裴忌
裴忌は若くして聡明で、識量があり、広く史伝に通じ、当時に称された。初めて官に就き、梁の豫章王の法曹参軍となった。侯景の乱のとき、裴忌は勇力を招集し、高祖(陳の武帝)に従って征討し、功を重ねて寧遠将軍となった。高祖が王僧辯を誅殺すると、僧辯の弟の僧智が兵を挙げて呉郡を占拠した。高祖は黄他に軍勢を率いて攻撃させたが、僧智は西昌門から出撃して防戦し、黄他と相持して勝てなかった。高祖は裴忌に言った。「三呉は奥深く肥沃な地で、昔から豊饒と称され、凶荒の後でもなお殷盛である。今、賊徒が扇動して集まり、天下の人心が動揺している。公でなければこれを平定できぬ。よくその策を考えよ。」裴忌は部下の精兵を率い、軽装で倍道兼行し、銭塘から直ちに呉郡へ向かい、夜に城下に至り、鬨の声を上げて攻め寄せた。僧智は大軍が来たと疑い、軽舟で杜龕のもとへ逃げ、裴忌はその郡を占拠した。高祖はこれを賞賛し、上表して呉郡太守に任じた。
高祖が禅譲を受けると、左衛将軍に召された。天嘉初年、持節・南康内史として出向した。時に義安太守の張紹賓が郡を占拠して反乱を起こしたため、世祖は裴忌を持節・都督嶺北諸軍事とし、軍勢を率いて討伐平定させた。帰還して散騎常侍・司徒左長史に任ぜられた。五年、雲麾将軍・衛尉卿に任ぜられ、東興県侯に封ぜられ、邑六百戸を賜った。
呉明徹が諸軍を督して北伐すると、詔により裴忌は本官のまま明徹の軍を監軍した。淮南が平定されると、軍師将軍・豫州刺史に任ぜられた。裴忌は綏撫に長け、民衆の和を得た。使持節・都督譙州諸軍事・譙州刺史に改任された。赴任しないうちに、明徹が詔を受けて彭城・汴州を進討することとなり、裴忌を都督とし、明徹と犄角の勢いで共に進軍させた。呂梁で軍が敗れ、周に捕らえられ、周は上開府に任じた。隋の開皇十四年に長安で卒去した。時に七十三歳であった。
孫瑒
孫瑒は字を徳璉といい、呉郡呉県の人である。祖父の文恵は、斉の越騎校尉・清遠太守であった。父の循道は、梁の中散大夫で、雅素をもって知られた。
孫瑒は若くして倜儻で、謀略を好み、広く経史に渉猟し、特に書翰に長じた。初めて官に就き、梁の軽車臨川嗣王の行参軍となり、累進して安西邵陵王の水曹中兵参軍事となった。王が郢州に出鎮すると、孫瑒は家族を挙げて府に従い、大いに賞遇された。太清の難(侯景の乱)のとき、仮節・宣猛将軍・軍主に任ぜられた。王僧辯が侯景を討伐するとき、王琳が前軍となり、琳と孫瑒は同門であったため、上表して戎昭将軍・宜都太守に推薦し、引き続き僧辯に従って武昌の徐文盛を救援した。時に郢州が陥落したため、軍を留めて巴陵を鎮守し、戦守の備えを整えた。間もなく侯景の軍が到着し、日夜攻囲したが、孫瑒は配下の兵を督して全力で防戦し、賊軍は敗走した。孫瑒は大軍に従って流れに沿って下り、姑熟を平定したとき、奮戦して功があり、員外散騎常侍に任ぜられ、富陽県侯に封ぜられ、邑一千戸を賜った。間もなく仮節・雄信将軍・衡陽内史に任ぜられたが、赴任しないうちに、衡州平南府司馬に転じた。黄洞の蛮賊を撃破して功があり、東莞太守に任ぜられ、広州刺史を代行した。間もなく智武将軍に任ぜられ、湘州の事務を監察した。敬帝が即位すると、持節・仁威将軍・巴州刺史に任ぜられた。
高祖が禅譲を受けると、王琳が郢州で梁の永嘉王蕭莊を擁立し、孫瑒を太府卿に召し、通直散騎常侍を加えた。王琳が侵入すると、孫瑒を使持節・散騎常侍・都督郢荊巴武湘五州諸軍事・安西将軍・郢州刺史とし、留府の任を総管させた。周が大将の史寧に四万の軍勢を率いさせ、虚を衝いて急襲してくると、孫瑒の助防の張世貴が外城を挙げてこれに応じ、軍民男女三千余口を失った。周軍はさらに土山と高梯を築き、日夜攻め迫り、風に乗じて火を放ち、内城南面の五十余りの楼を焼いた。当時、孫瑒の兵は千人に満たず、城に乗り上げて防戦した。孫瑒は自ら慰撫巡視し、酒を酌み交わし食を分け与えたため、士卒は皆そのために命を捧げた。周軍は苦戦して攻略できず、偽って孫瑒に柱国・郢州刺史を授け、万戸郡公に封じた。孫瑒は偽って承諾して時間を引き延ばし、密かに戦具を整え、楼櫓や器械を一朝にして厳しく設けたため、周軍は大いに恐れた。大軍が王琳を破り、勝ちに乗じて進軍すると聞くと、周軍は包囲を解いた。孫瑒はここに中流の地をことごとく領有し、将士を集めて言った。「我は王公(王琳)と力を尽くし義を協え、共に梁室を輔けた。既に勤めたことである。今、時事このようである。天に逆らえようか。」そこで使者を遣わして上表し、朝廷に赴いた。
王瑒は親に事えること孝をもって聞こえ、諸弟に対しては甚だ篤く睦まじかった。性質は通泰にして、財物あればこれを親友に散じた。その自ら居処する所は、頗る奢豪に失し、庭院は穿ち築き、林泉の致を極め、歌鐘舞女、当世に儔い無く、賓客は門に填ち、軒蓋絶えず。及んで郢州に出鎮するに及びては、乃ち十余りの船を合わせて大舫と為し、その中に亭池を立て、荷芰を植え、毎に良辰美景には、賓僚並びに集い、長江に泛して酒を置き、亦一時の勝賞であった。常に山斎に講肆を設け、玄儒の士を集め、冬夏資奉し、学者に称せられた。而して己を処すること率易にして、名位を以て物に驕らず。時に興皇寺の朗法師は釈典に該通し、王瑒は毎に講筵に造り、時に抗論有り、法侶は傾心せざる者無し。又巧思人に過ぎ、起部尚書と為り、軍国の器械、多く創立する所有り。鑑識有り、男女の婚姻は、皆素より貴なる者を択ぶ。及んで卒すに及び、尚書令江総其が志銘を為し、後主又銘後に四十字を題し、左民尚書蔡徴に遣わし宣勅を以て宅に就きて之を鐫らしむ。
其の詞に曰く、「秋風竹を動かし、煙水波を驚かす。幾人か樵径、何れの処か山阿。今時の日月、宿昔の綺羅。天長く路遠し、地久しく雲多し。功臣未だ勒せず、此の意如何。」時に論じて以て栄と為す。
【評】
史臣曰く、梁の季に在りて、寇賊実に繁く、高祖義を建て旗を杖ち、将に区夏を寧んぜんとす。裴忌は早く攀附を識り、毎に戎麾に預かり、鋒を摧き敵を卻し、功を立つること数たび矣。孫瑒は文武の幹略有り、時主に見知られ、及び行軍兵を用うるに、司馬の法を師とし、戦勝攻取に至っては、屡々勲庸を著わし、加うるに好施して物に接し、士皆慕向す。然れども性恒に循わず、頻りに罪を以て免せられ、蓋し亦陳湯の徒焉。