陳書

巻十九 列伝第十三 沈炯 虞荔 馬樞

巻十九 列伝第十三 沈炯 虞荔 馬樞

沈炯

原文沈炯

沈炯は字あざなを禮明といい、吳興郡武康縣の人である。祖父の瑀は、梁の尋陽太守であった。父の續は、王府の記室參軍であった。

原文沈炯字禮明,吳興武康人也。祖瑀,梁尋陽太守。父續,王府記室參軍。

炯は若くして優れた才能があり、当時の人々に重んじられた。初めて官に就き王國常侍となり、尚書左民侍郎に遷り、出て吳縣令となった。侯景の乱の時、吳郡太守の袁君正が京師を救援するために入り、炯に郡の監察を委ねた。京城が陥落すると、侯景の将の宋子仙が吳興を占拠し、使者を遣わして炯を召し出し、書記の任を委ねようとした。炯は病気を理由に固く辞退したので、子仙は怒り、彼を斬るよう命じた。炯が衣を解いて斬られようとした時、道端の桑の木に妨げられ、そこで更に別の場所へ引いて行かれたところ、ある者が急いで救ったので、辛うじて死を免れた。子仙はその才能を惜しみ、結局彼を脅して書記を執らせた。やがて子仙が王僧辯に敗れると、僧辯はかねてよりその名を聞いており、軍中で彼を探し出し、捕らえた者に鉄銭十万を報酬として与えた。これより後、羽檄や軍書はすべて炯の手になるものであった。簡文帝が害された時、四方の岳牧(地方長官)は皆江陵に上表して即位を勧めたが、僧辯は炯に表文を作らせた。その文章は甚だ巧みで、当時これに及ぶ者はなかった。

原文炯少有雋才,為當時所重。釋褐王國常侍,遷為尚書左民侍郎,出為吳令。侯景之難,吳郡太守袁君正入援京師,以炯監郡。京城陷,景將宋子仙據吳興,遣使召炯,委以書記之任。炯固辭以疾,子仙怒,命斬之。炯解衣將就戮,礙於路間桑樹,乃更牽往他所,或遽救之,僅而獲免。子仙愛其才,終逼之令掌書記。及子仙為王僧辯所敗,僧辯素聞其名,於軍中購得之,酬所獲者鐵錢十萬,自是羽檄軍書皆出於炯。及簡文遇害,四方岳牧皆上表於江陵勸進,僧辯令炯製表,其文甚工,當時莫有逮者。

高祖(陳霸先はせん)が南下し、僧辯と白茅灣で会し、壇に登って盟約を結んだ時、炯がその文章を作った。侯景が東へ奔って吳郡に至った時、炯の妻の虞氏と子の行簡を捕らえ、共に殺害した。炯の弟は母を連れて逃れ、難を免れた。侯景が平定されると、梁の元帝はその妻子が殺戮されたことを哀れみ、特に原郷縣侯に封じ、邑五百戸を与えた。僧辯が司徒となると、炯を從事中郎とした。梁の元帝は彼を召し出して給事黃門侍郎とし、尚書左丞を領させた。

原文高祖南下,與僧辯會于白茅灣,登壇設盟,炯為其文。及侯景東奔至吳郡,獲炯妻虞氏,子行簡,並殺之,炯弟攜其母逃而獲免。侯景平,梁元帝愍其妻子嬰戮,特封原鄉縣侯,邑五百戶。僧辯為司徒,以炯為從事中郎。梁元帝徵為給事黃門侍郎,領尚書左丞。

荊州が陥落すると、西魏の捕虜となり、魏人は彼を厚く礼遇し、儀同三司の官を授けた。炯は母が年老いて東方にいるため、常に帰国を思い、魏人がその文才を愛して留めようとするのを恐れ、常に門を閉ざして掃除もせず、交遊しなかった。時に文章を作っても、直ちに棄て毀ち、流布させなかった。かつて一人で漢の武帝の通天臺を通りかかり、表文を奏上して、己の帰国を思う意を述べた。その文は次のようであった。「臣は聞く、喬山は掩われたれども、鼎湖の霊は祠り得べく、有魯は既に荒れ果てたれども、大庭の跡は泯びずと。伏して惟うに、陛下は徳を猗蘭に降し、霊を豊谷に纂つがれたまえり。漢の道既に登り、神仙望むべく、之罘を海浦に射、日観に礼して功を称え、中流を汾河に横たえ、柏梁を指して高宴を張る、何ぞ其れ楽しきこと、豈に然らざらんや。既にして運は上仙に属し、道は晏駕に窮す。甲帳珠簾、一朝にして零落し、茂陵の玉碗、宛として人間に出づ。陵雲の故基は、原田と共に膴膴(よく肥えたさま)たり。別風の余址は、陵阜に対して茫茫たり。羇旅の縲臣、能く涙を落とさざらんや。昔、承明に既に厭いて、厳助は東に帰り、駟馬乗るべく、長卿は西に返る。恭しく故実を聞き、窃かに愚心あり。黍稷は馨しからずと雖も、敢えて福を徼もとむるを忘れず。」奏上し終えると、その夜、炯は宮禁の場所の夢を見、兵衛が甚だ厳重であった。炯は直ちに事情を陳訴すると、ある者の言う声を聞いた。「甚だ惜しむことなく卿を放ち還すべし、いつ頃に至るか。」数日後、王克らと共に東帰を許された。紹泰二年(556年)に都に至り、司農卿に任じられ、御史中丞に遷った。

原文荊州陷,為西魏所虜,魏人甚禮之,授炯儀同三司。炯以母老在東,恆思歸國,恐魏人愛其文才而留之,恆閉門卻掃,無所交遊。時有文章,隨即棄毀,不令流布。嘗獨行經漢武通天臺,為表奏之,陳己思歸之意。其辭曰:「臣聞喬山雖掩,鼎湖之靈可祠,有魯既荒,大庭之跡無泯。伏惟陛下降德猗蘭,纂靈豐谷。漢道既登,神仙可望,射之罘於海浦,禮日觀而稱功,橫中流於汾河,指柏梁而高宴,何其樂也,豈不然歟!既而運屬上仙,道窮晏駕,甲帳珠簾,一朝零落,茂陵玉碗,宛出人間,陵雲故基,共原田而膴膴,別風餘(趾)〔址〕,對陵阜而茫茫,羇旅縲臣,能不落淚。昔承明既厭,嚴助東歸,駟馬可乘,長卿西返,恭聞故實,竊有愚心。黍稷非馨,敢忘徼福。」奏訖,其夜炯夢見有宮禁之所,兵衛甚嚴,炯便以情事陳訴,聞有人言:「甚不惜放卿還,幾時可至。」少日,便與王克等並獲東歸。紹泰二年至都,除司農卿,遷御史中丞。

高祖が禅譲を受けると、通直散騎常侍を加えられ、御史中丞は元の通りであった。母が年老いていることを理由に表を上って帰郷して養うことを請うたが、詔は許さなかった。

原文高祖受禪,加通直散騎常侍,中丞如故。以母老表請歸養,詔不許。

文帝が位を嗣ぐと、また表を上って言った。「臣は生まれながらの不幸にて、弱冠にして孤となり、母子零丁、兄弟相い長ず。謹みて身を以て養い、仕えて官を択ばず、宦は梁朝に成り、命は乱世に存す。危を冒し険を履み、百死して生を軽んじ、妻子は誅夷され、兄弟は冥滅す。余れる臣母子、興運に逢うを得たり。臣の母妾劉、今年八十有一、臣の叔母妾丘、七十有五、臣の門弟姪故より自ら人無く、妾丘の兒孫又久しく亡泯す。両家の侍養、余れるは臣一人のみ。前帝は臣の孤煥なるを知り、臣を州里に養い、頓に草萊に居らしめんと欲せず、又復臣の溫凊を矜れみ、以て一年の内に、再三休沐せしむ。臣の屡たび丹款を披き、頻りに宸鑒を冒すは、苟も朝廷に違ひ、畿輦を遠離せんと欲するに非ず。一には年将に六十に及び、湯火心に居り、毎たび家書を跪読し、前は懼れ後は喜び、枕を溫め席を扇ぐ、復た童成る無し。二には職は彝憲に居り、邦の司直たり。若し自ら身礼を虧かば、何を以て国章を問はん。前徳綢繆、始めて哀放を許す。内侍近臣、多く此の旨を悉くす。正に賢を選び能に与へ、広く明哲を求むるに、〓趄荏苒、未だ始めて才を取らず。而上玄降戾、奄として今日に至る。徳音耳に在り、墳土遽かに乾く。悠悠たる昊天、此の罔極を哀しまざらんや。兼ねて臣の私心煎切、弥いよいよ近時に迫る。慺慺の祈り、転じて塵触を忘る。伏して惟うに、陛下は睿哲聰明、下武を嗣ぎ興し、刑を四海に于おこなひ、此の孝治を弘めたまえり。寸管天を求め、仰いで帷扆に帰し、感有れば必ず応じ、実に聖明を望む。特ち沛然として其の私礼を申さしめ給はば、則ち王者の徳、無方に覃および、矧いわんや彼の翔沈、孰か涵養せざらん。」詔は答えて言った。「表を省みて懐いを具う。卿の誉は咸・雒に馳せ、情は宛・沛に深し。日者、理は倚門に切にして、言は異域に帰せんとし、復た時役に牽かれ、遂に侍養に乖く。周生の思ひ有りて、毎たび官を棄てんと欲すと雖も、戴礼文を垂れ、政に従ふを得て遺す。前朝は四海に光宅し、万機に劬労し、卿の才を以て独歩と為し、職を専席に居らしめ、方に深く委任し、屡たび情礼を屈せしむ。朕は洪基を嗣奉し、景業を弘めんと思ふ。顧みるに此の寡薄、兼ねて哀疚に纏はれ、実に賢哲に頼り、同じく雍熙を致さしめんとす。豈に便ち簡を南闈に釈き、紱を東路に解かんや。当今、馮親入舍し、荀母官に従ふ。以て朝栄を睹し、家礼を虧かざらしむ。尋ねて所由に勅し、尊累を相迎へしめ、卿をして公私其の所を得しめ、並びに廃する無からしむ。」

原文文帝嗣位,又表曰:「臣嬰生不幸,弱冠而孤,母子零丁,兄弟相長。謹身為養,仕不擇官,宦成梁朝,命存亂世,冒危履險,(自)〔百〕死輕生,妻息誅夷,昆季冥滅,餘臣母子,得逢興運。臣母妾劉,今年八十有一,臣叔母妾丘,七十有五,臣門弟姪故自無人,妾丘兒孫又久亡泯,兩家侍養,餘臣一人。前帝知臣之孤煢,養臣以州里,不欲使頓居草萊,又復矜臣溫凊,所以一年之內,再三休沐。臣之屢披丹款,頻冒宸鑒,非欲苟違朝廷,遠離畿輦。一者以年將六十,湯火居心,每跪讀家書,前懼後喜,溫枕扇席,無復成童。二者職居彝憲,邦之司直,若自虧身禮,何問國章?前德綢繆,始許哀放,內侍近臣,多悉此旨。正以選賢與能,廣求明哲,〓趄荏苒,未始取才。而上玄降戾,奄至今日,德音在耳,墳土遽乾,悠悠昊天,哀此罔極。兼臣私心煎切,彌迫近時,慺慺之祈,轉忘塵觸。伏惟陛下睿哲聰明,嗣興下武,刑于四海,弘此孝治。寸管求天,仰歸帷扆,有感必應,實望聖明。特乞霈然申其私禮,則王者之德,覃及無方,矧彼翔沈,孰非涵養。」詔答曰:「省表具懷。卿譽馳咸、雒,情深宛、沛。日者理切倚門,言歸異域,復牽時役,遂乖侍養。雖周生之思,每欲棄官,戴禮垂文,得遺從政,前朝光宅四海,劬勞萬機,以卿才為獨步,職居專席,方深委任,屢屈情禮。朕嗣奉洪基,思弘景業,顧茲寡薄,兼纏哀疚,實賴賢哲,同致雍熙,豈便釋簡南闈,解紱東路。當今馮親入舍,荀母從官,用睹朝榮,不虧家禮。尋敕所由,相迎尊累,使卿公私得所,並無廢也。」

初め、高祖は嘗て炯が王佐(帝王を補佐する臣)に適していると称え、軍国の大政は多くその謀議ぼうぎに預からせた。文帝もまたその才能を重んじ、寵愛して貴ばせようとした。時に王琳が大雷に侵入寇し、留異が東境を擁拠した。帝は炯にこれによって功を立てさせようとし、御史中丞を解き、明威將軍を加え、郷里に還して徒衆を収合させようとした。病気のため吳中で卒去した。時に年五十九。文帝はこれを聞くと、即日に哀悼の礼を挙げ、併せて弔祭の使者を遣わし、侍中を追贈し、諡して恭子といった。文集二十巻が世に行われている。

原文初,高祖嘗稱炯宜居王佐,軍國大政,多預謀謨,文帝又重其才用,欲寵貴之。會王琳入寇大雷,留異擁據東境,帝欲使炯因是立功,乃解中丞,加明威將軍,遣還鄉里,收合徒眾。以疾卒于吳中,時年五十九。文帝聞之,即日舉哀,并遣弔祭,贈侍中,諡曰恭子。有集二十卷行於世。

虞荔

原文虞荔

虞荔は字を山披といい、會稽郡餘姚縣の人である。祖父の權は、梁の廷尉卿・永嘉太守であった。父の檢は、平北始興王諮議參軍であった。

原文虞荔字山披,會稽餘姚人也。祖權,梁廷尉卿、永嘉太守。父檢,平北始興王諮議參軍。

荔は幼くして聡明で、志操があった。九歳の時、従伯の闡に従って太常の陸倕を訪ねた。倕が五経について十の事柄を問うと、荔は問いに従って直ちに応答し、遺漏がなく、倕は甚だ異とするところがあった。また嘗て徵士の何胤を訪ねた時、太守の衡陽王も亦そこを訪れた。胤が王に荔のことを言うと、王は荔に会おうとしたが、荔は辞して言った。「板刺(名刺)が未だ無く、拝謁する容よす無し。」王は荔に高尚の志有りとし、雅つねに欽重し、郡に還ると、直ちに主簿に辟召したが、荔はまた年が若いことを理由に辞して就かなかった。成長すると、風儀が美しく、広く墳籍(古典)を博覧し、文を属する(文章を作る)ことを善くした。初めて官に就き梁の西中郎行參軍となり、間もなく法曹外兵參軍を署せられ、兼ねて丹陽詔獄正となった。梁の武帝が城西に士林館を置くと、荔は碑文を作り、奏上した。帝は命じてこれを館に刻ませ、仍なおもって荔を士林學士とした。間もなく司文郎となり、通直散騎侍郎に遷り、兼ねて中書舍人となった。時に左右の任にある者は多く権軸(政権の中枢)に参じ、内外の機務は互いに帯掌していたが、ただ荔と顧協のみが淡泊として静かに退き、西省に居り、ただ文史によって知られ、当時清白と号された。間もなく大著作を領した。

原文荔幼聰敏,有志操。年九歲,隨從伯闡候太常陸倕,倕問五經凡有十事,荔隨問輒應,無有遺失,倕甚異之。又嘗詣徵士何胤,時太守衡陽王亦造焉,胤言之於王,王欲見荔,荔辭曰:「未有板刺,無容拜謁。」王以荔有高尚之志,雅相欽重,還郡,即辟為主簿,荔又辭以年小不就。及長,美風儀,博覽墳籍,善屬文。釋褐梁西中郎行參軍,尋署法曹外兵參軍,兼丹陽詔獄正。梁武帝於城西置士林館,荔乃製碑,奏上,帝命勒之于館,仍用荔為士林學士。尋為司文郎,遷通直散騎侍郎,兼中書舍人。時左右之任,多參權軸,內外機務,互有帶掌,唯荔與顧協淡然靖退,居于西省,但以文史見知,當時號為清白。尋領大著作。

侯景の乱の時、虞荔は親族を率いて宮城に入り、鎮西諮議参軍に任ぜられ、舎人の職は元の通りであった。宮城が陥落すると、逃れて郷里に帰った。侯景が平定されると、元帝は彼を中書侍郎に召し、貞陽侯は揚州別駕に任じたが、いずれも就任しなかった。

原文及侯景之亂,荔率親屬入臺,除鎮西諮議參軍,舍人如故。臺城陷,逃歸鄉里。侯景平,元帝徵為中書侍郎,貞陽侯,授揚州別駕,並不就。

張彪が会稽を占拠した時、虞荔はそこにいた。文帝が張彪を平定すると、高祖(陳霸先)は虞荔に書を送って言った、「喪乱以来、賢哲は凋散し、君の才用は優れ、名声は許・洛に聞こえている。当今朝廷は惟新し、広く英雋を求めている。どうして東土に栖遅し、独り善其身をなすことができようか。今、兄の子(虞世基)をして君を迎えに出都させよう。必ずや朝廷の虚遅に副うことを想う」。文帝もまた書を送って言った、「君は東南の美才にして、声譽洽聞である。自ら翰飛して京許に至り、共に時弊を康うすべきであるのに、跡を丘園に削り、茲の独善を保つとは、どうして称空谷の望をなさしめようか。必ず願わくば便爾俶装し、且つ出都の計を為さんことを。唯遅く披覯することを、茲の日に在り」。切迫して已むを得ず、乃ち命に応じて都に至った。高祖が崩御し、文帝が嗣位すると、太子中庶子に任ぜられ、引き続き太子に侍読した。まもなく大著作を領し、東揚・揚州二州の大中正となり、庶子の職は元の通りであった。

原文張彪之據會稽也,荔時在焉。及文帝平彪,高祖遺荔書曰:「喪亂已來,賢哲凋散,君才用有美,聲聞許、洛,當今朝廷惟新,廣求英雋,豈可栖遲東土,獨善其身?今令兄子將接出都,想必副朝廷虛遲也。」文帝又與書曰:「君東南有美,聲譽洽聞,自應翰飛京許,共康時弊,而(刻)〔削〕跡丘園,保茲獨善,豈使稱空谷之望邪?必願便爾俶裝,且為出都之計。唯遲披覯,在於茲日。」迫切之不得已,乃應命至都。高祖崩,文帝嗣位,除太子中庶子,仍侍太子讀書。尋領大著作、東揚揚州二州大中正,庶子如故。

初め、虞荔の母は虞荔に従って宮城に入り、宮城内で卒去した。まもなく城が陥落し、情礼を申し上げることができなかった。このため終身、蔬食布衣で、音楽を聴かず、任遇は隆重であったが、居止は儉素で、淡然として営みがなかった。文帝は深く彼を器とし、常に左右に引きいて、朝夕顧問した。虞荔の性格は沈密で、言論少なく、凡そ献替する所は、その際を見る者なく、故に後世に列せられていない。

原文初,荔母隨荔入臺,卒於臺內,尋而城陷,情禮不申,由是終身蔬食布衣,不聽音樂,雖任遇隆重,而居止儉素,淡然無營。文帝深器之,常引在左右,朝夕顧訪。荔性沉密,少言論,凡所獻替,莫有見其際者,故不列于後焉。

当時、虞荔の第二弟(虞寄)は閩中に寓居し、陳宝応に依っていた。虞荔は言う毎に涙を流した。文帝は哀れんで言った、「我にも遠方に弟あり、この情は甚だ切なり、他人は豈に知らんや」。乃ち宝応に命じて虞寄を求めさせたが、宝応は終に遣わさなかった。虞荔はこれによって感疾し、帝は数え往き臨視した。虞荔に家口を省中に入れるよう命じたが、虞荔は禁中は私居の所にあらずとし、城外に留まることを乞うた。文帝は許さず、乃ち蘭台に住まわせ、乗輿を再三臨問し、手勅を中使に託し、道に相望んだ。また虞荔が蔬食を積むこと久しく、羸疾に堪えぬと考え、勅して言った、「布素を敦くする能くするは、乃ち当に高しと為すべし。卿は年事已に多く、気力稍減ず。方に仗委せんと欲し、良に克壮を須う。今、卿に魚肉を給す。固より所執に従うを得ず」。虞荔は終に従わなかった。天嘉二年に卒去、時に五十九歳。文帝は甚だ傷惜し、侍中を贈り、諡して徳子といった。喪柩が郷里に還る時、上(文帝)は親しく出て臨送し、当時これを栄とした。子の世基・世南は、共に少にして知名であった。

原文時荔第二弟寄寓於閩中,依陳寶應,荔每言之輒流涕。文帝哀而謂曰:「我亦有弟在遠,此情甚切,他人豈知。」乃敕寶應求寄,寶應終不遣。荔因以感疾,帝數往臨視。令荔將家口入省,荔以禁中非私居之所,乞停城外,文帝不許,乃令住於蘭臺,乘輿再三臨問,手敕中使,相望於道。又以荔蔬食積久,非羸疾所堪,乃敕曰:「能敦布素,乃當為高,卿年事已多,氣力稍減,方欲仗委,良須克壯,今給卿魚肉,不得固從所執也。」荔終不從。天嘉二年卒,時年五十九。文帝甚傷惜之,贈侍中,諡曰德子。及喪柩還鄉里,上親出臨送,當時榮之。子世基、世南,並少知名。

弟、虞寄

原文弟寄

虞寄は字を次安といい、少にして聡敏であった。数歳の時、客がその父を訪ね、門で虞寄に遇い、因って嘲って言った、「郎君は虞姓なれば、必ず智無からん」。虞寄は声に応じて答えて言った、「文字を辨ぜず、豈に愚に非ずと得んや」。客は大いに慚じた。入ってその父に言った、「此の子は常人に非ず、文挙(孔融)の対も是に過ぎず」。

原文寄字次安,少聰敏。年數歲,客有造其父者,遇寄於門,因嘲之曰︰「郎君姓虞,必當無智。」寄應聲答曰:「文字不辨,豈得非愚?」客大慚。入謂其父曰:「此子非常人,文舉之對不是過也。」

成長すると、学を好み、文を属するに善かった。性は沖静で、栖遁の志があった。弱冠にして秀才に挙げられ、対策して高第となった。梁の宣城王国左常侍として起家した。大同年中、嘗て驟雨があり、殿前に往々にして雑色の宝珠があった。梁武帝はこれを見て甚だ喜色あり、虞寄は因って瑞雨頌を上った。帝は虞寄の兄の虞荔に言った、「此の頌は典裁清抜、卿家の士龍なり。将に如何に擢用せん」。虞寄はこれを聞き、歎じて言った、「盛徳の形容を美しうし、以て撃壤の情を申すのみ。吾豈に名を買い仕を求むる者ならんや」。乃ち門を閉ざして疾を称し、唯書籍を以て自ら娯しんだ。岳陽王(蕭詧)が会稽太守となると、虞寄を行参軍に引き、記室参軍に遷し、郡の五官掾を領した。又中記室に転じ、掾は元の通りであった。在職中は煩苛を簡略にし、務めて大體を存し、曹局の内は終日寂然であった。

原文及長,好學,善屬文。性沖靜,有栖遁之志。弱冠舉秀才,對策高第。起家梁宣城王國左常侍。大同中,嘗驟雨,殿前往往有雜色寶珠,梁武觀之甚有喜色,寄因上瑞雨頌。帝謂寄兄荔曰:「此頌典裁清拔,卿家之士龍也。將如何擢用?」寄聞之,歎曰:「美盛德之形容,以申擊壤之情耳。吾豈買名求仕者乎?」乃閉門稱疾,唯以書籍自娛。岳陽王為會稽太守,引寄為行參軍,遷記室參軍,領郡五官掾。又轉中記室,掾如故。在職簡略煩苛,務存大體,曹局之內,終日寂然。

侯景の乱の時、虞寄は兄の虞荔に従って宮城に入り、鎮南湘東王諮議参軍に任ぜられ、貞威将軍を加えられた。京城が陥落すると、遁れて郷里に帰った。張彪が臨川に往く時、虞寄を強いて倶に行かせた。虞寄は張彪の将の鄭瑋と同舟して載った。鄭瑋は嘗て張彪の意に忤い、乃ち虞寄を劫いて晋安に奔った。当時陳宝応が閩中を占拠し、虞寄を得て甚だ喜んだ。高祖が侯景を平定すると、虞寄は自ら結ぶよう勧め、宝応はこれに従い、乃ち使を遣わして帰誠した。承聖元年、和戎将軍・中書侍郎に任ぜられたが、宝応はその才を愛し、道阻を託して遣わさなかった。毎に虞寄を引きて僚属とし、文翰を委ねようとしたが、虞寄は固く辞し、免れることができた。

原文侯景之亂,寄隨兄荔入臺,除鎮南湘東王諮議參軍,加貞威將軍。京城陷,遁還鄉里。及張彪往臨川,彊寄俱行,寄與彪將鄭瑋同舟而載,瑋嘗忤彪意,乃劫寄奔于晉安。時陳寶應據有閩中,得寄甚喜。高祖平侯景,寄勸令自結,寶應從之,乃遣使歸誠。承聖元年,除和戎將軍、中書侍郎,寶應愛其才,託以道阻不遣。每欲引寄為僚屬,委以文翰,寄固辭,獲免。

宝応が留異と婚姻を結び、潜かに逆謀を有するに及んで、虞寄は微かにその意を知り、言説の際、毎に逆順の理を陳べ、微かに諷諫した。宝応は輒ち他事を説いて以てこれを拒いだ。又嘗て左右に漢書を誦せしめ、臥してこれを聴き、蒯通が韓信に説いて「相君の背、貴ぶべからずして言う」と至ると、宝応は蹶然として起きて言った、「智士と謂うべし」。虞寄は正色して言った、「酈生を覆し韓信を驕らすは、未だ智と称すに足らず。豈に班彪の王命、帰する所を識るに若かんや」。

原文及寶應結婚留異,潛有逆謀,寄微知其意,言說之際,每陳逆順之理,微以諷諫,寶應輒引說他事以拒之。又嘗令左右誦漢書,臥而聽之,至蒯通說韓信曰「相君之背,貴不可言」,寶應蹶然起曰「可謂智士」。寄正色曰:「覆酈驕韓,未足稱智;豈若班彪王命,識所歸乎?」

虞寄は宝応が諫め難きを知り、禍の己に及ぶを慮り、乃ち居士の服を為して以てこれを拒絶した。常に東山寺に居り、偽りて脚疾を称し、復た起たず。宝応は仮託と以為い、虞寄の臥す屋を焼かせたが、虞寄は安臥して動かず。親近の者が虞寄を扶け出そうとすると、虞寄は言った、「吾が命は懸かる所有り、避けて安くにか往かん」。火を放った者は、旋って自らこれを救った。宝応は此れより方に信じた。

原文寄知寶應不可諫,慮禍及己,乃為居士服以拒絕之。常居東山寺,偽稱腳疾,不復起,寶應以為假託,使燒寄所臥屋,寄安臥不動。親近將扶寄出,寄曰:「吾命有所懸,避欲安往?」所縱火者,旋自救之。寶應自此方信。

留異が兵を称するに及んで、宝応はその部曲ぶきょくを資した。虞寄は乃ち書を因って極諫して言った。

原文及留異稱兵,寶應資其部曲,寄乃因書極諫曰:

東山の虞寄、明将軍使君節下に致書す。寄は世故に流離し、貴郷に飄寓す。将軍は上賓の礼を以て待ち、国士の眷を以て申す。意気の感ずる所、何の日か之を忘れん。而して寄は沈痼弥留し、愒陰将に尽きんとす。常に卒に溝壑に填るを恐れ、涓塵も報ゆる莫く、是を以て敢えて腹心を布き、丹款を冒して陳ぶ。願わくば将軍、須臾の慮を留め、少しく思察せよ。則ち瞑目の日、懐う所畢らん。

原文東山虞寄致書於明將軍使君節下:寄流離世故,飄寓貴鄉,將軍待以上賓之禮,申以國士之眷,意氣所感,何日忘之。而寄沈痼彌留,愒陰將盡,常恐卒填溝壑,涓塵莫報,是以敢布腹心,冒陳丹款,願將軍留須臾之慮,少思察之,則瞑目之日,所懷畢矣。

夫れ安危の兆、禍福の機は、独り天時に由るのみならず、亦人事に由る。之を毫釐失えば、千里に差す。是を以て明智の士は、重位に拠りて傾かず、大節を執りて失わず。豈に浮辞に惑わんや。将軍は文武兼資し、英威世に不なり。往きに多難に因り、剣を杖いて師を興し、旗を援げて衆を誓い、威を抗して千里、豈に四郊多壘を以て、共に王室を謀り、時を匡え主に報い、国を寧んじ民を庇わんとせざらんや。此れ五尺の童子も、皆戟を荷いて将軍に随わんと願う所以なり。高祖武皇、草昧に基を肇き、初めて艱難を済わす。時に天下沸騰し、民定主無く、豺狼道に当たり、鯨鯢横撃し、海内業業として、従う所を知らず。将軍は微の鑑を運動し、従衡の辯を折り、名を策し質を委ね、自ら宗盟に託す。此れ将軍の妙筭遠図、衷誠より発する者なり。主上業を継ぎ、欽明睿聖にして、賢を選び能に与え、群臣輯睦し、将軍を結ぶに維城の重を以てし、将軍を崇むるに裂土の封を以てす。豈に宏謨廟略、赤心を物に推すに非ずや。屡明詔を申し、款篤殷勤、君臣の分定まり、骨肉の恩深し。意わざらんや将軍、邪説に惑い、遽かに異計を生ず。寄の疾首痛心し、泣き尽くして血を継ぐ所以なり。万全の策、窃に将軍の為に之を惜しむ。寄は疾侵耄及ぶと雖も、言採るに足らず、千慮一得、請う愚筭を陳べん。願わくば将軍、少しく雷霆を戢め、其の晷刻を賒かにし、狂瞽の説を尽くし、肝膽の誠を披かしめよ。則ち死するの日も、由りて生くるの年なり。

原文夫安危之兆,禍福之機,匪獨天時,亦由人事。失之毫釐,差以千里。是以明智之士,據重位而不傾,執大節而不失,豈惑於浮辭哉?將軍文武兼資,英威不世,往因多難,杖劍興師,援旗誓眾,抗威千里,豈不以四郊多壘,共謀王室,匡時報主,寧國庇民乎?此所以五尺童子,皆願荷戟而隨將軍者也。及高祖武皇肇基草昧,初濟艱難。于時天下沸騰,民無定主,豺狼當道,鯨鯢橫擊,海內業業,未知所從。將軍運動微之鑒,折從衡之辯,策名委質,自託宗盟,此將軍妙筭遠圖,發於衷誠者也。及主上繼業,欽明睿聖,選賢與能,群臣輯睦,結將軍以維城之重,崇將軍以裂土之封。豈非宏謨廟略,推赤心於物也?屢申明詔,款篤殷勤,君臣之分定矣,骨肉之恩深矣。不意將軍惑於邪說,遽生異計,寄所以疾首痛心,泣盡繼之以血。萬全之策,竊為將軍惜之。寄雖疾侵耄及,言無足採,千慮一得,請陳愚筭。願將軍少戢雷霆,賒其晷刻,使得盡狂瞽之說,披肝膽之誠,則雖死之日,由生之年也。

天が梁の徳を厭い、多くの難事が重なり、天下は分崩し、英雄が互いに起こり、数え切れぬほどで、人々は皆自らが天下を得ると思った。しかし、凶暴を平定し乱を除き、溺れる者を救い危うきを扶け、四海が推戴し、三霊が天命を眷顧して、揖譲して南面の位に居るのは、陳氏である。これはまさに歴数が定まっており、天が授けたもので、璧に当たって運に応じたのではないか。その事は甚だ明らかである、これが第一である。主上は基を承け、明徳は遠くに及び、天綱は再び張られ、地維は重ねて紐とされる。王琳の強さ、侯瑱の力をもってすれば、進んでは中原を揺るがし天下を争うに足り、退いては江外に屈強に雄張して偏隅を保つに足る。しかし、ある時は一旅の師を命じ、ある時は一士の説を資として、琳は瓦解氷消し、異域に身を投じ、瑱は厥角稽顙して、闕廷に命を委ねた。これまた天がその威を仮して、その患いを除いたのである。その事は甚だ明らかである、これが第二である。今、将軍は藩戚の重みと、東南の衆とを以て、忠を尽くし上に奉じ、力を合わせて王事に勤めている。これでは勲功は竇融よりも高く、寵遇は呉芮を過ぎ、珪を析き野を判し、南面して孤を称するに至らないであろうか。その事は甚だ明らかである、これが第三である。かつ聖朝は瑕を棄て過ちを忘れ、寛厚にして人を得、過ちを改め自ら新たにする者には、皆叙用抜擢を加えている。余孝頃・潘純陀・李孝欽・欧陽頠らに至っては、悉く心腹として委ね、爪牙として任用し、胸中は豁然として、少しの芥蒂もない。まして将軍の舋は張繡の如くではなく、罪は畢諶と異なる。どうして危亡を慮い、富貴を失うことがあろうか。これまたその事が甚だ明らかである、これが第四である。今、周・斉は隣国として睦まじく、境外に憂い無く、兵を合わせて一方向に向かうのは、朝でない夕べではない。劉・項が競い逐う機会でもなく、楚・趙が連衡合従する勢いでもない。どうして雍容として高く拱し、坐して西伯を論じることができようか。その事は甚だ明らかである、これが第五である。かつ留将軍は一隅に狼顧し、幾度も敗北を重ね、名声も実力も損ない、胆気も衰え沮喪している。高瓖・向文政・留瑜・黄子玉、この数名の者は将軍も知る通り、首鼠両端で、ただ利を見るのみである。その他の将帥もまた推して知るべし。誰が堅甲を被り鋭鋒えいほうを執り、長駆して深く入り、馬を繋ぎ輪を埋め、命を顧みず奮い立ち、士卒に先んじることができようか。これまたその事が甚だ明らかである、これが第六である。かつ将軍の強さは、侯景に比べてどうか。将軍の衆は、王琳に比べてどうか。武皇帝は前に侯景を滅ぼし、今上は後に王琳を摧破された。これは天時のなすところであって、もはや人力によるものではない。かつ兵乱の後、民は皆乱を厭い、誰が墳墓を棄て妻子を捐て、万死を顧みぬ計を出し、白刃の間に将軍に従おうというのか。これまたその事が甚だ明らかである、これが第七である。歴史上の前古を観察し、往事を鑑みれば、子陽・季孟は相次いで傾覆し、餘善・右渠は危亡が続いて及んだ。天命は畏るべく、山川も頼み難い。まして将軍が数郡の地を以て天下の兵に当たり、諸侯の資を以て天子の命に抗おうとする。強弱逆順、同じくすることができようか。これまたその事が甚だ明らかである、これが第八である。かつ我が族類でなければ、その心は必ず異なる。その親を愛さぬ者が、どうして他の者に及ぼすことができようか。留将軍自身は国爵に縻され、子は王姫を娶っているのに、なお天属を棄てて顧みず、明君に背いて孤立している。危急の日に、どうして憂いを共にし患いを分かち合い、将軍に背かぬことがあろうか。師老いて力屈し、誅罰を恐れ賞禄に利する時には、必ずや韓・智の晋陽の謀や、張・陳の井陘の勢いが起こるであろう。これまたその事が甚だ明らかである、これが第九である。かつ北軍は万里を遠征して戦い、その鋒は当たるべからず。将軍は自らの地で戦い、人は多く後顧の憂いがある。梁安は背向を心とし、修〓は匹夫の力に過ぎず、衆寡敵せず、将帥匹敵せず、師は名無きを以て出で、事は機無きを以て動く。これをもって兵を挙げるのは、その利あることを知らない。漢朝の呉・楚、晋室の穎・顒、連城数十、長戟百万、本を抜き源を塞ぎ、自ら家国を図ったが、成功した者があったか。これまたその事が甚だ明らかである、これが第十である。

原文自天厭梁德,多難荐臻,寰宇分崩,英雄互起,不可勝紀,人人自以為得之。然夷凶翦亂,拯溺扶危,四海樂推,三靈眷命,揖讓而居南面者,陳氏也。豈非歷數有在,惟天所授,當璧應運?其事甚明,一也。主上(入)〔承〕基,明德遠被,天綱再張,地維重紐。夫以王琳之彊,侯瑱之力,進足以搖蕩中原,爭衡天下,退足以屈強江外,雄張偏隅。然或命一旅之師,或資一士之說,琳則瓦解冰泮,投身異域,瑱則厥角稽顙,委命闕廷。斯又天假之威,而除其患。其事甚明,二也。今將軍以藩戚之重,東南之眾,盡忠奉上,戮力勤王,豈不勳高竇融,寵過吳芮,析珪判野,南面稱孤?其事甚明,三也。且聖朝棄瑕忘過,寬厚得人,改過自新,咸加敘擢。至於余孝頃、潘純陀、李孝欽、歐陽頠等,悉委以心腹,任以爪牙,胸中豁然,曾無纖芥。況將軍舋非張繡,罪異畢諶,當何慮於危亡,何失於富貴?此又其事甚明,四也。方今周、齊鄰睦,境外無虞,并兵一向,匪朝伊夕,非劉、項競逐之機,楚、趙連從之勢,何得雍容高拱,坐論西伯?其事甚明,五也。且留將軍狼顧一隅,亟經摧衄,聲實虧喪,膽氣衰沮。高瓖、向文政、留瑜、黃子玉,此數人者,將軍所知,首鼠兩端,唯利是視;其餘將帥,亦可見矣。孰能被堅執銳,長驅深入,繫馬埋輪,奮不顧命,以先士卒者乎?此又其事甚明,六也。且將軍之彊,孰如侯景?將軍之眾,孰如王琳?武皇滅侯景於前,今上摧王琳於後,此乃天時,非復人力。且兵革已後,民皆厭亂,其孰能棄墳墓,捐妻子,出萬死不顧之計,從將軍於白刃之閒乎?此又其事甚明,七也。歷觀前古,鑒之往事,子陽、季孟,傾覆相尋,餘善、(石)〔右〕渠,危亡繼及,天命可畏,山川難恃。況將軍欲以數郡之地,當天下之兵,以諸侯之資,拒天子之命,彊弱逆順,可得侔乎?此又其事甚明,八也。且非我族類,其心必異。不愛其親,豈能及物?留將軍身縻國爵,子尚王姬,猶且棄天屬而弗顧,背明君而孤立,危急之日,豈能同憂共患,不背將軍者乎?至於師老力屈,懼誅利賞,必有韓、智晉陽之謀,張、陳井陘之勢。此又其事甚明,九也。且北軍萬里遠鬥,鋒不可當,將軍自戰其地,人多顧後。梁安背向為心,修〓匹夫之力,眾寡不敵,將帥不侔,師以無名而出,事以無機而動,以此稱兵,未知其利。夫以漢朝吳、楚,晉室穎、顒,連城數十,長戟百萬,拔本塞源,自圖家國,其有成功者乎?此又其事甚明,十也。

将軍のために計るに、遠からずして復するに如くはなく、留氏との親戚関係を絶ち、秦郎・快郎を随えて人質として遣わし、甲を解き兵を偃げ、詔旨に一たび遵うことである。かつ朝廷は鉄券の要を許し、白馬の盟を申し、朕は食言せず、宗社に誓う。寄は聞く、明者は未だ形ならざるを鑑とし、智者は再び計らずと。これが成敗の効である。将軍は疑うなかれ。吉凶の機は、間髪を容れず。今、藩維は尚少なく、皇子は幼沖である。凡そ宗枝に預かる者は、皆寵樹を蒙っている。まして将軍の地、将軍の才、将軍の名、将軍の勢いを以て、よく藩服を修め、北面して臣と称するならば、どうして劉澤と同年にしてその功業を語ることができようか。身は山河と等しく安らぎ、名は金石と相俟って朽ちぬことにならないであろうか。願わくは三思を加え、これを慮るに忽せざらんことを。

原文為將軍計者,莫若不遠而復,絕親留氏,秦郎、快郎,隨遣入質,釋甲偃兵,一遵詔旨。且朝廷許以鐵券之要,申以白馬之盟,朕弗食言,誓之宗社。寄聞明者鑒未形,智者不再計,此成敗之效,將軍勿疑。吉凶之幾,間不容髮。方今藩維尚少,皇子幼沖,凡預宗枝,皆蒙寵樹。況以將軍之地,將軍之才,將軍之名,將軍之勢,而能克修藩服,北面稱臣,寧與劉澤同年而語其功業哉?豈不身與山河等安,名與金石相敝?願加三思,慮之無忽。

寄は気力綿微にして、余命幾ばくもなく、恩を感し徳を懐いて、狂言を覚えず。鈇鉞の誅も、薺の如く甘んずる。

原文寄氣力綿微,餘陰無幾,感恩懷德,不覺狂言,鈇鉞之誅,甘之如薺。

宝応は書を覧て大怒した。ある者が宝応に言うには、「虞公は病勢が次第に篤く、言うこと多く錯謬あり」と。宝応の心はやや解けた。また寄が民望があるため、寛容に扱った。宝応が敗走し、夜に蒲田に至った時、その子の扞秦を顧みて言うには、「早く虞公の計に従わば、今日に至らなかったであろうに」と。扞秦はただ泣くのみであった。宝応が擒えられた後、諸賓客で微かに交渉のあった者は皆誅殺されたが、ただ寄のみは先見の識により禍を免れた。

原文寶應覽書大怒。或謂寶應曰:「虞公病勢漸篤,言多錯謬。」寶應意乃小釋。亦為寄有民望,且優容之。及寶應敗走,夜至蒲田,顧謂其子扞秦曰:「早從虞公計,不至今日。」扞秦但泣而已。寶應既擒,凡諸賓客微有交涉者,皆伏誅,唯寄以先識免禍。

初め、沙門の慧摽は広く学び才思あり、宝応が起兵した時、五言詩を作ってこれを送り、曰く「馬を送る猶水に臨むが如く、旗を離する稍風を引く、今夜の月を好看せよ、当に紫微宮に入るべし」と。宝応はこれを得て甚だ悦んだ。慧摽は〓して寄に示した。寄は一覧して便ち止め、正色して無言であった。摽が退くと、寄は親しい者に言うには、「摽公は既にこれをもって始めたれば、必ずこれをもって終わるであろう」と。後に竟にこの事に坐して誅殺された。

原文初,沙門慧摽涉獵有才思,及寶應起兵,作五言詩以送之,曰:「送馬猶臨水,離旗稍引風,好看今夜月,當入紫微宮。」寶應得之甚悅。慧摽〓以示寄,寄一覽便止,正色無言。摽退,寄謂所親曰:「摽公既以此始,必以此終。」後竟坐是誅。

文帝は直ちに都督の章昭達に命じて道理を説き発遣させ、寄を還朝させた。到着すると即日に引見し、寄に言うには、「管寧無恙なり」と。その慰労の情はこのようであった。間もなく、文帝は到仲挙に言うには、「衡陽王は既に出閤したが、未だ府僚を置かず、然れども一人の者を旦夕遊処させ、兼ねて書記を掌らせる必要がある。宜しく宿士で行業ある者を求むべし」と。仲挙は何と答えるべきか知らず、文帝は言う、「吾自ら得たり」と。乃ち手勅を以て寄を用いた。寄が入謝すると、文帝は言う、「卿を暫く屈して藩国に遊ばせる所以は、ただ文翰を煩わすのみならず、師表として事えさせるためである」と。間もなく散騎常侍を兼ね、斉に聘したが、寄は老病を理由に辞し、行かず、国子博士に除された。間もなく、また表を上って職を解き郷里に帰ることを請うた。文帝は優れた旨をもって報答し、その東還を許した。仍って東揚州別駕に除したが、寄はまた病気を理由に辞した。高宗が即位すると、揚州治中及び尚書左丞に徴授したが、共に就任しなかった。乃ち東中郎建安王諮議に除し、戎昭将軍を加えたが、また病気を理由に辞し、旦夕陪列に堪えられないとした。王はそこで特に王府の公事を停めることを命じ、疑議ある時は就いて決めさせ、ただ朔望に牋を修めるのみとした。太建八年に太中大夫を加え、将軍は元の如し。十一年に卒す。時に年七十。

原文文帝尋敕都督章昭達以理發遣,令寄還朝。及至,即日引見,謂寄曰:「管寧無恙。」其慰勞之懷若此。頃之,文帝謂到仲舉曰:「衡陽王既出閤,雖未置府僚,然須得一人旦夕遊處,兼掌書記,宜求宿士有行業者。」仲舉未知所對,文帝曰:「吾自得之。」乃手敕用寄。寄入謝,文帝曰:「所以蹔屈卿遊藩者,非止以文翰相煩,乃令以師表相事也。」尋兼散騎常侍,聘齊,寄辭老疾,不行,除國子博士。頃之,又表求解職歸鄉里,文帝優旨報答,許其東還。仍除東揚州別駕,寄又以疾辭。高宗即位,徵授揚州治中及尚書左丞,並不就。乃除東中郎建安王諮議,加戎昭將軍,又辭以疾,不任旦夕陪列。王於是特令停王府公事,其有疑議,就以決之,但朔望牋修而已。太建八年加太中大夫,將軍如故。十一年卒,時年七十。

寄は幼少より篤実な行いをなし、急ぐときも必ず仁厚を旨とし、たとえ童僕・下僕に対しても、いまだかつて声や顔色を荒げることはなかったが、危急に臨んで節義を守るに至っては、言葉の調子は凛然として、白刃をも恐れなかった。南土に流寓して以来、兄の荔と隔絶していたため、気病を感じ、荔の手紙を得るたびに、気が急に激しくなり、危篤に陥ること数度に及んだ。前後に歴任した官職において、いまだかつて任期満了に至らず、わずか一年か数ヶ月で、自ら解任退去を求めた。常に言うには、「足るを知れば辱められず、我は足ることを知っている」と。病を理由に私邸に引き籠もってからは、諸王が州の長官(刺史)となるたびに、着任すると必ずその門を訪れて礼を尽くし、鞭や手板を下ろさせ、几杖を傍らに置いて侍坐させた。常に近くの寺に出かけて遊ぶと、里巷では互いに言い伝え、老若男女が道の左側に並んで、望み見て拝礼した。あるいは誓いを立てて約束する者があれば、ただ寄を指して欺かないとし、その至高の行いが人々を感化すること、このようであった。制作した文章は、乱に遭って多くは現存しない。

原文寄少篤行,造次必於仁厚,雖僮豎未嘗加以聲色,至於臨危執節,則辭氣凜然,白刃不憚也。自流寓南土,與兄荔隔絕,因感氣病,每得荔書,氣輒奔劇,危殆者數矣。前後所居官,未嘗至秩滿,纔期年數月,便自求解退。常曰:「知足不辱,吾知足矣。」及謝病私庭,每諸王為州將,下車必造門致禮,命釋鞭板,以几杖侍坐。常出遊近寺,閭里傳相告語,老幼羅列,望拜道左。或言誓為約者,但指寄便不欺,其至行所感如此。所製文筆,遭亂多不存。

馬樞

原文馬樞

馬樞、字は要理、扶風郡郿県の人である。祖父の霊慶は、斉の竟陵王の録事参軍であった。樞は数歳で父母ともに喪い、その姑によって養育された。六歳で、孝経・論語・老子を誦することができた。成長すると、経書史書を広く極め、特に仏教経典および周易・老子の義理に詳しかった。

原文馬樞字要理,扶風郿人也。祖靈慶,齊竟陵王錄事參軍。樞數歲而父母俱喪,為其姑所養。六歲,能誦孝經、論語、老子。及長,博極經史,尤善佛經及周易、老子義。

梁の邵陵王蕭綸が南徐州刺史となったとき、かねてよりその名を聞き、学士として招いた。綸は当時自ら大品経を講じ、樞に維摩経・老子・周易を講ぜしめ、同日に題を発し、僧俗の聴衆二千人がいた。王は優劣を極めて観ようと欲し、乃ち衆に向かって言うには、「馬学士と論義するには、必ずや屈服させねばならず、空しく主客を立てることは許さぬ」と。ここにおいて数家の学者がそれぞれ問いの端緒を立てると、樞は順序に従って剖判し、その宗旨を開き、然る後に枝分かれ流別し、転変すること窮まりなく、論者は拱手して黙って聴き受けるのみであった。綸は大いにこれを賞賛し、朝廷に引薦しようとした。まもなく侯景の乱に遭遇し、綸は兵を挙げて朝廷(臺)を救援したため、乃ち書物二万巻を留めて樞に託した。樞は思いのままに探し読み、ほぼ遍く読破し、乃ち慨然として嘆いて言うには、「私は聞く、爵位を貴ぶ者は巣父・許由を桎梏とし、山林を愛する者は伊尹・呂尚を管庫(小役人)とす、名実に拘束されれば柱下の史(老子)の言は芻芥の如く、清虚を玩べば席上の説(儒家の説)は糠秕の如し、篤論に照らせば、これまた各々その好みに従うものである。然るに支父(子州支父)には王位を譲る節操があり、厳子(厳光)には帝を傲る規矩があり、千載の美談として、廃されることはない。近ごろ志を求める士は、途を望んで息む。豈に天が高尚を恵まずして、何ぞ山林に聞こえる者が甚だしく無いのか」と。乃ち茅山に隠棲し、そこで終わる志を抱いた。

原文梁邵陵王綸為南徐州刺史,素聞其名,引為學士。綸時自講大品經,令樞講維摩、老子、周易,同日發題,道俗聽者二千人。王欲極觀優劣,乃謂眾曰:「與馬學士論義,必使屈伏,不得空立主客。」於是數家學者各起問端,樞乃依次剖判,開其宗旨,然後枝分流別,轉變無窮,論者拱默聽受而已。綸甚嘉之,將引薦於朝廷。尋遇侯景之亂,綸舉兵援臺,乃留書二萬卷以付樞。樞肆志尋覽,殆將周遍,乃喟然歎曰:「吾聞貴爵位者以巢、由為桎梏,愛山林者以伊、呂為管庫,束名實則芻芥柱下之言,翫清虛則糠秕席上之說,稽之篤論,亦各從其好也。然支父有讓王之介,嚴子有傲帝之規,千載美談,所不廢也。比求志之士,望塗而息。豈天之不惠高尚,何山林之無聞甚乎?」乃隱于茅山,有終焉之志。

天嘉元年、文帝が度支尚書に徴召したが、辞して応命しなかった。当時、樞の親族故旧は皆京口に居住しており、毎年秋冬の際、時折そこへ遊びに行った。鄱陽王(陳伯山)が南徐州刺史となったとき、その高尚を欽慕し、招き寄せることができぬことを恥じ、乃ち謙った言葉と厚い意をもって、使者に命じてこれを招き寄せ、前後数度返答したが、樞は固く病気を理由に辞退した。門人のある者が進言して言うには、「鄱陽王は師友の礼をもって遇そうとしており、爵位に関わることではなく、市朝の間においても、静かに黙していることの何の妨げがありましょうか」と。樞は已むを得ず、乃ち出立した。王は別に室を築いて彼を住まわせたが、樞はその高麗なことを嫌い、乃ち竹林の間に自ら茅葺きの家を営んで居住した。毎回、王公からの贈り物は、辞しきれない場合、おおよそ十分の一を受け取るのみであった。

原文天嘉元年,文帝徵為度支尚書,辭不應命。時樞親故並居京口,每秋冬之際,時往遊焉。及鄱陽王為南徐州刺史,欽其高尚,鄙不能致,乃卑辭厚意,令使者邀之,前後數反,樞固辭以疾。門人或進曰:「鄱陽王待以師友,非關爵位,市朝之間,何妨靜默。」樞不得已,乃行。王別築室以處之,樞惡其崇麗,乃於竹林間自營茅茨而居焉。每王公餽餉,辭不獲已者,率十分受一。

樞は幼少より乱離に属し、居住する所々において、盗賊が侵入せず、依託する者が常に数百軒に及んだ。目は精しく黄を洞徹し、暗闇の中の物を見ることができた。常に白い燕一対が、その庭の木に巣を作り、軒下に馴れ親しみ、時に机や几案に集まり、春に来て秋に去ること、ほぼ三十年に及んだ。太建十三年に卒去、時に六十歳。『道覚論』二十巻を撰し、世に行われる。

原文樞少屬亂離,每所居之處,盜賊不入,依託者常數百家。目精洞黃,能視闇中物。常有白鷰一雙,巢其庭樹,馴狎〓廡,時集几案,春來秋去,幾三十年。太建十三年卒,時年六十。撰《道覺論》二十卷行於世。

【評】

原文【評】

史臣が曰く、沈炯は梁の朝廷に仕え、年は知命(五十歳)にあり、郎署の薄官を望み、邑宰の卑職に止まったが、盟壇に下筆し、勧進の表文に文辞を属するに及んでは、旨趣を激揚し、誠に文人の偉大なる者と言うべきか。虞荔の献策は沈密にして、その誠意を尽くし、明らかなる時に有益であったと言えよう。

原文史臣曰:沈炯仕於梁室,年在知命,冀郎署之薄官,止邑宰之卑職,及下筆盟壇,屬辭勸表,激揚旨趣,信文人之偉者歟!虞荔之獻籌沈密,盡其誠款,可謂有益明時矣。