陳書
巻十七 列伝第十一 王沖 王通 袁敬
王沖
王沖は 字 を長深といい、琅邪郡臨沂県の人である。祖父の僧衍は、斉の侍中であった。父の茂璋は、梁の給事黄門侍郎であった。王沖の母は、梁の武帝の妹の新安穆公主であり、斉の世に亡くなった。武帝は王沖が片親を失ったことを憐れみ、深く鍾愛した。十八歳の時、梁の秘書郎として初めて官に就いた。まもなく永嘉太守となった。都に入って太子舎人となったが、父の喪のため官を去った。喪が明けると、 太尉 臨川王府外兵参軍・東宮領直に任じられた。累進して太子洗馬・中舎人となった。地方に出て招遠将軍・衡陽内史となった。武威将軍・安成嗣王長史・長沙内史に転じ、将軍の位はもとのままである。王が湘州で 薨 去 すると、引き続き王沖が湘州の事務を監督した。都に入って太子庶子となった。給事黄門侍郎に転じた。大同三年、帝の甥として安東亭侯の爵位を賜り、邑百五十戸を領した。明威将軍・南郡太守・太子中庶子・侍中を歴任した。地方に出て呉郡を監督し、満一年で真除された。召されて通直 散騎常侍 となり、左民 尚 書 を兼ねた。地方に出て明威将軍・軽車当陽公府長史・江夏太守となり、郢州の事務を代行した。平西邵陵王長史に転じた。驃騎廬陵王長史・南郡太守に転じた。王が薨去すると、州府の事務を代行した。梁の元帝が荊州を鎮守した時、鎮西長史となり、将軍・太守の位はもとのままである。王沖の性質は温和で順従であり、主君に仕えるのに謹厳で、法令に習熟し、政治は公平な道理にあり、藩王を二人補佐して、過失はほとんどなく、赫々たる名声はなかったが、長く経て慕われ、これによって推重され、累ねて二千石の官に居た。また音楽に通暁し、歌舞に習熟し、人と交わることを善くし、貴族遊宴の間で、名声は甚だ盛んであった。
侯景 の乱の時、梁の元帝が荊州で制を承け、王沖は南郡の任を解くよう請い、これを王僧弁に譲り、併せて女妓十人を献じて、軍の賞与の助けとした。元帝は持節・督衡桂成合四州諸軍事・雲麾将軍・衡州 刺史 を授けた。元帝の第四子の元良が湘州刺史となると、引き続き王沖が州の事務を代行し、長沙内史を兼ねた。侯景が平定されると、翊左将軍・丹陽尹を授けられた。
武陵王が挙兵して峡口に至ると、王琳の偏将の陸納らが湘州を占拠してこれに応じ、王沖は陸納に拘束された。陸納が降伏すると、再び侍中・中権将軍を授けられ、佐史を適宜置き、尹の職はもとのままである。
江陵が陥落し、敬帝が太宰となって制を承け、王沖を左長史とした。紹泰年間、累進して左光禄大夫・尚書右 僕射 となった。左僕射・開府儀同三司に転じ、侍中・将軍の位はもとのままである。まもなく再び丹陽尹・南徐州大中正を兼ね、扶を与えられた。
高祖 が禅を受けると、尹の職を解かれ、本官のまま左光禄大夫を兼ねた。拝受せず、改めて太子少傅を兼ねた。 文帝 が位を嗣ぐと、少傅を解かれ、特進・左光禄大夫を加えられた。まもなくまた本官のまま丹陽尹を兼ね、律令の撰修に参与した。 廃帝 が即位すると、親信十人を与えられた。
初め、高祖は王沖が前代の旧臣であるため、特に長幼の礼を尽くした。文帝が即位すると、ますます尊重を加え、かつて文帝に従って 司空 徐度 の邸宅に臨幸した時、宴席の上で、机を賜った。このように重んじられたのである。光大元年に薨去した。時に七十六歳であった。侍中・ 司空 を追贈され、諡して元簡といった。
王沖には子が三十人いた。みな官に通じた。第十二子の瑒は、別に伝がある。
王通
王通は字を公達といい、琅邪郡臨沂県の人である。祖父の份は、梁の左光禄大夫であった。父の琳は、 司徒 左長史であった。琳は、斉の代に梁の武帝の妹の義興長公主を娶り、子が九人あり、みな知名であった。
王通は、梁の世に国子生として初めて官に就き、明経に挙げられ、秘書郎・太子舎人となった。帝の甥として武陽亭侯に封じられた。累進して王府主簿・限外記室参軍・ 司徒 主簿・太子中庶子・驃騎廬陵王府給事中郎・中権何敬容府長史・給事黄門侍郎となり、事に坐して免官された。
侯景の乱の時、江陵に奔り、元帝は 散騎常侍 とし、守太常卿に転じた。侯景の乱の後、宮中の宮室は、みな焼失していたため、王通に起部尚書を兼ねさせ、京師に帰らせ、専ら修繕造営を掌らせた。
江陵が陥落し、敬帝が制を承け、王通を吏部尚書とした。紹泰元年、侍中を加えられ、尚書の職はもとのままである。まもなく尚書右僕射となり、吏部の職はもとのままである。高祖が禅を受けると、左僕射に転じ、侍中の職はもとのままである。文帝が位を嗣ぐと、太子少傅を兼ねた。天康元年、翊右将軍・右光禄大夫となり、佐史を適宜置いた。廃帝が即位すると、安右将軍の号を賜り、また南徐州大中正を兼ねた。太建元年、左光禄大夫に転じた。六年、特進を加えられ、侍中・将軍・光禄・佐史はみなもとのままである。拝受せずに卒去した。時に七十二歳であった。 詔 して本官を追贈し、諡して成といった。葬儀の日に鼓吹一部を与えられた。弟の質、弟の固はそれぞれ伝がある。
弟の勱。
勱は字を公済といい、袁通の弟である。風采が美しく、広く書史に通じ、恬然として清簡であり、かつて利欲を以て心を乱すことはなかった。梁の世に国子周易生となり、射策に高第を挙げ、秘書郎・太子舎人・宣恵武陵王主簿・軽車河東王功曹史に任じられた。河東王が京口に出鎮するに及び、勱はこれに従って藩国へ赴かんとした。范陽の張纘が当時選挙を掌り、勱が纘を訪れて別れを告げると、纘はその風采を賞賛し、「王生の才地は、外府に遊ばせるべきであろうか」と言い、太子洗馬に奏任した。中舎人に遷り、 司徒 左西属となった。出て南徐州別駕従事史となった。
大同の末、梁の武帝が園陵に謁し、道すがら朱方を経た。勱は例に従って迎候し、勱をして輦の側に従わせた。経過する山川について、ことごとく顧問したが、勱は事に応じて対処し、いずれも典故を踏まえていた。また北顧楼に登り、詩を賦した。その文辞と意義は清らかで典雅であり、帝は大いにこれを嘉した。
時に河東王が広州刺史となったため、勱を冠軍河東王長史・南海太守に任じた。王が嶺南に至ると、多く侵掠を行い、罪を懼れて病と称し、州務を委ねて朝廷に帰った。勱が広州府事を行った。越の地は豊饒であり、前後の守宰は例として多く貪欲で放縦であったが、勱のみは清廉潔白をもって聞こえた。入朝して給事黄門侍郎となった。
侯景の乱に際し、西に奔って江陵に至った。元帝が承制して太子中庶子とし、相府管記を掌らせた。出て寧遠将軍・ 晋 陵太守となった。当時は兵乱と飢饉の後であり、郡内は凋弊していたが、勱は政務を清簡に行い、吏民はこれに安んじた。侍中に徴され、五兵尚書に遷った。
西魏が江陵を寇した時、元帝は湘州刺史宜豊侯蕭循を徴して援軍とし、勱に湘州を監させた。江陵が陥落すると、敬帝が承制して中書令とした。紹泰元年に侍中を加えられた。高祖が 司空 となると、勱を以て 司空 長史を兼ねさせた。高祖が丞相となると、勱を以て丞相長史を兼ねさせ、侍中・中書令は従前の通りであった。当時、呉中は乱に遭い、民は多く困窮していたため、勱に呉興郡を監させた。 蕭勃 平定後、また勱がかつて嶺表に在り、早くから政績があったため、使持節・ 都督 広州等二十州諸軍事・平南将軍・平越中郎将・広州刺史を授けた。未だ赴任せず、衡州刺史に改め、持節・ 都督 は従前の通りであった。王琳が上流を占拠し、衡州・広州が離反したため、勱は鎮所に赴くことができず、大庾嶺に留まった。天嘉元年、侍中・都官尚書に徴されたが、拝せず、再び中書令となった。太子詹事に遷り、東宮事を行い、侍中は従前の通りであった。金紫光禄大夫を加えられ、度支尚書を領した。廃帝が即位すると、 散騎常侍 を加えられた。太建元年、尚書右僕射に遷った。時に東境が大水に見舞われ、百姓は飢饉に苦しんだため、勱を仁武将軍・晋陵太守とした。郡において甚だ威厳と恩恵があり、郡人が上表して碑を立て、勱の政績を称えることを請うた。詔してこれを許した。 中書監 に徴され、重ねて尚書右僕射を授かり、右軍将軍を領した。四年五月に卒した。時に六十七歳。侍中・ 中書監 を追贈され、諡して温といった。
袁敬。
袁敬は字を子恭といい、陳郡陽夏の人である。祖父の袁顗は、宋の侍中・吏部尚書・雍州刺史であった。父の袁昂は、梁の侍中・ 司空 で、諡して穆公といった。
袁敬は純孝で風格があり、幼い頃から篤学であり、老いても倦むことがなかった。秘書郎に初任し、累進して太子舎人・洗馬・中舎人となった。江陵が陥落すると、嶺表に流寓した。高祖が禅を受けると、袁敬は広州におり、欧陽頠に依った。頠が卒すると、その子の欧陽紇が州を占拠し、異心を抱かんとした。袁敬は累次紇を諫め、逆順の道理を説き、言葉は甚だ切実であったが、紇は終に従わなかった。高宗が即位し、 章昭達 を派遣して軍を率いて紇を討つと、紇が敗れんとする時、袁敬の言を容れなかったことを悔いた。朝廷はその義を重んじ、その年に太子中庶子・通直 散騎常侍 に徴した。間もなく 司徒 左長史に転じた。まもなく左民尚書に遷り、都官尚書に転じ、 豫 州大中正を領した。累進して太常卿・ 散騎常侍 ・金紫光禄大夫となり、特進を加えられた。至徳三年に卒した。時に七十九歳。左光禄大夫を追贈され、諡して靖徳といった。子の袁元友が後を嗣いだ。弟の袁泌は独自に伝がある。兄の子に袁枢がいる。
兄の子 袁枢。
袁枢は字を践言といい、梁の呉郡太守袁君正の子である。容姿が美しく、性格は沈静で、読書を好み、手から書物を離さなかった。家は代々顕貴であり、資産は充実していたが、袁枢のみは生活が質素で、傍らに交遊もなく、端座して一室にあり、公事でなければかつて出遊せず、栄利に対する思いは淡泊であった。梁の秘書郎に初任し、太子舎人、軽車河東王主簿、安前邵陵王・中軍宣城王二府功曹史を歴任した。侯景の乱に際し、袁枢は呉郡に赴いて父を見舞い、父の喪に服した。当時は四方が擾乱し、人は苟も免れんことを求めたが、袁枢は喪に居て至孝をもって聞こえた。王僧辯が侯景を平定し、京城を鎮守すると、衣冠の士は争って謁見を求めたが、袁枢のみは門を閉ざして静かに居り、名声を求めなかった。
紹泰元年、給事黄門侍郎に徴された。未だ拝せず、員外 散騎常侍 に任じられ、侍中を兼ねた。二年、吏部尚書を兼ねた。その年、出て呉興太守となった。永定二年、左民尚書に徴された。未だ到着せず、侍中に改められ、大選事を掌った。三年、都官尚書に遷り、選事を掌ることは従前の通りであった。
袁枢は博聞強記で、旧章に明るく詳しかった。初め、高祖の長女永世公主は先に陳留太守の錢蕆に嫁ぎ、子の錢岊を生んだ。公主と岊はともに梁の世に卒した。高祖が天命を受けた時、公主のみが追封された。この時に葬ろうとし、尚書主客が詳議を請い、錢蕆に駙馬都尉を加え、併せて錢岊に官を贈ろうとした。袁枢が議して言うには、「昔、王姬が下嫁するには、必ず諸侯に適い、同姓を以て主とすることは、公羊の説に聞こえ、車服を繫がざることは、詩人の篇に顕れている。漢氏が興る初め、列侯が公主を 尚 り、これ以降、素族に降嫁するようになった。駙馬都尉は漢の武帝により設置され、あるいは功臣に仮授し、あるいは戚属に加えた。これにより魏の曹植が上表した駙馬・奉車は趣を同じくして一号となった。『斉職儀』に曰く、凡そ公主を尚する者は必ず駙馬都尉を拝すと。魏・晋以来、これによって準拠とした。蓋し王姬の重さと庶姓の軽さを以て、その等級を加えざれば、どうして合卺の礼を行えようか。故に駙馬の位を仮するは、皇女を崇める所以である。今、公主は早くに薨じ、夫婦の縁は既に絶えている。礼数に疑いを生ずることもなく、何ぞ駙馬の授けを須いようか。案ずるに、杜預は晋の 宣帝 の第二女高陵宣公主を尚したが、晋の武帝が践祚した時、公主は既に亡く、泰始の中に公主を追贈したが、杜預(元凱)に再び駙馬の号はなかった。梁の文帝の女新安穆公主は早くに薨じ、天監の初めに王氏に追拝の事はなかった。遠近二つの例は、以て明らかに拠るに足る。公主の生んだ子は、未だ成人の礼に及ばず、この授けを労する必要はない。今は亭侯を追贈すべきである。」時に袁枢の議を優れたものとした。
天嘉元年(560年)、吏部尚書を守る。三年(562年)、真除となる。まもなく右軍將軍を領し、また丹陽尹を領し、本官はもとのままである。五年(564年)、父の葬儀のため、上表して自ら職を解くことを請う。詔して絹布五十匹、銭十万を賜い、葬儀を終えたら邸宅に留まって郡の事務を視察するよう命じ、喪が明けた後、本来の職務に復帰させた。その年、任期が満ちて丹陽尹を解かれ、 散騎常侍 を加えられ、將軍・尚書はもとのままである。この時、僕射の到仲挙は選事を参掌していたが、人材の評価や登用はすべて王樞の出するところであり、その挙薦する者は多く天子の意にかなった。謹慎周密にして、清廉潔白を自ら守り、文武の職務に就く者で、その門を遊ぶ者は少なかった。廃帝が即位すると、尚書左僕射に遷る。光大元年(567年)に卒す。時に五十一歳。侍中・左光禄大夫を追贈され、諡して簡懿という。文集十巻が世に行われる。弟の王憲は別に伝がある。
評
史臣が曰く、王沖・王通はともに貴遊として早くより清貫に昇ったが、礼節を踏み行い、篤実誠実に上に奉じた。これこそ美事である。王勱の襟懐と精神は平穏淡泊であり、袁樞の端正な操行は沈潜している。拘束されることと放逸であることは異なるが、勝れた資質は同じである。古のいわゆる名士とは、まさにこのような人々のことをいうのであろうか。