陳書
巻九 列伝第三 侯瑱 歐陽頠 吳明徹 裴子烈
侯瑱
侯瑱は 字 を伯玉といい、巴西郡充国の人である。父の弘遠は、代々西蜀の酋豪であった。蜀の賊徒張文萼が白崖山を占拠し、一万の兵を有すると、梁の益州 刺史 鄱陽王蕭範は弘遠に討伐を命じた。弘遠は戦死し、瑱は固く復讐を請い、毎戦必ず先鋒として敵陣に突入し、ついに文萼を斬り、これによって名を知られるようになった。範に仕え、範は将帥の任を委ね、山谷の夷獠で帰順しない者があれば、常に瑱を派遣して征討させた。功を重ねて軽車府中兵参軍・ 晋 康太守に任じられた。範が雍州刺史となると、瑱は超武将軍・馮翊太守に任じられた。範が合肥に鎮を移すと、瑱はまたこれに従った。
侯景 が台城を包囲すると、範は瑱を派遣してその世子の嗣を補佐させ、入京して救援させた。京城が陥落すると、瑱は嗣とともに合肥に退き、引き続き範に従って湓城に鎮を移した。まもなく範と嗣がともに死去すると、瑱はその兵を率い、 豫 章太守莊鐵に身を寄せた。鐵はこれを疑い、瑱は不安を感じ、謀事を相談すると偽って鐵を呼び出し、その刃にかけて殺し、 豫 章の地を占拠した。
侯景の将軍于慶が南方に攻略して 豫 章に至り、城邑はすべて陥落し、瑱は窮地に陥り、ついに慶に降伏した。慶は瑱を景のもとに送ると、景は瑱が自分と同姓であることを理由に、宗族と称して厚く待遇し、その妻子と弟を人質として留めた。瑱を慶に従わせて蠡南の諸郡を平定させた。
景が巴陵で敗れると、景の将軍宋子仙・任約らはすべて西軍に捕らえられ、瑱は景の与党を誅殺して義軍に応じた。景もまたその弟と妻子をことごとく誅殺した。梁の元帝は瑱を武臣将軍・南兗州刺史、郫県侯に任じ、邑一千戸を与えた。引き続き 都督 王僧辯に従って侯景を討ち、常に前鋒となり、毎戦敵を撃破した。台城を回復すると、景は呉郡に奔り、僧辯は瑱に兵を率いて追撃させ、景と呉松江で戦い、景を大破し、その軍需物資をことごとく鹵獲した。進軍して銭塘に至ると、景の将軍謝答仁・呂子栄らは皆降伏した。功により南 豫 州刺史に任じられ、姑熟に鎮した。
承聖二年、斉が郭元建を濡須から出撃させると、僧辯は瑱に甲士三千を率いさせ、東関に堡塁を築いて防がせ、元建を大破した。使持節・鎮北将軍に任じられ、鼓吹一部を与えられ、邑二千戸を加増された。
西魏が荊州を侵すと、王僧辯は瑱を前軍として救援に赴かせたが、到着しないうちに荊州は陥落した。瑱は九江に至り、晋安王を奉じて都に還った。承制により瑱は侍中・使持節・ 都督 江晋呉斉四州諸軍事・江州刺史に任じられ、康楽県公に改封され、邑五千戸を与えられ、車騎将軍の号を加えられた。 司徒 陸法和が郢州を占拠し、斉兵を引き入れて侵攻してきたので、瑱を 都督 として諸軍を率いさせ西討させた。到着しないうちに、法和はその部衆を率いて北へ渡り斉に入った。斉は慕容恃徳を夏首に鎮させた。瑱は兵を引き返し、水陸からこれを攻撃し、恃徳は食糧が尽きて和を請うた。瑱は 豫 章に還って鎮した。
僧辯はその弟の僧愔に兵を率いさせて瑱とともに 蕭勃 を討たせた。 高祖 が僧辯を誅殺すると、僧愔はひそかに瑱を謀ってその軍を奪おうとした。瑱はこれを察知し、僧愔の徒党をことごとく捕らえ、僧愔は斉に奔った。
紹泰二年、本官のまま開府儀同三司を加えられ、その他の官爵はもとの通りであった。この時、瑱は長江中流を占拠し、兵は非常に強盛であり、またもともと王僧辯に仕えていたため、表面上は臣下の礼を示していたが、入朝する意思はなかった。初め、余孝頃が 豫 章太守であったが、瑱が 豫 章に鎮すると、新呉県に別に城柵を築き、瑱と対峙した。瑱は軍人の妻子を 豫 章に留め、従弟の奫に後事を任せ、全軍を率いて孝頃を攻撃した。夏から冬にかけても攻略できず、長く包囲して守り、その穀物をことごとく収穫した。奫はその部下の俟方児と不和となり、方児は怒って配下の兵を率いて奫を攻撃し、瑱の軍府の妓妾や金玉を略奪し、高祖のもとに帰った。瑱は根本の地を失い、兵はすべて潰走し、軽装で 豫 章に帰還しようとしたが、 豫 章の住民はこれを拒絶した。そこで湓城に急行し、その将軍焦僧度に身を寄せた。僧度は瑱に斉に投降するよう勧めたが、瑱は高祖に度量があるから、必ず自分を許すだろうと考え、宮廷に赴いて罪を請うた。高祖はその爵位を回復させた。
永定元年、侍中・車騎将軍に任じられた。二年、 司空 に進んだ。王琳が沌口に至り、 周文育 ・ 侯安都 がともに戦没すると、瑱を 都督 西討諸軍事に任じた。瑱は梁山に至った。世祖が即位すると、 太尉 に進み、邑千戸を加増された。王琳が柵口に至ると、また瑱を 都督 とし、侯安都らはみなその指揮下に属した。瑱と琳は百余日相持し、決着がつかなかった。天嘉元年二月、東関の春の水かさがやや増し、舟艦が通行できるようになると、琳は合肥・漅湖の兵を引き入れ、艦船を連ねて下り、その勢いは甚だ盛んであった。瑱は軍を率いて獣檻洲に進み、琳もまた船を出して長江西岸に列をなし、洲を隔てて停泊した。翌日合戦し、琳の軍は少し劣勢となり、西岸に退いて守った。夕方になると、東北風が激しく吹き、その舟艦を吹き、舟艦はすべて破損し、砂中に沈没し、溺死者は数十百人に及んだ。波が大きく浦に還ることができず、夜中にはまた流星が賊の陣営に墜ちた。夜明けに風が静まると、琳は浦に入って船を修理し、荻船で浦口を塞ぎ、また鹿角で岸を巡らせ、再び出撃しようとはしなかった。この時、西魏が大将軍史寧を派遣して上流を脅かした。瑱はこれを聞き、琳が長く持ちこたえられないと知り、軍を収めて湖浦を固守し、その疲弊を待った。史寧が到着して郢州を包囲すると、琳は兵が潰走することを恐れ、船艦を率いて下り、蕪湖から十里の所に停泊し、木柝の音が軍中に聞こえた。翌日、斉人が数万の兵を派遣して琳を助け、琳は兵を率いて梁山に向かい、官軍を越えて険要の地に駐屯しようとした。斉の儀同劉伯球が兵一万余りを率いて琳の水戦を助け、行臺慕容恃徳の子の子会が鉄騎二千を率い、蕪湖西岸の博望山の南に陣取り、その威勢を示した。瑱は軍中に命じて朝食を早く炊き、寝床で食事をとらせ、分かれて蕪湖洲尾に陣を敷いてこれを待った。戦おうとする時、微風が東南から吹いてきたので、諸軍は拍竿を動かして火を放った。定州刺史 章昭達 が平虜大艦に乗り、長江の中流を進み、拍竿を発射して賊艦に命中させた。その他の冒突・青龍などの艦もそれぞれ相対した。また牛皮で蒙衝小船を覆い、賊艦に衝突させ、溶かした鉄をかけた。琳の軍は大敗した。西岸にいた歩兵は、互いに踏みつけ合い、騎兵はみな蘆荻の泥沼に沈み、馬が脱走して助かった者は十のうち二三であった。その舟艦・器械をことごとく鹵獲し、斉の将軍劉伯球・慕容子会を生け捕りにし、その他の捕虜や斬首は万を数えた。琳はその与党の潘純陀らとともに単舴艋に乗り、敵陣を突破して湓城に逃げ至り、なお離散した兵を収集しようとしたが、付き従う兵はなく、ついに妻妾と側近十余人とともに斉に入った。
その年、 詔 により瑱を 都督 湘巴郢江呉等五州諸軍事とし、湓城に鎮させた。周の将軍賀若敦・獨孤盛らが巴・湘を侵すと、また瑱を西討 都督 とし、盛と西江口で戦い、盛の軍を大破し、その人馬・器械を鹵獲し、数えきれなかった。功により使持節・ 都督 湘桂郢巴武沅六州諸軍事・湘州刺史に任じられ、零陵郡公に改封され、邑七千戸を与えられ、その他の官爵はもとの通りであった。二年、病気のため上表して朝廷に還ることを求めた。三月、道中で 薨 去 した。時に五十二歳。侍中・驃騎大将軍・大司馬を追贈され、羽葆・鼓吹・班剣二十人を加えられ、東園の秘器を与えられ、諡して壮肅といった。その年九月、高祖の廟庭に配享された。子の淨藏が後を嗣いだ。
淨藏は世祖の第二女富陽公主を娶り、公主の縁故により員外散騎侍郎に任じられた。太建三年に卒し、 司徒 主簿を追贈された。淨藏には子がなく、弟の就が封を襲いだ。
歐陽頠
歐陽頠、字は靖世、長沙郡臨湘県の人である。郡の豪族であった。祖父の景達は、梁の代に本州の治中となった。父の僧寶は、屯騎 校尉 であった。
頠は若い頃より質朴で正直であり思慮分別があり、言行が篤実で誠実であることで嶺表に聞こえていた。父の喪に服し、憔悴やつれて極めて甚だしかった。家産を累積したが、すべて諸兄に譲った。州郡が頻繁に辟召したが応じず、麓山寺の傍らに廬を結び、専心学業に励み、経史に広く通じた。三十歳の時、その兄が仕官するよう強いて命じたため、信武府中兵参軍として初めて官に就き、平西邵陵王中兵参軍事に遷った。
梁の左纫将軍蘭欽が若い頃、頠と親しくしたので、頠は常に欽に従って征討した。欽が衡州刺史となると、そのまま清遠太守に任じられた。欽が南方の夷獠を征討し、陳文徹を擒らえ、獲たものは数え切れず、大銅鼓を献上したが、これは累代なかったもので、頠はその功に与った。還って直閤将軍となり、そのまま天門太守に任じられ、蛮左を討伐して功績があった。刺史の廬陵王蕭続は深くこれを嘉し、賓客として招いた。欽が交州を征討する際、また頠を同行させるよう上奏した。欽が嶺を越える途中で病没すると、頠は臨賀内史に任じられたが、欽の喪を都に送り届けてから任地に赴くことを請うた。当時、湘州と衡州の境界に五十余りの洞が従わず、朝廷は衡州刺史の韋粲にこれを討たせた。粲は頠を 都督 に任じてこれを全て平定殲滅させた。粲は梁の武帝に上奏し、頠の誠実で有能なことを称え、詔を下して褒賞を与え、そのまま超武将軍を加えられ、広州・衡州の二州の山賊を征討した。
侯景が乱を起こすと、粲は自ら職を解いて都に戻り侯景を討とうとし、頠に衡州を監させた。京城が陥落した後、嶺南では互いに併呑し合い、蘭欽の弟で前高州刺史の裕が始興内史の蕭紹基を攻め、その郡を奪った。裕は兄の欽が頠と旧交があったので、使者を遣わして招いたが、頠は従わなかった。そして使者に言うには、「高州の御兄弟は高位顕職にあるが、これらは皆国の恩によるものである。今は難に赴き都を救援すべきであり、どうして自ら跋扈することができようか」と。高祖( 陳霸先 )が京邑を救援するため入り、始興に至ろうとした時、頠は深く高祖に結び付いた。裕が兵を遣わして頠を攻めると、高祖がこれを救援し、裕は敗れた。高祖は王懐明を衡州刺史とし、頠を始興内史に遷した。高祖が蔡路養と李遷仕を討った時、頠は兵を率いて嶺を越え、高祖を助けた。路養らが平定されると、頠は功績があり、梁の元帝は承制により始興郡を東衡州とし、頠を持節・通直 散騎常侍 ・ 都督 東衡州諸軍事・雲麾将軍・東衡州刺史・新豊県伯に任じ、邑四百戸を与えた。
侯景が平定されると、元帝は朝廷の大臣たちに広く尋ねた。「今天下がようやく定まったが、極めて良才を必要とする。卿らはそれぞれ知る者を推挙せよ」。群臣は答える者がいなかった。帝は言った。「私はすでに一人を得た」。侍中の王讣が進み出て言った。「誰であるか存じ上げません」。帝は言った。「歐陽頠は公正で国家を匡救する才能があるが、蕭広州(蕭勃)が彼を送り出さないことを恐れる」。そこで武州刺史に任じ、まもなく郢州刺史に任じ、嶺南から出させることを望んだが、蕭勃が引き留めたため、任命を受けることができなかった。まもなく使持節・ 散騎常侍 ・ 都督 衡州諸軍事・忠武将軍・衡州刺史に任じられ、始興県侯に進封された。
当時、蕭勃は広州におり、兵は強く地位は重かった。元帝はこれを深く憂い、王琳を遣わして刺史に代えさせた。琳がすでに小桂嶺に至ると、勃はその将の孫瑒を遣わして州を監させ、配下を全て率いて始興に至り、琳の兵鋒を避けた。頠は別に一城を占拠し、勃のもとへ謁見に行かず、門を閉ざし塁を高くして、また戦いも拒まなかった。勃は怒り、兵を遣わして頠を襲撃し、その財貨・馬・兵器を全て収奪した。まもなくこれを赦し、元の地位に戻し、また盟を結んだ。荊州が陥落すると、頠は蕭勃に臣従した。勃が嶺を越えて南康に出ると、頠を前軍 都督 とし、 豫 章の苦竹灘に駐屯させたが、周文育に撃破され、捕らえられて高祖のもとに送られた。高祖は彼を釈放し、深く手厚くもてなした。蕭勃の死後、嶺南は混乱した。頠は南方に名声があり、かつ高祖と旧交があったので、頠を使持節・通直 散騎常侍 ・ 都督 衡州諸軍事・安南将軍・衡州刺史・始興県侯に任じた。嶺南に至る前に、頠の子の紇がすでに始興を平定していた。頠が嶺南に至ると、皆恐れ服し、そのまま広州に進み、越の地を全て有した。 都督 広交越成定明新高合羅愛建徳宜黄利安石双十九州諸軍事・鎮南将軍・平越中郎将・広州刺史に改めて任じられ、持節・常侍・侯は全て元の通りであった。王琳が長江中流を占拠すると、頠は海路および東嶺から使者を奉じて絶えることがなかった。永定三年、 散騎常侍 に進み、 都督 衡州諸軍事を増やされ、即座に本官の号のまま開府儀同三司となった。世祖が即位すると、征南将軍に進号し、陽山郡公に改封され、邑一千五百戸を与えられ、また鼓吹一部を賜った。
初め、交州刺史の袁曇緩が密かに金五百両を頠に預け、百両を合浦太守の龔蒍に返し、四百両を子の智矩に渡すよう頼んだが、他の者はこれを知らなかった。頠はまもなく蕭勃に破られ、財産は尽きてしまったが、預かっていた金だけは残っていた。曇緩もまもなく亡くなったが、この時になって頠は依頼された通りに全て返した。当時の人々は皆嘆服した。彼が約束を重んじることはこのようなものであった。
当時、頠の弟の盛は交州刺史、次弟の邃は衡州刺史であり、一家門は顕貴となり、名声は南方に響き渡った。また多く銅鼓や生口(奴隷)を手に入れ、珍しい宝物を献上し、前後して蓄積されたものは、軍国に大いに役立った。頠は天嘉四年に薨去した。時に六十六歳であった。侍中・車騎大将軍・ 司空 ・広州刺史を追贈され、諡を穆といった。子の紇が嗣いだ。
子 紇
紇は字を奉聖といい、頗る才幹と謀略があった。天嘉年間、黄門侍郎・員外 散騎常侍 に任じられた。累進して安遠将軍・衡州刺史となった。陽山郡公の封を襲ぎ、交州広州など十九州諸軍事・広州刺史を 都督 した。州に十余年在任し、威徳は百越に著しく、軽車将軍に進号した。
光大年間、上流の藩鎮は多く二心を抱いていた。高宗( 陳頊 )は紇が長く南方にいたため、頗る疑った。太建元年、詔を下して紇を左纫将軍に徴した。紇は恐れ、徴に応じようとせず、その部下の多くが反逆を勧めたため、ついに兵を挙げて衡州刺史の銭道戢を攻めた。道戢が変事を報告したので、儀同の章昭達を遣わして紇を討たせた。紇は屡々戦って兵は敗れ、捕らえられて京師に送られ、誅殺された。時に三十三歳であった。家族は籍没された。子の詢は幼かったため免じられた。
呉明徹
呉明徹、字は通昭、秦郡の人である。祖父の景安は、斉の南譙太守であった。父の樹は、梁の右軍将軍であった。明徹は幼くして孤となり、性質は至孝で、十四歳の時、墳墓が整っていないことを悲しみ、家が貧しく費用を調達する術がなかったので、勤めて耕作に励んだ。当時、天下は大旱魃で、苗や作物は枯れ焦げ、明徹は哀しみ憤り、毎日田の中に行っては号泣し、天を仰いで訴えた。数日経って、田から帰って来た者が、苗がもう生え変わったと言った。明徹は疑い、自分を騙していると思ったが、田に行ってみると、果たしてその言葉の通りであった。秋になって大いに収穫があり、葬儀の費用に十分であった。当時、伊という者がおり、墓相を見るのが上手で、その兄に言った。「あなたが葬る日、必ず白馬に乗り鹿を追う者が来て墳墓の所を通り過ぎるでしょう。これは最も幼い孝子が大いに貴くなる兆しです」。その時になって果たしてこの応があり、明徹こそが樹の最も幼い子であった。
梁の東宮直後として初めて官に就いた。侯景が京師を侵犯し、天下が大乱となると、明徹は粟と麦を三千余斛持っていたが、郷里が飢えていたので、諸兄に申し出て言った。「当今は草賊が跋扈し、人々は長く生きることを図っていません。どうしてこれを持っていながら郷里の人々と共にしないことがありましょうか」。そこで人口を数えて平等に分け、豊かさと貧しさを共にした。群盗はこれを聞いて避け、これによって生き延びた者は非常に多かった。
高祖が京口を鎮守するに及んで、深く結びつきを求められ、明徹は高祖のもとに赴いた。高祖は彼のために階を降り、手を執って席に就き、当世の要務について論じた。明徹もまた書史経伝に少し通じ、汝南の周弘正に就いて天文・孤虚・遁甲を学び、その妙をほぼ理解し、大いに英雄を自任したので、高祖は深く彼を奇異の才と認めた。
承聖三年、戎昭将軍・安州刺史を授けられた。紹泰初年、周文育に従って杜龕・張彪らを討った。東道が平定されると、使持節・ 散騎常侍 ・安東将軍・南兗州刺史を授けられ、安呉県侯に封ぜられた。高祖が禅譲を受けると、安南将軍に任ぜられ、引き続き侯安都・周文育とともに兵を率いて王琳を討った。王琳の軍が敗れて壊滅すると、明徹は自ら脱出して京に帰還した。世祖が即位すると、詔により本官のまま右衛将軍を加えられた。王琳が敗れると、 都督 武沅二州諸軍事・安西将軍・武州刺史を授けられ、その他の官爵はもとのままとした。周が大将軍賀若敦に馬歩一万余を率いさせて武陵に急襲してくると、明徹は寡兵で敵せず、軍を巴陵に引き、引き続き周の別軍を双林で撃破した。
天嘉三年、安西将軍を授けられた。周迪が臨川で反乱を起こすと、詔により明徹を安南将軍・江州刺史とし、 豫 章太守を兼任させ、諸軍を総督して周迪を討伐させた。明徹は生来剛直な性格で、統轄内はあまり和せず、世祖はこれを聞き、安成王陳頊を遣わして明徹を慰諭し、本官のまま朝廷に帰還するよう命じた。まもなく鎮前将軍を授けられた。
五年、鎮東将軍・呉興太守に転じた。辞去して任地に向かう際、世祖は明徹に言った、「呉興は郡ではあるが、帝郷として重きをなす。故にお前に任ずる。君、努めよ」と。世祖が病に伏すと、中領軍に任ぜられて召還された。
廃帝 が即位すると、領軍将軍を授けられ、まもなく丹陽尹に転じ、引き続き詔により明徹は武装兵四十人を従えて殿省に出入りすることを許された。到仲挙が高宗を出そうと偽令を発した時、毛喜はその謀を知り、高宗は疑惧して、喜を明徹のもとに遣わして策を練らせた。明徹は喜に言った、「嗣君は喪中にあり、万機多く欠け、外には強敵があり、内には大喪がある。殿下は親族として周・邵のごとき実力を持ち、徳は伊尹・霍光に冠たり。社稷は最も重し。願わくは宮中に留まり深く計らい、慎んで疑念を抱かざるよう」。
湘州刺史華皎がひそかに異心を抱くと、詔により明徹に使持節・ 散騎常侍 ・ 都督 湘桂武三州諸軍事・安南将軍・湘州刺史を授け、鼓吹一部を与え、引き続き征南大将軍 淳于量 らとともに兵を率いて華皎を討伐させた。華皎が平定されると、開府儀同三司を授けられ、爵位を公に進めた。太建元年、鎮南将軍を授けられた。四年、侍中・鎮前将軍として召還され、その他の官爵はもとのままとした。
朝廷で北伐が議せられ、公卿の間に異同があったが、明徹は決断して自ら行くことを請うた。五年、詔により侍中・ 都督 征討諸軍事を加えられ、引き続き女楽一部を賜った。明徹は十余万の諸軍を総統し、京師を発し、長江沿いの城鎮は相次いで降伏した。軍が秦郡に至り、その水柵を攻略した。斉は大将尉破胡に兵を率いさせて援軍としたが、明徹はこれを撃破して敗走させ、斬獲は数え切れず、秦郡はついに降伏した。高宗は秦郡が明徹の旧邑であることから、詔して太牢を整えさせ、祠を拝して祖先に報告させた。文武の儀仗は非常に盛大で、郷里はこれを栄誉とした。
進んで仁州を攻略し、征北大将軍を授けられ、爵位を南平郡公に進め、封邑を前の二千五百戸に増やした。次いで峡石岸の二城を平定した。寿陽に進撃して迫ると、斉は王琳に兵を率いさせて防がせた。王琳が到着し、刺史王貴顕とともにその外郭を守った。明徹は王琳が到着したばかりで、衆心がまだ帰附していないと見て、夜を乗じて攻撃し、夜半にこれを潰走させた。斉兵は相国城と金城に退いて拠った。明徹は軍中に命じて攻具をさらに整備修繕させ、また肥水を堰き止めて城に灌水した。城中は湿気に苦しみ、多くは腹の病にかかり、手足はみな腫れ上がり、死者は十のうち六、七に及んだ。ちょうど斉が大将軍皮景和に数十万の兵を率いさせて来援し、寿春から三十里のところで軍を駐めて進まなかった。諸将は皆言った、「堅城は未だ陥ちず、大援が近くにある。明公の計略がどう出されるか分からない」。明徹は言った、「兵は速やかなるを貴ぶ。彼らは営を結んで進まず、自らその鋒を挫いている。我は彼らが敢えて戦わぬことを明らかに知る」。そこで自ら甲冑を着け、四方から急攻し、城中は震え恐れ、一鼓の下にこれを攻略した。王琳・王貴顕・扶風王可朱渾孝裕・ 尚書 盧潜・左丞李騊駼を生け捕りにして京師に送った。皮景和は恐れ慌てて遁走し、その駱駝・馬・輜重をことごとく収めた。王琳が捕らえられた時、その旧部曲の多くが軍中にいた。王琳は平素より士卒の心を得ていたので、見る者はみな嘆息して顔を上げられなかった。明徹は変事があることを慮り、側近を遣わして王琳を追い殺し、その首を伝送させた。詔して言った、「寿春は古の都会にして、淮・汝を襟帯し、河・洛を控引す。これを得る者は安んじ、要害と称せられる。侍中・使持節・ 都督 征討諸軍事・征北大将軍・開府儀同三司南平郡開国公明徹は、雄図を挙げ、宏略は世を蓋う。昔、艱難の時にあって皇業を締構し、衡山・岳陽を掩い、もって妖気を清め、実に雲夢を呑み、即ち上流に臨む。今茲に蕩定し、我が王略を恢め、風の行く如く電の掃く如く、貔武は馳せ争い、月陣雲梯、金湯の険を奪い、威は殊俗を陵ぎ、恵は辺氓に漸く。功と能とを惟み、元戎はこれに属す。崇き麾、広き賦、茂なる典は常に宜しきべし。 都督 豫 合建光朔北徐六州諸軍事・車騎大将軍・ 豫 州刺史とし、封邑を前の三千五百戸に増やし、その他はもとのままとすることを可とする」。詔して謁者蕭淳風を遣わし、寿陽において明徹に冊命を行わせた。城南に壇を設け、士卒二十万、旗鼓戈甲を陳列し、明徹は壇に登り拝受し、礼を成して退いた。将卒はみな躍り上がらぬ者はなかった。
初め、秦郡は南兗州に属し、後に譙州に隷属したが、この時、明徹のためであるとして、詔して譙州の秦・盱眙・神農の三郡を南兗州に還属させた。
六年、寿陽より朝廷に入り、車駕はその邸に臨幸し、鍾磬一部、米一万斛、絹布二千匹を賜った。
七年、彭城を攻撃した。軍が呂梁に至ると、斉は援兵を前後数万送り届けたが、明徹はまたこれを大破した。八年、 司空 に進位し、その他の官爵はもとのままとした。また詔して言った、「昔、軍事においては旌を建て、交鋒に当たっては鼓を作した。近ごろは訛り替わり、多く旧章に背く。行陣に至っては、互いに区別しない。今、 司空 ・大 都督 に鈇鉞龍麾を与えることを可とし、その次将にはそれぞれ差等を設ける」。まもなく 都督 南北兗南北青譙五州諸軍事・南兗州刺史を授けられた。
時に周が斉を滅ぼすと、高宗は徐・兗の地を征討せんとし、太建九年、詔して明徹に進軍して北伐せしめ、その世子の戎昭将軍・員外散騎侍郎の恵覚に州事を行わせた。明徹の軍は呂梁に至り、周の徐州総管梁士彦が衆を率いて防戦したが、明徹はしばしばこれを破り、士彦は退いて城を守り、再び敢えて出撃しなかった。明徹は引き続き清水を堰き止めてその城に灌漑し、舟艦を城下に環列して、攻撃を甚だ急にした。周は上大将軍王軌に兵を率いてこれを救援させた。軌は軽装で清水より淮口に入り、流れを横断して木を立て、鉄鎖で車輪を貫き、船路を遮断した。諸将はこれを聞き、甚だ惶恐し、堰を破って軍を引き抜き、舫に馬を載せて退こうと議した。馬主の裴子烈が議して言うには、「もし堰を決壊して船を下せば、船は必ず傾倒し、どうして渡ることができようか。前もって馬を出遣する方が、事において妥当である」と。丁度明徹が背中の病に苦しみ甚だ篤く、事の成就せぬを知り、遂にこれに従い、蕭摩訶に馬軍数千を率いて先に還らせた。明徹は自らその堰を決壊し、水勢に乗じて退軍し、渡河できることを冀った。清口に至ると、水勢は次第に微かになり、舟艦は渡ることができず、衆軍は皆潰走し、明徹は窮迫し、捕らえられた。間もなく憂憤して病に罹り、長安にて卒した。時に年六十七。
至徳元年、詔して曰く。
李陵は矢尽きて、降伏を請うことを免れず、于禁は水漲ぎて、なお生け捕りにされた。固より用兵の上術は、世にその人稀なるを知る。故侍中・ 司空 南平郡公明徹は、初め足を踏み入れ、元戎に至るまで、百戦百勝の奇、機を決し死を決するの勇、これまた古に等しい。淮・肥を拓定し、彭・汴に長駆し、強寇を覆すこと毛を挙ぐるが如く、鋭師を掃うこと雪を沃ぐるに同じ。風威は異俗に慴き、功績は同文に著しい。方や陰山に駕を息め、澣海に鞍を解かんとし、既にして師出づること已に老い、数も亦終に奇なり。結纓の功を就けず、入褚の屈辱に辞せず、封崤を望むこと易きを為し、平翟を冀うこと難からざるを期す。志は屈伸に在りと雖も、奄かに霜露に中り、恨みを絶域に埋め、甚だ嗟傷すべきなり。この事は已に往き、累ねて肆赦に逢うも、凡そその罪戾は、皆洒濯を蒙る。独りこの孤魂、未だ寛恵に霑わず、遂に爵土を湮没せしめ、饗醊に主無からしむ。瑕を録用するは、宜しく茲辰に在るべし。追封して邵陵県開国侯とし、食邑一千戸とすべし。その息恵覚を以て嗣と為せ。
恵覚は黄門侍郎を歴任し、章大宝を平定した功により、豊州刺史を授けられた。明徹の兄の子の超は、字を逸世という。少にして倜儻、幹略を以て知られた。明徹に従い征伐し、戦功有り、官は忠毅将軍・ 散騎常侍 ・桂州刺史に至り、汝南県侯に封ぜられ、邑一千戸を賜う。卒し、広州刺史を追贈され、諡して節という。
裴子烈
裴子烈は字を大士といい、河東聞喜の人、梁の員外 散騎常侍 猗の子である。子烈は少にして孤となり、志気有り。梁末の喪乱に遇い、武芸を習い、 驍 勇を以て聞こえた。しばしば明徹に従い征討し、向かう所必ず先登して陣を陥れた。官は電威将軍・北譙太守・岳陽内史、海安県伯に至り、邑三百戸を賜う。至徳四年に卒す。
【論】
史臣曰く、高祖は乱を撥ねて基を創め、天暦を啓く。侯瑱・欧陽頠は共に有道に帰身し、位は鼎司に貴く、美しい。呉明徹は将帥の任に居り、初め軍功有り、呂梁に敗績するに及びては、算を失うなり。これ勇は韓・白に非ず、識は孫・呉に異なり、遂に境を蹙かせ師を喪い、金陵を虚弱ならしめ、禎明の淪覆は、蓋しその漸より起こる。