卷二十二 列傳第十六 陸子隆 錢道戢 駱牙

陳書

卷二十二 列傳第十六 陸子隆 りくしりゅう 錢道戢 ぜんどうしゅう 駱牙 らくが

陸子隆

陸子隆は あざな を興世といい、吳郡吳縣の人である。祖父の敞之は梁の嘉興縣令。父の悛は封氏縣令であった。

子隆は若くして慷慨たる気概があり、功名を立てる志があった。東宮直後として出仕した。 侯景 こうけい の乱の際、郷里で徒党を集めた。この時、張彪が吳郡太守となると、彼を将帥に抜擢した。張彪が会稽に鎮守を移すと、子隆はこれに従った。世祖( 陳蒨 ちんせん )が張彪を討伐した時、彪の部将の沈泰・呉寶真・申縉らは皆降伏したが、子隆は力戦して敗北した。世祖はその忠義を認め、再びその配下の兵を統率させ、板授により中兵参軍とした。始豊・永興の二県令を歴任した。

世祖が即位すると、子隆は甲仗(武具)を領して宿衛を務めた。まもなく 侯安都 こうあんと に従い、王琳を柵口で防いだ。王琳が平定されると、左中郎将を授けられた。天嘉元年、益陽県子に封ぜられ、邑三百戸を与えられた。高唐郡太守として出向した。二年、明威将軍・廬陵太守に任ぜられた。この時、周迪が臨川に拠って反乱を起こし、東昌県人の脩行師がこれに呼応し、兵を率いて子隆を攻めた。その勢いは甚だ盛んであった。子隆は城外に伏兵を設け、なお城門を閉ざし甲冑を伏せて、弱きを示した。行師が到着すると、腹背からこれを撃ち、行師は大敗し、降伏を乞うたので、子隆はこれを許し、京師に送った。

四年、周迪が陳寶応を引き連れて再び臨川に出撃すると、子隆は 都督 ととく 章昭達 しょうしょうたつ に従って周迪を討った。周迪が退走したため、章昭達に従って東興嶺を越え、陳寶応を討伐した。軍が建安に至り、子隆に郡を監察させた。寶応は建安の湖際に拠って官軍を拒んだ。子隆と昭達はそれぞれ一つの陣営を占めた。昭達が先に賊と戦って不利となり、その鼓角を失った。子隆はこれを聞き、兵を率いて救援に赴き、賊徒を大破し、昭達の失った羽儀(儀仗)や甲仗をことごとく奪回した。 しん 安が平定されると、子隆の功績が最も大きく、仮節・ 都督 ととく 武州諸軍事に昇進し、将軍の位はもとのままとした。まもなく朝陽県伯に改封され、邑五百戸を与えられた。 廃帝 はいてい 陳伯宗 ちんはくそう )が即位すると、智武将軍の号を進められ、員外 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられ、その他の官職はもとのままとした。

華皎が湘州に拠って反乱を起こすと、子隆がその心腹の地に居たため、華皎は深くこれを憂慮し、頻繁に使者を送って招き誘ったが、子隆は従わなかった。華皎はそこで兵を派遣して攻撃したが、またこれを打ち破ることができなかった。華皎が郢州で敗北すると、子隆は出兵してその背後を襲撃し、朝廷軍と合流した。持節・通直 散騎常侍 さんきじょうじ 都督 ととく 武州諸軍事を授けられ、爵位を侯に進められ、増封された邑を含めて前後七百戸となった。まもなく 都督 ととく 荊信祐三州諸軍事・宣毅将軍・荊州 刺史 しし に転任し、持節・常侍の職はもとのままとした。この時、荊州は新たに設置され、治所は公安にあったが、城郭は未だ堅固でなかった。子隆は城郭を修築し、夷夏の民を安撫し集めて、民の和を大いに得た。当時、その職に適う者と称された。三年、官吏と民衆が都に赴き上表し、碑を立ててその功績を称えたいと請うた。 みことのり が下りこれを許した。太建元年、雲麾将軍の号を進められた。二年に卒去した。時に四十七歳。 散騎常侍 さんきじょうじ を追贈され、諡を威といった。子の之武が後を嗣いだ。

之武は十六歳の時、父の旧軍を率い、呉明徹に従って北伐し功績があり、官は王府主簿・弘農太守に至り、引き続き明徹に隷属した。明徹が呂梁で大敗すると、之武は逃げ帰ったが、人に害せられた。時に二十二歳。

子隆の弟の子、子才もまた才幹と謀略があり、子隆に従って征討し功績があり、南平太守に任ぜられ、始興県子に封ぜられ、邑三百戸を与えられた。呉明徹に従って北伐し、安州を監察し、宿預に鎮守した。中衛始興王諮議参軍に任ぜられ、飆猛将軍・信州刺史に転任した。太建十三年に卒去した。時に四十二歳。員外 散騎常侍 さんきじょうじ を追贈された。

錢道戢

錢道戢は字を子韜といい、吳興郡長城県の人である。父の景深は梁の漢壽県令であった。

道戢は若くして孝行で知られ、成長すると、頗る才幹と謀略があった。 高祖 こうそ 陳霸先 ちんばせん )が微賤の時、従妹を彼に娶わせた。広州において盧子略を平定することに従い、濱江県令に任ぜられた。高祖が政権を輔弼すると、道戢を派遣して世祖に従わせ会稽で張彪を平定させ、その功により直閤将軍に任ぜられ、員外 散騎常侍 さんきじょうじ ・仮節・東徐州刺史を拝命し、永安県侯に封ぜられ、邑五百戸を与えられた。引き続き甲卒三千を率い、侯安都に従って梁山の鎮防に当たり、まもなく錢塘・餘杭の二県令を兼ねた。永定三年、世祖に従って南皖口に鎮守した。天嘉元年、また剡県令を兼ね、県の南巖に鎮守し、まもなく臨海太守となり、南巖の鎮守はもとのままとした。

侯安都が留異を討伐した際、道戢は軍を率いて松陽から出撃し、その退路を断った。留異が平定されると、その功により持節・通直 散騎常侍 さんきじょうじ ・軽車将軍・ 都督 ととく 東西二衡州諸軍事・衡州刺史を拝命し、始興内史を兼ねた。光大元年、増封され、前後の邑は合わせて七百戸となった。

高宗( 陳頊 ちんきょ )が即位すると、歐陽紇を徴して入朝させようとした。紇は疑い恐れ、挙兵して衡州を攻めてきた。道戢はこれと戦い、撃退した。 都督 ととく の章昭達が兵を率いて歐陽紇を討伐する際、道戢を歩軍 都督 ととく とし、間道から紇の退路を断たせた。紇が平定されると、左衛将軍に任ぜられた。

太建二年(570年)、また昭達に従って江陵の蕭巋を征討し、道戢は別に諸軍を督して陸子隆とともに青泥の舟艦を焼き、引き続き昭達の前軍となり、安蜀城を攻めてこれを降した。功により 散騎常侍 さんきじょうじ ・仁武將軍を加えられ、封邑を増やして前の分と合わせて九百戸となった。その年、仁威將軍・呉興太守に遷った。赴任せず、使持節・ 都督 ととく 郢巴武三州諸軍事・郢州刺史に改めて任じられた。王師が北討するに及び、道戢は儀同の黄法𣰋とともに歴陽を包囲した。歴陽城が平定されると、これにより道戢をしてこれを鎮守させた。功により雲麾將軍を加えられ、封邑を増やして前の分と合わせて一千五百戸となった。その年十一月に病を得て卒し、時に六十三歳であった。本官を追贈され、諡して肅といった。子の邈が嗣いだ。

駱牙

駱牙、字は旗門、呉興郡臨安県の人である。祖父の祕道は、梁の安成王の田曹参軍であった。父の裕は、鄱陽嗣王の中兵参軍事であった。

牙が十二歳の時、宗族に善く相を見る者がおり、「この郎は容貌が並ならず、必ず遠大な地位に至るであろう」と言った。梁の太清(547–549年)の末、世祖(陳蒨)がかつて臨安に避難した際、牙の母の陵は、世祖の儀表を見て、並ならぬ人物であることを知り、賓客として厚くもてなした。世祖が呉興太守となると、牙を将帥に引き立て、これに従って杜龕・張彪らを平定し、戦うごとに先鋒として敵陣に突入し、その勇気は諸軍の冠となり、功により直閤將軍に任じられた。太平二年(557年)、母の喪により職を去った。世祖が会稽を鎮守すると、山陰令として起用された。永定三年(559年)、安東府中兵参軍に任じられ、出て冶城を鎮守した。まもなく世祖に従って南皖で王琳を防いだ。世祖が即位すると、假節・威虜將軍・員外 散騎常侍 さんきじょうじ を授けられ、常安県侯に封ぜられ、邑五百戸を与えられた。まもなく臨安令となり、越州刺史に遷り、その他の官職はもとのままであった。

初め、牙の母が卒した時は、飢饉と兵乱の最中であり、この時に至って初めて葬った。詔して牙の母に常安国太夫人を追贈し、諡して恭といった。牙を貞威將軍・ しん 陵太守に遷した。

三年(天嘉三年、562年)、周迪を平定した功により、冠軍將軍・臨川内史に遷った。太建三年(571年)、安遠將軍・衡陽内史を授けられたが、拝命せず、桂陽太守に転じた。八年(576年)、朝廷に還り、 散騎常侍 さんきじょうじ に遷り、殿省に入って直した。十年(578年)、豊州刺史を授けられ、その他の官職はもとのままであった。至徳二年(584年)に卒し、時に五十七歳であった。安遠將軍・広州刺史を追贈された。子の義が嗣いだ。

【論】

史臣が曰く、陸子隆・錢道戢は、あるいは一族を挙げて従うことを願い、あるいは旧臣として勲功を立て、統率の才があり、師旅の任を充たした。藩屏の任を受けるに至り、功績ともに顕著である。美しいことよ。駱牙は真実を識り奉じ、世祖の天授の徳を知った。張良に次ぐ者であろうか。牙の母は智深く先覚し、柏谷の礼に符合する。君子はその鑑識の弘遠なることを知る。それここにあるか。

原本を確認する(ウィキソース):陳書 卷022