周鉄虎
周鉄虎は、何処の人であるか知られていない。梁の時代に南渡した。語音は傖重で、膂力は人に過ぎ、馬槊に便にして、梁の河東王蕭誉に仕え、勇敢をもって聞こえ、誉は板授して府中兵参軍とした。誉が広州刺史となると、鉄虎を興寧令とした。誉が湘州に遷ると、また臨蒸令とした。侯景の乱の時、元帝が荊州より世子方等を遣わして誉を代えさせ、かつ兵を以て臨んだ。誉は拒戦し、大勝し、方等は死に、鉄虎の功が最も多く、誉は委遇甚だ重くした。王僧弁が誉を討つに及び、陣中にて鉄虎を捕らえ、僧弁は烹らせようと命じた。鉄虎は呼んで曰く、「侯景未だ滅びず、如何にして壮士を殺すか」と。僧弁は其の言を奇とし、乃ちこれを宥し、其の麾下に還した。
尋いで周文育に従い南江に於いて蕭勃を拒ぎ、常に前軍と為る。文育はまた鉄虎に偏軍を命じ、苦竹灘に於いて勃の前軍欧陽頠を襲わしむ。
また文育に従い西征して王琳を討ち、沌口に於いて敗績し、鉄虎は文育・侯安都と共に琳に擒えらる。琳は諸将を引見し、之と語るも、唯鉄虎のみ辞気屈せず、故に琳は文育の徒を尽く宥すも、独り鉄虎のみ害せらる。時に年四十九。高祖之を聞き、詔を下して曰く、「天地の宝、貴ぶ所を生と曰い、形魄の徒、重んずる所は唯命なり。至りて生を捐てて節を立て、命を刋して恩に酬いるに及んでは、遠きを追い昔を懐う、信に宜しく等を加うべし。散騎常侍・厳威将軍・太子左衛率・潼州刺史・信義太守領す沌陽県開国侯鉄虎は、器局沈厚、風力勇壮、北討南征、忠を竭くし力を尽くす。鋒を推して江夏に至り、凶徒に陷るを致すも、神気弥雄、肆言撓まず。豈に直ちに温序の害せらるるを見、方に其の鬚を理め、龐徳の危に臨み、猶能く目を瞋るのみならんや。忠貞此の如し、惻愴兼ねて深し。贈るに侍中・護軍将軍・青冀二州刺史と為し、封を加えて一千戸とし、鼓吹一部を贈給すべし。侯は元の如し」と。天嘉五年、世祖また詔して曰く、「漢室の功臣、形は宮観に写し、魏朝の猛将、名は宗祧に配す。功烈の以て長く存する所以、世代之に因りて朽ちず。故侍中・護軍将軍・青冀二州刺史沌陽県開国侯鉄虎は、誠節梗亮、力用雄敢、王業初めて基くに、行間に累ねて及び、翅を賊壘に垂れ、正色寇庭にす。古の遺烈、識有るもの同しく壮とす。身を隕して屈せず、隆栄等しきも、営魂易く遠し、言いて嘉惜を追う。宜しく仰ぎて壖寢に陪え、恭しく饗奠を頒つべし。高祖廟庭に配食すべし」と。子の瑜嗣ぐ。
時に盱眙の馬明有り、字は世朗。梁の世に鄱陽嗣王蕭範に仕う。侯景の乱の時、廬江の東界を拠り、賊を拒ぎて臨城柵とす。元帝は散騎常侍・平北将軍・北论州刺史を授け、廬江太守を領す。荊州陥没し、高祖に帰す。紹泰中、官位を復し、西華県侯に封じ、邑二千戸を賜う。また文育に従い西征して王琳を討ち、沌口に於いて軍敗れ、明力戦して之に死す。贈らるるに使持節・征西将軍・郢州刺史と為す。
程霊洗
程霊洗は字を玄滌といい、新安海寧の人である。少より勇力を以て聞こえ、歩行日に二百余里、騎射に便にして善く游ぐ。梁末、海寧・黟・歙等の県及び鄱陽・宣城郡界に多く盗賊有り、近県之を苦しむ。霊洗は素より郷里に畏伏せられ、前後の守長は常に少年を召募させ、劫盗を逐捕せしむ。
侯景の乱、霊洗は徒を聚めて黟・歙を拠り以て景を拒ぐ。景軍新安を拠る有り、新安太守湘西郷侯蕭隱は奔りて霊洗に依る。霊洗は奉じて以て主盟とす。梁元帝、荊州に於いて承制し、また使を遣わし間道より奉表す。劉神茂、東陽より義を建て賊を拒ぐ。霊洗は新安を攻め下し、神茂と相応ず。元帝は持節・通直散騎常侍・都督新安郡諸軍事・雲麾将軍・譙州刺史資を授け、新安太守を領し、巴丘県侯に封じ、邑五百戸を賜う。神茂、景に破られ、景の偏帥呂子栄進みて新安を攻む。霊洗退きて黟・歙を保つ。景敗るるに及び、子栄退走し、霊洗復た新安を拠る。進軍して建德に至り、賊帥趙桑乾を擒う。功により持節・散騎常侍・都督青冀二州諸軍事・青州刺史を授け、邑を増やして前の一千戸に贈り、将軍・太守は元の如し。
周文育に従い西討して王琳を討ち、沌口に於いて敗績し、琳に拘えらる。明年、侯安都等と逃れ帰る。丹陽尹を兼ね、出でて高唐・太原二郡太守と為り、仍って南陵を鎮す。太子左衛率に遷る。高祖崩ず。王琳の前軍東下す。霊洗、南陵に於いて之を破り、其の兵士を虜い、并せて青龍十余乗を獲る。功により持節・都督南豫州縁江諸軍事・信武将軍・南豫州刺史を授く。侯瑱等、柵口に於いて王琳を破る。霊洗乗勝して逐北し、魯山を拠る有り。徴さるるに左衛将軍と為り、余は元の如し。
天嘉四年、周迪重ねて臨川に寇す。霊洗を以て都督と為し、鄱陽より別道を以て之を撃たしむ。迪また山谷の間に走る。五年、中護軍に遷り、常侍は元の如し。出でて使持節・都督郢巴武三州諸軍事・宣毅将軍・郢州刺史と為る。廃帝即位し、号を進めて雲麾将軍とす。
華皎が反乱を起こしたとき、使者を遣わして程霊洗を招き誘ったが、霊洗は華皎の使者を斬り、その状況を上奏した。朝廷は深くその忠誠を嘉し、その守備を増強し、鼓吹一部を与え、心を推して彼を遇し、その子の文季に水軍を率いさせて防衛を助けさせた。この時、周(北周)はその将軍の長胡公拓跋定に歩兵・騎兵二万を率いさせて華皎を助け、霊洗を攻囲させた。霊洗は城に拠って堅く守った。華皎が退却すると、軍を出して拓跋定を追撃し、定は江を渡ることができず、その軍を率いて降伏した。そこで周の沔州を攻撃し、これを陥落させ、その刺史裴寛を生け捕りにした。功績により安西将軍に進号し、重安県公に改封され、封邑は以前より二千戸を加増された。
子 文季
文季は字を少卿という。幼少より騎射を習い、多くの才幹と謀略を持ち、果断にして父の風があった。弱冠にして霊洗に従って征討し、必ず先頭に立って敵陣に突入した。霊洗が周文育・侯安都らと沌口で敗れ、王琳に捕らえられた時、高祖(陳霸先)は賊に陥った諸将の子弟を召し出して厚く遇したが、文季は最も礼儀正しい様子で、深く高祖に賞賛された。永定年間、累遷して通直散騎侍郎・句容令となった。
世祖(陳蒨)が即位すると、宣恵始興王府限内中直兵参軍に任じられた。この時、王(陳伯茂)は揚州刺史として冶城に鎮していたが、府中の軍事は全て彼に委ねられた。
四年、陳宝応が留異と結びつき、また兵を遣わして周迪に従い再び臨川に出ると、世祖は信義太守余孝頃に海路から晋安を襲撃させ、文季はその前軍となり、向かうところ勝利した。陳宝応が平定されると、文季の戦功が最も多かった。帰還後、府諮議参軍に転じ、中直兵を領した。出向して臨海太守となった。まもなく金翅船に乗って父を助け郢城を鎮守した。華皎が平定されると、霊洗と文季はともに防衛の功績があった。霊洗が卒去すると、文季はその軍を全て率い、超武将軍に起用され、引き続き郢州の防衛を助けた。文季は性、至孝であり、軍務のため礼を奪われたが、憔悴やつれは甚だしかった。
五年、都督呉明徹が北の秦郡を討つと、秦郡の前の江浦は涂水に通じており、斉(北斉)人は皆、大柱を水中に打ち込んで柵としていた。そこで先に文季に驍勇の兵を率いさせてその柵を引き抜かせ、明徹は大軍を率いて後から到着し、秦郡を攻撃して陥落させた。また別に文季に涇州を包囲させ、その城を屠り、盱眙を攻撃して陥落させた。引き続き明徹に従って寿陽を包囲した。
文季は事に臨んで謹厳でせっかち、部下を統御することは厳格で整然としており、前後にわたって陥落させた城砦では、概ね水を堰き止めて堤防を築き、土木工事の規模は動かすこと数万に及んだ。陣営を設けて人夫を使役する際には、文季は必ず諸将に先んじ、夜は早く起き、日暮れまで休まず、軍中でその勤勉さに服さない者はなかった。戦うたびに常に前鋒となり、斉軍は深く彼を恐れ、程獣と呼んだ。功績により散騎常侍・明威将軍に任じられ、封邑五百戸を加増された。また新安内史を兼ね、武毅将軍に進号した。
【論】
史臣が言う。程霊洗父子はともに部下を統御すること厳しく、兵を治めること整然としていたが、軍とその労苦を共にし、私的に財利を貪らず、士卒は多くこれに依拠した。ゆえに戦場に臨んで勝利を収めることができたのである。