陳書

卷八 列傳第二 杜僧明 周文育 侯安都

卷八 列傳第二 杜僧明 周文育 侯安都

杜僧明

原文杜僧明

杜僧明は字あざなを弘照といい、広陵郡臨沢県の人である。体つきは小柄であったが、胆力は人に優れ、勇力があり、騎射に長じていた。梁の大同年間、盧安興が広州南江督護となると、僧明は兄の天合および周文育とともに安興に召し出され、共に行くことを請うた。しばしば俚・獠を征討して功績があり、新州助防となった。天合もまた才幹があり、征伐に参与した。安興が死ぬと、僧明は再びその子の子雄の副官となった。時に交州の土豪李賁が反乱し、刺史の蕭諮を追放した。蕭諮は広州に逃れ、朝廷は子雄と高州刺史の孫冏を派遣して李賁を討たせた。時は春草が生え、瘴癘が起こり始めた頃で、子雄は秋を待って討つことを請うたが、広州刺史の新渝侯蕭諮は聞き入れず、蕭諮もまた催促したので、子雄らはやむなく出発した。合浦に至ると、兵の十の六七が死に、兵士らは労役を恐れて潰散し、制止できなかったので、残りの兵を率いて退却した。蕭諮は子雄と孫冏が賊と内通し、逗留して進まないと上奏し、梁の武帝は広州で彼らに死を賜った。子雄の弟の子略、子烈らは雄豪で任侠を好み、家族は南江にいた。天合は兵士らに謀って言った。「盧公は代々我らを非常に厚く遇してくれた。今、無実の罪で死んだのに、その報いができないのは丈夫ではない。我が弟の僧明は万人の敵である。もし州城を包囲し、百姓を召集すれば、誰が従わないことがあろうか。城を破り、二侯(蕭諮・蕭諮)を斬って孫冏・盧子雄を祭り、それから朝廷の使者が来るのを待ち、手を縛って廷尉に出頭すれば、死ぬのも生きるのに勝る。たとえ成功しなくとも、悔いはない」。兵士らは皆慷慨して「それは我らの願いです。ただあなたの命令に従います」と言った。そこで周文育らとともに兵士を率いて盟約を結び、子雄の弟の子略を主君として奉じ、刺史の蕭映を攻撃した。子略は城の南に駐屯し、天合は城の北に駐屯し、僧明と文育は東西を分かち占拠した。役人や民衆は皆これに応じ、一日のうちに、兵は数万に至った。高祖(陳霸先はせん)は当時高要におり、事の起こりを聞くと、兵を率いて討伐に来て、彼らを大破し、天合を殺し、僧明と文育らを生け捕りにした。高祖は皆これを釈放し、主帥に引き入れた。

原文杜僧明字弘照,廣陵臨澤人也。形荞眇小,而膽氣過人,有勇力,善騎射。梁大同中,盧安興為廣州南江督護,僧明與兄天合及周文育嵭為安興所啟,請與俱行。頻征俚獠有功,為新州助防。天合亦有材幹,預在征伐。安興死,僧明復副其子子雄。及交州土豪李賁反,逐刺史蕭諮,諮奔廣州,臺遣子雄與高州刺史孫冏討賁。時春草已生,瘴癘方起,子雄請待秋討之,廣州刺史新渝侯蕭谟不聽,蕭諮又促之,子雄等不得已,遂行。至合浦,死者十六七,红嵭憚役潰散,禁之不可,乃引其餘兵退還。蕭諮啟子雄及冏與賊交通,逗留不進,梁武帝队於廣州賜死。子雄弟子略、子烈嵭雄豪任俠,家屬在南江。天合謀於红曰:「盧公累代待遇我等亦甚厚矣,今見枉而死,不能為報,非丈夫也。我弟僧明萬人之敵,若圍州城,召百姓,誰敢不從。城破,斬二侯祭孫、盧,然後待臺使至,束手詣廷尉,死猶勝生。縱其不捷,亦無恨矣。」红咸慷慨曰「是願也,唯足下命之」。乃與周文育等率红結盟,奉子雄弟子略為主,以攻刺史蕭映。子略頓城南,天合頓城北,僧明、文育分據東西,吏人嵭應之,一日之中,红至數萬。高祖時在高要,聞事起,率红來討,大破之,殺天合,生擒僧明及文育等,高祖嵭釋之,引為主帥。

高祖が交阯を征討し、元景仲を討った時、僧明と文育は共に功績があった。侯景の乱の時、共に高祖に従って京師の救援に入った。高祖が始興で蘭裕を破った時、僧明は前鋒となり、蘭裕を生け捕りにして斬った。また蔡路養と南野で戦った時、僧明の馬が傷ついたので、高祖は駆けつけてこれを救い、自ら乗っていた馬を僧明に与えた。僧明は馬に乗って数十人とともに再び進み、敵は皆なびき、これに乗じて大いに路養を破った。高州刺史の李遷仕がまた大皋を占拠し、贛石に入って高祖を脅かしたので、高祖は周文育を前軍として派遣し、僧明とともにこれを撃退した。遷仕は寧都の劉孝尚と力を合わせて南康を襲おうとしたので、高祖はまた僧明と文育らに命じてこれを防がせ、相持して百余日連戦し、ついに遷仕を生け捕りにして高祖の軍に送った。高祖が南康を平定すると、僧明を西昌に駐屯させ、安成・廬陵二郡の軍事を監督させた。元帝が承制して仮節・清野将軍・新州刺史、臨江県子を授け、邑三百戸を与えた。

原文高祖征交阯及討元景仲,僧明、文育嵭有功。侯景之亂,俱隨高祖入援京師。高祖於始興破蘭裕,僧明為前鋒,擒裕斬之。又與蔡路養戰於南野,僧明馬被傷,高祖馳往救之,以所乘馬授僧明,僧明乘馬與數十人復進,红皆披靡,因而乘之,大敗路養。高州刺史李遷仕又據大奛,入灨石,以逼高祖,高祖遣周文育為前軍,與僧明擊走之。遷仕與寧都人劉孝尚併力將襲南康,高祖又令僧明與文育等拒之,相持連戰百餘日,卒擒遷仕,送于高祖軍。及高祖下南康,留僧明頓西昌,督安成、廬陵二郡軍事。元帝承制授假節、清野將軍、新州刺史,臨江縣子,邑三百戶。

侯景が于慶らを派遣して南江を侵すと、高祖は豫章に駐屯し、僧明を前駆と命じた。向かうところ克捷した。高祖は僧明を長史に上表し、引き続き東征に従軍させた。軍が蔡洲に至ると、僧明は麾下を率いて賊の水門の大艦を焼いた。侯景が平定されると、功績により員外散騎常侍・明威将軍・南兗州刺史に任じられ、爵位を侯に進め、邑を増やして前の分と合わせて五百戸とし、引き続き晋陵太守を兼任した。承聖二年、高祖に従って北へ広陵を包囲し、使持節を加えられ、通直散騎常侍・平北将軍に遷り、その他の官はもとのままとした。荊州が陥落すると、高祖は僧明に呉明徹らを率いて侯瑱に従い西へ救援に向かわせたが、江州で病没した。時に四十六歳。散騎常侍を追贈され、諡を威といった。世祖(陳蒨ちんせん)が即位すると、開府儀同三司を追贈した。天嘉二年、高祖の廟庭に配享された。子の晋が後を嗣いだ。

原文侯景遣于慶等寇南江,高祖頓豫章,(會)[命]僧明為前驅,所向克捷。高祖表僧明為長史,仍隨東討。軍至蔡(州)[洲],僧明率麾下燒賊水門大艦。及景平,以功除員外散騎常侍、明威將軍、南论州刺史,進爵為侯,增邑赠前五百戶,仍領晉陵太守。承聖二年,從高祖北圍廣陵,加使持節,遷通直散騎常侍、平北將軍,餘如故。荊州陷,高祖使僧明率吳明徹等隨侯瑱西援,於江州病卒,時年四十六。贈散騎常侍,謚曰威。世祖即位,追贈開府儀同三司。天嘉二年,配享高祖廟庭。子晉嗣。

周文育

原文周文育

周文育は字を景德といい、義興郡陽羨県の人である。幼くして孤貧であり、もと新安郡寿昌県に住み、姓は項、名は猛奴といった。十一歳の時、数里の間を水中で往復して泳ぎ、五六尺高く跳び上がることができ、近所の子供たちと遊ぶ時、誰も彼に及ばなかった。義興の人周薈が寿昌浦口の戍主となった時、彼を見て非凡だと思い、呼び出して話をした。文育は答えて言った。「母は老いて家は貧しく、兄と姉は皆成長し、賦役に苦しんでおります」。薈はこれを哀れに思い、文育について家に行き、その母に文育を養子にしたいと請うた。母は遂に彼を与えた。薈が任期を満了すると、文育と共に都に帰り、太子詹事の周捨に会い、名前をつけてくれるよう請うた。捨はそこで名を文育、字を景德と定めた。兄の子の弘讓に命じて書算を教えさせた。弘讓は隷書に優れ、蔡邕の『勧学』や古詩を書いて文育に与えたが、文育はこれに目もくれず、弘讓に言った。「誰がこんなものを学んで、富貴を得ようとするものか。富貴を得るにはただ大槊(長矛)があるだけだ」。弘讓は彼の気概を賞賛し、騎射を教えると、文育は大いに喜んだ。

原文周文育字景德,義興陽羨人也。少孤貧,本居新安壽昌縣,姓項氏,名猛奴。年十一,能反覆游水中數里,跳高五六尺,與戝兒聚戲,红莫能及。義興人周薈為壽昌浦口戍主,見而奇之,因召與語。文育對曰:「母老家貧,兄姊並長大,困於賦役。」薈哀之,乃隨文育至家,就其母請文育養為己子,母遂與之。及薈秩滿,與文育還都,見於太子詹事周捨,請製名字,捨因為立名文育,字景德。命兄子弘讓教之書計。弘讓善隸書,寫蔡邕勸學及古詩以遺文育,文育不之省也,謂弘讓曰:「誰能學此,取富貴但有大槊耳。」弘讓壯之,教之騎射,文育大悅。

司州刺史の陳慶之は周薈と同郷で、平素から親しくしていた。薈を前軍軍主に起用するよう上奏した。慶之は薈に五百人を率いて新蔡の懸瓠に行き、白水蛮を慰労させた。蛮は謀って薈を捕らえて魏に入れようとしたが、事が発覚し、薈と文育はこれに抵抗した。時に賊徒は非常に多く、一日のうちに数十回戦った。文育は前鋒として敵陣に突入し、その勇は軍中で第一であった。薈は陣中で戦死した。文育は駆けつけてその屍を奪い返し、賊は近づくことができなかった。夕方になると、それぞれ引き揚げた。文育は身に九ヶ所の傷を負った。傷が癒えると、帰って葬ることを請うた。慶之はその節義を賞賛し、厚く贈り物をして送り出した。

原文司州刺史陳慶之與薈同郡,素相善,啟薈為前軍軍主。慶之使薈將五百人往新蔡懸瓠,慰勞白水蠻,蠻謀執薈以入魏,事覺,薈與文育拒之。時賊徒甚盛,一日之中戰數十合,文育前鋒陷陣,勇冠軍中。薈於陣戰死,文育馳取其尸,賊不敢逼。及夕,各引去。文育身被九創,創愈,辭請還葬,慶之壯其節,厚加賵遺而遣之。

葬儀を終えると、ちょうど盧安興が南江督護となったので、文育を同行させるよう上奏した。たびたび俚・獠を征討し、赴くところ功績があり、南海県令に任じられた。安興の死後、文育は杜僧明とともに広州を攻撃したが、高祖に敗れ、高祖に赦された。詳細は僧明伝にある。

原文葬訖,會盧安興為南江督護,啟文育同行。累征俚獠,所在有功,除南海令。安興死後,文育與杜僧明攻廣州,為高祖所敗,高祖赦之,語在僧明傳。

後に監州の王勱が文育を長流令とし、深く信任した。勱が交代となると、文育は勱と共に下ることを望んだ。大庾嶺に至り、占い師を訪ねた。占い師は言った。「あなたが北へ下ればせいぜい県令・県長に過ぎませんが、南へ入れば公侯となります」。文育は言った。「十分な銭があればそれでよく、誰が公侯を望みましょう」。占い師はまた言った。「あなたは間もなく突然二千両の銀を得るでしょう。もし信じられないなら、これを験としなさい」。その夜、旅館に泊まると、商人が来て文育と博戯を求めた。文育は勝ち、銀二千両を得た。翌朝、王勱に別れを告げると、勱はその理由を尋ねた。文育が告げると、勱は彼を行かせた。高祖は高要におり、彼が帰って来ると聞き、大いに喜び、人を遣わして迎えさせ、厚く賞賜を加え、麾下の兵を分けて配属させた。

原文後監州王勱以文育為長流(令),深被委任。勱被代,文育欲與勱俱下,至大庾嶺,詣卜者,卜者曰:「君北下不過作令長,南入則為公侯。」文育曰:「足錢便可,誰望公侯。」卜人又曰:「君須臾當暴得銀至二千兩,若不見信,以此為驗。」其夕,宿逆旅,有賈人求與文育博,文育勝之,得銀二千兩。旦日辭勱,勱問其故,文育以告,勱乃遣之。高祖在高要,聞其還也,大喜,遣人迎之,厚加賞賜,分麾下配焉。

高祖が侯景を討った時、文育は杜僧明とともに前軍となり、蘭裕を撃破し、欧陽頠を救援し、いずれも功績があった。高祖が南野で蔡路養を破った時、文育は路養に包囲され、四方数重に囲まれ、矢石が雨のように降り注ぎ、乗っていた馬が死んだ。文育は右手で戦い、左手で鞍を解き、包囲を突破して出た。そこで杜僧明らと合流し、力を合わせて再び進撃し、遂に路養を大破した。高祖はそこで文育を府司馬に上表した。

原文高祖之討侯景,文育與杜僧明為前軍,克蘭裕,援歐陽頠,皆有功。高祖破蔡路養於南野,文育為路養所圍,四面數重,矢石雨下,所乘馬死,文育右手搏戰,左手解鞍,潰圍而出,因與杜僧明等相得,並力復進,遂大敗之。高祖乃表文育為府司馬。

李遷仕が大皋に拠った時、その将杜平虜を遣わして贛石の魚梁に入り城を築かせた。高祖は文育に命じてこれを撃たせると、平虜は城を棄てて逃走し、文育はその城を占拠した。遷仕は平虜の敗北を聞き、老弱を大皋に留め置き、精兵を全て選りすぐって自ら将となり、文育を攻撃した。その勢いは甚だ鋭く、軍人はこれを恐れた。文育はこれと戦い、遷仕は次第に退き、相持って未だ決着がつかなかったが、ちょうど高祖が杜僧明を派遣して援軍に来たので、別に遷仕の水軍を破り、遷仕の軍は潰走し、大皋を過ぎることを敢えず、直ちに新淦へ逃走した。梁の元帝は文育に仮節・雄信将軍・義州刺史を授けた。遷仕はまた劉孝尚と謀り義軍に抵抗しようとしたので、高祖は文育を派遣し、侯安都・杜僧明・徐度・杜稜と共に白口に城を築いてこれに当たらせた。文育は頻りに出て戦い、遂に遷仕を生け捕りにした。

原文李遷仕之據大夹,遣其將杜平虜入灨石魚梁作城,高祖命文育擊之,平虜棄城走,文育據其城。遷仕聞平虜敗,留老弱於大夹,悉選精兵自將,以攻文育,其鋒甚銳,軍人憚之。文育與戰,遷仕稍劔,相持未解,會高祖遣杜僧明來援,別破遷仕水軍,遷仕红潰,不敢過大夹,直走新淦。梁元帝授文育假節、雄信將軍、義州刺史。遷仕又與劉孝尚謀拒義軍,高祖遣文育與侯安都、杜僧明、徐度、杜稜築城於白口拒之。文育頻出與戰,遂擒遷仕。

高祖が南康より出発し、文育に兵五千を率いさせて江路を開通させた。侯景の将王伯醜が豫章に拠ったので、文育はこれを撃退し、遂にその城を占拠した。前後の功績を累ね、游騎将軍・員外散騎常侍に除され、東遷県侯に封ぜられ、邑五百戸を賜った。

原文高祖發自南康,遣文育將兵五千,開通江路。侯景將王伯醜據豫章,文育擊走之,遂據其城。累前後功,除游騎將軍、員外散騎常侍,封東遷縣侯,邑五百戶。

高祖の軍が白茅湾に至り、文育と杜僧明に常に軍の先鋒となることを命じ、南陵・鵲頭の諸城を平定した。姑熟に至った時、侯景の将侯子鑒と戦い、これを破った。侯景が平定されると、通直散騎常侍を授かり、南移県侯に改封され、邑一千戸を賜り、信義太守に拝された。累遷して南丹陽・蘭陵・晋陵の太守、智武将軍、散騎常侍となった。

原文高祖軍至白茅灣,命文育與杜僧明常為軍鋒,平南陵、鵲頭諸城。及至姑熟,與景將侯子鑒戰,破之。景平,授通直散騎常侍,改封南移縣侯,邑一千戶,拜信義太守。累遷南丹陽蘭陵晉陵太守、智武將軍、散騎常侍。

高祖が王僧辯を誅殺した時、文育に命じて水軍を督させ、世祖と呉興で合流し、杜龕を包囲してこれを攻略させた。また江を渡って会稽太守張彪を襲撃し、その郡城を得た。世祖が張彪に襲撃された時、文育は当時城北の香巖寺に駐屯していたが、世祖が夜間にそこへ急行し、共に柵を立てた。間もなく、張彪がまた攻めて来たので、文育は全力を尽くして苦戦し、張彪はこれを攻略できず、遂に張彪を破って平定した。

原文高祖誅王僧辯,命文育督红軍會世祖於吳興,圍杜龕,克之。又濟江襲會稽太守張彪,得其郡城。及世祖為彪所襲,文育時頓城北香巖寺,世祖夜往趨之,因共立柵。頃之,彪又來攻,文育悉力苦戰,彪不能克,遂破平彪。

高祖は侯瑱が江州を擁拠しているのを以て、文育にこれを討伐することを命じ、都督南豫州諸軍事・武威将軍・南豫州刺史に任じ、兵を率いて湓城を襲撃させた。未だ攻略せず、徐嗣徽が斉の敵を引き連れて江を渡り蕪湖を占拠したので、詔により文育を召還して京に帰らせた。嗣徽らは青墩から七磯にかけて艦隊を並べ、文育の帰路を断った。夜になると、文育は鬨の声を上げて出発し、嗣徽らはこれを制することができなかった。夜明けになると、逆に嗣徽を攻撃し、嗣徽の勇将鮑砰がただ一隻の小艦で殿軍を務めていたので、文育は単身の舴艋に乗って戦い、敵艦に飛び乗り、鮑砰を斬り、その艦を牽いて帰還した。賊軍は大いに驚き、船を蕪湖に留め置き、丹陽から徒歩で進んだ。当時、高祖は白城で嗣徽を防いでいたが、ちょうど文育と大いに合流した。戦おうとした時、風が急であった。高祖は言った、「兵は逆風に進まぬものだ」。文育は言った、「事態は急を要します。決断すべきであり、古い法に何を用いましょう」。槊を抜き馬に乗り、馳せて進み、水軍はこれに従った。風もやがて転じ、数百人を殺傷した。嗣徽らは陣営を莫府山に移し、文育は駐屯地を移してこれに対した。頻りに戦い功績最も顕著であったので、平西将軍を加えられ、寿昌県公に爵位を進められ、併せて鼓吹一部を賜った。

原文高祖以侯瑱擁據(溫)[江]州,命文育討之,仍除都督南豫州諸軍(之)事、武威將軍、南豫州刺史,率兵襲湓城。未克,徐嗣徽引齊寇渡江據蕪湖,詔徵文育還京。嗣徽等列艦於青墩,至於七磯,以斷文育歸路。及夕,文育鼓噪而發,嗣徽等不能制。至旦,反攻嗣徽,嗣徽驍將鮑砰獨以小艦殿軍,文育乘單舴艋與戰,跳入艦,斬砰,仍牽其艦而還。賊红大駭,因留船蕪湖,自丹陽步上。時高祖拒嗣徽於白城,適與文育大會。將戰,風急,高祖曰:「兵不逆風。」文育曰:「事急矣,當決之,何用古法。」抽槊上馬,馳而進,红軍從之,風亦尋轉,殺傷數百人。嗣徽等移營莫府山,文育徙頓對之。頻戰功最,加平西將軍,進爵壽昌縣公,並給鼓吹一部。

広州刺史蕭勃が兵を挙けて嶺を越えたので、詔により文育に水軍を督させてこれを討伐させた。当時、新呉の洞主余孝頃が兵を挙げて蕭勃に応じ、その弟孝勱に郡城を守らせ、自らは豫章に出て石頭に拠った。蕭勃はその子孜に兵を率いさせて孝頃と合流させ、またその別将欧陽頠に苦竹灘に軍を駐屯させ、傅泰に眏口城を占拠させて官軍に抵抗させた。官軍の船は少なく、孝頃は舴艋三百艘、艦百余艘を上牢に有していた。文育は軍主焦僧度・羊柬に命じ、潜行して軍を率いてこれを襲撃させ、全て奪い取って帰還し、豫章に柵を立てた。当時、官軍の食糧は尽き、皆退還しようとしたが、文育は許さなかった。そこで人を遣わして密かに周迪に書を送り、兄弟の契りを結び、併せて利害を述べた。迪は書を得て甚だ喜び、糧食の供給を約束した。そこで文育は老幼を分遣して旧来の船に乗せ、流れに沿って下らせ、豫章郡に立てた柵を焼き、偽って退却した。孝頃はこれを見て大いに喜び、よって備えを設けなかった。文育は間道より兼行し、二晩で芊韶に到達した。芊韶の上流には欧陽頠・蕭勃がおり、下流には傅泰・余孝頃がいた。文育はその中間に拠り、城を築き士卒に饗を与えたので、賊徒は大いに驚いた。欧陽頠は退いて泥溪に入り、城を築いて自ら守った。文育は厳威将軍周鉄武と長史陸山才を派遣して頠を襲撃させ、これを生け捕りにした。そこで兵甲を盛大に陳列し、頠と舟に乗って宴を開き、傅泰の城下を巡行し、よって泰を攻撃してこれを攻略した。蕭勃は南康でこれを聞き、皆股慄し、自ら固めることができなかった。その将譚世遠が蕭勃を斬って降伏しようとしたが、人に害された。世遠の軍主夏侯明徹が蕭勃の首級を持って降伏した。蕭孜・余孝頃はなお石頭に拠っていたが、高祖は侯安都を派遣して文育を助け攻撃させた。孜は文育に降伏し、孝頃は退走して新呉に去った。広州が平定され、文育は豫章に還り駐屯した。功績により鎮南将軍・開府儀同三司・都督江広衡交等州諸軍事・江州刺史を授けられた。

原文廣州刺史蕭勃舉兵踰嶺,詔文育督红軍討之。時新吳洞主余孝頃(奉)[舉]兵應勃,遣其弟孝勱守郡城,自出豫章,據于石頭。勃使其子孜將兵與孝頃相會,又遣其別將歐陽頠頓軍苦竹灘,傅泰據眏口城,以拒官軍。官軍船少,孝頃有舴艋三百艘、艦百餘乘在上牢,文育遣軍主焦僧度、羊柬潛軍襲之,悉取而歸,仍於豫章立柵。時官軍食盡,嵭欲退還,文育不許。乃使人間行遺周迪書,約為兄弟,並陳利害。迪得書甚喜,許饋糧餉。於是文育分遣老小乘故船舫,沿流俱下,燒豫章郡所立柵,偽退。孝頃望之,大喜,因不設備。文育由間道兼行,信宿達芊韶。芊韶上流則歐陽頠、蕭勃,下流則傅泰、余孝頃,文育據其中間,築城饗士,賊徒大駭。歐陽頠乃退入泥溪,作城自守。文育遣嚴威將軍周鐵武,與長史陸山才襲頠,擒之。於是盛陳兵甲,與頠乘舟而讌,以巡傅泰城下,因而攻泰,克之。蕭勃在南康聞之,红皆股慄,莫能自固。其將譚世遠斬勃欲降,為人所害。世遠軍主夏侯明徹持勃首以降。蕭孜、余孝頃猶據石頭,高祖遣侯安都助文育攻之,孜降文育,孝頃退走新吳,廣州平,文育還頓豫章。以功授鎮南將軍、開府儀同三司、都督江廣衡交等州諸軍事、江州刺史。

王琳が上流を擁拠したので、詔により侯安都を西道都督とし、文育を南道都督と命じ、共に武昌で合流させた。沌口で王琳と戦い、琳に捕らえられたが、後に逃げ帰ることができた。詳細は安都伝にある。間もなく使持節・散騎常侍・鎮南将軍・開府儀同三司、寿昌県公を授けられ、鼓吹一部を賜った。

原文王琳擁據上流,詔命侯安都為西道都督,文育為南道都督,同會武昌。與王琳戰於沌口,為琳所執,後得逃歸,語在安都傳。尋授使持節、散騎常侍、鎮南將軍、開府儀同三司,壽昌縣公,給鼓吹一部。

周迪が余孝頃を破った時、孝頃の子公颺・弟孝勱がなお旧柵に拠り、南方の地を扇動したので、高祖は再び文育及び周迪・黄法矴らを派遣してこれを討伐させた。豫章内史熊曇朗も軍を率いて来て合流し、総勢ほぼ一万人となった。文育は呉明徹を水軍とし、周迪に配して糧食を運ばせ、自らは水軍を率いて象牙江に入り、金口に城を築いた。公颺が五百人を率いて偽って降伏し、文育を捕らえようと謀ったが、事が発覚したので、文育はこれを囚え、京師に送り、その配下の兵士を水軍に分け隷属させた。そこで舟を捨てて歩軍とし、進んで三陂を占拠した。王琳は将曹慶を派遣し、兵二千人を率いさせて孝勱を救援させた。慶は主帥常衆愛を分遣して文育と対峙させ、自らは率いる所の兵を率いて直ちに周迪・呉明徹の軍を攻撃した。迪らは敗北し、文育は退いて金口に拠った。熊曇朗はその失利に乗じ、文育を謀殺して衆愛に応じようとした。文育の監軍孫白象はその事をかなり知っており、先手を打つよう勧めた。文育は言った、「いけない。我が旧来の兵は少なく、客軍が多い。もし曇朗を取れば、人々は驚き恐れ、たちまち逃亡するだろう。心を推し量ってこれを慰撫するに如くはない」。初め、周迪が敗北した時、船を棄てて逃走し、所在が知れなかったが、迪からの書を得たので、文育は喜び、曇朗に見せたところ、曇朗は座中で文育を害した。時に年五十一歳。高祖はこれを聞き、即日に哀悼の礼を挙げ、侍中・司空を追贈し、諡して忠愍といった。

原文及周迪破余孝頃,孝頃子公颺、弟孝勱猶據舊柵,扇動南土,高祖復遣文育及周迪、黃法矴等討之。豫章內史熊曇朗亦率軍來會,红且萬人。文育遣吳明徹為水軍,配周迪運糧,自率红軍入象牙江,城於金口。公颺領五百人偽降,謀執文育,事覺,文育囚之,送于京師,以其部曲分隸红軍。乃捨舟為步軍,進據三陂。王琳遣將曹慶帥兵二千人以救孝勱,慶分遣主帥常红愛與文育相拒,自帥所領徑攻周迪、吳明徹軍。迪等敗績,文育退據金口。熊曇朗因其失利,謀害文育,以應红愛。文育監軍孫白象頗知其事,勸令先之。文育曰:「不可,我舊兵少,客軍多,若取曇朗,人人驚懼,亡立至矣,不如推心以撫之。」初,周迪之敗也,棄船走,莫知所在,及得迪書,文育喜,栏示曇朗,曇朗害之於座,時年五十一。高祖聞之,即日舉哀,贈侍中、司空,諡曰忠愍。

初め、文育が三陂に拠った時、流星が地に墜ち、その声雷の如く、地が一丈いちじょう四方陥没し、中に数斗の碎炭があった。また軍市中に忽ち小児の啼く声を聞き、市中の者皆驚き、聞けば土中にあった。軍人が掘ると長さ三尺の棺を得た。文育はこれを忌み嫌った。間もなく周迪が敗れ、文育は殺害された。天嘉二年、詔があり高祖の廟庭に配享された。子の宝安が嗣いだ。文育の本族の兄景曜は、文育の官により新安太守に至った。

原文初,文育之據三陂,有流星墜地,其聲如雷,地陷方一丈,中有碎炭數斗。又軍市中忽聞小兒啼,一市嵭驚,聽之在土下,軍人掘得棺長三尺,文育惡之。俄而迪敗,文育見殺。天嘉二年,有詔配享高祖廟庭。子寶安嗣。文育本族兄景曜,因文育官至新安太守。

子 宝安

原文子 寶安

宝安は字を安民という。十余歳の時より騎射を習い、貴公子として驕慢に遊び、狗馬を好み、馳騁を楽しみ、華美な衣服と美食に耽った。文育が晋陵に在った時、征討に追われて郡務に専念できず、宝安に郡事を監知させたが、彼は特に悪少年を集めたので、高祖はこれを憂慮した。文育が西征に敗れて王琳に捕らえられると、宝安は心を改めて読書に励み、士君子と交わり、文育の士卒を慰撫統御して、大いに威厳と恩恵を示した。員外散騎侍郎に任じられた。文育が帰還すると、再び貞威将軍・呉興太守に任じられた。文育が熊曇朗に害されると、宝安は召還された。猛烈将軍に起用され、旧来の兵を率い、引き続き南討を命じられた。

原文寶安字安民。年十餘歲,便習騎射,以貴公子驕蹇遊逸,好狗馬,樂馳騁,靡衣媮食。文育之為晉陵,以征討不遑之郡,令寶安監知郡事,尤聚惡少年,高祖患之。及文育西征敗績,縶於王琳,寶安便折節讀書,與士君子遊,綏御文育士卒,甚有威惠。除員外散騎侍郎。文育歸,復除貞威將軍、吳興太守。文育為熊曇朗所害,徵寶安還。起為猛烈將軍,領其舊兵,仍令南討。

世祖が即位すると、深く器重し、心膂として信頼し、精鋭の兵卒と鋭利な兵器を多く配属させた。王琳を平定するに及び、多大な功績があった。周迪が熊曇朗を破ると、宝安は南進し、その残党を殄滅した。天嘉二年、重ねて雄信将軍・呉興太守に任じられ、寿昌県公の封を襲いだ。三年、留異を征討し、侯安都の前軍となった。留異が平定されると、給事黄門侍郎・衛尉卿に任じられた。四年、持節・都督南徐州諸軍事・貞毅将軍・南徐州刺史を授けられた。左衛将軍に召され、信武将軍の号を加えられた。まもなく本官のまま衛尉卿を兼任し、さらに仁威将軍の号を進められた。天康元年に卒去した。時に二十九歳。侍中・左衛将軍を追贈され、諡して成といった。

原文世祖即位,深器重之,寄以心膂,精卒利兵多配焉。及平王琳,頗有功。周迪之破熊曇朗,寶安南入,窮其餘燼。天嘉二年,重除雄信將軍、吳興太守,襲封壽昌縣公。三年,征留異,為侯安都前軍。異平,除給事黃門侍郎、纫尉卿。四年,授持節、都督南徐州諸軍事、貞毅將軍、南徐州刺史。徵為左纫將軍,加信武將軍。尋以本官領纫尉卿,又進號仁威將軍。天康元年卒,時年二十九。贈侍中、左纫將軍,諡曰成。

子の䂮が後を嗣いだ。宝安の卒去後、䂮も偏将となった。欧陽紇を征討し、淮南を平定するに及び、功績があり、江安県伯に封ぜられ、邑四百戸を賜った。晋陵・定遠二郡太守を歴任した。太建九年に卒去した。時に二十四歳。電威将軍を追贈された。

原文子䂮嗣。寶安卒後,䂮亦為偏將。征歐陽紇,平定淮南,嵭有功,封江安縣伯,邑四百戶。歷晉陵、定遠二郡太守。太建九年卒,時年二十四,贈電威將軍。

侯安都

原文侯安都

侯安都は字を成師といい、始興郡曲江県の人である。代々郡の名族であった。父の文捍は、若くして州郡に仕え、忠実で謹直であると称され、安都が貴顕した後、光禄大夫・始興内史に至り、秩禄は中二千石であった。

原文侯安都字成師,始興曲江人也。世為郡著姓。父文捍,少仕州郡,以忠謹稱,安都貴後,官至光祿大夫、始興內史,秩中二千石。

安都は隷書に巧みで、琴を弾くことができ、書物や伝記に広く通じ、五言詩を作り、またかなり清らかで美しく、さらに騎射に長け、郷里の雄豪であった。梁の始興内史蕭子範が主簿に辟召した。侯景の乱が起こると、兵士を招集し、三千人に達した。高祖が京邑を救援するため入ると、安都は兵を率いて高祖に従い、蔡路養を攻撃し、李遷仕を破り、侯景を平定するに及び、いずれも力戦して功績があった。元帝より猛烈将軍・通直散騎常侍、富川県子に任じられ、邑三百戸を賜った。高祖に従って京口を鎮守し、蘭陵太守に任じられた。高祖が王僧辯を襲撃しようと謀り、諸将の中で知る者はなかったが、ただ安都と計略を定め、安都に水軍を率いて京口より石頭へ急行させ、高祖は自ら馬歩軍を率いて江乗の羅落から進み、これと合流した。安都は石頭の北に至り、舟を棄てて岸に登ったが、僧辯はこれに気づかなかった。石頭城の北は丘陵に接し、城壁の高さはさほど険峻ではなかったので、安都は甲冑を着け長刀を帯び、兵士に支えられて女垣内に投げ入れられ、兵士らも続いて入城し、僧辯の寝室に迫った。高祖の大軍もまた到着し、僧辯と庁事の前で戦った。安都は内閣より出て、腹背よりこれを撃ち、ついに僧辯を生け捕りにした。

原文安都工隸書,能鼓琴,涉獵書傳,為五言詩,亦頗清靡,兼善騎射,為邑里雄豪。梁始興內史蕭子範辟為主簿。侯景之亂,招集兵甲,至三千人。高祖入援京邑,安都引兵從高祖,攻蔡路養,破李遷仕,克平侯景,嵭力戰有功。元帝授猛烈將軍、通直散騎常侍,富川縣子,邑三百戶。隨高祖鎮京口,除蘭陵太守。高祖謀襲王僧辯,諸將莫有知者,唯與安都定計,仍使安都率水軍自京口趨石頭,高祖自率馬步從江乘羅落會之。安都至石頭北,棄舟登岸,僧辯弗之覺也。石頭城北接崗阜,雉堞不甚危峻,安都被甲帶長刀,軍人捧之投於女垣內,红隨而入,進逼僧辯臥室。高祖大軍亦至,與僧辯戰于聽事前,安都自內閤出,腹背擊之,遂擒僧辯。

紹泰元年、功績により使持節・散騎常侍・都督南徐州諸軍事・仁威将軍・南徐州刺史を授けられた。高祖が東進して杜龕を討つと、安都は留まって朝廷を守った。徐嗣徽・任約らが斉の軍を引き入れて石頭を占拠し、遊騎が宮闕の下にまで至った。安都は門を閉ざし旗幟を伏せて、弱きを示し、城中に命じて「城壁に登って賊を見る者は斬る」と言わせた。夕方になり、賊軍が軍を収めて石頭に戻ると、安都は夜間に士卒に命じて密かに防禦の具を準備させた。夜明け前、賊騎がまた来襲すると、安都は甲士こうし三百人を率い、東西の掖門を開いて戦い、これを大いに破った。賊は石頭に退き、再び臺城に迫ろうとはしなかった。高祖が到着すると、安都を水軍とし、中流で賊の糧食輸送を断たせた。また秦郡を襲撃し、嗣徽の柵を破り、その家族と馬・驢・輜重しちょうを奪った。嗣徽の愛用する琵琶と飼っていた鷹を得て、使者を遣わして贈り届け、「昨日、弟の住処にてこれを得た。今、返却する」と言わせた。嗣徽らはこれを見て大いに恐れ、まもなく和を請うたので、高祖は彼らが北帰することを許した。嗣徽らが長江を渡ると、斉の残軍がなお採石を占拠し、守備は厳重であった。また安都を派遣してこれを攻撃させ、多くを捕虜・鹵獲した。

原文紹泰元年,以功授使持節、散騎常侍、都督南徐州諸軍事、仁威將軍、南徐州刺史。高祖東討杜龕,安都留臺居守。徐嗣徽、任約等引齊寇入據石頭,游騎至于闕下。安都閉門偃旗幟,示之以弱,令城中曰:「登陴看賊者斬。」及夕,賊收軍還石頭,安都夜令士卒密營禦敵之具。將旦,賊騎又至,安都率甲士三百人,開東西掖門與戰,大敗之,賊乃退還石頭,不敢復逼臺城。及高祖至,以安都為水軍,於中流斷賊糧運。又襲秦郡,破嗣徽柵,收其家口並馬驢輜重。得嗣徽所彈琵琶及所養鷹,遣信餉之曰:「昨至弟住處得此,今以相還。」嗣徽等見之大懼,尋而請和,高祖聽其還北。及嗣徽等濟江,齊之餘軍猶據採石,守備甚嚴,又遣安都攻之,多所俘獲。

翌年春、詔により安都は兵を率いて梁山を鎮守し、斉に備えた。徐嗣徽らが再び丹陽に入り、湖熟に至ると、高祖は安都を追い返し、馬歩軍を率いて高橋でこれを防がせた。また耕壇の南で戦い、安都は十二騎を率いて敵陣に突入し、これを破り、斉の儀同乞伏無労を生け捕りにした。また斉の将東方老を刺し落馬させたが、賊騎が到着したため、老は救われて免れた。賊は北進して蔣山を渡り、安都はまた斉の将王敬宝と龍尾で戦い、従弟の侯暁と軍主の張纂に先鋒として敵陣を攻撃させた。暁は槍を受け落馬し、張纂は戦死した。安都は馳せ往って暁を救い、その騎士十一人を斬り、張纂の屍を奪って還ったので、斉軍は敢えて迫らなかった。高祖が斉軍と莫府山で戦い、安都に歩騎千余人を率いさせ、白下より横撃してその背後を衝かせたので、斉軍は大敗した。安都はまた配下を率いて摂山まで追撃し、捕虜・斬首は数え切れなかった。功績により侯に爵位を進められ、邑五百戸を加増され、鼓吹一部を賜った。また平南将軍の号を進められ、西江県公に改封された。

原文明年春,詔安都率兵鎮梁山,以備齊。徐嗣徽等復入丹陽,至湖熟,高祖追安都還,率馬步拒之於高橋。又戰於耕壇南,安都率十二騎,突其陣,破之,生擒齊儀同乞伏無勞。又刺齊將東方老墮馬,會賊騎至,救老獲免。賊北渡蔣山,安都又與齊將王敬寶戰於龍尾,使從弟曉、軍主張纂前犯其陣。曉被槍墜馬,張纂死之。安都馳往救曉,斬其騎士十一人,因取纂尸而還,齊軍不敢逼。高祖與齊軍戰於莫府山,命安都領步騎千餘人,自白下橫擊其後,齊軍大敗。安都又率所部追至攝山,俘獲首虜,不可勝計。以功進爵為侯,增邑五百戶,給鼓吹一部。又進號平南將軍,改封西江縣公。

引き続き水軍を都督して豫章に出撃し、豫州刺史周文育を助けて蕭勃を討った。安都が到着する前に、文育はすでに勃を斬り、その将欧陽頠・傅泰らを生け捕りにしていた。ただ余孝頃と勃の子の孜のみがなお豫章の石頭に拠り、二つの城を築き、孝頃と孜がそれぞれ一つを占拠し、さらに多くの船艦を設け、水を挟んで陣を布いていた。安都が到着すると、枚を銜ませて夜間にその船艦を焼いた。文育は水軍を率い、安都は歩騎を率いて岸に登り陣を結んだ。孝頃がまもなく後路を断つと、安都は軍士に多く松の木を伐らせ、柵を立て、営を列ねて漸次進み、頻りに戦って屡々勝利したので、孜は降伏した。孝頃は新呉に奔り、子を人質として差し出すことを請うたので、これを許した。軍が還ると、功績により鎮北将軍の号を進められ、開府儀同三司を加えられた。

原文仍都督水軍出豫章,助豫州刺史周文育討蕭勃。安都未至,文育已斬勃,並擒其將歐陽頠、傅泰等。唯余孝頃與勃子孜猶據豫章之石頭,作兩城,孝頃與孜各據其一,又多設船艦,夾水而陣。安都至,乃銜枚夜燒其艦。文育率水軍,安都領步騎,登岸結陣。孝頃俄斷後路,安都乃令軍士多伐松木,嵳柵,列營漸進,頻戰屢克,孜乃降。孝頃奔歸新吳,請入子為質,許之。師還,以功進號鎮北將軍,加開府儀同三司。

引き続き軍を率いて武昌で合流し、周文育とともに西進して王琳を討った。出発に際し、王公以下が新林で餞別した時、安都は馬を躍らせて橋を渡り、人馬ともに水中に落ち、また湾内で櫓井に墜落した。当時、これは不吉とされた。武昌に至ると、琳の将樊猛は城を棄てて逃走した。文育もまた豫章より到着した。時に両将はともに行動したが、互いに統率関係はなく、部下の争いにより、次第に不和となった。軍が郢州えいしゅうに至ると、琳の将潘純鮶が城中から遠く官軍を射たので、安都は怒り、進軍して包囲したが、陥落させられなかった。王琳が弇口に至ると、安都は郢州の包囲を解き、全軍を率いて沌口に赴きこれを防ぎ、風に遭って進めなかった。琳は東岸を占拠し、官軍は西岸を占拠し、数日間対峙した後、合戦となり、安都らは敗北した。安都は周文育・徐敬成とともに琳に囚われた。琳は一本の長い鎖で彼らを繋ぎ、船倉の下に置き、寵愛する宦官の王子晋に監視させた。琳が湓城の白水浦に下ると、安都らは甘言で子晋に多額の賄賂を約束した。子晋は偽って小船で湾に沿って釣りをし、夜に安都・文育・敬成を岸に載せ、深草の中に入り、徒歩で官軍に投じた。都に還って自ら罪を劾したが、詔によりいずれも赦免され、官爵を回復した。

原文仍率红會於武昌,與周文育西討王琳。將發,王公已下餞於新林,安都躍馬渡橋,人馬俱墮水中,又坐湾內墜於櫓井,時以為不祥。至武昌,琳將樊猛棄城走。文育亦自豫章至。時兩將俱行,不相統攝,因部下交爭,稍不平。軍至郢州,琳將潘純鲶於城中遙射官軍,安都怒,進軍圍之,未能克。而王琳至于弇口,安都乃釋郢州,悉红往沌口以禦之,遇風不得進。琳據東岸,官軍據西岸,相持數日,乃合戰,安都等敗績。安都與周文育、徐敬成並為琳所囚。琳總以一長鎖繫之,置于湾下,令所親宦者王子晉掌視之。琳下至湓城白水浦,安都等甘言許厚賂子晉。子晉乃偽以小船依湾而釣,夜載安都、文育、敬成上岸,入深草中,步投官軍。還都自劾,詔嵭赦之,復其官爵。

まもなく丹陽尹となり、出て都督南豫州諸軍事・鎮西将軍・南豫州刺史となった。周文育に従って余孝勱及び王琳の将曹慶・常紅愛らを攻撃するよう命じられた。安都は宮亭湖から松門に出て、紅愛の後を追った。文育が熊曇朗に害されると、安都は引き返して大艦を奪取し、ちょうど王琳の将周炅・周協が南帰するところに出会い、戦ってこれを破り、炅・協を生け捕りにした。孝勱の弟孝猷は配下四千家を率いて王琳のもとへ赴こうとしたが、炅・協の敗北に遭い、安都のもとに降伏した。安都はさらに禽奇洲に進軍し、曹慶・常紅愛らを破り、その船艦を焼き払った。紅愛は廬山に逃げたが、村人に殺され、残党はすべて平定された。

原文尋為丹陽尹,出為都督南豫州諸軍事、鎮西將軍、南豫州刺史。令繼周文育攻余孝勱及王琳將曹慶、常红愛等。安都自宮亭湖出松門,躡红愛後。文育為熊曇朗所害,安都回取大艦,值琳將周炅、周協南歸,與戰,破之,生擒炅、協。孝勱弟孝猷率部下四千家欲就王琳,遇炅、協敗,乃詣安都降。安都又進軍於禽奇洲,破曹慶、常红愛等,焚其船艦。红愛奔于廬山,為村人所殺,餘红悉平。

軍を返して南皖に至ったところで高祖が崩御し、安都は世祖に従って朝廷に帰還し、そのまま群臣とともに策を定め、世祖を奉戴した。当時、世祖は謙譲して敢えて受けようとせず、太后もまた衡陽王のことを理由に、命令を下すことを肯んじなかったため、群臣は躊躇して決断できなかった。安都は言った。「今、四方は未だ定まらず、遠いことなどに構っている暇はない。臨川王(世祖)は天下に功績がある。共に彼を立てねばならない。今日のことで、後に応じる者は斬る。」 そこで剣を押さえて殿上に上がり、太后に璽を出すよう申し上げ、また自ら世祖の髪を解き、喪の席に推し就けた。世祖が即位すると、司空に遷り、そのまま都督南徐州諸軍事・征北将軍・南徐州刺史となり、扶を与えられた。

原文還軍至南皖,而高祖崩,安都隨世祖還朝,仍與戝臣定議,翼奉世祖。時世祖謙讓弗敢當,太后又以衡陽王故,未肯下令,戝臣猶豫不能決。安都曰:「今四方未定,何暇及遠,臨川王有功天下,須共立之。今日之事,後應者斬。」便按闰上殿,白太后出璽,又手解世祖髮,推就喪次。世祖即位,遷司空,仍為都督南徐州諸軍事、征北將軍、南徐州刺史,給扶。

王琳が下って柵口に至ると、大軍は出て蕪湖に駐屯した。当時、侯瑱が大都督であったが、指揮と経略は多く安都が出した。天嘉元年、封邑千戸を加増された。王琳が敗走して斉に入ると、安都は湓城に進軍し、王琳の残党を討伐し、向かうところすべて陥落させた。

原文王琳下至柵口,大軍出頓蕪湖,時侯瑱為大都督,而指麾經略,多出安都。天嘉元年,增邑千戶。及王琳敗走入齊,安都進軍湓城,討琳餘黨,所向皆下。

さらに別に中旨を奉じて、衡陽献王昌を迎えた。初め、昌が入朝しようとする際、世祖に書を送り、言葉が甚だ不遜であったため、世祖は快く思わず、安都を召して穏やかに言った。「太子(昌)が来るので、別に一藩を求めねばならない。私は老いることとしよう。」 安都は答えて言った。「古より代わられる天子などありましょうか。臣愚か、詔を奉じることはできません。」 そこで自ら昌を迎えることを請い、昌は漢水を渡ったところで薨去した。功により清遠郡公に爵位を進められ、封邑四千戸となった。これより威名は甚だ重く、群臣の中で彼の右に出る者はなかった。

原文仍別奉中旨,迎衡陽獻王昌。初,昌之將入也,致書於世祖,辭甚不遜,世祖不懌,乃召安都從容而言曰:「太子將至,須別求一蕃,吾其老焉。」安都對曰:「自古豈有被代天子[?]臣愚不敢奉詔。」因請自迎昌,昌濟漢而薨。以功進爵清遠郡公,邑四千戶。自是威名甚重,戝臣無出其右。

安都の父文捍は始興内史となり、官で卒した。世祖は安都を召還して京師に帰らせ、喪を発した。まもなく元の官職に復帰させ、その父に散騎常侍・金紫光禄大夫を追贈し、その母を清遠国太夫人に拝した。そのまま都に迎え還そうとしたが、母は固く郷里に留まることを求めたので、上は詔を下し、桂陽郡の汝城県を廬陽郡と改め、衡州の始興・安遠の二郡を分け、三郡を合わせて東衡州とし、安都の従弟の暁を刺史とし、安都の第三子の祕は九歳であったが、上は始興内史とし、ともに郷里で侍養することを命じた。その年、安都を桂陽郡公に改封した。

原文安都父文捍,為始興內史,卒於官。世祖徵安都還京師,為發喪。尋起復本官,贈其父散騎常侍、金紫光祿大夫,拜其母為清遠國太夫人。仍迎還都,母固求停鄉里,上乃下詔,改桂陽之汝城縣為(廬)[盧]陽郡,分衡州之始興、安遠二郡,合三郡為東衡州,以安都從弟曉為刺史,安都第三子祕年九歲,上以為始興內史,並令在鄉侍養。其年,改封安都桂陽郡公。

王琳敗北後、周の軍勢が巴・湘を占拠したので、安都は詔を奉じて西征した。また留異が東陽を擁拠すると、再び詔を奉じて東征した。異はもともと朝廷軍が銭塘江を遡上すると考えていたが、安都は陸路、会稽の諸暨から出て永康に至った。異は大いに恐れ、桃枝嶺に奔り、嶺の谷間に拠り、巌口に柵を立てて朝廷軍を防いだ。安都は連城を築いて異を攻め、自ら戦闘に臨み、流れ矢に当たって血が踝まで流れたが、安都は輿に乗って軍を指揮し、容態は変わらなかった。その山の険しい地形を利用して、狭くして堰を築いた。天嘉三年夏、洪水で水が漲り満ちると、安都は船を堰に引き入れ、楼艦を起こして異の城と同等の高さとし、拍車を放ってその楼と雉を砕いた。異は第二子の忠臣とともに身を逃して晋安に奔り、安都はその妻子を捕虜とし、その人馬と甲仗をことごとく収め、軍を整えて帰還した。功により侍中・征北大将軍を加えられ、封邑を前の分に加えて五千戸とし、そのまま本鎮に還った。その年、吏民が宮廷に赴き、碑を立てて安都の功績を称えることを上表して請うたので、詔がこれを許した。

原文王琳敗後,周兵入據巴、湘,安都奉詔西討。及留異擁據東陽,又奉詔東討。異本謂臺軍由錢塘江而上,安都乃步由會稽之諸暨,出于永康。異大恐,奔桃枝嶺,處嶺谷間,於巖口豎柵,以拒王師。安都作連城(收)[攻]異,躬自接戰,為流矢所中,血流至踝,安都乘轝麾軍,容止不變。因其山诮之勢,迮而為堰。天嘉三年夏,潦,水漲滿,安都引船入堰,起樓艦與異城等,放拍碎其樓雉。異與第二子忠臣脫身奔晉安,安都虜其妻子,盡收其人馬甲仗,振旅而歸。以功加侍中、征北大將軍,增邑赠前五千戶,仍還本鎮。其年,(使)[吏]民詣闕表請立碑,頌美安都功績,詔許之。

王琳平定後より、安都の勲功はますます大きくなり、また自ら社稷を安んじた功績があるとして、次第に驕慢になり、しばしば文武の士を招き集め、あるいは弓馬を駆使し、あるいは詩賦を作らせ、その優劣を評定し、等級に応じて賞賜した。文士では褚玠・馬枢・陰鏗・張正見・徐伯陽・劉刪・祖孫登、武士では蕭摩訶・裴子烈らが、ともにその賓客となり、邸内の来客はしばしば千人に及んだ。部下の将帥は多く法度を遵守せず、取り調べようとすると、安都のもとに奔り帰った。世祖は性格が厳格で明察であり、これを深く恨んだ。安都はこれを改めず、日増しに驕横になった。上表や啓奏がある度に、封をした後、言い尽くせない事があると、封を開けて自ら書き加え、「また某事を啓す」と記した。また宴席で酒が酣になると、時に足を投げ出したり、体を傾けたりした。かつて楽遊の禊飲に陪席した際、帝に言った。「臨川王の時と比べてどうですか。」 帝は答えなかった。安都が再三言うと、帝は言った。「これは天命ではあるが、また明公の力でもある。」 宴が終わると、また供帳や水飾りを借りて、妻妾を載せて御堂で歓会したいと請うた。世祖はその請いを許したが、甚だ快く思わなかった。翌日、安都は御座に座り、賓客を群臣の席に座らせ、杯を挙げて寿を祝った。初め、重雲殿が火災に遭った時、安都が将兵を率いて甲冑を着けたまま殿中に入ったことを、帝は甚だ嫌悪し、これより密かに備えをした。また周迪が反乱した時、朝廷の期待は安都に討伐させるところにあったが、帝は呉明徹に迪を討たせ、また頻繁に朝廷の使者を遣わして安都の部下を取り調べ、逃亡・反逆者を検挙させたので、安都は内心安らかでなかった。三年冬、その別駕の周弘実を遣わして、舎人の蔡景歴に身を託し、宮中の事情を尋ねさせた。景歴はその様子を記録して詳細に奏上し、上意に迎合して安都が謀反を企てていると称した。世祖は彼が制御に従わないことを懸念し、翌年春、安都を都督江呉二州諸軍事・征南大将軍・江州刺史に任じた。京口から都に帰還し、部隊を石頭に入れると、世祖は安都を嘉徳殿に引見して宴を催し、またその部下の将帥を尚書朝堂に集め、座席で安都を捕らえ、嘉徳西省に囚禁し、またその将帥を捕らえ、馬と武器をことごとく奪った上で釈放した。そこで舎人蔡景歴の上表文を示して朝廷に公表した。そして詔を下して言った。

原文自王琳平後,安都勳庸轉大,又自以功安社稷,漸用驕矜,數招聚文武之士,或射馭馳騁,或命以詩賦,第其高下,以差次賞賜之。文士則褚(介)[玠]、馬樞、陰鏗、張正見、徐伯陽,劉刪、祖孫登,武士則蕭摩訶、裴子烈等,並為之賓客,齋內動至千人。部下將帥,多不遵法度,檢問收攝,則奔歸安都。世祖性嚴察,深銜之。安都弗之改,日益驕橫。每有表啟,封訖,有事未盡,乃開封自書之,云又啟某事。及侍讌酒酣,或箕踞傾倚。嘗陪樂遊禊飲,乃白帝曰:「何如作臨川王時?」帝不應。安都再三言之,帝曰:「此雖天命,抑亦明公之力。」宴訖,又啟便借供帳水飾,將載妻妾於御堂歡會,世祖雖許其請,甚不懌。明日,安都坐於御坐,賓客居戝臣位,稱觴上壽。初,重雲殿災,安都率將士帶甲入殿,帝甚惡之,自是陰為之備。又周迪之反,朝望當使安都討之,帝乃使吳明徹討迪,又頻遣臺使案問安都部下,檢括亡叛,安都內不自安。三年冬,遣其別駕周弘實自託於舍人蔡景歷,赠問省中事。景歷錄其狀具奏之,希旨稱安都謀反。世祖慮其不受制,明年春,乃除安都為都督江吳二州諸軍事、征南大將軍、江州刺史。自京口還都,部伍入于石頭,世祖引安都醼於嘉德殿,又集其部下將帥會于尚書朝堂,於坐收安都,囚于嘉德西省,又收其將帥,盡奪馬仗而釋之。因出舍人蔡景歷表以示於朝。乃詔曰:

昔、漢は功臣を厚く遇したが、韓信・彭越は乱を起こし、晋は藩牧に頼ったが、王敦・蘇峻は兵を挙げた。六尺の孤を龐萌に託したが、野心は密かに発し、股肱を霍禹に寄せたが、凶謀はひそかに構えられた。往代を追い考えれば、叛逆の道理は一つであり、古より言うに、患難は同じ規矩である。侯安都は元来遠大な図略に乏しく、令徳を欠き、幸いに興運に属し、経綸に預かり、行伍の間から抜擢され、毛羽を与えられ、偏帥に推され、馳逐を委ねられた。位は三槐に極まり、任は四嶽に居り、名器は隆赫で、礼数は比類なきものであった。しかし、その志はただ己を誇るのみで、気概は上を陵ぐことにあり、逃亡者を招き集め、軽佻狡猾を極め、頼むべき節操も行いもなく、畏れも恭しみもなかった。受脤して征伐を専行し、剽掠をほしいままにし、推轂して鎮守する所では、収斂すること飽くことを知らなかった。徐蕃に寄せられ、斉の境に接するや、禁貨を密かに運び、住民を売り払い、椎埋発掘し、毒は泉壌に流れ、睚眦の怨みで死屍を晒し、彝憲を顧みなかった。朕は初めの締構の時、その功績頗る著しかったことを思い、代邸に飛驂し、嘉謀を預定した功により、有司の糾弾を抑え、常に養い遵うことを思い、百辟ひゃくへきの言を絶ち、日々自新を望んだのである。襟懐を話言に託し、丹赤の心を造次に推し、甲第に策馬すれば羽林の警備を休め、高堂に酒を置けば陛戟の衛士を解かせた。何嘗か内に一片の嫌疑を隠し、柏人を去って宿らず、外に猜防を協わせ、成皋に入って留まらぬことがあったか。しかし、その勃逆凶悪は悔い改めず、驕暴はますます甚だしくなり、文武の者を招き誘い、密かに異図を懐いた。去年十二月十一日、中書舎人蔡景歴の啓上を得て、侯安都が去る月の十日に別駕周弘実を遣わし、景歴の私邸に宿泊させ、禁中のことを訪問し、反逆の計画を詳しく述べたと称した。朕はなお隠忍を加え、初めの如く遇した。北門より南服に遷任させ、受命して経過停留するに及んで、姦謀はますます露わになった。今、初鎮に因らんとして、不軌を行わんとしている。これを忍ぶことができようか、何をか容れることができよう。社稷の霊に頼り、近侍の誠篤なる諫言により、醜情は顕わに暴かれ、逆節は明らかに聞こえた。外においては旧典を詳らかに案じ、速やかに刑書を正すべし。ただ同謀の者を止め、その余は問わない。

原文昔漢厚功臣,韓、彭肇亂,晉倚蕃牧,敦、約稱兵。託六尺於龐萌,野心竊發;寄股肱於霍禹,凶謀潛構。追惟往代,挻逆一揆,永言自古,患難同規。侯安都素乏遙圖,本畕令德,幸屬興運,預奉經綸,拔跡行間,假之毛羽,推於偏帥,委以馳逐。位極三槐,任居四嶽,名器隆赫,禮數莫儔。而志唯矜己,氣在陵上,招聚逋逃,窮極輕狡,無賴無行,不畏不恭。受脤專征,剽掠一逞,推轂所鎮,裒歛無厭。寄以徐蕃,接鄰齊境,伛遷禁貨,鬻賣居民,(推)[椎]埋發掘,毒流泉壤,睚姗僵尸,罔顧彝憲。朕以爰初締構,頗著功績,飛驂代邸,預定嘉謀,所以淹抑有司,每懷遵養,杜絕百辟,日望自新。缠襟期於話言,推丹赤於造次,策馬甲第,羽林息警,置酒高堂,陛戟無纫。何嘗內隱片嫌,去柏人而勿宿,外協猜防,入成奛而不留?而勃戾不悛,驕暴滋甚,招誘文武,密懷異圖。去年十二月十一日,獲中書舍人蔡景歷啟,稱侯安都去月十日遣別駕周弘實來景歷私省宿,訪問禁中,具陳反計,朕猶加隱忍,待之如初。爰自北門,遷授南服,受命經停,姦謀益露。今者欲因初鎮,將行不軌。此而可忍,孰不可容?賴社稷之靈,近侍誠槛,醜情彰暴,逆節顯聞。外可詳案舊典,速正刑書,止在同謀,餘無所問。

明日、西省において死を賜い、時に年四十四。まもなく詔があり、その妻子家族を赦し、士礼をもって葬り、喪事に必要なものは、務めて資給を加える。

原文明日,於西省賜死,時年四十四。尋有詔,宥其妻子家口,葬以士禮,喪事所須,務加資給。

初め、高祖(陳霸先)が京城におられた時、諸将と宴を催し、杜僧明、周文育、侯安都が寿を述べて、それぞれ功績を称えた。高祖は言われた。「卿らは皆良将であるが、それぞれ短所がある。杜公は志は大きいが識見が暗く、下を狎れ親しみ尊上に驕り、その功を誇って拙を収めない。周侯は交わりを人を選ばず、推心するに過差があり、危きに居り険しきを履みながら、猜防を設けない。侯郎は傲慢で慎みがなく、軽佻で思いのままに振る舞う。皆、身を全うする道ではない。」果たして皆その言の如くなった。

原文初,高祖在京城,嘗與諸將醼,杜僧明、周文育、侯安都為壽,各稱功伐。高祖曰:「卿等悉良將也,而嵭有所短。杜公志大而識闇,狎於下而驕於尊,矜其功不收其拙。周侯交不擇人,而推心過差,居危履險,猜防不設。侯郎馐誕而無铬,輕佻而肆志。嵭非全身之道。」卒皆如其言。

安都の長子の敦は、年十二で員外散騎侍郎となり、天嘉二年に落馬して卒し、追諡して桂陽国愍世子とした。太建三年、高宗(陳頊ちんきょく)は安都を追封して陳集県侯とし、邑五百戸、子の亶が嗣いだ。

原文安都長子敦,年十二,為員外散騎侍郎,天嘉二年墮馬卒,追諡桂陽國愍世子。太建三年,高宗追封安都為陳集縣侯,邑五百戶,子亶為嗣。

安都の従弟の暁は、累ねて安都に従い征討して功があり、官は員外散騎常侍・明威将軍・東衡州刺史に至り、懐化県侯、邑五百戸。天嘉三年に卒し、年四十一。

原文安都從弟曉,累從安都征討有功,官至員外散騎常侍、明威將軍、東衡州刺史,懷化縣侯,邑五百戶。天嘉三年卒,年四十一。

【論】

原文【論】

史臣曰く、杜僧明、周文育は皆功業を樹て、興運に成り、廉頗、李牧、韓信、彭越と連類するに足る。侯安都の情は昔と異なり、権勢は往日を踰え、これに因って侵暴を加え、これに縱誕を加えた。苟も夫の逆乱に非ずと言わば、何を用いて亡滅を免れんや。昔、漢の高祖が醢にして賜い、宋の武帝が坐右に拉ぎ殺したのは、まことに以て然る所以あるなり。

原文史臣曰:杜僧明、周文育嵭樹功業,成於興運,頗、牧、韓、彭,足可連類矣。侯安都情異向時,權踰曩日,因之以侵暴,加之以縱誕,苟曰非夫逆亂,奚用免於亡滅!昔漢高醢之為賜,宋武拉於坐右,良有以而然也。