陳書
巻十五 列伝第九 宗室
陳擬
陳擬は 字 を公正といい、 高祖 の遠縁の親族である。幼くして孤貧であり、性質は質直で記憶力が強かった。高祖が交趾を南征したとき、擬はこれに従った。また 侯景 を進討し、 豫 章に至り、擬を羅州 刺史 とし、胡穎と共に後方の事務を管掌させ、軍糧の応接にあたらせた。高祖が朱方に鎮すると、擬は步兵 校尉 ・曲阿令に任じられた。紹泰元年、貞威将軍・義興太守を授けられた。二年、入朝して衛尉の事務を管掌し、員外 散騎常侍 ・明威将軍・雍州刺史に任じられ、南徐州を監督した。
高祖が即位すると、 詔 して言う。「城を 維 ぐ宗子は、実に周を固くし、盤石の懿親は、大漢を隆盛にするために用いられる。故に会盟では異姓を後とし、土を 啓 くには劉にあらざれば王とせず、これをもって枝幹を糾合し、広く蕃屏を樹てるは、前王の 懋 んな典であり、歴代の恒規である。従子の持節・員外 散騎常侍 ・明威将軍・雍州刺史・監南徐州の擬、持節・通直散騎侍郎・貞威将軍・北徐州刺史の褒、従子の晃・炅、従孫の仮節・員外 散騎常侍 ・明威将軍の訬、仮節・信威将軍・北徐州刺史・吉陽県開国侯の諠、仮節・通直散騎侍郎・信武将軍の祏、仮節・散騎侍郎・雄信将軍・青州刺史・広梁太守の詳、貞威将軍・通直散騎侍郎の慧紀、従孫の敬雅・敬泰は、皆、枝葉の親戚で密接な近親であり、王室に労苦を尽くした。宜しく河山に列し、利建(国家創建)を光輝あらしめるべきである。擬は永脩県開国侯とし、褒は鍾陵県開国侯とし、晃は建城県開国侯とし、炅は上饒県開国侯とし、訬は虔化県開国侯とし、諠は前の封をそのままとし、祏は 豫 章県開国侯とし、詳は遂興県開国侯とし、慧紀は宜黄県開国侯とし、敬雅は寧都県開国侯とし、敬泰は平固県開国侯とし、各々邑五百戸を賜う。」擬はまもなく軽車将軍を加えられ、南徐州刺史を兼ね、常侍はもとのままとした。その年、通直 散騎常侍 ・中領軍を授けられた。三年、再び本官をもって南徐州を監督した。世祖が位を継ぐと、丹陽尹に任じられ、常侍はもとのままとした。事に坐し、また白衣の身分で郡を管掌したが、まもなく本来の官職に復した。天嘉元年に卒去した。時に五十八歳。領軍将軍を追贈され、凶事に必要なものは全て官が支給した。諡して定といった。二年、高祖の廟廷に配享された。子の党が嗣いだ。
陳詳
陳詳は字を文幾といい、若くして出家して僧侶となった。書記に長け、談論は清雅であった。高祖が侯景を討つとき、詳を召し出し、初服(俗人の服装)に戻ることを命じ、兵馬を配属して、京邑平定に従軍させた。高祖が杜龕を東征するとき、詳は別働隊として安吉・原郷・故鄣の三県を陥落させた。龕が平定されると、功により散騎侍郎・仮節・雄信将軍・青州刺史に任じられ、故鄣・広徳を割いて広梁郡を設置し、詳を太守とした。高祖が即位すると、広梁を陳留と改め、また陳留太守とした。永定二年、遂興県侯に封ぜられ、食邑五百戸を賜う。その年、明威将軍・通直 散騎常侍 に任じられた。三年、 侯安都 に従い王琳の部将常衆愛を宮亭湖で破った。世祖が位を継ぐと、宣城太守に任じられ、将軍はもとのままとした。王琳が柵口を占拠すると、詳は呉明徹に従い湓城を襲撃し、王琳の家族を捕らえようとしたが、成功せず、南湖に入り、鄱陽から歩道を通って帰還した。王琳が平定されると、詳と明徹は共に功績が認められなかった。天嘉元年、例に従って封邑を増やし、以前の分と合わせて一千五百戸となった。引き続き通直 散騎常侍 に任じられ、右衛将軍を兼ねた。三年、外任として仮節・ 都督 呉州諸軍事・仁威将軍・呉州刺史となった。
周迪が臨川に拠って挙兵すると、詳は州から別の道を通って濡城の別営の周迪を襲撃し、その妻子を捕らえた。周迪は敗走し、詳は本鎮に戻った。五年、周迪が再び臨川に出撃すると、詳を 都督 とし、水軍・歩兵を率いて周迪を討たせた。軍が南城に至り、賊と遭遇し、戦いに敗れて戦死した。時に四十二歳。統率した軍が軍律を失ったため、追贈と諡はなかった。子の正理が嗣いだ。
陳慧紀
陳慧紀は字を元方といい、高祖の従孫である。書史に広く通じ、才気を負い任侠の気風があった。高祖が侯景を平定するとき、慧紀はこれに従った。まもなく兵馬を配属された。侯景平定後、杜龕征討に従軍した。貞威将軍・通直 散騎常侍 に任じられた。高祖が即位すると、宜黄県侯に封ぜられ、邑五百戸を賜い、黄門侍郎に任じられた。世祖が即位すると、外任として安吉県令となった。明威将軍軍副に転じた。 司空 章昭達 が安蜀城を征討するとき、慧紀は水軍 都督 となり、荊州で青泥の船艦を焼いた。光大元年、功により持節・通直 散騎常侍 ・宣遠将軍・豊州刺史に任じられ、封邑を増やして以前の分と合わせて一千戸となった。太建十年、呉明徹が北討に敗北すると、慧紀を持節・智武将軍・縁江 都督 ・兗州刺史とし、封邑を増やして以前の分と合わせて二千戸とし、その他の官職はもとのままとした。周軍が勝勢に乗じて淮南を占拠し、江外が騒擾すると、慧紀は士卒を収集し、海路を通って都に帰還した。まもなく使持節・ 散騎常侍 ・宣毅将軍・ 都督 郢巴二州諸軍事・郢州刺史に任じられ、封邑を増やして以前の分と合わせて二千五百戸となった。至徳二年、使持節・ 散騎常侍 ・雲麾将軍・ 都督 荊信二州諸軍事・荊州刺史に転じ、女伎一部を賜い、封邑を増やして以前の分と合わせて三千戸となった。禎明元年、蕭琮の 尚書 左 僕射 安平王蕭巖・ 晋 熙王蕭瓛らが、その部衆の男女二万余口を率いて慧紀のもとに赴き降伏を請うたので、慧紀は兵を以てこれを迎えた。その年、応接の功により、侍中・金紫光禄大夫・開府儀同三司・征西将軍を加えられ、封邑を増やして以前の分と合わせて六千戸とし、その他の官職はもとのままとした。
隋の軍が長江を渡ると、元帥の清河公楊素が巴硤から下ってきたので、慧紀はその部将の呂忠粛・陸倫らを派遣してこれを防がせたが、戦いに敗れ、楊素は進んで馬頭を占拠した。この時、隋の将軍韓擒虎及び賀若弼らは既に長江を渡り蒋山を占拠していた。慧紀はこれを聞き、その長史陳文盛らを留めて守らせ、自ら将士三万人、楼船千余艘を率いて長江を下り、台城に向かおうとした。漢口に至り、秦王(楊俊)の軍に阻まれて進めず、やむなく湘州刺史晋熙王叔文・巴州刺史畢宝らと共に降伏を請うた。隋に入り、例に従って儀同三司を授けられた。まもなく卒去した。子の正平は、かなり文学の才があった。
【評】
史臣曰:『詩経』に「宗子はこれ城なり、城を壊すことなかれ」とある。また「綿々たる 瓜瓞 、 葛藟 これに 纍 なる」ともいう。西京(前漢)には皆豊沛の故人(高祖の旧臣)がおり、東都(後漢)にもまた南陽(光武帝の故郷)に顕官が多い。道理があることである。