陳書

巻十一 列伝第五 黃法抃 淳于量 章昭達

巻十一 列伝第五 黃法抃 淳于量 章昭達

黃法抃

原文黃法抃

黃法抃は字あざなを仲昭といい、巴山郡新建県の人である。若い頃より剛健敏捷で胆力があり、歩行すれば一日に三百里、跳躍すれば三丈に及んだ。書簡や上申文書にも巧みで、帳簿や記録に通暁し、郡中を出入りして、郷里の人々に畏れられた。侯景の乱の際、郷里において徒党を集めた。太守の賀詡が江州に下ると、法抃は郡の事務を監督して知った。高祖(陳霸先はせん)が嶺を越えて建業の救援に入らんとした時、李遷仕が途中で妨害したので、高祖は周文育に命じて西昌に駐屯させ、法抃は兵を派遣して文育を助けた。当時法抃は新淦県に出て駐屯していたが、侯景が行臺の于慶を豫章に派遣し、慶が兵を分けて新淦を襲撃してきたので、法抃は防戦してこれを撃破した。高祖もまた文育を派遣して進軍させ慶を討たせたが、文育は慶の兵が強いのを疑い、進むことを敢えてしなかった。法抃は兵を率いてこれと合流し、ついに進んで笙屯を攻略し、捕虜や鹵獲品を非常に多く得た。

原文黃法抃字仲昭,巴山新建人也。少勁捷有膽力,步行日三百里,距躍三丈。頗便書疏,閑明簿領,出入郡中,為鄉閭所憚。侯景之亂,於鄉里合徒眾。太守賀詡下江州,法抃監知郡事。高祖將踰嶺入援建業,李遷仕作梗中途,高祖命周文育屯于西昌,法抃遣兵助文育。時法抃出頓新淦縣,景遣行臺于慶至豫章,慶分兵來襲新淦,法抃拒戰,敗之。高祖亦遣文育進軍討慶,文育疑慶兵彊,未敢進,法抃率眾會之,因進克笙屯,俘獲甚眾。

梁の元帝(蕭繹)が承制により超猛将軍・交州刺史の資格を与え、新淦県令を兼任させ、巴山県子に封じ、邑三百戸を賜った。承聖三年、明威将軍・游騎将軍に任じられ、爵位を侯に進められ、邑五百戸を賜った。貞陽侯(蕭淵明)が位を僭称せんしょうすると、左驍騎将軍に任じられた。敬帝(蕭方智)が即位すると、新建県侯に改封され、邑は前の通りであった。

原文梁元帝承制授超猛將軍、交州刺史資,領新淦縣令,封巴山縣子,邑三百戶。承聖三年,除明威將軍、游騎將軍,進爵為侯,邑五百戶。貞陽侯僭位,除左驍騎將軍。敬帝即位,改封新建縣侯,邑如前。

太平元年、江州の四郡を割いて高州を設置し、法抃を使持節・散騎常侍・都督高州諸軍事・信武将軍・高州刺史とし、巴山に鎮守させた。蕭勃が欧陽頠を派遣して法抃を攻撃したが、法抃はこれと戦い、これを破った。

原文太平元年,割江州四郡置高州,以法抃為使持節、散騎常侍、都督高州諸軍事、信武將軍、高州刺史,鎮于巴山。蕭勃遣歐陽頠攻法抃,法抃與戰,破之。

永定二年、王琳が李孝欽・樊猛・余孝頃を派遣して周迪を攻撃し、かつ法抃を取ろうと謀った。法抃は兵を率いて迪を救援し、孝頃ら三将を生け捕りにした。宣毅将軍の号を加えられ、邑を増やして以前と合わせて一千戸とし、鼓吹一部を給された。また王琳を防いだ功績により、平南将軍・開府儀同三司を授けられた。熊曇朗が金口で反乱を起こし、周文育を害したので、法抃は周迪とともにこれを討ち平定した。詳細は曇朗伝にある。

原文永定二年,王琳遣李孝欽、樊猛、余孝頃攻周迪,且謀取法抃,法抃率兵援迪,擒孝頃等三將。進號宣毅將軍,增邑并前一千戶,給鼓吹一部。又以拒王琳功,授平南將軍、開府儀同三司。熊曇朗於金口反,害周文育,法抃共周迪討平之,語在曇朗傳。

世祖(陳蒨ちんせん)が位を継ぐと、安南将軍の号を加えられた。天嘉二年、周迪が反乱を起こすと、法抃は兵を率いて都督の呉明徹と合流し、工塘において迪を討った。迪が平定されると、法抃の功績が多かった。使持節・散騎常侍・都督南徐州諸軍事・鎮北大将軍・南徐州刺史に召され、儀同・鼓吹はともに前の通りとされた。拝受しないうちに、まもなくまた都督江呉二州諸軍事・鎮南大将軍・江州刺史に改めて任じられた。六年、中衛大将軍に召された。

原文世祖嗣位,進號安南將軍。天嘉二年,周迪反,法抃率兵會都督吳明徹,討迪於工塘。迪平,法抃功居多。徵為使持節、散騎常侍、都督南徐州諸軍事、鎮北大將軍、南徐州刺史,儀同、鼓吹並如故。未拜,尋又改授都督江吳二州諸軍事、鎮南大將軍、江州刺史。六年,徵為中衛大將軍。

廃帝(陳伯宗)が即位すると、爵位を公に進められ、扶を与えられた。光大元年、使持節・都督南徐州諸軍事・鎮北将軍・南徐州刺史として出向した。二年、都督郢巴武三州諸軍事・鎮西将軍・郢州えいしゅう刺史に転じ、持節は前の通りであった。

原文廢帝即位,進爵為公,給扶。光大元年,出為使持節、都督南徐州諸軍事、鎮北將軍、南徐州刺史。二年,徙為都督郢巴武三州諸軍事、鎮西將軍、郢州刺史,持節如故。

太建元年、征西大将軍の号を加えられた。二年、侍中・中権大将軍に召された。四年、使持節・散騎常侍・都督南豫州諸軍事・征南大将軍・南豫州刺史として出向した。五年、大規模な北伐が行われ、都督の呉明徹は秦郡から出撃し、法抃を都督として歴陽から出撃させた。北斉はその歴陽王に歩騎五万を率いて来援させ、小峴に城を築いた。法抃は左衛将軍の樊毅に命じて兵を分けて大峴でこれを防がせ、大いに斉軍を破り、人馬・器械をことごとく鹵獲した。そこで拍車と歩艦を作り、拍竿を立てて歴陽に迫った。歴陽の者は窮迫して降伏を請うたが、法抃が緩やかに対処すると、また堅く守ったので、法抃は怒り、自ら士卒を率いて城を攻め、拍竿を施してその楼櫓や城壁を攻撃した。時に大雨が降り、城が崩壊したので、これを攻略し、戍卒をことごとく誅殺した。進軍して合肥に至ると、旗を見て降伏した。法抃は軍士に略奪を許さず、自ら慰労し、彼らと盟約を結び、すべて北方に帰還させた。功績により侍中を加えられ、義陽郡公に改封され、邑二千戸を賜った。その年、都督合霍二州諸軍事・征西大将軍・合州刺史に転じ、邑五百戸を増やされた。七年、都督豫建光朔合北徐六州諸軍事・豫州刺史に転じ、寿陽に鎮守した。侍中・散騎常侍・持節・将軍・儀同・鼓吹・扶はすべて前の通りであった。八年十月、薨去した。時に五十九歳。侍中・中権大将軍・司空を追贈され、諡を威といった。子の玩が後を嗣いだ。

原文太建元年,進號征西大將軍。二年,徵為侍中、中權大將軍。四年,出為使持節、散騎常侍、都督南豫州諸軍事、征南大將軍、南豫州刺史。五年,大舉北伐,都督吳明徹出秦郡,以法抃為都督,出歷陽。齊遣其歷陽王步騎五萬來援,於小峴築城,法抃遣左衛將軍樊毅分兵於大峴禦之,大破齊軍,盡獲人馬器械。於是乃為拍車及步艦,豎拍以逼歷陽。歷陽人窘蹴乞降,法抃緩之,則又堅守,法抃怒,親率士卒攻城,施拍加其樓堞。時又大雨,城崩,克之,盡誅戍卒。進兵合肥,望旗降款,法抃不令軍士侵掠,躬自撫勞,而與之盟,並放還北。以功加侍中,改封義陽郡公,邑二千戶。其年,遷都督合霍二州諸軍事、征西大將軍、合州刺史,增邑五百戶。七年,徙都督豫建光朔合北徐六州諸軍事、豫州刺史,鎮壽陽,侍中、散騎常侍、持節、將軍、儀同、鼓吹、扶並如故。八年十月,薨,時年五十九。贈侍中、中權大將軍、司空,諡曰威。子玩嗣。

淳于量

原文淳于量

淳于量は字を思明という。その先祖は済北郡の人であったが、代々京師に居住した。父の文成は梁に仕えて将帥となり、官は光烈将軍・梁州刺史に至った。

原文淳于量字思明。其先濟北人也,世居京師。父文成,仕梁為將帥,官至光烈將軍、梁州刺史。

量は若い頃より自らの処し方に巧みで、姿容は立派、才幹と謀略があり、弓馬に熟達した。梁の元帝が荊州刺史であった時、文成は量の人馬を分け、命じてそのもとに仕えさせた。湘東王(蕭繹)国常侍として初任し、西中郎府中兵参軍を兼ねた。累進して府の佐官となり、常に中兵・直兵の職を兼ねること十余年、兵甲や士卒は府中に充実していた。

原文量少善自居處,偉姿容,有幹略,便弓馬。梁元帝為荊州刺史,文成分量人馬,令往事焉。起家湘東王國常侍,兼西中郎府中兵參軍。累遷府佐、常兼中兵、直兵者十餘載,兵甲士卒,盛於府中。

荊州と雍州の境界では、蛮族がたびたび反乱を起こし、山の首領の文道期が積もり積もって辺境の患いとなっていた。中兵の王僧弁がこれを征討したが、たびたび戦って利あらず、量を派遣してこれを助けさせた。量が到着すると、僧弁と力を合わせ、大いに道期を破り、その酋長を斬り、捕虜は万を数えた。功績により広晋県男に封じられ、邑三百戸を賜り、涪陵太守に任じられた。新興・武寧の二郡太守を歴任した。

原文荊、雍之界,蠻左數反,山帥文道期積為邊患,中兵王僧辯征之,頻戰不利,遣量助之。量至,與僧辯并力,大破道期,斬其酋長,俘虜萬計。以功封廣晉縣男,邑三百戶,授涪陵太守。歷為新興、武寧二郡太守。

侯景の乱の際、梁の元帝は合わせて五軍を派遣して京邑を救援させたが、量はその一軍に加わった。臺城が陥落すると、量は荊州に帰還した。元帝が承制により量を仮節・通直散騎常侍・都督巴州諸軍事・信威将軍・巴州刺史とした。侯景が西上して巴州を攻撃すると、元帝は都督の王僧弁を使わして巴陵を占拠させた。量は僧弁とともに力を合わせて侯景を防ぎ、大いに景軍を破り、その将の任約を生け捕りにした。進軍して郢州を攻め、宋子仙を捕らえた。引き続き僧弁に従って侯景を平定した。承聖元年、功績により左衛将軍を授けられ、謝沐県侯に封じられ、邑五百戸を賜った。まもなく持節・都督桂定東西寧等四州諸軍事・信威将軍・安遠護軍・桂州刺史として出向した。

原文侯景之亂,梁元帝凡遣五軍入援京邑,量預其一。臺城陷,量還荊州。元帝承制以量為假節、通直散騎常侍、都督巴州諸軍事、信威將軍、巴州刺史。侯景西上攻巴州,元帝使都督王僧辯入據巴陵。量與僧辯并力拒景,大敗景軍,擒其將任約。進攻郢州,獲宋子仙。仍隨僧辯克平侯景。承聖元年,以功授左衛將軍,封謝沐縣侯,邑五百戶。尋出為持節、都督桂定東西寧等四州諸軍事、信威將軍、安遠護軍、桂州刺史。

荊州が陥落すると、侯量は桂州を保ち拠った。王琳が湘州・郢州を擁して割拠すると、しばしば使者を遣わして侯量を召し寄せたが、侯量は表面上は王琳と往来しながらも、別に使者を遣わして間道より高祖に帰順した。高祖が禅譲を受けると、持節・散騎常侍・平西大将軍を授けられ、鼓吹一部を給され、都督・刺史の職は従前の通りであった。まもなく鎮南将軍に進号した。引き続き都督・鎮西大将軍・開府儀同三司を授けられた。世祖が帝位を継ぐと、征南大将軍に進号した。

原文荊州陷,量保據桂州。王琳擁割湘、郢,累遣召量,量外雖與琳往來,而別遣使從閒道歸於高祖。高祖受襌,授持節、散騎常侍、平西大將軍,給鼓吹一部,都督、刺史並如故。尋進號鎮南將軍。仍授都督、鎮西大將軍、開府儀同三司。世祖嗣位,進號征南大將軍。

王琳が平定された後、侯量はたびたび入朝を請うた。天嘉五年、中撫大将軍に徴され、常侍・儀同・鼓吹は従前の通りであった。侯量の配下の将帥は多くが郷土を恋しみ、共に山谷に逃れ入ろうとし、入朝を望まなかった。世祖は湘州刺史華皎に命じて衡州界の黄洞を征伐させ、また兵をもって侯量を迎えさせた。天康元年、都に至ったが、道中で滞在したことを理由に、有司より奏上され、儀同の位を免ぜられたが、その他の官職は従前の通りであった。光大元年、鼓吹一部を給された。華皎が叛逆を企てると、侯量を使持節・征南大将軍・西討大都督とし、大艦を総率して、郢州の樊浦よりこれを防がせた。華皎が平定されると、周の将軍長胡公拓跋定らをも併せて降伏させた。功により侍中・中軍大将軍・開府儀同三司を授けられ、醴陵県公に進封され、封邑一千戸を加増された。拝受せず、出仕して使持節・都督南徐州諸軍事・鎮北将軍・南徐州刺史となり、侍中・儀同・鼓吹は従前の通りであった。

原文王琳平後,頻請入朝,天嘉五年,徵為中撫大將軍,常侍、儀同、鼓吹並如故。量所部將帥,多戀本土,並欲逃入山谷,不願入朝。世祖使湘州刺史華皎征衡州界黃洞,且以兵迎量。天康元年,至都,以在道淹留,為有司所奏,免儀同,餘並如故。光大元年,給鼓吹一部。華皎構逆,以量為使持節、征南大將軍、西討大都督,總率大艦,自郢州樊浦拒之。皎平,并降周將長胡公拓跋定等。以功授侍中、中軍大將軍、開府儀同三司,進封醴陵縣公,增邑一千戶。未拜,出為使持節、都督南徐州諸軍事、鎮北將軍、南徐州刺史,侍中、儀同、鼓吹並如故。

太建元年、征北大将軍に進号し、扶を給された。三年、江陰王蕭季卿より梁の陵中の樹木を買った罪に連座し、蕭季卿は免官となり、侯量は侍中を免ぜられた。まもなく再び侍中を加えられた。五年、中護大将軍に徴され、侍中・儀同・鼓吹・扶は従前の通りであった。

原文太建元年,進號征北大將軍,給扶。三年,坐就江陰王蕭季卿買梁陵中樹,季卿坐免,量免侍中。尋復加侍中。五年,徵為中護大將軍,侍中、儀同、鼓吹、扶並如故。

呉明徹が西征するにあたり、侯量はこれを支持し、第六子の侯岑に率いさせて配下の兵を従軍させた。淮南が平定されると、侯量は始安郡公に改封され、封邑一千五百戸を加増された。六年、出仕して使持節・都督郢巴南司定四州諸軍事・征西大将軍・郢州刺史となり、侍中・儀同・鼓吹・扶は従前の通りであった。七年、中軍大将軍・護軍将軍に徴された。九年、公事により侍中を免ぜられた。まもなく再び侍中を加えられた。十年、呉明徹が敗没すると、侯量に使持節・都督水陸諸軍事を加え、引き続き散騎常侍・都督南北兗譙三州諸軍事・車騎将軍・南兗州刺史を授け、その他の官職は従前の通りであった。十三年、左光禄大夫を加えられ、封邑五百戸を加増され、その他の官職は従前の通りであった。十四年四月に薨去した。時に七十二歳であった。司空を追贈された。

原文吳明徹之西伐也,量贊成其事,遣第六子岑率所領從軍。淮南克定,量改封始安郡公,增邑一千五百戶。六年,出為使持節、都督郢巴南司定四州諸軍事、征西大將軍、郢州刺史,侍中、儀同、鼓吹、扶並如故。七年,徵為中軍大將軍、護軍將軍。九年,以公事免侍中。尋復加侍中。十年,吳明徹陷沒,加量使持節、都督水陸諸軍事,仍授散騎常侍、都督南北兗譙三州諸軍事、車騎將軍、南兗州刺史,餘並如故。十三年,加左光祿大夫,增邑五百戶,餘並如故。十四年四月薨,時年七十二。贈司空。

章昭達

原文章昭達

章昭達、字は伯通、呉興郡武康県の人である。祖父の章道蓋は、斉の広平太守であった。父の章法尚は、梁の揚州議曹従事であった。

原文章昭達字伯通,吳興武康人也。祖道蓋,齊廣平太守。父法尚,梁揚州議曹從事。

昭達の性格は豪放磊落で、財を軽んじ気節を重んじた。若い時、かつて相者に会い、相者は昭達に言った、「あなたの容貌は非常に良いが、少し損なわれることがあれば、富貴を得るであろう」。梁の大同年間、昭達は東宮直後であった時、酔って馬から落ち、鬢の角を少し傷つけた。昭達はこれを喜んだが、相者は言った、「まだである」。侯景の乱の時、昭達は郷里の人を募って台城を救援し、流れ矢に当たり片目を失明した。相者がこれを見て言った、「あなたの相は良くなった。まもなく富貴を得るであろう」。

原文昭達性倜儻,輕財尚氣。少時,嘗遇相者,謂昭達曰:「卿容貌甚善,須小虧損,則當富貴。」梁大同中,昭達為東宮直後,因醉墜馬,鬢角小傷,昭達喜之,相者曰「未也」。及侯景之亂,昭達率募鄉人援臺城,為流矢所中,眇其一目,相者見之,曰:「卿相善矣,不久當貴。」

京城が陥落すると、昭達は郷里に帰り、世祖(陳蒨)と交遊し、ここに君臣の分を結んだ。侯景が平定されると、世祖は呉興太守となり、昭達は杖を執って来訪し世祖に謁した。世祖は彼を見て大いに喜び、将帥の任を委ね、恩寵は厚く、同輩を超えていた。高祖(陳霸先)が王僧辯を討つ時、世祖に命じて長城に戻り兵衆を招集させ、杜龕に備えさせたが、しばしば昭達を使者として京口に遣わし、計画を承知させた。僧辯が誅殺された後、杜龕はその将杜泰を遣わして長城を攻撃させた。世祖はこれを防ぎ、昭達に命じて城内の兵事を総括させた。杜泰が退走すると、世祖に従って東進し、呉興に軍を進め、杜龕を討った。杜龕が平定されると、また世祖に従って会稽で張彪を東討し、これを平定した。功を重ねて明威将軍・定州刺史に任ぜられた。

原文京城陷,昭達還鄉里,與世祖遊,因結君臣之分。侯景平,世祖為吳興太守,昭達杖策來謁世祖。世祖見之大喜,因委以將帥,恩寵優渥,超於儕等。及高祖討王僧辯,令世祖還長城招聚兵眾,以備杜龕,頻使昭達往京口,稟承計畫。僧辯誅後,龕遣其將杜泰來攻長城,世祖拒之,命昭達總知城內兵事。及杜泰退走,因從世祖東進,軍吳興,以討杜龕。龕平,又從世祖東討張彪於會稽,克之。累功除明威將軍、定州刺史。

この時、留異が東陽を擁拠し、私的に守宰を任命していた。高祖はこれを憂慮し、昭達を長山県令とし、その心腹の地に置いた。永定二年、武康県令に任ぜられた。世祖が帝位を継ぐと、員外散騎常侍に任ぜられた。天嘉元年、長城の功績を追論し、欣楽県侯に封ぜられ、封邑一千戸を与えられた。

原文是時留異擁據東陽,私署守宰,高祖患之,乃使昭達為長山縣令,居其心腹。永定二年,除武康令。世祖嗣位,除員外散騎常侍。天嘉元年,追論長城之功,封欣樂縣侯,邑一千戶。

まもなく侯安都らに従って(沌)[柵]口で王琳を防ぎ、蕪湖で戦った。昭達は平虜大艦に乗り、中流を進み、先鋒が発した拍竿が賊艦に命中した。王琳が平定されると、昭達の功績は第一とされた。二年、使持節・散騎常侍・都督郢巴武沅四州諸軍事・智武将軍・郢州刺史に任ぜられ、封邑を加増され前の分と合わせて千五百戸となった。まもなく平西将軍に進号した。

原文尋隨侯安都等拒王琳于(沌)[柵]口,戰于蕪湖,昭達乘平虜大艦,中流而進,先鋒發拍中于賊艦。王琳平,昭達冊勳第一。二年,除使持節、散騎常侍、都督郢巴武沅四州諸軍事、智武將軍、郢州刺史,增邑并前千五百戶。尋進號平西將軍。

周迪が臨川に拠って反乱を起こすと、詔により昭達に命じて近道よりこれを征伐させた。周迪が敗走すると、護軍将軍に徴され、鼓吹一部を給され、邵武県侯に改封され、封邑を加増され前の分と合わせて二千戸となり、常侍は従前の通りであった。四年、陳宝応が周迪を受け入れ、再び共に臨川を侵したため、また昭達を都督として周迪を討たせた。東興嶺に至ると、周迪はまた退走した。昭達はなおも嶺を越え、建安に駐屯し、陳宝応を討った。宝応は建安・晋安二郡の境界に拠り、水陸に柵を設け、官軍を防いだ。昭達はこれと戦って不利となり、その上流を占拠し、兵士に命じて木を伐り、枝葉を付けた筏を作らせ、その上に拍竿を設置し、大索で繋ぎ、次々と営を列ねて両岸に挟んだ。宝応はたびたび挑戦したが、昭達は甲冑を整えて動かなかった。やがて暴雨となり、江水が大いに増水した。昭達は筏を放って宝応の水柵を突撃させ、水柵はことごとく破壊された。また兵を出してその歩軍を攻撃した。ちょうど大いに合戦している時、世祖が余孝頃を海道より派遣した。ちょうど到着したので、力を併せてこれに乗じ、宝応は大敗し、ここに閩中を平定し、留異・宝応らをことごとく生け捕りにした。功により鎮前将軍・開府儀同三司を授けられた。

原文周迪據臨川反,詔令昭達便道征之。及迪敗走,徵為護軍將軍,給鼓吹一部,改封邵武縣侯,增邑并前二千戶,常侍如故。四年,陳寶應納周迪,復共寇臨川,又以昭達為都督討迪。至東興嶺,而迪又退走。昭達仍踰嶺,頓于建安,以討陳寶應。寶應據建安、晉安二郡之界,水陸為柵,以拒官軍。昭達與戰不利,因據其上流,命軍士伐木帶枝葉為筏,施拍於其上,綴以大索,相次列營,夾于兩岸。寶應數挑戰,昭達按甲不動。俄而暴雨,江水大長,昭達放筏衝突寶應水柵,水柵盡破。又出兵攻其步軍。方大合戰,會世祖遣余孝頃出自海道。適至,因并力乘之,寶應大潰,遂克定閩中,盡擒留異、寶應等。以功授鎮前將軍、開府儀同三司。

初め、世祖はかつて昭達が台鉉(三公の位)に昇る夢を見た。朝になると、その夢を昭達に告げた。この時、宴会に侍すると、世祖は昭達を顧みて言った、「卿は夢を覚えているか。どうやって夢に報いるのか」。昭達は答えて言った、「犬馬の労を尽くし、以て臣節を尽くすべきであり、それ以外に奉償するものはございません」。まもなくまた出仕して使持節・都督江郢呉三州諸軍事・鎮南将軍・江州刺史となり、常侍・儀同・鼓吹は従前の通りであった。

原文初,世祖嘗夢昭達升於台鉉,及旦,以夢告之。至是侍醼,世祖顧昭達曰:「卿憶夢不?何以償夢?」昭達對曰:「當效犬馬之用,以盡臣節,自餘無以奉償。」尋又出為使持節、都督江郢吳三州諸軍事、鎮南將軍、江州刺史,常侍、儀同、鼓吹如故。

廃帝が即位すると、侍中・征南将軍に遷り、邵陵郡公に改封された。華皎が反乱を起こした時、その移書や文檄は、ことごとく昭達の名を仮託し、またたびたび使者を遣わして招いたが、昭達はその使者をことごとく捕らえ、京師に送った。華皎が平定されると、征南大将軍に進号し、封邑を加増され前の分と合わせて二千五百戸となった。任期が満ちると、中撫大将軍に徴され、侍中・儀同・鼓吹は従前の通りであった。高宗が即位すると、車騎大将軍に進号したが、朝廷に戻るのが遅滞したことを理由に、有司より弾劾され、車騎将軍に降号した。

原文廢帝即位,遷侍中、征南將軍,改封邵陵郡公。華皎之反也,其移書文檄,並假以昭達為辭,又頻遣使招之,昭達盡執其使,送于京師。皎平,進號征南大將軍,增邑并前二千五百戶。秩滿,徵為中撫大將軍,侍中、儀同、鼓吹如故。高宗即位,進號車騎大將軍,以還朝遲留,為有司所劾,降號車騎將軍。

欧陽紇が嶺南を占有して反乱を起こすと、詔により昭達に命じて諸軍を都督してこれを討伐させた。昭達は道を倍して兼行し、始興に到達した。欧陽紇は昭達が突然到来したと聞き、恐慌を来して為すところを知らず、出て洭口に駐屯し、多くの沙石を集め、竹籠に盛って水柵の外に置き、舟艦を防ぐのに用いた。昭達はその上流に位置し、艫を装備し拍竿を造って賊の柵に臨んだ。また兵士に命じて刀を口にくわえ、水中を潜行させて竹籠を斬らせたので、籠の篾はことごとく解けた。ここにおいて大艦を放って流れに従ってこれを突撃させると、賊衆は大敗し、ここにおいて欧陽紇を生け捕りにし、京師に送った。広州が平定された。功により車騎大将軍に進み、司空に遷り、その他の官職は従前の通りであった。

原文歐陽紇據有嶺南反,詔昭達都督眾軍討之。昭達倍道兼行,達于始興。紇聞昭達奄至,恇擾不知所為,乃出頓洭口,多聚沙石,盛以竹籠,置于水柵之外,用遏舟艦。昭達居其上流,裝艫造拍,以臨賊柵。又令軍人銜刀,潛行水中,以斫竹籠,籠篾皆解。因縱大艦隨流突之,賊眾大敗,因而擒紇,送于京師,廣州平。以功進車騎大將軍,遷司空,餘並如故。

太建二年、江陵において蕭巋を征討すべく軍を率いた。時に蕭巋は周軍と共に青泥中に舟艦を大いに蓄えていたので、昭達は偏将の錢道戢・程文季らを分遣し、軽舟に乗じてこれを襲撃させ、その舟艦を焼いた。周兵はまた峡の下の南岸に堡塁を築き、安蜀城と名付け、江上に大索を横に引き渡し、𥯤を編んで橋とし、以て軍糧を渡していた。昭達は乃ち軍士に命じて長戟を作らせ、楼船の上に施し、仰いでその索を割らせた。索は断ち切られ糧は絶え、ここに兵を縦ってその城を攻め、これを降した。

原文太建二年,率師征蕭巋于江陵。時蕭巋與周軍大蓄舟艦於青泥中,昭達分遣偏將錢道戢、程文季等,乘輕舟襲之,焚其舟艦。周兵又於峽下南岸築壘,名曰安蜀城,於江上橫引大索,編𥯤為橋,以度軍糧。昭達乃命軍士為長戟,施於樓船之上,仰割其索,索斷糧絕,因縱兵以攻其城,降之。

三年、疾に罹り、薨去した。時に年五十四。大將軍を追贈され、封邑五百戸を増やされ、班劍二十人を給された。

原文三年,遘疾,薨,時年五十四。贈大將軍,增邑五百戶,給班劍二十人。

昭達の性質は厳格で峻烈であり、命を受けて出征する毎に、必ず昼夜を分かたず倍道で進んだ。然しながら、勝利を収めることがあれば、必ず功績を将帥に推譲し、厨房の食事も、全て部下と同等にし、将兵もまたこの点で彼に心を寄せた。酒宴を開く毎に、必ず盛んに女伎や雑楽を設け、羌胡の音声を尽くし、音律と姿容は共に当時の妙を極め、敵と対陣し、旗鼓相望む場合でも、これを廃することはなかった。四年、世祖の廟庭に配享された。

原文昭達性嚴刻,每奉命出征,必晝夜倍道;然有所克捷,必推功將帥,廚膳飲食,並同於群下,將士亦以此附之。每飲會,必盛設女伎雜樂,備盡羌胡之聲,音律姿容,並一時之妙,雖臨對寇敵,旗鼓相望,弗之廢也。四年,配享世祖廟庭。

子の大寶は、邵陵郡公の封を襲い、累官して散騎常侍・護軍に至った。豊州刺史として出向し、州にあっては貪欲で放縦であり、百姓は怨み酷かった。後主は太僕卿の李暈を以てこれに代えようとした。至徳三年四月、暈が州に到らんとする時、大寶は乃ち暈を襲撃して殺害し、兵を挙げて反旗を翻し、その将の楊通を遣わして建安を寇掠させた。建安内史の吳慧覺は郡城を拠ってこれに抵抗し、通は累次攻撃したが陥とせず。官軍が次第に近づき、人心が離反したので、大寶は計略窮まり、乃ち通と共に逃亡した。臺軍の主たる陳景詳が兵を率いて大寶を追跡した。大寶は山中に入った後、山路が険阻で、もはや進むことができず、通が彼を背負って、少し進んだ。間もなく追兵に捕捉され、生け捕りにされて都に送られる途中で死去し、首は朱雀航に伝えられて梟首され、三族は誅滅された。

原文子大寶,襲封邵陵郡公,累官至散騎常侍、護軍。出為豐州刺史,在州貪縱,百姓怨酷,後主以太僕卿李暈代之。至德三年四月,暈將到州,大寶乃襲殺暈,舉兵反,遣其將楊通寇建安。建安內史吳慧覺據郡城拒之,通累攻不克。官軍稍近,人情離異,大寶計窮,乃與通俱逃。臺軍主陳景詳率兵追躡大寶。大寶既入山,山路阻險,不復能行,通背負之,稍進。尋為追兵所及,生擒送都,於路死,傳首梟于朱雀航,夷三族。

【論】

原文【論】

史臣曰く、黃法抃・淳于量は梁末の喪乱に遭遇し、劉・項の雌雄未だ分からざる時、暗闇を弁明し是非を見極める者は稀であったが、二公は向背の理を達観し、位は鼎司に至った。これ亦その智によるものである。昭達は世祖と郷里の旧縁があり、義は鄧禹・蕭何に等しく、世祖が帝位を継ぐと、委任は重く、戦勝攻取に至り、累次寇難を平定した。これ亦良臣良将、一代の呉漢・耿弇である。

原文史臣曰:黃法抃、淳于量值梁末喪亂,劉、項未分,其有辯明暗見是非者蓋鮮,二公達向背之理,位至鼎司,亦其智也。昭達與世祖鄉壤惟舊,義等鄧、蕭,世祖纂曆,委任隆重,至於戰勝攻取,累平寇難,斯亦良臣良將,一代之吳、耿矣。