巻十 列伝第四 周鉄虎 程霊洗

陳書

巻十 列伝第四 周鉄虎 程霊洗

周鉄虎

周鉄虎は、何処の人であるか知られていない。梁の時代に南渡した。語音は傖重で、膂力は人に過ぎ、馬槊に便にして、梁の河東王蕭誉に仕え、勇敢をもって聞こえ、誉は板授して府中兵参軍とした。誉が広州 刺史 しし となると、鉄虎を興寧令とした。誉が湘州に遷ると、また臨蒸令とした。 侯景 こうけい の乱の時、元帝が荊州より世子方等を遣わして誉を代えさせ、かつ兵を以て臨んだ。誉は拒戦し、大勝し、方等は死に、鉄虎の功が最も多く、誉は委遇甚だ重くした。王僧弁が誉を討つに及び、陣中にて鉄虎を捕らえ、僧弁は烹らせようと命じた。鉄虎は呼んで曰く、「侯景未だ滅びず、如何にして壮士を殺すか」と。僧弁は其の言を奇とし、乃ちこれを宥し、其の麾下に還した。

侯景が西上するに及び、鉄虎は僧弁に従い任約を克ち、宋子仙を獲、毎戦必ず功有り。元帝は承制して仁威将軍・潼州刺史を授け、沌陽県子に封じ、邑三百戸を賜う。また僧弁に従い京邑を克定し、謝答仁を降し、陸納を湘州に平ぐ。承聖二年、前後の戦功により、爵を進めて侯とし、邑を増やして前の五百戸に贈る。仍って 散騎常侍 さんきじょうじ と為し、信義太守を領し、将軍は元の如し。 高祖 こうそ が僧弁を誅すと、鉄虎は率いる所部を降し、因って其の本職を復す。

徐嗣徽が斉の寇を引きて江を渡ると、鉄虎は板橋浦に於いて其の水軍を破り、甲仗船舸を尽く獲る。また歴陽を攻め、斉寇の歩営を襲い、皆克捷す。嗣徽が平らぎ、紹泰二年、 散騎常侍 さんきじょうじ ・厳威将軍・太子左衛率に遷る。

尋いで 周文育 しゅうぶんいく に従い南江に於いて 蕭勃 しょうぼつ を拒ぎ、常に前軍と為る。文育はまた鉄虎に偏軍を命じ、苦竹灘に於いて勃の前軍欧陽頠を襲わしむ。

また文育に従い西征して王琳を討ち、沌口に於いて敗績し、鉄虎は文育・ 侯安都 こうあんと と共に琳に擒えらる。琳は諸将を引見し、之と語るも、唯鉄虎のみ辞気屈せず、故に琳は文育の徒を尽く宥すも、独り鉄虎のみ害せらる。時に年四十九。高祖之を聞き、 みことのり を下して曰く、「天地の宝、貴ぶ所を生と曰い、形魄の徒、重んずる所は唯命なり。至りて生を捐てて節を立て、命を刋して恩に酬いるに及んでは、遠きを追い昔を懐う、信に宜しく等を加うべし。 散騎常侍 さんきじょうじ ・厳威将軍・太子左衛率・潼州刺史・信義太守領す沌陽県開国侯鉄虎は、器局沈厚、風力勇壮、北討南征、忠を竭くし力を尽くす。鋒を推して江夏に至り、凶徒に陷るを致すも、神気弥雄、肆言撓まず。豈に直ちに温序の害せらるるを見、方に其の鬚を理め、龐徳の危に臨み、猶能く目を瞋るのみならんや。忠貞此の如し、惻愴兼ねて深し。贈るに侍中・護軍将軍・青冀二州刺史と為し、封を加えて一千戸とし、鼓吹一部を贈給すべし。侯は元の如し」と。天嘉五年、世祖また詔して曰く、「漢室の功臣、形は宮観に写し、魏朝の猛将、名は宗祧に配す。功烈の以て長く存する所以、世代之に因りて朽ちず。故侍中・護軍将軍・青冀二州刺史沌陽県開国侯鉄虎は、誠節梗亮、力用雄敢、王業初めて基くに、行間に累ねて及び、翅を賊壘に垂れ、正色寇庭にす。古の遺烈、識有るもの同しく壮とす。身を隕して屈せず、隆栄等しきも、営魂易く遠し、言いて嘉惜を追う。宜しく仰ぎて壖寢に陪え、恭しく饗奠を頒つべし。高祖廟庭に配食すべし」と。子の瑜嗣ぐ。

時に盱眙の馬明有り、 あざな は世朗。梁の世に鄱陽嗣王蕭範に仕う。侯景の乱の時、廬江の東界を拠り、賊を拒ぎて臨城柵とす。元帝は 散騎常侍 さんきじょうじ ・平北将軍・北论州刺史を授け、廬江太守を領す。荊州陥没し、高祖に帰す。紹泰中、官位を復し、西華県侯に封じ、邑二千戸を賜う。また文育に従い西征して王琳を討ち、沌口に於いて軍敗れ、明力戦して之に死す。贈らるるに使持節・征西将軍・郢州刺史と為す。

程霊洗

程霊洗は字を玄滌といい、新安海寧の人である。少より勇力を以て聞こえ、歩行日に二百余里、騎射に便にして善く游ぐ。梁末、海寧・黟・歙等の県及び鄱陽・宣城郡界に多く盗賊有り、近県之を苦しむ。霊洗は素より郷里に畏伏せられ、前後の守長は常に少年を召募させ、劫盗を逐捕せしむ。

侯景の乱、霊洗は徒を聚めて黟・歙を拠り以て景を拒ぐ。景軍新安を拠る有り、新安太守湘西郷侯蕭隱は奔りて霊洗に依る。霊洗は奉じて以て主盟とす。梁元帝、荊州に於いて承制し、また使を遣わし間道より奉表す。劉神茂、東陽より義を建て賊を拒ぐ。霊洗は新安を攻め下し、神茂と相応ず。元帝は持節・通直 散騎常侍 さんきじょうじ 都督 ととく 新安郡諸軍事・雲麾将軍・譙州刺史資を授け、新安太守を領し、巴丘県侯に封じ、邑五百戸を賜う。神茂、景に破られ、景の偏帥呂子栄進みて新安を攻む。霊洗退きて黟・歙を保つ。景敗るるに及び、子栄退走し、霊洗復た新安を拠る。進軍して建德に至り、賊帥趙桑乾を擒う。功により持節・ 散騎常侍 さんきじょうじ 都督 ととく 青冀二州諸軍事・青州刺史を授け、邑を増やして前の一千戸に贈り、将軍・太守は元の如し。

仍って霊洗に命じ、率いる所部を下らしめて揚州に至らしめ、王僧弁を助けて鎮防せしむ。吳興太守に遷るも、未だ行かず、僧弁は霊洗に命じ侯瑱に従い西援して荊州に至らしむ。荊州陥り、還都す。高祖、僧弁を誅す。霊洗は率いる所領を以て来援し、其の徒力戦して石頭西門に於いてす。軍利あらず、使を遣わし招諭す。久しくして乃ち降る。高祖深く之を義とす。紹泰元年、使持節・信武将軍・蘭陵太守を授け、常侍は元の如し。京口を助防す。徐嗣徽を平ぐるに及び、霊洗功有り。南丹陽太守を除し、遂安県侯に封じ、邑を増やして前の一千五百戸とし、仍って採石を鎮す。

周文育に従い西討して王琳を討ち、沌口に於いて敗績し、琳に拘えらる。明年、侯安都等と逃れ帰る。丹陽尹を兼ね、出でて高唐・太原二郡太守と為り、仍って南陵を鎮す。太子左衛率に遷る。高祖崩ず。王琳の前軍東下す。霊洗、南陵に於いて之を破り、其の兵士を虜い、 へい せて青龍十余乗を獲る。功により持節・ 都督 ととく 州縁江諸軍事・信武将軍・南 州刺史を授く。侯瑱等、柵口に於いて王琳を破る。霊洗乗勝して逐北し、魯山を拠る有り。徴さるるに左衛将軍と為り、余は元の如し。

天嘉四年、周迪重ねて臨川に寇す。霊洗を以て 都督 ととく と為し、鄱陽より別道を以て之を撃たしむ。迪また山谷の間に走る。五年、中護軍に遷り、常侍は元の如し。出でて使持節・ 都督 ととく 郢巴武三州諸軍事・宣毅将軍・郢州刺史と為る。 廃帝 はいてい 即位し、号を進めて雲麾将軍とす。

華皎が反乱を起こしたとき、使者を遣わして程霊洗を招き誘ったが、霊洗は華皎の使者を斬り、その状況を上奏した。朝廷は深くその忠誠を嘉し、その守備を増強し、鼓吹一部を与え、心を推して彼を遇し、その子の文季に水軍を率いさせて防衛を助けさせた。この時、周(北周)はその将軍の長胡公拓跋定に歩兵・騎兵二万を率いさせて華皎を助け、霊洗を攻囲させた。霊洗は城に拠って堅く守った。華皎が退却すると、軍を出して拓跋定を追撃し、定は江を渡ることができず、その軍を率いて降伏した。そこで周の沔州を攻撃し、これを陥落させ、その刺史裴寛を生け捕りにした。功績により安西将軍に進号し、重安県公に改封され、封邑は以前より二千戸を加増された。

霊洗の性格は厳しくせっかちで、部下を統御することは甚だ厳しく、士卒に小さな罪があれば必ず軍法によって誅殺し、慌ただしい間にも、すぐに鞭打ちを加えたが、号令は分明で、士卒と苦楽を共にし、軍もまたこれによって彼に従った。性質は耕作を好み、自ら勤めて農耕に励み、水田・陸地それぞれに適した作物や、刈り取りの時期については、老農でさえ及ばないほどであった。伎妾に遊手好閑の者はおらず、紡績を監督させた。財産を使い散らすことについては、また吝嗇でもなかった。光大二年、州において卒去した。時に五十五歳。鎮西将軍・開府儀同三司を追贈され、諡は忠壮といった。太建四年、詔により高祖( 陳霸先 ちんばせん )の廟庭に配享された。子の文季が後を嗣いだ。

子 文季

文季は字を少卿という。幼少より騎射を習い、多くの才幹と謀略を持ち、果断にして父の風があった。弱冠にして霊洗に従って征討し、必ず先頭に立って敵陣に突入した。霊洗が周文育・侯安都らと沌口で敗れ、王琳に捕らえられた時、高祖(陳霸先)は賊に陥った諸将の子弟を召し出して厚く遇したが、文季は最も礼儀正しい様子で、深く高祖に賞賛された。永定年間、累遷して通直散騎侍郎・句容令となった。

世祖( 陳蒨 ちんせん )が即位すると、宣恵始興王府限内中直兵参軍に任じられた。この時、王(陳伯茂)は揚州刺史として冶城に鎮していたが、府中の軍事は全て彼に委ねられた。

天嘉二年、貞毅将軍・新安太守に任じられ、引き続き侯安都に従って東の留異を討った。留異の与党の向文政が新安を占拠していたので、文季は精鋭三百を率いて軽装で攻撃に向かった。文政はその兄の子の瓚を遣わして防がせたが、文季はこれと戦い、瓚軍を大破し、文政は降伏した。

三年、始興王陳伯茂が東州に出鎮すると、再び文季を鎮東府中兵参軍とし、剡令を兼ねさせた。

四年、陳宝応が留異と結びつき、また兵を遣わして周迪に従い再び臨川に出ると、世祖は信義太守余孝頃に海路から しん 安を襲撃させ、文季はその前軍となり、向かうところ勝利した。陳宝応が平定されると、文季の戦功が最も多かった。帰還後、府諮議参軍に転じ、中直兵を領した。出向して臨海太守となった。まもなく金翅船に乗って父を助け郢城を鎮守した。華皎が平定されると、霊洗と文季はともに防衛の功績があった。霊洗が卒去すると、文季はその軍を全て率い、超武将軍に起用され、引き続き郢州の防衛を助けた。文季は性、至孝であり、軍務のため礼を奪われたが、憔悴やつれは甚だしかった。

太建二年、 章内史となり、将軍の号は元のままだった。喪が明けると、重安県公の封爵を襲封した。 都督 ととく 章昭達 しょうしょうたつ に従って軍を率いて荊州に赴き、蕭巋を征討した。蕭巋は周軍と共に多くの舟艦を造り、青泥水中に置いていた。当時、水かさが増して流れが速かったので、昭達は文季と銭道戢に軽舟で襲撃させ、その舟艦を全て焼き払った。昭達は蕭巋らの兵がやや怠っているのを見て、また文季に夜間にその外城に入らせ、多くの殺傷を加えた。まもなく周兵が大挙して出撃し、巴陵内史雷道勤が防戦して戦死し、文季はただ一身でかろうじて逃れた。功績により通直 散騎常侍 さんきじょうじ ・安遠将軍を加えられ、封邑五百戸を加増された。

五年、 都督 ととく 呉明徹が北の秦郡を討つと、秦郡の前の江浦は涂水に通じており、斉(北斉)人は皆、大柱を水中に打ち込んで柵としていた。そこで先に文季に ぎょう 勇の兵を率いさせてその柵を引き抜かせ、明徹は大軍を率いて後から到着し、秦郡を攻撃して陥落させた。また別に文季に涇州を包囲させ、その城を屠り、盱眙を攻撃して陥落させた。引き続き明徹に従って寿陽を包囲した。

文季は事に臨んで謹厳でせっかち、部下を統御することは厳格で整然としており、前後にわたって陥落させた城砦では、概ね水を堰き止めて堤防を築き、土木工事の規模は動かすこと数万に及んだ。陣営を設けて人夫を使役する際には、文季は必ず諸将に先んじ、夜は早く起き、日暮れまで休まず、軍中でその勤勉さに服さない者はなかった。戦うたびに常に前鋒となり、斉軍は深く彼を恐れ、程獣と呼んだ。功績により 散騎常侍 さんきじょうじ ・明威将軍に任じられ、封邑五百戸を加増された。また新安内史を兼ね、武毅将軍に進号した。

八年、持節・ 都督 ととく 譙州諸軍事・安遠将軍・譙州刺史となった。その年、さらに北徐仁州諸軍事・北徐州刺史を 都督 ととく し、その他の官職は元のままだった。九年、再び明徹に従って北討し、呂梁に堰を築いた。事績は明徹伝に見える。十年春、敗北し、周に囚われ、開府儀同三司に任じられた。十一年、周から逃げ帰り、渦陽に至ったが、辺境の官吏に捕らえられ、長安に送還され、獄中で死去した。 後主 こうしゅ (陳叔宝)は当時すでに周と断交していたため、このことを知らなかった。至徳元年、後主は初めてこれを知り、 散騎常侍 さんきじょうじ を追贈した。まもなくまた詔して言うには、「故 散騎常侍 さんきじょうじ ・前重安県開国公文季は、門閥の系譜を継承し、よく家の名声を担った。早くから軍旅に出て、元帥ではなかったが、先鋒として最も功績があり、果敢さで知られていた。しかし軍勢を失い敗北したため、当然ながら官爵を削られた。しかし霊洗が防衛の功績を立てたことは、久しく思い慕われており、文季が異境に魂を埋めたことは、まことに哀れむべきである。労苦を積んだ旧臣を思うにつけ、このように廃絶することを悲しむ。廟食を存続させるべきであり、餓えさせてはならない。重安県侯に降封し、邑一千戸とし、子の饗に襲封させよ」。

【論】

史臣が言う。程霊洗父子はともに部下を統御すること厳しく、兵を治めること整然としていたが、軍とその労苦を共にし、私的に財利を貪らず、士卒は多くこれに依拠した。ゆえに戦場に臨んで勝利を収めることができたのである。

原本を確認する(ウィキソース):陳書 卷010