陳書
巻十二 列伝第六 胡穎 徐度 杜稜 沈恪
胡穎
胡穎は 字 を方秀といい、呉興郡東遷県の人である。その祖先は呉興に寓居し、土断によって民となった。胡穎は姿形が雄偉で、性質は寛厚であった。梁の時代に仕えて武陵国侍郎、東宮直前に至った。番禺に出て、俚洞を征討し、広州西江督護であった 高祖 ( 陳霸先 )が広州に在った時、胡穎は自ら高祖に結びつき、高祖は彼と同郡であったので、待遇は甚だ厚かった。南征して交趾を討つに及び、胡穎は従軍し、その他の諸将帥は皆その下にあった。李賁を平定した後、高祖が軍を返すと、胡穎は西江に属し、出兵の際は多く胡穎に留守を任せた。
侯景 の乱の時、高祖が元景仲を撃破し、嶺を渡って朝廷を救援し、蔡路養・李遷仕を平定したが、胡穎は皆功績があった。平固・遂興の二県令を歴任した。高祖が軍を進めて西昌に頓すると、胡穎を巴丘県令とし、大皋を鎮守させ、糧運を監督させた。 豫 章に下ると、胡穎に 豫 章郡を監させた。高祖が衆を率いて王僧辯と白茅湾で会し、共に侯景を討った時、胡穎に留府の事を知らせた。
梁の承聖元年、元帝は胡穎に仮節・鉄騎将軍・羅州 刺史 を授け、漢陽県侯に封じ、邑五百戸を与えた。まもなく 豫 章内史に任じ、高祖に従って京口を鎮守した。斉が郭元建を遣わして関を出させると、 都督 侯瑱が師を率いてこれを防いだ。高祖は府内の 驍 勇三千人を選び胡穎に配し、侯瑱に従わせ、東関でこれを大破した(元建を)。三年、高祖が広陵を包囲すると、斉人の東方光が宿預を拠って降伏を請うたので、胡穎を五原太守とし、 杜僧明 に従って東方光を救援させたが、成功せず退還し、曲阿令に任じた。まもなく馬軍を領し、高祖に従って王僧辯を襲撃した。また 周文育 に従って呉興で杜龕を討った。紹泰元年、仮節・ 都督 南 豫 州諸軍事・軽車将軍・南 豫 州刺史に任じられた。太平元年、持節・ 散騎常侍 ・仁威将軍に任じられた。まもなく丹陽尹を兼ねた。
高祖が禅を受けると、左衛将軍を兼ね、その他の官は元の通りであった。永定三年、 侯安都 に従って王琳を征し、宮亭で賊帥の常衆愛らを撃破した。世祖が位を嗣ぐと、侍中・ 都督 呉州諸軍事・宣恵将軍・呉州刺史に任じられた。赴任せず、まもなく義興太守となり、将軍の号は元の通りであった。天嘉元年、 散騎常侍 ・呉興太守に任じられた。その年の六月に卒去した。時に五十四歳。侍中・中護軍を追贈され、諡して壮といった。二年、高祖の廟庭に配享された。子の六同が嗣いだ。
胡穎の弟の鑠も、胡穎に従って将軍となった。胡穎が卒去すると、鑠がその衆を統率した。東海・ 豫 章の二郡守を歴任し、員外 散騎常侍 に遷った。 章昭達 に従って南征し欧陽紇を平定し、広州東江督護となった。還って北伐に参与し、雄信将軍・歴陽太守に任じられた。太建六年に卒去し、桂州刺史を追贈された。
徐度
徐度は字を孝節といい、安陸の人である。代々京師に居住した。若い頃は倜儻として小節に拘らなかった。成長すると、姿貌は瑰偉で、酒を嗜み博奕を好み、常に僮僕に屠酤を業とさせた。梁の始興内史蕭介が郡に赴く時、徐度はこれに従い、士卒を将領して諸山洞を征討し、 驍 勇をもって知られた。高祖が交趾を征する時、厚礼をもって招くと、徐度は身を委ねた。
侯景の乱の時、高祖が広州を平定し、蔡路養を平らげ、李遷仕を破ったが、計画の多くは徐度の出ずるところであった。兵甲を兼ねて統べ、戦う毎に功績があった。白茅湾に帰還すると、梁の元帝は寧朔将軍・合州刺史を授けた。侯景平定後、前後の戦功を追録し、通直 散騎常侍 を加えられ、広徳県侯に封じられ、邑五百戸を与えられた。 散騎常侍 に遷った。
高祖が朱方を鎮守すると、信武将軍・蘭陵太守に任じられた。高祖が衡陽献王を遣わして荊州を平定する時、徐度は率いる所領を従えた。江陵が陥落すると、間道を行って東帰した。高祖が王僧辯を平定する時、徐度は侯安都と共に水軍となった。紹泰元年、高祖が東征して杜龕を討ち、敬帝を奉じて京口に幸すると、徐度に宿衛を領させ、併せて留府の事を知らせた。
徐嗣徽・任約らが来寇すると、高祖は敬帝と共に都に還った。時に賊は既に石頭城を占拠し、市街の居民は皆南路にあり、台城から遠く離れていたので、賊に乗ぜられることを恐れ、徐度に兵を将いて冶城寺に鎮守させ、塁を築いてこれを遮断させた。賊は衆を悉くして来攻したが、陥とすことができなかった。高祖はまもなくこれを救援し、任約らを大破した。翌年、徐嗣徽らがまた斉の軍を引きいて江を渡ると、徐度は衆軍に従ってこれを北郊壇で破った。功により信威将軍・郢州刺史に任じられ、呉興太守を兼ねた。まもなく鎮右将軍・領軍将軍・徐州縁江諸軍事・鎮北将軍・南徐州刺史に遷り、鼓吹一部を与えられた。
周文育・侯安都らが西征して王琳を討ったが、敗績して王琳に拘束されたので、徐度を前軍 都督 とし、南陵に鎮守させた。世祖が位を嗣ぐと、侍中・中撫軍将軍・開府儀同三司に遷り、爵位を公に進めた。拝せずして、使持節・ 散騎常侍 ・鎮東将軍・呉郡太守として出された。天嘉元年、邑千戸を増やされた。王琳平定の功により、湘東郡公に改封され、邑四千戸を与えられた。任期が満ちると、侍中・中軍将軍となった。使持節・ 都督 会稽東陽臨海永嘉新安新寧信安 晋 安建安九郡諸軍事・鎮東将軍・会稽太守として出された。赴任せずして 太尉 侯瑱が湘州で 薨 じたので、徐度を代わりに侯瑱の 都督 湘沅武巴郢桂六州諸軍事・鎮南将軍・湘州刺史とした。任期が満ちると、侍中・中軍大将軍となり、儀同・鼓吹は共に元の通りであった。
世祖が崩ずると、徐度は顧命に預かり、甲仗五十人を率いて殿省に入った。 廃帝 が即位すると、 司空 に進位した。華皎が湘州に拠って反し、周の兵を引きいて沌口に下り、王師と相持すると、徐度に使持節・車騎将軍を加え、歩軍を総督させ、安成郡から嶺路を経て湘東に出て、湘州を襲撃させ、その留め置いた軍人の家族を尽く捕らえて帰還させた。光大二年に 薨去 した。時に六十歳。太尉を追贈され、班剣二十人を与えられ、諡して忠粛といった。太建四年、高祖の廟庭に配享された。子の敬成が嗣いだ。
子は敬成。
敬成は幼くして聡明で、書を読むことを好み、少時より機警にして、応対に長じ、文義の士と交わり、識鑑をもって知られた。著作郎として起家する。永定元年、度の所部の士卒を領し、周文育・侯安都に従って王琳を征し、沌口にて敗績し、琳に捕らえられる。二年、文育・安都に従って帰還を得、太子舎人に除され、洗馬に遷る。(敬成の父)度が呉郡太守となると、敬成をして郡を監せしむ。天嘉二年、太子中舎人に遷り、湘東郡公の世子に拝される。四年、度が湘州より朝廷に還ると、士馬精鋭にして、敬成はその衆を尽く領す。章昭達に従って陳宝応を征し、晋安を平らげ、貞威将軍・ 豫 章太守に除される。光大元年、華皎が謀反を図ると、敬成を仮節・ 都督 巴州諸軍事・雲旗将軍・巴州刺史となす。まもなく 詔 して水軍と為し、呉明徹に従って華皎を征し、皎が平らぎて州に還る。太建二年、父の憂いにより職を去る。まもなく起きて持節・ 都督 南 豫 州諸軍事・壮武将軍・南 豫 州刺史となる。四年、湘東郡公の爵を襲ぎ、太子右衛率を授かる。
五年、貞威将軍・呉興太守に除される。その年、 都督 呉明徹に従って北討し、秦郡より出で、別に敬成を 都督 として遣わし、金翅に乗り欧陽引埭より江を遡り広陵に由る。斉人は皆城を守り、敢えて出でず。繁梁湖より淮に下り、淮陰城を囲む。引き続き北兗州を監す。淮・泗の義兵相率いて呼応し、一二日の間に、衆数万に至り、遂に淮陰・山陽・塩城の三郡、及び連口・朐山の二戍を克つ。引き続き鬱州に進攻し、これを克つ。功により通直 散騎常侍 ・雲旗将軍を加えられ、邑五百戸を増やす。また壮武将軍に進号し、朐山に鎮す。軍中において勝手に科訂し、併せて新附の者を誅した罪により、官を免ぜられる。まもなく再び持節・ 都督 安元潼三州諸軍事・安州刺史となり、将軍は元の如く、宿預に鎮す。七年に卒す。時に年三十六。 散騎常侍 を贈られ、諡して思という。子の敞が嗣ぐ。
杜稜。
杜稜は字を雄盛といい、呉郡銭塘の人である。代々県の大姓であった。稜は書伝に広く渉猟し、少時より落泊して、当世に知られなかった。遂に嶺南に遊び、梁の広州刺史新渝侯蕭映に仕える。映が卒すると、高祖に従い、常に書記を掌る。侯景の乱、稜に将領を命じ、蔡路養・李遷仕を平らげるに皆功あり。軍が 豫 章に至ると、梁の元帝が承制して稜に仁威将軍・石州刺史、上陌県侯を授け、邑八百戸。
侯景が平らぎ、高祖が朱方に鎮すると、稜は義興・琅邪の二郡を監す。高祖が王僧弁を誅するに当たり、稜を引いて侯安都らと共に議し、稜はこれを難じた。高祖はその己を泄らすことを懼れ、乃ち手巾をもって稜を絞め、稜は地に悶絶し、因って別室に閉じ込められる。軍が発すると、召して同行せしむ。僧弁が平らぎたる後、高祖が東征して杜龕らを討つに当たり、稜と安都を留めて居守せしむ。徐嗣徽・任約が斉の寇を引きて江を済い、台城を攻むると、安都と稜は方に随って抗拒し、稜は昼夜巡警し、士卒を綏撫して、常に帯を解かず。賊が平らぎ、功により通直 散騎常侍 ・右衛将軍・丹陽尹に除される。永定元年、侍中・忠武将軍を加えられる。まもなく中領軍に遷り、侍中、将軍は元の如し。
三年、高祖崩御し、世祖は南皖に在り。時に内には嫡嗣無く、外には強敵あり、侯瑱・侯安都・徐度らは皆軍中に在り、朝廷の宿将は唯だ稜のみ都に在り、独り禁兵を典し、乃ち蔡景歴らと秘かに喪を発せず、世祖を奉迎す。事は景歴伝に見ゆ。世祖即位し、領軍将軍に遷る。天嘉元年、建立の功に預かり、永城県侯に改封され、邑五百戸を増やす。出でて雲麾将軍・晋陵太守となり、秩中二千石を加えられる。二年、徴されて侍中・領軍将軍となる。まもなく翊左将軍・丹陽尹に遷る。
廃帝即位し、鎮右将軍・特進に遷り、侍中・尹は元の如し。光大元年、尹を解かれ、佐史を量り置き、扶を与えられ、重ねて領軍将軍を授かる。
太建元年、出でて 散騎常侍 ・鎮東将軍・呉興太守となり、秩中二千石。二年、徴されて侍中・鎮右将軍となる。まもなく特進・護軍将軍を加えられる。三年、公事により侍中・護軍を免ぜられる。四年、再び侍中・右光禄大夫となり、併せて鼓吹一部を与えられ、将軍・佐史・扶は並びに元の如し。
稜は三帝に歴事し、並びに恩寵を見る。末年は征役に預からず、京師に優遊し、賞賜優渇なり。間もなく官に卒す。時に年七十。開府儀同三司を贈られ、喪事に須いる所は、並びに資給を令せられ、諡して成という。その年、高祖の廟庭に配享される。子の安世が嗣ぐ。
沈恪。
沈恪は字を子恭といい、呉興武康の人である。深沈にして幹局あり。梁の新渝侯蕭映が郡将となると、召して主簿とする。映が北徐州に遷ると、恪は映に随ってその鎮に赴く。映が広州に遷ると、恪をもって兼ねて府中兵参軍とし、常に兵を領いて俚洞を討伐せしむ。盧子略の反するや、恪は拒戦して功あり、中兵参軍に除される。高祖は恪と同郡にして、情好甚だ暱し、蕭映卒したる後、高祖が南征して李賁を討つに当たり、仍って妻子を遣わして恪に附せしめて郷里に還らしむ。まもなく東宮直後を補し、嶺南の勲により員外散騎侍郎に除され、仍って宗従の子弟を招集せしむ。
侯景が台城を囲むと、恪は率いる所領を率いて台城に入り、例に随って右軍将軍を加えられる。賊は東西に二つの土山を築きて城に逼り、城内も亦た土山を作りてこれに応ず。恪は東土山の主となり、昼夜拒戦す。功により東興県侯に封ぜられ、邑五百戸。員外 散騎常侍 に遷る。京城陥落し、恪は間行して郷里に帰る。高祖が侯景を討つに当たり、使者を遣わして恪に報じ、乃ち東に於いて兵を起こして相応ず。賊が平らぎ、恪は京口にて高祖に謁し、即日に都軍副を授かる。まもなく(君)〔府〕司馬となる。
高祖が王僧弁を討たんと謀るに及び、恪はその謀に預かる。時に僧弁の女婿杜龕が呉興に鎮す。高祖は乃ち世祖をして長城に還らしめ、柵を立てて龕に備えしめ、又た恪をして武康に還らしめ、兵衆を招集せしむ。僧弁が誅せられたる後、龕は果たして副将杜泰に衆を率いさせて長城に於いて世祖を襲わしむ。恪は時に已に兵士を率いて県を出で、龕の党与を誅す。高祖はまもなく周文育を遣わして長城を援けしむ。文育至りて、泰は乃ち遁走す。世祖は仍って文育と軍を進めて郡より出で、恪の軍も亦た至り、郡の南に屯す。龕が平らぎたる後、世祖が東揚州刺史張彪を襲うに当たり、恪をもって呉興郡を監せしむ。太平元年、宣猛将軍・交州刺史に除される。その年、永嘉太守に遷る。拝せず、再び呉興郡を監せしむ。呉興より朝廷に入る。高祖が禅を受け、中書舎人劉師知に恪を引かせ、兵を勒して入朝せしめ、因って敬帝を衛して別宮の如くせしめんとす。恪は乃ち闥を排して入り高祖に見え、頭を叩いて謝して曰く、「恪は身を以て蕭家に事えて来たり、今日許される事を見るに忍びず、分を受けて死するのみ、決して命に奉ぜず。」高祖その意を嘉し、乃ち復た逼らず、更に盪主王僧志をもってこれに代えしむ。
高祖が践祚すると、呉興太守に任ぜられた。永定二年、会稽郡の監察に転じた。時に余孝頃が王琳に応じようと謀り、兵を出して臨川にて周迪を攻めたため、沈恪を壮武将軍とし、兵を率いて嶺を越えて迪を救援させた。余孝頃は恪の到着を聞き、退走した。三年、使持節・通直 散騎常侍 ・智武将軍・呉州刺史に遷り、便道にて鄱陽に赴いた。まもなく詔が下り追還され、会稽郡の事務を行った。その年、 散騎常侍 ・忠武将軍・会稽太守に任ぜられた。
世祖が位を嗣ぐと、会稽・東陽・新安・臨海・永嘉・建安・晋安・新寧・信安の九郡諸軍事を督することを進められ、将軍・太守はもとの如くであった。天嘉元年、邑五百戸を増やされた。二年、左衛将軍として召された。まもなく 都督 郢武巴定四州諸軍事・軍師将軍・郢州刺史として出向した。六年、中護軍として召された。まもなく護軍将軍に遷った。光大二年、使持節・ 都督 荊武祐三州諸軍事・平西将軍・荊州刺史に遷った。未だその鎮に赴かず、護軍将軍に改められた。
高宗が即位すると、 散騎常侍 ・ 都督 広衡東衡交越成定新合羅愛徳宜黄利安石双等十八州諸軍事・鎮南将軍・平越中郎将・広州刺史を加えられた。恪が嶺に至らぬうちに、前刺史の欧陽紇が兵を挙げて険阻に拠り、恪は進むことができず、朝廷は 司空 章昭達を遣わして諸軍を督して紇を討たせ、紇が平定されて初めて州に入ることができた。州は兵乱に罹り、所在残毀していたが、恪は綏撫して安んじ、恩恵を施したので、嶺表はこれに頼った。
太建四年、領軍将軍として召された。交代して還る際、途遠くして時に至らず、有司に奏されて免ぜられた。十一年、 散騎常侍 ・衛尉卿として起用された。その年、平北将軍・仮節を授かり、南兗州を監した。十二年、 散騎常侍 ・翊右将軍に改めて授かり、南徐州を監した。また電威将軍裴子烈に命じて馬五百匹を率いさせ、恪を助けて江に沿って防戍させた。翌年、衛尉卿に入り、常侍・将軍はもとの如くであった。まもなく侍中を加えられ、護軍将軍に遷った。 後主 が即位すると、病により 散騎常侍 ・特進・金紫光禄大夫に改めて授けられた。その年に卒し、時に七十四歳であった。翊左将軍を追贈され、詔して東園秘器を給し、なお挙哀を出し、喪事に須いるものは、並びに資給を命じ、諡して元といった。子の法興が嗣いだ。
【論】
史臣が曰く、胡穎・徐度・杜稜・沈恪は並びに騏驥に附して騰躍し、日月の光輝に依り、始めて王佐の才を覯え、方に公輔の量を悟り、生けるときは肉食し、終には配饗す。盛んなりかな。