沈炯
沈炯は字を禮明といい、吳興郡武康縣の人である。祖父の瑀は、梁の尋陽太守であった。父の續は、王府の記室參軍であった。
炯は若くして優れた才能があり、当時の人々に重んじられた。初めて官に就き王國常侍となり、尚書左民侍郎に遷り、出て吳縣令となった。侯景の乱の時、吳郡太守の袁君正が京師を救援するために入り、炯に郡の監察を委ねた。京城が陥落すると、侯景の将の宋子仙が吳興を占拠し、使者を遣わして炯を召し出し、書記の任を委ねようとした。炯は病気を理由に固く辞退したので、子仙は怒り、彼を斬るよう命じた。炯が衣を解いて斬られようとした時、道端の桑の木に妨げられ、そこで更に別の場所へ引いて行かれたところ、ある者が急いで救ったので、辛うじて死を免れた。子仙はその才能を惜しみ、結局彼を脅して書記を執らせた。やがて子仙が王僧辯に敗れると、僧辯はかねてよりその名を聞いており、軍中で彼を探し出し、捕らえた者に鉄銭十万を報酬として与えた。これより後、羽檄や軍書はすべて炯の手になるものであった。簡文帝が害された時、四方の岳牧(地方長官)は皆江陵に上表して即位を勧めたが、僧辯は炯に表文を作らせた。その文章は甚だ巧みで、当時これに及ぶ者はなかった。
高祖が禅譲を受けると、通直散騎常侍を加えられ、御史中丞は元の通りであった。母が年老いていることを理由に表を上って帰郷して養うことを請うたが、詔は許さなかった。
文帝が位を嗣ぐと、また表を上って言った。「臣は生まれながらの不幸にて、弱冠にして孤となり、母子零丁、兄弟相い長ず。謹みて身を以て養い、仕えて官を択ばず、宦は梁朝に成り、命は乱世に存す。危を冒し険を履み、百死して生を軽んじ、妻子は誅夷され、兄弟は冥滅す。余れる臣母子、興運に逢うを得たり。臣の母妾劉、今年八十有一、臣の叔母妾丘、七十有五、臣の門弟姪故より自ら人無く、妾丘の兒孫又久しく亡泯す。両家の侍養、余れるは臣一人のみ。前帝は臣の孤煥なるを知り、臣を州里に養い、頓に草萊に居らしめんと欲せず、又復臣の溫凊を矜れみ、以て一年の内に、再三休沐せしむ。臣の屡たび丹款を披き、頻りに宸鑒を冒すは、苟も朝廷に違ひ、畿輦を遠離せんと欲するに非ず。一には年将に六十に及び、湯火心に居り、毎たび家書を跪読し、前は懼れ後は喜び、枕を溫め席を扇ぐ、復た童成る無し。二には職は彝憲に居り、邦の司直たり。若し自ら身礼を虧かば、何を以て国章を問はん。前徳綢繆、始めて哀放を許す。内侍近臣、多く此の旨を悉くす。正に賢を選び能に与へ、広く明哲を求むるに、〓趄荏苒、未だ始めて才を取らず。而上玄降戾、奄として今日に至る。徳音耳に在り、墳土遽かに乾く。悠悠たる昊天、此の罔極を哀しまざらんや。兼ねて臣の私心煎切、弥近時に迫る。慺慺の祈り、転じて塵触を忘る。伏して惟うに、陛下は睿哲聰明、下武を嗣ぎ興し、刑を四海に于ひ、此の孝治を弘めたまえり。寸管天を求め、仰いで帷扆に帰し、感有れば必ず応じ、実に聖明を望む。特ち沛然として其の私礼を申さしめ給はば、則ち王者の徳、無方に覃び、矧んや彼の翔沈、孰か涵養せざらん。」詔は答えて言った。「表を省みて懐いを具う。卿の誉は咸・雒に馳せ、情は宛・沛に深し。日者、理は倚門に切にして、言は異域に帰せんとし、復た時役に牽かれ、遂に侍養に乖く。周生の思ひ有りて、毎たび官を棄てんと欲すと雖も、戴礼文を垂れ、政に従ふを得て遺す。前朝は四海に光宅し、万機に劬労し、卿の才を以て独歩と為し、職を専席に居らしめ、方に深く委任し、屡たび情礼を屈せしむ。朕は洪基を嗣奉し、景業を弘めんと思ふ。顧みるに此の寡薄、兼ねて哀疚に纏はれ、実に賢哲に頼り、同じく雍熙を致さしめんとす。豈に便ち簡を南闈に釈き、紱を東路に解かんや。当今、馮親入舍し、荀母官に従ふ。以て朝栄を睹し、家礼を虧かざらしむ。尋ねて所由に勅し、尊累を相迎へしめ、卿をして公私其の所を得しめ、並びに廃する無からしむ。」
初め、高祖は嘗て炯が王佐(帝王を補佐する臣)に適していると称え、軍国の大政は多くその謀議に預からせた。文帝もまたその才能を重んじ、寵愛して貴ばせようとした。時に王琳が大雷に侵入寇し、留異が東境を擁拠した。帝は炯にこれによって功を立てさせようとし、御史中丞を解き、明威將軍を加え、郷里に還して徒衆を収合させようとした。病気のため吳中で卒去した。時に年五十九。文帝はこれを聞くと、即日に哀悼の礼を挙げ、併せて弔祭の使者を遣わし、侍中を追贈し、諡して恭子といった。文集二十巻が世に行われている。
虞荔
虞荔は字を山披といい、會稽郡餘姚縣の人である。祖父の權は、梁の廷尉卿・永嘉太守であった。父の檢は、平北始興王諮議參軍であった。
荔は幼くして聡明で、志操があった。九歳の時、従伯の闡に従って太常の陸倕を訪ねた。倕が五経について十の事柄を問うと、荔は問いに従って直ちに応答し、遺漏がなく、倕は甚だ異とするところがあった。また嘗て徵士の何胤を訪ねた時、太守の衡陽王も亦そこを訪れた。胤が王に荔のことを言うと、王は荔に会おうとしたが、荔は辞して言った。「板刺(名刺)が未だ無く、拝謁する容す無し。」王は荔に高尚の志有りとし、雅に欽重し、郡に還ると、直ちに主簿に辟召したが、荔はまた年が若いことを理由に辞して就かなかった。成長すると、風儀が美しく、広く墳籍(古典)を博覧し、文を属する(文章を作る)ことを善くした。初めて官に就き梁の西中郎行參軍となり、間もなく法曹外兵參軍を署せられ、兼ねて丹陽詔獄正となった。梁の武帝が城西に士林館を置くと、荔は碑文を作り、奏上した。帝は命じてこれを館に刻ませ、仍もって荔を士林學士とした。間もなく司文郎となり、通直散騎侍郎に遷り、兼ねて中書舍人となった。時に左右の任にある者は多く権軸(政権の中枢)に参じ、内外の機務は互いに帯掌していたが、ただ荔と顧協のみが淡泊として静かに退き、西省に居り、ただ文史によって知られ、当時清白と号された。間もなく大著作を領した。
侯景の乱の時、虞荔は親族を率いて宮城に入り、鎮西諮議参軍に任ぜられ、舎人の職は元の通りであった。宮城が陥落すると、逃れて郷里に帰った。侯景が平定されると、元帝は彼を中書侍郎に召し、貞陽侯は揚州別駕に任じたが、いずれも就任しなかった。
張彪が会稽を占拠した時、虞荔はそこにいた。文帝が張彪を平定すると、高祖(陳霸先)は虞荔に書を送って言った、「喪乱以来、賢哲は凋散し、君の才用は優れ、名声は許・洛に聞こえている。当今朝廷は惟新し、広く英雋を求めている。どうして東土に栖遅し、独り善其身をなすことができようか。今、兄の子(虞世基)をして君を迎えに出都させよう。必ずや朝廷の虚遅に副うことを想う」。文帝もまた書を送って言った、「君は東南の美才にして、声譽洽聞である。自ら翰飛して京許に至り、共に時弊を康うすべきであるのに、跡を丘園に削り、茲の独善を保つとは、どうして称空谷の望をなさしめようか。必ず願わくば便爾俶装し、且つ出都の計を為さんことを。唯遅く披覯することを、茲の日に在り」。切迫して已むを得ず、乃ち命に応じて都に至った。高祖が崩御し、文帝が嗣位すると、太子中庶子に任ぜられ、引き続き太子に侍読した。まもなく大著作を領し、東揚・揚州二州の大中正となり、庶子の職は元の通りであった。
初め、虞荔の母は虞荔に従って宮城に入り、宮城内で卒去した。まもなく城が陥落し、情礼を申し上げることができなかった。このため終身、蔬食布衣で、音楽を聴かず、任遇は隆重であったが、居止は儉素で、淡然として営みがなかった。文帝は深く彼を器とし、常に左右に引きいて、朝夕顧問した。虞荔の性格は沈密で、言論少なく、凡そ献替する所は、その際を見る者なく、故に後世に列せられていない。
弟、虞寄
虞寄は字を次安といい、少にして聡敏であった。数歳の時、客がその父を訪ね、門で虞寄に遇い、因って嘲って言った、「郎君は虞姓なれば、必ず智無からん」。虞寄は声に応じて答えて言った、「文字を辨ぜず、豈に愚に非ずと得んや」。客は大いに慚じた。入ってその父に言った、「此の子は常人に非ず、文挙(孔融)の対も是に過ぎず」。
成長すると、学を好み、文を属するに善かった。性は沖静で、栖遁の志があった。弱冠にして秀才に挙げられ、対策して高第となった。梁の宣城王国左常侍として起家した。大同年中、嘗て驟雨があり、殿前に往々にして雑色の宝珠があった。梁武帝はこれを見て甚だ喜色あり、虞寄は因って瑞雨頌を上った。帝は虞寄の兄の虞荔に言った、「此の頌は典裁清抜、卿家の士龍なり。将に如何に擢用せん」。虞寄はこれを聞き、歎じて言った、「盛徳の形容を美しうし、以て撃壤の情を申すのみ。吾豈に名を買い仕を求むる者ならんや」。乃ち門を閉ざして疾を称し、唯書籍を以て自ら娯しんだ。岳陽王(蕭詧)が会稽太守となると、虞寄を行参軍に引き、記室参軍に遷し、郡の五官掾を領した。又中記室に転じ、掾は元の通りであった。在職中は煩苛を簡略にし、務めて大體を存し、曹局の内は終日寂然であった。
宝応が留異と婚姻を結び、潜かに逆謀を有するに及んで、虞寄は微かにその意を知り、言説の際、毎に逆順の理を陳べ、微かに諷諫した。宝応は輒ち他事を説いて以てこれを拒いだ。又嘗て左右に漢書を誦せしめ、臥してこれを聴き、蒯通が韓信に説いて「相君の背、貴ぶべからずして言う」と至ると、宝応は蹶然として起きて言った、「智士と謂うべし」。虞寄は正色して言った、「酈生を覆し韓信を驕らすは、未だ智と称すに足らず。豈に班彪の王命、帰する所を識るに若かんや」。
虞寄は宝応が諫め難きを知り、禍の己に及ぶを慮り、乃ち居士の服を為して以てこれを拒絶した。常に東山寺に居り、偽りて脚疾を称し、復た起たず。宝応は仮託と以為い、虞寄の臥す屋を焼かせたが、虞寄は安臥して動かず。親近の者が虞寄を扶け出そうとすると、虞寄は言った、「吾が命は懸かる所有り、避けて安くにか往かん」。火を放った者は、旋って自らこれを救った。宝応は此れより方に信じた。
留異が兵を称するに及んで、宝応はその部曲を資した。虞寄は乃ち書を因って極諫して言った。
東山の虞寄、明将軍使君節下に致書す。寄は世故に流離し、貴郷に飄寓す。将軍は上賓の礼を以て待ち、国士の眷を以て申す。意気の感ずる所、何の日か之を忘れん。而して寄は沈痼弥留し、愒陰将に尽きんとす。常に卒に溝壑に填るを恐れ、涓塵も報ゆる莫く、是を以て敢えて腹心を布き、丹款を冒して陳ぶ。願わくば将軍、須臾の慮を留め、少しく思察せよ。則ち瞑目の日、懐う所畢らん。
夫れ安危の兆、禍福の機は、独り天時に由るのみならず、亦人事に由る。之を毫釐失えば、千里に差す。是を以て明智の士は、重位に拠りて傾かず、大節を執りて失わず。豈に浮辞に惑わんや。将軍は文武兼資し、英威世に不なり。往きに多難に因り、剣を杖いて師を興し、旗を援げて衆を誓い、威を抗して千里、豈に四郊多壘を以て、共に王室を謀り、時を匡え主に報い、国を寧んじ民を庇わんとせざらんや。此れ五尺の童子も、皆戟を荷いて将軍に随わんと願う所以なり。高祖武皇、草昧に基を肇き、初めて艱難を済わす。時に天下沸騰し、民定主無く、豺狼道に当たり、鯨鯢横撃し、海内業業として、従う所を知らず。将軍は微の鑑を運動し、従衡の辯を折り、名を策し質を委ね、自ら宗盟に託す。此れ将軍の妙筭遠図、衷誠より発する者なり。主上業を継ぎ、欽明睿聖にして、賢を選び能に与え、群臣輯睦し、将軍を結ぶに維城の重を以てし、将軍を崇むるに裂土の封を以てす。豈に宏謨廟略、赤心を物に推すに非ずや。屡明詔を申し、款篤殷勤、君臣の分定まり、骨肉の恩深し。意わざらんや将軍、邪説に惑い、遽かに異計を生ず。寄の疾首痛心し、泣き尽くして血を継ぐ所以なり。万全の策、窃に将軍の為に之を惜しむ。寄は疾侵耄及ぶと雖も、言採るに足らず、千慮一得、請う愚筭を陳べん。願わくば将軍、少しく雷霆を戢め、其の晷刻を賒かにし、狂瞽の説を尽くし、肝膽の誠を披かしめよ。則ち死するの日も、由りて生くるの年なり。
将軍のために計るに、遠からずして復するに如くはなく、留氏との親戚関係を絶ち、秦郎・快郎を随えて人質として遣わし、甲を解き兵を偃げ、詔旨に一たび遵うことである。かつ朝廷は鉄券の要を許し、白馬の盟を申し、朕は食言せず、宗社に誓う。寄は聞く、明者は未だ形ならざるを鑑とし、智者は再び計らずと。これが成敗の効である。将軍は疑うなかれ。吉凶の機は、間髪を容れず。今、藩維は尚少なく、皇子は幼沖である。凡そ宗枝に預かる者は、皆寵樹を蒙っている。まして将軍の地、将軍の才、将軍の名、将軍の勢いを以て、よく藩服を修め、北面して臣と称するならば、どうして劉澤と同年にしてその功業を語ることができようか。身は山河と等しく安らぎ、名は金石と相俟って朽ちぬことにならないであろうか。願わくは三思を加え、これを慮るに忽せざらんことを。
寄は気力綿微にして、余命幾ばくもなく、恩を感し徳を懐いて、狂言を覚えず。鈇鉞の誅も、薺の如く甘んずる。
宝応は書を覧て大怒した。ある者が宝応に言うには、「虞公は病勢が次第に篤く、言うこと多く錯謬あり」と。宝応の心はやや解けた。また寄が民望があるため、寛容に扱った。宝応が敗走し、夜に蒲田に至った時、その子の扞秦を顧みて言うには、「早く虞公の計に従わば、今日に至らなかったであろうに」と。扞秦はただ泣くのみであった。宝応が擒えられた後、諸賓客で微かに交渉のあった者は皆誅殺されたが、ただ寄のみは先見の識により禍を免れた。
初め、沙門の慧摽は広く学び才思あり、宝応が起兵した時、五言詩を作ってこれを送り、曰く「馬を送る猶水に臨むが如く、旗を離する稍風を引く、今夜の月を好看せよ、当に紫微宮に入るべし」と。宝応はこれを得て甚だ悦んだ。慧摽は〓して寄に示した。寄は一覧して便ち止め、正色して無言であった。摽が退くと、寄は親しい者に言うには、「摽公は既にこれをもって始めたれば、必ずこれをもって終わるであろう」と。後に竟にこの事に坐して誅殺された。
文帝は直ちに都督の章昭達に命じて道理を説き発遣させ、寄を還朝させた。到着すると即日に引見し、寄に言うには、「管寧無恙なり」と。その慰労の情はこのようであった。間もなく、文帝は到仲挙に言うには、「衡陽王は既に出閤したが、未だ府僚を置かず、然れども一人の者を旦夕遊処させ、兼ねて書記を掌らせる必要がある。宜しく宿士で行業ある者を求むべし」と。仲挙は何と答えるべきか知らず、文帝は言う、「吾自ら得たり」と。乃ち手勅を以て寄を用いた。寄が入謝すると、文帝は言う、「卿を暫く屈して藩国に遊ばせる所以は、ただ文翰を煩わすのみならず、師表として事えさせるためである」と。間もなく散騎常侍を兼ね、斉に聘したが、寄は老病を理由に辞し、行かず、国子博士に除された。間もなく、また表を上って職を解き郷里に帰ることを請うた。文帝は優れた旨をもって報答し、その東還を許した。仍って東揚州別駕に除したが、寄はまた病気を理由に辞した。高宗が即位すると、揚州治中及び尚書左丞に徴授したが、共に就任しなかった。乃ち東中郎建安王諮議に除し、戎昭将軍を加えたが、また病気を理由に辞し、旦夕陪列に堪えられないとした。王はそこで特に王府の公事を停めることを命じ、疑議ある時は就いて決めさせ、ただ朔望に牋を修めるのみとした。太建八年に太中大夫を加え、将軍は元の如し。十一年に卒す。時に年七十。
寄は幼少より篤実な行いをなし、急ぐときも必ず仁厚を旨とし、たとえ童僕・下僕に対しても、いまだかつて声や顔色を荒げることはなかったが、危急に臨んで節義を守るに至っては、言葉の調子は凛然として、白刃をも恐れなかった。南土に流寓して以来、兄の荔と隔絶していたため、気病を感じ、荔の手紙を得るたびに、気が急に激しくなり、危篤に陥ること数度に及んだ。前後に歴任した官職において、いまだかつて任期満了に至らず、わずか一年か数ヶ月で、自ら解任退去を求めた。常に言うには、「足るを知れば辱められず、我は足ることを知っている」と。病を理由に私邸に引き籠もってからは、諸王が州の長官(刺史)となるたびに、着任すると必ずその門を訪れて礼を尽くし、鞭や手板を下ろさせ、几杖を傍らに置いて侍坐させた。常に近くの寺に出かけて遊ぶと、里巷では互いに言い伝え、老若男女が道の左側に並んで、望み見て拝礼した。あるいは誓いを立てて約束する者があれば、ただ寄を指して欺かないとし、その至高の行いが人々を感化すること、このようであった。制作した文章は、乱に遭って多くは現存しない。
馬樞
馬樞、字は要理、扶風郡郿県の人である。祖父の霊慶は、斉の竟陵王の録事参軍であった。樞は数歳で父母ともに喪い、その姑によって養育された。六歳で、孝経・論語・老子を誦することができた。成長すると、経書史書を広く極め、特に仏教経典および周易・老子の義理に詳しかった。
梁の邵陵王蕭綸が南徐州刺史となったとき、かねてよりその名を聞き、学士として招いた。綸は当時自ら大品経を講じ、樞に維摩経・老子・周易を講ぜしめ、同日に題を発し、僧俗の聴衆二千人がいた。王は優劣を極めて観ようと欲し、乃ち衆に向かって言うには、「馬学士と論義するには、必ずや屈服させねばならず、空しく主客を立てることは許さぬ」と。ここにおいて数家の学者がそれぞれ問いの端緒を立てると、樞は順序に従って剖判し、その宗旨を開き、然る後に枝分かれ流別し、転変すること窮まりなく、論者は拱手して黙って聴き受けるのみであった。綸は大いにこれを賞賛し、朝廷に引薦しようとした。まもなく侯景の乱に遭遇し、綸は兵を挙げて朝廷(臺)を救援したため、乃ち書物二万巻を留めて樞に託した。樞は思いのままに探し読み、ほぼ遍く読破し、乃ち慨然として嘆いて言うには、「私は聞く、爵位を貴ぶ者は巣父・許由を桎梏とし、山林を愛する者は伊尹・呂尚を管庫(小役人)とす、名実に拘束されれば柱下の史(老子)の言は芻芥の如く、清虚を玩べば席上の説(儒家の説)は糠秕の如し、篤論に照らせば、これまた各々その好みに従うものである。然るに支父(子州支父)には王位を譲る節操があり、厳子(厳光)には帝を傲る規矩があり、千載の美談として、廃されることはない。近ごろ志を求める士は、途を望んで息む。豈に天が高尚を恵まずして、何ぞ山林に聞こえる者が甚だしく無いのか」と。乃ち茅山に隠棲し、そこで終わる志を抱いた。
【評】
史臣が曰く、沈炯は梁の朝廷に仕え、年は知命(五十歳)にあり、郎署の薄官を望み、邑宰の卑職に止まったが、盟壇に下筆し、勧進の表文に文辞を属するに及んでは、旨趣を激揚し、誠に文人の偉大なる者と言うべきか。虞荔の献策は沈密にして、その誠意を尽くし、明らかなる時に有益であったと言えよう。