謝哲
謝哲は字を穎豫といい、陳郡陽夏の人である。祖父の朏は、梁の司徒であった。父の譓は、梁の右光禄大夫であった。
蕭乾
蕭乾は字を思惕といい、蘭陵の人である。祖父の嶷は、斉の丞相豫章文献王であった。父の子範は、梁の秘書監であった。
乾は容姿挙動が雅正で、性質は恬淡簡素であり、隷書をよくし、叔父の子雲の法を得ていた。九歳の時、召されて国子周易生に補せられ、梁の司空袁昂が当時祭酒であったが、深く敬重した。十五歳で明経に挙げられた。初官として東中郎湘東王法曹参軍となり、太子舎人に遷った。建安侯蕭正立が南豫州に出鎮すると、また板録事参軍とした。累遷して中軍宣城王中録事諮議参軍となった。侯景が平定されると、高祖が南徐州を鎮守し、乾を貞威将軍・司空従事中郎に引き立てた。中書侍郎・太子家令に遷った。
謝嘏
謝嘏は字を含茂といい、陳郡陽夏の人である。祖父の〓は、斉の金紫光禄大夫であった。父の挙は、梁の中衛将軍・開府儀同三司であった。
張種
張種は字を士苗といい、呉郡の人である。祖父の辯は、宋の司空右長史・広州刺史であった。父の略は、梁の太子中庶子・臨海太守であった。
種は若い頃から恬静で、居処は雅正であり、妄りに交遊せず、傍らに請い造る者もなく、当時の人は彼について語って言った。「宋は敷・演を称し、梁は巻・充たり。清虚の学尚、種は其の風有り」と。梁の王府法曹に仕え、外兵参軍に遷り、父の憂いにより官を去った。服喪が終わると、中軍宣城王府主簿となった。種は当時四十余歳で、家が貧しかったため、始豊県令を求め、入朝して中衛西昌侯府西曹掾に任じられた。時に武陵王が益州刺史となり、府の官僚を重く選ぶにあたり、種を征西東曹掾としたが、種は母が老いていることを理由に辞し、表を抗して陳請したため、有司に奏せられ、坐して免官された。
侯景の乱の時、種は母を奉じて東に奔り、久しくして郷里に達することができた。間もなく母が卒去し、種は当時五十歳であったが、毀瘠甚だしく、また凶荒に迫られ、時に葬るを得ず、服制は終わったが、居処飲食は常に喪中にあるが如くであった。侯景が平定されると、司徒王僧辯がその状を奏聞し、貞威将軍・治中従事史に起用され、併せて葬礼を具えさせ、葬り終わって初めて、種は吉服に即した。僧辯はまた種が年老いて傍らに胤嗣がないとして、妾及び居処の具を賜った。
種は沈深虚静であり、識量は宏博で、当時の人皆宰相の器と為した。僕射徐陵が嘗て表を抗して種に位を譲ろうとして言った。「臣種は器懐沈密にして、文史に優裕たり。東南の貴秀、朝廷の親賢、其の猷を克く壮んにす。左執に居るに宜し」と。其の時推重されたこと此の如しであった。太建五年に卒去し、時年七十、特進を贈られ、諡して元子といった。
種は仁恕寡欲で、歴居顕位といえども、家産は屡々空しく、終日晏然として、病と為さず。太建初年、娘が始興王妃となったが、居処が僻陋であるため、特に宅一区を賜い、また累ねて無錫・嘉興県侯の秩を賜った。嘗て無錫にて重囚が獄にあるのを見、天寒きに、呼び出して日に曝すと、遂に之を失った。世祖は大笑したが、深く責めなかった。集十四巻有り。
種の弟稜もまた清静にして識度有り、官は司徒左長史に至り、太建十一年に卒し、時年七十、光禄大夫を贈られた。
種の族子稚才は、斉の護軍沖之の孫である。少より孤介特立し、仕えて尚書金部郎中となった。右丞、建康令、太舟卿、揚州別駕従事史に遷り、散騎常侍を兼ねた。周に使いし、還って司農・廷尉卿となった。歴任した所皆清廉潔白と称された。
王固
廃帝が即位すると、侍中・金紫光禄大夫を授けられた。時に高宗が政を輔けるにあたり、固は廃帝の外戚として、乳母が常に禁中に往来し、密旨を頗る宣べ、事が洩れたため、誅に伏さんと比したが、高宗は固が元より兵権無く、且つ居処清潔であるとして、止む所居の官を免じ、禁錮に処した。
固は清虚寡欲で、喪に居るに孝をもって聞こえた。また仏法を崇信し、生母の憂いに遭うと、遂に終身蔬食とし、夜は坐禅し、昼は仏経を誦し、兼ねて成実論義を習ったが、玄言には長じていなかった。嘗て西魏に聘された時、宴饗の際に因り、一羊の殺生を停めるよう請うと、羊が固の前に跪拝した。また昆明池にて宴し、魏人は南人が魚を嗜むとして大いに罟網を設けたが、固が仏法をもって之を呪うと、遂に一鱗も獲られなかった。
子の寛は、官は司徒左長史・侍中に至った。
孔奐
孔奐は字を休文といい、會稽郡山陰県の人である。曾祖父の琇之は、斉の左民尚書・呉興太守であった。祖父の〓は、太子舎人・尚書三公郎であった。父の稚孫は、梁の寧遠枝江公主簿・無錫県令であった。
奐は数歳で孤児となり、叔父の虔孫に養育された。学問を好み、文章をよくし、経書・史書・諸子百家の書に通じないものはなかった。沛国の劉顯は当時学府と称され、たびたび奐と議論を交わし、深く感服して、ついに奐の手を取って言った、「昔、蔡伯喈(邕)が蔵書をすべて王仲宣(粲)に与えたが、私はあの蔡君に倣いたい。足下は王氏に恥じるところはない」。所蔵の書籍を、まもなくして奐に託した。
州より秀才に挙げられ、射策(策問に対する回答)で高第となった。初官は揚州主簿・宣恵湘東王行参軍に任ぜられたが、いずれも就任しなかった。また鎮西湘東王外兵参軍に任ぜられ、のちに朝廷に入って尚書倉部郎中となり、儀曹侍郎に転じた。当時、左民郎の沈炯が匿名の文書で誹謗され、重刑に処せられようとし、事態は朝廷の役所にまで及び、人々は憂い恐れたが、奐が朝廷での議論で理を説いたため、ついに真相が明らかになった。丹陽尹の何敬容は奐の剛直さを認め、功曹史に補任するよう請うた。南昌侯相として出向したが、侯景の乱に遭遇し、任地には赴かなかった。
京城が陥落すると、朝廷の士人たちは皆捕らえられた。ある者が賊の将帥である侯子鑒に奐を推薦したので、子鑒は奐の枷を外させ、手厚く待遇し、書記を掌らせた。当時、侯景の軍兵は皆その凶暴な威勢をほしいままにしており、子鑒は侯景の腹心で、委任も重かったので、朝廷の士人で彼に会う者は、みな卑屈に頭を下げたが、奐だけは傲然として泰然自若とし、少しもへりくだらなかった。ある者が奐を諫めて言った、「当今は乱世であり、人はみな苟にも免れようと考える。獯羯(異民族)は道理を知らない。どうして義をもって抗することができようか」。奐は言った、「私の命には定めがある。死ぬことはできなくとも、どうして凶悪な醜類に媚びて、全きを求めようか」。当時、賊徒は子女を掠奪し、士人や庶民を拘束・逼迫したが、奐は常に彼らを保護し、全うさせ救った者は非常に多かった。
侯景が平定されると、司徒の王僧辯が先に辟召の文書を下し、奐を左西曹掾に引き立て、また丹陽尹丞に任じた。梁の元帝が荊州で即位すると、奐と沈炯を徴召してともに西上するよう命じたが、僧辯はたびたび上表して留めるよう請うた。帝は手詔で僧辯に答えて言った、「孔・沈の二士は、今しばらく公にお貸しする」。朝廷においてこのように重んじられたのである。やがて太尉従事中郎に任ぜられた。僧辯が揚州刺史となると、また揚州治中従事史に補任した。当時、侯景が平定されたばかりで、何事も草創期にあり、典章や旧来の制度は、もはや残っているものはなかった。奐は広く物事に通じ記憶力が強く、古い事柄を明らかにし、問われて知らないことはなく、儀礼の規定や様式、上奏文や書簡などは、すべて奐の手によるものであった。
高祖(陳霸先)が丞相となると、司徒右長史に任ぜられ、給事黄門侍郎に転じた。斉が東方老・蕭軌らを派遣して侵攻してくると、軍は後湖に至り、都邑は騒擾し、また四方が遮断されて糧食の輸送が続かず、三軍の補給はただ京師に頼るのみとなった。そこで奐を貞威将軍・建康令に任じた。当時は長年にわたる兵乱と凶作で、戸口は離散し、強敵が突然到来したため、徴発・要求するものもなかった。高祖は決戦の日を定め、そこで奐に大量の麦飯を用意させ、荷葉で包ませた。一夜のうちに数万包を得て、軍人は朝食を済ませると残りを捨て、その勢いで決戦し、ついに賊を大破した。
性質は剛直で、請託を絶ち、たとえ皇太子の尊さや、公侯の重みがあっても、情誼に溺れて及ぶことがあっても、ついに屈服しなかった。始興王叔陵が湘州にいたとき、しばしば役人にほのめかし、固く台鉉(三公の位)を求めた。陸瓛は言った、「羇章(地方長官)の職は、本来徳行によって挙げられるもので、必ずしも皇族の枝葉(皇枝)によるものではない」と。そこで高宗に直言した。高宗は言った、「始興王がどうして公を望むことがあろうか、また朕の子が公となるには、鄱陽王の後でなければならない」。瓛は言った、「臣の見るところも、聖旨の通りでございます」。後主が東宮におられたとき、江総を太子詹事にしようとし、管記の陸瑜に命じて瓛に言わせた。瓛は瑜に言った、「江総には潘岳・陸機のような華やかさはあるが、東園公・綺里季のような実質はなく、儲君を輔弼することは、私には難しいと思う」。瑜はことごとく後主に報告した。後主は深く恨みに思い、自ら高宗に申し上げた。高宗が許そうとしたとき、瓛は上奏して言った、「江総は文華の人でございます。今、皇太子には文華が少なくありません。どうして江総に頼る必要がありましょうか。愚臣の見るところでは、敦厚で重厚な才を選び、輔導の任に就かせたいと存じます」。帝は言った、「卿の言う通りなら、誰がこの任に就くべきか」。瓛は言った、「都官尚書の王廓は、代々美徳を持ち、識見と性質が敦厚で聡明でございます。彼を任じることができます」。後主がその時も側にいて、言った、「王廓は王泰の子である。太子詹事に就けるわけにはいかない」。瓛はまた上奏して言った、「宋朝の范曄は范泰の子であり、また太子詹事となりました。前代は疑いませんでした」。後主が固く争ったので、帝はついに江総を詹事とした。これによって旨に逆らった。その剛直さはこのようであった。
子に紹薪・紹忠がいる。紹忠は字を孝揚といい、また才学があり、官は太子洗馬・儀同鄱陽王東曹掾に至った。
蕭允
蕭允は字を叔佐といい、蘭陵の人である。曾祖父の蕭思話は、宋の征西将軍・開府儀同三司・尚書右僕射で、陽穆公に封ぜられた。祖父の蕭惠蒨は、散騎常侍・太府卿・左民尚書であった。父の蕭介は、梁の侍中・都官尚書であった。
蕭允は若くして名を知られ、風采と精神は凝り遠く、物事に通達し識見と鑑識があり、容姿と立ち居振る舞いは含蓄があり、行動は規矩に合っていた。初め邵陵王の法曹参軍に起家し、湘東王の主簿に転じ、太子洗馬に遷った。侯景が台城を攻め落としたとき、百官は逃げ散ったが、蕭允ひとりが衣冠を整えて宮坊に坐っていた。侯景の軍人も彼を敬って脅かさなかった。まもなく京口に出て居住した。当時、賊寇が縦横に跋扈し、百姓は波のように驚き、士族たちは四方に逃げ散ったが、蕭允ひとりは行かなかった。人がその理由を尋ねると、蕭允は答えて言った、「生命の道理には、自ずから常の分け前がある。どうして逃れて免れることができようか。ただ患難の生ずるのは、皆、利から生じる。もし利を求めなければ、禍はどこから生じようか。今、百姓は争って奮臂して大功を論じ、一言で卿相を得ようとしている。一介の書生に何の関わりがあろうか。荘周のいわゆる影を畏れて跡を避けることは、私はしない」。そこで門を閉めて静かに処し、二日に一度食事をし、ついに患難を免れた。
高宗(陳頊)が即位すると、黄門侍郎に遷った。太建五年(573年)、安前晋安王長史として出向した。六年(574年)、晋安王が南豫州刺史となると、蕭允は再び王の長史となった。当時、王はまだ幼く、民政に親しまなかったので、蕭允に府州の事務を行わせた。のちに光禄卿として朝廷に入った。蕭允の性質は敦厚で重厚であり、栄利を心にかけたことはなかった。晋安王が湘州に出鎮するとき、また蕭允を連れて行くのを苦労した。蕭允は若い頃、蔡景歴と親しくしていた。景歴の子の蔡徴は父の友人に対する礼を修め、蕭允が出発しようとしていると聞き、蕭允を訪ねて言った、「公は年齢も徳も共に高く、国の元老です。ゆったりと坐って鎮められ、朝夕のうちに自ずから列曹(朝廷の高官)となられるでしょう。どうしてまた外で辛苦なさるのですか」。蕭允は答えて言った、「すでに晋安王に約束した。どうして信を忘れることができようか」。その栄勢に恬淡な様はこのようであった。
隋の軍が長江を渡ると、蕭允は関右(長安方面)に移った。この時、長安に至った朝廷の士人は、例によって皆官職を授けられたが、蕭允と尚書僕射の謝伷だけは老病を理由に辞退した。隋の文帝(楊堅)は彼らの義を重んじ、ともに多額の銭帛を賜った。まもなく病気で長安に卒去した。時に八十四歳。
弟の蕭引
弟の蕭引。蕭引は字を叔休という。方正で器量と見識があり、見たところ厳然として、たとえ慌ただしい間でも、必ず法度による。性質は聡明で、博学であり、文章をよくした。著作佐郎として初任し、西昌侯儀同府主簿に転じた。侯景の乱のとき、梁の元帝(蕭繹)が荊州刺史となると、朝士の多くは彼のもとに帰った。蕭引は言った、「諸王が力を争い、禍患がまさに始まろうとしている。今日の難を逃れるのは、君主を選ぶ時ではない。我が家は二代にわたって始興郡太守を務め、民に遺愛がある。ただ南に行って家門を存続させるべきだ」。そこで弟の蕭彤や宗族・親族など百余人とともに嶺表(五嶺以南)に奔った。当時、始興の人欧陽頠が衡州刺史であったので、蕭引は彼のもとに身を寄せた。欧陽頠は後に広州に遷り、病死した。子の欧陽紇がその衆を領した。蕭引はしばしば欧陽紇に異心があるのを疑い、事に因って規正したので、情誼と礼遇は次第に疎遠になった。欧陽紇が挙兵して反乱を起こしたとき、当時、京都の士人岑之敬・公孫挺などは皆恐れ慌てたが、蕭引だけは恬然として、之敬らに言った、「管寧(幼安)や袁渙(曜卿)もただ安坐していただけだ。君子は身を正して道を明らかにし、己を直くして義を行えば、また何を憂い恐れようか」。章昭達が番禺を平定すると、蕭引は初めて北に帰還した。高宗は蕭引を召して嶺表の事情を尋ねた。蕭引は始末をことごとく陳述した。帝は大いに喜び、その日に金部侍郎に任ぜられた。
蕭引は隷書をよくし、当時に重んじられた。高宗がかつて上奏文を披覧し、蕭引の署名を指して言った、「この字の筆勢は軽やかで、鳥が飛ぼうとしているようだ」。蕭引は謝して言った、「これは陛下がその羽毛をお与えになったからでございます」。また蕭引に言った、「私は何か怒ることがあると、卿に会うとすぐに気が解ける。なぜだろう」。蕭引は言った、「これは陛下が怒りを他に遷さないからでございます。臣がどうしてこの恩恵に関与できましょう」。太建七年(575年)、戎昭将軍を加えられた。九年(577年)、中衛始興王諮議参軍に任ぜられ、金部侍郎を兼ねた。
時に広州刺史馬靖は嶺表の人心を大いに得て、兵甲は精練であり、毎年俚洞に深入りし、またたびたび戦功を挙げたため、朝野に異議が生じた。高宗は引が嶺外の事情に通じているとして、引を遣わして馬靖を観察させ、その挙措を審らかにし、密かに人質を送るよう諷させた。引は密旨を奉じて南行し、外には賧物を収督することを託した。番禺に至ると、馬靖はただちに旨を悟り、子弟をことごとく都に下して人質とした。還って贛水に至ったところで高宗が崩御し、後主が即位すると、引を中庶子に転じたが、病により官を去った。翌年、京師に盗賊多く、ふたたび貞威将軍、建康令として起用された。
時に殿内隊主の呉璡、および宦官の李善度、蔡脱児らはたびたび請属したが、引は一切許さなかった。引の族子の密は時に黄門郎であり、引に諫めて言うには、「李、蔡の勢いは、在位の者皆これを畏憚しております。少しは身の計らいをなさるべきです」と。引は言うには、「わが立身は、もとより本末あり。どうして李、蔡のために行いを改められようか。たとえ不遇となっても、解職されるに過ぎぬ」と。呉璡はついに匿名の文書を作り、李、蔡がこれを証したため、官を免ぜられ、家で卒した。時に五十八歳。子の徳言は最も知名である。
引の宗族子弟は、多く行義をもって知名であった。弟の彤は、恬静にして学を好み、官は太子中庶子、南康王長史に至った。密は字を士機といい、幼くして聡敏、博学にして文詞あり。祖父の琛は、梁の特進。父の遊は、少府卿。密は太建八年、散騎常侍を兼ね、斉に聘された。歴任して黄門侍郎、太子中庶子、散騎常侍となった。
【史論】
史臣が言う。謝、王、張、蕭は、みな清浄を風とし、文雅をもって誉れを流し、たとえ多く難に遭うも、ついに名を成した。謝奐は公に謇諤、英飆をもって俗を振るい、その行事を詳らかにすれば、古の遺愛を抑えたるものか。謝固の蔬菲禅悦、これは俗を出たる者であるが、なおかつ罷免に絓り、傾覆を懼れた。これをもって知る、上官桀、霍光の権勢、閻顕、鄧騭、梁冀、竇憲の震動は、ああ畏るべきかな。