陳書

巻二十三 列伝第十七 沈君理 王瑒 陸繕

巻二十三 列伝第十七 沈君理 王瑒 陸繕

沈君理

原文沈君理

沈君理は字あざなを仲倫といい、呉興の人である。祖父の僧畟は、梁の左民尚書であった。父の巡は、平素より高祖と親しく交わり、梁の太清年間に東陽太守となった。侯景が平定された後、元帝に召されて少府卿となった。荊州が陥落すると、蕭詧により金紫光禄大夫に任じられた。

原文沈君理字仲倫,吳興人也。祖僧畟,梁左民尚書。父巡,素與高祖相善,梁太清中為東陽太守。侯景平後,元帝徵為少府卿。荊州陷,蕭詧署金紫光祿大夫。

君理は風采が美しく、経史に広く通じ、識見と鑑識眼があった。初官は湘東王法曹参軍であった。高祖が南徐州を鎮守した時、巡は君理を東陽から高祖のもとに謁見させた。高祖は彼を器として、会稽長公主に娶せ、府の西曹掾に召し出した。やがて中衛豫章王従事中郎に昇進し、まもなく明威将軍を加えられ、尚書吏部侍郎を兼ねた。給事黄門侍郎に転じ、呉郡を監察した。高祖が禅譲を受けると、駙馬都尉に任じられ、永安亭侯に封じられた。出向して呉郡太守となった。この時は戦乱が未だ収まらず、民衆は疲弊していた。軍国に用いるものは、すべて東境に頼っていたが、君理は兵士を招集し、器械を整備し、民衆は喜んで従い、その統治の才幹を大いに称えられた。

原文君理美風儀,博涉經史,有識鑒。起家湘東王法曹參軍。高祖鎮南徐州,巡遣君理自東陽謁于高祖,高祖器之,命尚會稽長公主,辟為府西曹掾。稍遷中衛豫章王從事中郎,尋加明威將軍,兼尚書吏部侍郎。遷給事黃門侍郎,監吳郡。高祖受禪,拜駙馬都尉,封永安亭侯。出為吳郡太守。是時兵革未寧,百姓荒弊,軍國之用,咸資東境,君理招集士卒,脩治器械,民下悅附,深以幹理見稱。

世祖が即位すると、侍中に召され、守左民尚書に転じたが、拝命せず、明威将軍・丹陽尹となった。天嘉三年、再び左民尚書を授けられ、歩兵校尉を領し、まもなく前軍将軍に改められた。四年、侯安都が江州に転鎮すると、本官のまま南徐州を監察した。六年、出向して仁威将軍・東陽太守となった。天康元年、父の喪により職を去った。君理は自ら荊州へ赴き喪柩を迎えたいと請うたが、朝廷の議論では、在任中の重臣を国外に出させるのは難しいとして、長兄の君厳を遣わした。帰還し、葬ろうとした時、詔により巡に侍中・領軍将軍を追贈し、諡を敬子といった。その年、君理を信威将軍・左衛将軍に起用した。さらに持節・都督東衡衡二州諸軍事・仁威将軍・東衡州刺史に起用し、始興内史を領した。また明威将軍・中書令に起用された。前後三度にわたり喪中を奪って起用されたが、いずれも就任しなかった。

原文世祖嗣位,徵為侍中,遷守左民尚書,未拜,為明威將軍、丹陽尹。天嘉三年,重授左民尚書,領步兵校尉,尋改前軍將軍。四年,侯安都徙鎮江州,以本官監南徐州。六年,出為仁威將軍、東陽太守。天康元年,以父憂去職。君理因自請往荊州迎喪柩,朝議以在位重臣,難令出境,乃遣長兄君嚴往焉。及還,將葬,詔贈巡侍中、領軍將軍,諡曰敬子。其年起君理為信威將軍、左衛將軍。又起為持節、都督東衡衡二州諸軍事、仁威將軍、東衡州刺史,領始興內史。又起為明威將軍、中書令。前後奪情者三,並不就。

太建元年、喪が明けると、太子詹事に任じられ、東宮の事務を執り行い、吏部尚書に転じた。二年、高宗は君理の娘を皇太子妃とし、望蔡県侯の爵を賜い、邑五百戸を与えた。四年、侍中を加えられた。五年、尚書右僕射に転じ、吏部を領し、侍中はもとの通りであった。その年、病に罹り、皇帝自ら見舞いに臨んだ。九月に卒去した。時に四十九歳。詔により侍中・太子少傅を追贈した。喪事に必要なものは、すべて官から支給された。重ねて翊左将軍・開府儀同三司を追贈し、侍中はもとの通りであった。諡は貞憲といった。君理の子の遵儉は早世したため、弟の君高の子である遵礼を後嗣とした。

原文太建元年,服闋,除太子詹事,行東宮事,遷吏部尚書。二年,高宗以君理女為皇太子妃,賜爵望蔡縣侯,邑五百戶。四年,加侍中。五年,遷尚書右僕射,領吏部,侍中如故。其年有疾,輿駕親臨視,九月卒,時年四十九。詔贈侍中、太子少傅。喪事所須,隨由資給。重贈翊左將軍、開府儀同三司,侍中如故。諡曰貞憲。君理子遵儉早卒,以弟君高子遵禮為嗣。

君理の五番目の弟の叔邁もまた、方正で実務の才幹があり、梁に仕えて尚書金部郎となった。永定年間、累進して中書侍郎となった。天嘉年間、太僕・廷尉を歴任し、出向して鎮東始興王長史・会稽郡丞となり、東揚州の事務を執り行った。光大元年、尚書吏部郎に任じられた。太建元年、通直散騎常侍に転じ、東宮に侍した。二年に卒去した。時に五十二歳。散騎常侍を追贈された。

原文君理第五弟叔邁,亦方正有幹局,仕梁為尚書金部郎。永定中,累遷中書侍郎。天嘉中,歷太僕、廷尉,出為鎮東始興王長史、會稽郡丞,行東揚州事。光大元年,除尚書吏部郎。太建元年,遷為通直散騎常侍,侍東宮。二年卒,時年五十二。贈散騎常侍。

君理の六番目の弟の君高は、字を季高といい、若くして名を知られ、性質は剛直で、官吏としての才能があった。家門が外戚であったため、早くから清要な地位にあり、太子舎人・洗馬・中舎人・高宗司空府従事中郎・廷尉卿を歴任した。太建元年、東境に大水害があり、民衆が飢え疲弊したため、君高を貞威将軍・呉令とした。まもなく太子中庶子・尚書吏部郎・衛尉卿に任じられた。出向して宣遠将軍・平南長沙王長史・南海太守となり、広州の事務を執り行った。娘が王妃となったため、固辞して赴任せず、再び衛尉卿となった。八年、詔により持節・都督広等十八州諸軍事・寧遠将軍・平越中郎将・広州刺史を授けられた。嶺南の俚・獠は代々互いに攻撃し合っていたが、君高は本来文吏であり、武略はなかったが、誠意をもって慰撫統治し、民衆の和を大いに得た。十年、任中に卒去した。時に四十七歳。散騎常侍を追贈され、諡は祁子といった。

原文君理第六弟君高,字季高,少知名,性剛直,有吏能。以家門外戚,早居清顯,歷太子舍人、洗馬、中舍人、高宗司空府從事中郎、廷尉卿。太建元年,東境大水,百姓飢弊,乃以君高為貞威將軍、吳令。尋除太子中庶子、尚書吏部郎、衛尉卿。出為宣遠將軍、平南長沙王長史、南海太守,行廣州事。以女為王妃,固辭不行,復為衛尉卿。八年,詔授持節、都督廣等十八州諸軍事、寧遠將軍、平越中郎將、廣州刺史。嶺南俚、獠世相攻伐,君高本文吏,無武幹,推心撫御,甚得民和。十年,卒于官,時年四十七。贈散騎常侍,諡曰祁子。

王瑒

原文王瑒

王瑒は字を子璵といい、司空の沖の第十二子である。沈着で度量があり、風采が美しく、挙措は落ち着いていた。梁の大同年間、初官は秘書郎となり、太子洗馬に転じた。元帝が制を承けると、召されて中書侍郎となり、殿省に直し、相府の管記を引き続き掌った。出向して東宮内史となり、太子中庶子に転じた。生母の喪に服し、丹陽に帰った。江陵が陥落すると、梁の敬帝が制を承け、仁威将軍・尚書吏部郎中に任じられた。貞陽侯が位を僭称せんしょうし、敬帝を太子とすると、瑒に散騎常侍を授け、東宮に侍させた。まもなく長史兼侍中に転じた。

原文王瑒字子璵,司空沖之第十二子也。沈靜有器局,美風儀,舉止醞藉。梁大同中,起家祕書郎,遷太子洗馬。元帝承制,徵為中書侍郎,直殿省,仍掌相府管記。出為東宮內史,遷太子中庶子。丁所生母憂,歸于丹陽。江陵陷,梁敬帝承制,除仁威將軍、尚書吏部郎中。貞陽侯僭位,以敬帝為太子,授瑒散騎常侍,侍東宮。尋遷長(史)兼侍中。

高祖が補佐として入朝すると、司徒左長史とした。永定元年、守五兵尚書に転じた。世祖が即位すると、散騎常侍を授けられ、太子庶子を領し、東宮に侍した。左驍騎将軍を領し、太子中庶子に転じ、常侍・侍中はもとの通りであった。瑒は侍中を六年務めたが、父の沖がかつて瑒のために中庶子を領することを辞退しようとした。世祖は沖を顧みて言った、「瑒を長く承華(東宮)に留めているのは、まさに太子が少しでも瑒の風範と作法を備えるようにしたいからである」。廃帝が即位すると、侍中として左驍騎将軍を領した。光大元年、父の喪により職を去った。

原文高祖入輔,以為司徒左長史。永定元年,遷守五兵尚書。世祖嗣位,授散騎常侍,領太子庶子,侍東宮。遷領左驍騎將軍、太子中庶子,常侍、侍中如故。瑒為侍中六載,父沖嘗為瑒辭領中庶子,世祖顧謂沖曰:「所以久留瑒於承華,政欲使太子微有瑒風法耳。」廢帝嗣位,以侍中領左驍騎將軍。光大元年,以父憂去職。

高宗が即位し、太建元年、再び侍中に任じられ、左驍騎将軍を領した。度支尚書に転じ、羽林監を領した。出向して信威将軍・雲麾始興王長史となり、州府の事務を執り行うこととなったが、赴任せず、中書令に転じ、まもなく散騎常侍を加えられ、吏部尚書に任じられ、常侍はもとの通りであった。瑒の性質は寛和であり、選職に就いてからは、清静を旨とし、文案を謹んで守り、人物の評価に偏りがなかった。まもなく尚書右僕射を授けられたが、拝命せず、侍中を加えられ、左僕射に転じ、選事を参掌し、侍中はもとの通りであった。瑒の兄弟は三十余人おり、家にあっては篤く睦まじく、毎年の贈り物は近親にまで行き渡り、諸弟を敦く誘導し、皆その規律と教訓を受けた。太建八年に卒去した。時に五十四歳。侍中・特進・護軍将軍を追贈した。喪事は必要なものに応じて支給された。諡は光子といった。

原文高宗即位,太建元年,復除侍中,領左驍騎將軍。遷度支尚書,領羽林監。出為信威將軍、雲麾始興王長史,行州府事。未行,遷中書令,尋加散騎常侍,除吏部尚書,常侍如故。瑒性寬和,及居選職,務在清靜,謹守文案,無所抑揚。尋授尚書右僕射,未拜,加侍中,遷左僕射,參掌選事,侍中如故。瑒兄弟三十餘人,居家篤睦,每歲時饋遺,遍及近親,敦誘諸弟,並稟其規訓。太建(六)〔八〕年卒,時年五十四。贈侍中、特進、護軍將軍。喪事隨所資給。諡曰光子。

瑒の十三番目の弟の瑜は、字を子珪といい、これまた知名で、容姿が美しく、早くから清要な地位を歴任し、三十歳で侍中に至った。永定元年、斉に使いし、陳郡の袁憲を副使としたが、斉は王琳の事件のため、二人を捕らえて囚禁した。斉の文宣帝は外出するたびに死囚を車に載せて従わせ、斉人はこれを「供御囚」と呼び、他のことで怒りがあるたびに召し出して殺し、その気を晴らした。瑜と憲はともに数度危うい目に遭ったが、斉の僕射楊遵彦はその無実を哀れみ、たびたび救護した。天嘉二年、朝廷に帰還し、詔により侍中に復し、まもなく卒去した。時に四十歳。本官を追贈され、諡は貞子といった。

原文瑒第十三弟瑜,字子珪,亦知名,美容儀,早歷清顯,年(五)〔三〕十,官至侍中。永定元年,使於齊,以陳郡袁憲為副,齊以王琳之故,執而囚之。齊文宣帝每行,載死囚以從,齊人呼曰「供御囚」,每有他怒,則召殺之,以快其意。瑜及憲並危殆者數矣,齊僕射楊遵彥憫其無辜,每救護之。天嘉二年還朝,詔復侍中,頃之卒,時年四十。贈本官,諡曰貞子。

陸繕

原文陸繕

陸繕は字を士繻といい、呉郡呉県の人である。祖父の恵曉は、斉の太常卿であった。父の任は、梁の御史中丞であった。

原文陸繕字士繻,吳郡吳人也。祖惠曉,齊太常卿。父(倕)〔任〕,梁御史中丞。

繕は幼い頃より志操高く、雅正をもって知られた。初めて官に就き、梁の宣恵武陵王の法曹参軍となった。承聖年間(552–555)に、中書侍郎を授けられ、東宮の管記を掌った。江陵が陥落すると、繕は微服して遁れ、京師に帰還した。紹泰元年(555)、司徒右長史、御史中丞に任ぜられたが、父の任が終わった官職であるため、固辞して就任しなかった。高祖(陳霸先はせん)は繕を司徒司馬に引き立て、給事黄門侍郎、領步兵校尉、通直散騎常侍を経て、侍中を兼ねた。永定元年(557)、侍中に遷った。時に留異が東陽を擁割し、新安の人向文政が異と連結し、本郡を拠点としたため、朝廷は繕を貞威将軍、新安太守とした。

原文繕幼有志尚,以雅正知名。起家梁宣惠武陵王法曹參軍。承聖中,授中書侍郎,掌東宮管記。江陵陷,繕微服遁還京師。紹泰元年,除司徒右長史,御史中丞,以父任所終,固辭不就。高祖引繕為司徒司馬,遷給事黃門侍郎、領步兵校尉、通直散騎常侍,兼侍中。永定元年,遷侍中。時留異擁割東陽,新安人向文政與異連結,因據本郡,朝廷以繕為貞威將軍、新安太守。

世祖(陳蒨ちんせん)が位を嗣ぐと、召されて太子中庶子となり、領步兵校尉、東宮の管記を掌った。繕は容姿端麗で、進退に閑雅であり、世祖は太子や諸王にことごとく彼を模範とさせた。その歩みや履の踏み方に至るまで、皆に繕の規矩を習わせた。尚書吏部郎中に任ぜられ、領步兵校尉は元のままとし、引き続き東宮に侍した。陳宝応が平定された後、外任として貞毅将軍、建安太守となった。任期が満ちると、散騎常侍、御史中丞となったが、やはり父が終わった官職であるため、固辞したが、許されず、やむなく官舎を換えて移り住んだ。

原文世祖嗣位,徵為太子中庶子,領步兵校尉,掌東宮管記。繕儀表端麗,進退閑雅,世祖使太子諸王咸取則焉。其趨步躡履,皆令習繕規矩。除尚書吏部郎中,步兵如故,仍侍東宮。陳寶應平後,出為貞毅將軍、建安太守。秩滿,為散騎常侍、御史中丞,猶以父之所終,固辭,不許,乃權換廨宇徙居之。

太建(569–582)の初め、度支尚書、侍中、太子詹事に遷り、東宮の事を行い、領揚州大中正となった。太子が自ら庶政を臨むようになると、行事の任を解かれ、散騎常侍を加えられ、後に侍中に改めて加えられた。尚書右僕射に遷り、まもなく左僕射に遷り、選事に参掌し、侍中は元のままとした。さらに尚書僕射となり、領前将軍となった。重ねて左僕射を授かり、領揚州大中正となり、別勅により徐陵ら七人と政事を参議することを命ぜられた。十二年(580)に卒去した。時に六十三歳であった。侍中、特進、金紫光禄大夫を追贈され、諡して安子といった。太子は繕が東宮の旧臣であったため、特に祖奠を賜った。

原文太建初,遷度支尚書、侍中、太子詹事,行東宮事,領揚州大中正。及太子親蒞庶政,解行事,加散騎常侍,改加侍中。遷尚書右僕射,尋遷左僕射,參掌選事,侍中如故。更為尚書僕射,領前將軍。重授左僕射,領揚州大中正,別敕令與徐陵等七人參議政事。十二年卒,時年六十三。贈侍中、特進、金紫光祿大夫,諡曰安子。太子以繕東宮舊臣,特賜祖奠。

繕の子の辯惠は、数歳の時、詔により殿内に引き入れられた。辯惠の応対や進退に父の風があったため、高宗(陳頊ちんきょく)は因って名を辯惠、字を敬仁と賜ったという。

原文繕子辯惠,年數歲,詔引入殿內,辯惠應對進止有父風,高宗因賜名辯惠,字敬仁云。

繕の兄の子の見賢もまた方正雅量であり、高宗が揚州牧であった時、治中従事史とし、深く知遇を受けた。給事黄門侍郎、長沙・鄱陽二王の長史、帯尋陽太守、少府卿を歴任した。太建十年(578)に卒去した。時に五十歳であった。廷尉卿を追贈され、諡して平子といった。

原文繕兄子見賢,亦方雅,高宗為揚州牧,乃以為治中從事史,深被知遇。歷給事黃門侍郎,長沙鄱陽二王長史,帶尋陽太守,少府卿。太建十年卒,時年五十。贈廷尉卿,諡曰平子。

【論】

原文【論】

史臣曰く、衣冠の雅道、廊廟の嘉猷は、まことに操履が敦く修まり、局宇が詳正であるによる。経に「容止観るべし」と曰い、詩に「其の儀忒あやまること罔なし」と言う。彼三子(陸繕・子・甥)は、まさにこの風を有していた。

原文史臣曰:夫衣冠雅道,廊廟嘉猷,諒以操履敦脩,局宇詳正。經曰「容止可觀」,詩言「其儀罔忒」,彼三子者,其有斯風焉。