陳書
巻第十六 列伝第十 趙知禮 蔡景歴 劉師知 謝 岐
趙知礼
趙知礼は 字 を齊旦といい、天水郡隴西県の人である。父は孝穆、梁の候官県令であった。
知礼は文史に広く通じ、隷書をよくした。 高祖 ( 陳霸先 )が元景仲を討伐したとき、ある者が彼を推薦し、記室参軍に引き立てられた。知礼は文章が豊富で速く、軍書を口述して授けるたびに、筆を下ろせばすぐに完成し、おおむね上意にかなった。これにより常に左右に侍し、深く信任され、当時の計画には、参画しないものはなかった。知礼もまた多く献言・補正を行った。高祖が 侯景 を平定し、軍が白茅湾に至ったとき、梁の元帝に上表し、また王僧辯と軍事について論じた文章は、いずれも知礼の作ったものである。
侯景が平定されると、中書侍郎に任じられ、始平県子に封ぜられ、邑三百戸を賜った。高祖が 司空 となると、彼を從事中郎とした。高祖が朝政を補佐するため入朝すると、給事黄門侍郎に昇進し、衛尉卿を兼ねた。高祖が帝位につくと、通直 散騎常侍 に昇進し、殿省に直した。まもなく 散騎常侍 に昇進し、太府卿を守り、軍事を領することを権知した。天嘉元年、爵位が伯に進み、邑を増やして前の分と合わせて七百戸となった。王琳が平定されると、持節・督呉州諸軍事・明威将軍・呉州 刺史 を授かった。
知礼は沈着冷静で謀略があり、軍国大事があるたびに、世祖( 文帝 )は 詔 書を下して彼に意見を求めた。任期が満ちると、明威将軍・太子右衛率となった。右衛将軍に昇進し、前軍将軍を領した。六年に卒去した。時に四十七歳。詔により侍中を追贈され、諡は忠といった。子の允恭が後を嗣いだ。
蔡景歴
蔡景歴は字を茂世といい、済陽郡考城県の人である。祖父の點は、梁の 尚書 左民侍郎であった。父の大同は、軽車岳陽王記室参軍となり、京邑における官吏選任を掌った。
景歴は若い頃から才気煥発で、孝行があった。家は貧しかったが学問を好み、尺牘(書簡文)をよくし、草書・隷書に巧みであった。初めて官に就き諸王府の属官となり、出向して海陽県令となり、政治を行って有能な名声があった。侯景の乱の時、梁の簡文帝が侯景に幽閉されると、景歴は南康嗣王蕭會理と謀り、簡文帝を連れ出して逃亡しようとしたが、事が漏れて捕らえられ、賊党の王偉が保護したため、難を免れた。そこで京口に客遊した。侯景が平定されると、高祖が朱方に鎮していたが、かねてからその名を聞き、書簡を送って招いた。景歴は使者に対面して返書をしたため、筆を止めず、文章を二度と書き直さなかった。その文は以下の通りである。
(書簡を)降され、わざわざ引き合わせてくださり、拝見して繰り返し読み、深く喜び楽しんでおります。思うに、世は名馬を求め、地を行けば千里を致すことができ、時は奇宝を愛し、車を照らす径寸の玉がある。しかし、雲咸(楽器)の音が奏でられれば、巴渝の舞は自ずから止み、杞梓(良材)が彫刻されようとすれば、樗櫪(駄木)は顧みられない。
仰ぎ考えるに、明将軍使君侯節下は、英才が抜きんでて茂り、雄姿が秀でて抜群であり、時世の艱難に遭遇しながら、多難を匡正しようと志し、衡山を揺るがして五嶺を安んじ、贛水の源を洗い九派を澄ませ、鎧を着た兵十万、強弩数千を擁し、王事に勤める師を誓い、義士の力を総べ、鯨鯢(賊)を討ち払い、役は時を過ぎず、妖霧を払い清め、兵士は血を刃に塗らなかった。漢が呂禄・呂産を誅したとき、朝廷は実に絳侯(周勃)に頼り、 晋 が王敦・蘇峻を討ったとき、内外は一様に陶侃(牧)を頼りにしたが、事を比べ功を論じれば、それらはどうして数えられようか。さらに、兗服(中原)に威を抗し、冠蓋(官吏)は北門に通じ、徐方に旗を整え、詠歌は東道に溢れ、辺境の亭に鼓を臥せさせ、旅人は野宿し、路に落ちた物を拾わず、市に異なる価格がなく、洋洋たる功德政化は、遠い昔にも比類がない。誠に膚浅な者がことごとく述べられるものではない。これにより天下の人々は、風に向かい義を慕い、踵を接して襟を開き、雑踏しながら至っているのである。ある者は帝室の英賢、貴遊の令望、ある者は斉・楚の秀異、荊・呉の岐嶷(聡明)である。武夫は猛気が盛んで、雄心が四方に据わり、陸では山岳を抜き、水では虯龍を断ち、六鈞の弓を左右に馳せ射ち、万人の剣で短兵を交接し、塁を攻めるのは文鴦のようであり、艦を焼くのは黄蓋のようで、百戦百勝し、貔貅(猛獣、勇猛な兵)が群をなす。文人は通儒博識、英才偉器、彫麗で輝き、文采をふるい美辞麗句を並べ、子雲(揚雄)もその筆に抗えず、元瑜(阮瑀)もその記録に高みを加えられず、尺翰(短い手紙)が馳せて聊城が下り、清談が奮って嬴軍が退いた。また、三河の弁客(弁論家)は、哀楽を須臾のうちに改め、六奇の謀士は、変反を倏忽のうちに断じる。民を治めるのは子賤(宓不斉)のようで、境を踏めば成果があり、獄を裁くのは仲由(子路)のようで、片言で理に従う。直言は毛遂のようで、主君の威を励ますことができ、使節を奉じるのは相如のようで、君命を辱めない。忠義を懐き抱き、恩に感じて己を尽くし、誠は黄金を断ち、精は白日を貫き、海内の雄賢を、ことごとく網羅している。明将軍は鞍を外し馬を下り、机を押しのけ食事を止め、爵位を申し述べて彼らを栄えさせ、館を築いて彼らを安んじ、財を軽んじ気を重んじ、身を低くして士を厚くする。盛んなことよ、盛んなことよ。
また聞くところによれば、戦国の将相は皆、賓客遊士を推挙引き立て、中世の岳牧(地方長官)もまた盛んに僚友を招き、多くの士が集うことによって、将軍の貴さが成るのである。ただ、能力を量り実績を較べ、才能に称して任務を与え、円を行き方に止まり、それぞれその宜しきを尽くし、委任を受けて責務を成せと求められれば、誰が力を尽くさないだろうか。至って私のような卑賤な者は、妄庸の人間に過ぎない。秋冬に書を読むも、終いに専学を恥じ、刀筆の吏となるも、ついに異等を欠いている。衡門(貧家)の衰えた素性では、聞こえ達することはなく、薄い官職と軽い資質では、どうして遠大なことができようか。陽九(災厄)に遭い屯難に陥り、天の歩みが艱難であった時、あの貴い官人たちと同じく、巨寇(侯景)に溺れ、しばしば危殆に近づき、薄氷を踏む思いをした。今、王道が中興し、殷憂が運を開き、微命を存することができたのは、すでに幸いの極みであり、今まさに飲み啄むことを楽しみ、これこそ蘇生(救済)が来たというものである。しかし、天子の鑾駕(車駕)は未だ帰らず、宛・洛は荒れ果て、四壁は三軍の余り(戦乱の残り)で固められ、長夏にも半菽(わずかな食糧)の産物がなく、旧知を訪ねて、しばらく借財し、この楽土に属して、実に美しく帰ることを忘れている。ひそかに高義に感服し、一時的に門下に謁見し、明将軍が和やかな顔色を降され、二、三の士友がその余論を貸してくださり、菅蒯(雑草、つまらない者)をも捨てず、簡礼を賜って留め、鶏や鴨を鴛鴦や鴻雁のいる池沼に並べさせようとし、瓦礫を金碧の声価に参じさせようとされている。昔、折脅(肋骨を折られた范雎)が秦に遊んだとき、突然に顧み採られ、檐簦(傘を担いだ虞卿)が趙に入ったとき、すぐに留まることができた。今、私は羇旅の身ではあるが、彼らと比べるには及ばず、樊林(平凡な林)の賁(飾り)として、どうして堪えられようか。ただ、はるか遠く細い蘿(つる草)は、喬松(高い松)に憑って自ら聳え、蠢蠢と動く軽い 蚋 は、驂尾(馬の尾)に託って遠くに駆ける。ひそかに自らの限界を考えず、下走(下僕)として備わり、かつて腹背の毛となり、もし鳴吠の数(役立つ者)に充てていただければ、栄えを増し観を改め、幸いとすることはすでに多い。海は深きを厭わず、山は高きを譲らず、敢えて心腹を布き、将軍のご覧に供する次第である。
高祖はこの書簡を得て、非常に賞賛した。さらに書簡を賜って返答し、その日に板授(臨時の任命)で征北府中記室参軍とし、引き続き記室を領させた。
衡陽献王(陳昌)が当時呉興郡にいたが、昌はまだ年が若く、呉興は王の郷里であり、父老や旧知、尊卑の別があるため、高祖は昌が年少で接対に礼を欠くことを恐れ、景歴を派遣して補佐させた。承聖年間(梁元帝)、通直散騎侍郎を授かり、府の記室を掌ることに戻った。高祖が王僧辯を討伐しようとしたとき、 侯安都 ら数人だけで謀り、景歴はそれを知らなかった。部署配分が終わると、召し出して檄文を起草させた。景歴は筆を取ってすぐに完成させ、文辞と意義が人を感激させ、事柄はすべて上意にかなった。僧辯が誅殺されると、高祖が朝政を補佐し、從事中郎に任じ、従前通り記室を掌った。紹泰元年、給事黄門侍郎に昇進し、相府記室を兼ねて掌った。高祖が禅譲を受けると、秘書監、中書通事舍人に昇進し、詔誥を掌った。永定二年、妻の弟の劉淹が周宝安から餉馬(贈り物の馬)を詐って受け取った罪に連座し、御史中丞沈炯に弾劾され、中書侍郎に降格となったが、舍人の職は従前通りであった。
天嘉三年、高祖が崩御した。時に外には強敵があり、世祖は南皖に鎮まっていた。朝廷には重臣がおらず、宣后は蔡景歴及び江大権・ 杜稜 を呼んで議を定めさせ、ひそかに喪を発せず、急ぎ世祖を召し還した。景歴はみずから宦官や宮人と共に、密かに斂服を整えた。時は暑熱の候であり、梓宮を造る必要があったが、斤斧の音が外に聞こえることを恐れ、蠟をもって秘器とした。文書や詔誥は、旧例に従って宣行された。世祖が即位すると、再び秘書監となり、舍人はもとの如くであった。策定の功により、新豊県子に封ぜられ、邑四百戸を賜う。累遷して 散騎常侍 となった。世祖が侯安都を誅したのは、景歴がその事を勧めて成し遂げさせたのである。天嘉三年、功により太子左衛率に遷り、爵を侯に進め、邑百戸を増やし、常侍・舍人はもとの如くであった。六年、妻の兄劉洽が景歴の権勢に依り頼み、前後して姦訛を働き、併せて歐陽武威より絹百匹の賄賂を受けたことに連座し、官を免ぜられた。
廃帝 が即位すると、鎮東鄱陽王諮議参軍に起用され、太舟卿を兼ねた。華皎が反すると、景歴を武勝将軍・呉明徹の軍司とした。華皎が平定された後、明徹は軍中において安成内史楊文通をみだりに誅戮し、また降人の馬匹・兵器の受納に不明瞭な点があった。景歴はまたこれを匡正できなかったことに連座し、収監されて処罰を受けた。久しくして赦され、鎮東鄱陽王諮議参軍に起用された。
高宗が即位すると、宣恵 豫 章王長史に遷り、会稽郡守を帯び、東揚州府事を行った。任期が満ちると、戎昭将軍・宣毅長沙王長史・尋陽太守に遷り、江州府事を行おうとしたが、病を理由に辞退し、遂に行かなかった。入朝して通直 散騎常侍 ・中書通事舍人となり、詔誥を掌り、封邑を復した。太子左衛率に遷り、常侍・舍人はもとの如くであった。
太建五年、 都督 呉明徹が北伐し、向かうところ克捷し、周の将梁士彦と呂梁で戦い、これを大破して斬獲は万を数え、まさに彭城を進んで図らんとした。この時、高宗は河南を鋭意して、指麾のもとに平定できると考えた。景歴は、師は老い将は驕り、過ぎて遠略を窮めるべからずと諫めた。高宗はその衆を沮ますことを憎み、大いに怒ったが、なお朝廷の旧臣であることを以て、深く罪責せず、宣遠将軍・ 豫 章内史として出させた。未だ赴任せず、飛章によって弾劾され、省中に在った日、贓汚狼藉であると。帝は有司に按問させたところ、景歴はその半ばのみを承認した。ここにおいて御史中丞宗元饒が奏上して言うには、「臣は聞く、士の己を行うは、忠をもって上に事え、廉をもって身を保つ。苟くもこの道に違えば、刑これに及ぼし赦さず、と。謹んで按ずるに、宣遠将軍・ 豫 章内史新豊県開国侯蔡景歴は、幸い多きに因り藉り、興王に 豫 め奉じ、皇運の権輿に、締構に頗る参じた。天嘉の世、贓賄狼藉たりしも、聖恩は録用し、更鳴を許し、裂壤崇階、遠からずしてこれを復した。節を改め自ら励まして曲成の報いにあたるべく、遂に専擅貪汚し、遠近に彰る。一たび已に甚だし、再びこれを可くすべけんや。宜しく刑書に置き、以て秋憲を明らかにすべし。臣等参議して、見事を以て景歴の居る官を免じ、鴻臚に下して爵土を削らしむ。謹んで白簡を奉りて以て聞す」。詔して「可」と言わしめた。ここにおいて会稽に徙居させた。呉明徹の敗れたるに及び、帝は景歴の前言を思い、即日に追還し、再び征南鄱陽王諮議参軍とした。数日後、員外 散騎常侍 に遷り、御史中丞を兼ね、本封の爵を復し、入朝して度支尚書を守った。旧式では拜官は午後に行うが、景歴が拜した日、丁度輿駕が玄武観に幸する時で、在位の者は皆侍宴していた。帝は景歴が与らぬことを恐れ、特に早朝に拜することを命じた。その重んぜられること、この如きであった。
この年、病により官において卒した。時に年六十。太常卿を追贈し、諡して敬といった。太建十三年、改葬し、重ねて中領軍を追贈した。禎明元年、高祖廟庭に配享された。二年、輿駕みずからその宅に幸し、重ねて景歴に侍中・中撫将軍を追贈し、諡して忠敬とし、鼓吹一部を給し、併せて墓所に碑を立てた。
景歴の属文は、彫靡を尚ばず、而して叙事に長け、機に応じて敏速であり、当世に称された。文集三十巻あり。
劉師知
劉師知は、沛国相の人である。家世は素族であった。祖父の奚之は、斉の晋安王諮議参軍・淮南太守となり、能政あり、斉武帝の手詔により頻りに褒賞された。父の景彦は、梁の尚書左丞・司農卿となった。
師知は好学にして、当世の才あり。書史に博く渉り、文筆に工み、儀体に善く、臺閣の故事に詳悉であった。梁の世に王府参軍を歴任した。紹泰初め、高祖が入朝して輔政すると、師知を中書舍人とし、詔誥を掌らせた。この時は兵乱の後で、礼儀多く闕けており、高祖が丞相となり、九錫を加えられ、禅を受ける儀注は、全て師知の定めるところであった。高祖が天命を受けた後も、仍って舍人であった。性は疎簡にして、物と多く忤い、位宦は遷らなかったが、委任は甚だ重く、その献替するところは、皆弘益があった。
高祖が崩御されると、六日目に喪服を着ける儀式が行われ、朝臣たちが大行皇帝の霊座に侍る侠御人の衣服の吉凶の制について議論した。博士の沈文阿は、吉服を着けるべきであると議した。劉師知は議して云うには、「既に成服と称する以上、本来は喪礼を備えるものであり、霊筵の服物は全て縞素である。今は大行皇帝の侠御官の事はないが、梁の昭明太子が 薨 じた際、成服の侠侍の官は皆、縗斬を着け、鎧を着けることだけは異ならなかった。これを準拠とすべきである。愚考するに、六日目の成服において、霊座に侍る者は縗絰を着けるべきである」と。中書舎人の蔡景歴もまた云うには、「全てを準拠とするわけではないが、山陵には凶吉の羽儀があり、成服には凶のみで吉はない。文武の侠御が、独り玉を鳴らし貂を耳に挟むことを許すべきではなく、情と礼の二、三の点から、理として縗斬が相応しい」と。中書舎人の江徳藻、謝岐らは皆、師知の議に同調した。文阿が重ねて議して云うには、「晋、宋の山陵の儀を検するに、『霊輿と梓宮が殿を降りる時、各侍中が奏上する』とある。また成服の儀には、『霊輿と梓宮には侠御官及び香橙を容れる』と称する。また霊輿梓宮進止の儀を検するに、『直霊の侠御は吉服、吉の鹵簿の中にある』とある。また云う、『梓宮の侠御は縗服、凶の鹵簿の中にある』と。これにより殿上には吉凶両方の侠御がいるのである」と。時に二つの議が異なるため、左丞の徐陵に決断を仰ぐよう上奏した。陵は云う、「梓宮は山陵に合せ、霊筵は宗廟に合せる。この区別があるからこそ、吉凶が分かる。山陵の鹵簿の吉の部伍の中では、公卿以下導引する者、及び武賁、鼓吹、蓋を執る者、車を奉る者は、皆吉服である。どうして侠御のみが縗絰を着けることがあろうか。断じて知り得る。もし公卿胥吏が皆縗苴を着けると言うなら、これは梓宮の部伍と何の違いがあろうか。もし文物が皆吉で、司事者だけが凶だと言うなら、どうして衽絰を着けて華蓋を奉じ、縗衣を着けて玉輅に昇ることができようか。博士の議に同調する」と。師知はまた議して曰く、「左丞は梓宮は山陵に、霊筵は宗廟に合せると引き、必ず吉凶二部があるとされるが、成服が上凶を容れないとし、博士はなお前の判断を執り、結局は山陵の礼である。もし龍駕が殯を啓き、鑾輿が併設されるなら、吉凶の儀は本来備わっている。これを成服に準えるのは、愚考するに未だ妥当でない。喪礼の制は、天子より下に通ずる。王文憲の喪服明記によれば、『官品第三は、侍霊人二十人。官品第四以下、士礼に至るまで、侍霊の数は皆十人。皆白布袴褶を着け、白絹帽を被る。内喪の女侍の数は外と同じだが、斉縗を着ける。或る人が問う、内外の侍霊は同じなのに、何故突然縗服が異なるのか。答えて云う、君臣の礼に依るなら、外侍は斬縗、内侍は斉縗である。近世は多事であり、礼は事に随って省かれる。諸侯以下、臣吏は甚だ微細であり、侍奉に至っては、多くは義附による。君臣の節は全からず、縗冠の費用は実に欠ける。故にその常服に因り、ただ帽を変えるのみである。婦人の侍者は皆、卑隷であり、君妾の道は既に純粋であるから、服章は備わるのである』と。皇朝の典も、なお然らず。これによって推すと、斬縗を着けると知れる。彼に侍霊があれば、それは侠御であり、既に白帽を被っている以上、理として彤服はない。また梁の昭明太子の儀注は、今も現存し、二つの文が明らかな証拠となり、ほぼ確かな基準となる。また礼は人情より出で、斟酌し得る。凡そ人に喪があれば、既に筵机を陳べ、繐帷と霊屏で常儀を変え、蘆箔と草廬で凶礼とする。堂室の内では、親賓が皆来り、斉斬麻緦の服を着け、哭次に差池があり、玄冠で弔わず、素服でないことはない。どうして門生故吏が綃縠を着けて間を趨め、左の姫右の姜が紅紫を交えることがあろうか。況や四海は音を絶ち、率土の情は同じであり、三軍は縞素を着け、服の制はこれ一つである。遂に千門が朝に開かれても、彤闈に塗堊することなく、百僚が来止しても、朱韍より粗服に変わる。それなのに耀く金が列をなし、鳴く玉が行を節し、これを懐抱に求めれば、固より未だ満足せず、礼経に準えれば、前例は更にない。どうして成服の儀を、山陵の礼に譬えることができようか。葬は既に始終が終わり、故に吉凶の儀がある。所謂成服は、本来喪礼を成すものであり、百司内外は皆吉容を変える。侠御のみが変えないなら、何を以て成服と言えようか。もし霊に侠御がなければそれまでだが、あれば必ず縗服を着けるべきである」と。謝岐が議して曰く、「霊筵は宗廟に合せ、梓宮は山陵に合せるのは、実に左丞の議の通りである。但し山陵の鹵簿は、吉凶を備え、霊輿に従う者は儀服を変えず、梓宮に従う者は皆苴縗を着ける。士礼に至るまで、皆この制と同じである。これは自ら山陵の儀であって、成服に関わらない。今、梓宮と霊扆が共に西階にあり、成服と称する以上、鹵簿もなく、ただ胥吏より王公に至るまで、四海の内、必ず縗絰を備えるべきである。梁の昭明太子の 薨去 を案ずるに、ほぼ成例であり、どうして凡百の士庶が悉く重服を着け、侍中から武衛に至るまで、最も近侍の官であるのに、反って玉を鳴らし青を紆らし、平吉と異ならないことがあろうか。左丞は既に山陵の事を推しているが、愚意には或いは成服とは異なると考える。もしその日の侠御が、文武に異ならず、ただ霊に侍る者、主書、宣伝、斉幹、応勅は、悉く改めるべきでない」と。蔡景歴がまた議して云う、「侠御の官は、本来五百より出で、その日は服を備えて廬に居り、なお本省にあり、引かれて殿に登る。どうして貂玉の服を変えるべきであろうか。もし別に余官を摂めて、簪珥に充てるなら、その日には既に成服しない者がいることになる。山陵には自ら吉凶二議があり、成服は凶であって吉でない。なお前議に依り、劉舎人に同調する」と。徳藻がまた議して云う、「愚考するに、祖葬の日は、始終が永く終わり、達官には追贈があり、恩栄を表す必要がある。吉の鹵簿があるのは、恐らくこの義によるもので、私家がこれを模倣し、因って俗となった。上服は本来吉を凶に変えるものであり、理としてなお紈綺を襲うべきではない。劉舎人が王衛軍の喪儀を引き、梁の昭明の故事を検するのは、この明らかな根拠は既に審らかである。博士、左丞は各々事の衷を尽くしたが、既に証拠を取らず、更に詳しく詢ねる必要がある。宜しく八座、詹事、太常、中丞及び中庶の諸通、袁枢、張種、周弘正、弘譲、沈炯、孔奐に諮問すべきである」と。時に八座以下は皆請うて曰く、「群議を案じ、旧儀を斟酌するに、梁の昭明太子の喪成服儀注は、明文として現存し、足るを以て準的と為す。成服の日、侍官は理としてなお吉礼に従うことを容れない。その葬礼が吉に分かれるのは、自ら山陵の時であり、成服の日に関わらない。愚考するに、劉舎人の議は事に於いて允当である」と。陵が重ねて答えて云う、「老病で属纊の身、多くは説けず。古人の争議は、多く怨府と成り、傅玄は晋代に尤められ、王商は漢朝に陥せられた。謹んで自ら三緘し、敬って高命に同じくする。もし万一死なず、なお言を展べ得るなら、庶くは朝賢と更に揚搉を申さん」と。文阿はなお自らの見解を執り、衆議は決することができず、乃ち二議を具に録して奏聞し、師知の議に従った。
まもなく鴻臚卿に遷り、舎人は元の如くであった。天嘉元年、事に坐して免官された。初め、世祖は師知に『起居注』を撰述するよう勅し、永定二年秋より天嘉元年冬までを十巻とした。中書舎人として起用され、再び詔誥を掌った。天康元年、世祖が御不 豫 となり、師知は尚書 僕射 の到仲挙らと共に医薬の侍りに入った。世祖が崩御されると、顧命を預かった。高宗が 尚書令 となり、入朝して輔政するに及び、光大元年、師知は仲挙らと共に舎人の殷不佞を使い、詔を矯って高宗に東府に還るよう命じさせた。事が発覚し、北獄にて賜死された。
謝岐
謝岐は、会稽山陰の人である。父の達は、梁の太学博士であった。
岐 は幼少より機警にして学を好み、梁の世に称せられた。尚書金部郎、山陰令となった。侯景の乱に際し、岐は東陽に流寓した。侯景が平定されると、張彪に依った。彪が呉郡及び会稽に在った時、諸事を一に岐に委ねた。彪が征討する毎に、常に岐を留めて郡を監せしめ、後事を知らしめた。彪が敗れると、高祖(陳霸先)は岐を引き立てて機密に参預せしめ、兼尚書右丞とした。時に軍旅が屡々興り、糧儲多く欠けたが、岐の在る所は幹理し、深く知遇を受けた。永定元年(557年)、給事黄門侍郎、中書舍人となり、兼右丞は元の如くであった。天嘉二年(561年)に卒し、通直 散騎常侍 を贈られた。
岐の弟の 嶠 は、篤く学び、世の通儒となった。
【論】
史臣曰く、高祖は基を開き業を創め、禍乱を剋定した。武猛は固より其の功を立て、文翰も亦た力を展べた。趙知禮、蔡景歴は早くより攀附を識り、締構に預かる臣たり。劉師知は博く渉り多く通ずるも、機変に暗く、節義を存せんと欲すれども、終に極刑に陥り、斯れ不智なり。
旧校
〈劉師知伝〉「孔中庶諸通」、疑わしい。