孟鑄
泰和四年、入朝して御史中丞となり、香閣に召し出されて見えた。上は鑄に言った、「朕は卿を知っている、人の薦挙によるのではない。御史の責任は甚だ重い、これまでの台官は細かいことを推し求めて、小官を弾劾するが、巨室の重大な事柄については、畏れて憚り言わない。その職務に勤めよ、朕の命を無駄にするな」。この年、春から夏にかけて、諸郡に雨が少なかった。鑄が奏上した、「今年は陽気が過ぎて、既に五月に近い、雨を得るまで待てば、播種の期を失う恐れがある。麻や菜を植える法に依り、地形のやや低い所を選んで畝を分けて穀物を植え、土を穿って井戸を作り、適宜に灌漑すべきである」。上はその言に従い、区種法はここに始まった。
間もなく、知大興府事紇石烈執中の過失悪行を弾劾して奏上した。その文は略して言う、「京師は百郡の首であり、四方の模範となる。知府執中は貪婪で残忍、専横で恣に、法令を奉じず、奉聖州の罪を解かれて以後、罪を恃んで悔い改めず、朝廷の恩赦に蒙り、転じて跋扈を生ず。雄州では人馬を詐って奪い、平州では己の俸給を冒領し、理由なく魏廷碩の家を破り、その塚墓を発いた。表を奉って調鷹のため赴かず、雨乞いに妓を集めて戯れ遊び、同僚を毆り罵り、職を停めることを擅に命じ、師帥の体を失う。罷退を行うことを乞い、人望を満たすべし」。上は執中が東宮の旧人であるため、頗るこれを擁護し、鑄に言った、「執中は粗野な者で、跋扈する者のようだ」。鑄は言った、「明らかな天子が上におられるのに、どうして跋扈の臣がいることができましょうか」。上は悟り、詔して尚書省にこれを問わせた。
泰和五年、唐・鄧・河南でたびたび警報があり、議者は宋が盟約を破るだろうと言った。六年正月、宋の賀正旦使陳克俊らが朝辞する際、上は鑄を遣わして館に至らせ、国家が包容する旨を克俊に諭させた。もしこの旨を詳らかにしないならば、恐らく兵は止むことがあるまい、と。使節に上言を以て宋主に伝えさせよ、と。章宗は元より兵を用いる意がなかったので、再三これを諭したのである。
鑄が提刑司を按察司に改め、官を差して再び察することは、権威を削ぎ声望を軽くすると論じた。下して尚書省に議させた。参知政事賈鉉が奏上した、「監察を差す時に、即ち別に官を遣わして共に行かせ、再び察することはせず、諸々の疑わしい獄は皆按察司に従って正しく決断させ、これで人望を慰めることができるでしょう」。これに従った。
紇石烈執中が乱を起こし、鑄及び右諫議大夫張行信を召し出して共に大興府に至らせ、問うて言った、「お前たちは以前私を弾劾した者か」。鑄らはそれぞれ正しい言葉で答えた。執中はそこで家に帰らせ、言った、「暫く後の命令を待て」。既にして執中が死ぬと、鑄も間もなく卒した。
宗端脩
端脩は終に直道をもって時に振るわず、自ら守ることを愈々篤くした。妻が死んでも再び娶らず、独居すること二十年、士論はこれを高くした。汝州司候遊彦哲が官に赴こうとして、為政について問うた。端脩は言った、「為政は難しくない、気を治め心を養うだけである」。彦哲は理解できなかった。端脩は言った、「心が正しければ私せず、気が平らかであれば暴れない。為政の術は、ここに尽きている」。
完顏閭山
路鐸
尚書左丞完顏守貞は毎に政事を論じ、守正して移らず、同列と合わず、罷めて東平府事を知る。台諫これに因りてこれを擠む。鐸上書して守貞の賢なるを論じ、復用すべきとし、その言甚だ切なり。崇政殿に召對す。既にして章宗、鐸の書を以て大臣に語る。ここにおいて尚書左丞烏林答願、參知政事夾穀衡、胥持國、路鐸が梁冀を以て右丞相に比すと奏す。言うところ狂妄にして、諫職に稱せずと。右丞相は夾谷清臣なり。上曰く、「周昌は傑・紂を以て漢高祖に比す。高祖これを忤とせず。路鐸は梁冀を以て丞相に比すのみ」と。頃にして、守貞入りて平章政事となる。五年、復た禮部尚書張暐、御史中丞董師中、右諫議大夫賈守謙、翰林修撰完顏撒刺とともに景明宮行幸を諫む。語多く激切にして、章宗堪えず。近侍局直長李仁願を遣わし、凡そ北幸を諫むる者を召して尚書省に詣らしむ。詔して曰く、「卿等の北幸を諫むるは甚だ善し。但其の間頗る君臣の體を失うのみ」と。
この年、郝忠愈の獄起こる。事密にして、諫官その詳を察し能わず。議者頗る事の鎬王永中に涉ると謂い、上意を寬解する所以あらんことを思う。右諫議大夫賈守謙が封事を上し、鐸これに継ぐ。尤も切直なり。上これを優容し、鐸に謂いて曰く、「汝の言う諸王皆覬心あり、その門に遊ぶ者橫議無からずとは、是れ何の言ぞ。但だ朕諫官を罪せざるのみ」と。頃にして、尚書省鐸を擬して河北西路轉運使事同知とすと奏す。詔して再任して右拾遺とす。宰相に謂いて曰く、「鐸は敢言なり。但だ識短きのみ。朕嘗て詰責すれども氣沮まず」と。鐸因りて召對に際し、宰相の權太重きを論ず。上曰く、「凡そ事は朕に由る。宰相安んぞ權重きを得ん」と。既にして復た奏して曰く、「乞うらくは陛下この言を泄らさざらんことを。泄らせば則ち臣齏粉と為らん」と。上曰く、「宰相安んぞ人を齏粉にせんや」と。ここに至り、章宗並びにこの言を以て宰相に告ぐ。留めて再任すと雖も、宰相愈々これを銜む。右補闕に改む。
完顏守貞の再び相に入り、政事を以て己が任と為してより、胥持國方に幸せられ、守貞を特に忌み、並びに鐸の輩を忌む。鐸の輩は嘗て守貞のために論辨すれども、相附かず。鐸邊防を論ずるに、守貞は唐人の餘論を掇拾すと以為い、皆行わず。守貞が鎬王永中の事を持して久しく決せずに及ぶと、鐸等も亦上言切諫し、並びに指して以て黨と為す。上乃ち守貞を出して濟南府を知らしむ。凡そ嘗て守貞を薦むる者皆黜降す。宰臣に謂いて曰く、「董師中は台省に守貞無くしては治め難しと謂い、路鐸、李敬義皆これを稱舉する者なり。然れども三人の者は後俱に用いる可し。今姑くこれを出だす」と。上復た曰く、「路鐸敢言にして、甚だ時に名あり。一旦外補せば、人将に朕の直臣を容るる能わずと謂わん。敢言及び才識鐸の右に處る者を選ぶべし」と。參知政事馬琪奏して曰く、「鐸は知る無く言わざると雖も、然れども亦多く理に當たらず」と。上曰く、「諫官は但だ敢言を取るのみならず、亦須らく間朕の意表に出づる者有りて、乃ち裨益有るなり」と。ここにおいて、吏部尚書董師中を出して陝西路轉運使と為し、鐸を南京留守判官と為す。戶部郎中李敬義方に高麗より使い還り、即ち出して安化軍節度副使と為す。詔して曰く、「卿等昨來交りて守貞の公正なるを薦めて用いる可しとす。今所舉の實を失うに坐すのみ」と。
參知政事楊伯通が鄉人李浩を引用す。鐸劾奏す、「伯通は公器を以て私恩を結び、左司郎中賈益、知除武鬱は風旨を承望し、起複條例を詳檢せず」と。妄冒に涉り、大夫張暐これを抑えて行わず。上命じて同知大興府事賈鉉に詰問せしむ。張暐、伯通は家に於いて待罪す。賈鉉奏す、「近く詔書を以て御史大夫張暐を詰問す。暐言う、路鐸嘗て稟會す、楊伯通私に鄉人李浩を用いると。暐以為う、大臣を彈絀するには、須らく阿曲の實跡有るべし。劾する所當たらずんば、台綱愈く壞れんことを恐れ、再び體察せしむと。賈益言う、除授は皆宰執の公議に由り、奏稟す。伯通の私任の形跡を見ず」と。ここにおいて、詔して鐸の事を言う輕率なるを責め、伯通を慰諭して事を治むること故の如くせしむ。
頃にして、侍御史に遷り、奏事を主る。監察御史姬端修、事を言うを以て吏に下る。御史台令史郭公仲をして大夫張暐及び鐸に意を達せしむ。暐と鐸殿上にて奏事す。上問う、「姬端修の彈事は嘗て台官に申すや」と。對えて曰く、「嘗て來たりて面議す」と。端修款伏して乃ち云う、「只だ曾て侍禦と私議す。大夫は知らず」と。既にして端修杖七十收贖、公仲杖七十替罷。暐、鐸は奏事實ならざるに坐し、暐は一官を追われ、鐸は兩官を追われ、皆解職す。頃にして、起されて泰定軍節度副使と為る。上宰臣に謂いて曰く、「凡そ事を言う者、議朕躬に及ぶも亦妨げ無し。語宰相に涉れば、間に憎嫌有り。何を以てか進み得ん」と。詔して左司に鐸の資考を計らしめ、正五品に至れば即ち東平府治中を除く。未だ幾ばくもなく、景州刺史を闕く。尚書省已に郭歧をこれに為すと奏す。詔して特ちに鐸を改めて景州刺史と為し、仍て審官院に送る勿れ。鐸十二訓を述べて以て民を教う。詔して曰く、「路鐸の十二訓は皆人を勧めて善を為さしむ。遍く州郡に諭してこれを知らしめよ」と。陝西路按察副使に遷る。糾彈の官を以て京兆府治中蒲察張鐵、總管判官辛孝儉、推官愛剌と宴飲するに坐し、鐸の一官を奪い解職す。泰和六年、召されて翰林待制兼知登聞鼓院と為り、累ねて除かれて孟州防禦使となる。貞祐初、城破れ、沁水に投じて死す。
鐸は剛正にして、歴官台諫、直臣の風有り。文を為すに奇を尚び、詩篇は溫潤精緻、號して《虛舟居士集》と云う。
完顏伯嘉
大安中、三遷して同知西京留守となり、本路安撫使を権む。貞祐初、順義軍節度使に遷る。父母の喪に居り、卒哭して、震武軍節度使兼宣撫副使を起復し、太和嶺諸隘を提控す。副統李鵬飛、彰國軍節度使牙改を誣いて殺す、詔して伯嘉にこれを治めしむ。貞祐四年三月、伯嘉奏す「西京副統程琢、智勇人に過ぎ、心を忠孝に持ち、私財を以て壮士二万を募集し、復た渾源・白登を取り、山西を恢復せんの志有り、已に弘州に駐するを命ず。近く靖大中・完顔毛吉打、三千人を以て国に帰し、各々節度副使に遷る。今山西已に守らず、琢は余衆を収合し、国に忠を尽くし、百戦して挫けず。臣は機会を失わんことを恐れ、輒ち琢を昭勇大将軍、同知西京留守事に擬し、一路の義軍を兼ね領せしめ、空名の敕二十道を給し、謀略ある者を択びて州県に充てしむるを許さん」と。制して可とし、仍て琢に夾穀氏の姓を賜う。琢請うて曰く「前代は皆国姓を賜い、他族に系せず、如し蒙み更に賜わば、栄これより大なるは莫し」と。詔して更に完顔氏を賜う。
是の月、伯嘉は元帥左監軍に遷り、太原府事を知り、河東北路宣撫使となる。同知太原府斡勒合打を以て彰國軍節度使・宣撫副使とす。六月、斡勒合打奏す「同知西京留守完顔琢、宣撫使伯嘉と雅く善しと恃み、代州に徙居し、肆に侵掠を為す。遙授太原治中、権堅州刺史完顔斜烈、私に辺面を離れ、臣伯嘉に白す、伯嘉悦ばず、臣をして糧運を代州に護送せしむ。臣兵を益さんことを請う、乃ち羸卒数百を以て見付し、半ば鎧仗無し。臣復た言を為す、伯嘉臣に怒り、榜掠して幾くんか死せんとす。臣功を立て累年、頗る寸效有り、伯嘉は私を挟みて陵轢し、復た宣撫同僚の礼無し。臣言わんと欲せざれども、他日反って誣えらるるを恐れ、以て自ら明らかにする無からん」と。上宰臣に問う、奏して曰く「太原は重鎮、防秋邇し、請う敕を諭して和解せしめん」と。詔して曰く「太原は兵衝、若し私忿を以て国事を廃せば、国家何に頼らんや。卿等心を同うして力を戮し、以て北顧の憂いを分つべし、前非を執ること無く、大計を誤る無かれ」と。七月、伯嘉は帰徳府事を知るに改め、合打は武寧軍節度使に改む。御史台奏す「宣撫副使合打、元帥伯嘉が私忿を以て箠楚を加うと訴え、本台に廉問せしむ、既に其事を得て、遂に復た窮治せず。若し合打の奏実なれば、伯嘉安んぞ罪無からん、伯嘉罪無ければ、合打欺罔に坐すべし、是非を審らかに正し、黜陟を明示せんことを乞う」と。宣宗曰く「今正に防秋す、且く已にせよ」と。
初め、河東行省胥鼎奏す「完顔伯嘉屡く言う、同知西京留守兼台州刺史完顔琢は、之を倚りて以て山西を復すべしと、朝廷官を遷し姓を賜い、代北に屯し、太和嶺を扼せしむ。今聞く諸隘悉く琢の兵無し、蓋し琢は太原の衆を挈き、五台に保ちて剽掠するのみ。如し尚ほ伯嘉の言を以て信ずべきと為さば、琢を出でて太原にせしめ、或いは内に徙らしめ、其の衆を分処し、以て不測の変に備えんことを乞う」と。宰臣奏す「已に官を遣わして琢の軍を体究せしめ、且つ太原元帥府烏古論徳升に琢を召して之を使わしむ。当に此の意を以て鼎に報ぜん」と。未だ幾ばくもあらざるに、徳升奏す「琢の兵数万、代州諸険に分屯し、拒戦甚だ力あり、其の衆烏合、琢に非ざれば制す可からず」と。胥鼎復た奏す「宣差提控古裏甲石倫言う、琢方に降人を招き、謀りて山西を復せんとし、忻・代・定・襄の間に盤桓し、恣に侵擾を為し、復た行くの意無し。民の粟を発掘し、かつ。辜無きを戕殺す、官廩を煩わさずと曰うと雖も、博易を名と為すも、実は則ち攘劫し、国を欺き民を害するは琢の如きは無し。石倫の言かくの如し、臣已に帥府に之を禁止せしむ」と。宰臣奏す「遣わしし官、忻・代より来り、劫掠の跡を見ずと云う、惟だ徳升の言の如きは便なり」と。之に従う。
初め、貞祐四年十月、詔して兵部尚書・簽樞密院事蒲察阿裏不孫を以て右副元帥と為し、潼関・陝州を備禦せしむ。澠池土濠村に次ぎ、兵戦わずして潰ゆ。阿裏不孫逸して去り、佩する虎符を亡い、姓名を変易し、柘城県に匿れ、其の妻妹前韓州刺史合喜の男の婦紇石烈氏及び僕婢三人とともに民舎を僦いて居止す。合喜の母徒単氏之を聞き、紇石烈を捕執し、其の発を断ち、之を仏寺中に拘す。阿裏不孫復た亡去す。監察御史完顔薬師劾奏す「就きて紇石烈及び僕婢を詰め、当に所在を得べし。其の妻子見在京師に在り、亦た知らざるを容れず、窮治せんことを請う」と。有司方に其の家人を系す、特命して之を釈し、詔して曰く「阿裏不孫若し自ら出でば、当に極罪を免ぜん」と。阿裏不孫乃ち其の子をして上書せしめ、後效を図らんことを請わしむ。尚書省奏す「阿裏不孫幸いに特赦にて死を免る、当に闕に詣り自ら陳すべし、乃ち其の子をして上書せしむ、猶ほ顧望を懐く」と。伯嘉之を劾して曰く「古の将を為す者、命を受くるの日其の家を忘れ、陣に臨むの日其の身を忘る、喪衣を服し、凶門を鑿ちて出で、以て必死を示す。進みて名を求めず、退きて罪を避けず、惟だ民を是れ保つ。阿裏不孫国重寄に膺り、数万の兵を握り、未だ陣せずして潰え、虎符を委棄し、既に枹鼓を援りて以て敵に死するを得ず、又た斧鑕を負いて以て罪を請う能わず、命を逃れ伏して竄し、猥りに裏巷に居り、婦人を挟み匿し、此の醜行を為す。聖恩寛大、曲げて其の死を赦す、自ら奔走して闕庭に至り、皇恐して命を待つべし。安坐して君を要し、略く忌憚無し、其の情罪を跡すれば、実に誅するを容れず。此れを懲せずんば、朝綱廃せん。諸市に屍して以て臣たりて忠ならざる者を戒めんことを乞う」と。宣宗曰く「中丞の言是なり、業已に之を赦せり」と。阿裏不孫乃ち名を除かる。
五月、河南提控捕蝗の宣差を充てられ、四品以下の処断を許された。宣宗は旱魃を憂えた。伯嘉が上奏して言うには、「日は君主の象であり、陽の精である。旱魃は君主が自ら亢極の象を用いることによるものであり、宰相は冤罪によるものとしている。陰陽を調和させるのは宰相の職務であるのに、軽率に有司に帰咎している。高琪は武弁の出身であるから論ずるに足らず、汝礪らはその職務を知らず、その罪は大きい。漢の制度では、災異があれば三公を策免するが、有司に帰するであろうか。臣は思うに、今日の旱魃は、聖主が自ら用い、宰相が諂諛し、百司が職務を失っていることによるものである」と。高琪、汝礪はこれを深く怨んだ。礼部郎中の抹撚胡魯剌が言事をもって旨に逆らい、五品以上の官を集めて公然と責めた。翌日、伯嘉が諫めて言うには、「古来、帝王は堯、舜に倣いたいと願い、桀、紂であることを恥じる。それは堯、舜が諫言を受け入れ、桀、紂が拒んだからである。故に『諫めを受け入れる者は栄え、拒む者は滅ぶ』と言う。胡魯剌の言うことが正しければ、身に益はなく、正しくなければ、国に損はない。陛下がこのように朝廷で辱めるのは、堯、舜となろうとされないのか。近ごろ言事する者の言葉が誹謗に及ぶと、有司は重典をもって処すべきとし、陛下はこれを釈放された。釈放して恩と為すよりは、放置して問わない方がよい」と。宰相が山寨を修築して兵を避けることを請うと、伯嘉が諫めて言うには、「建議する者は必ず、険阻を拠れば君父を安んじられると言うが、陳の後主が井戸に入ったのを見ないのか。仮に山寨に入って生き延びられたとしても、再び国を為すことができようか。人臣には国に忠を尽くす者と、君に媚びる者がいる。国に忠を尽くす者は時に君意に逆らい、君に媚びる者は国の為に謀らない。臣はひそかに論ずるに、国があってこそ君があり、君があっても必ずしも国があるとは限らない」と。高琪、汝礪はこれを聞き、怒りはますます甚だしくなった。
間もなく、召還され、中丞に罷免された。伯嘉が入見し、上奏して言うには、「臣のような駑鈍な者はもとより召還されるべきであるが、さらに速やかに大臣を派遣して鎮撫させる必要がある」と。宣宗は深くこれを然りとした。伯嘉が上疏して言うには、「国家の兵は強くなく、力は有為に足らず、財は富まず、賞は衆人に行き渡らず、ただ官爵を恃んで人心を激勵している。近ごろ功績により官を遷して都に赴き調任を求める者を、有司はしばしばこれを駁す。濫りを冒す者は確かに十のうち三であるが、与えておきながら再び奪うのは、功を勧める道ではない。軍功により官を遷した者で、宣敕に偽りがなければ直ちにこれを用いることを准えることを請う」と。また言うには、「兵乱以来、河北の桀黠な者はしばしば衆を集めて自保し、定まった所属がない。招撫を賜り、職名を授け、他者に先んじられないようにすることを請う」と。また言うには、「河東、河北で余民を招集し城寨を守り完備する者がいれば、その門地を問わず、皆等級を超えて、本処の現任の職を授けることを請う」と。また言うには、「河中、晉安は山に依り河を帯び、関、陝を保障する。これは必ず争われる地である。今は残破しているが、形勢はなお存する。もし他者がこれを拠り、塩池の豊かさに因り、兵を聚め糧を積めば、河津以南、太行以西は皆恃むに足らなくなるであろう」と。
四年秋、河南は大水となり、宣慰副使を充てられ、京東を巡行した。上奏して言うには、「亳州の災害が最も甚だしく、合わせて三十余万石を免ずべきである。三司はただ十万石の免除を奏上しただけで、民は重く困窮するであろう。陛下の憐れみを請う」と。詔して、三司が災害を実状通りに奏上しなかった罪を治めさせた。伯嘉は蘄県に行き至り、前に紅襖賊がいると聞き、泗州に至ることができなかった。監察御史の烏古孫奴申が伯嘉を弾劾し、詔に違背し、遍く巡視しなかったと。また言うには、「伯嘉は永城県主簿の蒙古訛裏刺が不法であること、沈丘令の夾谷陶也が賄賂を受け取ったことを知りながら、匿して発覚させなかった。前穀城県令の獨吉鼎術可はかつて伯嘉に師事したことがあり、伯嘉は御史に暗示してこれを辟召させた」と。詔して有司に鞫問させたが、赦に会って免じられた。
朮虎筠壽
賛して言う。孟鑄、宗端修、路鐸は章宗に言葉を尽くしたが、皆排斥されて志を遂げなかった。鑄が胡沙虎を弾劾したのは、先見の明があったと言えよう。その言葉は行われたが、その罰を究めなかった。その後、胡沙虎が逆謀を起こし、胥持国は終に国を誤るに至り、悟らなかった。宣宗の時、完顔素蘭、許古は皆敢言する者であったが、高琪、汝礪の手によっても挫かれた。一掬の土では黄河の決壊を塞げない。それには理由があるのだ。完顔伯嘉は功績を著して大政に参与したが、一朝も安らかではいられなかった。言うことの難しさはこのようなものか。朮虎筠壽は、いわゆる技芸の事をもって諫める者であろうか。
張煒
張煒は、字を子明といい、洺州永年の人である。本名は燝であったが、章宗の諱を避けて改めた。大定二十五年の進士で、葭州軍事判官に任じられ、再遷して中都左警巡使となった。煒は功利を言うことを好み、廉節に乏しく、部民の閻元翬と交際し、縉紳はこれを軽蔑した。累官して部員外郎となった。
承安五年、天候が長く陰晦であった。平章政事張萬公が奏上して言うには、「これは君子と小人の邪正が分かれないことによるものであり、君子は内に在るべきであり、小人は外に在るべきです」と。章宗が問うて、「誰が小人か」と。萬公が答えて言うには、「戸部員外郎張煒、文繡署丞田櫟、都水監丞張嘉貞は、幹才はあるが、徳がなくて称えられるに足らず、奔走して勢利を取ることを好みます。およそ人を論ずるには、まず徳を先にし、後に才をすべきです」と。詔して三人を皆外任に除する。煒は出て同知鎮西軍節度使事と為り、転じて同知西京轉運使事と為る。この時、大いに界牆を築き、行戸工部の牒を受け、役事を主る。母の憂いに遭い、起復して桓州刺史と為り、塩をもって米と易えることを奏請し、且つ言うところの利害甚だ多く、細碎に渉るを恐れ、敢えて尽く上さず。詔して尚書省に曰く、「張煒は通曉の人なり。朕は敢えて縷詰せず、卿等詳しくこれを問え。虚文と為ることなかれ」と。宣差西北路軍儲を充て、自ら言うには、民に及ばずして斂め、以て用を足すべしと。およそ商賈を募りてその販易を縦にし、来る所を問わず。奸人は往々にして牒を投じ、妄りに産業を指し、隣保の姓名を疏にし、煒これを信じ、多くこれに銭を与う。已にして亡去すれば、即ち隣保を逮系し、してこれを代償せしめ、一路これが為に疲弊す。故旧の氈罽繒絮皮革を以て軍士に折給するも、皆道に棄てて去る。歳余して、戸部郎中に改め、翰林直学士に遷り、倶に規措の職事を兼ぬ。左丞相宗浩が奏上して言うには、「張煒は恢辦に長ず。比来戸部銭三十万を与え、已に息十四万を増せり。請うらくは銭通百万を与え、今長に従い恢辦せしめ、省部に隷せしめず、臣を委ねて専一に提控せしめ、応に奏すべき者有らば、煒に専達を許し、歳に幹事官を差して本息を計り具奏せしめん」と。上その請に従う。
高竑
李複亨
李複亨は字を仲修と曰い、栄州河津の人なり。年十八、進士第に登る。復た中書判優等に中り、臨晋主簿に調ず。官馬を護送して府に入り、逆旅に宿す。盗有りて馬を殺す。複亨曰く、「利せずしてこれを殺すは、必ず仇する者有らん」と。逆旅の商人過客を尽く索む。同邑人の橐中に佩刀を盛る。これに謂いて曰く、「刀馬血を蔑む。火これを煆せば則ち刃青し」と。その人款服す。果たして仇有り。提刑の薦めを以て南和令に遷る。盗民家の牛耳を割く。複亨里中の人を尽く召し至らしめ、牛家をして牛を牽きて遍くこれを過らしむ。一人の前に至りて、牛忽ち驚躍す。これを詰むれば、乃ち伏を引く。廉を察し、臨洮府判官に遷り、陝西東路戸籍判官に改め、河東北路支度判官に転ず。
この歳七月、京東、京西、京南三路行三司を置く。勧農催租、軍須科差及び塩鉄酒榷等の事を掌る。戸部侍郎張師魯東路を摂り、帰徳に治む。戸部侍郎完顏麻斤出南路を摂り、許州に治む。複亨西路を摂り、中京実に河南府に治む。三司使侯摯これを総ぶ。複亨奏上して言うには、「民間農具を銷毀して以て軍器に供す。臣窃かに未だ便ならずと以為う。汝州魯山、宝豊、鄧州南陽皆鉄を産す。工を募り冶を置けば、以て利を得べく、且つ民を厲さず」と。又奏上して言うには、「陽武売塩官を設けて以て軍用を佐く。乞うらくは滄、濱の塩を禁止して過河せしむることなかれ。河南は陽武、解の塩を食い、河北は滄、濱の塩を食わば、南北俱に済わん」と。詔して尚書省に行わしむ。九月、勧農に労有りて、兵部尚書に遷る。再び月を閲し、吏部尚書に転じ、権参知政事と為る。四年三月、真に参知政事を拝し、国史を修するを兼ぬ。
七月、河南に雨水ありて禾稼を害す。複亨、宣慰使と為り、御史中丞完顔伯嘉之を副え、郡縣を循行し、凡そ官吏の貪汚治まらざる者は、罷め推治するを得たり。複亨奏して宣慰司の官吏を禁じて州府司縣の行総管府及び管軍官と會飲するを得ざらしむるを乞う。又奏して曰く、「詔書に臣に令す、民間の差發免すべき者は之を免せよと。民の驛馬を養うは、此の役最も甚だし。使者の求索百端、皆養馬の家より出づ。人の逃竄する多きは、職此の由なり。旧の如く回馬官を設け、使者の食料皆官之を給し、歳終に會計し、民に均賦すべし」と。又奏して曰く、「河南の閒田多し、河東・河北の移民を招き耕種せしむべし。災に被り及び沿邊の郡縣は租稅全く免じ、內地は之を半ばし、以て塗炭の民を救い、蓄積の用に資すべし」と。詔して有司に議行せしむ。還り奏して曰く、「南陽の禾麥は傷つけりと雖も、土性稻に宜し。今久雨に因り、乃ち更に滋茂す。田凡そ五百餘頃、畝に五石を収むるを得べく、都て二十五萬餘石を得べし。直を増して稻を糴し、唐・鄧の軍食に給すべし。詔書に不急の科役は即ち免罷せしむるに縁り、臣敢えて輒に行わず。臣の言を然りと為すに如くは、乞うらくは有司に付して之を計らしめよ」と。制して可とす。無何、詔を被り軍興の糧草を提控す。複亨奏して曰く、「河渡通ぜず、陝西の鹽價踴貴す。乞うらくは粟を以て互易し兵食を足らしめよ」と。詔して戶部に從長規措せしむ。
贊して曰く、大凡そ兵興すれば則ち財用足らず、是の故に張煒・李複亨時に乗じて利を射、聚斂を以て功と為す。大安、軍士倒戈して煒を殺さんと欲す。複亨南陽に宣慰し、還り奏して稻熟して糴すべきとす。所謂聚斂の臣とは、二子の謂いなり。高竑の藏を守るは、君子頗る取る所あり。