陳書
巻二十一 列伝第十五 謝哲 蕭乾 謝嘏 張種 王固 孔奐 蕭允
謝哲
謝哲は 字 を穎 豫 といい、陳郡陽夏の人である。祖父の朏は、梁の 司徒 であった。父の譓は、梁の右光禄大夫であった。
哲は風采が美しく、挙動は穏やかで含蓄があり、しかも胸襟は豁然として開けていたので、士君子に重んじられた。梁の秘書郎として起家し、累遷して広陵太守となった。 侯景 の乱の時、母が老齢であったため広陵に寓居し、 高祖 が京口から長江を渡って郭元建を応接すると、哲は身を委ねて仕え、深く敬重された。高祖が南徐州 刺史 となると、哲を長史に上表した。荊州が陥落すると、高祖は哲を使者として 晋 安王に上表を奉り、即位を勧めた。敬帝が制を承けて給事黄門侍郎に徴し、步兵 校尉 を領せしめた。貞陽侯が位を僭すると、哲を通直 散騎常侍 とし、東宮に侍らせた。敬帝が即位すると、長兼侍中に遷った。高祖が天命を受けると、都官 尚書 ・ 豫 州大中正・吏部尚書に遷った。外任として明威将軍・晋陵太守となり、内任として中書令となった。世祖が位を嗣ぐと、太子詹事となった。外任として明威将軍・衡陽内史となり、秩は中二千石であった。長沙太守に遷り、将軍号と加秩はもとのままとした。還って 散騎常侍 ・中書令に除された。 廃帝 が即位すると、本官のまま前将軍を領した。高宗が録尚書となると、侍中・仁威将軍・ 司徒 左長史に引き立てた。拝命せず、光大元年に卒去した。時に五十九歳。侍中・ 中書監 を追贈され、諡は康子といった。
蕭乾
蕭乾は字を思惕といい、蘭陵の人である。祖父の嶷は、斉の丞相 豫 章文献王であった。父の子範は、梁の秘書監であった。
乾は容姿挙動が雅正で、性質は恬淡簡素であり、隷書をよくし、叔父の子雲の法を得ていた。九歳の時、召されて国子周易生に補せられ、梁の 司空 袁昂が当時祭酒であったが、深く敬重した。十五歳で明経に挙げられた。初官として東中郎湘東王法曹参軍となり、太子舎人に遷った。建安侯蕭正立が南 豫 州に出鎮すると、また板録事参軍とした。累遷して中軍宣城王中録事諮議参軍となった。侯景が平定されると、高祖が南徐州を鎮守し、乾を貞威将軍・ 司空 従事中郎に引き立てた。中書侍郎・太子家令に遷った。
永定元年、給事黄門侍郎に除された。この時、熊曇朗は 豫 章に、周迪は臨川に、留異は東陽に、陳宝応は建安・晋安におり、互いに連結し、閩中の豪帥はしばしば砦を立てて自保していたので、高祖は甚だこれを憂い、乾を使者として往かせ、逆順を諭し、併せて虚実を観察させた。出発に際し、高祖は乾に言った、「建安・晋安は険阻を恃み、奸宄を好む。方今、天下は初めて定まり、容易に兵を出すことは難しい。昔、陸賈が南征して趙佗を帰順させ、随何が使を奉じて黥布を臣従させた。その清風を追想すれば、彷彿として目の前にある。まして卿は雅俗を坐鎮し、才は昔の賢人よりも高い。功名を建てるよう勉めよ、更に師旅を労する煩いはない」。乾が到着すると、逆順を諭し、所在の渠帥は皆、部衆を率いて城壁を開き、誠意をもって帰附した。その年、貞威将軍・建安太守に就いて除された。
天嘉二年、留異が反逆し、陳宝応が兵を率いてこれを助け、また周迪に兵糧を供給して臨川に出寇し、建安を脅かした。乾は単身で郡に臨んでおり、元来士卒がなく、守る力がなかったので、郡を棄てて宝応を避けた。当時、閩中の守宰は皆、宝応に迫脅され、その任命を受けたが、乾のみは屈せず、郊野に移り住み、人事を絶った。宝応が平定されると、 都督 章昭達 の許に出向き、昭達はその状況を上表して奏聞した。世祖は甚だこれを嘉し、五兵尚書を超授した。光大元年に卒去し、諡は静子といった。
謝嘏
謝嘏は字を含茂といい、陳郡陽夏の人である。祖父の〓は、斉の金紫光禄大夫であった。父の挙は、梁の中衛将軍・開府儀同三司であった。
嘏は風神が清雅で、文章をよくした。梁の秘書郎として起家し、やがて太子中庶子に遷り、東宮の管記を掌り、外任として建安太守となった。侯景の乱の時、嘏は広州に赴き 蕭勃 に依った。承聖年中、元帝が五兵尚書に徴したが、道が阻まれたと辞し、智武将軍に転授された。蕭勃は鎮南長史・南海太守とした。蕭勃が敗れると、臨川に還り、周迪に留められた。久しくして、また嶺を越えて晋安に赴き陳宝応に依った。世祖は前後頻りに召したが、嘏は寇虜の間を崎嶇として、自ら抜け出せなかった。宝応が平定されて初めて、嘏は朝廷に詣でた。御史中丞江徳藻に挙劾されたが、世祖は罪責を加えず、給事黄門侍郎とした。まもなく侍中に転じた。天康元年、公事により免官されたが、まもなく本職に復した。光大元年、信威将軍・中衛始興王長史となった。中書令・ 豫 州大中正・都官尚書に遷り、羽林監を領し、大中正はもとのままとした。太建元年に卒去し、侍中・中書令を追贈され、諡は光子といった。文集が世に行われている。
二人の子は儼と伷である。儼は官は 散騎常侍 ・侍中・御史中丞・太常卿に至り、外任として東揚州を監した。禎明二年、会稽で卒去し、中護軍を追贈された。
張種
張種は字を士苗といい、呉郡の人である。祖父の辯は、宋の 司空 右長史・広州刺史であった。父の略は、梁の太子中庶子・臨海太守であった。
種は若い頃から恬静で、居処は雅正であり、妄りに交遊せず、傍らに請い造る者もなく、当時の人は彼について語って言った。「宋は敷・演を称し、梁は巻・充たり。清虚の学尚、種は其の風有り」と。梁の王府法曹に仕え、外兵参軍に遷り、父の憂いにより官を去った。服喪が終わると、中軍宣城王府主簿となった。種は当時四十余歳で、家が貧しかったため、始豊県令を求め、入朝して中衛西昌侯府西曹掾に任じられた。時に武陵王が益州刺史となり、府の官僚を重く選ぶにあたり、種を征西東曹掾としたが、種は母が老いていることを理由に辞し、表を抗して陳請したため、有司に奏せられ、坐して免官された。
侯景の乱の時、種は母を奉じて東に奔り、久しくして郷里に達することができた。間もなく母が卒去し、種は当時五十歳であったが、毀瘠甚だしく、また凶荒に迫られ、時に葬るを得ず、服制は終わったが、居処飲食は常に喪中にあるが如くであった。侯景が平定されると、 司徒 王僧辯がその状を奏聞し、貞威将軍・治中従事史に起用され、併せて葬礼を具えさせ、葬り終わって初めて、種は吉服に即した。僧辯はまた種が年老いて傍らに胤嗣がないとして、妾及び居処の具を賜った。
貞陽侯が位を僭すると、廷尉卿・太子中庶子に任じられた。敬帝が即位すると、 散騎常侍 となり、御史中丞に遷り、前軍将軍を領した。高祖が禅を受けると、太府卿となった。天嘉元年、左民尚書に任じられた。二年、呉郡を権監し、尋いで本職に徴されて復した。侍中に遷り、歩兵 校尉 を領したが、公事により免官され、白衣のまま太常卿を兼ね、間もなく即真となった。廃帝が即位すると、右軍将軍を領することを加えられたが、拝せず、改めて弘善宮衛尉を領し、また揚・東揚二州大中正を領した。高宗が即位すると、重ねて都官尚書となり、左 驍 騎将軍を領し、中書令に遷り、 驍 騎・中正は並びに元の如くであった。疾により金紫光禄大夫を授けられた。
種は沈深虚静であり、識量は宏博で、当時の人皆宰相の器と為した。 僕射 徐陵が嘗て表を抗して種に位を譲ろうとして言った。「臣種は器懐沈密にして、文史に優裕たり。東南の貴秀、朝廷の親賢、其の猷を克く壮んにす。左執に居るに宜し」と。其の時推重されたこと此の如しであった。太建五年に卒去し、時年七十、特進を贈られ、諡して元子といった。
種は仁恕寡欲で、歴居顕位といえども、家産は屡々空しく、終日晏然として、病と為さず。太建初年、娘が始興王妃となったが、居処が僻陋であるため、特に宅一区を賜い、また累ねて無錫・嘉興県侯の秩を賜った。嘗て無錫にて重囚が獄にあるのを見、天寒きに、呼び出して日に曝すと、遂に之を失った。世祖は大笑したが、深く責めなかった。集十四巻有り。
種の弟稜もまた清静にして識度有り、官は 司徒 左長史に至り、太建十一年に卒し、時年七十、光禄大夫を贈られた。
種の族子稚才は、斉の護軍沖之の孫である。少より孤介特立し、仕えて尚書金部郎中となった。右丞、建康令、太舟卿、揚州別駕従事史に遷り、 散騎常侍 を兼ねた。周に使いし、還って司農・廷尉卿となった。歴任した所皆清廉潔白と称された。
王固
王固は字を子堅といい、左光禄大夫通の弟である。少より清正で、頗る文史に渉り、梁武帝の甥として莫口亭侯に封ぜられた。秀才に挙げられた。梁の秘書郎として起家し、太子洗馬に遷り、東宮の管記を掌り、生母の憂いにより官を去った。服喪が終わると、丹陽尹丞に任じられた。侯景の乱の時、荊州に奔り、梁元帝が承制して相国戸曹属と為し、管記を掌らせた。尋いで西魏に聘され、魏人は彼が梁氏の外戚であるため、之を厚く待った。承聖元年、太子中庶子に遷り、尋いで貞威将軍・安南長史・尋陽太守となった。荊州が陥落すると、固は鄱陽に至り、兄の質に随って東嶺を度り、信安県に居した。紹泰元年、侍中に徴されたが就かず。永定年中、呉郡に移住した。世祖は固が清静であることから、且つ婚姻を申し加えようとした。天嘉二年、都に至り、国子祭酒に拝された。三年、中書令に遷った。四年、また 散騎常侍 ・国子祭酒となった。其の年、固の女を皇太子妃と為し、礼遇甚だ重かった。
廃帝が即位すると、侍中・金紫光禄大夫を授けられた。時に高宗が政を輔けるにあたり、固は廃帝の外戚として、乳母が常に禁中に往来し、密旨を頗る宣べ、事が洩れたため、誅に伏さんと比したが、高宗は固が元より兵権無く、且つ居処清潔であるとして、止む所居の官を免じ、禁錮に処した。
太建二年、例に随って招遠将軍・宣恵 豫 章王諮議参軍となった。太中大夫・太常卿・南徐州大中正に遷った。七年、官に卒し、時年六十三。金紫光禄大夫を贈られた。喪事に須いる所は、資給に随って給された。至徳二年に改葬し、諡して恭子といった。
固は清虚寡欲で、喪に居るに孝をもって聞こえた。また仏法を崇信し、生母の憂いに遭うと、遂に終身蔬食とし、夜は坐禅し、昼は仏経を誦し、兼ねて成実論義を習ったが、玄言には長じていなかった。嘗て西魏に聘された時、宴饗の際に因り、一羊の殺生を停めるよう請うと、羊が固の前に跪拝した。また昆明池にて宴し、魏人は南人が魚を嗜むとして大いに罟網を設けたが、固が仏法をもって之を呪うと、遂に一鱗も獲られなかった。
子の寛は、官は 司徒 左長史・侍中に至った。
孔奐
孔奐は字を休文といい、會稽郡山陰県の人である。曾祖父の琇之は、斉の左民尚書・呉興太守であった。祖父の〓は、太子舎人・尚書三公郎であった。父の稚孫は、梁の寧遠枝江公主簿・無錫県令であった。
奐は数歳で孤児となり、叔父の虔孫に養育された。学問を好み、文章をよくし、経書・史書・諸子百家の書に通じないものはなかった。沛国の劉顯は当時学府と称され、たびたび奐と議論を交わし、深く感服して、ついに奐の手を取って言った、「昔、蔡伯喈(邕)が蔵書をすべて王仲宣(粲)に与えたが、私はあの蔡君に倣いたい。足下は王氏に恥じるところはない」。所蔵の書籍を、まもなくして奐に託した。
州より秀才に挙げられ、射策(策問に対する回答)で高第となった。初官は揚州主簿・宣恵湘東王行参軍に任ぜられたが、いずれも就任しなかった。また鎮西湘東王外兵参軍に任ぜられ、のちに朝廷に入って尚書倉部郎中となり、儀曹侍郎に転じた。当時、左民郎の沈炯が匿名の文書で誹謗され、重刑に処せられようとし、事態は朝廷の役所にまで及び、人々は憂い恐れたが、奐が朝廷での議論で理を説いたため、ついに真相が明らかになった。丹陽尹の何敬容は奐の剛直さを認め、功曹史に補任するよう請うた。南昌侯相として出向したが、侯景の乱に遭遇し、任地には赴かなかった。
京城が陥落すると、朝廷の士人たちは皆捕らえられた。ある者が賊の将帥である侯子鑒に奐を推薦したので、子鑒は奐の枷を外させ、手厚く待遇し、書記を掌らせた。当時、侯景の軍兵は皆その凶暴な威勢をほしいままにしており、子鑒は侯景の腹心で、委任も重かったので、朝廷の士人で彼に会う者は、みな卑屈に頭を下げたが、奐だけは傲然として泰然自若とし、少しもへりくだらなかった。ある者が奐を諫めて言った、「当今は乱世であり、人はみな 苟 にも免れようと考える。獯羯(異民族)は道理を知らない。どうして義をもって抗することができようか」。奐は言った、「私の命には定めがある。死ぬことはできなくとも、どうして凶悪な醜類に媚びて、全きを求めようか」。当時、賊徒は子女を掠奪し、士人や庶民を拘束・逼迫したが、奐は常に彼らを保護し、全うさせ救った者は非常に多かった。
まもなく母の喪に遭い、哀痛のあまり礼の度を越えて憔悴した。当時は天下が喪乱のため、皆三年の喪を終えることができなかったが、ただ奐と呉国の張種だけが、寇乱の中にあっても礼法を守り、ともに孝行で知られた。
侯景が平定されると、 司徒 の王僧辯が先に辟召の文書を下し、奐を左西曹掾に引き立て、また丹陽尹丞に任じた。梁の元帝が荊州で即位すると、奐と沈炯を徴召してともに西上するよう命じたが、僧辯はたびたび上表して留めるよう請うた。帝は手 詔 で僧辯に答えて言った、「孔・沈の二士は、今しばらく公にお貸しする」。朝廷においてこのように重んじられたのである。やがて 太尉 従事中郎に任ぜられた。僧辯が揚州刺史となると、また揚州治中従事史に補任した。当時、侯景が平定されたばかりで、何事も草創期にあり、典章や旧来の制度は、もはや残っているものはなかった。奐は広く物事に通じ記憶力が強く、古い事柄を明らかにし、問われて知らないことはなく、儀礼の規定や様式、上奏文や書簡などは、すべて奐の手によるものであった。
高祖( 陳霸先 )が丞相となると、 司徒 右長史に任ぜられ、給事黄門侍郎に転じた。斉が東方老・蕭軌らを派遣して侵攻してくると、軍は後湖に至り、都邑は騒擾し、また四方が遮断されて糧食の輸送が続かず、三軍の補給はただ京師に頼るのみとなった。そこで奐を貞威将軍・建康令に任じた。当時は長年にわたる兵乱と凶作で、戸口は離散し、強敵が突然到来したため、徴発・要求するものもなかった。高祖は決戦の日を定め、そこで奐に大量の麦飯を用意させ、荷葉で包ませた。一夜のうちに数万包を得て、軍人は朝食を済ませると残りを捨て、その勢いで決戦し、ついに賊を大破した。
高祖が禅譲を受けると、太子中庶子に転じた。永定二年、 晉 陵太守に任ぜられた。 晉 陵は宋・斉以来、旧来より大郡であり、寇乱を経たとはいえ、まだ豊かであった。前後して赴任した太守(二千石)の多くは侵暴を行ったが、奐は清廉潔白に自らを守り、妻子を任地に連れず、ただ単身で船に乗って郡に臨んだ。得た俸禄は、すぐに孤児や寡婦に分け与えたので、郡中は大いに喜び、「神君」と称した。曲阿の富人である殷綺は、奐の生活が質素なのを見て、衣服一揃いと毛氈の布団一式を贈った。奐は言った、「太守は良い俸禄に身を置いている。どうしてこれが調達できないことがあろうか。ただ民にまだ行き届かないことがあるので、独り温飽を楽しむことは許されないのだ。卿の厚意を労うが、煩わさないでほしい」。
初め、世祖( 陳蒨 )が呉中におられた時、奐の善政を聞き、即位すると、御史中丞に徴し、揚州大中正を領せしめた。奐の性質は剛直で、道理をよく守り、多く糾弾・弾劾したので、朝廷は甚だ敬い畏れた。治世の根本に深く通じ、上奏するたびに、上(皇帝)は称善せぬことはなく、諸官庁の滞った事柄は、すべて奐に決裁させた。 散騎常侍 に転じ、歩兵 校尉 を領し、中書舎人となり、詔誥を掌り、揚州・東揚州の二州大中正を兼ねた。天嘉四年、再び御史中丞に任ぜられ、まもなく五兵尚書となり、常侍・中正の職はもとのままとした。当時、世祖は御不例であり、朝廷の諸事は、みな僕射の到仲挙に命じて奐とともに決裁させた。世祖の病が重くなると、奐は高宗( 陳頊 )および仲挙、ならびに吏部尚書の袁枢、中書舎人の劉師知らとともに、侍医して薬を奉った。世祖はかつて奐らに言った、「今、三方(北斉・北周・陳)が鼎立し、民はまだ安寧を得ていない。天下の事は重く、長君を要する。朕は近くは晋の成帝(幼少で即位)の例を、遠くは殷の法(兄終弟及)を尊びたい。卿らはこの意に従わねばならない」。奐は涙を流しすすり泣きながら答えて言った、「陛下は御体の調子が悪いが、ご回復は遠くない。皇太子は年齢も盛んであり、聖徳は日々高まっている。安成王(陳頊)は介弟(次弟)の尊位にあり、周公旦に足り、阿衡(伊尹)のような宰輔である。もし廃立の御心があるならば、臣ら愚かな誠意をもって、詔を拝聴することはできません」。世祖は言った、「古の遺直(正義を守る者)が、卿に再び現れた」。天康元年、ついに奐を太子詹事に任じ、二州中正の職はもとのままとした。
世祖が崩御し、廃帝( 陳伯宗 )が即位すると、 散騎常侍 ・国子祭酒に任ぜられた。光大二年、信武将軍・南中郎康楽侯長史・尋陽太守として出向し、江州の事務を代行した。高宗が即位すると、仁威将軍の号を進められ、雲麾始興王長史となり、その他の職はもとのままとした。奐は職務において清廉・倹約で、多く規律を正したので、高宗はこれを嘉し、米五百斛を賜り、またたびたび勅書を下してねんごろに労を問うた。太建三年、度支尚書に徴され、右軍将軍を領した。五年、太子中庶子を領するよう改められ、左僕射の徐陵とともに尚書五条事を参掌した。六年、吏部尚書に転じた。七年、 散騎常侍 を加えられた。八年、侍中に改めて加えられた。当時、北討の軍があり、淮・泗を回復し、徐州・ 豫 州の酋長が降伏・帰順して相次いだため、封賞や選任の事務が紛紜として重なり合ったが、奐は応対し引き立てて進め、門には賓客が絶えることがなかった。さらに人物を鑑識し、百家の事柄に詳しく練達し、凡そ選抜した人物は、士大夫・縉紳たる者、悦んで服さない者はなかった。
性質は剛直で、請託を絶ち、たとえ皇太子の尊さや、公侯の重みがあっても、情誼に溺れて及ぶことがあっても、ついに屈服しなかった。始興王叔陵が湘州にいたとき、しばしば役人にほのめかし、固く台鉉(三公の位)を求めた。陸瓛は言った、「羇章(地方長官)の職は、本来徳行によって挙げられるもので、必ずしも皇族の枝葉(皇枝)によるものではない」と。そこで高宗に直言した。高宗は言った、「始興王がどうして公を望むことがあろうか、また朕の子が公となるには、鄱陽王の後でなければならない」。瓛は言った、「臣の見るところも、聖旨の通りでございます」。 後主 が東宮におられたとき、江総を太子詹事にしようとし、管記の陸瑜に命じて瓛に言わせた。瓛は瑜に言った、「江総には潘岳・陸機のような華やかさはあるが、東園公・綺里季のような実質はなく、儲君を輔弼することは、私には難しいと思う」。瑜はことごとく後主に報告した。後主は深く恨みに思い、自ら高宗に申し上げた。高宗が許そうとしたとき、瓛は上奏して言った、「江総は文華の人でございます。今、皇太子には文華が少なくありません。どうして江総に頼る必要がありましょうか。愚臣の見るところでは、敦厚で重厚な才を選び、輔導の任に就かせたいと存じます」。帝は言った、「卿の言う通りなら、誰がこの任に就くべきか」。瓛は言った、「都官尚書の王廓は、代々美徳を持ち、識見と性質が敦厚で聡明でございます。彼を任じることができます」。後主がその時も側にいて、言った、「王廓は王泰の子である。太子詹事に就けるわけにはいかない」。瓛はまた上奏して言った、「宋朝の范曄は范泰の子であり、また太子詹事となりました。前代は疑いませんでした」。後主が固く争ったので、帝はついに江総を詹事とした。これによって旨に逆らった。その剛直さはこのようであった。
初め、後主は私的な寵愛する者に官職を与えようとし、陸瓛に任せようとしたが、瓛は従わなかった。右僕射の陸繕が転任したとき、高宗は瓛を用いようとし、すでに詔書を草稿し終えたが、後主に抑えられ、ついに行われなかった。太建九年(577年)、侍中・中書令に遷り、左 驍 騎将軍・揚州・東揚州・豊州の三州大中正を領した。十一年(579年)、太常卿に転じ、侍中・中正はもとの通りであった。十四年(582年)、 散騎常侍 ・金紫光禄大夫に遷り、前軍将軍を領したが、拝受せず、改めて弘範宮衛尉を領した。至徳元年(583年)に卒去した。時に七十歳。 散騎常侍 を追贈され、本官はもとの通りであった。文集十五巻、弾文四巻がある。
子に紹薪・紹忠がいる。紹忠は字を孝揚といい、また才学があり、官は太子洗馬・儀同鄱陽王東曹掾に至った。
蕭允
蕭允は字を叔佐といい、蘭陵の人である。曾祖父の蕭思話は、宋の征西将軍・開府儀同三司・尚書右僕射で、陽穆公に封ぜられた。祖父の蕭惠蒨は、 散騎常侍 ・太府卿・左民尚書であった。父の蕭介は、梁の侍中・都官尚書であった。
蕭允は若くして名を知られ、風采と精神は凝り遠く、物事に通達し識見と鑑識があり、容姿と立ち居振る舞いは含蓄があり、行動は規矩に合っていた。初め邵陵王の法曹参軍に起家し、湘東王の主簿に転じ、太子洗馬に遷った。侯景が台城を攻め落としたとき、百官は逃げ散ったが、蕭允ひとりが衣冠を整えて宮坊に坐っていた。侯景の軍人も彼を敬って脅かさなかった。まもなく京口に出て居住した。当時、賊寇が縦横に跋扈し、百姓は波のように驚き、士族たちは四方に逃げ散ったが、蕭允ひとりは行かなかった。人がその理由を尋ねると、蕭允は答えて言った、「生命の道理には、自ずから常の分け前がある。どうして逃れて免れることができようか。ただ患難の生ずるのは、皆、利から生じる。もし利を求めなければ、禍はどこから生じようか。今、百姓は争って奮臂して大功を論じ、一言で卿相を得ようとしている。一介の書生に何の関わりがあろうか。荘周のいわゆる影を畏れて跡を避けることは、私はしない」。そこで門を閉めて静かに処し、二日に一度食事をし、ついに患難を免れた。
侯景が平定された後、高祖(陳霸先)が南徐州を鎮守したとき、手紙で彼を召したが、蕭允はまた病気を理由に辞退した。永定年間(557-559年)、 侯安都 が南徐州刺史となったとき、自らその家を訪れ、長幼の礼を尽くした。天嘉三年(562年)、太子庶子に徴された。三年(562年か)、稜威将軍・丹陽尹丞に任ぜられた。五年(564年)、侍中を兼ね、周に聘使として赴き、帰還後、中書侍郎・大匠卿に任ぜられた。
高宗(陳頊)が即位すると、黄門侍郎に遷った。太建五年(573年)、安前晋安王長史として出向した。六年(574年)、晋安王が南 豫 州刺史となると、蕭允は再び王の長史となった。当時、王はまだ幼く、民政に親しまなかったので、蕭允に府州の事務を行わせた。のちに光禄卿として朝廷に入った。蕭允の性質は敦厚で重厚であり、栄利を心にかけたことはなかった。晋安王が湘州に出鎮するとき、また蕭允を連れて行くのを苦労した。蕭允は若い頃、蔡景歴と親しくしていた。景歴の子の蔡徴は父の友人に対する礼を修め、蕭允が出発しようとしていると聞き、蕭允を訪ねて言った、「公は年齢も徳も共に高く、国の元老です。ゆったりと坐って鎮められ、朝夕のうちに自ずから列曹(朝廷の高官)となられるでしょう。どうしてまた外で辛苦なさるのですか」。蕭允は答えて言った、「すでに晋安王に約束した。どうして信を忘れることができようか」。その栄勢に恬淡な様はこのようであった。
至徳三年(585年)、中衛 豫 章王長史に任ぜられ、累遷して通直 散騎常侍 ・光勝将軍・ 司徒 左長史・安德宮少府となった。鎮衛鄱陽王が会稽に出鎮すると、蕭允はまた長史となり、会稽郡丞を帯びた。延陵の季子廟を通り過ぎるとき、蘋藻の供え物を設け、異代の交わりを託して、詩を作って意を述べた。言葉と道理は清らかで典雅であった。後主がかつて蔡徴に尋ねて言った、「卿は代々蕭允と知り合いであるが、この人の志操はどうか」。蔡徴は言った、「その清虚で玄遠なところは、ほとんど測りがたいものです。文章については、言うことができます」。そこで蕭允の詩を誦して答えた。後主はしばらく嘆賞した。その年、光禄大夫に任ぜられた。
隋の軍が長江を渡ると、蕭允は関右(長安方面)に移った。この時、長安に至った朝廷の士人は、例によって皆官職を授けられたが、蕭允と尚書僕射の謝伷だけは老病を理由に辞退した。隋の 文帝 (楊堅)は彼らの義を重んじ、ともに多額の銭帛を賜った。まもなく病気で長安に卒去した。時に八十四歳。
弟の蕭引
弟の蕭引。蕭引は字を叔休という。方正で器量と見識があり、見たところ厳然として、たとえ慌ただしい間でも、必ず法度による。性質は聡明で、博学であり、文章をよくした。著作佐郎として初任し、西昌侯儀同府主簿に転じた。侯景の乱のとき、梁の元帝(蕭繹)が荊州刺史となると、朝士の多くは彼のもとに帰った。蕭引は言った、「諸王が力を争い、禍患がまさに始まろうとしている。今日の難を逃れるのは、君主を選ぶ時ではない。我が家は二代にわたって始興郡太守を務め、民に遺愛がある。ただ南に行って家門を存続させるべきだ」。そこで弟の蕭彤や宗族・親族など百余人とともに嶺表(五嶺以南)に奔った。当時、始興の人欧陽頠が衡州刺史であったので、蕭引は彼のもとに身を寄せた。欧陽頠は後に広州に遷り、病死した。子の欧陽紇がその衆を領した。蕭引はしばしば欧陽紇に異心があるのを疑い、事に因って規正したので、情誼と礼遇は次第に疎遠になった。欧陽紇が挙兵して反乱を起こしたとき、当時、京都の士人岑之敬・公孫挺などは皆恐れ慌てたが、蕭引だけは恬然として、之敬らに言った、「管寧(幼安)や袁渙(曜卿)もただ安坐していただけだ。君子は身を正して道を明らかにし、己を直くして義を行えば、また何を憂い恐れようか」。章昭達が番禺を平定すると、蕭引は初めて北に帰還した。高宗は蕭引を召して嶺表の事情を尋ねた。蕭引は始末をことごとく陳述した。帝は大いに喜び、その日に金部侍郎に任ぜられた。
蕭引は隷書をよくし、当時に重んじられた。高宗がかつて上奏文を披覧し、蕭引の署名を指して言った、「この字の筆勢は軽やかで、鳥が飛ぼうとしているようだ」。蕭引は謝して言った、「これは陛下がその羽毛をお与えになったからでございます」。また蕭引に言った、「私は何か怒ることがあると、卿に会うとすぐに気が解ける。なぜだろう」。蕭引は言った、「これは陛下が怒りを他に遷さないからでございます。臣がどうしてこの恩恵に関与できましょう」。太建七年(575年)、戎昭将軍を加えられた。九年(577年)、中衛始興王諮議参軍に任ぜられ、金部侍郎を兼ねた。
引は性質剛直にして、権貴に事えず、左右の近臣に対し、造請することなく、高宗はたびたび任用を遷そうとしたが、つねに用事者によって裁かれた。呂梁にて軍が覆滅し、軍需が空乏すると、引を庫部侍郎に転任させ、弓弩槊箭などの製造を掌らしめた。引は在職一年にして、器械が充満した。たびたび中書侍郎、貞威将軍、黄門郎を加えられた。十二年、吏部侍郎が欠員となり、所司はたびたび王寛、謝燮らを推挙したが、帝はともに用いず、中詔をもって引を用いた。
時に広州刺史馬靖は嶺表の人心を大いに得て、兵甲は精練であり、毎年俚洞に深入りし、またたびたび戦功を挙げたため、朝野に異議が生じた。高宗は引が嶺外の事情に通じているとして、引を遣わして馬靖を観察させ、その挙措を審らかにし、密かに人質を送るよう諷させた。引は密旨を奉じて南行し、外には賧物を収督することを託した。番禺に至ると、馬靖はただちに旨を悟り、子弟をことごとく都に下して人質とした。還って贛水に至ったところで高宗が崩御し、後主が即位すると、引を中庶子に転じたが、病により官を去った。翌年、京師に盗賊多く、ふたたび貞威将軍、建康令として起用された。
時に殿内隊主の呉璡、および宦官の李善度、蔡脱児らはたびたび請属したが、引は一切許さなかった。引の族子の密は時に黄門郎であり、引に諫めて言うには、「李、蔡の勢いは、在位の者皆これを畏憚しております。少しは身の計らいをなさるべきです」と。引は言うには、「わが立身は、もとより本末あり。どうして李、蔡のために行いを改められようか。たとえ不遇となっても、解職されるに過ぎぬ」と。呉璡はついに匿名の文書を作り、李、蔡がこれを証したため、官を免ぜられ、家で卒した。時に五十八歳。子の徳言は最も知名である。
引の宗族子弟は、多く行義をもって知名であった。弟の彤は、恬静にして学を好み、官は太子中庶子、南康王長史に至った。密は字を士機といい、幼くして聡敏、博学にして文詞あり。祖父の琛は、梁の特進。父の遊は、少府卿。密は太建八年、 散騎常侍 を兼ね、斉に聘された。歴任して黄門侍郎、太子中庶子、 散騎常侍 となった。
【史論】
史臣が言う。謝、王、張、蕭は、みな清浄を風とし、文雅をもって誉れを流し、たとえ多く難に遭うも、ついに名を成した。謝奐は公に謇諤、英飆をもって俗を振るい、その行事を詳らかにすれば、古の遺愛を抑えたるものか。謝固の蔬菲禅悦、これは俗を出たる者であるが、なおかつ罷免に絓り、傾覆を懼れた。これをもって知る、上官桀、霍光の権勢、閻顕、鄧騭、梁冀、竇憲の震動は、ああ畏るべきかな。