陳書
卷八 列傳第二 杜僧明 周文育 侯安都
杜僧明
杜僧明は 字 を弘照といい、広陵郡臨沢県の人である。体つきは小柄であったが、胆力は人に優れ、勇力があり、騎射に長じていた。梁の大同年間、盧安興が広州南江督護となると、僧明は兄の天合および周文育とともに安興に召し出され、共に行くことを請うた。しばしば俚・獠を征討して功績があり、新州助防となった。天合もまた才幹があり、征伐に参与した。安興が死ぬと、僧明は再びその子の子雄の副官となった。時に交州の土豪李賁が反乱し、 刺史 の蕭諮を追放した。蕭諮は広州に逃れ、朝廷は子雄と高州刺史の孫冏を派遣して李賁を討たせた。時は春草が生え、瘴癘が起こり始めた頃で、子雄は秋を待って討つことを請うたが、広州刺史の新渝侯蕭諮は聞き入れず、蕭諮もまた催促したので、子雄らはやむなく出発した。合浦に至ると、兵の十の六七が死に、兵士らは労役を恐れて潰散し、制止できなかったので、残りの兵を率いて退却した。蕭諮は子雄と孫冏が賊と内通し、逗留して進まないと上奏し、梁の武帝は広州で彼らに死を賜った。子雄の弟の子略、子烈らは雄豪で任侠を好み、家族は南江にいた。天合は兵士らに謀って言った。「盧公は代々我らを非常に厚く遇してくれた。今、無実の罪で死んだのに、その報いができないのは丈夫ではない。我が弟の僧明は万人の敵である。もし州城を包囲し、百姓を召集すれば、誰が従わないことがあろうか。城を破り、二侯(蕭諮・蕭諮)を斬って孫冏・盧子雄を祭り、それから朝廷の使者が来るのを待ち、手を縛って廷尉に出頭すれば、死ぬのも生きるのに勝る。たとえ成功しなくとも、悔いはない」。兵士らは皆慷慨して「それは我らの願いです。ただあなたの命令に従います」と言った。そこで周文育らとともに兵士を率いて盟約を結び、子雄の弟の子略を主君として奉じ、刺史の蕭映を攻撃した。子略は城の南に駐屯し、天合は城の北に駐屯し、僧明と文育は東西を分かち占拠した。役人や民衆は皆これに応じ、一日のうちに、兵は数万に至った。 高祖 ( 陳霸先 )は当時高要におり、事の起こりを聞くと、兵を率いて討伐に来て、彼らを大破し、天合を殺し、僧明と文育らを生け捕りにした。高祖は皆これを釈放し、主帥に引き入れた。
高祖が交阯を征討し、元景仲を討った時、僧明と文育は共に功績があった。 侯景 の乱の時、共に高祖に従って京師の救援に入った。高祖が始興で蘭裕を破った時、僧明は前鋒となり、蘭裕を生け捕りにして斬った。また蔡路養と南野で戦った時、僧明の馬が傷ついたので、高祖は駆けつけてこれを救い、自ら乗っていた馬を僧明に与えた。僧明は馬に乗って数十人とともに再び進み、敵は皆なびき、これに乗じて大いに路養を破った。高州刺史の李遷仕がまた大皋を占拠し、贛石に入って高祖を脅かしたので、高祖は周文育を前軍として派遣し、僧明とともにこれを撃退した。遷仕は寧都の劉孝尚と力を合わせて南康を襲おうとしたので、高祖はまた僧明と文育らに命じてこれを防がせ、相持して百余日連戦し、ついに遷仕を生け捕りにして高祖の軍に送った。高祖が南康を平定すると、僧明を西昌に駐屯させ、安成・廬陵二郡の軍事を監督させた。元帝が承制して仮節・清野将軍・新州刺史、臨江県子を授け、邑三百戸を与えた。
侯景が于慶らを派遣して南江を侵すと、高祖は 豫 章に駐屯し、僧明を前駆と命じた。向かうところ克捷した。高祖は僧明を長史に上表し、引き続き東征に従軍させた。軍が蔡洲に至ると、僧明は麾下を率いて賊の水門の大艦を焼いた。侯景が平定されると、功績により員外 散騎常侍 ・明威将軍・南兗州刺史に任じられ、爵位を侯に進め、邑を増やして前の分と合わせて五百戸とし、引き続き 晋 陵太守を兼任した。承聖二年、高祖に従って北へ広陵を包囲し、使持節を加えられ、通直 散騎常侍 ・平北将軍に遷り、その他の官はもとのままとした。荊州が陥落すると、高祖は僧明に呉明徹らを率いて侯瑱に従い西へ救援に向かわせたが、江州で病没した。時に四十六歳。 散騎常侍 を追贈され、諡を威といった。世祖( 陳蒨 )が即位すると、開府儀同三司を追贈した。天嘉二年、高祖の廟庭に配享された。子の晋が後を嗣いだ。
周文育
周文育は字を景德といい、義興郡陽羨県の人である。幼くして孤貧であり、もと新安郡寿昌県に住み、姓は項、名は猛奴といった。十一歳の時、数里の間を水中で往復して泳ぎ、五六尺高く跳び上がることができ、近所の子供たちと遊ぶ時、誰も彼に及ばなかった。義興の人周薈が寿昌浦口の戍主となった時、彼を見て非凡だと思い、呼び出して話をした。文育は答えて言った。「母は老いて家は貧しく、兄と姉は皆成長し、賦役に苦しんでおります」。薈はこれを哀れに思い、文育について家に行き、その母に文育を養子にしたいと請うた。母は遂に彼を与えた。薈が任期を満了すると、文育と共に都に帰り、太子詹事の周捨に会い、名前をつけてくれるよう請うた。捨はそこで名を文育、字を景德と定めた。兄の子の弘讓に命じて書算を教えさせた。弘讓は隷書に優れ、蔡邕の『勧学』や古詩を書いて文育に与えたが、文育はこれに目もくれず、弘讓に言った。「誰がこんなものを学んで、富貴を得ようとするものか。富貴を得るにはただ大槊(長矛)があるだけだ」。弘讓は彼の気概を賞賛し、騎射を教えると、文育は大いに喜んだ。
司州刺史の陳慶之は周薈と同郷で、平素から親しくしていた。薈を前軍軍主に起用するよう上奏した。慶之は薈に五百人を率いて新蔡の懸瓠に行き、白水蛮を慰労させた。蛮は謀って薈を捕らえて魏に入れようとしたが、事が発覚し、薈と文育はこれに抵抗した。時に賊徒は非常に多く、一日のうちに数十回戦った。文育は前鋒として敵陣に突入し、その勇は軍中で第一であった。薈は陣中で戦死した。文育は駆けつけてその屍を奪い返し、賊は近づくことができなかった。夕方になると、それぞれ引き揚げた。文育は身に九ヶ所の傷を負った。傷が癒えると、帰って葬ることを請うた。慶之はその節義を賞賛し、厚く贈り物をして送り出した。
葬儀を終えると、ちょうど盧安興が南江督護となったので、文育を同行させるよう上奏した。たびたび俚・獠を征討し、赴くところ功績があり、南海県令に任じられた。安興の死後、文育は杜僧明とともに広州を攻撃したが、高祖に敗れ、高祖に赦された。詳細は僧明伝にある。
後に監州の王勱が文育を長流令とし、深く信任した。勱が交代となると、文育は勱と共に下ることを望んだ。大庾嶺に至り、占い師を訪ねた。占い師は言った。「あなたが北へ下ればせいぜい県令・県長に過ぎませんが、南へ入れば公侯となります」。文育は言った。「十分な銭があればそれでよく、誰が公侯を望みましょう」。占い師はまた言った。「あなたは間もなく突然二千両の銀を得るでしょう。もし信じられないなら、これを験としなさい」。その夜、旅館に泊まると、商人が来て文育と博戯を求めた。文育は勝ち、銀二千両を得た。翌朝、王勱に別れを告げると、勱はその理由を尋ねた。文育が告げると、勱は彼を行かせた。高祖は高要におり、彼が帰って来ると聞き、大いに喜び、人を遣わして迎えさせ、厚く賞賜を加え、麾下の兵を分けて配属させた。
高祖が侯景を討った時、文育は杜僧明とともに前軍となり、蘭裕を撃破し、欧陽頠を救援し、いずれも功績があった。高祖が南野で蔡路養を破った時、文育は路養に包囲され、四方数重に囲まれ、矢石が雨のように降り注ぎ、乗っていた馬が死んだ。文育は右手で戦い、左手で鞍を解き、包囲を突破して出た。そこで杜僧明らと合流し、力を合わせて再び進撃し、遂に路養を大破した。高祖はそこで文育を府司馬に上表した。
李遷仕が大皋に拠った時、その将杜平虜を遣わして贛石の魚梁に入り城を築かせた。高祖は文育に命じてこれを撃たせると、平虜は城を棄てて逃走し、文育はその城を占拠した。遷仕は平虜の敗北を聞き、老弱を大皋に留め置き、精兵を全て選りすぐって自ら将となり、文育を攻撃した。その勢いは甚だ鋭く、軍人はこれを恐れた。文育はこれと戦い、遷仕は次第に退き、相持って未だ決着がつかなかったが、ちょうど高祖が杜僧明を派遣して援軍に来たので、別に遷仕の水軍を破り、遷仕の軍は潰走し、大皋を過ぎることを敢えず、直ちに新淦へ逃走した。梁の元帝は文育に仮節・雄信将軍・義州刺史を授けた。遷仕はまた劉孝尚と謀り義軍に抵抗しようとしたので、高祖は文育を派遣し、侯安都・杜僧明・ 徐度 ・ 杜稜 と共に白口に城を築いてこれに当たらせた。文育は頻りに出て戦い、遂に遷仕を生け捕りにした。
高祖が南康より出発し、文育に兵五千を率いさせて江路を開通させた。侯景の将王伯醜が 豫 章に拠ったので、文育はこれを撃退し、遂にその城を占拠した。前後の功績を累ね、游騎将軍・員外 散騎常侍 に除され、東遷県侯に封ぜられ、邑五百戸を賜った。
高祖の軍が白茅湾に至り、文育と杜僧明に常に軍の先鋒となることを命じ、南陵・鵲頭の諸城を平定した。姑熟に至った時、侯景の将侯子鑒と戦い、これを破った。侯景が平定されると、通直 散騎常侍 を授かり、南移県侯に改封され、邑一千戸を賜り、信義太守に拝された。累遷して南丹陽・蘭陵・晋陵の太守、智武将軍、 散騎常侍 となった。
高祖が王僧辯を誅殺した時、文育に命じて水軍を督させ、世祖と呉興で合流し、杜龕を包囲してこれを攻略させた。また江を渡って会稽太守張彪を襲撃し、その郡城を得た。世祖が張彪に襲撃された時、文育は当時城北の香巖寺に駐屯していたが、世祖が夜間にそこへ急行し、共に柵を立てた。間もなく、張彪がまた攻めて来たので、文育は全力を尽くして苦戦し、張彪はこれを攻略できず、遂に張彪を破って平定した。
高祖は侯瑱が江州を擁拠しているのを以て、文育にこれを討伐することを命じ、 都督 南 豫 州諸軍事・武威将軍・南 豫 州刺史に任じ、兵を率いて湓城を襲撃させた。未だ攻略せず、徐嗣徽が斉の敵を引き連れて江を渡り蕪湖を占拠したので、 詔 により文育を召還して京に帰らせた。嗣徽らは青墩から七磯にかけて艦隊を並べ、文育の帰路を断った。夜になると、文育は鬨の声を上げて出発し、嗣徽らはこれを制することができなかった。夜明けになると、逆に嗣徽を攻撃し、嗣徽の勇将鮑砰がただ一隻の小艦で殿軍を務めていたので、文育は単身の舴艋に乗って戦い、敵艦に飛び乗り、鮑砰を斬り、その艦を牽いて帰還した。賊軍は大いに驚き、船を蕪湖に留め置き、丹陽から徒歩で進んだ。当時、高祖は白城で嗣徽を防いでいたが、ちょうど文育と大いに合流した。戦おうとした時、風が急であった。高祖は言った、「兵は逆風に進まぬものだ」。文育は言った、「事態は急を要します。決断すべきであり、古い法に何を用いましょう」。槊を抜き馬に乗り、馳せて進み、水軍はこれに従った。風もやがて転じ、数百人を殺傷した。嗣徽らは陣営を莫府山に移し、文育は駐屯地を移してこれに対した。頻りに戦い功績最も顕著であったので、平西将軍を加えられ、寿昌県公に爵位を進められ、併せて鼓吹一部を賜った。
広州刺史 蕭勃 が兵を挙けて嶺を越えたので、詔により文育に水軍を督させてこれを討伐させた。当時、新呉の洞主余孝頃が兵を挙げて蕭勃に応じ、その弟孝勱に郡城を守らせ、自らは 豫 章に出て石頭に拠った。蕭勃はその子孜に兵を率いさせて孝頃と合流させ、またその別将欧陽頠に苦竹灘に軍を駐屯させ、傅泰に眏口城を占拠させて官軍に抵抗させた。官軍の船は少なく、孝頃は舴艋三百艘、艦百余艘を上牢に有していた。文育は軍主焦僧度・羊柬に命じ、潜行して軍を率いてこれを襲撃させ、全て奪い取って帰還し、 豫 章に柵を立てた。当時、官軍の食糧は尽き、皆退還しようとしたが、文育は許さなかった。そこで人を遣わして密かに周迪に書を送り、兄弟の契りを結び、併せて利害を述べた。迪は書を得て甚だ喜び、糧食の供給を約束した。そこで文育は老幼を分遣して旧来の船に乗せ、流れに沿って下らせ、 豫 章郡に立てた柵を焼き、偽って退却した。孝頃はこれを見て大いに喜び、よって備えを設けなかった。文育は間道より兼行し、二晩で芊韶に到達した。芊韶の上流には欧陽頠・蕭勃がおり、下流には傅泰・余孝頃がいた。文育はその中間に拠り、城を築き士卒に饗を与えたので、賊徒は大いに驚いた。欧陽頠は退いて泥溪に入り、城を築いて自ら守った。文育は厳威将軍周鉄武と長史陸山才を派遣して頠を襲撃させ、これを生け捕りにした。そこで兵甲を盛大に陳列し、頠と舟に乗って宴を開き、傅泰の城下を巡行し、よって泰を攻撃してこれを攻略した。蕭勃は南康でこれを聞き、皆股慄し、自ら固めることができなかった。その将譚世遠が蕭勃を斬って降伏しようとしたが、人に害された。世遠の軍主夏侯明徹が蕭勃の首級を持って降伏した。蕭孜・余孝頃はなお石頭に拠っていたが、高祖は侯安都を派遣して文育を助け攻撃させた。孜は文育に降伏し、孝頃は退走して新呉に去った。広州が平定され、文育は 豫 章に還り駐屯した。功績により鎮南将軍・開府儀同三司・ 都督 江広衡交等州諸軍事・江州刺史を授けられた。
王琳が上流を擁拠したので、詔により侯安都を西道 都督 とし、文育を南道 都督 と命じ、共に武昌で合流させた。沌口で王琳と戦い、琳に捕らえられたが、後に逃げ帰ることができた。詳細は安都伝にある。間もなく使持節・ 散騎常侍 ・鎮南将軍・開府儀同三司、寿昌県公を授けられ、鼓吹一部を賜った。
周迪が余孝頃を破った時、孝頃の子公颺・弟孝勱がなお旧柵に拠り、南方の地を扇動したので、高祖は再び文育及び周迪・黄法矴らを派遣してこれを討伐させた。 豫 章内史熊曇朗も軍を率いて来て合流し、総勢ほぼ一万人となった。文育は呉明徹を水軍とし、周迪に配して糧食を運ばせ、自らは水軍を率いて象牙江に入り、金口に城を築いた。公颺が五百人を率いて偽って降伏し、文育を捕らえようと謀ったが、事が発覚したので、文育はこれを囚え、京師に送り、その配下の兵士を水軍に分け隷属させた。そこで舟を捨てて歩軍とし、進んで三陂を占拠した。王琳は将曹慶を派遣し、兵二千人を率いさせて孝勱を救援させた。慶は主帥常衆愛を分遣して文育と対峙させ、自らは率いる所の兵を率いて直ちに周迪・呉明徹の軍を攻撃した。迪らは敗北し、文育は退いて金口に拠った。熊曇朗はその失利に乗じ、文育を謀殺して衆愛に応じようとした。文育の監軍孫白象はその事をかなり知っており、先手を打つよう勧めた。文育は言った、「いけない。我が旧来の兵は少なく、客軍が多い。もし曇朗を取れば、人々は驚き恐れ、たちまち逃亡するだろう。心を推し量ってこれを慰撫するに如くはない」。初め、周迪が敗北した時、船を棄てて逃走し、所在が知れなかったが、迪からの書を得たので、文育は喜び、曇朗に見せたところ、曇朗は座中で文育を害した。時に年五十一歳。高祖はこれを聞き、即日に哀悼の礼を挙げ、侍中・ 司空 を追贈し、諡して忠愍といった。
初め、文育が三陂に拠った時、流星が地に墜ち、その声雷の如く、地が一丈四方陥没し、中に数斗の碎炭があった。また軍市中に忽ち小児の啼く声を聞き、市中の者皆驚き、聞けば土中にあった。軍人が掘ると長さ三尺の棺を得た。文育はこれを忌み嫌った。間もなく周迪が敗れ、文育は殺害された。天嘉二年、詔があり高祖の廟庭に配享された。子の宝安が嗣いだ。文育の本族の兄景曜は、文育の官により新安太守に至った。
子 宝安
宝安は字を安民という。十余歳の時より騎射を習い、貴公子として驕慢に遊び、狗馬を好み、馳騁を楽しみ、華美な衣服と美食に耽った。文育が晋陵に在った時、征討に追われて郡務に専念できず、宝安に郡事を監知させたが、彼は特に悪少年を集めたので、高祖はこれを憂慮した。文育が西征に敗れて王琳に捕らえられると、宝安は心を改めて読書に励み、士君子と交わり、文育の士卒を慰撫統御して、大いに威厳と恩恵を示した。員外散騎侍郎に任じられた。文育が帰還すると、再び貞威将軍・呉興太守に任じられた。文育が熊曇朗に害されると、宝安は召還された。猛烈将軍に起用され、旧来の兵を率い、引き続き南討を命じられた。
世祖が即位すると、深く器重し、心膂として信頼し、精鋭の兵卒と鋭利な兵器を多く配属させた。王琳を平定するに及び、多大な功績があった。周迪が熊曇朗を破ると、宝安は南進し、その残党を殄滅した。天嘉二年、重ねて雄信将軍・呉興太守に任じられ、寿昌県公の封を襲いだ。三年、留異を征討し、侯安都の前軍となった。留異が平定されると、給事黄門侍郎・衛尉卿に任じられた。四年、持節・ 都督 南徐州諸軍事・貞毅将軍・南徐州刺史を授けられた。左衛将軍に召され、信武将軍の号を加えられた。まもなく本官のまま衛尉卿を兼任し、さらに仁威将軍の号を進められた。天康元年に卒去した。時に二十九歳。侍中・左衛将軍を追贈され、諡して成といった。
子の䂮が後を嗣いだ。宝安の卒去後、䂮も偏将となった。欧陽紇を征討し、淮南を平定するに及び、功績があり、江安県伯に封ぜられ、邑四百戸を賜った。晋陵・定遠二郡太守を歴任した。太建九年に卒去した。時に二十四歳。電威将軍を追贈された。
侯安都
侯安都は字を成師といい、始興郡曲江県の人である。代々郡の名族であった。父の文捍は、若くして州郡に仕え、忠実で謹直であると称され、安都が貴顕した後、光禄大夫・始興内史に至り、秩禄は中二千石であった。
安都は隷書に巧みで、琴を弾くことができ、書物や伝記に広く通じ、五言詩を作り、またかなり清らかで美しく、さらに騎射に長け、郷里の雄豪であった。梁の始興内史蕭子範が主簿に辟召した。侯景の乱が起こると、兵士を招集し、三千人に達した。高祖が京邑を救援するため入ると、安都は兵を率いて高祖に従い、蔡路養を攻撃し、李遷仕を破り、侯景を平定するに及び、いずれも力戦して功績があった。元帝より猛烈将軍・通直 散騎常侍 、富川県子に任じられ、邑三百戸を賜った。高祖に従って京口を鎮守し、蘭陵太守に任じられた。高祖が王僧辯を襲撃しようと謀り、諸将の中で知る者はなかったが、ただ安都と計略を定め、安都に水軍を率いて京口より石頭へ急行させ、高祖は自ら馬歩軍を率いて江乗の羅落から進み、これと合流した。安都は石頭の北に至り、舟を棄てて岸に登ったが、僧辯はこれに気づかなかった。石頭城の北は丘陵に接し、城壁の高さはさほど険峻ではなかったので、安都は甲冑を着け長刀を帯び、兵士に支えられて女垣内に投げ入れられ、兵士らも続いて入城し、僧辯の寝室に迫った。高祖の大軍もまた到着し、僧辯と庁事の前で戦った。安都は内閣より出て、腹背よりこれを撃ち、ついに僧辯を生け捕りにした。
紹泰元年、功績により使持節・ 散騎常侍 ・ 都督 南徐州諸軍事・仁威将軍・南徐州刺史を授けられた。高祖が東進して杜龕を討つと、安都は留まって朝廷を守った。徐嗣徽・任約らが斉の軍を引き入れて石頭を占拠し、遊騎が宮闕の下にまで至った。安都は門を閉ざし旗幟を伏せて、弱きを示し、城中に命じて「城壁に登って賊を見る者は斬る」と言わせた。夕方になり、賊軍が軍を収めて石頭に戻ると、安都は夜間に士卒に命じて密かに防禦の具を準備させた。夜明け前、賊騎がまた来襲すると、安都は甲士三百人を率い、東西の掖門を開いて戦い、これを大いに破った。賊は石頭に退き、再び臺城に迫ろうとはしなかった。高祖が到着すると、安都を水軍とし、中流で賊の糧食輸送を断たせた。また秦郡を襲撃し、嗣徽の柵を破り、その家族と馬・驢・輜重を奪った。嗣徽の愛用する琵琶と飼っていた鷹を得て、使者を遣わして贈り届け、「昨日、弟の住処にてこれを得た。今、返却する」と言わせた。嗣徽らはこれを見て大いに恐れ、まもなく和を請うたので、高祖は彼らが北帰することを許した。嗣徽らが長江を渡ると、斉の残軍がなお採石を占拠し、守備は厳重であった。また安都を派遣してこれを攻撃させ、多くを捕虜・鹵獲した。
翌年春、詔により安都は兵を率いて梁山を鎮守し、斉に備えた。徐嗣徽らが再び丹陽に入り、湖熟に至ると、高祖は安都を追い返し、馬歩軍を率いて高橋でこれを防がせた。また耕壇の南で戦い、安都は十二騎を率いて敵陣に突入し、これを破り、斉の儀同乞伏無労を生け捕りにした。また斉の将東方老を刺し落馬させたが、賊騎が到着したため、老は救われて免れた。賊は北進して蔣山を渡り、安都はまた斉の将王敬宝と龍尾で戦い、従弟の侯暁と軍主の張纂に先鋒として敵陣を攻撃させた。暁は槍を受け落馬し、張纂は戦死した。安都は馳せ往って暁を救い、その騎士十一人を斬り、張纂の屍を奪って還ったので、斉軍は敢えて迫らなかった。高祖が斉軍と莫府山で戦い、安都に歩騎千余人を率いさせ、白下より横撃してその背後を衝かせたので、斉軍は大敗した。安都はまた配下を率いて摂山まで追撃し、捕虜・斬首は数え切れなかった。功績により侯に爵位を進められ、邑五百戸を加増され、鼓吹一部を賜った。また平南将軍の号を進められ、西江県公に改封された。
引き続き水軍を 都督 して 豫 章に出撃し、 豫 州刺史周文育を助けて蕭勃を討った。安都が到着する前に、文育はすでに勃を斬り、その将欧陽頠・傅泰らを生け捕りにしていた。ただ余孝頃と勃の子の孜のみがなお 豫 章の石頭に拠り、二つの城を築き、孝頃と孜がそれぞれ一つを占拠し、さらに多くの船艦を設け、水を挟んで陣を布いていた。安都が到着すると、枚を銜ませて夜間にその船艦を焼いた。文育は水軍を率い、安都は歩騎を率いて岸に登り陣を結んだ。孝頃がまもなく後路を断つと、安都は軍士に多く松の木を伐らせ、柵を立て、営を列ねて漸次進み、頻りに戦って屡々勝利したので、孜は降伏した。孝頃は新呉に奔り、子を人質として差し出すことを請うたので、これを許した。軍が還ると、功績により鎮北将軍の号を進められ、開府儀同三司を加えられた。
引き続き軍を率いて武昌で合流し、周文育とともに西進して王琳を討った。出発に際し、王公以下が新林で餞別した時、安都は馬を躍らせて橋を渡り、人馬ともに水中に落ち、また湾内で櫓井に墜落した。当時、これは不吉とされた。武昌に至ると、琳の将樊猛は城を棄てて逃走した。文育もまた 豫 章より到着した。時に両将はともに行動したが、互いに統率関係はなく、部下の争いにより、次第に不和となった。軍が郢州に至ると、琳の将潘純鮶が城中から遠く官軍を射たので、安都は怒り、進軍して包囲したが、陥落させられなかった。王琳が弇口に至ると、安都は郢州の包囲を解き、全軍を率いて沌口に赴きこれを防ぎ、風に遭って進めなかった。琳は東岸を占拠し、官軍は西岸を占拠し、数日間対峙した後、合戦となり、安都らは敗北した。安都は周文育・徐敬成とともに琳に囚われた。琳は一本の長い鎖で彼らを繋ぎ、船倉の下に置き、寵愛する宦官の王子晋に監視させた。琳が湓城の白水浦に下ると、安都らは甘言で子晋に多額の賄賂を約束した。子晋は偽って小船で湾に沿って釣りをし、夜に安都・文育・敬成を岸に載せ、深草の中に入り、徒歩で官軍に投じた。都に還って自ら罪を劾したが、詔によりいずれも赦免され、官爵を回復した。
まもなく丹陽尹となり、出て 都督 南 豫 州諸軍事・鎮西将軍・南 豫 州刺史となった。周文育に従って余孝勱及び王琳の将曹慶・常紅愛らを攻撃するよう命じられた。安都は宮亭湖から松門に出て、紅愛の後を追った。文育が熊曇朗に害されると、安都は引き返して大艦を奪取し、ちょうど王琳の将周炅・周協が南帰するところに出会い、戦ってこれを破り、炅・協を生け捕りにした。孝勱の弟孝猷は配下四千家を率いて王琳のもとへ赴こうとしたが、炅・協の敗北に遭い、安都のもとに降伏した。安都はさらに禽奇洲に進軍し、曹慶・常紅愛らを破り、その船艦を焼き払った。紅愛は廬山に逃げたが、村人に殺され、残党はすべて平定された。
軍を返して南皖に至ったところで高祖が崩御し、安都は世祖に従って朝廷に帰還し、そのまま群臣とともに策を定め、世祖を奉戴した。当時、世祖は謙譲して敢えて受けようとせず、太后もまた衡陽王のことを理由に、命令を下すことを肯んじなかったため、群臣は躊躇して決断できなかった。安都は言った。「今、四方は未だ定まらず、遠いことなどに構っている暇はない。臨川王(世祖)は天下に功績がある。共に彼を立てねばならない。今日のことで、後に応じる者は斬る。」 そこで剣を押さえて殿上に上がり、太后に 璽 を出すよう申し上げ、また自ら世祖の髪を解き、喪の席に推し就けた。世祖が即位すると、 司空 に遷り、そのまま 都督 南徐州諸軍事・征北将軍・南徐州刺史となり、扶を与えられた。
王琳が下って柵口に至ると、大軍は出て蕪湖に駐屯した。当時、侯瑱が大 都督 であったが、指揮と経略は多く安都が出した。天嘉元年、封邑千戸を加増された。王琳が敗走して斉に入ると、安都は湓城に進軍し、王琳の残党を討伐し、向かうところすべて陥落させた。
さらに別に中旨を奉じて、衡陽献王昌を迎えた。初め、昌が入朝しようとする際、世祖に書を送り、言葉が甚だ不遜であったため、世祖は快く思わず、安都を召して穏やかに言った。「太子(昌)が来るので、別に一藩を求めねばならない。私は老いることとしよう。」 安都は答えて言った。「古より代わられる天子などありましょうか。臣愚か、詔を奉じることはできません。」 そこで自ら昌を迎えることを請い、昌は漢水を渡ったところで 薨 去 した。功により清遠郡公に爵位を進められ、封邑四千戸となった。これより威名は甚だ重く、群臣の中で彼の右に出る者はなかった。
安都の父文捍は始興内史となり、官で卒した。世祖は安都を召還して京師に帰らせ、喪を発した。まもなく元の官職に復帰させ、その父に 散騎常侍 ・金紫光禄大夫を追贈し、その母を清遠国太夫人に拝した。そのまま都に迎え還そうとしたが、母は固く郷里に留まることを求めたので、上は詔を下し、桂陽郡の汝城県を廬陽郡と改め、衡州の始興・安遠の二郡を分け、三郡を合わせて東衡州とし、安都の従弟の暁を刺史とし、安都の第三子の祕は九歳であったが、上は始興内史とし、ともに郷里で侍養することを命じた。その年、安都を桂陽郡公に改封した。
王琳敗北後、周の軍勢が巴・湘を占拠したので、安都は詔を奉じて西征した。また留異が東陽を擁拠すると、再び詔を奉じて東征した。異はもともと朝廷軍が銭塘江を遡上すると考えていたが、安都は陸路、会稽の諸暨から出て永康に至った。異は大いに恐れ、桃枝嶺に奔り、嶺の谷間に拠り、巌口に柵を立てて朝廷軍を防いだ。安都は連城を築いて異を攻め、自ら戦闘に臨み、流れ矢に当たって血が踝まで流れたが、安都は輿に乗って軍を指揮し、容態は変わらなかった。その山の険しい地形を利用して、狭くして堰を築いた。天嘉三年夏、洪水で水が漲り満ちると、安都は船を堰に引き入れ、楼艦を起こして異の城と同等の高さとし、拍車を放ってその楼と雉を砕いた。異は第二子の忠臣とともに身を逃して晋安に奔り、安都はその妻子を捕虜とし、その人馬と甲仗をことごとく収め、軍を整えて帰還した。功により侍中・征北大将軍を加えられ、封邑を前の分に加えて五千戸とし、そのまま本鎮に還った。その年、吏民が宮廷に赴き、碑を立てて安都の功績を称えることを上表して請うたので、詔がこれを許した。
王琳平定後より、安都の勲功はますます大きくなり、また自ら社稷を安んじた功績があるとして、次第に驕慢になり、しばしば文武の士を招き集め、あるいは弓馬を駆使し、あるいは詩賦を作らせ、その優劣を評定し、等級に応じて賞賜した。文士では褚玠・馬枢・陰鏗・張正見・徐伯陽・劉刪・祖孫登、武士では蕭摩訶・裴子烈らが、ともにその賓客となり、邸内の来客はしばしば千人に及んだ。部下の将帥は多く法度を遵守せず、取り調べようとすると、安都のもとに奔り帰った。世祖は性格が厳格で明察であり、これを深く恨んだ。安都はこれを改めず、日増しに驕横になった。上表や啓奏がある度に、封をした後、言い尽くせない事があると、封を開けて自ら書き加え、「また某事を啓す」と記した。また宴席で酒が酣になると、時に足を投げ出したり、体を傾けたりした。かつて楽遊の禊飲に陪席した際、帝に言った。「臨川王の時と比べてどうですか。」 帝は答えなかった。安都が再三言うと、帝は言った。「これは天命ではあるが、また明公の力でもある。」 宴が終わると、また供帳や水飾りを借りて、妻妾を載せて御堂で歓会したいと請うた。世祖はその請いを許したが、甚だ快く思わなかった。翌日、安都は御座に座り、賓客を群臣の席に座らせ、杯を挙げて寿を祝った。初め、重雲殿が火災に遭った時、安都が将兵を率いて甲冑を着けたまま殿中に入ったことを、帝は甚だ嫌悪し、これより密かに備えをした。また周迪が反乱した時、朝廷の期待は安都に討伐させるところにあったが、帝は呉明徹に迪を討たせ、また頻繁に朝廷の使者を遣わして安都の部下を取り調べ、逃亡・反逆者を検挙させたので、安都は内心安らかでなかった。三年冬、その別駕の周弘実を遣わして、舎人の蔡景歴に身を託し、宮中の事情を尋ねさせた。景歴はその様子を記録して詳細に奏上し、上意に迎合して安都が謀反を企てていると称した。世祖は彼が制御に従わないことを懸念し、翌年春、安都を 都督 江呉二州諸軍事・征南大将軍・江州刺史に任じた。京口から都に帰還し、部隊を石頭に入れると、世祖は安都を嘉徳殿に引見して宴を催し、またその部下の将帥を 尚書 朝堂に集め、座席で安都を捕らえ、嘉徳西省に囚禁し、またその将帥を捕らえ、馬と武器をことごとく奪った上で釈放した。そこで舎人蔡景歴の上表文を示して朝廷に公表した。そして詔を下して言った。
昔、漢は功臣を厚く遇したが、韓信・彭越は乱を起こし、晋は藩牧に頼ったが、王敦・蘇峻は兵を挙げた。六尺の孤を龐萌に託したが、野心は密かに発し、股肱を霍禹に寄せたが、凶謀はひそかに構えられた。往代を追い考えれば、叛逆の道理は一つであり、古より言うに、患難は同じ規矩である。侯安都は元来遠大な図略に乏しく、令徳を欠き、幸いに興運に属し、経綸に預かり、行伍の間から抜擢され、毛羽を与えられ、偏帥に推され、馳逐を委ねられた。位は三槐に極まり、任は四嶽に居り、名器は隆赫で、礼数は比類なきものであった。しかし、その志はただ己を誇るのみで、気概は上を陵ぐことにあり、逃亡者を招き集め、軽佻狡猾を極め、頼むべき節操も行いもなく、畏れも恭しみもなかった。受脤して征伐を専行し、剽掠をほしいままにし、推轂して鎮守する所では、収斂すること飽くことを知らなかった。徐蕃に寄せられ、斉の境に接するや、禁貨を密かに運び、住民を売り払い、椎埋発掘し、毒は泉壌に流れ、睚眦の怨みで死屍を晒し、彝憲を顧みなかった。朕は初めの締構の時、その功績頗る著しかったことを思い、代邸に飛驂し、嘉謀を預定した功により、有司の糾弾を抑え、常に養い遵うことを思い、百辟の言を絶ち、日々自新を望んだのである。襟懐を話言に託し、丹赤の心を造次に推し、甲第に策馬すれば羽林の警備を休め、高堂に酒を置けば陛戟の衛士を解かせた。何嘗か内に一片の嫌疑を隠し、柏人を去って宿らず、外に猜防を協わせ、成皋に入って留まらぬことがあったか。しかし、その勃逆凶悪は悔い改めず、驕暴はますます甚だしくなり、文武の者を招き誘い、密かに異図を懐いた。去年十二月十一日、中書舎人蔡景歴の啓上を得て、侯安都が去る月の十日に別駕周弘実を遣わし、景歴の私邸に宿泊させ、禁中のことを訪問し、反逆の計画を詳しく述べたと称した。朕はなお隠忍を加え、初めの如く遇した。北門より南服に遷任させ、受命して経過停留するに及んで、姦謀はますます露わになった。今、初鎮に因らんとして、不軌を行わんとしている。これを忍ぶことができようか、何をか容れることができよう。社稷の霊に頼り、近侍の誠篤なる諫言により、醜情は顕わに暴かれ、逆節は明らかに聞こえた。外においては旧典を詳らかに案じ、速やかに刑書を正すべし。ただ同謀の者を止め、その余は問わない。
明日、西省において死を賜い、時に年四十四。まもなく詔があり、その妻子家族を赦し、士礼をもって葬り、喪事に必要なものは、務めて資給を加える。
初め、高祖(陳霸先)が京城におられた時、諸将と宴を催し、杜僧明、周文育、侯安都が寿を述べて、それぞれ功績を称えた。高祖は言われた。「卿らは皆良将であるが、それぞれ短所がある。杜公は志は大きいが識見が暗く、下を狎れ親しみ尊上に驕り、その功を誇って拙を収めない。周侯は交わりを人を選ばず、推心するに過差があり、危きに居り険しきを履みながら、猜防を設けない。侯郎は傲慢で慎みがなく、軽佻で思いのままに振る舞う。皆、身を全うする道ではない。」果たして皆その言の如くなった。
安都の長子の敦は、年十二で員外散騎侍郎となり、天嘉二年に落馬して卒し、追諡して桂陽国愍世子とした。太建三年、高宗( 陳頊 )は安都を追封して陳集県侯とし、邑五百戸、子の亶が嗣いだ。
安都の従弟の暁は、累ねて安都に従い征討して功があり、官は員外 散騎常侍 ・明威将軍・東衡州刺史に至り、懐化県侯、邑五百戸。天嘉三年に卒し、年四十一。
【論】
史臣曰く、杜僧明、周文育は皆功業を樹て、興運に成り、廉頗、李牧、韓信、彭越と連類するに足る。侯安都の情は昔と異なり、権勢は往日を踰え、これに因って侵暴を加え、これに縱誕を加えた。苟も夫の逆乱に非ずと言わば、何を用いて亡滅を免れんや。昔、漢の高祖が醢にして賜い、宋の武帝が坐右に拉ぎ殺したのは、まことに以て然る所以あるなり。