金史

列傳第三十七:徒單鎰、賈鉉、孫鐸、孫即康、李革

列傳第三十七:徒單鎰、賈鉉、孫鐸、孫即康、李革

徒單鎰

原文徒單鎰

徒單鎰は本名を按出といい、上京路速速保子猛安もうあんの人である。父は烏輦で、北京副留守であった。鎰は聡明で並ぶ者なく、わずか七歳で女直じょちょく字を学んだ。大定四年、詔して女直字で書籍を翻訳させた。五年、翰林侍講學士徒單子溫が翻訳した『貞観政要』『白氏策林』等の書を進呈した。六年、さらに『史記』『西漢書』を進呈し、詔してこれを頒行させた。諸路の学生三十余人を選び、編修官の溫蒂罕締達に命じて古書を教えさせ、詩や策を作ることを習わせた。鎰はその選中にあり、最も精通し、ついに契丹の大小字及び漢字に通じ、経史を広く習得した。久しくして、枢密使完顔かんがん思敬が女直人に進士科挙を受けさせることを請うた。尚書省に下して議させた。奏上して言うには、「初めて女直進士科を設けるにあたり、郷試・府試の両試を免除し、その礼部試・廷試では、ただ対策一道のみとし、字数を五百字以上に限って完成させる。都には国子学を設け、諸路には府学を設け、いずれも新進士を教授に充て、士民の子弟で学びたい者は聴講を許す。年月が経てば、学者はおのずから多くなるであろう。そうなれば漢人進士と同様に三年に一度試験を行うこととする。」これを従った。十三年八月、詔して女直進士を策試し、賢を求めて治める道について問うた。侍御史完顔蒲涅、太常博士李晏、応奉翰林文字阿不罕徳甫、移刺傑、中都路都転運副使奚釭が試験官となり、鎰ら二十七人が及第した。鎰は二官を授けられ、その余は一官を授かり、上位三人は中都路教授とされ、四名以下は各路の教授に任じられた。十五年、詔して諸経典を翻訳させ、著作佐郎溫蒂罕締達、編修官宗璧、尚書省訳史阿魯、吏部令史楊克忠が翻訳解釈し、翰林修撰移刺傑、応奉翰林文字移刺履がその義を講究した。鎰は中都路教授から選ばれて国子助教となった。左丞相の紇石烈良弼がかつて学中に来て鎰と談論し、深く礼敬を加えた。母の喪に服し、喪中に起用されて国史院編修官となった。

原文徒單鎰本名按出,上京路速速保子猛安人。父烏輦,北京副留守。鎰穎悟絕倫,甫七歲,習女直字。大定四年,詔以女直字譯書籍。五年,翰林侍講學士徒單子溫進所譯《貞觀政要》、《白氏策林》等書。六年,複進《史記》、《西漢書》,詔頒行之。選諸路學生三十余人,令編修官溫蒂罕締達教以古書,習作詩、策。鎰在選中,最精詣,遂通契丹大小字及漢字,該習經史。久之,樞密使完顏思敬請教女直人舉進士,下尚書省議。奏曰:「初立女直進士科,且免鄉、府兩試,其禮部試、廷試,止對策一道,限字五百以上成。在都設國子學,諸路設府學,並以新進士充教授,士民子弟願學者聽。歲久,學者當自眾,即同漢人進士三年一試。」從之。十三年八月,詔策女直進士,問以求賢為治之道。侍御史完顏蒲涅、太常博士李晏、應奉翰林文字阿不罕德甫、移刺傑、中都路都轉運副使奚釭考試鎰等二十七人及第。鎰授兩官,餘授一官,上三人為中都路教授,四名以下除各路教授。十五年,詔譯諸經,著作佐郎溫蒂罕締達、編修官宗璧、尚書省譯史阿魯、吏部令史楊克忠譯解,翰林修撰移刺傑、應奉翰林文字移刺履講究其義。鎰自中都路教授選為國子助教。左丞相紇石烈良弼嘗到學中與鎰談論,深加禮敬。丁母憂,起複國史院編修官。

世宗はかつて太尉完顔守道に問うて言った、「徒單鎰はどのような人物か。」守道が答えて言うには、「才力があり、政事を任せることができます。」上は言った、「そうだ。重い任務をもって処遇すべきである。」また言った、「鎰は容姿・挙動が温雅で、その心は平易である。」久しくして、起居注を兼ねて修め、累進して翰林待制となり、右司員外郎を兼ねた。『漢光武中興賦』を献上すると、世宗は大いに喜んで言った、「この科を設けなければ、どうしてこのような人物を得られようか。」

原文世宗嘗問太尉完顏守道曰:「徒單鎰何如人也?」守道對曰:「有材力,可任政事。」上曰:「然,當以劇任處之。」又曰:「鎰容止溫雅,其心平易。」久之,兼修起居注,累遷翰林待制,兼右司員外郎。獻《漢光武中興賦》,世宗大悅曰:「不設此科,安得此人。」

章宗が即位すると、左諫議大夫に遷り、吏部侍郎を兼ねた。明昌元年、御史中丞となった。まもなく、参知政事に任じられ、国史編修を兼ねた。鎰は言う、「人は生まれながらに欲望を持つ。制限を設けなければ、奢侈の心は極まりがない。今、太平の世が久しい。この道を慎んで行い、長久の治めとすべきである。」章宗は治平に意欲的であった。鎰が上書した。その大意は次のようである。「臣ひそかに唐・虞の書を観ますに、その臣が君に進言するに『戒めよ』『励めよ』と言い、『ああ』『なるほど』と言う。戒めを述べた後、さらにその美を導く。君が治めを行うには、必ず『衆に稽え、己を捨てて人に従う』と言う。これを聴くことができ、またこれを行い、さらにこれによって興起する。君臣上下の間がこのように互いに交わるのである。陛下は隆盛の運を継ぎ、太平の基を撫でておられる。誠に古に稽え徳を崇め、このことに留意され、物によって好悪喜怒を起こさず、好悪喜怒によって小さな善を軽んじ、人の言を顧みないことがないようにすべきです。上下の情には通塞があり、天地の運には否泰があります。唐の陸贄がかつて隔塞の九弊を述べました。上に六つあり、下に三つあります。陛下がその六つを慎まれるならば、臣下たる者がどうしてその三つを慎まないことがありましょうか。上下の情が既に通じれば、大綱が挙がり、細目が張られるのです。」尚書右丞に進み、国史編修は従前の通りであった。

原文章宗即位,遷左諫議大夫,兼吏部侍郎。明昌元年,為御史中丞。無何,拜參知政事,兼修國史。鎰言:「人生有欲,不限以制,則侈心無極。今承平日久,當慎行此道,以為經久之治。」章宗銳意于治平,鎰上書,其略曰:「臣竊觀唐、虞之書,其臣之進言於君曰'戒哉','懋哉',曰'籲',曰'都'。既陳其戒,複導其美。君之為治也,必曰:'稽於眾,舍己從人'。既能聽之,又能行之,又從而興起之。君臣上下之間相與如此。陛下繼興隆之運,撫太平之基,誠宜稽古崇德,留意於此,無因物以好惡喜怒,無以好惡喜怒輕忽小善,不恤人言。夫上下之情有通塞,天地之運有否泰。唐陸贄嘗陳隔塞之九弊,上有其六,下有其三。陛下能慎其六,為臣子者敢不慎其三哉!上下之情既通,則大綱舉而群目張矣。」進尚書右丞,修史如故。

三年、罷免されて横海軍節度使となり、定武軍節度使に改められ、平陽府事を知った。先に、鄭王永蹈が定武軍を判じ、鎬王永中が平陽府を判じたが、相次いで罪を得、連座する者が多かった。上は彼らに党派があるのではないかと疑い、あるいは定武軍節度使に命じ、続いてまた平陽府を知らせたのである。西京留守に改められた。承安三年、上京留守に改められた。五年、上は宰臣に問うた、「徒單鎰と宗浩とはどちらが優れているか。」平章政事張萬公が答えて言うには、「いずれも才能ある士ですが、鎰の方が優れているようです。鎰には節操がありますが、宗浩は多くは術数に長けるのみです。」上は言った、「術数に長けるとはどういうことか。」萬公は言った、「宗浩はやや迎合に走るようです。」上は言った、「卿の言う通りである。」間もなく、鎰は平章政事に任じられ、済国公に封ぜられた。

原文三年,罷為橫海軍節度使,改定武軍節度使,知平陽府事。先是,鄭王永蹈判定武軍,鎬王永中判平陽府,相繼得罪,連引者眾,上疑其有黨,或命節度定武,繼又知平陽焉。改西京留守。承安三年,改上京留守。五年,上問宰臣:「徒單鎰與宗浩孰優?」平章政事張萬公對曰:「皆才能之士,鎰似優者。鎰有執守,宗浩多數耳。」上曰:「何謂多數?」萬公曰:「宗浩微似趨合。」上曰:「卿言是也。」頃之,鎰拜平章政事,封濟國公。

淑妃李氏が寵愛を独占し、兄弟がほしいままに横暴で、朝臣がしばしばその門を出入りした。この時、烈風が吹き暗く曇った日が連日続いた。詔して変異の原因を問うた。鎰が上疏した。その大意は次のようである。「仁・義・礼・智・信を五常といい、父の義・母の慈・兄の友・弟の敬・子の孝を五徳という。今、五常が立たず、五徳が興らず、縉紳の古を学ぶ士は礼義を棄て、廉恥を忘れ、細民は道に背き義に叛き、迷って帰ることを知らず、天常を背き毀り、骨肉が互いに傷つけ合い、動くごとに和気を傷つける。これは一朝一夕の原因ではない。今、薄俗を正し、人心に順い、父は父として、子は子として、夫は夫として、婦は婦として、それぞれその道を得させ、その後で和気が広く行き渡り、福禄が重なって至るべきである。」そこで論じて言う、「政を行う術で、急を要するものに二つある。一つは臣下の心を正すことである。群下が礼義を明らかにせず、利に趨く者が多いのを見る。どうして小民が教化に従うことを責められようか。人を用いるには、徳器を上とし、才美を下とし、両方を兼ねる者には破格の待遇をもってし、才は下だが行いが美しい者はこれに次ぎ、才能はあっても行義に取るべきところがない者は抑えて下位に置くならば、臣下の趨向は正しくなるでしょう。二つには学者の志を導くことである。教化が行われるのは、学校に興る。今、学者はその本真を失い、経史の雅奥なものを捨てて習わず、虚飾の言葉を飾り立て、禄利を釣り取ろうとしている。乞うらくは、士を取るに経史の故実を兼ねて問わせ、学者をして皆経学を守らせ、近習の靡爛した風に惑わされないようにさせれば、善いでしょう。」また言う、「およそ天下の事は、一つの原因から生じるものではなく、形が似ているものは一つの体ではなく、法制は尽くすことができず、近似したものに隠れて、異論が生じる。孔子は言われた、『義はこれ天下の制なり』と。『礼記』に言う、『義はこれを断つ節なり』と。伏して望むらくは、陛下が万機に臨み、事に異議があるときは、少し聖慮を凝らし、その端緒を尋ね究められれば、裁断は定まり、疑いは弁えられるでしょう。」鎰の言は皆時弊を突いており、上はその説を納れたが、行うことはできなかった。上が漢の高祖と光武帝の優劣を問うた。平章政事張萬公が答えて言うには、「高祖の方がはるかに優れています。」鎰は言った、「光武帝は漢の業を再興し、在位三十年、酒色に耽るようなことはありませんでした。高祖は戚姫に惑わされ、ついに乱に至りました。これによって言えば、光武帝の方が優れています。」上は黙然とした。鎰は元妃李氏の寵愛が過度に盛んであることをもって、微かに諫めたのである。泰和四年、罷免されて咸平府知事となった。五年、南京留守に改められた。六年、河中府知事に転じ、陝西安撫使を兼ねた。

原文淑妃李氏擅寵,兄弟恣橫,朝臣往往出入其門。是時烈風昏噎連日,詔問變異之由。鎰上疏略曰:「仁、義、禮、智、信謂之五常,父義、母慈、兄友、弟敬、子孝謂之五德。今五常不立,五德不興,縉紳學古之士棄禮義,忘廉恥,細民違道畔義,迷不知返,背毀天常,骨內相殘,動傷和氣,此非一朝一夕之故也。今宜正薄俗,順人心,父父子子夫夫婦婦,各得其道,然後和氣普洽,福祿薦臻矣。」因論:「為政之術,其急有二。一曰正臣下之心。竊見群下不明禮義,趨利者眾,何以責小民之從化哉。其用人也,德器為上,才美為下,兼之者待以不次,才下行美者次之,雖有才能,行義無取者,抑而下之,則臣下之趨向正矣。其二曰導學者之志。教化之行,興於學校。今學者失其本真,經史雅奧,委而不習,藻飾虛詞,釣取祿利,乞令取士兼問經史故實,使學者皆守經學,不惑于近習之靡,則善矣。」又曰:「凡天下之事,叢來者非一端,形似者非一體,法制不能盡,隱於近似,乃生異論。孔子曰:'義者天下之制也。'《記》曰:'義為斷之節。'伏望陛下臨制萬機,事有異議,少凝聖慮,尋繹其端,則裁斷有定,而疑可辨矣。」鎰言皆切時弊,上雖納其說,而不能行。上問漢高帝、光武優劣。平章政事張萬公對曰:「高祖優甚。」鎰曰:「光武再造漢業,在位三十年,無沈湎冒色之事。高祖惑戚姬,卒至於亂。由是言之,光武優。」上默然。鎰蓋以元妃李氏隆寵過盛,故微諫雲。泰和四年,罷知咸平府。五年,改南京留守。六年,徙知河中府,兼陝西安撫使。

僕散揆が河南・陝西に行省を開き、元帥府は揆の節制を受けるとはいえ、実際には方面を専断していた。上は謀臣を用いてこれを制しようと考え、これにより宣撫使を一品に昇格させ、鎰を京兆府知事に改任させ、宣撫使を充て、陝西元帥府をともに節制させた。詔して曰く、「将帥は武勇に優れ、長く行陣を歴してはいるが、宋人は狡猾であり、計略による勝利も重んじる。卿の智略は朕が深く知るところであり、かつ股肱の旧臣であるから、この任を託すのである。長い矛をもって敵を防ぎ、兵を練り民を撫で、朕の意にかなうようにせよ。」鎰が言うには、「急遞鋪を初めて設置したのは、もともと文書を転送するためであったが、今はすべて駅伝を用いており、不便である。」上は深くこれを認めた。ここに初めて提控急遞鋪官を置いた。中都から真定・平陽に設置したものは、京兆に達した。京兆から鳳翔に設置したものは、臨洮に達した。真定から彰徳に設置したものは、南京に達した。南京から分かれて帰徳に設置したものは、泗州・寿州に達し、分かれて許州に設置したものは、鄧州に達した。中都から滄州に設置したものは、益都府に達した。これより郵便の伝達は再び滞ることがなくなった。

原文僕散揆行省河南、陝西,元帥府雖受揆節制,實顓方面,上思用謀臣制之,由是升宣撫使一品,鎰改知京兆府事,充宣撫使,陝西元帥府並受節制。詔曰:「將帥雖武悍,久曆行陣,而宋人狡獪,亦資算勝。卿之智略,朕所深悉,且股肱舊臣,故有此寄。宜以長刺禦敵,厲兵撫民,稱朕意焉。」鎰言:「初置急遞鋪,本為轉送文牒,今一切乘驛,非便。」上深然之。始置提控急遞鋪官。自中都至真定、平陽置者,達於京兆。京兆至鳳翔置者,達於臨洮。自真定至彰德置者,達于南京。自南京分至歸德置者,達於泗州、壽州,分至許州置者,達于鄧州。自中都至滄州置者,達於益都府。自此郵達無複滯焉。

七年、呉曦が死に、宋の安丙が兵を分けて秦・隴の間に出した。十月、詔して鎰に出兵して金州・房州方面から宋軍の梁・益・漢・沔の兵勢を牽制させた。鎰は行軍都統の幹勒葉祿瓦、副統の把回海、完顔摑刺に歩騎五千を率いさせて商州から出撃させた。十一月、葉祿瓦は鶻嶺関を陥とし、摑刺は別将を率いて燕子関新道口を攻め破り、回海は小湖関敖倉を奪取し、営口鎮に至り、宋兵千余人を破り、上津県まで追撃し、八百余級を斬首し、ついに上津県を占領した。葉祿瓦は平渓において宋兵二千を破り、金州に向かおうとした。宋の王柟が書を送って和を請うたので、詔して鎰に葉祿瓦の軍を召還して鶻嶺関を守らせた。八年正月、宋の安丙が景統領を遣わして梅子渓・新道口・硃砂谷から鶻嶺関を襲撃させたが、回海、摑刺がこれを撃退し、陣中で景統領を斬った。この年、兵を罷めた。鎰は特進に遷り、賜与は差等があった。真定府知事に改任された。

原文七年,吳曦死,宋安丙分兵出秦、隴間。十月,詔鎰出兵金、房以分掣宋人梁、益、漢、沔兵勢。鎰遣行軍都統斡勒葉祿瓦、副統把回海、完顏摑刺以步騎五千出商州。十一月,葉祿瓦拔鶻嶺關,摑刺別將攻破燕子關新道口,回海取小湖關敖倉,至營口鎮,破宋兵千餘人,追至上津縣,斬首八百餘級,遂取上津縣。葉祿瓦破宋兵二千于平溪,將趨金州。宋王柟以書乞和,詔鎰召葉祿瓦軍退守鶻嶺關。八年正月,宋安丙遣景統領由梅子溪、新道口、硃砂穀襲鶻嶺關,回海,摑刺擊走之,斬景統領於陣。是歲,罷兵。鎰遷特進,賜賚有差。改知真定府事。

大安初年、儀同三司を加えられ、濮国公に封ぜられた。東京留守に改任され、宮門を過ぎて入朝した。衛紹王が鎰に言うには、「卿は両朝の旧徳であり、卿を宰相に用いたいと思う。太尉の匡は卿の門人であるから、朕は卿を彼の下に屈させることはできない。」開府儀同三司に遷り、金符を佩び、遼東安撫副使を充てた。三年、上京留守に改任された。平章政事の独吉思忠が会河堡で大敗し、中都が戒厳令を敷くと、鎰は言った、「事態は急を要する。」そこで兵二万を選び、同知の烏古孫兀屯にこれを将わせて、中都の守衛に入らせた。朝廷はこれを賞賛し、征して尚書右丞相とし、国史監修を兼ねさせた。

原文大安初,加儀同三司,封濮國公。改東京留守,過闕入見。衛紹王謂鎰曰:「卿兩朝舊德,欲用卿為相。太尉匡,卿之門人,朕不可屈卿下之。」遷開府儀同三司,佩金符,充遼東安撫副使。三年,改上京留守。平章政事獨吉思忠敗績於會河堡,中都戒嚴,鎰曰:「事急矣。」乃選兵二萬,遣同知烏古孫兀屯將之,入衛中都。朝廷嘉之,征拜尚書右丞相,監修國史。

鎰が言うには、「用兵以来、敵は集まって行動し、我は散らばって守備している。集まった者が散らばった者を攻めれば、その敗北は必然である。大城に退いて保ち、力を合わせて防備するに如くはない。昌・桓・撫の三州は平素より富実と称され、人々は皆勇健であるから、内陸に移住させ、我が兵勢を増強すれば、人畜や財貨も失われることはない。」平章政事の移刺、参知政事の梁絪が言うには、「このようにするのは自ら境土を狭めることである。」衛紹王はこれをもって鎰を責めた。鎰は再び上奏して言った、「遼東は国家の根本であり、中都から数千里離れている。万一兵禍を受ければ、州府は傍観し、必ず上奏を待たねばならず、事を誤ることが多い。大臣を行省として派遣し、これを鎮撫すべきである。」衛紹王は喜ばずに言った、「理由なく行省を置けば、ただ人心を動揺させるだけである。」その後、昌・桓・撫の三州を失い、衛紹王は大いに後悔して言った、「丞相の言に従っていれば、ここまでには至らなかったであろう!」間もなく、東京が守られなくなり、衛紹王は自ら悔いて言った、「丞相に会うのが恥ずかしい!」

原文鎰言:「自用兵以來,彼聚而行,我散而守,以聚攻散,其敗必然。不若入保大城,並力備禦。昌、桓、撫三州素號富實,人皆勇健,可以內徙,益我兵勢,人畜貨財,不至亡失。」平章政事移刺、參知政事梁絪曰:「如此是自蹙境土也。」衛紹王以責鎰。鎰複奏曰:「遼東國家根本,距中都數千里,萬一受兵,州府顧望,必須報可,誤事多矣。可遣大臣行省以鎮之。」衛紹王不悅曰:「無故置行省,徒搖人心耳。」其後失昌、桓、撫三州,衛紹王乃大悔曰:「從丞相之言,當不至此!」頃之,東京不守,衛紹王自訟曰:「我見丞相恥哉!」

術虎高琪が縉山に駐兵し、非常に人心を得て、兵士は喜んで用いられた。至寧元年、尚書左丞の完顔綱が縉山に行省を開こうとした。鎰は綱に言った、「行省は自ら赴く必要はなく、兵を増やす方がよい。」綱は聞き入れず、出発しようとした。鎰は人を遣わしてこれを止めさせて言った、「高琪の功績は、すなわち行省の功績である。」これも聞き入れなかった。綱が縉山に到着すると、ついに大敗を喫した。

原文術虎高琪駐兵縉山,甚得人心,士樂為用。至甯元年,尚書左丞完顏綱將行省於縉山,鎰謂綱曰:「行省不必自往,不若益兵為便。」綱不聽,且行,鎰遣人止之曰:「高琪之功,即行省之功也。」亦不聽。綱至縉山,遂敗績焉。

間もなく、鎰は落馬して足を負傷し休暇中であったが、胡沙虎の乱が起こったと聞き、車を命じて省中に入ろうとした。ある者が告げて言った、「省府や宰相の幕舎は皆、軍士によって守られており、入ることはできません。」しばらくして、兵士が巷で人を捜索したので、鎰は邸宅に戻った。胡沙虎の意図は測りがたく、ちょうど躊躇して自ら決断できずにいたので、鎰のもとに赴いて病状を問い、人望に従おうとしたのである。鎰は落ち着いて彼に言った、「翼王は章宗の兄であり、顕宗の長子で、衆望の帰するところである。元帥が決策してこれを立てれば、万世の功績である。」胡沙虎は黙って去り、ついに宣宗を彰徳から迎えた。胡沙虎が徒単南平を殺した後、その弟の真定府知事の銘を捕らえようとした。鎰はこれを説いて言った、「車駕が真定を通られる道中であり、鎬王家は威州にあり、河北の人心は動揺しやすい。徒単銘に異変があれば、朝廷は危うい。彼に金牌を与え、車駕を奉迎させる方がよい。銘は必ず元帥の恩を感じるであろう。」胡沙虎はこれに従った。至寧・貞祐の際、敗を転じて功とすることができたのは、ただ鎰によるものであった。

原文頃之,鎰墜馬傷足在告,聞胡沙虎難作,命駕將入省。或告之曰:「省府相幕皆以軍士守之,不可入矣。」少頃,兵士索人于閭巷,鎰乃還第。胡沙虎意不可測,方猶豫,不能自定,乃詣鎰問疾,從人望也。鎰從容謂之曰:「翼王,章宗之兄,顯宗長子,眾望所屬,元帥決策立之,萬世之功也。」胡沙虎默然而去,乃迎宣宗於彰德。胡沙虎既殺徒單南平,欲執其弟知真定府事銘,鎰說之曰:「車駕道出真定,鎬王家在威州,河北人心易搖,徒單銘有變,朝廷危矣。不如與之金牌,奉迎車駕,銘必感元帥之恩。」胡沙虎從之。至寧、貞祐之際,轉敗為功,惟鎰是賴焉。

宣宗が即位すると、左丞相に進み、広平郡王に封ぜられ、中都路迭魯都世襲猛安蒲魯吉必剌謀克ぼうこくを授けられた。鎰はなお足疾があり、詔して朝参に拝礼しなくてよいとされた。翌年、鎰は和親を建議した。事を論ずる者が按察司の廃止を請うた。鎰は言った、「今、郡県は多く破壊されており、まさに按察司が慰撫・集結させる必要がある。廃止すべきではない。」ついに止めさせた。宣宗が南京に行幸しようとすると、鎰は言った、「鑾輅が一度動けば、北路は皆守られなくなる。今は既に和議を講じている。兵を集め糧を蓄え、京師を固守するのが、上策である。南京は四面から攻撃を受ける。遼東は根本の地であり、山に依り海に臨み、その険要は頼りとすることができ、一面を防備し、後の図りとすべきで、これが次策である。」聞き入れられなかった。この年、薨去した。詔して賻贈を厚くした。

原文宣宗即位,進拜左丞相,封廣平郡王,授中都路迭魯都世襲猛安蒲魯吉必剌謀克。鎰尚有足疾,詔侍朝無拜。明年,鎰建議和親。言事者請罷按察司。鎰曰:「今郡縣多殘毀,正須按察司撫集,不可罷。」遂止。宣宗將幸南京,鎰曰:「鑾輅一動,北路皆不守矣。今已講和,聚兵積粟,固守京師,策之上也。南京四面受兵。遼東根本之地,依山負海,其險足恃,備禦一面,以為後圖,策之次也。」不從。是歲,薨。詔賻贈從優厚。

鎰は明敏で方正であり、学問に通暁し、一時の名士は皆その門下から出て、多く卿相に至った。かつて文士の衰微を嘆き、巧拙の違いはあれ、要は仁義道徳を根本とすべきであるとして、『学之急』『道之要』の二篇を著した。太学の諸生がこれを石に刻んだ。『弘道集』六巻がある。

原文鎰明敏方正,學問該貫,一時名士,皆出其門,多至卿相。嘗歎文士委頓,雖巧拙不同,要以仁義道德為本,乃著《學之急》、《道之要》二篇。太學諸生刻之于石。有《弘道集》六卷。

賈鉉

原文賈鉉

賈鉉、字は鼎臣、博州博平の人。性質は純朴で篤実、学問を好んだ。大定十三年に進士に及第し、滕州軍事判官・単州司候に調ぜられ、尚書省令史を補った。章宗が右丞相であった時、深く器重し、陝西東路転運副使に任じた。入朝して刑部主事となり、監察御史に遷った。侍御史に遷り、右司諫に改めた。辺境守備の利害について上疏し、上は嘉納し、左諫議大夫兼工部侍郎に遷し、党懐英とともに『遼史』の刊修に当たらせた。

原文賈鉉,字鼎臣,博州博平人。性純厚,好學問。中大定十三年進士,調滕州軍事判官、單州司候,補尚書省令史。章宗為右丞相,深器重之,除陝西東路轉運副使。入為刑部主事,遷監察御史。遷侍御史,改右司諫。上疏論邊戍利害,上嘉納之,遷左諫議大夫兼工部侍郎,與党懷英同刊修《遼史》。

賈鉉が上書して言うには、「民に親しむ官が、任情に威を立て、用いる決杖の、分径の長短が法式に如かず、甚だしきは鉄刃を杖端に置き、これによって死に致す。間者陰陽が愆戾し、和気通ぜず、必ずしもこれより起こらざるはない。願わくは州郡に下して旧章を申明せしめ、検量して封記し、按察官はその法に如かざる者を検察し、具に名を以て聞かしめよ。内庭の敕断もまた已に定める程式に依れ」と。制して可とす。また上書して山東の採茶の事を論じ、その大概は「茶樹は山に随いて皆あり、一切護邏し、已に民利を奪い、これによって茶樹を揀びて小民を執誣し、貨賂を嚇取す、厳に禁止すべし。なお按察司に約束せしむべし」と為す。上これに従う。承安四年、礼部尚書に遷り、諫議は故の如し。是の時詔有りて、凡そ奉敕して商量照勘する公事は皆期日を以て聞奏すべしと。鉉言うには、「もし此くの如くせば、恐らくは官吏は限期に迫られ、姑く苟簡を務めて、反って事体を害せん。況んや簿書は自ら常程有り、御史台はその稽緩を治む、もし事に応密有り、三月に未だ絶えざる者は、具に次第を以て聞かしむべし」と。下して尚書省に議せしむ。もし省部に即ち定奪すべき者は、須らく三月に擬奏すべく、もし案牘を取会して卒に補勘し難き者は、先ず次第を具して奏知し、更に一月を限って結絶すべく、違う者は稽緩の制書の罪に准うべしと。

原文鉉上書曰:「親民之官,任情立威,所用決杖,分徑長短不如法式,甚者以鐵刃置於杖端,因而致死。間者陰陽愆戾,和氣不通,未必不由此也。願下州郡申明舊章,檢量封記,按察官其檢察不如法者,具以名聞。內庭敕斷,亦依已定程式。」制可。複上書論山東採茶事,其大概以為「茶樹隨山皆有,一切護邏,已奪民利,因而以揀茶樹執誣小民,嚇取貨賂,宜嚴禁止。仍令按察司約束。」上從之。承安四年,遷禮部尚書,諫議如故。是時有詔,凡奉敕商量照勘公事皆期日聞奏。鉉言:「若如此,恐官吏迫于限期,姑務苟簡,反害事體。況簿書自有常程,御史台治其稽緩,如事有應密,三月未絕者,令具次第以聞。下尚書省議。如省部可即定奪者,須三月擬奏,如取會案牘卒難補勘者,先具次第奏知,更限一月結絕,違者准稽緩制書罪之。」

上、相を置くことを議し、鉉を用いんと欲す。宰臣、孫即康を薦む。張萬公曰く、「即康の及第は鉉に先んず」と。上曰く、「相を用うるに安んぞ榜次を問わんや。朕の意は賈鉉の才を用うべしと以為うなり」と。然れども竟に即康を用う。

原文上議置相,欲用鉉,宰臣薦孫即康。張萬公曰:「即康及第在鉉前。」上曰:「用相安問榜次?朕意以為賈鉉才可用也。」然竟用即康焉。

泰和二年、興陵の崇妃薨ず。上、苑中に成服し、登門送喪の礼を行わんと欲し、以て鉉に問う。鉉対えて曰く、「故宋嘗て此の礼を行えり、古に是れ無し」と。遂に已む。刑部尚書に改む。泰和三年、参知政事を拝す。亳州の医者孫士明、輙ち黄紙に大書して「敕賜神針先生」等十二字と為し、及び紙尾の年月の間に宝様の硃篆「青龍」の二字を摹し、以て市人を誑惑す。有司捕えて治め款伏す。赦に値う。大理寺議して宜しく偽造禦宝に准うべく、赦に遇うと雖も応に原すべからずと。已に奏して可とす。鉉奏す、「天子に八宝有り、その文各異なり、もし偽造せば、泥及び黄蠟を用うるに限らず。今筆を用いて青龍の二字を描成す、既に八宝の文に非ず、偽造禦宝を論ずるは、本法の意に非ず」と。上悟り、遂に赦を以て原す。明日、上大臣に謂いて曰く、「已に行わるる事、賈鉉猶お執奏す、甚だ嘉すべし、群臣も亦当に此くの如くすべし」と。

原文泰和二年,興陵崇妃薨,上欲成服苑中,行登門送喪之禮,以問鉉,鉉對曰:「故宋嘗行此禮,古無是也。」遂已。改刑部尚書。泰和三年,拜參知政事。亳州醫者孫士明輒用黃紙大書「敕賜神針先生」等十二字,及於紙尾年月間摹作寶樣硃篆青龍二字,以誑惑市人。有司捕治款伏。值赦,大理寺議宜准偽造禦寶,雖遇赦不應原。已奏可矣。鉉奏:「天子有八寶,其文各異,若偽造,不限用泥及黃蠟。今用筆描成青龍二字,既非八寶文,論以偽造禦寶,非本法意。」上悟,遂以赦原。明日,上謂大臣曰:「已行之事,賈鉉猶執奏,甚可嘉也,群臣亦當如此矣。」

泰和六年、禦試、鉉は監試官と為る。上曰く、「丞相宗浩嘗て言う、試題頗る易し、是れ由りて進士例として書を読まず。朕今《日合天統》を以て賦題と為す」と。鉉曰く、「題は則ち佳しと雖も、恐らくは以て天下の士を牢籠すべからざるなり」と。上曰く、「帝王難題を以て挙人を窘むるは固より不可なり、自今より積みて学業を致さしめんと欲するのみ」と。遂に之を用う。久しくして、鉉は審官院の掌書大中と除授の事を漏言す。上鉉に謂いて曰く、「卿の罪は自ら之を知れり。然れども卿久しく機務に参じ、補益弘多なり、深く罪せず」と。乃ち出でて安武軍節度使と為り、知済南府に改む。致仕す。貞祐元年薨ず。

原文泰和六年,禦試,鉉為監試官。上曰:「丞相宗浩嘗言試題頗易,由是進士例不讀書。朕今以《日合天統》為賦題。」鉉曰:「題則佳矣,恐非所以牢籠天下士也。」上曰:「帝王以難題窘舉人,固不可,欲使自今積致學業而已。」遂用之。久之,鉉與審官院掌書大中漏言除授事。上謂鉉曰:「卿罪自知之矣。然卿久參機務,補益弘多,不深罪也。」乃出為安武軍節度使,改知濟南府。致仕。貞祐元年薨。

孫鐸

原文孫鐸

孫鐸、字は振之、その先は滕州の人、恩州歴亭県に徙る。鐸は性敏にして学を好み、遼陽の王遵古一見して之を器とし、公輔を期す。大定十三年進士第に登り、海州軍事判官・衛県丞に調じ、尚書省令史を補う。章宗右丞相と為る時、人に語りて曰く、「官事を治むること孫鐸の如くせば、必ず錯失無からん」と。初めて即位し、鐸の安在を問う。有司奏して右都管と為り、宋に使わしむ。還るに及び、同知登聞検院事を除す。鐸言う、「凡そ上訴する者は皆尚書省の断じて直を得ざるに因る、もし上訴する者を復た省に送らば、則ち必ず行わざらん、乞わくは宸衷より之を断ぜられん」と。上然りと以為う。詔して登聞検院に、凡そ上訴する者は、毎朝日に十事を奏せしむ。詔して旧律を刊定せしむ。鐸先ず《名例》一篇を奏す。

原文孫鐸,字振之,其先滕州人,徙恩州曆亭縣。鐸性敏好學,遼陽王遵古一見器之,期以公輔。登大定十三年進士第,調海州軍事判官、衛縣丞,補尚書省令史。章宗為右丞相,語人曰:「治官事如孫鐸,必無錯失。」初即位,問鐸安在,有司奏為右都管,使宋。及還,除同知登聞檢院事。鐸言:「凡上訴者皆因尚書省斷不得直,若上訴者複送省,則必不行矣,乞自宸衷斷之。」上以為然。詔登聞檢院,凡上訴者,每朝日奏十事。詔刊定舊律,鐸先奏《名例》一篇。

承安元年、左諫議大夫に遷り、河東南路転運使に改め、召されて中都路都転運使と為る。初めて講議銭穀官十人を置き、鐸は選首と為る。承安四年、戸部尚書に遷る。鐸転対に因りて奏して曰く、「比年の号令、或いは已に行われて中だ輟み、或いは既に改めて復た行わる、更張甚だ煩く、百姓信ぜず。乞わくは自今より凡そ将に下令せんとするには、再三講究し、もし治に益有らば則ち必ず行い、小民の言を恤れみること無かれ」と。国子司業紇石烈善才も亦言う、「法令を頒行するに、絲綸既に出づれば、尤も固く守るべし」と。上然りとす。泰和二年閏十二月、上鐸・戸部侍郎張複亨を召して交鈔を議わしむ。複亨曰く、「三合同鈔行うべし」と。鐸請うて用いずして廃せんとし、詰難すること久し。複亨の議詘る。上顧みて侍臣に謂いて曰く、「孫鐸は剛正の人なり、古の魏徵と雖も何をか加えん」と。

原文承安元年,遷左諫議大夫,改河東南路轉運使,召為中都路都轉運使。初置講議錢穀官十人,鐸為選首。承安四年,遷戶部尚書。鐸因轉對奏曰:「比年號令,或已行而中輟,或既改而複行,更張太煩,百姓不信。乞自今凡將下令,再三講究,如有益於治則必行,無恤小民之言。」國子司業紇石烈善才亦言:「頒行法令,絲綸既出,尤當固守。」上然之。泰和二年閏十二月,上召鐸、戶部侍郎張複亨議交鈔。複亨曰:「三合同鈔可行。」鐸請廢不用,詰難久之,複亨議詘。上顧謂侍臣曰:「孫鐸剛正人也,雖古魏徵何加焉!」

三年、御史中丞孫即康・刑部尚書賈鉉皆参知政事を除かる。鐸再び戸部尚書を任ず。鐸心に之を少くし、賀客に対し古人の詩を誦して曰く、「唯だ庭前の老柏樹有り、春風来たりて似たり曾て来たらず」と。御史大夫卞、鐸を劾して怨望すとす。降りて同知河南府事と為る。彰化軍節度使に改め、復た中都転運使と為る。泰和七年、参知政事を拝す。

原文三年,御史中丞孫即康、刑部尚書賈鉉皆除參知政事,鐸再任戶部尚書。鐸心少之,對賀客誦古人詩曰:「唯有庭前老柏樹,春風來似不曾來。」御史大夫卞劾鐸怨望,降同知河南府事。改彰化軍節度使,複為中都轉運使。泰和七年,拜參知政事。

蒲陰県令大中と左司郎中劉昂・通州刺史史肅・前臨察御史王宇・吏部主事曹元・戸部員外郎李著・監察御史劉国樞・尚書省都事曹温・雄州都軍馬師周・吏部員外郎徒単永康・太倉使馬良顕・順州刺史唐括直思白、私に朝政を議するに坐し、獄に下る。尚書省其の罪を奏す。鐸進みて曰く、「昂等は敢えて朝政を議するに非ず、但だ鄭人の郷校に遊ぶが如きのみ」と。上悟り、乃ち其の罪を薄くす。鐸上言す、「民間鈔多し、宜しく収斂すべし。院務課程及び諸窠名銭は須らく全く交鈔を収むべし。秋夏税の本色の外、尽く鈔に折ぜしめ、貫例に拘わらず、農民之を知り、迤漸に鈔を重んぜん。比来州県抑配して行市に鈔を買わしむるは、益無く、徒らに之を擾わすのみ。乞わくは諸処の鈔局を罷め、惟だ省庫は仍って旧の如くし、小鈔は路分を限らず、通行せしむべし」と。上奏を覧し、即ち有司に詔して曰く、「速かに之を行うべし」と。大安初、黄門李新喜を誅せんと議す。鐸曰く、「此れ先朝の之を用いること過ぎたるのみ」と。衛紹王察せず、即ち曰く、「卿今日始めて之を言うは何ぞや」と。既にして復た曰く、「後当に尽く言わん、此を以て介意すること無かれ」と。頃くして、尚書左丞に遷り、国史を修むるを兼ぬ。鈔法を議して旨に忤う。猶お李新喜を論ずるを以て浚州防禦使に降す。安国軍節度使に改め、絳陽軍に徙る。

原文蒲陰縣令大中與左司郎中劉昂、通州刺史史肅、前臨察御史王宇、吏部主事曹元、戶部員外郎李著、監察御史劉國樞、尚書省都事曹溫、雄州都軍馬師周,吏部員外郎徒單永康、太倉使馬良顯、順州刺史唐括直思白坐私議朝政,下獄,尚書省奏其罪。鐸進曰:「昂等非敢議朝政,但如鄭人遊鄉校耳。」上悟,乃薄其罪。鐸上言:「民間鈔多,宜收斂。院務課程及諸窠名錢須要全收交鈔。秋夏稅本色外,盡令折鈔,不拘貫例,農民知之,迤漸重鈔。比來州縣抑配行市買鈔,無益,徒擾之耳。乞罷諸處鈔局,惟省庫仍舊,小鈔無限路分,可令通行。」上覽奏,即詔有司曰:「可速行之。」大安初,議誅黃門李新喜。鐸曰:「此先朝用之太過耳。」衛紹王不察,即曰:「卿今日始言之何耶?」既而複曰:「後當盡言,勿以此介意。」頃之,遷尚書左丞,兼修國史。議鈔法忤旨,猶以論李新喜降浚州防禦使。改安國軍節度使,徙絳陽軍。

宣宗即位し、闕に赴かんことを召す。兵道阻まるを以てす。宣宗汴に遷る。鐸宜村に上謁し、太子太師を除す。疾に在り、累ね使いを遣わして候問す。貞祐三年、致仕す。是歳薨ず。

原文宣宗即位,召赴闕,以兵道阻。宣宗遷汴,鐸上謁於宜村,除太子太師。在疾,累遣使候問。貞祐三年,致仕。是歲薨。

孫即康

原文孫即康

孫即康、字は安伯、その先祖は滄州の人である。石晉の末、遼が河北の民を移して燕・薊を実らせたとき、八代の祖延応がその移徙の中にあり、析津に籍を占め、実は大興に属し、涿州刺史に至った。延応の玄孫克構は、遼の検校太傅・啓聖軍節度使である。即康は克構の曾孫であり、大定十年に進士に及第した。章宗が右丞相であった時、即康は尚書省令史であり、これによってその人を知った。章宗が即位すると、累遷して戸部員外郎となり、塩法の利害を講究し、その語は『食貨志』にある。耀州刺史を除され、入朝して吏部左司郎中となった。上(章宗)が宰臣に言うには、「孫即康は以前省掾であった時、言語拙訥であったが、今は才力大いに進み、以前とは比べものにならない」と。宰臣はこれに因んで言うには、「即康は年すでに高し、幸いに早く用いるべし」と。上が問うには、「年はいくつか」と。対えて曰く、「五十六歳なり」と。上また問う、「その才は張萬公に比べてどうか」と。平章政事守貞が対えて曰く、「即康の才はこれを過ぐ」と。上曰く、「萬公よりは通じていると見える」と。これによって御史中丞に遷った。

原文孫即康,字安伯,其先滄州人。石晉之末,遼徙河北實燕、薊,八代祖延應在徙中,占籍析津,實大興,仕至涿州刺史。延應玄孫克構,遼檢校太傅、啟聖軍節度使。即康,克構曾孫,中大定十年進士第。章宗為右丞相,是時,即康為尚書省令史,由是識其人。章宗即位,累遷戶部員外郎,講究鹽法利害,語在《食貨志》。除耀州刺史,入為吏部左司郎中。上謂宰臣曰:「孫即康向為省掾,言語拙訥,今才力大進,非向時比也。」宰臣因曰:「即康年已高,幸及早用之。」上問:「年幾何矣?」對曰:「五十六歲。」上複問:「其才何如張萬公?」平章政事守貞對曰:「即康才過之。」上曰:「視萬公為通耳。」由是遷御史中丞。

初め、張汝弼の妻高陀幹が不道にして、誅せられた。汝弼は鎬王永中の舅であるため、上はこれによって永中を頗る疑った。永中の府傅尉が奏上するに、永中の第四子阿離合懣の語が不軌に渉ると、詔して同簽大睦親府事の袴と即康にこれを鞫らせた。第二子神土門は嘗て詞曲を撰し、頗る軽肆であったので、遂に語が不遜に渉るとして就逮した。家奴の徳哥が首を出して、永中が嘗て侍妾の瑞雲に言うには、「我が天下を得れば、爾を妃とし、子を大王とせん」と。袴・即康が還って奏上すると、詔して礼部尚書張暐に複訊させた。永中父子は皆死し、時論はこれを冤とした。間もなく、泰寧軍節度使に遷り、延安府事を知るに改めた。

原文初,張汝弼妻高陀斡不道,伏誅。汝弼,鎬王永中舅也,上由是頗疑永中。永中府傅尉奏永中第四子阿離合懣語涉不軌,詔同簽大睦親府事袴與即康鞫之。第二子神土門嘗撰詞曲,頗輕肆,遂以語涉不遜就逮。家奴德哥首永中嘗與侍妾瑞雲言:「我得天下,以爾為妃,子為大王。」袴、即康還奏,詔禮部尚書張暐複訊。永中父子皆死,時論冤之。頃之,遷泰甯軍節度使,改知延安府事。

承安五年、上が宰相に問う、「今漢官で誰か用いるべき者があるか」と。司空の襄が即康を挙げた。上曰く、「軽薄ではないか」と。襄曰く、「再び中丞として用いてこれを観るべし」と。上は乃ち再び即康を召して御史中丞とした。泰和三年、参知政事を除した。明年、尚書右丞に進んだ。六年、宋が盟に背く端緒あり、大臣は猶これを小盗の窃発として恤れむに足らずと為した。即康と左丞僕散端・参政獨吉思忠は必ず兵を用いるべきと為し、上もこれを然りとした。

原文承安五年,上問宰相:「今漢官誰可用者?」司空襄舉即康。上曰:「不輕薄否?」襄曰:「可再用為中丞觀之。」上乃複召即康為御史中丞。泰和三年,除參知政事。明年,進尚書右丞。六年,宋渝盟有端,大臣猶以為小盜竊發不足恤。即康與左丞僕散端、參政獨吉思忠以為必當用兵,上以為然。

上が即康・参知政事賈鉉に問うには、「太宗の廟諱いみなの同音字に、『成』字と読むものがあるが、既に同音でなければ、便ち点画を欠くべからず。睿宗の廟諱は『崇』字に改作するが、その下に却って本字の全体があり、『示』字を『蘭亭帖』に依って『未』字と書くに如かず。顕宗の廟諱『允』、『充』字は点画を欠くべく合す、『統』の傍の『充』の如きは、欠くべからざるに似たり」と。即康奏して曰く、「唐太宗の諱は世民、偏傍に犯すものは『{艸枼}』字を『筼』字と作し、『泯』字を『泜』字と作す」と。乃ち「熙宗の廟諱は『面』に従い『且』に従う。睿宗の廟諱は上字は『未』に従い、下字は『簹』に従う。世宗の廟諱は『系』に従う。顕宗の廟諱はもし正しく字形を犯すときは、ただ斜画を書き、『沇』字『鈗』字は各々『口』に従い、『兌悦』の類は各々本伝に従う」と擬した。これを従い、ここより曲避に勝えざるに至った。左丞に進んだ。宋人が和を請うと、官一階を進めた。

原文上問即康、參知政事賈鉉曰:「太宗廟諱同音字,有讀作'成'字者,既非同音,便不當缺點畫。睿宗廟諱改作'崇'字,其下卻有本字全體,不若將'示'字依《蘭亭貼》寫作'未'字。顯宗廟諱'允','充'字合缺點畫,如'統'傍之'充',似不合缺。」即康奏曰:「唐太宗諱世民,偏傍犯如'{艸枼}'字作'筼'字,'泯'字作'泜'字。」乃擬「熙宗廟諱從'面'從'且'。睿宗廟諱上字從'未',下字從'簹'。世宗廟諱從'系'。顯宗廟諱如正犯字形,止書斜畫,'沇'字'鈗'字各從'口','兌悅'之類各從本傳。」從之,自此不勝曲避矣。進左丞。宋人請和,進官一階。

旧制、尚書省令史は考満して優調し、次任で回降する。崔建昌は既に優調して興平軍節度副使となり、未だ回降せざるに即ち大理司直を除された。詔して知除の郭邦傑・李蹊を杖七十して勒停とし、左司員外郎高庭玉を決四十して解職とし、即康は待罪せしめたが、詔して問わず。章宗崩じ、衛紹王即位し、即康は平章政事に進拝し、崇国公に封ぜられた。大安三年、致仕した。この歳、薨じた。使いを遣わして祭らせた。

原文舊制,尚書省令史考滿優調,次任回降。崔建昌已優調興平軍節度副使,未回降即除大理司直。詔知除郭邦傑、李蹊杖七十勒停,左司員外郎高庭玉決四十解職,即康待罪,有詔勿問。章宗崩,衛紹王即位,即康進拜平章政事,封崇國公。大安三年,致仕。是歲,薨。遣使致祭。

李革

原文李革

李革、字は君美、河津の人。父余慶は三たび廷試に至るも遂げず、因って棄て去った。革は穎悟にして、書を読み一再誦すれば、輒ち記して忘れず。大定二十五年進士。真定主簿に調じた。廉を察せられ、韓城令に遷った。同知州事が富商の賂を受け、歳課の軍須を属県に配するに、革は独り聴かず、提刑司は能と為した。河北東路転運都勾判官・太原推官に遷った。母憂に服し、起復して大興県令・中都左警巡使・南京提刑判官・監察御史・同知昭義軍節度事に遷った。父憂に服し、起復して簽南京按察事となった。

原文李革,字君美,河津人。父余慶,三至廷試,不遂,因棄去。革穎悟,讀書一再誦,輒記不忘。大定二十五年進士。調真定主簿。察廉,遷韓城令。同知州事納富商賂,以歲課軍須配屬縣,革獨不聽,提刑司以為能。遷河北東路轉運都勾判官、太原推官。丁母憂,起複,遷大興縣令、中都左警巡使、南京提刑判官、監察御史、同知昭義軍節度事。丁父憂,起複,簽南京按察事。

泰和六年、宋を伐つに、尚書省が奏す、「軍興に随い、諸路の官、差占する者は別に注し、闕ける者は選補し、老いて職に任えざる者は替罷し、及び司・県は各々強幹の正官一員を存留すべし」と。革と簽陝西の高霖・簽山東の孟子元は俱に詔を受け、三路の官員の能否を体訪し、存留する正官、行省・行部・元帥府の差占員数及び事故の闕員、老いて職に任えざる者を籍し、闕に赴きて事を奏すべし。刑部員外郎に改め、観州刺史兼提挙漕運・陝西西路按察副使・大興府治中に調じた。知府徒単南平は貴幸として用事し、勢中外に傾き、その親しい者を遣わして進取を以て革を誘うも、革はこれを拒んだ。貞祐二年、戸部侍郎に遷った。宣宗が汴に遷ると、河北西路六部事を行い、開封府事を知るに遷り、河南勧農使・戸部尚書・吏部尚書・陝西行省参議官となった。

原文泰和六年,伐宋,尚書省奏:「軍興,隨路官,差占者別注,闕者選補,老不任職者替罷,及司、縣各存留強幹正官一員。」革與簽陝西高霖、簽山東孟子元俱被詔,體訪三路官員能否,籍存留正官,行省、行部、元帥府差占員數及事故闕員,老不任職,赴闕奏事。改刑部員外郎,調觀州刺史兼提舉漕運,陝西西路按察副使,大興府治中。知府徒單南平貴幸用事,勢傾中外,遣所親以進取誘革,革拒之。貞祐二年,遷戶部侍郎。宣宗遷汴,行河北西路六部事,遷知開封府事,河南勸農使,戶部、吏部尚書,陝西行省參議官。

四年、参知政事拝す。革奏す、「有司各々情見を以て断例を引用し、牽合附会し、実に幸門を啓く。乞うらくは凡そ断例・敕条・特旨・奏断にして永格と為さざる者は、引用を許さず、皆律を以て正とすべし」と。詔してこれに従う。この歳、大元の兵が潼関を破ると、革は自ら執政として備禦の策を失いしを以て、上表して罪を請う。許さず、罷めて絳陽軍節度使と為す。興定元年、胥鼎が平陽より移鎮して陝西に至ると、革は平陽府事を知り、権参知政事として、鼎に代わり河東行省と為った。この時兵を興して宋を伐たんとす。革上書して曰く、「今の計は兵を休め民を息め、鋭を養い敵を待つべし。宋は釁を造ると雖も、ただ自備すべし。若し小忿を忍びずして遠略を勤めば、恐らくは或いはこれに乗ぜられ、支えること能わざるべし」と。納れられず。太原は兵後の食を闕き、革は粟七万石を移してこれを済した。二年、宣差粘割梭失が河東に至り、この時晩禾未だ熟せず、牒を行省に下して耕毀清野せしむ。革奏す、「今年雨沢時に適い、秋成を待つべし。若し耕毀せしめば、民将に堪えざらん」と。詔して革の奏に従う。十月、平陽囲まれ、城中の兵六千に満たず、屡々出戦し、旬日の間に傷者半ばを過ぐ。吉・隰・霍の三州に徴兵すれど、時に至らず。裨将ひしょう李懷德が城を縋り出て降り、兵自ら城の東南より入る。左右革に請うて馬に上り囲みを突いて出でんとす。革歎じて曰く、「吾この城を保つこと能わず、何の面目か天子に見えん!汝輩は去るべし」と。乃ち自殺す。尚書右丞を贈られた。

原文四年,拜參知政事。革奏:「有司各以情見引用斷例,牽合附會,實啟幸門。乞凡斷例敕條特旨奏斷不為永格者,不許引用,皆以律為正。」詔從之。是歲,大元兵破潼關,革自以執政失備禦之策,上表請罪。不許,罷為絳陽軍節度使。興定元年,胥鼎自平陽移鎮陝西,革以知平陽府事,權參知政事,代鼎為河東行省。是時興兵伐宋,革上書曰:「今之計當休兵息民,養銳待敵。宋雖造釁,止可自備。若不忍小忿以勤遠略,恐或乘之,不能支也。」不納。太原兵後闕食,革移粟七萬石以濟之。二年,宣差粘割梭失至河東,於是晚禾未熟,牒行省耕毀清野。革奏:「今歲雨澤及時,秋成可待。如令耕毀,民將不堪。」詔從革奏。十月,平陽被圍,城中兵不滿六千,屢出戰,旬日間傷者過半。徵兵吉、隰、霍三州,不時至。裨將李懷德縋城出降,兵自城東南入。左右請革上馬突圍出,革歎曰:「吾不能保此城,何面目見天子!汝輩可去矣。」乃自殺。贈尚書右丞。

賛して曰く、『伝』に曰く、「君子の言は、その利博し」と。徒単鎰が拱手して一言を発し、宣宗が立つ、その功績は大きい。賈鉉、孫鐸は皆旧臣なり、賈鉉は久しく致仕し、孫鐸は衛王に旨に忤い、皆復た用いられず。徒単鎰も亦外官たり、惟だ孫即康は詭随にして、乃ち驟ちに宰相に至る。古の所謂る斗筲の人とは、即康の謂いなり。孫鐸が李新喜を論ずる、その言は漢の耿育に似たり、旨有るかな。貞祐の執政李革は、君子と謂うべく、その進退の際、古人の相たるの風有り。

原文贊曰:《傳》曰:「君子之言,其利博哉!」徒單鎰拱挹一語而宣宗立,厥功懋矣。賈鉉、孫鐸皆舊臣,鉉久致仕,鐸忤旨衛王,皆不復見用。徒單鎰亦外官,惟孫即康詭隨,乃驟至宰相。古所謂斗筲之人,即康之謂矣。鐸論李新喜,其言似漢耿育,有旨哉。貞祐執政李革,可謂君子,其進退之際,有古人為相之風焉。