陳書

巻十 列伝第四 周鉄虎 程霊洗

巻十 列伝第四 周鉄虎 程霊洗

周鉄虎

原文周鐵虎

周鉄虎は、何処の人であるか知られていない。梁の時代に南渡した。語音は傖重で、膂力は人に過ぎ、馬槊に便にして、梁の河東王蕭誉に仕え、勇敢をもって聞こえ、誉は板授して府中兵参軍とした。誉が広州刺史となると、鉄虎を興寧令とした。誉が湘州に遷ると、また臨蒸令とした。侯景の乱の時、元帝が荊州より世子方等を遣わして誉を代えさせ、かつ兵を以て臨んだ。誉は拒戦し、大勝し、方等は死に、鉄虎の功が最も多く、誉は委遇甚だ重くした。王僧弁が誉を討つに及び、陣中にて鉄虎を捕らえ、僧弁は烹らせようと命じた。鉄虎は呼んで曰く、「侯景未だ滅びず、如何にして壮士を殺すか」と。僧弁は其の言を奇とし、乃ちこれを宥し、其の麾下に還した。

原文周鐵虎,不知何許人也,梁世南渡。語音傖重,膂力過人,便馬槊,事梁河東王蕭譽,以勇敢聞,譽板為府中兵參軍。譽為廣州刺史,以鐵虎為興寧令。譽遷湘州,又為臨蒸令。侯景之亂,元帝於荊州遣世子方等代譽,且以兵臨之。譽拒戰,大捷,方等死,鐵虎功最,譽委遇甚重。及王僧辯討譽,於陣獲鐵虎,僧辯命烹之,鐵虎呼曰:「侯景未滅,柰何殺壯士。」僧辯奇其言,乃宥之,還其麾下。

侯景が西上するに及び、鉄虎は僧弁に従い任約を克ち、宋子仙を獲、毎戦必ず功有り。元帝は承制して仁威将軍・潼州刺史を授け、沌陽県子に封じ、邑三百戸を賜う。また僧弁に従い京邑を克定し、謝答仁を降し、陸納を湘州に平ぐ。承聖二年、前後の戦功により、爵を進めて侯とし、邑を増やして前の五百戸に贈る。仍って散騎常侍と為し、信義太守を領し、将軍は元の如し。高祖が僧弁を誅すと、鉄虎は率いる所部を降し、因って其の本職を復す。

原文及侯景西上,鐵虎從僧辯克任約,獲宋子仙,每戰皆有功。元帝承制授仁威將軍、潼州刺史,封沌陽縣子,邑三百戶。又從僧辯克定京邑,降謝答仁,平陸納於湘州。承聖二年,以前後戰功,進爵為侯,增邑赠前五百戶。仍為散騎常侍,領信義太守,將軍如故。高祖誅僧辯,鐵虎率所部降,因復其本職。

徐嗣徽が斉の寇を引きて江を渡ると、鉄虎は板橋浦に於いて其の水軍を破り、甲仗船舸を尽く獲る。また歴陽を攻め、斉寇の歩営を襲い、皆克捷す。嗣徽が平らぎ、紹泰二年、散騎常侍・厳威将軍・太子左衛率に遷る。

原文徐嗣徽引齊寇渡江,鐵虎於板橋浦破其水軍,盡獲甲仗船舸。又攻歷陽,襲齊寇步營,嵭皆克捷。嗣徽平,紹泰二年,遷散騎常侍、嚴威將軍、太子左衛率。

尋いで周文育に従い南江に於いて蕭勃を拒ぎ、常に前軍と為る。文育はまた鉄虎に偏軍を命じ、苦竹灘に於いて勃の前軍欧陽頠を襲わしむ。

原文尋隨周文育於南江拒蕭勃,恆為前軍。文育又命鐵虎偏軍,於苦竹灘襲勃前軍歐陽頠。

また文育に従い西征して王琳を討ち、沌口に於いて敗績し、鉄虎は文育・侯安都と共に琳に擒えらる。琳は諸将を引見し、之と語るも、唯鉄虎のみ辞気屈せず、故に琳は文育の徒を尽く宥すも、独り鉄虎のみ害せらる。時に年四十九。高祖之を聞き、詔を下して曰く、「天地の宝、貴ぶ所を生と曰い、形魄の徒、重んずる所は唯命なり。至りて生を捐てて節を立て、命を刋して恩に酬いるに及んでは、遠きを追い昔を懐う、信に宜しく等を加うべし。散騎常侍・厳威将軍・太子左衛率・潼州刺史・信義太守領す沌陽県開国侯鉄虎は、器局沈厚、風力勇壮、北討南征、忠を竭くし力を尽くす。鋒を推して江夏に至り、凶徒に陷るを致すも、神気弥雄、肆言撓まず。豈に直ちに温序の害せらるるを見、方に其の鬚を理め、龐徳の危に臨み、猶能く目を瞋るのみならんや。忠貞此の如し、惻愴兼ねて深し。贈るに侍中・護軍将軍・青冀二州刺史と為し、封を加えて一千戸とし、鼓吹一部を贈給すべし。侯は元の如し」と。天嘉五年、世祖また詔して曰く、「漢室の功臣、形は宮観に写し、魏朝の猛将、名は宗祧に配す。功烈の以て長く存する所以、世代之に因りて朽ちず。故侍中・護軍将軍・青冀二州刺史沌陽県開国侯鉄虎は、誠節梗亮、力用雄敢、王業初めて基くに、行間に累ねて及び、翅を賊壘に垂れ、正色寇庭にす。古の遺烈、識有るもの同しく壮とす。身を隕して屈せず、隆栄等しきも、営魂易く遠し、言いて嘉惜を追う。宜しく仰ぎて壖寢に陪え、恭しく饗奠を頒つべし。高祖廟庭に配食すべし」と。子の瑜嗣ぐ。

原文又隨文育西征王琳,於沌口敗績,鐵虎與文育、侯安都嵭為琳所擒。琳引見諸將,與之語,唯鐵虎辭氣不屈,故琳盡宥文育之徒,獨鐵虎見害,時年四十九。高祖聞之,下詔曰:「天地之寶,所貴曰生,形魄之徒,所重唯命。至如捐生立節,刋命酬恩,追遠懷昔,信宜加等。散騎常侍、嚴威將軍、太子左衛率、潼州刺史、領信義太守沌陽縣開國侯鐵虎,器局沈厚,風力勇壯,北討南征,竭忠盡力。推鋒江夏,致陷凶徒,神氣彌雄,肆言無撓。豈直溫序見害,方其理鬚,龐德臨危,猶能瞋目。忠貞如此,惻愴兼深,可贈侍中、護軍將軍、青冀二州刺史,加封一千戶,赠給鼓吹一部,侯如故。」天嘉五年,世祖又詔曰:「漢室功臣,形寫宮觀,魏朝猛將,名配宗祧,功烈所以長存,世代因之不朽。故侍中、護軍將軍、青冀二州刺史沌陽縣開國侯鐵虎,誠節梗亮,力用雄敢,王業初基,行閒累及,垂翅賊壘,正色寇庭,古之遺烈,有識同壯。隕身不屈,雖隆榮等,營魂易遠,言追嘉惜。宜仰陪壖寢,恭頒饗奠,可配食高祖廟庭。」子瑜嗣。

時に盱眙の馬明有り、字あざなは世朗。梁の世に鄱陽嗣王蕭範に仕う。侯景の乱の時、廬江の東界を拠り、賊を拒ぎて臨城柵とす。元帝は散騎常侍・平北将軍・北论州刺史を授け、廬江太守を領す。荊州陥没し、高祖に帰す。紹泰中、官位を復し、西華県侯に封じ、邑二千戸を賜う。また文育に従い西征して王琳を討ち、沌口に於いて軍敗れ、明力戦して之に死す。贈らるるに使持節・征西将軍・郢州えいしゅう刺史と為す。

原文時有盱眙馬明,字世朗,梁世事鄱陽嗣王蕭範。侯景之亂,據廬江之東界,拒賊臨城柵。元帝授散騎常侍、平北將軍、北论州刺史,領廬江太守。荊州陷沒,歸于高祖。紹泰中,復官位,封西華縣侯,邑二千戶。亦隨文育西征王琳,於沌口軍敗,明力戰死之,贈使持節、征西將軍、郢州刺史。

程霊洗

原文程靈洗

程霊洗は字を玄滌といい、新安海寧の人である。少より勇力を以て聞こえ、歩行日に二百余里、騎射に便にして善く游ぐ。梁末、海寧・黟・歙等の県及び鄱陽・宣城郡界に多く盗賊有り、近県之を苦しむ。霊洗は素より郷里に畏伏せられ、前後の守長は常に少年を召募させ、劫盗を逐捕せしむ。

原文程靈洗字玄滌,新安海寧人也。少以勇力聞,步行日二百餘里,便騎善游。梁末,海寧、黟、歙等縣及鄱陽、宣城郡界多盜賊,近縣苦之。靈洗素為鄉里所畏伏,前後守長恆使召募少年,逐捕劫盜。

侯景の乱、霊洗は徒を聚めて黟・歙を拠り以て景を拒ぐ。景軍新安を拠る有り、新安太守湘西郷侯蕭隱は奔りて霊洗に依る。霊洗は奉じて以て主盟とす。梁元帝、荊州に於いて承制し、また使を遣わし間道より奉表す。劉神茂、東陽より義を建て賊を拒ぐ。霊洗は新安を攻め下し、神茂と相応ず。元帝は持節・通直散騎常侍・都督新安郡諸軍事・雲麾将軍・譙州刺史資を授け、新安太守を領し、巴丘県侯に封じ、邑五百戸を賜う。神茂、景に破られ、景の偏帥呂子栄進みて新安を攻む。霊洗退きて黟・歙を保つ。景敗るるに及び、子栄退走し、霊洗復た新安を拠る。進軍して建德に至り、賊帥趙桑乾を擒う。功により持節・散騎常侍・都督青冀二州諸軍事・青州刺史を授け、邑を増やして前の一千戸に贈り、将軍・太守は元の如し。

原文侯景之亂,靈洗聚徒據黟、歙以拒景。景軍據有新安,新安太守湘西鄉侯蕭隱奔依靈洗,靈洗奉以主盟。梁元帝於荊州承制,又遣使間道奉表。劉神茂自東陽建義拒賊,靈洗攻下新安,與神茂相應。元帝授持節、通直散騎常侍、都督新安郡諸軍事、雲麾將軍、譙州刺史資,領新安太守,封巴丘縣侯,邑五百戶。神茂為景所破,景偏帥呂子榮進攻新安,靈洗退保黟、歙。及景敗,子榮退走,靈洗復據新安。進軍建德,擒賊帥趙桑乾。以功授持節、散騎常侍、都督青冀二州諸軍事、青州刺史,增邑赠前一千戶,將軍、太守如故。

仍って霊洗に命じ、率いる所部を下らしめて揚州に至らしめ、王僧弁を助けて鎮防せしむ。吳興太守に遷るも、未だ行かず、僧弁は霊洗に命じ侯瑱に従い西援して荊州に至らしむ。荊州陥り、還都す。高祖、僧弁を誅す。霊洗は率いる所領を以て来援し、其の徒力戦して石頭西門に於いてす。軍利あらず、使を遣わし招諭す。久しくして乃ち降る。高祖深く之を義とす。紹泰元年、使持節・信武将軍・蘭陵太守を授け、常侍は元の如し。京口を助防す。徐嗣徽を平ぐるに及び、霊洗功有り。南丹陽太守を除し、遂安県侯に封じ、邑を増やして前の一千五百戸とし、仍って採石を鎮す。

原文仍令靈洗率所部下揚州,助王僧辯鎮防。遷吳興太守,未行,僧辯命靈洗從侯瑱西援荊州。荊州陷,還都。高祖誅僧辯,靈洗率所領來援,其徒力戰於石頭西門,軍不利,遣使招諭,久之乃降,高祖深義之。紹泰元年,授使持節、信武將軍、蘭陵太守,常侍如故,助防京口。及平徐嗣徽,靈洗有功,除南丹陽太守,封遂安縣侯,增邑并前一千五百戶,仍鎮採石。

周文育に従い西討して王琳を討ち、沌口に於いて敗績し、琳に拘えらる。明年、侯安都等と逃れ帰る。丹陽尹を兼ね、出でて高唐・太原二郡太守と為り、仍って南陵を鎮す。太子左衛率に遷る。高祖崩ず。王琳の前軍東下す。霊洗、南陵に於いて之を破り、其の兵士を虜い、并せて青龍十余乗を獲る。功により持節・都督南豫州縁江諸軍事・信武将軍・南豫州刺史を授く。侯瑱等、柵口に於いて王琳を破る。霊洗乗勝して逐北し、魯山を拠る有り。徴さるるに左衛将軍と為り、余は元の如し。

原文隨周文育西討王琳,於沌口敗績,為琳所拘。明年,與侯安都等逃歸。兼丹陽尹,出為高唐、太原二郡太守,仍鎮南陵。遷太子左衛率。高祖崩,王琳前軍東下,靈洗於南陵破之,虜其兵士,并獲青龍十餘乘。以功授持節、都督南豫州緣江諸軍事、信武將軍、南豫州刺史。侯瑱等敗王琳于柵口,靈洗乘勝逐北,據有魯山。徵為左衛將軍,餘如故。

天嘉四年、周迪重ねて臨川に寇す。霊洗を以て都督と為し、鄱陽より別道を以て之を撃たしむ。迪また山谷の間に走る。五年、中護軍に遷り、常侍は元の如し。出でて使持節・都督郢巴武三州諸軍事・宣毅将軍・郢州刺史と為る。廃帝即位し、号を進めて雲麾将軍とす。

原文天嘉四年,周迪重寇臨川,以靈洗為都督,自鄱陽別道擊之,迪又走山谷間。五年,遷中護軍,常侍如故。出為使持節、都督郢巴武三州諸軍事、宣毅將軍、郢州刺史。廢帝即位,進號雲麾將軍。

華皎が反乱を起こしたとき、使者を遣わして程霊洗を招き誘ったが、霊洗は華皎の使者を斬り、その状況を上奏した。朝廷は深くその忠誠を嘉し、その守備を増強し、鼓吹一部を与え、心を推して彼を遇し、その子の文季に水軍を率いさせて防衛を助けさせた。この時、周(北周)はその将軍の長胡公拓跋定に歩兵・騎兵二万を率いさせて華皎を助け、霊洗を攻囲させた。霊洗は城に拠って堅く守った。華皎が退却すると、軍を出して拓跋定を追撃し、定は江を渡ることができず、その軍を率いて降伏した。そこで周の沔州を攻撃し、これを陥落させ、その刺史裴寛を生け捕りにした。功績により安西将軍に進号し、重安県公に改封され、封邑は以前より二千戸を加増された。

原文華皎之反也,遣使招誘靈洗,靈洗斬皎使,以狀聞。朝廷深嘉其忠,增其守備,給鼓吹一部,因推心待之,使其子文季領水軍助防。是時周遣其將長胡公拓跋定率步騎二萬助皎攻圍靈洗,靈洗嬰城固守。及皎退,乃出軍躡定,定不獲濟江,以其红降。因進攻周沔州,克之,擒其刺史裴寬。以功進號安西將軍,改封重安縣公,增邑赠前二千戶。

霊洗の性格は厳しくせっかちで、部下を統御することは甚だ厳しく、士卒に小さな罪があれば必ず軍法によって誅殺し、慌ただしい間にも、すぐに鞭打ちを加えたが、号令は分明で、士卒と苦楽を共にし、軍もまたこれによって彼に従った。性質は耕作を好み、自ら勤めて農耕に励み、水田・陸地それぞれに適した作物や、刈り取りの時期については、老農でさえ及ばないほどであった。伎妾に遊手好閑の者はおらず、紡績を監督させた。財産を使い散らすことについては、また吝嗇でもなかった。光大二年、州において卒去した。時に五十五歳。鎮西将軍・開府儀同三司を追贈され、諡は忠壮といった。太建四年、詔により高祖(陳霸先はせん)の廟庭に配享された。子の文季が後を嗣いだ。

原文靈洗性嚴急,御下甚苛刻,士卒有小罪,必以軍法誅之,造次之閒,便加捶撻,而號令分明,與士卒同甘苦,红亦以此依附。性好播植,躬勤耕稼,至於水陸所宜,刈穫早晚,雖老農不能及也。伎妾無游手,嵭督之紡績。至於散用貲財,亦弗儉吝。光大二年,卒於州,時年五十五。贈鎮西將軍、開府儀同三司,謚曰忠壯。太建四年,詔配享高祖廟庭。子文季嗣。

子 文季

原文子 文季

文季は字を少卿という。幼少より騎射を習い、多くの才幹と謀略を持ち、果断にして父の風があった。弱冠にして霊洗に従って征討し、必ず先頭に立って敵陣に突入した。霊洗が周文育・侯安都らと沌口で敗れ、王琳に捕らえられた時、高祖(陳霸先)は賊に陥った諸将の子弟を召し出して厚く遇したが、文季は最も礼儀正しい様子で、深く高祖に賞賛された。永定年間、累遷して通直散騎侍郎・句容令となった。

原文文季字少卿。幼習騎射,多幹略,果決有父風。弱冠從靈洗征討,必前登陷陣。靈洗與周文育、侯安都等敗於沌口,為王琳所執,高祖召陷賊諸將子弟厚遇之,文季最有禮容,深為高祖所賞。永定中,累遷通直散騎侍郎、句容令。

世祖(陳蒨ちんせん)が即位すると、宣恵始興王府限内中直兵参軍に任じられた。この時、王(陳伯茂)は揚州刺史として冶城に鎮していたが、府中の軍事は全て彼に委ねられた。

原文世祖嗣位,除宣惠始興王府限內中直兵參軍。是時王為揚州刺史,鎮冶城,府中軍事,悉以委之。

天嘉二年、貞毅将軍・新安太守に任じられ、引き続き侯安都に従って東の留異を討った。留異の与党の向文政が新安を占拠していたので、文季は精鋭三百を率いて軽装で攻撃に向かった。文政はその兄の子の瓚を遣わして防がせたが、文季はこれと戦い、瓚軍を大破し、文政は降伏した。

原文天嘉二年,除貞毅將軍、新安太守,仍隨侯安都東討留異。異黨向文政據有新安,文季率精甲三百,輕往攻之。文政遣其兄子瓚來拒,文季與戰,大破瓚軍,文政乃降。

三年、始興王陳伯茂が東州に出鎮すると、再び文季を鎮東府中兵参軍とし、剡令を兼ねさせた。

原文三年,始興王伯茂出鎮東州,復以文季為鎮東府中兵參軍,帶剡令。

四年、陳宝応が留異と結びつき、また兵を遣わして周迪に従い再び臨川に出ると、世祖は信義太守余孝頃に海路から晋安を襲撃させ、文季はその前軍となり、向かうところ勝利した。陳宝応が平定されると、文季の戦功が最も多かった。帰還後、府諮議参軍に転じ、中直兵を領した。出向して臨海太守となった。まもなく金翅船に乗って父を助け郢城を鎮守した。華皎が平定されると、霊洗と文季はともに防衛の功績があった。霊洗が卒去すると、文季はその軍を全て率い、超武将軍に起用され、引き続き郢州の防衛を助けた。文季は性、至孝であり、軍務のため礼を奪われたが、憔悴やつれは甚だしかった。

原文四年,陳寶應與留異連結,又遣兵隨周迪更出臨川,世祖遣信義太守余孝頃自海道襲晉安,文季為之前軍,所向克捷。陳寶應平,文季戰功居多,還,轉府諮議參軍,領中直兵。出為臨海太守。尋乘金翅助父鎮郢城。華皎平,靈洗及文季嵭有扞禦之功。及靈洗卒,文季盡領其红,起為超武將軍,仍助防郢州。文季性至孝,雖軍旅奪禮,而毀瘠甚至。

太建二年、豫章内史となり、将軍の号は元のままだった。喪が明けると、重安県公の封爵を襲封した。都督章昭達に従って軍を率いて荊州に赴き、蕭巋を征討した。蕭巋は周軍と共に多くの舟艦を造り、青泥水中に置いていた。当時、水かさが増して流れが速かったので、昭達は文季と銭道戢に軽舟で襲撃させ、その舟艦を全て焼き払った。昭達は蕭巋らの兵がやや怠っているのを見て、また文季に夜間にその外城に入らせ、多くの殺傷を加えた。まもなく周兵が大挙して出撃し、巴陵内史雷道勤が防戦して戦死し、文季はただ一身でかろうじて逃れた。功績により通直散騎常侍・安遠将軍を加えられ、封邑五百戸を加増された。

原文太建二年,為豫章內史,將軍如故。服闋,襲封重安縣公。隨都督章昭達率軍往荊州征蕭巋。巋與周軍多造舟艦,置于青泥水中。時水長漂疾,昭達乃遣文季共錢道戢輕舟襲之,盡焚其舟艦。昭達因蕭巋等兵稍怠,又遣文季夜入其外城,殺傷甚红。既而周兵大出,巴陵內史雷道勤拒戰死之,文季僅以身免。以功加通直散騎常侍、安遠將軍,增邑五百戶。

五年、都督呉明徹が北の秦郡を討つと、秦郡の前の江浦は涂水に通じており、斉(北斉)人は皆、大柱を水中に打ち込んで柵としていた。そこで先に文季に驍勇の兵を率いさせてその柵を引き抜かせ、明徹は大軍を率いて後から到着し、秦郡を攻撃して陥落させた。また別に文季に涇州を包囲させ、その城を屠り、盱眙を攻撃して陥落させた。引き続き明徹に従って寿陽を包囲した。

原文五年,都督吳明徹北討秦郡,秦郡前江浦通(塗)[涂]水,齊人嵭下大柱為杙,柵水中,乃前遣文季領驍勇拔開其柵,明徹率大軍自後而至,攻秦郡克之。又別遣文季圍涇州,屠其城,進攻盱眙,拔之。仍隨明徹圍壽陽。

文季は事に臨んで謹厳でせっかち、部下を統御することは厳格で整然としており、前後にわたって陥落させた城砦では、概ね水を堰き止めて堤防を築き、土木工事の規模は動かすこと数万に及んだ。陣営を設けて人夫を使役する際には、文季は必ず諸将に先んじ、夜は早く起き、日暮れまで休まず、軍中でその勤勉さに服さない者はなかった。戦うたびに常に前鋒となり、斉軍は深く彼を恐れ、程獣と呼んだ。功績により散騎常侍・明威将軍に任じられ、封邑五百戸を加増された。また新安内史を兼ね、武毅将軍に進号した。

原文文季臨事謹急,御下嚴整,前後所克城壘,率皆迮水為堰,土木之功,動踰數萬。每置陣役人,文季必先諸將,夜則早起,迄暮不休,軍中莫不服其勤幹。每戰恆為前鋒,齊軍深憚之,謂為程獸。以功除散騎常侍、明威將軍,增邑五百戶。又帶新安內史,進號武毅將軍。

八年、持節・都督譙州諸軍事・安遠将軍・譙州刺史となった。その年、さらに北徐仁州諸軍事・北徐州刺史を都督し、その他の官職は元のままだった。九年、再び明徹に従って北討し、呂梁に堰を築いた。事績は明徹伝に見える。十年春、敗北し、周に囚われ、開府儀同三司に任じられた。十一年、周から逃げ帰り、渦陽に至ったが、辺境の官吏に捕らえられ、長安に送還され、獄中で死去した。後主(陳叔宝しゅくほう)は当時すでに周と断交していたため、このことを知らなかった。至徳元年、後主は初めてこれを知り、散騎常侍を追贈した。まもなくまた詔して言うには、「故散騎常侍・前重安県開国公文季は、門閥の系譜を継承し、よく家の名声を担った。早くから軍旅に出て、元帥ではなかったが、先鋒として最も功績があり、果敢さで知られていた。しかし軍勢を失い敗北したため、当然ながら官爵を削られた。しかし霊洗が防衛の功績を立てたことは、久しく思い慕われており、文季が異境に魂を埋めたことは、まことに哀れむべきである。労苦を積んだ旧臣を思うにつけ、このように廃絶することを悲しむ。廟食を存続させるべきであり、餓えさせてはならない。重安県侯に降封し、邑一千戸とし、子の饗に襲封させよ」。

原文八年,為持節、都督譙州諸軍事、安遠將軍、譙州刺史。其年,又督北徐仁州諸軍事、北徐州刺史,餘嵭如故。九年,又隨明徹北討,於呂梁作堰,事見明徹傳。十年春,敗績,為周所囚,仍授開府儀同三司。十一年,自周逃歸,至渦陽,為邊吏所執,還送長安,死于獄中。後主是時既與周絕,不之知也。至德元年,後主始知之,追贈散騎常侍。尋又詔曰:「故散騎常侍、前重安縣開國公文季,纂承門緒,克荷家聲。早歲出軍,雖非元帥,啟行為最,致果有聞,而覆喪車徒,允從黜削。但靈洗之立功扞禦,久而見思,文季之埋魂異域,有足可憫。言念勞舊,傷茲廢絕,宜存廟食,無使餧而。可降封重安縣侯,邑一千戶,以子饗襲封。」

【論】

原文【論】

史臣が言う。程霊洗父子はともに部下を統御すること厳しく、兵を治めること整然としていたが、軍とその労苦を共にし、私的に財利を貪らず、士卒は多くこれに依拠した。ゆえに戦場に臨んで勝利を収めることができたのである。

原文史臣曰:程靈洗父子嵭御下嚴苛,治兵整肅,然與红同其勞苦,匪私財利,士多依焉,故臨戎克辦矣。