金史

列傳第三十八: 孟鑄 宗端脩 完顏閭山 路鐸 完顏伯嘉 朮虎筠壽 張煒 高竑 李復亨

列傳第三十八: 孟鑄 宗端脩 完顏閭山 路鐸 完顏伯嘉 朮虎筠壽 張煒 高竑 李復亨

孟鑄

原文孟鑄

孟鑄は、大定の末年に尚書省令史に補せられた。明昌元年、御史台が戸部員外郎李獻可・完顏掃合・太府丞徒單繹・宮籍監丞張庸・右警巡使袞・禮部主事蒲察ほさつ振壽・戸部主事郭蛻・応奉翰林文字移刺益・中都塩鉄判官趙皓・尚書省令史劉昂及び鑄の十一人を奏薦して、皆剛直で用いるに足るとした。詔して李獻可を右司諫に、掃合を磁州刺史に、繹を秘書丞に、庸を中都右警巡使に、袞を彰国軍節度副使に、振壽を治書侍御史に、蛻を同知定武軍節度使事に、益を翰林修撰に、皓を都水丞に、昂を戸部主事に、鑄を刑部主事に除した。累遷して中都路按察副使・南京副留守・河平軍節度使となった。

原文孟鑄,大定末,補尚書省令史。明昌元年,御史台奏薦戶部員外郎李獻可、完顏掃合、太府丞徒單繹、宮籍監丞張庸、右警巡使袞、禮部主事蒲察振壽、戶部主事郭蛻、應奉翰林文字移刺益、中都鹽鐵判官趙皓、尚書省令史劉昂及鑄十一人皆剛正可用。詔除獻可右司諫,掃合磁州刺史,繹秘書丞,庸中都右警巡使,袞彰國軍節度副使,振壽治書侍御史,蛻同知定武軍節度使事,益翰林修撰,皓都水丞,昂戶部主事,鑄刑部主事。累遷中都路按察副使、南京副留守、河平軍節度使。

泰和四年、入朝して御史中丞となり、香閣に召し出されて見えた。上は鑄に言った、「朕は卿を知っている、人の薦挙によるのではない。御史の責任は甚だ重い、これまでの台官は細かいことを推し求めて、小官を弾劾するが、巨室の重大な事柄については、畏れて憚り言わない。その職務に勤めよ、朕の命を無駄にするな」。この年、春から夏にかけて、諸郡に雨が少なかった。鑄が奏上した、「今年は陽気が過ぎて、既に五月に近い、雨を得るまで待てば、播種の期を失う恐れがある。麻や菜を植える法に依り、地形のやや低い所を選んで畝を分けて穀物を植え、土を穿って井戸を作り、適宜に灌漑すべきである」。上はその言に従い、区種法はここに始まった。

原文泰和四年,入為御史中丞,召見於香閣。上謂鑄曰:「朕自知卿,非因人薦舉也。御史責任甚重,往者台官乃推求細故,彈劾小官,至於巨室重事,則畏徇不言。其勤乃職,無廢朕命。」是歲,自春至夏,諸郡少雨。鑄奏:「今歲愆陽,已近五月,比至得雨,恐失播種之期,可依種麻菜法,擇地形稍下處撥畦種穀,穿土作井,隨宜灌溉。」上從其言,區種法自此始。

間もなく、知大興府事紇石烈執中の過失悪行を弾劾して奏上した。その文は略して言う、「京師は百郡の首であり、四方の模範となる。知府執中は貪婪で残忍、専横で恣に、法令を奉じず、奉聖州の罪を解かれて以後、罪を恃んで悔い改めず、朝廷の恩赦に蒙り、転じて跋扈を生ず。雄州では人馬を詐って奪い、平州では己の俸給を冒領し、理由なく魏廷碩の家を破り、その塚墓を発いた。表を奉って調鷹のため赴かず、雨乞いに妓を集めて戯れ遊び、同僚を毆り罵り、職を停めることを擅に命じ、師帥の体を失う。罷退を行うことを乞い、人望を満たすべし」。上は執中が東宮の旧人であるため、頗るこれを擁護し、鑄に言った、「執中は粗野な者で、跋扈する者のようだ」。鑄は言った、「明らかな天子が上におられるのに、どうして跋扈の臣がいることができましょうか」。上は悟り、詔して尚書省にこれを問わせた。

原文無何,奏彈知大興府事紇石烈執中過惡,其文略曰:「京師百郡之首,四方取則。知府執中貪殘專恣,不奉法令,自奉聖州罪解以後,怙罪不悛,蒙朝廷恩貸,轉生跋扈。雄州詐奪人馬,平州冒支己俸,無故破魏廷碩家,發其塚墓。拜表以調鷹不赴,祈雨聚妓戲嬉,毆詈同僚,擅令住職,失師帥之體。乞行黜退,以厭人望。」上以執中東宮舊人,頗右之,謂鑄曰:「執中粗人,似有跋扈者。」鑄曰:「明天子在上,豈容有跋扈之臣?」上悟,詔尚書省問之。

泰和五年、唐・鄧・河南でたびたび警報があり、議者は宋が盟約を破るだろうと言った。六年正月、宋の賀正旦使陳克俊らが朝辞する際、上は鑄を遣わして館に至らせ、国家が包容する旨を克俊に諭させた。もしこの旨を詳らかにしないならば、恐らく兵は止むことがあるまい、と。使節に上言を以て宋主に伝えさせよ、と。章宗は元より兵を用いる意がなかったので、再三これを諭したのである。

原文泰和五年,唐、鄧、河南屢有警,議者謂宋且敗盟。六年正月,宋賀正旦使陳克俊等朝辭,上使鑄就館諭克俊以國家涵容之意,果不詳此旨,恐兵未可息也。使以上言達宋主。章宗本無意用兵,故再三諭之。

鑄が提刑司を按察司に改め、官を差して再び察することは、権威を削ぎ声望を軽くすると論じた。下して尚書省に議させた。参知政事賈鉉が奏上した、「監察を差す時に、即ち別に官を遣わして共に行かせ、再び察することはせず、諸々の疑わしい獄は皆按察司に従って正しく決断させ、これで人望を慰めることができるでしょう」。これに従った。

原文鑄論提刑司改按察司,差官複察,權削望輕。下尚書省議。參知政事賈鉉奏:「乞差監察時,即別遣官偕往,更不復察,諸疑獄並令按察司從正與決,庶幾可慰人望。」從之。

永豊庫の官が宿直を守らず、それによって盗難に遭った。上は登聞鼓院の官を召して何か問おうとしたが、皆不在であった。上は鑄に諭して言った、「この輩がこのように法を怠るのは、御史台の職掌は何事をしているのか」。また御史大夫宗肅及び鑄に諭して言った、「朕は聞く、唐の宰相は省中に宿直した、卿らの知るところである。台官・六部官・その他の司局もかつて宿直した。今尚書省左右司の官が宿直する、他の者もこれに準ずべきである」。八年、絳陽軍節度使に除された。至寧元年、再び御史中丞となった。

原文永豐庫官不守宿,因而被盜,上召登聞鼓院官欲有所問,皆不在。上諭鑄曰:「此輩慢法如此,御史台所職何事也!」複諭御史大夫宗肅及鑄曰:「朕聞唐宰相宿省中,卿等所知也。台官、六部官、其餘司局亦嘗宿直。今尚書省左右司官宿直,餘亦當准此。」八年,除絳陽軍節度使。至甯元年,複為御史中丞。

紇石烈執中が乱を起こし、鑄及び右諫議大夫張行信を召し出して共に大興府に至らせ、問うて言った、「お前たちは以前私を弾劾した者か」。鑄らはそれぞれ正しい言葉で答えた。執中はそこで家に帰らせ、言った、「暫く後の命令を待て」。既にして執中が死ぬと、鑄も間もなく卒した。

原文紇石烈執中作亂,召鑄及右諫議大夫張行信俱至大興府,問曰:「汝輩向來彈我者耶?」鑄等各以正言答之。執中乃遣還家,曰:「且須後命。」既而執中死,鑄亦尋卒。

宗端脩

原文宗端修

宗端脩は、字を平叔といい、汝州の人である。章宗が睿宗の諱いみなの上一字を避け、凡そ太祖の諸子は皆「山」を加えて「崇」とし、「宗」の氏を改めて「姫」氏とした。端脩は学問を好み、名節を喜び、大定二十二年の進士に及第した。明昌年間、尚書省令史に補せられた。承安元年、監察御史孫椿年・武簡が職事を修め挙げず、詔して端脩及び範鐸を以てこれに代えさせた。この時元妃李氏の兄弟が朝政に干預し、端脩は上書して小人を遠ざけることを乞うた。上は李喜児を遣わして詔を伝えさせ、端脩を詰問して、「小人とは誰か、その姓名を対せよ」と言わせた。端脩は対して言った、「小人とは、李仁恵兄弟です」。仁恵は、喜児の賜名である。喜児は隠すことができず、詳しくこれを奏上した。上は喜児兄弟を責めたが、去らせることはできなかった。四年、再び上書して事を言い、宰相に憎まれ、台官を経ずに直に奏帖を進めた罪に坐し、上書して実を以てせざるに準じ、一官を削り、一年後に叙することを期した。章宗は端脩が衆に容れられないことを知り、これを釈放し、大理司直に改めた。泰和四年、大理丞に遷り、香閣に召し出されて見えた。上は端脩に言った、「汝は以前御史として、幹才をもって用いられた。汝の言うことは細かいことが多く、実を究めず、嘗て汝を問わせたが、汝を罪ともしなかった。及んで大理司直となって、乃ち能く職に称し、これによって汝を丞に抜擢した。心力を尽くし、ただ法を守り、上位の宰執の見解がどうであろうと問うな、汝はこれを志せ」。知大同府紇石烈執中が意見を陳べると、下して大理寺に議させた。端脩は執中の言う事が私事に涉り治罪すべきだと謂った。詔して端脩が別に情理を出して見るに不当であるとして、司直温敦按帯と各々一官を削り解職させた。久しくして、節度副使となり、官に卒した。

原文宗端修,字平叔,汝州人。章宗避睿宗諱上一字,凡太祖諸子皆加「山」為「崇」,改「宗」氏為「姬」氏。端修好學,喜名節,中大定二十二年進士第。明昌間,補尚書省令史。承安元年,監察御史孫椿年、武簡職事不修舉,詔以端修及範鐸代之。是時元妃李氏兄弟干預朝政,端修上書乞遠小人。上遣李喜兒傳詔部端修:「小人為誰,其以姓名對。」端修對曰:「小人者,李仁惠兄弟。」仁惠,喜兒賜名也。喜兒不敢隱,具奏之。上雖責喜兒兄弟,而不能去也。四年,複上書言事,宰相惡之,坐以不經台官直進奏帖,准上書不以實,削一官,期年後敘。章宗知端修不為眾所容,釋之,改大理司直。泰和四年,遷大理丞,召見於香閣。上謂端修曰:「汝前為御史,以幹能見用。汝言多細碎,不究其實,嘗令問汝,亦不汝罪。及為大理司直,乃能稱職,用是擢汝為丞,盡乃心力,惟法是守,勿問上位宰執所見何如,汝其志之!」知大同府紇石烈執中陳言,下大理寺議。端修謂執中言事涉私治罪。詔以端修別出情見不當,與司直溫敦按帶各削一官解職。久之,為節度副使,卒官。

端脩は終に直道をもって時に振るわず、自ら守ることを愈々篤くした。妻が死んでも再び娶らず、独居すること二十年、士論はこれを高くした。汝州司候遊彦哲が官に赴こうとして、為政について問うた。端脩は言った、「為政は難しくない、気を治め心を養うだけである」。彦哲は理解できなかった。端脩は言った、「心が正しければ私せず、気が平らかであれば暴れない。為政の術は、ここに尽きている」。

原文端修終以直道不振于時,自守愈篤。妻死不復更娶,獨居二十年,士論高之。汝州司候遊彥哲將之官,問為政。端修曰:「為政不難,治氣養心而已。」彥哲不達,端修曰:「心正則不私,氣平則不暴。為政之術,盡於此矣。」

完顏閭山

原文完顏閭山

完顏閭山は、蓋州の猛安もうあんの人である。明昌二年の進士となり、累調して観察判官となり、尚書省令史に補せられ、管差除を知った。都転運都勾判官を授かり、河東南路転運都勾判官・南京警巡使に改めた。母の喪に服し、起復して南京按察判官となり、累遷して沁南軍節度使となり、入朝して工部尚書となった。貞祐三年、知京兆府事となり、行省参議官を充てた。四年、知鳳翔府事となった。興定元年冬、詔して陝西行省に宋を伐たせ、閭山は権元帥右都監となり、諸軍事を参議した。宋兵千余人が呉寨谷に伏せていたのを、閭山は騎兵を率いて掩撃してこれを破り、十五里を追襲し、三百余を殺し、牛羊を千単位で獲た。平涼府知事に改め、歩落堝で宋人を破った。官一階を遷った。三年、召されて吏部尚書となった。廷議で戸部の官を選ぶに当たり、往々にして聚斂苛刻な者を挙げて詔に応じた。閭山は言った、「民の労苦は極みに達している、またこの輩を用いれば、どうして堪えられようか」。識者はこれを称えた。三年、朝廷は晋安行元帥府の陀満胡土門が暴虐で苛酷であるとして、閭山を以てこれに代えた。この年の十月、卒した。

原文完顏閭山,蓋州猛安人。明昌二年進士,累調觀察判官,補尚書省令史,知管差除。授都轉運都勾判官,改河東南路轉運都勾判官、南京警巡使。丁母憂,起複南京按察判官,累遷沁南軍節度使,入為工部尚書。貞祐三年,知京兆府事,充行省參議官。四年,知鳳翔府事。興定元年冬,詔陝西行省伐宋,閭山權元帥右都監,參議諸軍事。宋兵千余人伏吳寨穀,閭山率騎兵掩擊敗之,追襲十五裏,殺三百余,獲牛羊以千計。改知平涼府,敗宋人于步落堝。遷官一階。三年,召為吏部尚書。廷議選戶部官,往往舉聚斂苛刻以應詔。閭山曰:「民勞至矣,複用此輩,將何以堪。」識者稱之。三年,朝廷以晉安行元帥府陀滿胡土門暴刻,以閭山代之。是歲十月,卒。

路鐸

原文路鐸

路鐸、字は宣叔、伯達の子である。明昌三年、左三部司正となった。上書して事を言い、便殿に召見され、右拾遺に遷った。翌年、盧溝河が決壊し、鐸は玄同口以下、丁村以上において旧堤を修復せず、分水させて水勢を殺減すべきことを請うた。詔して工部尚書胥持國に鐸とともに檢視させた。章宗が景明宮に幸せんとしたが、この年は民が飢えており、行くべからず。御史中丞董師中が上書して諫め、鐸と左補闕許安仁がこれに継いだ。賜わりて御閣に対す。詔して尚書省に曰く、「朕は暑熱を禁ぜず、山后に往かんと欲す。今台諫が民間に食を闕くこと多しと言う。朕は初め尽く知らず、既に知る。其れ自ら奉じて重ねて民を困らすことを忍ぶべけんや」と。乃ち行を罷む。

原文路鐸,字宣叔,伯達子也。明昌三年,為左三部司正。上書言事,召見便殿,遷右拾遣。明年,盧溝河決,鐸請自玄同口以下、丁村以上無修舊堤,縱使分流,以殺減水勢。詔工部尚書胥持國與鐸同檢視。章宗將幸景明宮,是歲民饑,不可行。御史中丞董師中上書諫,鐸與左補闕許安仁繼之,賜對禦閣。詔尚書省曰:「朕不禁暑熱,欲往山后。今台諫言民間多闕食,朕初不盡知,既已知之,其忍自奉以重困民哉。」乃罷行。

尚書左丞完顏守貞は毎に政事を論じ、守正して移らず、同列と合わず、罷めて東平府事を知る。台諫これに因りてこれを擠む。鐸上書して守貞の賢なるを論じ、復用すべきとし、その言甚だ切なり。崇政殿に召對す。既にして章宗、鐸の書を以て大臣に語る。ここにおいて尚書左丞烏林答願、參知政事夾穀衡、胥持國、路鐸が梁冀を以て右丞相に比すと奏す。言うところ狂妄にして、諫職に稱せずと。右丞相は夾谷清臣なり。上曰く、「周昌は傑・紂を以て漢高祖に比す。高祖これを忤とせず。路鐸は梁冀を以て丞相に比すのみ」と。頃にして、守貞入りて平章政事となる。五年、復た禮部尚書張暐、御史中丞董師中、右諫議大夫賈守謙、翰林修撰完顏撒刺とともに景明宮行幸を諫む。語多く激切にして、章宗堪えず。近侍局直長李仁願を遣わし、凡そ北幸を諫むる者を召して尚書省に詣らしむ。詔して曰く、「卿等の北幸を諫むるは甚だ善し。但其の間頗る君臣の體を失うのみ」と。

原文尚書左丞完顏守貞每論政事,守正不移,與同列不合,罷知東平府事,台諫因而擠之。鐸上書論守貞賢,可複用,其言太切,召對於崇政殿。既而章宗以鐸書語大臣,於是尚書左丞烏林答願、參知政事夾穀衡、胥持國奏路鐸以梁冀比右丞相,所言狂妄,不稱諫職。右丞相,夾谷清臣也。上曰:「周昌以傑、紂比漢高祖,高祖不以為忤。路鐸以梁冀比丞相耳。」頃之,守貞入為平章政事。五年,複與禮部尚書張暐、御史中丞董師中、右諫議大夫賈守謙、翰林修撰完顏撒刺諫幸景明宮,語多激切,章宗不能堪,遣近侍局直長李仁願召凡諫北幸者詣尚書省,詔曰:「卿等諫北幸甚善,但其間頗失君臣之體耳。」

この年、郝忠愈の獄起こる。事密にして、諫官その詳を察し能わず。議者頗る事の鎬王永中に涉ると謂い、上意を寬解する所以あらんことを思う。右諫議大夫賈守謙が封事を上し、鐸これに継ぐ。尤も切直なり。上これを優容し、鐸に謂いて曰く、「汝の言う諸王皆覬心あり、その門に遊ぶ者橫議無からずとは、是れ何の言ぞ。但だ朕諫官を罪せざるのみ」と。頃にして、尚書省鐸を擬して河北西路轉運使事同知とすと奏す。詔して再任して右拾遺とす。宰相に謂いて曰く、「鐸は敢言なり。但だ識短きのみ。朕嘗て詰責すれども氣沮まず」と。鐸因りて召對に際し、宰相の權太重きを論ず。上曰く、「凡そ事は朕に由る。宰相安んぞ權重きを得ん」と。既にして復た奏して曰く、「乞うらくは陛下この言を泄らさざらんことを。泄らせば則ち臣齏粉と為らん」と。上曰く、「宰相安んぞ人を齏粉にせんや」と。ここに至り、章宗並びにこの言を以て宰相に告ぐ。留めて再任すと雖も、宰相愈々これを銜む。右補闕に改む。

原文是歲,郝忠愈獄起,事密,諫官不能察其詳,議者頗謂事涉鎬王永中,思有以寬解上意。右諫議大夫賈守謙上封事,鐸繼之,尤切直。上優容之,謂鐸曰:「汝言諸王皆有覬心,遊其門者不無橫議,是何言也。但朕不罪諫官耳。」頃之,尚書省奏擬鐸同知河北西路轉運使事,詔再任右拾遺,謂宰相曰:「鐸敢言,但識短耳。朕嘗詰責而氣不沮。」鐸因召對,論宰相權太重。上曰:「凡事由朕,宰相安得權重。」既而複奏曰:「乞陛下勿泄此言,泄則臣齏粉矣。」上曰:「宰相安能齏粉人!」至是,章宗並以此言告宰相,雖留再任,宰相愈銜之。改右補闕。

完顏守貞の再び相に入り、政事を以て己が任と為してより、胥持國方に幸せられ、守貞を特に忌み、並びに鐸の輩を忌む。鐸の輩は嘗て守貞のために論辨すれども、相附かず。鐸邊防を論ずるに、守貞は唐人の餘論を掇拾すと以為い、皆行わず。守貞が鎬王永中の事を持して久しく決せずに及ぶと、鐸等も亦上言切諫し、並びに指して以て黨と為す。上乃ち守貞を出して濟南府を知らしむ。凡そ嘗て守貞を薦むる者皆黜降す。宰臣に謂いて曰く、「董師中は台省に守貞無くしては治め難しと謂い、路鐸、李敬義皆これを稱舉する者なり。然れども三人の者は後俱に用いる可し。今姑くこれを出だす」と。上復た曰く、「路鐸敢言にして、甚だ時に名あり。一旦外補せば、人将に朕の直臣を容るる能わずと謂わん。敢言及び才識鐸の右に處る者を選ぶべし」と。參知政事馬琪奏して曰く、「鐸は知る無く言わざると雖も、然れども亦多く理に當たらず」と。上曰く、「諫官は但だ敢言を取るのみならず、亦須らく間朕の意表に出づる者有りて、乃ち裨益有るなり」と。ここにおいて、吏部尚書董師中を出して陝西路轉運使と為し、鐸を南京留守判官と為す。戶部郎中李敬義方に高麗より使い還り、即ち出して安化軍節度副使と為す。詔して曰く、「卿等昨來交りて守貞の公正なるを薦めて用いる可しとす。今所舉の實を失うに坐すのみ」と。

原文自完顏守貞再入相,以政事為己任,胥持國方幸,尤忌守貞,並忌鐸輩。鐸輩雖嘗為守貞論辨而不相附。鐸論邊防,守貞以為掇拾唐人餘論,皆不行。及守貞持鎬王永中事久不決,鐸等亦上言切諫,並指以為黨。上乃出守貞知濟南府,凡曾薦守貞者皆黜降,謂宰臣曰:「董師中謂台省無守貞不可治,路鐸、李敬義皆稱舉之者。然三人者後俱可用,今姑出之。」上複曰:「路鐸敢言,甚有時名,一旦外補,人將謂朕不能容直臣。可選敢言及才識處鐸右者。」參知政事馬琪奏曰:「鐸雖知無不言,然亦多不當理。」上曰:「諫官非但取敢言,亦須間有出朕意表者,乃有裨益耳。」於是,吏部尚書董師中出為陝西路轉運使,鐸為南京留守判官。戶部郎中李敬義方使高麗還,即出為安化軍節度副使。詔曰:「卿等昨來交薦守貞公正可用,今坐所舉失實耳。」

承安二年、召されて翰林修撰と為り、陳言文字を同看讀す。上禮部尚書張暐、大理卿麻安上及び鐸を召し、趙晏の言う十事を問い、因りて董師中、張萬公の優劣を問う。鐸奏す、「師中は胥持國に附して以て進み、趙樞、張複亨、張嘉貞皆持國の門下に出づ。嘉貞復た襄の門に趨走す。持國は復用すべからず。若し再び相たらば、必ず綱紀を亂らん」と。上曰く、「朕豈に復た此人を相せんや。但だ官を遷し二階して致仕せしむるのみ。何を為して不可ならん」と。持國の黨これを聞き、怒り愈々甚だし。監察御史に改む。

原文承安二年,召為翰林修撰,同看讀陳言文字。上召禮部尚書張暐、大理卿麻安上及鐸,問趙晏所言十事,因問董師中、張萬公優劣。鐸奏:「師中附胥持國以進,趙樞、張複亨、張嘉貞皆出持國門下,嘉貞複趨走襄之門。持國不可複用,若再相,必亂綱紀。」上曰:「朕豈複相此人,但遷官二階使致仕,何為不可?」持國党聞之,怒愈甚。改監察御史。

參知政事楊伯通が鄉人李浩を引用す。鐸劾奏す、「伯通は公器を以て私恩を結び、左司郎中賈益、知除武鬱は風旨を承望し、起複條例を詳檢せず」と。妄冒に涉り、大夫張暐これを抑えて行わず。上命じて同知大興府事賈鉉に詰問せしむ。張暐、伯通は家に於いて待罪す。賈鉉奏す、「近く詔書を以て御史大夫張暐を詰問す。暐言う、路鐸嘗て稟會す、楊伯通私に鄉人李浩を用いると。暐以為う、大臣を彈絀するには、須らく阿曲の實跡有るべし。劾する所當たらずんば、台綱愈く壞れんことを恐れ、再び體察せしむと。賈益言う、除授は皆宰執の公議に由り、奏稟す。伯通の私任の形跡を見ず」と。ここにおいて、詔して鐸の事を言う輕率なるを責め、伯通を慰諭して事を治むること故の如くせしむ。

原文參知政事楊伯通引用鄉人李浩,鐸劾奏:「伯通以公器結私恩,左司郎中賈益、知除武鬱承望風旨,不詳檢起複條例。」涉妄冒,大夫張暐抑之不行。上命同知大興府事賈鉉詰問。張暐、伯通待罪於家。賈鉉奏:「近詔書詰問御史大夫張暐。暐言路鐸嘗稟會楊伯通私用鄉人李浩。暐以為彈絀大臣,須有阿曲實跡,恐所劾不當,台綱愈壞,令再體察。賈益言除授皆宰執公議,奏稟,不見伯通私任形跡。」於是,詔責鐸言事輕率,慰諭伯通治事如故。

頃にして、侍御史に遷り、奏事を主る。監察御史姬端修、事を言うを以て吏に下る。御史台令史郭公仲をして大夫張暐及び鐸に意を達せしむ。暐と鐸殿上にて奏事す。上問う、「姬端修の彈事は嘗て台官に申すや」と。對えて曰く、「嘗て來たりて面議す」と。端修款伏して乃ち云う、「只だ曾て侍禦と私議す。大夫は知らず」と。既にして端修杖七十收贖、公仲杖七十替罷。暐、鐸は奏事實ならざるに坐し、暐は一官を追われ、鐸は兩官を追われ、皆解職す。頃にして、起されて泰定軍節度副使と為る。上宰臣に謂いて曰く、「凡そ事を言う者、議朕躬に及ぶも亦妨げ無し。語宰相に涉れば、間に憎嫌有り。何を以てか進み得ん」と。詔して左司に鐸の資考を計らしめ、正五品に至れば即ち東平府治中を除く。未だ幾ばくもなく、景州刺史を闕く。尚書省已に郭歧をこれに為すと奏す。詔して特ちに鐸を改めて景州刺史と為し、仍て審官院に送る勿れ。鐸十二訓を述べて以て民を教う。詔して曰く、「路鐸の十二訓は皆人を勧めて善を為さしむ。遍く州郡に諭してこれを知らしめよ」と。陝西路按察副使に遷る。糾彈の官を以て京兆府治中蒲察張鐵、總管判官辛孝儉、推官愛剌と宴飲するに坐し、鐸の一官を奪い解職す。泰和六年、召されて翰林待制兼知登聞鼓院と為り、累ねて除かれて孟州防禦使となる。貞祐初、城破れ、沁水に投じて死す。

原文頃之,遷侍御史,主奏事。監察御史姬端修以言事下吏,使御史台令史郭公仲達意于大夫張暐及鐸。暐與鐸奏事殿上,上問:「姬端修彈事嘗申台官否?」對曰:「嘗來面議。」端修款伏乃雲:「只曾與侍禦私議,大夫不知也。」既而端修杖七十收贖,公仲杖七十替罷。暐、鐸坐奏事不實,暐追一官,鐸兩官,皆解職。頃之,起為泰定軍節度副使。上謂宰臣曰:「凡言事者,議及朕躬亦無妨,語涉宰相,間有憎嫌,何以得進?」詔左司計鐸資考至正五品,即除東平府治中。未幾,景州闕刺史,尚書省已奏郭歧為之,詔特改鐸為景州刺史,仍勿送審官院。鐸述十二訓以教民。詔曰:「路鐸十二訓皆勸人為善,遍諭州郡使知之。」遷陝西路按察副使。坐以糾彈之官與京兆府治中蒲察張鐵、總管判官辛孝儉、推官愛剌宴飲,奪路一官解職。泰和六年,召為翰林待制兼知登聞鼓院,累除孟州防禦使。貞祐初,城破,投沁水死。

鐸は剛正にして、歴官台諫、直臣の風有り。文を為すに奇を尚び、詩篇は溫潤精緻、號して《虛舟居士集》と云う。

原文鐸剛正,曆官台諫,有直臣之風。為文尚奇,詩篇溫潤精緻,號《虛舟居士集》雲。

完顏伯嘉

原文完顏伯嘉

完顔かんがん伯嘉、字は輔之、北京路訛魯古必剌猛安の人なり。明昌二年に進士となり、中都左警巡判官に調ぜらる。孝懿皇后の妹なる晉國夫人の家奴、漆を買いてその価を償わず、伯嘉は晉國の用事する奴数人を鉤致して獄に繋ぐ。晉國、章宗に白す、章宗曰く「姨その価を償わば、則ち奴は釈せられん」と。ここより豪右は跡を屏ぐ。宝坻丞に改む。尚書省令史を補し、太学助教・監察御史を除す。平章政事僕散揆を劾奏す。或人曰く「宰相と隙有り、奈何」と。伯嘉曰く「職分かくの如し」と。平涼治中に遷る。累官して莒州刺史となる。属県の盗を讞す、伯嘉曰く「饑寒にして盗を為し、銭二千を得て、一月を経て一銭をも使わざるは雲何。これ必ずや官兵、他の盗を捕え得ずして、准罪を以て誣うるのみ」と。これを詰むれば、果たして然り。詔して按察官とともに物力を推排せしめ、香閣に召見せらる。

原文完顏伯嘉,字輔之,北京路訛魯古必剌猛安人。明昌二年進士,調中都左警巡判官。孝懿皇后妹晉國夫人家奴買漆不酬直,伯嘉鉤致晉國用事奴數人繫獄。晉國白章宗,章宗曰:「姨酬其價,則奴釋矣。」由是豪右屏跡。改寶坻丞。補尚書省令史,除太學助教、監察御史。劾奏平章政事僕散揆。或曰:「與宰相有隙,奈何?」伯嘉曰:「職分如此。」遷平涼治中。累官莒州刺史。讞屬縣盜,伯嘉曰:「饑寒為盜,得錢二千,經月不使一錢雲何?此必官兵捕他盜不獲,誣以准罪耳。」詰之,果然。詔與按察官俱推排物力,召見於香閣。

大安中、三遷して同知西京留守となり、本路安撫使を権む。貞祐初、順義軍節度使に遷る。父母の喪に居り、卒哭して、震武軍節度使兼宣撫副使を起復し、太和嶺諸隘を提控す。副統李鵬飛、彰國軍節度使牙改を誣いて殺す、詔して伯嘉にこれを治めしむ。貞祐四年三月、伯嘉奏す「西京副統程琢、智勇人に過ぎ、心を忠孝に持ち、私財を以て壮士二万を募集し、復た渾源・白登を取り、山西を恢復せんの志有り、已に弘州に駐するを命ず。近く靖大中・完顔毛吉打、三千人を以て国に帰し、各々節度副使に遷る。今山西已に守らず、琢は余衆を収合し、国に忠を尽くし、百戦して挫けず。臣は機会を失わんことを恐れ、輒ち琢を昭勇大将軍、同知西京留守事に擬し、一路の義軍を兼ね領せしめ、空名の敕二十道を給し、謀略ある者を択びて州県に充てしむるを許さん」と。制して可とし、仍て琢に夾穀氏の姓を賜う。琢請うて曰く「前代は皆国姓を賜い、他族に系せず、如し蒙み更に賜わば、栄これより大なるは莫し」と。詔して更に完顔氏を賜う。

原文大安中,三遷同知西京留守,權本路安撫使。貞祐初,遷順義軍節度使。居父母喪,卒哭,起複震武軍節度使兼宣撫副使,提控太和嶺諸隘。副統李鵬飛誣殺彰國軍節度使牙改,詔伯嘉治之。貞祐四年三月,伯嘉奏:「西京副統程琢智勇過人,持心忠孝,以私財募集壯士二萬,複取渾源、白登,有恢復山西之志,已命駐於弘州矣。近者靖大中、完顏毛吉打以三千人歸國,各遷節度副使。今山西已不守,琢收合餘眾,盡忠於國,百戰不挫。臣恐失機會,輒擬琢昭勇大將軍,同知西京留守事,兼領一路義軍,給以空名敕二十道,許擇有謀略者充州縣。」制可,仍賜琢姓夾穀氏。琢請曰:「前代皆賜國姓,不系他族,如蒙更賜,榮莫大焉。」詔更賜完顏氏。

是の月、伯嘉は元帥左監軍に遷り、太原府事を知り、河東北路宣撫使となる。同知太原府斡勒合打を以て彰國軍節度使・宣撫副使とす。六月、斡勒合打奏す「同知西京留守完顔琢、宣撫使伯嘉と雅く善しと恃み、代州に徙居し、肆に侵掠を為す。遙授太原治中、権堅州刺史完顔斜烈、私に辺面を離れ、臣伯嘉に白す、伯嘉悦ばず、臣をして糧運を代州に護送せしむ。臣兵を益さんことを請う、乃ち羸卒数百を以て見付し、半ば鎧仗無し。臣復た言を為す、伯嘉臣に怒り、榜掠して幾くんか死せんとす。臣功を立て累年、頗る寸效有り、伯嘉は私を挟みて陵轢し、復た宣撫同僚の礼無し。臣言わんと欲せざれども、他日反って誣えらるるを恐れ、以て自ら明らかにする無からん」と。上宰臣に問う、奏して曰く「太原は重鎮、防秋邇し、請う敕を諭して和解せしめん」と。詔して曰く「太原は兵衝、若し私忿を以て国事を廃せば、国家何に頼らんや。卿等心を同うして力を戮し、以て北顧の憂いを分つべし、前非を執ること無く、大計を誤る無かれ」と。七月、伯嘉は帰徳府事を知るに改め、合打は武寧軍節度使に改む。御史台奏す「宣撫副使合打、元帥伯嘉が私忿を以て箠楚を加うと訴え、本台に廉問せしむ、既に其事を得て、遂に復た窮治せず。若し合打の奏実なれば、伯嘉安んぞ罪無からん、伯嘉罪無ければ、合打欺罔に坐すべし、是非を審らかに正し、黜陟を明示せんことを乞う」と。宣宗曰く「今正に防秋す、且く已にせよ」と。

原文是月,伯嘉遷元帥左監軍,知太原府事,河東北路宣撫使。以同知太原府斡勒合打為彰國軍節度使、宣撫副使。六月,斡勒合打奏:「同知西京留守完顏琢恃與宣撫使伯嘉雅善,徙居代州,肆為侵掠。遙授太原治中,權堅州刺史完顏斜烈私離邊面,臣白伯嘉,伯嘉不悅,遣臣護送糧運於代州。臣請益兵,乃以羸卒數百見付,半無鎧仗。臣複為言,伯嘉怒臣,榜掠幾死。臣立功累年,頗有寸效,伯嘉挾私陵轢,無複宣撫同僚之禮。臣欲不言,恐他日反為所誣,無以自明。」上問宰臣,奏曰:「太原重鎮,防秋在邇,請敕諭和解。」詔曰:「太原兵沖,若以私忿廢國事,國家何賴焉!卿等同心戮力,以分北顧之憂,無執前非,誤大計也。」七月,伯嘉改知歸德府事,合打改武甯軍節度使。御史台奏:「宣撫副使合打訴元帥伯嘉以私忿加箠楚,令本台廉問,既得其事,遂不復窮治。若合打奏實,伯嘉安得無罪,伯嘉無罪,合打合坐欺罔,乞審正是非,明示黜陟。」宣宗曰:「今正防秋,且已。」

初め、河東行省胥鼎奏す「完顔伯嘉屡く言う、同知西京留守兼台州刺史完顔琢は、之を倚りて以て山西を復すべしと、朝廷官を遷し姓を賜い、代北に屯し、太和嶺を扼せしむ。今聞く諸隘悉く琢の兵無し、蓋し琢は太原の衆を挈き、五台に保ちて剽掠するのみ。如し尚ほ伯嘉の言を以て信ずべきと為さば、琢を出でて太原にせしめ、或いは内に徙らしめ、其の衆を分処し、以て不測の変に備えんことを乞う」と。宰臣奏す「已に官を遣わして琢の軍を体究せしめ、且つ太原元帥府烏古論徳升に琢を召して之を使わしむ。当に此の意を以て鼎に報ぜん」と。未だ幾ばくもあらざるに、徳升奏す「琢の兵数万、代州諸険に分屯し、拒戦甚だ力あり、其の衆烏合、琢に非ざれば制す可からず」と。胥鼎復た奏す「宣差提控古裏甲石倫言う、琢方に降人を招き、謀りて山西を復せんとし、忻・代・定・襄の間に盤桓し、恣に侵擾を為し、復た行くの意無し。民の粟を発掘し、かつ。辜無きを戕殺す、官廩を煩わさずと曰うと雖も、博易を名と為すも、実は則ち攘劫し、国を欺き民を害するは琢の如きは無し。石倫の言かくの如し、臣已に帥府に之を禁止せしむ」と。宰臣奏す「遣わしし官、忻・代より来り、劫掠の跡を見ずと云う、惟だ徳升の言の如きは便なり」と。之に従う。

原文初,河東行省胥鼎奏:「完顏伯嘉屢言同知西京留守兼台州刺史完顏琢,可倚之以複山西,朝廷遷官賜姓,令屯代北,扼太和嶺。今聞諸隘悉無琢兵,蓋琢挈太原之眾,保五台剽掠耳。如尚以伯嘉之言為可信,乞遣琢出太原,或徙之內地,分處其眾,以備不測之變。」宰臣奏:「已遣官體究琢軍,且令太原元帥府烏古論德升召琢使之矣。當以此意報鼎。」無何,德升奏:「琢兵數萬分屯代州諸險,拒戰甚力,其眾烏合,非琢不可制。」胥鼎複奏:「宣差提控古裏甲石倫言,琢方招降人,謀複山西,盤桓於忻、代、定、襄間,恣為侵擾,無複行意。發掘民粟,並且。戕殺無辜,雖曰不煩官廩,博易為名,實則攘劫,欺國害民無如琢者。石倫之言如此,臣已令帥府禁止之矣。」宰臣奏:「所遣官自忻、代來,雲不見劫掠之跡,惟如德升言便。」從之。

伯嘉、帰徳に至り、上言し、雑犯死罪以下に粟を納めて贖い免ぜしめんことを乞う。宰臣奏す「伯嘉前に代州に在りて嘗て之を行い、蓋し一時の権、常法と為す可からず」と。遂に寢す。俄かに簽樞密院事に改む。月を閲せずして、河南府事を知るに改む。是の時、甫に兵後を経て、兵食乏しく、伯嘉は棗栗菜根を輸して之を足らしむるを令し、皆以て便りと為す。興定元年、河中府を知り、宣差都提控を充て、未だ幾ばくもあらざるに召されて吏部尚書と為る。二年、御史中丞に改む。

原文伯嘉至歸德,上言,乞雜犯死罪以下納粟贖免。宰臣奏:「伯嘉前在代州嘗行之,蓋一時之權,不可為常法。」遂寢。俄改簽樞密院事。未閱月,改知河南府事。是時,甫經兵後,乏兵食,伯嘉令輸棗栗菜根足之,皆以為便。興定元年,知河中府,充宣差都提控,未幾召為吏部尚書。二年,改御史中丞。

初め、貞祐四年十月、詔して兵部尚書・簽樞密院事蒲察阿裏不孫を以て右副元帥と為し、潼関・陝州を備禦せしむ。澠池土濠村に次ぎ、兵戦わずして潰ゆ。阿裏不孫逸して去り、佩する虎符を亡い、姓名を変易し、柘城県に匿れ、其の妻妹前韓州刺史合喜の男の婦紇石烈氏及び僕婢三人とともに民舎を僦いて居止す。合喜の母徒単氏之を聞き、紇石烈を捕執し、其の発を断ち、之を仏寺中に拘す。阿裏不孫復た亡去す。監察御史完顔薬師劾奏す「就きて紇石烈及び僕婢を詰め、当に所在を得べし。其の妻子見在京師に在り、亦た知らざるを容れず、窮治せんことを請う」と。有司方に其の家人を系す、特命して之を釈し、詔して曰く「阿裏不孫若し自ら出でば、当に極罪を免ぜん」と。阿裏不孫乃ち其の子をして上書せしめ、後效を図らんことを請わしむ。尚書省奏す「阿裏不孫幸いに特赦にて死を免る、当に闕に詣り自ら陳すべし、乃ち其の子をして上書せしむ、猶ほ顧望を懐く」と。伯嘉之を劾して曰く「古の将を為す者、命を受くるの日其の家を忘れ、陣に臨むの日其の身を忘る、喪衣を服し、凶門を鑿ちて出で、以て必死を示す。進みて名を求めず、退きて罪を避けず、惟だ民を是れ保つ。阿裏不孫国重寄に膺り、数万の兵を握り、未だ陣せずして潰え、虎符を委棄し、既に枹鼓を援りて以て敵に死するを得ず、又た斧鑕を負いて以て罪を請う能わず、命を逃れ伏して竄し、猥りに裏巷に居り、婦人を挟み匿し、此の醜行を為す。聖恩寛大、曲げて其の死を赦す、自ら奔走して闕庭に至り、皇恐して命を待つべし。安坐して君を要し、略く忌憚無し、其の情罪を跡すれば、実に誅するを容れず。此れを懲せずんば、朝綱廃せん。諸市に屍して以て臣たりて忠ならざる者を戒めんことを乞う」と。宣宗曰く「中丞の言是なり、業已に之を赦せり」と。阿裏不孫乃ち名を除かる。

原文初,貞祐四年十月,詔以兵部尚書、簽樞密院事蒲察阿裏不孫為右副元帥,備禦潼關、陝州。次澠池土濠村,兵不戰而潰。阿裏不孫逸去,亡所佩虎符,變易姓名,匿柘城縣,與其妻妹前韓州刺史合喜男婦紇石烈氏及僕婢三人僦民舍居止。合喜母徒單氏聞之,捕執紇石烈,斷其發,拘之佛寺中。阿裏不孫複亡去。監察御史完顏藥師劾奏:「乞就詰紇石烈及僕婢,當得所在。其妻子見在京師,亦無容不知,請窮治。」有司方系其家人,特命釋之,詔曰:「阿裏不孫若能自出,當免極罪。」阿裏不孫乃使其子上書,請圖後效。尚書省奏:「阿裏不孫幸特赦死,當詣闕自陳,乃令其子上書,猶懷顧望。」伯嘉劾之曰:「古之為將者,受命之日忘其家,臨陣之日忘其身,服喪衣、鑿凶門而出,以示必死。進不求名,退不避罪,惟民是保。阿裏不孫膺國重寄,握兵數萬,未陣而潰,委棄虎符,既不得援枹鼓以死敵,又不能負斧鑕而請罪,逃命竄伏,猥居裏巷,挾匿婦人,為此醜行。聖恩寬大,曲赦其死,自當奔走闕庭,皇恐待命。安坐要君,略無忌憚,跡其情罪,實不容誅。此而不懲,朝綱廢矣。乞屍諸市以戒為臣之不忠者!」宣宗曰:「中丞言是,業已赦之矣。」阿裏不孫乃除名。

五月、河南提控捕蝗の宣差を充てられ、四品以下の処断を許された。宣宗は旱魃を憂えた。伯嘉が上奏して言うには、「日は君主の象であり、陽の精である。旱魃は君主が自ら亢極の象を用いることによるものであり、宰相は冤罪によるものとしている。陰陽を調和させるのは宰相の職務であるのに、軽率に有司に帰咎している。高琪は武弁の出身であるから論ずるに足らず、汝礪らはその職務を知らず、その罪は大きい。漢の制度では、災異があれば三公を策免するが、有司に帰するであろうか。臣は思うに、今日の旱魃は、聖主が自ら用い、宰相が諂諛し、百司が職務を失っていることによるものである」と。高琪、汝礪はこれを深く怨んだ。礼部郎中の抹撚胡魯剌が言事をもって旨に逆らい、五品以上の官を集めて公然と責めた。翌日、伯嘉が諫めて言うには、「古来、帝王は堯、舜に倣いたいと願い、桀、紂であることを恥じる。それは堯、舜が諫言を受け入れ、桀、紂が拒んだからである。故に『諫めを受け入れる者は栄え、拒む者は滅ぶ』と言う。胡魯剌の言うことが正しければ、身に益はなく、正しくなければ、国に損はない。陛下がこのように朝廷で辱めるのは、堯、舜となろうとされないのか。近ごろ言事する者の言葉が誹謗に及ぶと、有司は重典をもって処すべきとし、陛下はこれを釈放された。釈放して恩と為すよりは、放置して問わない方がよい」と。宰相が山寨を修築して兵を避けることを請うと、伯嘉が諫めて言うには、「建議する者は必ず、険阻を拠れば君父を安んじられると言うが、陳の後主が井戸に入ったのを見ないのか。仮に山寨に入って生き延びられたとしても、再び国を為すことができようか。人臣には国に忠を尽くす者と、君に媚びる者がいる。国に忠を尽くす者は時に君意に逆らい、君に媚びる者は国の為に謀らない。臣はひそかに論ずるに、国があってこそ君があり、君があっても必ずしも国があるとは限らない」と。高琪、汝礪はこれを聞き、怒りはますます甚だしくなった。

原文五月,充宣差河南提控捕蝗,許決四品以下。宣宗憂旱。伯嘉奏曰:「日者君之象,陽之精,旱熯乃人君自用亢極之象,宰執以為冤獄所致。夫燮和陰陽,宰相之職,而猥歸咎於有司。高琪武弁出身,固不足論,汝礪輩不知所職,其罪大矣。漢制,災異策免三公,顧歸之有司邪。臣謂今日之旱,聖主自用,宰相諂諛,百司失職,實此之由。」高琪、汝礪深怨之。禮部郎中抹撚胡魯剌以言事忤旨,集五品以上官顯責之。明日,伯嘉諫曰:「自古帝王莫不欲法堯、舜而恥為桀、紂,蓋堯、舜納諫,桀、紂拒諫也。故曰:'納諫者昌,拒諫者亡'。胡魯剌所言是,無益於身,所言不是,無損于國。陛下廷辱如此,獨不欲為堯、舜乎?近日言事者語涉謗訕,有司當以重典,陛下釋之。與其釋之以為恩,曷若置之而不問。」宰相請修山寨以避兵,伯嘉諫曰:「建議者必曰據險可以安君父,獨不見陳後主之入井乎?假令入山寨可以得生,能複為國乎?人臣有忠國者,有媚君者,忠國者或拂君意,媚君者不為國謀。臣竊論之,有國可以有君,有君未必有國也。」高琪、汝礪聞之,怒愈甚。

十二月、御史中丞・権参知政事、元帥左監軍となり、尚書省・元帥府を河中に置き、河東南北路を制御し、便宜に事を行った。興定三年、伯嘉は河中に至り、上奏して言うには、「本路は要衝であり、官を欠くことはできない。召辟された者はしばしば艱険を理由に辞退する。檄で召して無故に至らない者は降罰させ、心を尽くして職務を果たす者はその経歴に応じて昇遷させることを請う」と。詔して、召されて至らない者は杖一百に処し、その他のことは請う通りとした。朝廷の議で河東を放棄し、その民を以て陝西を充実させようとした。伯嘉が上書して諫めて言うには、「中原に河東があるのは、人の肩背があるようなものである。古人は『河東を得ずんば雄ならず』と言った。万一これを失えば、容易に取り戻せない恐れがある」と。大いに宰執の意に逆らった。

原文十二月,以御史中丞、權參知政事,元帥左監軍,行尚書省、元帥府于河中,控制河東南北路便宜從事。興定三年,伯嘉至河中,奏曰:「本路沖要,不可闕官,凡召辟者每以艱險為辭。乞凡檄召無故不至者宜令降罰,悉心幹當者視所曆升遷。」詔召不至者決杖一百,餘如所請。廷議欲棄河東,其民以實陝西。伯嘉上書諫曰:「中原之有河東,如人之有肩背。古人雲'不得河東不雄',萬一失之,恐未易取也。」大忤宰執意。

間もなく、召還され、中丞に罷免された。伯嘉が入見し、上奏して言うには、「臣のような駑鈍な者はもとより召還されるべきであるが、さらに速やかに大臣を派遣して鎮撫させる必要がある」と。宣宗は深くこれを然りとした。伯嘉が上疏して言うには、「国家の兵は強くなく、力は有為に足らず、財は富まず、賞は衆人に行き渡らず、ただ官爵を恃んで人心を激勵している。近ごろ功績により官を遷して都に赴き調任を求める者を、有司はしばしばこれを駁す。濫りを冒す者は確かに十のうち三であるが、与えておきながら再び奪うのは、功を勧める道ではない。軍功により官を遷した者で、宣敕に偽りがなければ直ちにこれを用いることを准えることを請う」と。また言うには、「兵乱以来、河北の桀黠な者はしばしば衆を集めて自保し、定まった所属がない。招撫を賜り、職名を授け、他者に先んじられないようにすることを請う」と。また言うには、「河東、河北で余民を招集し城寨を守り完備する者がいれば、その門地を問わず、皆等級を超えて、本処の現任の職を授けることを請う」と。また言うには、「河中、晉安は山に依り河を帯び、関、陝を保障する。これは必ず争われる地である。今は残破しているが、形勢はなお存する。もし他者がこれを拠り、塩池の豊かさに因り、兵を聚め糧を積めば、河津以南、太行以西は皆恃むに足らなくなるであろう」と。

原文頃之,召還,罷為中丞。伯嘉入見,奏曰:「如臣駑鈍,固宜召還,更須速遣大臣鎮撫。」宣宗深然之。伯嘉上疏曰:「國家兵不強,力不足以有為,財不富,賞不足以周眾,獨恃官爵以激勸人心。近日以功遷官赴都求調者,有司往往駁之,冒濫者固十之三,既與而複奪之,非所以勸功也。乞應軍功遷官,宣敕無偽者即准用之。」又曰:「自兵興以來,河北桀黠往往聚眾自保,未有定屬。乞賜招撫,署以職名,無為他人所先。」又曰:「河東、河北有能招集餘民完守城寨者,乞無問其門地,皆超逾等級,授以本處見任之職。」又曰:「河中、晉安被山帶河,保障關、陝,此必爭之地。今雖殘破,形勢猶存,若使他人據之,因鹽池之饒,聚兵積糧,則河津以南,太行以西,皆不足恃矣。」

四年秋、河南は大水となり、宣慰副使を充てられ、京東を巡行した。上奏して言うには、「亳州の災害が最も甚だしく、合わせて三十余万石を免ずべきである。三司はただ十万石の免除を奏上しただけで、民は重く困窮するであろう。陛下の憐れみを請う」と。詔して、三司が災害を実状通りに奏上しなかった罪を治めさせた。伯嘉は蘄県に行き至り、前に紅襖賊がいると聞き、泗州に至ることができなかった。監察御史の烏古孫奴申が伯嘉を弾劾し、詔に違背し、遍く巡視しなかったと。また言うには、「伯嘉は永城県主簿の蒙古訛裏刺が不法であること、沈丘令の夾谷陶也が賄賂を受け取ったことを知りながら、匿して発覚させなかった。前穀城県令の獨吉鼎術可はかつて伯嘉に師事したことがあり、伯嘉は御史に暗示してこれを辟召させた」と。詔して有司に鞫問させたが、赦に会って免じられた。

原文四年秋,河南大水,充宣慰副使,按行京東。奏曰:「亳州災最甚,合免三十余萬石。三司止奏除十萬石,民將重困,惟陛下憐之。」詔治三司奏災不以實罪。伯嘉行至蘄縣,聞前有紅襖賊,不敢至泗州。監察御史烏古孫奴申劾伯嘉違詔,不遍按視。又曰:「伯嘉知永城縣主簿蒙古訛裏刺不法,沈丘令夾谷陶也受賄,匿而不發。前穀城縣令獨吉鼎術可嘗受業伯嘉,伯嘉諷御史辟之。」詔有司鞫問,會赦免。

五年、起用されて彰化軍節度使となり、翰林侍講学士に改めた。伯嘉は純直で、時勢に合わせて低昂することができず、嘗て言うには、「男子として生まれたからには、国を益し民を潤すべきであり、他のことは学ぶべきではない」と。高汝礪が寵を求め地位を固めようとしていた時、伯嘉が事を論ずる度にこれと対立したため、これによって彼を誹謗する者が多かった。元光元年、言事が過切であることを理由に、遙授で同知帰徳府事に降格された。二年三月、遙授で集慶軍節度使、権参知政事となり、尚書省を河中に置き、陝西の精鋭を率いて平陽公の史詠と共に河東を回復しようとした。間もなく、伯嘉は病を得た。六月、薨去した。

原文五年,起為彰化軍節度使,改翰林侍講學士。伯嘉純直,不能與時低昂,嘗曰:「生為男子,當益國澤民,其他不可學也。」高汝礪方希寵固位,伯嘉論事輒與之忤,由是毀之者眾。元光元年,坐言事過切,降遙授同知歸德府事。二年三月,遙授集慶軍節度使,權參知政事,行尚書省於河中,率陝西精銳與平陽公史詠共複河東。頃之,伯嘉有疾。六月,薨。

伯嘉が太原を去った後、完顔琢が平定石仁寨に軍を寓居させ、権平定州刺史の範鐸が閻徳用を本州提控に充てた。徳用は桀驁で、奸謀を蓄え、鐸はこれを制することができず、曲げて容認し庇った。興定元年、徳用は配下を率いて掩襲し、琢及び官属の程珪ら百余人を殺し、遂に石仁寨を占拠した。鐸は恐れ、家族を連れて太原に奔った。徳用は遂に平定州を占拠した。二年十月、詔して範鐸を誅殺した。

原文伯嘉去太原後,完顏琢寓軍平定石仁寨,權平定州刺史范鐸以閻德用充本州提控。德用桀驁,蓄奸謀,鐸不能制,委曲容庇之。興定元年,德用率所部掩襲,殺琢及官屬程珪等百餘人,遂據石仁寨。鐸懼,挈家奔太原。德用遂據平定州。二年十月,詔誅範鐸。

朮虎筠壽

原文朮虎筠壽

朮虎筠壽は、貞祐年間に器物局直長となり、副使に遷った。貞祐三年七月、工部が開封に白牯牛の皮を買い取って御用の鞠仗を治めるよう命じた。筠壽は自宅の所有する鞠仗を進上し、因みに上奏して言うには、「中都は食糧が尽き、遠く廟社を棄てた。陛下は薪の上に座り胆を懸けるべき時であるのに、どうして球鞠のような細物のために民間を動揺させ、不急の用に供するために耕牛を屠殺させるのか。これは百姓に示すべきことではない」と。宣宗は快く思わず、鞠仗を籠の中に投げ捨てた。翌日、筠壽を橋西提控に出した。

原文朮虎筠壽,貞祐間為器物局直長,遷副使。貞祐三年七月,工部下開封市白牯取皮治御用鞠仗。筠壽以其家所有鞠仗以進,因奏曰:「中都食盡,遠棄廟社,陛下當坐薪懸膽之日,奈何以球鞠細物動搖民間,使屠宰耕牛以供不急之用,非所以示百姓也。」宣宗不懌,擲仗籠中。明日,出筠壽為橋西提控。

賛して言う。孟鑄、宗端修、路鐸は章宗に言葉を尽くしたが、皆排斥されて志を遂げなかった。鑄が胡沙虎を弾劾したのは、先見の明があったと言えよう。その言葉は行われたが、その罰を究めなかった。その後、胡沙虎が逆謀を起こし、胥持国は終に国を誤るに至り、悟らなかった。宣宗の時、完顔素蘭、許古は皆敢言する者であったが、高琪、汝礪の手によっても挫かれた。一掬の土では黄河の決壊を塞げない。それには理由があるのだ。完顔伯嘉は功績を著して大政に参与したが、一朝も安らかではいられなかった。言うことの難しさはこのようなものか。朮虎筠壽は、いわゆる技芸の事をもって諫める者であろうか。

原文贊曰:孟鑄、宗端修、路鐸盡言于章宗,皆擯斥不遂。鑄劾胡沙虎,可謂先知,雖行其言,弗究厥罰。厥後胡沙虎逆謀,胥持國終至於誤國,而不悟也。宣宗時,完顏素蘭、許古皆敢言者,亦挫于高琪、汝礪之手。匱土不能塞河決,有以也夫!完顏伯嘉以著功參大政,亦不能一朝而安,言之難也如是哉!朮虎筠壽,所謂執藝事以諫者邪。

張煒

原文張煒

張煒は、字を子明といい、洺州永年の人である。本名は燝であったが、章宗の諱を避けて改めた。大定二十五年の進士で、葭州軍事判官に任じられ、再遷して中都左警巡使となった。煒は功利を言うことを好み、廉節に乏しく、部民の閻元翬と交際し、縉紳はこれを軽蔑した。累官して部員外郎となった。

原文張煒,字子明,洺州永年人,本名燝,避章宗嫌名改焉。大定二十五年進士,調葭州軍事判官,再遷中都左警巡使。煒喜言功利,寡廉節,交通部民閻元翬,縉紳薄之。累官部員外郎。

承安五年、天候が長く陰晦であった。平章政事張萬公が奏上して言うには、「これは君子と小人の邪正が分かれないことによるものであり、君子は内に在るべきであり、小人は外に在るべきです」と。章宗が問うて、「誰が小人か」と。萬公が答えて言うには、「戸部員外郎張煒、文繡署丞田櫟、都水監丞張嘉貞は、幹才はあるが、徳がなくて称えられるに足らず、奔走して勢利を取ることを好みます。およそ人を論ずるには、まず徳を先にし、後に才をすべきです」と。詔して三人を皆外任に除する。煒は出て同知鎮西軍節度使事と為り、転じて同知西京轉運使事と為る。この時、大いに界牆を築き、行戸工部の牒を受け、役事を主る。母の憂いに遭い、起復して桓州刺史と為り、塩をもって米と易えることを奏請し、且つ言うところの利害甚だ多く、細碎に渉るを恐れ、敢えて尽く上さず。詔して尚書省に曰く、「張煒は通曉の人なり。朕は敢えて縷詰せず、卿等詳しくこれを問え。虚文と為ることなかれ」と。宣差西北路軍儲を充て、自ら言うには、民に及ばずして斂め、以て用を足すべしと。およそ商賈を募りてその販易を縦にし、来る所を問わず。奸人は往々にして牒を投じ、妄りに産業を指し、隣保の姓名を疏にし、煒これを信じ、多くこれに銭を与う。已にして亡去すれば、即ち隣保を逮系し、してこれを代償せしめ、一路これが為に疲弊す。故旧の氈罽繒絮皮革を以て軍士に折給するも、皆道に棄てて去る。歳余して、戸部郎中に改め、翰林直学士に遷り、倶に規措の職事を兼ぬ。左丞相宗浩が奏上して言うには、「張煒は恢辦に長ず。比来戸部銭三十万を与え、已に息十四万を増せり。請うらくは銭通百万を与え、今長に従い恢辦せしめ、省部に隷せしめず、臣を委ねて専一に提控せしめ、応に奏すべき者有らば、煒に専達を許し、歳に幹事官を差して本息を計り具奏せしめん」と。上その請に従う。

原文承安五年,天色久陰晦,平章政事張萬公奏:「此由君子小人邪正不分所致,君子宜在內,小人宜在外。」章宗問:「孰為小人?」萬公對曰:「戶部員外郎張煒、文繡署丞田櫟、都水監丞張嘉貞雖有幹才,無德而稱,好奔走以取勢利。大抵論人當先德後才。」詔三人皆與外除,煒出為同知鎮西軍節度使事,轉同知西京轉運使事。是時,大築界牆,被行戶工部牒主役事。丁母憂,起複桓州刺史,奏請以鹽易米事,且所言利害甚多,恐涉細碎,不敢盡上。詔尚書省曰:「張煒通曉人也,朕不敢縷詰,卿等詳問之,毋為虛文。」充宣差西北路軍儲,自言斂不及民,可以足用。大抵募商賈縱其販易,不問所從來。奸人往往投牒,妄指產業,疏鄰保姓名,煒信之,多與之錢。已而亡去,即逮系鄰保,使之代償,一路為之疲弊。以故舊氈罽繒絮皮革折給軍士,皆棄於道而去。歲餘,改戶部郎中,遷翰林直學士,俱兼規措職事。左丞相宗浩奏:「張煒長於恢辦,比戶部給錢三十萬,已增息十四萬矣。請給錢通百萬,今從長恢辦,乞不隸省部,委臣專一提控,有應奏者,許煒專達,歲差幹事官計本息具奏。」上從其請。

泰和六年、宋を伐つ。煒銀五千両を進む。詔して曰く、「汝が資儲を幹集するは、固よりその職なり。軍士をして国家を議せしむることなかれ。人の汝を短ずるは、朕皆これを知る。惟だ能く利を興す、斯れ惟れ汝の功なり」と。西北路より召還され、諸道の倉庫を勾計し、簽三司事を除く。上問うて、「誰か卿に代わりて規措する者あらん」と。煒中都轉運戸籍判官王謙を挙ぐ。謙西北路に至り、煒の前後散失したる銭物を尽く発し、巨万を以て計る。獄に対すること積年。大安三年、起きて同簽三司事と為る。会に河堡にて兵敗れ、軍士猶お去らずして張宣差我を刻むと、戈を倒してこれを殺さんと欲す。累遷して戸部侍郎と為る。貞祐初め。河北西路按察轉運使に遷る。

原文泰和六年,伐宋,煒進銀五千兩。詔曰:「汝幹集資儲,固其職也,毋令軍士有議國家。人之短汝,朕皆知之,惟能興利,斯惟汝功。」自西北路召還,勾計諸道倉庫,除簽三司事。上問:「誰可代卿規措者?」煒舉中都轉運戶籍判官王謙。謙至西北路,盡發煒前後散失錢物以巨萬計,對獄者積年。大安三年,起為同簽三司事。會河堡兵敗,軍士猶去張宣差刻我,欲倒戈殺之。累遷戶部侍郎。貞祐初。遷河北西路按察轉運使。

貞祐二年春、中都糧乏しく、詔して同知都轉運使事と為る。辺源兵万人を以て通州の積粟を護運す。軍敗れて死す。平章政事高琪煒を挙げて源に代わり六部事を行わしむ。労を以て官一階を進め、河北東路轉運使に改む。宣宗汴に遷る。尚書右丞胥鼎を佐け前路排頓し、及び南京の宮闕を修す。間も無く、事に坐して孟州防禦使に降る。三年、安国軍節度使に遷る。致仕す。宣宗初め煒に才有りとし、既にその実無きを察し、遂に復用せず。貞祐四年卒す。

原文貞祐二年春,中都乏糧,詔同知都轉運使事。邊源以兵萬人護運通州積粟,軍敗死焉,平章政事高琪舉煒代源行六部事。以勞進官一階,改河北東路轉運使。宣宗遷汴,佐尚書右丞胥鼎前路排頓,及修南京宮闕。無何,坐事降孟州防禦使。三年,遷安國軍節度使。致仕。宣宗初以煒有才,既察其無實,遂不复用。貞祐四年卒。

高竑

原文高竑

高竑は渤海人なり。蔭を以て官を補し、累調して貴徳県尉と為る。提刑司挙げて繁劇に任ずべしとし、奉聖州録事に遷る。廉を察し、内黄令に遷り、累官して左蔵庫副使と為る。元妃李氏皁弊を以て紅幣と易えんとす。竑独り拒み肯て易えず。元妃これを奏す。章宗大いに喜び、人を遣わしてこれを諭して曰く、「執る所甚だ善し。今姑くこれと与えよ。後例と為すべからず」と。儀鸞局、少府少監に転じ、戸部員外郎、安州刺史に改む。大安中、越王永功中山を判す。竑王傅を以て同知府事と為る。同知河南府に改め、安撫使を充てる。同知大名府に徙め、本路安撫使を兼ぬ。貞祐二年、河北西路按察轉運使に遷り、大名の功を録し、三官を遷り、致仕す。興定四年卒す。

原文高竑,渤海人。以廕補官,累調貴德縣尉。提刑司舉任繁劇,遷奉聖州錄事。察廉,遷內黃令,累官左藏庫副使。元妃李氏以皁弊易紅幣,竑獨拒不肯易。元妃奏之。章宗大喜,遣人諭之曰:「所執甚善。今姑與之,後不得為例。」轉儀鸞局、少府少監,改戶部員外郎、安州刺史。大安中,越王永功判中山,竑以王傅同知府事。改同知河南府,充安撫使。徙同知大名府,兼本路安撫使。貞祐二年,遷河北西路按察轉運使,錄大名功,遷三官,致仕。興定四年,卒。

李複亨

原文李複亨

李複亨は字を仲修と曰い、栄州河津の人なり。年十八、進士第に登る。復た中書判優等に中り、臨晋主簿に調ず。官馬を護送して府に入り、逆旅に宿す。盗有りて馬を殺す。複亨曰く、「利せずしてこれを殺すは、必ず仇する者有らん」と。逆旅の商人過客を尽く索む。同邑人の橐中に佩刀を盛る。これに謂いて曰く、「刀馬血を蔑む。火これを煆せば則ち刃青し」と。その人款服す。果たして仇有り。提刑の薦めを以て南和令に遷る。盗民家の牛耳を割く。複亨里中の人を尽く召し至らしめ、牛家をして牛を牽きて遍くこれを過らしむ。一人の前に至りて、牛忽ち驚躍す。これを詰むれば、乃ち伏を引く。廉を察し、臨洮府判官に遷り、陝西東路戸籍判官に改め、河東北路支度判官に転ず。

原文李複亨,字仲修,榮州河津人。年十八,登進士第。複中書判優等,調臨晉主簿。護送官馬入府,宿逆旅,有盜殺馬,複亨曰:「不利而殺之,必有仇者。」盡索逆旅商人過客。同邑人橐中盛佩刀,謂之曰:「刀蔑馬血,火煆之則刃青。」其人款服,果有仇。以提刑薦遷南和令。盜割民家牛耳。複亨盡召裏中人至,使牛家牽牛遍過之,至一人前,牛忽驚躍,詰之,乃引伏。察廉,遷臨洮府判官,改陝西東路戶籍判官,轉河東北路支度判官。

泰和中、宋を伐ち、宣撫司經歷官を充て、解塩副使に遷り、保大、震武同知節度事を歴る。母の憂いに遭い、起復して同知震武節度と為り、遙授忻州刺史を加う。貞祐間、左司員外郎、郎中を歴り、翰林直学士行三司事に遷る。興定三年、上言して曰く、「近日師を興して宋を伐つ。恐らくは宋人虚に乗じて南鄙を掩襲せん。故に辺郡の民を籍して軍と為す。今大軍已に還る。乞うらくは罷め遣わして本業に帰らしめん」と。これに従う。複亨陳留県令程震等二十九人を挙ぐ。農桑効有り、征科均一なり。朝廷皆これを遷擢す。

原文泰和中,伐宋,充宣撫司經歷官,遷解鹽副使,曆保大、震武同知節度事。丁母憂,起複同知震武節度,加遙授忻州刺史。貞祐間,曆左司員外郎、郎中,遷翰林直學士行三司事。興定三年,上言:「近日興師伐宋,恐宋人乘虛掩襲南鄙,故籍邊郡民為軍。今大軍已還,乞罷遣歸本業。」從之。複亨舉陳留縣令程震等二十九人農桑有效,征科均一,朝廷皆遷擢之。

この歳七月、京東、京西、京南三路行三司を置く。勧農催租、軍須科差及び塩鉄酒榷等の事を掌る。戸部侍郎張師魯東路を摂り、帰徳に治む。戸部侍郎完顏麻斤出南路を摂り、許州に治む。複亨西路を摂り、中京実に河南府に治む。三司使侯摯これを総ぶ。複亨奏上して言うには、「民間農具を銷毀して以て軍器に供す。臣窃かに未だ便ならずと以為う。汝州魯山、宝豊、鄧州南陽皆鉄を産す。工を募り冶を置けば、以て利を得べく、且つ民を厲さず」と。又奏上して言うには、「陽武売塩官を設けて以て軍用を佐く。乞うらくは滄、濱の塩を禁止して過河せしむることなかれ。河南は陽武、解の塩を食い、河北は滄、濱の塩を食わば、南北俱に済わん」と。詔して尚書省に行わしむ。九月、勧農に労有りて、兵部尚書に遷る。再び月を閲し、吏部尚書に転じ、権参知政事と為る。四年三月、真に参知政事を拝し、国史を修するを兼ぬ。

原文是歲七月,置京東、京西、京南三路行三司,掌勸農催租、軍須科差及鹽鐵酒榷等事,戶部侍郎張師魯攝東路,治歸德,戶部侍郎完顏麻斤出攝南路,治許州,複亨攝西路,治中京實河南府,三司使侯摯總之。複亨奏:「民間銷毀農具以供軍器,臣竊以為未便。汝州魯山、寶豐,鄧州南陽皆產鐵,募工置冶,可以獲利,且不厲民。」又奏:「陽武設賣鹽官以佐軍用,乞禁止滄,濱鹽勿令過河,河南食陽武、解鹽,河北食滄、濱鹽,南北俱濟。」詔尚書省行之。九月,以勸農有勞,遷兵部尚書。再閱月,轉吏部尚書,權參知政事。四年三月,真拜參知政事,兼修國史。

七月、河南に雨水ありて禾稼を害す。複亨、宣慰使と為り、御史中丞完顔伯嘉之を副え、郡縣を循行し、凡そ官吏の貪汚治まらざる者は、罷め推治するを得たり。複亨奏して宣慰司の官吏を禁じて州府司縣の行総管府及び管軍官と會飲するを得ざらしむるを乞う。又奏して曰く、「詔書に臣に令す、民間の差發免すべき者は之を免せよと。民の驛馬を養うは、此の役最も甚だし。使者の求索百端、皆養馬の家より出づ。人の逃竄する多きは、職此の由なり。旧の如く回馬官を設け、使者の食料皆官之を給し、歳終に會計し、民に均賦すべし」と。又奏して曰く、「河南の閒田多し、河東・河北の移民を招き耕種せしむべし。災に被り及び沿邊の郡縣は租稅全く免じ、內地は之を半ばし、以て塗炭の民を救い、蓄積の用に資すべし」と。詔して有司に議行せしむ。還り奏して曰く、「南陽の禾麥は傷つけりと雖も、土性稻に宜し。今久雨に因り、乃ち更に滋茂す。田凡そ五百餘頃、畝に五石を収むるを得べく、都て二十五萬餘石を得べし。直を増して稻を糴し、唐・鄧の軍食に給すべし。詔書に不急の科役は即ち免罷せしむるに縁り、臣敢えて輒に行わず。臣の言を然りと為すに如くは、乞うらくは有司に付して之を計らしめよ」と。制して可とす。無何、詔を被り軍興の糧草を提控す。複亨奏して曰く、「河渡通ぜず、陝西の鹽價踴貴す。乞うらくは粟を以て互易し兵食を足らしめよ」と。詔して戶部に從長規措せしむ。

原文七月,河南雨水害稼,複亨為宣慰使,御史中丞完顏伯嘉副之,循行郡縣,凡官吏貪污不治者,得廢罷推治。複亨奏乞禁宣慰司官吏不得與州府司縣行總管府及管軍官會飲。又奏曰:「詔書令臣,民間差發可免者免之。民養驛馬,此役最甚,使者求索百端,皆出養馬之家,人多逃竄,職此之由。可依舊設回馬官,使者食料皆官給之,歲終會計,均賦於民。」又奏:「河南閒田多,可招河東、河北移民耕種。被災及沿邊郡縣租稅全免,內地半之,以救塗炭之民,資蓄積之用。」詔有司議行焉。還奏:「南陽禾麥雖傷,土性宜稻,今因久雨,乃更滋茂。田凡五百餘頃,畝可收五石,都得二十五萬余石。可增直糴稻給唐、鄧軍食。緣詔書不急科役即令免罷,臣不敢輒行,如以臣言為然,乞付有司計之。」制可。無何,被詔提控軍興糧草。複亨奏:「河渡不通,陝西鹽價踴貴,乞以粟互易足兵食。」詔戶部從長規措。

複亨は會計の才あり、能吏と號せられ、當時推服せらる。故に驟ちに通顯に至る。既に執政すと、頗る矜持し、以て私自ら営み、譽望頓に減ず。五年三月、廷試進士す。複亨監試す。進士盧元謬誤し、濫放して及第す。讀卷官禮部尚書趙秉文・翰林待制崔禧・歸德治中時戩・應奉翰林文字程嘉善は三官を奪い降職すべく、複亨は兩官を奪うべし。趙秉文嘗て致仕を請う。宣宗其の老を憐れみ、兩階を降し、禮部尚書を以て致仕せしむ。複亨罷められ定國軍節度使と為る。元光元年十一月、城破れ自殺す。年四十六。資德大夫・知河中府事を贈らる。

原文複亨有會計才,號能吏,當時推服,故驟至通顯。既執政,頗矜持,以私自營,譽望頓減。五年三月,廷試進士,複亨監試。進士盧元謬誤,濫放及第。讀卷官禮部尚書趙秉文、翰林待制崔禧、歸德治中時戩、應奉翰林文字程嘉善當奪三官降職,複亨當奪兩官。趙秉文嘗請致仕,宣宗憐其老,降兩階,以禮部尚書致仕。複亨罷為定國軍節度使。元光元年十一月,城破自殺,年四十六。贈資德大夫、知河中府事。

贊して曰く、大凡そ兵興すれば則ち財用足らず、是の故に張煒・李複亨時に乗じて利を射、聚斂を以て功と為す。大安、軍士倒戈して煒を殺さんと欲す。複亨南陽に宣慰し、還り奏して稻熟して糴すべきとす。所謂聚斂の臣とは、二子の謂いなり。高竑の藏を守るは、君子頗る取る所あり。

原文贊曰:大凡兵興則財用不足,是故張煒、李複亨乘時射利,聚斂為功。大安,軍士欲倒戈殺煒。複亨宣慰南陽,還奏稻熟可糴。所謂聚斂之臣者,二子之謂矣。高竑之守藏,君子頗有取焉。