、諮議・参軍をして、市中に無數ならしむ、豈に朝章として、かくの如く応ずべきや?今衣冠礼楽、日富み年華、何ぞ猶ほ旧意を作し、理に非ざるを望まんや。見る所の諸君、多く本分を踰え、猶ほ大屈を言い、未だ高懐を諭さず。若し梁朝の朱領軍异も亦た卿相為りしを問わば、これその本分を踰えざるか?これは天子の抜擢する所、選序に関せず。梁武帝云う『世間人言に目色有りと、我は特だ范悌を目色せず』と。宋文帝も亦た云う『人世豈に運命無からんや、毎に好官缺くる有れば、輒ち羊玄保を憶う』と。此れは清階顕職、選によらず。秦に車府令趙高有りて直に丞相に至り、漢に高廟令田千秋有りて亦た丞相と為る、此れ復た例と為す可きか?既に衡流を忝くす、須らく粉墨すべし。望む所は諸賢、深く鄙意を明らかにせんことを。」是より衆皆服し、時論これを毛玠に比す。
廃帝 ( 陳伯宗 )即位し、高宗( 宣帝 陳頊)入りて輔く。異志を黜けんと謀り、陵を引いてその議に預からしむ。高宗曆を纂ぐに及び、建昌県侯に封ぜられ、邑五百戸。太建元年(569年)、尚書右僕射に任ぜられる。三年(571年)、尚書左僕射に遷る。陵抗表して周弘正・王勱等を推す。高宗陵を召して内殿に入り、曰く「卿何ぞ固くこの職を辞して人を挙ぐるか?」陵曰く「周弘正は陛下に従い西還し、旧藩の長史、王勱は太平相府の長史、張種は帝郷の賢戚、若し賢を選び旧に与うれば、臣宜居くに後なり。」固く辞すること累日、高宗苦しくこれを属す。陵乃ち詔を奉ず。
朝議北伐に及ぶや、高宗曰く「朕意已に決す、卿元帥を挙ぐべし。」衆議皆中権将軍 淳于量 の位重きを以て、共に署してこれを推す。陵独り曰く「然らず。呉明徹は家淮左に在り、彼の風俗を悉くし、将略人才、当時亦た過ぐる者無し。」ここに争論累日して決せず。都官尚書裴忌曰く「臣徐僕射に同ず。」陵声に応じて曰く「明徹良将のみならず、裴忌即ち良副なり。」是日、詔して明徹を大 都督 と為し、忌に軍事を監せしむ。遂に淮南数十州の地を克つ。高宗因りて酒を置き、杯を挙げて陵に属して曰く「卿の人を知るを賞す。」陵席を避けて対えて曰く「策を定むるは聖衷より出で、臣の力に非ず。」その年侍中を加えられ、余は並びに元の如し。七年(575年)、国子祭酒・南徐州大中正を領す。公事により侍中・僕射を免ぜらる。尋いで侍中を加えられ、扶を与えられ、また領軍将軍に任ぜられる。八年(576年)、翊右将軍・太子詹事を加えられ、佐史を置く。俄かに右光禄大夫に遷り、余は並びに元の如し。十年(578年)、重ねて領軍将軍と為る。尋いで安右将軍・丹陽尹に遷る。十三年(581年)、 中書監 と為り、太子詹事を領し、鼓吹一部を与えられ、侍中・将軍・右光禄・中正は元の如し。陵は年老いたるを以て累表して致仕を求め、高宗も亦たこれを優しとし、乃ち詔して将作に大齋を造らしめ、陵をして第に就きて事を摂せしむ。
後主 (陳叔宝)即位し、左光禄大夫・太子少傅に遷り、余は元の如し。至徳元年(583年)卒す。時に年七十七。詔して曰く「慎終には典有り、抑も乃ち旧章、令徳甄ぶ可く、諒や遠きを追う宜し。侍中・安右将軍・左光禄大夫・太子少傅・南徐州大中正建昌県開国侯陵は、弱齢学尚し、朝に登りて秀穎、業は名輩に高く、文は詞宗と曰う。朕近歳華を承け、特だ相引狎す。多く臥疾すと雖も、方に克壮を期すに、奄然として殞逝す。懐に震悼す。鎮右将軍・特進を贈る可し。その侍中・左光禄・鼓吹・侯は元の如し。並びに出でて哀を挙げ、喪事の須うる所、量りて資給を加えよ。諡して章と曰う。」
陵は器局深遠、容止観る可く、性又清簡、営樹する所無く、禄俸は親族とこれを共にす。太建(569–582)の中、建昌邑を食み、邑戸米を水次に送る。陵の親戚に貧匱する者有れば、皆これに取らしむ。数日にして便ち尽き、陵家尋いで乏絶に致る。府僚怪しみてその故を問う。陵云く「我に車牛衣裳売る有り、余の家に売る可き有らんや?」その周給することかくの如し。少にして釋教を崇信し、経論多く精解する所あり。後主東宮に在りし時、陵に大品経を講ぜしむ。義学の名僧、遠くより雲集し、毎に講筵商較するに、四座抗ぐる能う者無し。目に青睛有り、時人これをもって聰惠の相と為す。陳創業よりこのかた、文檄軍書及び禅授の詔策、皆陵の製する所にして、而して九錫は尤も美なり。一代の文宗と為るも、亦たこれを以て物を矜まず、未だ嘗て作者を詆訶せず。その後進の徒に於いては、接引倦むこと無し。世祖・高宗の世、国家に大手筆有れば、皆陵これを草す。その文は頗る旧体を変え、緝裁巧密、多く新意有り。一つの文手を出す毎に、好事者已に伝写して誦し、遂に華夷に被り、家その本を蔵す。後喪乱に逢い、多く散失し、存する者三十巻。四子有り:儉、份、儀、僔。
儉は一名を衆とす。幼くして脩立し、勤学して志操有り、汝南周弘正その人を重んじ、女を以て妻とす。梁太清(547–549)の初め、起家して 豫 章王府行参軍と為る。侯景乱に、陵魏に使いして未だ反せず、儉時に年二十一、老幼を携えて江陵に避く。梁元帝その名を聞き、召して尚書金部郎中と為す。嘗て宴に侍して詩を賦す。元帝歎賞して曰く「徐氏の子、復た文有り」と。江陵陥落し、復た京師に還る。永定(557–559)の初め、太子洗馬と為り、鎮東従事中郎に遷る。天嘉三年(562年)、中書侍郎に遷る。
太建の初め、広州刺史欧陽紇が兵を挙げて反逆すると、高宗は徐儉に節を持たせて旨を告げさせた。紇は初め徐儉と会うと、盛大に仗衛を列ね、言辞が恭しくなかった。徐儉は言った、「呂嘉の事は、確かに既に遠い昔のことではあるが、将軍はただ周迪や陳宝応の例をご覧にならないのか。禍を転じて福となすは、未だ遅くはない」。紇は黙然として答えず、徐儉がその兵衆の志を沮喪させることを恐れ、城に入ることを許さず、徐儉を孤園寺に置き、人を遣って守衛させ、数十日も還ることを得なかった。紇がかつて出て徐儉に会うと、徐儉はこれに言った、「将軍は既に事を挙げられた。儉は還って天子に報告せねばならぬ。儉の性命は将軍に在るとはいえ、将軍の成敗は儉に在るのではない。幸い留め置かれぬよう願う」。紇はそこで徐儉を間道から馳せ還らせた。高宗は 章昭達 に命じて兵を率いて紇を討たせ、なお徐儉にその形勢を悉く知らしめ、徐儉に昭達の軍を監させた。紇が平定されると、高宗はこれを嘉し、奴婢十人、米五百斛を賜い、鎮北鄱陽王諮議参軍を除し、兼中書舎人とした。累遷して国子博士・大匠卿となり、その他の官は全て元のままとした。まもなく黄門侍郎に遷り、太子中庶子に転じ、通直 散騎常侍 を加え、尚書左丞を兼ねたが、公事により免官された。まもなく中衛始興王限外諮議参軍として起用され、兼中書舎人となった。また太子中庶子となり、貞威将軍・太子左衛率に遷り、舎人は元のままとした。
後主が立つと、和戎将軍・宣恵晋熙王長史を授けられ、丹陽郡国事を行った。まもく父の喪により職を去った。まもなく和戎将軍として起用され、累遷して尋陽内史となり、政治は厳明で、盗賊は静まり息んだ。 散騎常侍 に遷り、建昌侯を襲封し、入朝して御史中丞となった。徐儉の性格は公平で、阿附するところなく、 尚書令 江総は一時声望が重かったが、徐儉によって糾弾され、後主は深く信任した。また右軍を領した。禎明二年に卒した。
徐份は幼少より父の風範があり、九歳の時、『夢賦』を作り、徐陵はこれを見て、親しい者に言った、「我が幼時に文を属するも、これに加えざりき」。解褐して秘書郎となり、太子舎人に転じた。累遷して 豫 章王主簿・太子洗馬となった。出て海塩令となり、大いに治績があった。任期が満ちると、入朝して太子洗馬となった。
徐份の性格は孝悌に篤く、徐陵がかつて病に罹り、甚だ篤かった時、徐份は香を焚き涙を流し、跪いて孝経を誦し、昼夜休むことなく、このようにして三日経つと、徐陵の病は豁然として癒えた。親戚は皆、徐份の孝心の感応によるものだと言った。太建二年に卒し、時に二十二歳であった。
徐儀は幼少より聡明で機敏であり、周易生として挙げられ高第となり秘書郎となり、出て烏傷令となった。禎明の初め、尚書殿中郎に遷り、まもなく東宮学士を兼ねた。陳が滅びて隋に入った。開皇九年、銭塘の赭山に隠棲し、煬帝が学士として召し出し、まもなく著作郎を除した。大業四年に卒した。
徐孝克
孝克は、徐陵の第三弟である。幼少より周易生となり、口弁があり、玄理を談ずることができた。成長すると、五経に遍く通じ、史籍を博覧し、また文を属することを善くしたが、文は義に及ばなかった。梁の太清の初め、起家して太学博士となった。
性格は至孝で、父の喪に遭い、殆ど喪に堪えず、生母の陳氏に事え、養いを尽くす道を尽くした。梁の末、侯景の寇乱があり、京邑は大いに飢え、餓死者は十のうち八九に及んだ。孝克は母を養うのに、粥さえも供給できず、妻の東莞臧氏(領軍将軍臧盾の娘)は、甚だ容色があった。孝克はそこで彼女に言った、「今飢荒がこのようであり、供養が共に欠乏している。卿を富人に嫁がせ、互いに共に救われたいと思うが、卿の意は如何か」。臧氏はこれを許さなかった。時に孔景行という者がおり、侯景の将であり、財に富んでいた。孝克は密かに媒者を通じて意を伝え、景行は多くの左右を従え、強いて迎えさせた。臧氏は涕泣して去り、得た穀物や布帛は全て供養に充てた。孝克はまた髪を剃って沙門となり、名を法整と改め、兼ねて乞食をして供給を充たした。臧氏もまた深く旧恩を思い、しばしば密かに饋餉を致したので、乏しくなることはなかった。後に景行が戦死すると、臧氏は孝克を途中で待ち、数日してようやく会い、孝克に言った、「往日の事は、そなたを負かすためではなかった。今既に脱したのだから、帰って供養すべきである」。孝克は黙然として答えなかった。そこで俗に帰り、再び夫婦となった。
後に東に遊び、銭塘の佳義里に住み、諸僧と釈典を討論し、遂に三論に通じた。毎日二時に講じ、朝に仏経を講じ、夕に礼伝を講じ、道俗で業を受ける者は数百人に及んだ。天嘉年間、剡令を除されたが、好みではなく、まもなく職を去った。太建四年、秘書丞に徴されたが、就かず、そこで蔬食長斎し、菩薩戒を持ち、昼夜法華経を講誦した。高宗はその操行を甚だ嘉した。
六年、国子博士を除し、通直 散騎常侍 に遷り、国子祭酒を兼ね、まもなく真除となった。孝克は毎度侍宴するも、何も食さず、席が散じる時、その前の膳羞が減っているのを、高宗は密かに記して中書舎人管斌に問うたが、斌は答えられなかった。これより斌は意をもって窺うと、孝克が珍果を取って紳帯の中に入れるのを見た。斌は当時その意を知らなかったが、後により尋ね訪ねて、母に遺すためであると知った。斌は実情を啓上すると、高宗は長く嗟歎し、所司に勅して、今後宴享では、孝克の前の饌は全て将(持)ち帰らせ、その母に餉わせた。当時の論はこれを美とした。
至徳年間、皇太子が学に入り釈奠し、百官が陪列した。孝克が孝経の題を発すると、後主は詔して皇太子に北面して敬意を表させた。
禎明元年、入朝して都官尚書となった。晋以来、尚書の官僚は皆家属を携えて省に住んでいた。省は台城内の下舎門にあり、中に閣道があり、東西に路を跨ぎ、朝堂に通じていた。その第一が即ち都官の省であり、西は閣道に抵っていた。年代久遠で、多く鬼怪があり、毎たび昏夜の際、故なくして声光があり、或いは衣冠を着た人が井戸から出て、須臾にしてまた没し、或いは門閣が自然に開閉した。省に住む者は多く死亡し、尚書周確がこの省で卒した。孝克が周確に代わると、直ちにこれに住み、二年を経過するうちに、妖変は全て止んだ。時人は皆、貞正によるものだと言った。
孝克の性格は清素で施恵を好んだため、飢寒を免れず、後主は石頭津の税を給するよう勅したが、孝克は全てこれを用いて斎を設け経を写し、得るに随って随に尽くした。二年、 散騎常侍 となり、東宮に侍した。陳が滅びると、例に随って関中に入った。家は壁立するが如く、生母が病み、粳米で粥を作りたいと思ったが、常に調えることができなかった。母が亡くなった後、孝克は遂に常に麦を噛み、粳米を遺す者があれば、孝克はそれに対し悲泣し、終生再びそれを食さなかった。
開皇十年、長安に疾疫が流行ると、隋文帝はその名行を聞き、召して尚書都堂で金剛般若経を講ぜしめた。まもなく国子博士を授けられた。後に東宮に侍して礼伝を講じた。
十九年、疾により卒し、時に七十三歳であった。臨終、正坐して念仏し、室内に非常なる異香気があり、隣里は皆驚異した。子の万載は、晋安王功曹史・太子洗馬まで仕えた。
【論】
史臣が曰く、徐孝穆(徐陵)は五行の秀でたる気を挺出し、天地の霊気を稟受し、聡明にして特に通達し、古今を籠罩した。及び興王の締構に遭い、泰運に逢い、位は朝宰に隆く、献替謀猷を為し、蓋し亮直なること存した。孝克(徐孝克)は身を砥ぎ行いを厲し、親を養うこと礼を逾え、亦た参・閔の志であろうか。