沈衆
沈衆は字を仲師といい、呉興郡武康県の人である。祖父の沈約は、梁の特進であった。父の沈旋は、梁の給事黄門侍郎であった。
沈衆は学問を好み、文才に優れていた。初めて官に就き、梁の鎮衛南平王の法曹参軍・太子舎人となった。この時、梁の武帝が千字詩を作ると、沈衆はそれに注解を施した。陳郡の謝景と共に文徳殿に召し出され、帝は沈衆に竹賦を作らせた。賦が完成して奏上すると、帝はこれを賞賛し、手ずから詔を下して答えて言うには、「卿の文体は軽やかで、まさに爾が祖父に恥じぬものなり」と。当陽公蕭大心が郢州刺史となると、沈衆を限内記室参軍とした。まもなく鎮南湘東王記室参軍に任じられた。太子中舎人に転じ、散騎常侍を兼ねた。魏に使いし、帰還すると、驃騎廬陵王諮議参軍に転じ、舎人はもとのままとした。
侯景の乱が起こると、沈衆は梁の武帝に上表し、家代々に隷属する旧来の義勇の部曲は皆呉興におり、帰還して兵を募り賊を討伐したいと請うた。梁の武帝はこれを許した。侯景が台城を包囲すると、沈衆は宗族と義勇の付き従う者五千余人を率いて、都の救援に赴き、小航に駐屯し、賊の東府に対峙して陣を布いた。軍容は甚だ整っており、侯景は深くこれを畏れた。梁の武帝は城内から遥かに沈衆を太子右衛率に任じた。京城が陥落すると、沈衆は侯景に降った。
袁泌
袁泌は字を文洋といい、左光禄大夫袁敬の弟である。清く正しく、才幹と器量があり、容貌体躯は魁偉で、志操品行は修め慎み深かった。初めて官に就き、員外散騎侍郎となり、諸王府の佐官を歴任した。
侯景の乱が起こると、袁泌は将軍となることを求めた。この時、袁泌の兄の袁君正が呉郡太守であった。梁の簡文帝は袁泌を東宮領直に板授し、呉中に赴いて士卒を召募するよう命じた。侯景が台城を包囲すると、袁泌は率いる兵を率いて救援に赴いた。京城が陥落すると、東陽に退いて守りを固めた。侯景が兵を遣わして追撃すると、会稽の東嶺より湓城に出て、鄱陽嗣王蕭範に依った。蕭範が卒すると、袁泌は侯景に降った。
劉仲威
劉仲威は、南陽郡涅陽県の人である。祖父の劉虯は、斉の世に国子博士として召されたが、就任しなかった。父の劉之遴は、荊州治中従事史であった。
仲威は若くして志気あり、広く文史に渉猟す。梁の承聖年間に中書侍郎となる。蕭莊が偽って御史中丞に任じ、莊に従って斉に入り、鄴中にて終わる。
陸山才
陸山才、字は孔章、呉郡呉の人なり。祖父は翁宝、梁の尚書水部郎。父は汎、散騎常侍。
紹泰年間、都督周文育が南豫州に出鎮す。書疏を知らざるを以て、乃ち山才を長史とし、政事悉く之に委ぬ。文育の南討、蕭勃を剋ち、歐陽頠を擒ふるに、計画多く山才より出づ。文育の王琳を西征するに及び、山才を留めて江州の事を監せしめ、なお豫章に鎮す。文育と侯安都と沌口にて敗績し、余孝頃が新林より来り豫章を寇すや、山才は余衆を収合し、周迪に依る。余孝頃・李孝欽等を擒ふるや、山才を遣わして鄱陽より楽安嶺の東道を経て京師に送らしむ。中書侍郎を除す。復た楽安嶺より南川諸郡を綏撫す。
文育が豫章金口に重鎮す。山才は復た貞威将軍・鎮南長史・豫章太守となる。文育が熊曇朗に害せらるるや、曇朗は山才等を囚へ、王琳に送る。未だ至らざるに、侯安都が琳の将常衆愛を宮亭湖にて破る。是によりて山才は反ることを獲、貞威将軍・新安太守を除す。王琳未だ平らがざるを以て、富陽に留鎮し、以て東道を捍ぐ。入りて員外散騎常侍となり、宣惠始興王長史に遷り、東揚州事を行ふ。
侯安都が留異を討つに、山才は王府の衆を率いて之に従ふ。異平らぎ、明威将軍・東陽太守を除す。入りて鎮東始興王長史となり、会稽郡丞を帯び、東揚州事を行ふ。未だ拝せずして、改めて散騎常侍を授けられ、度支尚書を兼ね、満歳して真となる。
王質
王質、字は子貞、右光禄大夫通の弟なり。少より慷慨、書史に渉猟す。梁の世、武帝の甥として甲口亭侯に封ぜられ、国子周易生を補し、射策高第なり。秘書郎・太子舎人・尚書殿中郎より起家す。母憂に遭い、居喪孝を以て聞こゆ。服闋し、太子洗馬・東宮領直を除す。累遷して中舎人・庶子となる。
京城陥落の後、西に奔り荊州に至る。元帝承制し、質を右長史とし、河東太守を帯ぶ。俄かに侍中に遷る。まもなく出でて持節・都督呉州諸軍事・寧遠将軍・呉州刺史となり、鄱陽内史を領す。
荊州陥落し、侯瑱が湓城に鎮す。質と協わず、偏将羊亮を遣わして質に代へ、且つ兵を以て之に臨む。質は率いる所の部を以て、信安嶺を度り、留異に依る。文帝が会稽に鎮するや、兵を以て質を助け、信安県に鎮せしむ。
韋載
韋載、字は徳基、京兆杜陵の人である。祖父の叡は、梁の開府儀同三司、永昌厳公。父の政は、梁の黄門侍郎であった。
載は幼少より聡明で、志篤く学問を好んだ。十二歳の時、叔父の稜に従って沛国の劉顯に会い、劉顯が漢書について十のことを問うと、載は問いに応じて答え、少しも滞ることがなかった。成長すると、広く文史に渉猟し、沈着で機敏、器量と見識を備えていた。初官は梁の邵陵王の法曹参軍、太子舎人・尚書三公郎に昇進した。
侯景の乱の時、元帝が制を承けて中書侍郎とした。まもなく建威将軍・尋陽太守となり、都督王僧辯に従って東進し侯景を討った。この時、僧辯は湓城に軍を駐めていたが、魯悉達・樊俊らがそれぞれ兵を擁して境を保ち、成敗を観望していた。元帝は載を仮節・都督太原高唐新蔡三郡諸軍事・高唐太守とした。引き続き命を受けて悉達らを諭し、軍を出して景を討たせた。大軍が東下すると、載は三郡の兵を率いて焦湖より出て柵口に至り、僧辯と梁山で合流した。景が平定されると、冠軍将軍・琅邪太守に任じられた。まもなく使いとして東陽・晋安に赴き、留異・陳宝応らを招撫した。引き続き信武将軍・義興太守を授けられた。
高祖が王僧辯を誅殺すると、周文育に軽兵を率いて載を襲撃させた。未だ到着しないうちに載は先に察知し、城を守って自ら防衛した。文育は激しく攻撃した。載の管轄する県の兵卒は皆高祖の旧兵であり、弩を用いるのが巧みな者が多かった。載は数十人を得て、長い鎖で繋ぎ、親しい者に監視させ、文育の軍を射させた。十発で二度も当たらなければ死罪と約束したところ、発するごとに命中し、当たった者は皆死んだ。文育の軍は次第に退却し、城外の水辺に柵を立てて守り、数十日間対峙した。高祖は文育の軍が不利であると聞き、自ら将兵を率いて征伐し、その水柵を陥落させた。引き続き載の族弟の翽に書を送らせ、王僧辯を誅殺した意図を載に諭し、併せて梁の敬帝の詔を奉じ、載に兵を解かせた。載は書を得て、その配下を率いて高祖に降った。高祖は手厚く慰撫し、直ちにその族弟の翽に義興郡を監察させ、配下の将帥は皆、才能に応じて任用し、載を引き立てて常に側近に置き、謀議を共にした。
徐嗣徽・任約らが斉軍を引き入れて長江を渡り、石頭城を占拠した。高祖は載に策を問うた。載は言った、「斉軍がもし兵を分けて先に三呉への道を占拠し、東方の境域を攻略すれば、時勢は去ってしまいます。今、急ぎ淮南の侯景の旧塁に城を築き、東方への輸送路を通じさせ、別に軽兵を命じてその糧食輸送を断てば、進んでも掠奪するものなく、退いても資する所なく、斉の将の首は十日で得られるでしょう」。高祖はその計略に従った。
族弟の翽
子の宏、字は徳礼、文学の才があり、官を歴て永嘉王府諮議参軍に至った。陳が滅びて隋に入った。
【史評】
史臣が言う。昔、鄧禹は文学に基づき、杜預は儒雅より出で、ついに軍功を致し、名声を前代に著した。晋氏が喪乱し、江左に播遷してより、顧栄・郗鑒の輩、温嶠・謝玄の倫、いずれも巾褐の書生、縉紳の素誉に非ざるはなく、敵に抗して社稷を衛り、勲を立てて台鼎に昇った。これより以降、代々その人あり。ただ梁室が沸騰し、懦夫も志を立て、身に際会に逢い、時に主君に用いられたことは、美しいことである。